解っている。
 誰も、自分一人で生きてきたわけではない。
 私達も、私達だけで戦ってきたわけではない。
 みんながいたから、戦ってこられた。
 貴方達がいたから、生きていられた。
 だから……



   手の中の糸



 白い帯が静かにマリアの額に巻かれてゆく。ずぶ濡れの髪が頬に張り付き、マリアは鬱陶しそうに払い除けていた。
「全く、マリアさんは意外と無茶をするなぁ……」
「すみません」
 からかうような加山の言葉も、マリアは真剣に受け止めて恐縮した。加山の手の中でマリアの髪に触れてじっとりと濡れてゆく包帯が額を冷やす。作戦も継続中で、室内に入る事が出来ないため、湿った包帯はマリアの髪や衣服とともに凍り始めていた。
「なるべく早くきちんとした治療をした方が良い。兎に角、安静にしているんだな」
「でも……」
 左のこめかみの辺りに包帯を留めると、加山はマリアの肩にかかったバスタオルでマリアの髪を包んだ。
「髪も濡れたままだし、このままじゃ本当に風邪をひいてしまうだろうなぁ」
「ですが……」
「服も着替えた方が良い」
「あの……」
「傷も、マリアさんが考えている程浅くない。此処では応急処置程度しか出来ないし、冗談抜きで、早急な治療が必要だ」
「加――」
「俺はまだやる事があるから送る事は出来ないが、一人で大丈夫か?」
「…………」
 マリアの髪をタオルで撫でながら、加山は返事を待った。しかし、マリアは何の反応も見せない。
「……パトリックの出没予想地……知りたいか?」
「はい」
 短く、それだけ答えた。
「そうか。しかし、これ以上君を危険な目に合わせると、大神に殺されるような気がするが……」
 加山は苦笑しながら、ポケットに手を突っ込んだ。そして、何かを握ってマリアの手の上に自分の手を差し出した。
「……これは?」
 加山がマリアの手の上に落としたのは、紅の紋様の入った白銀色の銃弾だった。
「この銃弾には霊力が込められている。紅蘭さんが開発し、夢組が霊力を込めたものだ。渡すよう言われていた。パトリックに銃での攻撃は聞かなかったというが、これなら、あるいは……」
 意味ありげな笑みを浮かべると、加山はマリアのその弾丸を握らせた。
「あまり無理はしないでくれよ。今回の潜入作戦においては、マリアさんのサポートは俺に一任されているんだ。何かあったら、副司令と大神に怒られてしまう」
「了解」
 マリアが両手両足をそろえて敬礼すると、加山は満足そうに頷いた。
「よし。それで、だ。月組が調べたところ、パトリックは……」

 マリアが去った後、加山はキネマトロンのスイッチを入れた。
「こちら、加山」
「加山君! マリアはどう?」
「額と首を負傷していますが、命に別状はありません。……とは言っても、決して傷も浅くはなくて……。応急処置は完了して、今し方此処を出発しました。が……」
 加山は視線を落とし、言葉を捜しているようだった。
「まぁ、予想はしていたわ。確か、パトリック……といったわね?」
「はい。随分濡れていましたし、どうやらその……マリアさんは泳げなかったらしくて――熱海への旅行以来練習していたとの話ですが――大量に水を飲んでいました。治療状態も良いとはいえませんし、あまり無理に耐えうる状態ではないのですが……」
「仕方ないでしょう。後は、マリアを信じるしかないわ。自分の身体の事が解らないほどマリアは愚かではないし、それほど戦闘を長引かせたりはしないはずよ。取り敢えず、マリアの行き先を教えて頂戴。迎えをやるから……」

