るろうに剣心

『きっと、夢のせいじゃない』


 微睡みの中で、恵は夢を見た。日溜りの中で剣心が笑っている。何がおかしいのかは解らなかったが、屈託ない笑顔を恵に向けてくれていた。
 恵は瞳を開くと、闇の中で小さく首を振る。明日の支度をしている内に、眠ってしまったようだ。行灯の灯りも消えていた。
 明日、恵は会津に発つ。会津戦争直後に離れ、もう十年も帰っていない故郷だ。帰るか否かは散々悩んだ。不安が全くないとは口が裂けても言えない。討幕派に最後まで抵抗を続けた会津藩は、今でも新政府から不当な弾圧を受け、孤立していると聞く。そんな故郷と向き合う勇気も、そこで人々のために働く覚悟も、最初は持てずにいた。けれど、故郷の会津に戻り、医療に従事していれば、いつか生き別れた家族と再会出来るのではないかという期待が、背中を押してくれた。
 それに……離れたくもあった。この東京を。耐え難い労苦を与えられ続けたのは、この地だった。唯一の誇りである医者として働く事すら奪われ、人を死に至らしめる薬の製造に携わらされた。自分の手が、次第に赤黒く血に染まっていくように思えた。解放された今でも、度々夢に見ては、流したくもない涙を流して喘ぐ。そんな日々を忘れる事は出来ないし、忘れたいと望むわけではないけれど、故郷のために働く事で悪夢からも解放されるのではないかと一縷の望みを抱いている。
 勿論、東京は悪い事ばかりではなかった。地獄の日々から救い出されてからは、尊敬出来る医者の下で助手として働き、信頼のおける仲間も出来て、楽しい毎日を過ごしていた。実りはしなかったけれど、恋もした。
 総てが良い事ばかりではなく、かといって総てが悪い事ばかりでもなく、両方の側面を持ち合わせているからこそ、悩みもした。けれど、もう決断した事なのだ。これからは会津のために、前に進んでゆかなければならない。それを楽しめるようになれば良いと思う。
 恵は大きく息を吸って立ち上がり、天井に向かって両腕を振り上げた。身体を伸ばすと、気合が入る。少し風に当たって、それからもう一度作業に移ろうと、恵は考えた。荷造りはとうに終わっているし、患者の引継ぎも挨拶も終わっている。それでも、遣り残している事があるような気がして、何か東京で最後にやらなければならない事があるような気がして、恵はなかなか布団に入る事が出来なかった。正真正銘、今日は東京で最後の夜なのだ。明日の朝には、出発しなくてはならない。後を濁す事なく飛び立ちたい。
 本当は、会いたい人がいる。夢の中で笑っていた彼に、会いたい。会って何が言いたいわけではない。何がしたいわけでもない。ただ、会いたい。これからはおいそれと会えなくなるのだから。
 実をいえば、会津へ行く事を決めた理由のひとつに、彼の存在がある。緋村剣心。恵に医者として罪を償う道を示し、生きる事を許してくれた人。僅かな時間ではあったが、恵が心惹かれた相手。けれど、恵は剣心の側にいるべきは自分ではないと悟り、身を引く事を決めた。彼はこの先、彼の側で微笑む女性と幸せになるだろう。そんな姿を、この先ずっと見ていく自信がなかった。自分から諦めた恋だけれど、心を締め付けられるような辛苦を味わった。失恋など時間薬だ。いつか、時間が経てば忘れる。それは解っているものの、今直ぐにそれを受け入れる勇気も器量も自分にはない事は解っていた。それが総てではないとはいえ、ほんの少しそんな理由もあり、恵は東京を離れる事を決めた。
 東京にも秋の気配が近付いている。恵は縁側に出て星を仰いだ。
「最後……かぁ。散歩でもしようかしら」
 変な体勢で転寝をしてしまったせいで、身体の節々がやや痛い。恵は首をぐるりと回し、呟いた。すると、門の方からかさりと草を踏む足音が聞こえた。そちらへ視線を投げ掛けると、申し訳なさそうに庭を覗くようにして姿を現した男がいた。それは、先程まで恵が考えていた相手。剣心。
「剣……さん……? どうしたんですか、こんな時間に?」
「いや、その……散歩をしていて。夜風が気持ち良かったから少し歩いていたのでござる。そうしたら診療所の中から灯りが見えて、恵殿の声がしたから……起きているのかと思って、ちょっと覗いてみたでござるよ」
「そうなんですか。東京最後の夜ですからね。なんだか遣り残した事があるような気がして寝付けなくて」
 恵は微笑んで見せた。星明りと背後の行灯の光しかないから殆ど顔が見えないだろうが、それが却って恵には好都合だった。今、頬が赤い。剣心が顔を出した時から、頬が熱を持ち始めた事に気付いた。数日前よりも格段に涼しくなった夜風が、肌に心地良い。
「そうだ……恵殿に頼みたい事があったでござる」
 剣心は思い出したようにぽんと手を叩いた。
「頼みたい事?」
