貴方の手は私を抱いてはくれなかった。
 私の手は、誰かを抱く事が出来るのだろうか。



    美しい少女



 一九二八年、六月――
 夜の気配は、今も時折胸をざわつかせる。深い眠りに落ちる事が出来ず、深夜二時を過ぎてマリアは目を醒ました。気温はそれ程高くはない。寧ろ、肌寒いくらいなのに、全身がべたべたする程汗をかいている。マリアは手の甲で額の汗を払った。隣りには、穏やかな顔で眠る青年の姿がある。彼が側にいると自然と心が落ち着いて、安らかな気持ちになれる。剥き出しになった彼の逞しい肩をシーツで包み、マリアは眠る彼の頬にそっと口付けた。
 大帝国劇場の総支配人である大神一郎と結婚をして、一年が過ぎた。結婚して尚帝劇の部屋に留まる事は気が咎めて、マリアと大神は小さな家を買った。帝劇からは少し離れているが、マリアの望んだ海の見える静かな場所だ。時折、花組の面々も遊びに来る。
 結婚して、マリアは花組の舞台を下りた。しかし、他のメンバーの強い要望で、演出助手と振り付けで舞台造りに参加している。それ以外は、大抵家で料理をしたり、平穏な日々を送っていた。
 しかし。マリアは予感していた。彼と二人切りの静かな生活も、もう長くは続かない。どういう理由でそうなるのかは解らない。唯、そう感じた。直感で。この類の勘はあまり外れた事がない。昔からそうだった。虫の報せというのか、様々な予感がする。そして、当たる。良くも悪くも。
 妙な感覚だ。が、渦巻く不安は否定できない。体内で何か、今まで感じた事のない異質なものが蠢いているようだ。何かが起きる。或いは、既に起きているのか。マリアの感じる“何か”の正体は、今は未だ影も形も見えていない。
 ただ、何かに呼ばれているような気がして、マリアはベッドから降りてブラウスに袖を通した。今、眠ってはいけないような気がした。自分を呼ぶ何かが、この不安に通じるものだと感じている。その勘が外れではないとしたら、向き合わないわけにはいかない。手早く着替えると、未だ眠っている彼を起こさないようにそっと寝室を抜け、階段を下りて玄関を開いた。庭先では、夜露に濡れた薔薇の木がさわさわと風に揺れている。今、亜米利加にいるという清流院琴音が、結婚祝いに贈ってくれた木だ。未だ花は咲いておらず、何色が咲くのかもマリア達は知らない。彼のことだから、赤だろうか。
 深夜の帝都は、まるで海の底にでもいるかのように静まり返っている。人の気配も物音も無く、街全体が眠っている。ふと、風がやんだ。木々のさざめきもやんだ。誰もいない庭を静かに歩き、小さな門に手を掛ける。
 直後、耳の奥に効きなれた銃声が響く。――拙い。そう思った時には、既に脇腹に衝撃が走っていた。門柱に手を添えて傾きかけた身体を支え、振り返る。明らかに、背後から撃たれた。薔薇の側の闇に人影が見える。この銃声にあの人が目を醒ましてくれたなら、きっと犯人を取り押さえてくれる。そう期待したが、家の中で人の動いた気配はない。未だ、眠っているらしい。
 マリアは身構えた。歯を食い縛り、犯人を睨む。犯人は微動だにしない。銃を構えたまま仁王立ちしている犯人に、マリアは銃を向ける事は出来ない。帝国華撃団を抜けた時に、銃を持ち歩く事をやめていたのだ。マリアは両足を踏ん張り、門柱から身体を離した。いざという時に対応出来なくなる。マリアが長年の戦闘経験から身に着けた事だ。
 銃弾は脇腹を掠めて皮膚を抉っているようだが、直撃したわけではないし、弾が残っているわけでもない。思うほど傷は深くない。
「誰だ?」
 低く重い声でマリアは問う。影が、動いた。足音も立てずに近付いてくる。殺気は感じない。気配すら感じない。目の前にいるというのに。影は、街灯の照らし出す光の中に入ったその時、初めてマリアの視界でその像を結んだ。その姿は間違い無く、“マリア・タチバナ”その人。それも、約十年前、紐育で用心棒をしていた頃の。
 これは、夢か?