 朝日に照らし出され、うっすらと明るくなる空の下で、逃走中のパトリックの前に現れたのはマリアだった。二、三互いに皮肉めいた言葉を交わしたかと思うと、突如、ファミリアがマリアに迫る。しかし、マリアはいつも通りの冷静さで鋼色の銃弾をファミリアの無機質な身体に叩き込んだ。それだけで、ファミリアは動かなくなる。
 弾切れ。それを見込み、また、自分に弾丸が利かない事を踏まえて、パトリックはマリアを罵り、襲い掛かった。しかし、マリアは銃身を折り、空の薬莢を捨てると、白銀の弾丸を詰めた。
 銃声が轟き、パトリックが地面を転げた。
「言い忘れたけど、この弾には霊力が込められてあったのよ……」
 マリアは硝煙の立つ銃を下ろした。
「おやすみ、パトリック……」
 街の中心部が、先程とは打って変わって静けさを取り戻している。どうやら、向こうも片付いたらしい。別れ際に加山が言っていた事が、脳裏に繰り返される。
――大神が帰ってきた。
 マリアの頬に、微かな笑みが浮かぶ。
「お帰りなさい、大神隊長……」
 朝焼けの街を見下ろしながら、マリアはそっと呟いた。
「マリアさん……。副司令の指示により、お迎えに来ました」
 マリアが戦いを終えて降りたビルの前には、かすみが立っていた。
「有り難う、かすみ」
 かすみの穏やかな笑顔に、マリアも微笑を返す。
「寒くありませんか? 随分濡れているみたいですけど。それに、傷の方も……」
「大丈夫よ。大した事はないわ」
 そう答えたマリアの髪の下で、包帯に血が滲み始めていた。治まる事なく続く痛みに、マリアは微かに視線を落とした。
「帰りましょう、マリアさん」
 マリアに、かすみはそっと手を差し伸べる。
「帰りましょう、みんなの待っている……帝劇へ……」


 太正十六年一月。
 一つの事件が静かに幕を下ろした。



 そして同年、春。
 新たなる事件が幕をあけた。

 光の裏に影がある。喜の裏に哀がある。快楽の裏に苦痛がある。――誰にも知られていないとしても。
 この日、透けるような月の下、新たに加わった五人の仲間を歓迎するパーティが開かれていた。同じ頃、誰にも知られず流れる血があった。
「……隊長はどこ行った?」
 大帝国劇場の中庭で開かれていた巴里華撃団の歓迎パーティの途中、ロベリアが辺りを見回した。
「隊長なら、さっき呼ばれていったわよ」
 ロベリアの傍らでジュースを片手にマリアが答えた。
「そうか。せっかくお酌してやろうと思ったのに。こんなチャンスを棒に振るとは、ホントに馬鹿だねぇ。……って、あんたも何ジュースなんか飲んでんだよ?」
 見るからに度の強そうな酒の瓶をテーブルに置きながら、ロベリアはマリアに詰め寄った。
「飲まないのかい?」
「……何があるか解らないからね」
 グレープフルーツジュースを一口喉に通し、マリアは呟いた。
「相っ変わらず苛々するくらい真面目だねぇ。何かって、何があるってんだい? それとも、酒は体に悪いからとか言い出すんじゃないだろうね?」
「量を調節すれば、それ程悪くもないかも知れないけど……」
「酒は百薬の長とかいう言葉が、ニッポンにはあるんだろう?」
「随分渋い言葉を知っているわね、ロベリア」
 マリアはくすりと笑い、
「でも、まぁ……」
 と言葉を濁した。
「ん? 酒が駄目で、グレープフルーツジュース……って事は、もしかしてマリア、あんた……」
「……何?」
 ロベリアの顔色がさぁっと蒼くなる。マリアはきょとんとして、ロベリアを見ていた。しかし、いきなりロベリアは顔を紅くしてマリアの首に腕を巻きつけ、耳元に顔を近付けた。
「隊長の子供じゃないだろうね?」
「はぁ?」
「なんだ、違うのかい。ま、そうだろうね。あの隊長にそこまで甲斐性があるとも思えないし、あんたと隊長じゃ、考えられないか」
 悪かったわね、とマリアは肩を竦めた。
「そうじゃなくて」
 マリアは周りのみんなに注意をしながら、声を細めた。
「嫌な胸騒ぎがするのよ……」
「ははぁ……奇遇だねぇ。さすが、世界有数の暗黒街を生きた女の勘は鋭い。あたしも胸騒ぎがするよ。ぞくぞくするような快感が待ってそうでねぇ……」
 にやりと唇の端を上げるロベリアを、マリアは睨みつけた。きっと、感じているものは同じだ。彼女の良い意味での胸騒ぎは、恐らく自分にとっては嫌なもの。
 気味が悪い。何があるというの?
 この手の勘は、殆ど外れた事がない。胸がむかむかして、気分が悪い。何か、変な…………匂い。悲しくも幼い頃から自分の体に染み付いた、あまり知るべきではない匂いを感知し、マリアは顔を上げた。
「どうした?」
 静かに、誰にも悟られないようにジュースをテーブルに置いたマリアに、ロベリアは不審そうな眼差しを向ける。
「お酒を離して。匂いが曇るわ……」
「匂い……? あぁ、これは……」
 マリアに倣って酒の入ったグラスをテーブルに置くと、ロベリアも同じ物を感じたようだった。
「血の匂いがする……」



