忘れないで。失わないで。
 きっと貴方は、持っているのだから。
 幸福の素を……――



   吐息、感じて・・・


 太正十四年十月三十一日。紅葉の鮮やかな帝都の、銀座・大帝国劇場。
「……マリア?」
 厨房から、甘い香りが漂ってくる。その香りにつられて、一人の青年が顔を覗かせた。
「あ、隊長……」
「やっぱりマリアか。何を作っているんだい?」
 隊長――大神一郎は、厨房でレースのエプロンをつけて、麺棒で何かの生地を伸ばしている女性に声をかけた。彼女は、マリア・タチバナ。大神とは、一年程前から良い関係を続けている。
「パンプキンパイとクッキーです。あ、もしお暇でしたら、済みませんが、これをサロンにいるレニとアイリスに持って行って下さいませんか?」
 手を打ち粉だらけにしたマリアが指差す先には、巨大なカボチャがあった。大神が、両手で抱えてやっとと言うくらいだろうか。
「こ……これを!?」
 そのあまりの大きさに、大神は絶句した。
「あら、カンナは軽々と運んでいましたよ」
 からかうような口調でマリアはくすくすと笑う。カンナは大神が隊長を務める帝国華撃団花組の隊員の一人で、琉球空手桐島流の使い手だ。腕力が滅法界強い力自慢だが、紛れもなく女性だ。マリアの言葉に、大神は口を真一文字に結んだ。
「よ……よぅし」
 女性のカンナに負けてはいられない、とばかりに、大神は巨大カボチャに手をかけ、肺にたっぷり空気を吸い込んで、勢い良く持ち上げる。その勢いに尻餅を搗きそうなほどに、カボチャは――軽かった。
「ん?」
「ふふ。そのカボチャ、中身はもうないんですよ。くり抜いて、パイに使うんです」
 その言葉に、大神はほっとした。が、中身がある時にこれを運んできたのはカンナだろう。それは、やはり流石だと思うしかなかった。
「な……なんだ。でも、どうしてこんな……?」
「今日は、ハロウィンといって、まぁ、カソリックのお盆のようなものです。その時、カブやカボチャの提灯を作って飾るんです。そのほかにもやる事は色々あるんですけど。その事を話したら、みんなが乗り気になって、仮装パーティをしようという事になったんです」
「仮装パーティ?」
「ハロウィンにはゴーストや魔女や黒猫や……そういったものに仮装して街を練り歩く風習があるんです。詳しい事は、レニに聞いて下さい。きっと、詳しく説明してくれますから。隊長も、良かったら参加して下さいね」
「そうだな……。楽しそうだし、俺も参加させてもらおうかな」
 大神の返事に、マリアは満足げに顔を綻ばせた。放っておいても、誰かが必ず大神を誘うだろう。だが、どうせなら自分が誘いたい。そんなささやかな願いを、密かに抱いていたのだ。
「何の仮装をするかは、本番まで秘密ですよ。……そういえば、薔薇組の皆さんに話したら、やたらと乗り気でしたけど……」
「な、何をするか、怖いな……」
 マリアの言葉の続きを代弁するかのように大神が呟いた。
「それにしても、外国には面白い風習があるんだな。マリアも、向こうでは……」
 終いまで言う前に、大神ははっと口を噤んだ。露西亜、亜米利加、そして日本と、僅か20年足らずで住む国を転々としてきたマリアだが、マリアが露西亜や亜米利加でこんな行事に何かできるはずがないのだ……。
 何も言わず微笑むマリアに、大神は酷い罪悪感を憶えた。
「すまない……」
「いえ、構いません。何かをした、と言うより、その……少し、思い出深い行事ではあるんです」
「え……?」
 きゅっ、と、麺棒を鳴らして生地を広げ、パイ型にはめながら呟いた。
「……何でもありません。さぁ、早くアイリス達のところへ持っていってあげて下さい。それから、準備の手伝いをして下さいね。アイリス達はさっき言った通りですし、カンナやさくらは会場の飾り付けをしています。他のみんなも、どこかで準備をしているはずですから……」
 意味ありげに微笑むマリア。何も問う事が出来ず、大神は空っぽのカボチャを抱えて厨房を後にした。

