生きている。今、この時間を。
 過去を礎に、新しい未来へと――


   幸いの祈り



 食卓にはお節料理にお雑煮にお屠蘇。
 玄関には門松に注連縄。
 食事の後は歌留多や双六で遊び、外に出て凧上げ、羽根付き、独楽回し。
 勿論、みんなで振袖を着て神社に初詣に行ってお参りし、お神籤を引いたり御守りを買ったり。
 支配人はお年玉をくれるし、天気によっては初日の出を見たりもする。
 毎年正月はこんな風で、私はすっかり日本の正月に馴染んでいた。


 当たり前の事は当たり前に受け入れてゆけば良い。それなのに、ふと足を止めてしまうと、それは何故かとても不自然な事のように思えた。
 年が明けるというのに、樅の木の一本も見当たらない。それが、当たり前の事になっているのが、不思議でならなかった。
 夜になると、海外から帰国した元風組、元薔薇組の面々、それに米田元支配人も加わって、楽屋で宴会が催された。すみれは、新年は家族と過ごすようで、明日顔を出すと言っていた。
 宴会も毎年の事。未成年のアイリスやレニにお酒を飲ませないように注意しながら(最近、眼を離すとこっそり飲もうとするんだから)、酒豪のカンナとお酒を酌み交わし、米田さんと昔語りをする。
 楽しくて大好きな時間だけれど、やはり、ふと頭の中が冷めてゆく感覚が、私を現実に引き戻す。おかしな事ね、もう何年も前からこんな風なのに、今更何が不思議なのかしら。この国の正月に樅の木なんかあるわけもないし、第一、樅の木を飾って正月を祝った事なんか殆どないというのに。門松やお節料理で祝う方が、多いくらいじゃないかと思うくらい。いや、思うだけではなく、実際に多いに違いない。
 すっかりみんなが出来上がり、アイリスやレニだけでなく、さくらや織姫まで部屋の隅で寝転がっている。カンナは未だ上機嫌で斧彦さんとお酒を飲みながら盛り上がり、菊之丞さんを膝で寝かせながら、かえでさんは未だ飲んでいる。私は赤くなった頬を冷まそうと、楽屋を出た。