「あんた、何で生きてるんだ?」
 露西亜語訛りの英語。昔、マリアが喋っていた通りに発する言葉。
「マリア・タチバナ……。何故、貴方は生きているんだ? 何故、破滅していないんだ?」
 マリアは目の前の“マリア”に混乱していた。ある筈のない事が、起きている。
「あんたは、生きていてはいけないんだ。そんな事も解らないのか? 隊長が死んだのは私の所為だ。隊長がが死んだのはあんたの所為だ。そうだろう?」
 マリアの指が震えた。この少女は、十年前の自分。藤枝あやめに出逢うより前の。帝国華撃団に入るより前の。紐育で、人殺し稼業に身を落としていた、哀れな自分自身。人を殺す事に何の躊躇いも感情も無く、泣く事も笑う事もせずにただただ破滅だけを望んで生きていた少女。
「破滅に意味はない。生きてゆく事こそ大切な事だと私は知ったの.だから、私は生きている。ユーリーだって、それを望んでいる筈だもの。貴方にもそれが解る日が来る。必ず、来る。だから……」
「来ないさ。そんな日は来ない。苦しみ抜いて死ぬ事こそ、“私達”に与えられた答え。何故、それが解らないんだ?」
「解っていないのは、貴方よ。いいえ、たとえ今は解らなくても……」
「解らない。あんたは忘れたのか、“マリア・タチバナ”? あんたは人殺し。仲間や隊長が死んだ中で、一人だけ勝手に生き延びておいて、一人だけ幸せになんてなれると思うのか? その血塗れた手で、一体何が掴める?」
 少女の言葉に、マリアの手がじんわりと熱を帯びる。少女からなるべく眼を逸らさないように手を目の高さに掲げると、マリアの両手を、黒々とした液体が滴っていた。
「あぁっ……!」
 少女はゆっくりと右手を上げる。鉛色の銃身が、マリアに向けられた。――駄目!
 マリアが少女に手を伸ばしかけたその時、二度目の銃声が響く。しかし、目の前の少女の銃は沈黙したまま。音はまた、背後から。マリアは肩口を撃ち飛ばされ、前に二、三歩押し出された。その瞬間、少女が目の前から消え去った。
 マリアは咄嗟に、二度目の銃声の聞こえた方へと振り返った。
「汚れた女に、生きる価値なんかあるものか」
 そこにいたのは、十四、五歳の少女。先程の少女よりやや幼く見えるが、眼はやはり鋭かった。中途半端に伸び放題になっている金色の髪。釦を引きちぎられて、胸元から臍まで肌蹴た衣服には、べったりと血が付着している。真正面から返り血を浴びている。頭から爪先まで、血に染まって。
 この服は、露西亜から着てきたものだ。紐育に着いたその日の内に捨てたものだ。紐育で初めて人を殺した時に着ていた物だ。
「嫌っ――!!」
 マリアは声を上げ、血塗れた両手で頬を覆った。ぞくりと背筋が凍りつく。思い出したくもない忌まわしい記憶。紐育の港に着いた直後、巨大な亜米利加人に路地裏に引きずり込まれ、押し倒された。上着をナイフで引き裂かれた時、嫌悪を払拭するように引き金を引いた。男の眉間から流れる血を浴びながら、財布を奪って逃げたのだ。その金で服を買い、その先の生き方を決めた。読み書きは露西亜語と少しばかりの仏蘭西語だけ。他に出来る事は、せいぜい身売りか人殺し。その時、犯される事はなかった。それならば、犯されるより殺す方が良い。これまでもそうだった。そしてこの国でなら、きっと直ぐに破滅の時を迎えられる。そう信じていた。
「幸せになんかなれるわけないでしょう? 戦う事と人を殺す事しか出来ないのに。もう誰も守ってくれないのに」
「違う。自分に出来ることがあることを、貴方は未だ知らないだけよ。苦しむための方法しか選べなかっただけ。貴方にもそれが解る時が来るわ。貴方も、人を守るために生きるようになる」
「出来ない。私には出来ない。隊長までいなくなってしまったのに……!」
 ユーリー……。彼が総てだった。彼の手に導かれて生きてきた。彼とふたり、共に新たな人生を歩む筈だった街に降り、突然わけの解らない言葉で捲くし立てられ、襲われたその時の恐怖と絶望が、マリアの脳裏を駆け巡る。マリアは溜まらず、両腕を少女に差し伸べた。誰かに抱き締めて欲しかった。ほんの少しの優しさが、温もりが欲しかったあの頃。夢でも幻でも、あの頃の自分を誰かが抱き締めてやらなくてはいけない……のに……。少女は武骨な銃をマリアに向けた。