「ねぇ、ナスターシャ……。それに――」





 一九一八年十月三十一日。
 凍えるような寒さだったが、この日の紐育はいつもとは違った彩りを見せていた。
 万聖節の前夜祭、ハロウィンである。
 この日は、死者の霊が戻って来て、夜中に道を歩き回ると言われている。そして、それを家に近付けないようにジャック・オ・ランタンというカボチャをくりぬいて作る提灯で脅かす。元々ジャック・オ・ランタンはカブで作るものなのだが、作りやすさの面から、亜米利加では古くからカボチャが使われてきた。
 現在では、そして、お化けや魔女に扮する子供達が家々を回り、「Trick or Treat!(お菓子をくれなきゃ悪戯しちゃうよ!)」と言ってお菓子をもらったり、ジャック・オ・ランタンを飾ったりといった、楽しみの風習の方が強い。
 大人も仮装をしてパーティを開くような行事。十五、六歳といえば、まだそれを楽しむに十分な年頃であろう。しかし、それに類しない人間もあった。人も、霊も、近付こうとしないような人間。
 懐に仕込んだ銃。美しくも、凍りつくような恐怖心を抱かされる容貌。彼女に触れようとする人間など、殆どいない。
 マリア・タチバナ。年はまだ十五。マフィアの世界に身を置く少女である。
 年は若くとも、やる事は他と変わりない。人を殺める事を生業としている。
 仕事の後には毎日酒場に通い、毎日のように純度の高い酒を煽って、古びたアパートで一人眠る……。
 年齢に見合わないどころか、およそ人道を外れた生活を送っている少女だ。
 彼女のように革命時の露西亜から亡命してきた者は、まともな仕事につくのは難しい。しかし、彼女は元より努力を惜しまない性質の人間だ。加えて、物覚えもよく、器用。英語も慣れたものだし、これだけ人目を引く容貌をしている――つまり、美人――。仕事は、その気になればいくらでも探せよう。彼女がそれをしようとしない理由は、自分の存在を自分自身が必要としなかったからに他ならない。彼女の望みは唯一つ。“死”。自殺するのではなく、破滅するのだ。それが、彼女の生きる目的だった。


 彼女の心は、既に殆ど死んだようなものだった。
 瞳を伏せれば、瞼の裏に浮かぶ生々しい死の光景。
 “彼”は、もうこの世にはいない……――
 彼女の脳裏を、そんな想いが静かに廻る。その瞬間に、彼女の心は凍りついた。捨て来た古国の大地のように。
 楽しみなど、ある筈がない。兎に角、血の色の手袋で自分を戒めながら、人を殺め続けて金を受け取り、酒を飲んでは眠る。それだけ。
 いつか、死ねる……。
 その想いだけを胸に生きる彼女が、笑顔などとうに失った事は言うまでもない。

 この日、マリアは報酬を受け取った。二、三週間に一度、受け取る事になっている。今日は、その日だったのだ。封筒の中には札の束。しかし、マリアはそれを確認する事もなく懐に入れる。
 喜びなど、忘れた。いや、これは寧ろ、哀しむべきなのだろうか?
 一人、歩きながら、街の様子がいつもと違う事に気付く。分厚い雲に閉ざされている割に、変に明るい。しかも、街行く人々の恰好がそもそも奇妙だった。魔女? 死神? 骸骨? 妙な恰好をした者達が、さも当然のように街を歩き回っている。何かの祭りがあるのだろうか?
 ……関係のない事だ。ふと浮かんだ思いを、次の瞬間には打ち消す。何かがあろうがなかろうが、自分には全く関係がない。そんな事、当の昔に解っていた。
 しかし、彼女はふと足を止めた。視線の先には、少女の姿。黒いコートを着た少女。小さな籠を抱え、外灯の下に立ち尽くす。
「あの子……」
 赤の他人に気を留めるなど、マリアにしては珍しい事だった。他人どころか、顔見知りにすら全く興味を持たないと言うのに。一瞬の思考の後、それを考える事すら止める。無駄な事だ。関係ない。
 だが、何故だか目を反らす事が出来なかった。見たこともない少女のはずなのに、どこか懐かしい気がした。雲の立てるごろごろと言う不穏な音を気にもせず、マリアはその少女を見詰めていた。マリアの視線に気付いたのか、少女はふと、こちらに顔を向けた。
「あっ……」
 思わず、喉まででかかった何かの言葉を、マリアは飲み込む。その言葉が何であったか、自分でも解らなかった。
 少女は、十二、三歳くらいだろうか。年齢そのものは、マリアと大して変わりはなさそうだが、あどけない、無垢な笑顔をマリアに向ける。こんな笑顔を、マリアは持っていない……。
 無理矢理に視線を引き離し、足早にその場を去った。