「琴様……」
 書庫で、斧彦は窓を開けた。さっき、隙間風が吹き込んだ。その時感じた匂い。かつて、日露戦争や欧州大戦で知った匂い。いつまで経っても、忘れる事など出来ない匂い。
「ええ……」
 開いていた本を音を立てて閉じ、琴音は顔を上げた。
「近いわね……」
 指で眼鏡を押し上げ、窓から身を乗り出す。
「こ、琴音さん、私……怖いですぅ……」
 菊之丞が、肩を縮めた。天性の鋭さが、彼の背筋を凍らせている。
「大丈夫よ。それにしても、誰の……」
 肩にかかる髪を風になびかせながら、琴音は夜空を仰いだ。雲一つない空に満月が輝く。
「仕方ないわね。行くわよ、斧彦、菊之丞!」
 積み上げた本もそのままに、三人は書庫を飛び出した。



 椿は、走り去るかえでの後姿を見た。
「かえでさん?」
「どうしたの、椿?」
 突然の背後からの声。そこにいたのは、由里とかすみだった。
「あぁ、由里さん。なんだか、かえでさんが大慌てで出て行ったんです。どうしたのかな、って……」
 かえでの消えた扉に視線を向け、かすみは顔を強張らせた。
「あ、あれ……」
 震えた声。かすみの指が示すその先に、普段はあらざるものがあった。
「…………血痕?」
 三人が駆け寄ったそこには、放射状に散った紅い血溜まりが二、三。
「かえでさんは、これを見て飛び出して行ったのね」
「ど、どうしよう」
「あ、取り敢えず大神さんか支配人に――」
「待って!」
 慌てふためく椿を、かすみが制止した。
「あまり事を荒立てない方が良いかも知れないわ。この血を片付けてかえでさんが帰ってくるのを待って、それから指示を仰ぎましょう」
「……でも、かすみ……」
 由里の声も恐怖に震えた。勝手な判断をして、大事に至らないだろうか。
「かえでさんが行ったんですもの、大丈夫よ。それより、花組の人達に知らせて不安を煽るような事はしない方が良いわ……多分……」
 かすみが最後に付け加えた頼り無い言葉に、由里は俯いた。
「賢明な判断ね」
 そこに駆けつけたのは、琴音達――薔薇組だった。
「ば、薔薇組の皆さん!」
「げっ……」
 頼もしい味方の登場に由里は目を輝かせ、薔薇組を苦手とする椿はたじろいだ。
「なによ椿ちゃん、その『げっ』って言うのは……」
 椿の反応に、琴音はあからさまに不満を示した。が、すぐに真面目な表情に戻り、
「それは兎も角。取り敢えず、此処の掃除は任せられるかしら? 菊之丞も手伝って。私と斧彦は他に血の跡がないかざっと調べてみるわ。その後の事は、私達に任せて。かえでさんが戻るのを待って、相談するから。くれぐれも――特に由里さん――他の人に話したりしないように。良いわね?」



「行くのかい?」
「気になるから……」
 ロベリアに背を向けたまま、マリアは囁いた。
「まぁ、誰にも言わずに行くって事は……」
「黙っておいて頂戴」
「考えとくよ……」
 それだけで、マリアには十分な返事だった。
「有り難う……」
 いたって自然な様子で中庭を後にすると、みんなに姿が見えなくなったところで、マリアは走り出した。