 その引き金が引かれる直前、三度目の銃声。今度は左足。マリアは少女に手を伸ばしたまま、地面に崩れ落ちた。もう少女の姿は無く、背後には別の少女。分厚いコートに身を包み、ライフルを構えて大きな眼でマリアを睨む。毛皮の帽子を被り、頬には小さな傷がついている。袖口についた木でできた大きな釦は、取れかかっていた。
「貴方は戦場を離れて生きていてはいけない。戦場だけが貴方の生きる場所。そうでしょう?」
「そんな事はないわ。“私達”は、何処でも生きてゆける。貴方は平和のために戦っているんじゃないの?」
「私は戦い続けなくちゃならない。人の幸せのために人を殺すなら、私は幸せになってはいけない」
 幸せを生むために不幸を生む。故に、不幸でなくてはならない。
 戦場において、初めて人を殺したその日の少女。逃げる途中、袖の釦が手に引っ掛かり、一瞬、逃げ遅れた。追いつかれそうになり、威嚇のつもりで撃った弾丸は、寒さ故の弾道の歪みを計算に入れていなかったために、相手の心臓に直撃した。血で染まる雪を振り返らないように走り、茂みを潜り抜けた時、枝で頬を切ったことにも気付かなかった。
 夢中で走った。とても寒い、雪の日に。
「戦場に帰れ。此処には貴方の生きる場所はないのだから」
「今の私が生きる場所は此処なのよ。ねぇ、もうやめて」
「私には戦いしかない。隊長の側に居るためには、戦うほかに道はない」
 隊長を失い、戦場とは全く別の殺戮に身を染めるようになる前の、追い詰められてゆく自分。
殺したくはなかった。それでも殺してしまった。威嚇のつもりだった一発の弾丸。自分の甘さ故の殺戮。基地に戻った時、鬱ぐ自分を隊長が厳しい口調で叱ったのを覚えている。戦場に立つ以上、人を殺す事になる。その覚悟がないのなら、此処にいるなと。マリアは、この少女は、涙を堪えてその言葉を受け止めた。そして、戦場に立ち続ける事を決めた。人殺しとして、それ以外の場所で生きることなど出来ない。
「違うのよ、幸せになる道は幾らでもある」
 そうはいっても、露西亜という巨大で小さな国に、そんな場所がなかった事も知っている。
「貴方だけ幸せになるなんて、許さないから」
 少女は銃を構えた。マリアの首元ぎりぎりに、銃剣が突き付けられる。
「貴方も幸せになるのよ。苦しい事も多いけれど、十五年後には幸せに……いいえ、あと五年耐えれば、貴方だって……」
「あと五年……何人の人を殺すの?」
「……え?」
「五年間! 人を殺さずに済む? それとも、人を殺し続けるの!? それでも幸せになるの? なって良いの? 私は殺すつもりなんかなかった。殺したくなんかなかった! それでも、殺したからには戦い続けないといけないじゃない。そうじゃないと、人を殺してまで生き延びる意味はないじゃない!」
 少女の足元にはひとりの男が、雪を血に染めて横たわっているのだろう。では、今、この足元には、一体何人の死体が転がっている? 何十、何百の死体の上に生きている。そうして、殺した人々の家族や仲間達の幾千幾万の腕が、この首に絡みついている。きりきりと喉元を締め上げられるような感覚に見舞われて、マリアは首を押さえた。歯を食い縛ると、涙が溢れた。
「貴方に幸せになる権利なんかない。私にもない。戦場で生き、戦場で死ぬの」
「違う。貴方だって、ユーリーと生きてゆきたい筈。誰かと幸せになる権利は、貴方にもあるの。私も貴方も、誰かと幸せに生きられる。誰かを愛して、幸せにする力をもっているのよ」
「――愛するって、どんなこと?」
 少女は口を閉ざしていた。代わりに、また背後から声がした。それと同時に、背中に何かが突き刺さる。マリアの身体が倒れる瞬間、それは引き抜かれた。マリアは地面に落ちた身体を両腕で懸命に起こし、後ろに立つ存在を見上げた。腰まで伸びたぼさぼさの髪を麻紐で結い、接ぎ当てだらけの薄い服を何枚も重ねて着膨れた、不恰好な十歳にも満たない少女がそこにいた。頬は削げ落ち、土気色の顔と青い唇、大きな眼に生気は無く、細い指にはナイフが握られている。