 マリアがその足でやって来たのは、いつもと同じ酒場。『グレッグ・キャンドルの店』。音楽もない、ただ、静かな空間。他人への不干渉をルールとしたその店が、孤独でいたい彼女の唯一落ち着ける場所となっていた。
 “あの男”さえいなければ。
「よ、マリア!」
 やはり、今夜も来た。“彼”は。
「今日も綺麗だな」
 いつもと同じ店の隅に座ったマリアの隣りに、無断で座る、ルール破りの男。ボードヴィル・グラスマン。
 マリアは、だんまりを決め込んだ。
「なんだよ、ちょっとくらい話しようぜ」
「…………」
「ハロウィンなんだから、今日くらい盛り上がろうぜ」
「ハロ……ウィン……?」
 マリアは、首をかしげ、漸く――珍しく――ボードウィルの方へ向いた。
「なんだ、知らないのか。まぁ、一種の祭りだな。大人もやるけど、大体は子供が魔女だの骸骨だの死神だの、そういうものに仮装して色んな家やなんかに回って、お菓子をもらう行事だ。そういう、年に一度のお祭りなんだよ。見てみろ、この店の中。俺達以外に誰もいやしねぇ。いつもこんな陰気なトコに入り浸ってる奴らも、今日は違うって事さ。どうだい。俺達も、これからもっと別な店へ行かねぇか?」
 店主のグレッグ・キャンドル氏が目の前にいると言うのに、この奔放な男は、言葉を選ぶ素振りさえない。マリアはボードヴィルの最後の誘いはまるで無視して、その前の説明に頷いた。成程、だから、この街は可笑しいのか、と。ぽつりと口に出したその言葉に、ボードヴィルは笑い出した。
「可笑しい? そうか? 俺は楽しくて良いと思うけどな」
「お前はそうだろうよ……」
 吐き捨てるようにマリアは言った。
 厳しい言葉だ。表情一つ変えず、抑揚のない声で言うためそれが冗談ではなく本気なのだと解る。そういう言葉ほど、胸に突き刺さるものはない。
 マリアは、彼に対していつもこういった態度を取っていた。構われるのは好きではない。自分に構わないで欲しい。冷たくすれば、その内愛想をつかすか、軽蔑して関わらなくなるものだ。だが、彼はまるで懲りない様子で、マリアに話し掛けてくる。
 鬱陶しい。そう思いながらも、どこかで微かに安堵していた。彼といる時、自分が人間である事を確認する事が出来る。僅かながら、感情が働いているのが解る。反面、まだ生きているのだという事実を突きつけられる。
 まだ、心臓は動いている……。
「相変わらず冷たいなぁ。ま、良いさ。でも、お前に逢いに来る霊もいるかも知れないんだ。そう無駄なもの扱いする事もないだろう」
「霊……?」
「あぁ、そうだな。ハロウィンそのものを知らねぇんだ、知ってるはずもねぇか。ハロウィンってのは、元々死んだ者の霊が戻ってくる日なんだよ。それで、街中を歩くとかっていう話だ。だから、それにならってお化けの仮装するのさ」
 日本の“obon”のようなものか、と、マリアは頷く。マリアの母親は日本人だった。彼女から日本の風習は少し聞いている。無論、“obon”に仮装をするなどと言う話は聞いた事がないが。
「ガキの頃、よく言われたもんだ。死んじまったけど、もう一度逢いたいと思ってる人間が、ハロウィンの日に自分の逢いに来てくれる、ってな」
「……普通、死者は自分が死んだ場所へ戻るものではないのか?」
 ボードヴィルの方へ顔も向けず、手の中のグラスに視線を注ぎながら、小さく小さく囁いた。まるで、自身に問うように。
「そんな事ねぇよ。そんな事、関係ねぇ。何処で死のうと、自分を一番想ってくれる人の所に来るもんだ。勿論、それは自分が想っている人って事にもなるんだろうけどよ。だから、もし俺に何かあったら、来年のハロウィンは俺の事想ってくれよな。絶対に、お前の……」
「下らない事を言うな……!」
 また、身体のどこかで感情が働いている。こんなに人を殺して、自分も死を望んでいるというのに、誰かが自らの“死”を口にする事を聞くのは決して気分が良いものではなかった。いや、それより、己の“死”を軽々しく口に出来る彼を羨んだのかも知れない。マリア自身は、どれ程“死”を望んでも、なかなか死ぬ事が出来ないのだ。
