サクラ大戦

『きっと、月のせいじゃない』


 月の輝く夜だった。
 しんと静まり返る深夜の大帝国劇場の二階の廊下に、カンテラの灯りが揺らめいている。もう三月だというのに、随分と肌寒い夜だ。夜の見回りをしながら、大神はふと足を止め、窓の外を見上げた。黄金色の三日月が、穏やかに帝都を見下ろしている。大神は小さく柔らかな息をつき、再び足を踏み出した。
 守り抜いた。守る事が出来た。この街を。帝都を。
 帝都崩壊を目論んだ「黒之巣会」との苛烈な戦いを経て、帝都に住む人々の穏やかな生活を取り戻す事が出来たのは、ひとえに帝国華撃団の各団員の努力と強い想いによると大神は思う。失ったものは多かった。けれど、それらも総て今のこの平和に繋がっている。そう信じたい。
 そんな帝都を、間もなく離れなくてはならない。大神は元々帝国海軍に属する軍人で、四月からハワイ沖演習に参加しなくてはならないのだ。一年間の演習と聞いているが、その後、また帝国華撃団に戻れる保証はない。
 生まれ故郷の栃木とは違った華やかな街にも、男所帯の海軍学校とは違った女性ばかりの華撃団にも慣れ、寧ろ愛着さえ感じている。離れたくない。海軍として国家のために戦い、武功を立てる事を望み送り出してくれた故郷の家族の希望には沿えないかも知れないけれど、海軍とは異なる形でこの国を守り、そして人々を笑顔にする仕事に就いている事は、大神にとっての誇りだった。
 それに。
 大神はある部屋の扉の前で再び足を止めた。帝国華撃団花組の隊員であり、副隊長でもあるマリア・タチバナの私室だ。今は、大神の恋人でもある。
 マリアは露西亜人の父と日本人の母を持つ混血だ。露西亜で育ち、革命に参じた闘志だった。革命軍において兄とも慕い、初めて恋心を抱いた相手でもある隊長を自身のミスのために眼前で失ったため、心に深く傷を負っていたマリアと心が通じた時は、涙が溢れそうな程幸せだった。
 マリアは自分の初恋に別れを告げ、新たな一歩を踏み出すために、露西亜の彼の墓を参りたいと望んだ。しかし、革命後亡命している彼女をひとりで露西亜に行かせる事は出来ないと、司令の米田から反対を受けた。それならばと、護衛を兼ねて彼女の旅に同行したのは、ほんの一ヶ月前の事。経験した事のないような極寒の地で、彼女と手を取り、橇に乗って彼の墓を訪れた。彼女は彼の死後肌身離さず身に着けていたロケットを墓前に供え、感謝と謝辞を伝えて故郷を離れた。
 マリアは自らを縛りつけていた鎖から漸く開放されたのだ。これからふたりで楽しい時間を過ごそうと道中話していたというのに、帰国した大神を待っていたのは、海軍復帰命令だった。
 彼女はもう、休んだだろうか。今、この扉を叩いたら、部屋に招き入れてはくれないだろうか……。一瞬そんな事を考えたが、大神は首を振ってその想いを振り払う。そんなことはしてはいけない。表向き彼女との関係は秘密なのだし、この大帝国劇場で、仲間達に顔向け出来なくなるような事はするべきではない。