 かえでは俯いたまま、両腕で自分の体を抱き締めた。
「あの時のマリアといい、どうしてみんなあんなに無茶をするのかしら……」
 誰にも、無理はして欲しくない。苦しい時に笑って欲しくはない。溜息をつきながら帝劇に戻ったかえでは、ロビーで足を止めた。
「……血が……」
 さっきまでロビーの床に付着していた血の跡が消えている。その痕跡の残らないように、綺麗に拭き取られている。
「……誰の血なの?」
 声に、かえでがゆるゆると顔を上げると、階段に三人の男の姿。
「あら、薔薇組の皆さん。歓迎会には出ないんですか?」
 何もかも知り尽くしたような琴音の挑戦的な目線に、かえでは笑顔を引き攣らせた。
「行きたいのは山々なんだけど、私達が行っても、迷惑なだけでしょうしねぇ」
 琴音は残念そうに首を振った。
「話をそらさないで」
 その様子を見て微笑むかえでに、厳しい声で叱責する。かえでは内心舌打ちしながら血痕のあった場所に視線を落とした。
「もしかして、もうみんなに……」
「知られていたら、きっと今頃大騒ぎよ。大丈夫、まだ風組と私達以外誰も知らないわ。安心して。血は見ての通り、片付けておいたしね。風組が、だけど」
 かえでは、安堵したように肩を撫で下ろした。
「良かった……」
「あの……この血の主は、加山さん……ですか?」
 斧彦の後ろから不安を隠せない様子で問うのは、菊之丞。かえでは頷いた。
「ええ。どうやら、背中を切られたみたいなの。薬を渡しておいたから大丈夫だとは思うんだけど、最初は平気な振りをして誤魔化すつもりだったみたい。マリアといい加山君といい、どうしてこう……無茶ばかりするのかしら」
 かえでの瞳に、影が映る。
「マリアさん? あぁ、パトリックの件ね……」
 手摺から体を離し、かえでの側に歩み寄ると、琴音は乱れた髪を整えるようにそっと撫でた。
「それは、無茶をしても、護りたいものがあるから、じゃないかしらね」
「でも、かえでさん」
 菊之丞が琴音の後ろから顔を出す。
「背中にどうやって一人で薬を塗るんですか?」
「………………あ」
 かえでの額に脂汗が浮かぶ。
「えっと……で、でも、月組、の誰、か、に……塗ってもらうかも知れない……し……」
「……考えてなかったわね?」
「………………」
「………………」
「……どうしましょう」
「さぁ……」



 マリアは、街を走り抜けた。嫌な予感が治まらない。ただ、本能の赴くままに、勘に任せて走り続ける。良くも悪くも、この手の勘は殆ど外れた事がない。きっと、“そこ”に辿り着けるはず。それに……風に流れてくる血の匂いも、段々濃くなっている。
 恐らく、近い――
 昔はこういう時、どうしていた?
 かつての自分に問い掛ける。どんなに望まない経験でも、無駄になるものはない。かつての自分なら……街中で負傷したとしたら、まずどうしていた?
 答えが、マリアを路地裏へと導いた。
 そう。昔の自分なら、街中で大怪我をしたら、騒ぎにならないように人通りの少ない道に入ったはずだ。そんな騒ぎが起きている様子もないし、蒸気救急車のサイレンの音も聞こえない。恐らく、“負傷者”はまだ、傷の治療をしていない。血の匂いもまた、それを語っていた。
「近い……」
 レンガ造りの谷間の狭い通り。T字路が見えて、そこを右折した時、マリアは漸く足を止めた。
 そこに、背中から血を流した男が横たわっていた。
「――――加山隊長!!」