 あんなに人を殺したのに、あんなの酒を飲んだのに、目が覚めれば、自分はまだ生きている。息があって、脈があって、歩く事も、話す事も出来る。そして、その現実にいちいち絶望させられる自分がいる。こんな身体、もう要らないのに。二度と、誰にも、触れたくはないのに。
 苛立ち、髪を掻き揚げると、マリアは席を立った。
「マリア……すまない。冗談だ……」
 グレッグ・キャンドル氏に紙幣を渡し、釣りのコインを受け取ってマリアは店を出た。
「マリア……!!」
 まだ、酒を頼んでいなかったのが良かったのか。ボードヴィルは、すぐにマリアを追う事が出来た。
「悪かったよ、マリア……」
 追いついて、マリアの肩を掴む。
「離せ……」
 冷たい声だった。ボードヴィルの方など見ようともせず、言葉一つで突き放した。
 瞬間、ポツリ、と雨粒がマリアの額に落ちた。ボードヴィルがそれに気付くより早く、ざぁっと音を立てて、大粒の雨が降り始める。
「うわ……。とうとう降り出しやがった。マリア、店へ戻ろう……」
 優しく語りかけるボードヴィルの手を振り払い、マリアはさっさと歩き出した。
「マリア……。俺が悪かった、今日はもう付き纏わねぇ。でもな、一つだけ……あと一つだけだから、聞けよ」
「何だ……?」
 これでこいつから開放されるなら、あと少しくらい聞いてやる。そうでもしなければ、こいつはアパートまでついて来るに違いないのだから。マリアは、くるりとボードヴィルの方を向いた。
「Trick or Treat!……って、言ってみな」
「……? Trick or Treat(悪戯か、楽しみか)……?」
「そ。ほらよ」
 ボードヴィルは、マリアに何かを投げてよこした。
 マリアは、咄嗟に手を出し、それを受け止める。マリアの手の中に、小さなキャンディが転がった。
「何だ……?」
「魔法の言葉。お菓子がもらえる優れもの。ハロウィン限定。覚えときな」
 それだけ言い残し、ボードヴィルは去っていった。
「Trick or Treat……」
 何故か、下らない、などと悪態をつく気にもなれなかった。
 雨に濡れた前髪が、顔にはりつく。そんな事にも気を留めず、マリアはただ、細い路地を歩き続けた。
 ポケットの中に突っ込んだ手に、キャンディを握り締めて。
 こんな物は、なんの役にも立たない。ただ、甘いだけだ。栄養価も高くないし、無駄に食料のあるこの国では、子供をあやすための道具にしかならない。あの国……露西亜では、たった一つでも重宝がられるだろう。甘いもの一つで、ある程度動けるようになる。高カロリーの食品は、僅かでも大切なものなのだ。
「きゃっ……!」
 突然、何かがぶつかり、声が聞こえた。
「す、すみません……!」
 黒いコートを着て、フードを目深に被った少女が、尻餅を搗いてこちらを見上げていた。
「あっ!」
 少女は、コートの下に抱えていた籠が雨に濡れかけている事に気付いき、コートの下に籠を抱えなおして立ち上がる。
「貴方……」
 見た事がある。確か、さっきあの外灯の下で……。
 マリアは、すっと手を差し伸べた。
「有り難うございます」
 少女は、マリアの手を借りて立ち上がると、会釈した。
「ああ、いや……。その……それは……?」
 マリアは、年下の扱いに慣れていない。ましてや、こんな無邪気な少女は。立ち去ろうとも想ったが、どういうわけかそれも許されないような気がした。この少女は、妙に自分を引き付ける。どう対応して良いものか解らず、マリアは戸惑いながら少女を雨の凌げる軒先に誘導し、問い掛けた。
「これ……売り物なんです」
「売り物?」
「はい。私、これを売っているんです」
 不自然な、片言な英語を操り、少女は説明する。どうやら、元から英語圏で育ったわけではないようだった。
「そうか。子供が……」
「私、もう十二ですよ。十分働けます」