「愛されるって、どんなこと?」
 少女は震える唇で囁いた。何日食べていないのか、言葉を発する元気もないらしい。
 流刑村で苦しい生活を強いられた挙句、父と母が相次いで病死した。地獄のような村から脱走しては見たが、十にも満たない砌で生きられよう筈も無く、雪深い広大な台地をさまよって、村から持ち出したナイフで木の皮をはいで食べていた。
「パーパもマーマも抱きしめてはくれなかった。愛してくれなかったよ。愛されないのに、誰かを愛せるの? 幸せなんか知らないくせに、誰かを幸せにできるの? 誰が幸せにしてくれるの?」
 凍える雪に包まれて感じた、果てしない絶望感。生きている心地がしなかった。せめてひとりにしないでと、人のぬくもりを求めたけれど、誰もいない。
「生きていたって、誰も愛してくれないよ。マーマ達さえ、笑ってくれなかったじゃない」
 少女の瞳から涙が零れだした。涙はいつしか雨を呼び、大粒の雫がマリアを叩く。しかし、少女の身体には触れることも無く、雨は突き抜けていった。
「もう、嫌。死にたい……」
 そうだ。長すぎる夜に震え、生きる事さえ怖くなった。ぼろぼろのナイフが救いの神にさえ見えた。
 あの時、何故死ななかったのか、死ねなかったのか、自分でも甚だ不思議だ。けれど、ナイフを咽に刺そうとした。誰かに止められたのか、それとも刺さらなかったのか。
「駄目……死んでは駄目……」
 マリアは少女に手を伸ばす。ナイフを取り上げようと手を振ったが、その手は宙を掻いた。
「マーシャ」
 ナイフはさっき、背中に刺さった。それなのに、少女に触れることは出来ない。マリアは懸命に手を伸ばしたが、少女の身体を突き抜けるばかりだ。
「どうして……」
「幸せになんかなれないの。マリアは愛されない子なの。聖母様とは違うんだから。ねぇ、マリア?」
「……マ……マリア……?」
 突然の男の声に、マリアと少女は同時にびくりと震えた。
「一郎さん……」
「どうしたんだ、マリア、こんな時間にこんなところで……」
 扉を開けた大神は、庭に横たわるマリアを見付けるや、慌てて駆け寄り、肩を抱いた。ぐっしょりと濡れたマリアの身体は熱を帯びて、燃えるようだった。酷い熱――そう思ったが、何か妙だ。マリアに触れている雨が、湯のように温かい。これは、幾らなんでも熱過ぎる。異常だ。それなのに、マリアの顔色は変わらない。大神はマリアを抱き上げ、玄関先の軒下に移動した。
「マリア、大丈夫かい?」
「えぇ、それより……」
「一体……」
 大神は、ナイフを握った見知らぬ外国人の少女を見遣る。不思議と、少女がこの世の存在ではないのだと解った。ただ、怖さは無く、寧ろ愛おしかった。大神はマリアを軒下に下ろして上半身を抱き寄せ、片手で少女に手招きをする。少女は二人の側へと歩み寄った。少女は雨の中に立ち、愕然と大神を見詰めている。
「なんで?」
 少女の問いは露西亜語だったが、大神には何故か理解が出来た。
「君は……マリア?」
「え?」
「マリアなんだね? そうだろう?」
「一郎……さん……?」
「君は、マリア・タチバナ。そうだよね? そんなところにいないで、こっちにおいで」
 左腕にマリアを抱えたまま、大神は右手を少女に差し出した。少女は小さく震えながら、ぽろぽろと涙を零す。
「何で……? なんで“マリア”は愛してもらえるの? マーマもパーパも愛してくれなかったのに、マリアは誰も愛せない。愛し方なんか知らないくせに、何で“マリア”だけ幸せなの? ずるいよ……」
「マリア? 君は、幸せになれるよ。俺が、幸せにするよ。マリアは、マリアなんだろう?」
 少女は、自分に向けて伸ばされた大神の手に、そっと手を重ねる。少女の手が、大神に触れた。瞬間、大神は少女を引き寄せて、右腕に抱き締めた。
「苦しくて、辛いね。だけど、負けないでくれ。オレは君を幸せにするために生まれてきたんだからね。君が大きくなるのを待っているから。ずっとずっと待っているから、いつか必ず出逢おう。君を愛したい。君に、生きてい欲しい」