 月の光が二人の上に影を投げていた。



 硬直するかえで。かえでを取り囲む、同じく硬直する薔薇組。四人が立ち尽くしていると、そこに現れたのは、大神だった。
「かえでさんに……ば、薔薇組のみなさん……」
 椿同様、大神も薔薇組を見て後ずさった。
「どうかしたんですか?」
「大神君……。なんでもないのよ。それより、大神君こそどうしたの?」
「あぁ、その……パーティをお開きにして、片付けを始めようと思ったのですが、マリアがいないみたいで……」
「マリアさんが……?」
 やはり皆さんも知りませんか、と、大神は肩を落とした。
「椿ちゃん達に聞こうと思ったんですけど、いきなり地下から出て来たかと思ったら何か持って裏口から飛び出して行っちゃうし……」
「地下?」
 菊之丞は首を傾げた。
「裏口?」
 かえでも頭を捻る。暫しの沈黙の後、四人は顔を見合わせた。
「大神中尉、そういえばマリアさん、用事があるとか言って出て行ったわよ」
「え……? 何処に、ですか?」
「さぁ。そこまでは聞いてないけど」
 素直で純粋な大神は、この明らかに胡散臭い琴音の言葉を、そうですか、とあっさりと信じた。
「そんな事より一郎ちゃん。お片付けは私達がやっておいてあげるから、休んだらどぉ? みんな疲れてるんでしょ?」
「い、良いんですか?」
「気にしないで下さい。私達と大神さんの仲じゃないですかぁ」
 薔薇組の気の利いた申し出に、大神は少々怯えながらかえでに目をやった。かえでは、そうなさいと言わんばかりに微笑む。
「それじゃぁ……お言葉に甘えて。お願いします」
 軽く会釈して踵を返し、大神は中庭へと急いだ。
「……だ、そうよ。良かったわね、かえでさん」
「……はい。それじゃ、私も片付け手伝います」
「じゃぁ、洗い物は私とかえでさんでやりますね」
 四人は、中庭へ向かった。