 十二……。その年の頃、自分は何をしていただろうか。朧気に記憶を辿りながら、マリアは頷いた。この辺りで、このくらいの年の子が働く事など、そう珍しい事ではない。しかし、それにしては彼女は、あまりに無邪気過ぎた。大抵の子供が、世を儚むような、また、世を捨てたかのようなすれた瞳で、無愛想に働くというのに。
「今日は、ハロウィンなんですよね……。みんな、凄く楽しそうでした!」
 少女は、嬉しそうに微笑む。
 薄汚れたコートに身を包んで寒さを凌ぎながら、こんな籠を抱えて雨に濡れて、それでも、他人の幸福を喜ぶ? どこかおかしいのではないかと思う程に、彼女は無垢だった。
「そうだな……」
 無関心な風にマリアは答える。
 雨に濡れない所にいるため、少女はコートの下から籠を引っ張り出した。取っ手の付いた小さな揺り籠を思わせるそれには、両手の平にすっぽりとおさまりそうな透明な袋が一つ、入っていた。袋の中に見えるのは、狐色に焼けた、無個性な丸いクッキーだった。どうやら、これが濡れないように庇っていたらしい。小さな身体で、自分が濡れる事も厭わずに。
「それが売り物か……」
 特に興味があるわけではないのだが、沈黙しているのも辛い。かといって、やはりこの少女を置き去りにする気にもなれない。
「はい。これが売れないと、親方に怒られてしまうんです……」
 もう、売れないだろうと少女は溜息をついた。
 さっき、ボードヴィルに聞いた話だ。ハロウィンには、子供が菓子をもらう。十二という年は子供とはいえないのか。だから、もらうはずの菓子を売るのか……?
 マリアは、唇を噛んだ。はっきりとは聞き取れない下手な英語。もしかすると、この少女は……。
「名は?」
「え……名前? あ、ナスターシャ・トリューコフ。貴方は?」
「マリア・タチバナ」
 答えながら、マリアは思った。やはり、か。彼女は、露西亜人だ。やはり、移住してきたのだろう。革命の影響か。それならば、この年で働いているのにも合点が行く。しかし、露西亜人で、この年で、更にいうなら女であって、仕事を探すのは容易い事ではない。それでも、この笑顔か。マリアの血の色の手袋が、固く結ばれた。
「露西亜人だな。私もそうだ」
「貴方も!? そうなんですか。私……革命で、父が死んでしまって……。それで、母と三人の弟と移住してきたんです……」
「革命……か……」
 懐かしそうに、口にする。
「それなら、革命を恨むだろ……」
「え? いいえ。そんな事はありません。貴方は、恨んでいるの?」
「……そうかも知れない」
 無邪気な問いに、マリアはどう答えて良いものか、困った。しかし、この答えは、素直なものだといえる。
「私は……確かに苦しい想いをしました。でも……革命軍の人に、助けてもらった事があるんです。その人が、こう……私の頭を撫でながら、言ってくれたんです。『今は苦しいけど、きっと世界は変わるから、希望は捨てては駄目だ』と……。だから、私はその人の力にはなれないけど、せめて、希望を持っているくらいならと思って……」
 ナスターシャは、頬を紅潮させながら微笑んだ。
 彼女は、その“革命軍の人”に、特別な想いを寄せているのだろうか。だから、こんなにも無垢でいられるのだろうか……。もし、自分のように家族がなければ、きっと迷わず、その人を追って革命軍に入った事だろう。そして、その人の力になるために尽くしただろう。それが出来ないから、遠いこの国でその人の言葉に素直に従っているのだろう。
 マリアは、この少女――ナスターシャが妬ましかった。自分の手は、こんなにも血で汚れている。こんなにも、汚れている。手だけか? 違う。自分の総てだ。そんな事、諦めていたはずだ。もう、どうにも思わないはずだ。いつか、破滅するんだ。
 彼女がその人のために尽くすように、私は破滅こそが……。
 妬みなどと言う、失ったはずの“感情”。しかし、彼女は素直で、美しかった。
 だって、見てみれば解る。彼女の笑顔に、自分はこんなに癒されている。本当は、妬みなんて醜い心、最初から……――