「高荷家秘伝のあの傷薬を、少し分けて欲しいでござるよ。京都でもあの薬に助けられたし……稽古で怪我をする度、弥彦や薫殿も世話になっているでござろう?」
 それは、明日薫に渡すつもりでいる。傷薬だけでなく、これから必要になりそうな薬やその使い方を記した帳面まで用意してある。しかし、それを今口にして、剣心を帰す事は躊躇われた。少しでも話が出来るのならば、それは嬉しい事だ。
「こちらにどうぞ。用意します」
 恵が行灯を縁側に移動すると、剣心は縁側に腰を下ろした。恵は診察室の薬品棚から、傷薬の瓶を取り出す。暗闇の中でも、何処にあるか解るほど、何度も使った。東京に置いて行くつもりで、数日前に沢山作り足しておいたものだ。これだけあれば、大事故でもない限り、数ヶ月はもつだろう。
 恵は剣心の隣りに座り、袂から円形の薄い容器を取り出した。それは、恵がいつも持ち歩いている物。子供の頃から袂にこれを入れていないとなんとなく落ち着かなかった。それ程使い込んでいる容器で、持っていなかったのは剣心達が京都へ行っていた間だけだ。剣心に渡すようにと薫に預けた花の模様のついた赤い容器は、誰にも教えていないが、父の形見でもあった。蓋を空けると、中身は半分程しか入っていなかった。恵は瓶から箆で容器に薬を移した。
「はい、どうぞ。大事に使って下さいね」
「有難うでござる、恵殿」
 手渡す瞬間、指先が剣心の手に触れる。それだけの事なのに、胸が甘く疼く。
 何か言うなら今だろう。この機を逃せば、もう伝える事の出来ない言葉は沢山ある。しかし、恵は口を開く事が出来なかった。ただ黙って剣心の隣りに座っていた。彼とふたりで過ごすこんな静かな夜は、もう二度と訪れない。
「……何か、拙者に出来る事はないでござるか?」
 剣心がぽつりと問うた。
「いつも、恵殿には世話になってばかりだから……最後に何か出来る事があれば言って欲しいでござる」
「こんな時間にですか?」
 恵が問い返すと、剣心は「うっ」と言葉を詰まらせた。確かに非常識な時間に訪問している。こんな時間に、手伝える事などあるものか。剣心が項垂れる様子がおかしくて、恵はくすくすと笑みを零す。そして、何か思いついたように「あぁ」と呟いた。
「髪を梳かせてくれませんか?」
「え?」
 恵の言葉の意味を正確に掴みかねて、剣心は鼻白む。恵は悠然と微笑むと、立ち上がり、明日会津へ持って行く予定の手荷物の中から小さな櫛を取り出して戻った。半月型の鼈甲の櫛が、恵の手の中で行灯に照らされて艶やかに光る。
「思い出に」
 言うなり、恵は剣心の返事も待たずに剣心の髪を束ねる紐を解いた。されるがままの剣心は、訳も解らないまま「はぁ」と頷いた。普段余り梳く事のない伸び放題の髪は、星と行灯の光に照らされて、一層赤く見えた。
 恵は手にした櫛で、剣心の長い髪をくしけずる。
「思い出……でござるか?」
「思い出です」
 そんな事が、と剣心は思う。恵が何を考えているのか剣心には理解しかねたが、恵が望むのであれば、それに応えたかった。剣心は黙って恵に髪を差し出していた。口にはしなかったが、頭を撫でられているようで、無性に心地良かった。
 櫛を通すたび、石鹸の香りが恵の鼻腔をくすぐる。こんな風に男性の髪に触れるのは初めてだ。
 行灯の灯りが、ゆらゆらと剣心の背中を照らす。ひと房手にする度に背中に落ちる影を見ながら、恵は唇を噛んだ。
 本当はこの背中に縋りつきたいくらい、心細い。抱き締めたい。抱き返してもらえなくても良いから、傷だらけのやせた背中に額を寄せて、胸に腕を回したい。今夜はこのまま、神谷道場には帰したくない。これ以上は望まないから、せめて側にいて欲しい。
 虚しい想いだ。口にしてはいけない、いや、口にしないと決めた想いだ。これ以上触れていては、その決意が無駄になりそうだと、恵は手早く剣心の髪を縛り直した。
「はい、有難うございます。これで心置きなく会津に旅立てます」
 恵は、ぽんと剣心の両肩を叩いた。突き放さなければ、もっと欲しくなる。剣心は「うん」と考えるような様子を見せ、ゆるりと立ち上がり、恵に向き直った。十字の傷が赤い灯に照らし出される。
「有難う、恵殿。ついでと言っては何でござるが、この櫛も頂けぬでござるか?」
 何か手伝いたいと言った手前、この上何か欲しいなどと矛盾した事を言っていると解っていたが、剣心は手を差し出した。
「良いですよ。どうぞ」
 剣心の右手に、恵が手を乗せると、剣心はその手を硬く握った。一瞬、恵は抵抗を見せるが、剣心は離さない。
「剣――」
 戸惑う恵に、剣心は微笑んだ。
「思い出に」
 胸が痛くないといえば嘘になる。それでも恵は微笑んだ。
 泣かないと、決意したから。


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