「加山隊長、加山隊長! しっかりして下さい、隊長!!」
 マリアはゆっくりと加山の体を抱き起こした。服にべったりと血液が付着する。
「加山隊長!!」
「っ……マリアさん……か……」
「はい。解りますか?」
「それじゃぁ此処は……帝劇?」
 言いかけて、開きかけた瞳に夜闇が映る。
「違う……未だ……」
「えぇ、此処は、銀座の――場所はよく解りませんが、貴方は此処に倒れていたんです」
 漸く意識がはっきりしてきた加山は自力で身体を起こすと、近くにあった壁に背中をつけた。
「加山隊長……」
「ちょっとヘマしてな……。後ろから斬りつけられてしまって。でも、心配ない。命に別状はない……と、思う」
「確かに、斬られた割には大した出血量ではありませんが……それでも軽い傷ではありません」
 マリアがやや強い口調でたしなめると、加山はくすりと笑う。
「マリアさんは、かえでさんに似てるなぁ。でも、本当に大丈夫だ。この通り、かえでさんから傷薬をもらっている」
 加山は軍服のポケットから先程かえでから受け取った薬を差し出した。
 この薬はマリアも知っていた。以前、例のパトリックとの戦いの後だったか、額と首に負った傷を治療するのに、かえでがその薬を塗ってくれたのだ。藤枝家に伝わる良く効く止血薬だと言って。
「でも……」
 マリアは、加山の手の中の薬を見詰めながら、
「どうやって背中に塗るつもりですか……?」
「………………あ」
 加山の額に脂汗が浮かんだ。
「えっと……で、でも、月組、の誰、か、に……塗ってもらおうか……な……」
 こんなところで倒れていたというのに何を、と、マリアは呆れたように加山を見やった。
「………………」
「………………」
「………………」
「……どうしようか」
「ですから……」
 マリアは薬を取り上げた。
「私が塗ります……」
「マ、マリアさんっ!?」
「私ではご不満ですか? かえでさんか誰かを呼んできた方がいいですか?」
 そうではなくて。
「俺が大神に殺される……」
「では、そうなさって下さい」
「おいおい〜」
「後で、大神隊長に。だから、それまでは……」
 マリアの淡いグリーンの瞳に見詰められ、加山は静かに頷いた。マリアの手を借りながら上着を脱ぐと、地の厚いスーツとは比べ物にならないほど、シャツは血に濡れ、元の色を留めてはいなかった。しかし、出血はある程度止まっているようだ。
「あ、でも……」
 マリアは手を止めた。素手で触るわけにはいかない。ハンカチは持っているが、傷の治療が出来るほど清潔ではない。
「私も、甘いですね……」
 背に刻まれた刀傷を前に、何も出来ない。マリアは懐からハンカチを取り出すと、行動を起こすか否か、躊躇った。今朝出したばかりだが、それまでずっと箪笥にしまっていたものだ。もし、これが原因で傷口が化膿してしまったら。そう思案していると、遠くから近付いてくる足音が聞こえた。
「いたぁ〜〜〜!!」
 真横から甲高い女の声がして、マリアは圧倒された。
『帝国華撃団風組、参上!!』
 息を切らして満面の笑みを浮かべながら、三人は声をそろえた。
「かすみ、由里、椿……!」
「って、うわぁ……。加山さん! 酷い傷!!」
 由里が素っ頓狂な声をあげた。
「貴方達、どうして此処へ?」
「えぇ、実は……帝劇の玄関に血が落ちていて、どうしようかと思っていたんです。そうしたらマリアさんが飛び出して行くのが見えて……。気付きませんでしたか? 由里を押し退けて走って行ったんですよ、マリアさん。それで、もしかしたらと思って急いで地下でマリアさんの霊力を追跡してみたら、路地裏に入って此処で止まったので」
 かすみがそこまで説明すると、後を椿が引き継いだ。
「だから、きっとそうだって確信して、みんなで来てみたってわけです。怪我人が誰かは解りませんでしたし、まさか加山さんだなんて思っても見ませんでしたけど」
「大丈夫ですよ、マリアさん。ちゃぁんと救急箱持って来ましたから」
 由里が、抱えていた箱を示す。
「でも……玄関に血って事は、もしかして今、帝劇中大騒ぎなんじゃ……。かえでさんが何とかしているのかしら」
「それも大丈夫です。薔薇組の皆さんが騒ぎにならないようにかえでさんと相談するって言ってましたし」
 由里が得意満面の笑顔で言うと、マリアはほっと息をついた。
「薔薇組が……そう、それなら大丈夫ね」
「マリアさん、あの人達を信用してるんですかぁ? 意外です」
 目を丸くする椿を笑いながら、
「薔薇組は、本当に頼りになる人達よ。もう心配する事は何もないわ。由里、ガーゼとピンセットを。それから……」
 言いかけて、マリアは苦笑した。
 これから言おうとしている事を悟ったのだろう。かすみは理解しているようだが、由里と椿は不満そうな顔をしている。
 しかし、だからと言ってマリアはそれを言わないという事はなかった。
「貴方達は先に帰って、かえでさんに報告を……!」
「やっぱりぃ〜」
「かえでさんも心配してるはずだし、私も……何も言わずに出てきてしまったから」
 ロベリアは知っているけど、と言いかけて、マリアは口を噤んだ。それは別に、言う必要のない事だろう。
 かすみの誘導に由里と椿が渋々従ったところで、すみません、と言いながら、マリアは漸く加山に向き合った。
「痛くはないですか?」
「あぁ、大丈夫だ……」
 慣れた手付きで傷口に薬を塗りながら、マリアは加山に尋ねた。
 広い背中。いつも見ているはずなのに、こういう時に見ると、こういう風に見ると違って見える。大神と同じように、頼りになる広い背中。さくらやすみれの華奢な体とは違う。カンナの背中はたくましいけれど、それとも違う。