 大神はそっと少女の髪を撫でた。そしてマリアと目を見交わし、微笑んでから立ち上がると、薔薇の蕾を一つ摘み取って、少女に差し出した。その時、俄かに雨が上がって雲が晴れ、月が三人に光を注いだ。
 淡い光に照らされた蕾は、大神の手の中でみるみる膨らみ、桜より鮮やかな色をした花を開いた。
「……一体……これは……」
「マリア、神様が君にくれたんだよ。持って行って、また、十年後に逢おうね」
 大神は小さな薔薇を少女の髪に飾って、その痩せた頬に口付けた。
「ごめん……ね……。待っててね。きっと、愛してね……」
 少女の微かな笑みが薄らぎ、空気に溶けた。消え行くその最後の瞬間に、かの少女がまるで、別の黒い髪を携えた少女のように見えたのは、気のせいだろうか。
「……マリア!」
 少女の姿が消え去った直後、大神は声を上げた。マリアが振り返ると、月光の差す庭の薔薇の木に、大輪の鮮やかな薔薇が、次々に開いていった。
 日本人は桜を好むが、桜とよく似た、更に鮮やかな色をした薔薇。極寒の地で死を望んだその時、ぼろぼろのナイフはこの花に変わった。なんて、美しい花。月に輝くこの花を、胸に抱き続けていた事を、今、思い出した。今この瞬間が、世界で最も輝かしく美しく見える。少女が苦難の人生を送っても、どうか耐え抜いて、この瞬間までは生き抜いて欲しいと、そして、自らが朽ちても、花が何度も繰り返し開くように、美しい世界に生命を繋いでゆきたいと、マリアは胸に柔らかな火を灯した。



 マリアが次に目を醒ましたのは、病院のベッドの上だった。マリアの手を握って心配そうに見詰めている大神は、安堵の息を漏らした。
「気分はどうだい? 何処か、痛むところはないかい?」
 ベッドの中で、身体を少し捻ってみる。感じるはずの痛みは全くなかった。脇腹と肩と左足を打たれ、背中を刺された筈なのに。そういえば、血が流れた様子もなかった。
「大丈夫。ご心配かけて、ごめんなさい」
「そんな事、良いよ。それより、一体……」
 不安そうに覗き込む彼に、マリアは事の顛末を話した。
「一郎さんとの結婚に、後悔も不満もないわ。この一年間幸せだったし、この先も幸せでいられると信じているもの。でも、不安が……自分でも気付かない不安があったのかも知れない。あの子達は、きっと私の不安が形になって現れたのね」
「すまない、マリア。君がそんな事を思っていたなんて」
「貴方の所為じゃないわ。私の今までの人生の中から決して消えないこと……たとえ何処にいても、もしも他の誰かと結ばれていたとしても、きっと不安はあるの。だけど、一郎さんは過去の行いも過ちも全部ひっくるめて私を愛してくれている。だから、私は幸せでいられるんだわ……」
 マリアはゆっくりと身体を起こし、大神の頬を両手で包み込んだ。
「でも、どうしてか……予感がするの。ふたり切りの静かな生活は、もう長くは続かないんじゃないかって。何故か……」
「……うん」
 大神はマリアの肩を抱き締め、そっと耳元で囁いた。
「君の予感は当たっているよ」
「――え?」
 大神を引き離し、その黒い瞳を見詰める。穏やかに微笑む夫の瞳に、涙が滲んでいた。
「君は、本能で解っていたんだね。だから君の中の霊力が、君達を守るために君の身体をずっと温めていたんだ。不安かも知れないし、俺は頼りないかも知れないけれど、幸せにする。大事にするから……幸せになろう。“三人”で」
「三……人……?」
「きっと、賑やかになるよ」
 感じていた。“ふたり切り”の“静かな生活”が終わること。
 もう一人――黒髪の少女が、脳裏を過ぎる。
「あ……あぁ……」
「おめでとう、マリア。愛しているよ」
「一郎さん!」
 大神は、優しくマリアを抱き締めた。


 六月の風は穏やかで、日差しを浴びた雫が薔薇の上できらきらと輝いた。
 静かなふたありの庭先には、新たな家族を迎えるために、大輪の花が揺れている。

 祝福に貌を綻ばせながら。

fin
ピンクの薔薇の花言葉:美しい少女
大輪のピンクの薔薇の花言葉:赤ちゃんができました

Happy Birthday. Maria.
愛を込めて。


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