 そうだ。
 彼女には、こんな汚れた手で触れてはいけない……

 マリアは、徐に手袋を外した。
「Trick or Treat……」
「え……?」
 不思議そうに、ナスターシャは目を丸くした。
「Trick or Treat」
 そう言って、ポケットからコインを取り出す。ナスターシャの顔に、花が咲いたようだった。
Спасибо!
 懐かしい祖国の言葉を口にして満面の笑みを浮かべる彼女の手に、マリアはコインを乗せる。
「言ってごらん、ナスターシャ」
「……Trick or Treat……?」
 首をかしげ、囁いた彼女の手に、マリアはそっとキャンディを乗せる。
「あ……あの……」
「良いよ」
 マリアは、微笑んだ。
 ――微笑んだ。
 ナスターシャの瞳に、涙が浮かぶ。
Спасибо……」
 ぽろぽろと零れ落ちるナスターシャの涙。マリアは、ナスターシャの前髪を掻き揚げ、そっと額に口付けた。
 悔しいのではない。悲しいのではない。それなのに、彼女は泣いている。
 誰のため?
 誰のせい?
 もう、とうに失くしたはずだった自分の笑顔が、役に立たないはずだった甘いキャンディが、涙が出るほどの幸福を与える事が出来る。それは、なんて……――
 とても不思議な事だけれど、彼女の前で、笑っている。かつて、“彼”の前でそうであったように……
 そっと抱き締めた細い少女の身体。首筋にかかる、小さな吐息を感じながら、マリアはそれが、人々が“幸福”と呼ぶものなのかも知れないと考えていた。




 雨が上がり、夜闇の中に、マリアはナスターシャを送り出した。
 確か、まだロシアにいた頃。赤軍のみんなと移動していた時、隊長が、木の上で泣いている少女を助けた事があった。その少女の頭をなでながら、彼は優しく微笑んでいたっけな。そして自分は、やきもちを焼くように、その少女を羨んで、妬んでいた……。
 どうして、こんな事を思い出すのだろう……
 膨れ上がる想い出に、マリアは苦笑した。あぁ、また……微笑ってる……


 一人の男の影。
 それには、誰も気付かなかった。マリアも、ナスターシャも。しかし、彼は確かに、ナスターシャの目の前に立っていた。
 誰かに頭を撫でられたような気がして……誰かが、擦れ違いざまに髪を撫でて去っていったような気がして……ナスターシャは振り返った。
 誰もいない。雨上がりの闇の中を去る、マリアの後姿の他には。
「お兄さん……?」
 逢える筈のないその人の気配。口元に笑みを浮かべ、ナスターシャは踵を返した。マリアに、別れを告げ、お家へ帰ろう。
 マリアも、ふと足を止めた。誰かに肩を叩かれたようで、振り返る。
 誰もいない。雨上がりの闇の中を去る、ナスターシャの後姿の他には。
 しかし、突然髪を掻き揚げられ、額に口付けられたようだった。ほんの、一瞬。
「……ユーリー?」
 そこには、誰もいなかった。いる筈がなかった。それなのに――マリアは、泣いていた。熱い涙を零して、彼の名を呼び続けた。抱き締められるような温もりを感じて。

 余談ではあるが、翌日、ボードヴィルはグレッグ・キャンドル氏から小さな袋に包まれた一枚のクッキーと、「Thank you」と書かれたメモを受け取る。差出人不明。預かったグレッグ・キャンドル氏も、誰からの物かは、言おうとしなかった。





「あとは……これを焼くだけね……」
 マリアは、焼きあがったクッキーを皿に盛り、あと少しで完成するパイを前に、満足げに腕を組んだ。
「あれ……? もう終わったのか……」
 折角手伝いに来たのに、と、大神は悔しそうに唇を尖らせる。
「まだ片付けが残ってますよ。手伝って下さいますか?」
 くすりと笑い、マリアは粉塗れになった料理器具の山を示した。普通は手の開いている時に片付けるものだが、二つの作業を同時に行なっていたため、それもままならなかったらしい。
 当然だろう、と、大神は嬉しそうに頷いた。
「ところで、隊長……?」
「なんだい?」
「ハロウィンの日、子供達が仮装して家々を回って、なんて言うか知ってます?」
「ん? ああ。さっき、アイリスから聞いた。アイリスは、マリアから聞いたって言ってたけど。なんだっけ……。ト……トリック・オワ・トリート!」
 不器用な英語。マリアは、更に笑う。
「はい、どうぞ」
 そして、大神の手の上に置かれたのは、一枚のクッキーだった。気持ちと笑顔を添えて。
 驚いたような大神の額にそっと口付け、マリアは何事もなかったかのように去っていった。


 本当は、みんな知っている。
 人を幸福にする方法。
 知らない振りをしているだけ。忘れた振りをしているだけ。

 幸せの素は、最初から、この手の中に。
 小さな小さな、幸福の吐息を感じて……――


微笑みと、キス。
それだけあれば、幸せでいられる。


INDEX

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