「すまないな、マリアさん……」
「良いんです。私だって、ダグラス・スチュワート社との戦いの時、加山隊長に救われているのですから」
 傷口の治療が一通り終わり、傷口を厚いガーゼで覆って固定しようと、マリアは加山の肩に包帯を当てた。
「でも……あの時、加山隊長は私の事を『無茶をする人だ』と仰いましたけど、加山隊長も随分無理をなさいますね。やせ我慢とも言いますけど」
「あの時無理に無理を重ねた君なら解っているだろう? 多少の事があっても、護り抜きたいものがある事くらい……」
「……護りたいもの、ですか。それは、きっと私も加山隊長も同じなのでしょうね」
 加山はゆっくりと首を上下に動かし、深く息をついた。
「そうだな」
 護りたいものは……
『帝都の人々の笑顔』
 二人は声を重ね、目を見交わした。
「それに俺は……大神や君達、かえでさん、米田中将……みんなも護りたいと思う。だから……」
 マリアがよく見ているあの爽やかな笑顔ではなく、真剣な眼差しで加山は春の夜空を仰いだ。
 月が傾きかけていた。
「だから、多少無理をしてでも……ですか?」
 マリアは、続きを促した。加山は視線を落とす。
「俺は、花組を影から支える黒子だ。大神とは違うが、俺は俺で花組のみんなを……」
 あの時と同じように、加山はここで言葉を止めた。今度はベルに塞き止められたのではなく、自らの意志で。
「私もしょっちゅう無茶をする口ですからなんとも言えませんけど……私達は、決して一人で戦っているわけでも、花組だけで戦っているわけでもないんですよね。月組を――他の方と面識はありませんけど――加山隊長一人が支えているわけではないように。私は……私達は、いつでも貴方達の手によって護られています。私達は、貴方達がいなくては戦えませんから。諜報部隊として、確かに月組は重要です。でもそれ以上に、どんなに苦しい戦いでも生きて帰ろうと思えるのは、貴方達がいつでも笑顔で迎えてくれるからです……」
 マリアが仰いだ月は、更に濃い光を落としていた。
 マリアは固く包帯の端を結ぶと、額の汗を拭った。髪の下に残る傷跡が、手の甲に触れる。ただ治療をしていただけとはいえ、これだけ傷口の範囲が広いと労力は並ではない。包帯の量もなかなかのものだった。
「終わりました。でも、これも応急処置ですから、なるべく早くちゃんとした治療を受けて下さい。あの時、私に仰ったように」
「あぁ……」
 まるで気力のないような声で、加山は答えた。マリアは、半裸の加山の肩に自分の上着をかけた。
「先程の話の続きですが……私は、何度も大神隊長やカンナ達の手に、背中に護られてきました。けれど、月組や風組や薔薇組の皆さんの手にも、見えないところで護られていたのだと知っています」
 マリアは自分の手の平を見詰めた。加山の血が触れて、赤黒く汚れている。
「私は、弱い人間です。そんな私を大神隊長達は支えて下さいました。優しい手で。でも、そうして私を……私達を間近で支えてくれる手が他にもある事も、知っています」
 軽く握り締めた手に、自分とは違う“力”を感じる。いつの間にかいつでも感じるようになっていた、“絆”という名の“力”。
「あの時――ダグラス・スチュワート社の件の時――強くそれを感じました……」
 支えてくれる力を。支えてくれる手を。そして、強く結ばれた“絆”を。決して、眼には見えないけれど。
「私達は結果として加山隊長やみんなを護っているのかも知れませんけど私も、直接貸せる手を持っています。私の手を頼って下さっても構わないんですよ……。私も、出来るだけ力になりますから……。みんなが笑顔でいてくれなくては意味がないんです。そのためにも、力になりたいと……」
 マリアの真摯な瞳からふと目を反らし、加山はくすりと笑みを浮かべた。
「どうかしましたか……?」
「いや……」
 囁きながらまたマリアと視線を合わせ、
「今日のマリアさんは随分多弁だな、と思って……」
 マリアははっとして手で口元を覆った。
「……パーティで随分酔ったみたいだな……」
「いえ、私は……」
 言いかけて、マリアは口を噤む。その笑顔に、小さく頷き、微笑んで。
「さて、そろそろ戻らなくてはな……。これ以上一緒にいると、大神に本気で殺される」
「……大神隊長は、口実を見つけて加山隊長を殺そうとしているのですか?」
 マリアが笑うと、加山は肩を竦めた。
「あぁ、いや、もう大丈夫……。薬の効きが良い。もう殆ど痛みも感じないし……」
 加山は、手をかそうとするマリアを制止して、一人で立ち上がった。
「これから、どこへ……?」
「月組の集合地へ行って、それから陸軍病院に行くよ。ここからは、もう一人で良い。いくらマリアさんでも、隠密部隊のアジトを知られるわけにはいかないからな……」
 信用していないわけではないが、と付け加える。
「解っています」
 そう答え、二人は背を向けて歩き始めた。
「あぁ、ちょっと待って……」
 振り向き、加山はマリアを側へ呼ぶ。そして、握り締めた手の平を開いた。かえでから預かった薬を握った手。
「これを、かえでさんに返しておいてくれないか?」
 マリアはゆっくりと加山の手に手を重ね……押し返した。出来ません、ときっぱりと言い添えて。
「え……?」
「これは、御自分の手からかえでさんに返すべきではありませんか?」
 月のように冴える瞳に促され、加山は再び手を握り締めた。
「……そうだな」
 答えた加山にマリアは満足そうに微笑む。
 何も言わず、ほんの一瞬、二人は一瞬互いの手を重ねて踵を返した。言葉など、要らなかった。