 見回りを続ける大神は、階段を下りて一階をぐるりと確認し、劇場の扉を開けようとした。その時、微かではあるが分厚い扉の向こうから、低く響く“音”が聞こえた。侵入者か。異変に警戒し、大神は一番端の出入り口に移動し、カンテラの火を消して細く開けた扉から客席に身体を滑り込ませる。舞台上に一筋の光が差し、耳に飛び込んできたのは歌だった。青年が、一目で恋をした名も知らぬ少女を思い、月に向かい唄う歌。四月公演『シンデレラ』の王子のソロ曲だ。
 舞台の上で王子として切ない恋心を唄うのは、大神が先程まで胸が張り裂けそうな程に求めていた女性、マリア・タチバナだった。今は手にしていないが、本番では舞踏会で出会った美しい少女・シンデレラが残したガラスの靴の片割れを胸に抱き、その瞳の輝きが忘れられないと唄う。ガラスの靴を持っている態で右手を胸に当て、左手を翳して天を仰ぐマリアは、月に見立てたスポットライトに照らされて、凛としていた。
 伴奏もなく、ア・カペラで歌の稽古をするマリアを、大神はじっと見詰めていた。
 帝国華撃団は、平時は“帝国歌劇団”として舞台を上演している。大神の仕事は、劇場のもぎりだ。国家のための戦いとは程遠く思えるこの仕事だが、平和でなければ出来ない。そして、その平和を守るのは、他ならぬ自分達だ。恥じる事のない、立派な仕事だと大神は胸を張って言える。そして、その舞台で度々主演を務めているのが、恋人であるマリアだ。
 青年の役ではあるけれど、スポットライトを浴びるマリアは、まるで月の女神のように神々しかった。そんな彼女の恋人である事が嬉しくて、舞台上の彼女を見詰めていると、たまらない愛おしさで胸が押し潰されそうになる。決して出来ないけれど、この人が自分の恋人なのだと、自慢したくなるような気分だった。
 大神は、マリアの歌が終わるまで、客席の片隅でじっと聞き惚れていた。
「あぁ、きっと君を探し出すよ。そしてもう一度、君の手を取ろう」
 最後の一節をマリアが歌い切ったその瞬間、大神の耳に拍手が鳴り響いた。客席一杯の観客達が、マリアに向かって一斉に手を叩いたような、そんな錯覚に陥り、大神はつられて高らかに両手を打ち鳴らした。
「……誰!?」
「ごめんごめん、俺だよ、マリア」
 大神は慌ててカンテラに火を付け直し、顔の高さに掲げた。
「た、隊長!? いつからそこに?」
「えっと……唄い始めて割りとすぐかな。見回りしてたら、声が聞こえたから聞き入っちゃったよ」
 大神は、ゆっくりと暗い客席の階段を下りて舞台に向かった。
「そう……ですか。いかがでしたか?」
「また一段と上手くなったよね。凄く良かった。……本番、見たかったなぁ」
 しみじみと語る大神を前に、マリアは言葉を飲み込む。この公演が幕を開ける時、大神はもう帝都にはいない。
「『シンデレラ』って、良いよね。幸せな演目で」
「そうですね。名も告げず去った少女に恋をして、ガラスの靴ひとつを頼りに少女を探し出す……王子の純粋で真剣な恋心と、シンデレラの愛を信じる心が起こす奇跡の物語ですよね」
「俺は……もし王子と同じ立場だったら、総てを捨てても君を探し出す」
 言いながら、大神は舞台に飛び乗ってマリアの手を取った。
「隊長……」
「本番の舞台は見られないけど、君の事は……ずっと思ってる。心の中で、君の姿を描いて、どんなに辛い訓練にも耐えてみせる。そして……ここに戻ってくる」
 演習後の配属先の決定権など、大神はない。そんな事は、マリアだって解っていた。それでも、大神は純粋に、真剣な眼差しでマリアを見詰め、真っ直ぐに気持ちを伝えてくれている。その気持ちに答えるためにマリアが出来る事は、愛を信じる事。
 マリアは、大神の手を握り返した。
「私は……こんな素敵な物語を演じてはいますけど、“永遠”を信じる事の出来ない女です。でも、貴方に出逢えて、恋をして、恋を……返してもらえて、本当に幸せです。待っています。隊長が帰ってくるのを、ずっと待ってます……」
「信じてくれなくても良いけど……言わせて欲しい。俺は、“永遠”に、君を愛す。大切にする」
「じゃぁ……“約束”を、くれませんか?」
 大神の手を握るマリアの手に、微かに力が篭った。掠れた声で“約束”という言葉を口にしたマリアは、緊張した面持ちでそっと瞳を閉じる。
 思わず抱き締めたくなる程に、その貌は愛らしく、緊張と戸惑いに唇が震えていた。ライトに煌く金色の髪、白い肌、淡い色の唇、総てを自分のものにして、閉じ込めてしまいたい程、愛おしい。世界で一番、この人が愛おしい。
 月のような光に照らされながら、大神はそっと、マリアの震える唇を塞いだ。

 どうか、“永遠”でありますように。


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