 既に深夜と呼べる時間。マリアは静かに帝劇の戸を閉めた。もう、みんな眠っているだろうか。先に戻ったかすみ達がかえでに報告をしてくれているはずだから、注意を受ける事はないと思うのだが。
 それにしても、疲れた。あれだけの戦闘の後パーティをして、それから……。。血まみれの手を洗わなくては。けれど、この手の中に確かに息づくものがある。
 疲れで力が抜けそうになる眼を袖口でこすって、マリアは首を振った。
 その時、微かな足音が聞こえた。暗くて自分の足元すらぼやける中で、誰かの影が見えた。大小様々の三体の影。
「…………お疲れ様」
 擦れ違いざまに、細い手がそっとマリアの肩に触れた。
「――清……」
「頑張ったわねぇ」
 大きな手が、髪を優しく撫でて消える。
「太……」
「ゆっくりお休み下さい……」
 小さな手が、腕に触れて去ってゆく。
「き、菊――」
 いつも、いつも、いつも、ずっと支えてくれていた手。その手の温もり。張り詰めていた緊張の糸がふと切れて、マリアは扉にもたれた。
「……有り難ぅ……ございます……」
「あ、マリアさぁん!」
 声を細めて、向こうから誰かが呼んだ。駆けて来る影三つ。風組の三人に囲まれたのが解った。
「大丈夫ですか?」
 と、かすみの声。いつものように、優しい声。
「朝帰りしたらどうしようかと思いました」
「馬鹿……」
 由里の声に思わず笑みを漏らす。
「加山さん、どうですか?」
「ええ、大丈夫みたい。ちゃんと病院にも行くと言っていたし……」
 椿の安堵の息に、マリアも息をつく。
 いつも、いつも、いつも、ずっと支えてくれていた声。その声の温もり。


「風組に月組に薔薇組に……その秘めたる力は、マリアが一番よく解ってるみてぇだな」
「そうですね。口ではなんと言っていようと、その裏に、いつも帝都を思う心が生きている事――誰よりも早く、気付いたみたいですね」
「さぁ、後は君の仕事だ、かえで君……」
「……はい……」
 階段の上の影が動き、ゆっくりとマリアに近付いてきた。それに気付き、風組の三人はめいめい労いの言葉や別れの言葉をかけて暗闇の中へ消えていった。
「かえでさん……」
 顔を確認するより早く、マリアはその名を口にした。
「加山君を、有り難う……」
「いえ」
「疲れたでしょう……?」
 マリアは、かえでの肩に額を埋める。
「いえ……」
「嘘つき」
 かえでの指が、すくうようにマリアの髪を撫でた。




「お帰りなさい……」

fin
銀幕版から「4」にかけて。
「4」で突っ込みたかったところを補完(笑)

いつも近くにみんながいる、その幸せを、失ってきた者だからこそ感じられる。
悲しみと苦しみを乗り越えて、マリアが手に入れたもの。
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