 風に当たろうと中庭に出ると、噴水の縁に腰を掛けて、白い犬と戯れる一人の男性の姿があった。
「……先客が」
「あら、マリアさん。貴方も酔い覚まし?」
「えぇ……」
 そう言って、フントに向こうに行きなさいと合図をした琴音さんは、“酔い覚まし”といいながらも片手に赤ワインの入ったグラスを持っていた。
「何処が酔い覚ましですか」
「こんなの、飲んでる内に入らないわ」
 そう言いながら私にグラスを差し出してくる。
「……頂きます」
「ほら、飲むんじゃない」
 琴音さんは意地悪くくすりと笑った。
「良いじゃないですか」
「えぇ、勿論」
「美味しいワイン……」
「でしょう?」
 くすくす笑いながら、琴音さんは隣りに座るように私を促した。
「海外は、どうですか? 今は、どちらの国に?」
「亜米利加よ」
 薔薇組は、先の大戦の後、日本を出た。愛と美を廻る旅と称して、世界中を回る予定らしい。
 しかし、亜米利加、とは。確か、日本を出て最初に行った国も亜米利加だったと思うのだけれど。
「ずっと、亜米利加に?」
「そうなの。亜米利加も広いでしょ、あちこち見てたら時間が掛かっちゃって。もう一度行きたいところもあるし」
 困っちゃうわ、と笑う彼が、少し痩せているように見えた。菊之丞さんは少し体付きががっちりしていて、細い足にも筋肉がついていたし、太田軍曹の耳の後ろから首の付け根に掛けて、刀で斬られたような切り傷を見つけた。
 愛と美を廻る旅、か……。
 そう、彼等が最も愛するもの。愛と、美と、平和と……。
「また、亜米利加に戻られるのですか?」
「そうね。早く……別のところに行ければ良いんだけど」
 私が既に察している事を、彼は理解しているのだろう。ふと、視線を落として曖昧に微笑んだ。
「貴方は?」
 しかし、その顔を直ぐに上げ、私の顔を覗き込みながら、彼は囁くように問い掛けた。
「え?」
「貴方は、何を悩んでいるの?」
「別に、私は……」
「何も?」
 総てを見透かす、彼の瞳。そう、彼のこの瞳に見詰められると、絶対に敵わないのだと、私はもうとっくに知っている。優しく穏やかに月の光を受けて輝く彼の瞳は、まるで鏡のように真実しか映さないのだから。
「不思議……なんですね」
「何が?」
「どうして、今更こんな事を考えているのかは解らないんですけどね、お正月にお屠蘇を飲んで、お節料理を食べて神社に初詣に行って……それが、当たり前になっているのが」
「あぁ……」
 琴音さんは、小さく頷いた。
「露西亜では、どんな風に新年を祝っていたの?」
「露西亜では、樅の木を飾るんです。クリスマスのお祝いをしなくて、年が明けてからにクリスマスをするんですよ。新年は新年でお祝いをしますけど、その後にクリスマスのような行事が来るんです。ツリーの下にプレゼントを並べて、一月七日にプレゼントを交換するんです。プレゼントを貰う人は、くれる人から何か課題を与えられて……歌を歌う、とかなんですけど。それが出来たら、プレゼントをもらえるんです。それから、夕方くらいまで大騒ぎして酔い潰れて眠って……賑やかに過ごすんですよ」
「へぇ。じゃぁ、日本のお正月は大人しく感じるんじゃない?」
 琴音さんに言われて、私は頷きもせず、ワインを煽った。空になったグラスを、噴水の縁に置き、空を仰ぐ。
「……なんて言っても、私は、殆ど露西亜で新年のお祝いなんかした事ないんです」
「え?」
「両親と暮らしていた頃は、貧しい生活でしたからとても正月だからといってお祝いなんか出来ませんでしたし、勿論プレゼントなんか貰った事もありませんでした。革命軍にいた頃は、大騒ぎでしたけどね。みんなお祝い好きだったから。朝まで夢を語り合って、黎明を拝んで……」
 思い出しながら微笑んで、けれど、不意に自分の語った事が余り人に聞かせるべき事ではなかったと思い、口を噤んだ。
「良いのよ、話してくれて。貴方の話、聞きたい」
「……えぇ。露西亜では辛い事が多くて……勿論、良い事も沢山ありましたけど……総てを失って亜米利加へ渡って。亜米利加では絶望の淵に立っていましたから、お祝いなんて何一つしませんでしたし、日本で新年を迎えて晴れ着を着せてもらった時は、本当に嬉しかったんです」
「そうね。貴方の晴れ着姿、本当によく似合うもの」
 琴音さんが微笑んで言ってくれたその言葉が、素直に嬉しかった。
「それから、こうしてお祝いをするのが当たり前になったんですよね。樅の木はクリスマスが終わったら片付けてしまって、注連縄や門松を飾ったり。でも、当たり前なのに、それがどうして当たり前なのか……何を悩んでいるのか、自分でもよく解らないんですけど」
「成程ねぇ。ま、そういうこと考える時期もあるわよね」
「そう……でしょうか?」
「そうよ。そういうものよ。今じゃ信じられないでしょうけど、私も昔はあのカーキ色の軍服を着て、髪も短くして毎日行進してたのよ。みんなに憧れられる“陸軍の生きた鑑”なんていわれてね」
 人差し指を立ててにっこりと笑うチャーミングな男性は、私が出会った頃からこんな風だった。彼が本物の陸軍の軍服を着ているところなど、とても想像出来ない。けれど、彼が“大尉”という地位に、この格好で上り詰めたとはとても思えないし、此処に至るまで、彼も色々とあったのだろう。
「過去の自分と、全く違う自分が此処にいて、戸惑う事もあるのかも知れないわね。私は、これが当たり前だから別になんとも思わないけど、私達薔薇組は、そういう不思議を通り過ぎて此処にいるだけだから」
「私のこれは……間違っている、と?」
「そうじゃないわ。貴方はただ、昔を懐かしんでいるだけ。そういう時期もまた、あるものよ。だって、これが間違っているから、露西亜に帰ろうなんて思わないでしょう?」
「そうですね」
 その通り。私は、これが間違っているとは、少なくとも思っていない。ただ、あの頃は苦しくて、祝いどころか一日を生き抜く事すら辛かったのに、その辛さが此処の生活では欠片も見えない事が、不思議なのだ。
「過去を懐かしむ事が出来るのは、現在に馴染んでいるからよ。今を生きることが精一杯だったら、過去の事なんか考えられないもの」
「えぇ……あの頃の自分に、時々言いたくなるんです。“頑張って生きて”って」
「ふふ。そうね。頑張って生きれば、こんな幸せがあるんですものね」
「……あの時……死ななくて良かった。何度も死にたいと思ったわ。紐育にいた頃は、それこそ毎日そんな事を思って……。でも、今、こうして生きて、幸せだなと思えるから」
 心から、そう思う。これまでに何度、死を望んだだろう。誰かがこの眉間を撃ち抜いてくれる事を、あの街で何度望んだだろう。ベッドに身を沈めた時、二度と目覚めなければ良いと、何度望んだだろう。けれど、今、此処に生きている事をこんなにも喜んでいる。過去の私を、誰も殺さずにいてくれたことに、感謝している。
 生きていたいと、望んでいるのだ。この国で、過去に三度の大戦を勝ち抜き、生き抜いた事もまた、喜びなのだ。
 琴音さんは徐ろに立ち上がると、前触れもなく私の左の前髪をゆっくりと掻き揚げ、左目を晒した。空気がひやりと辺り、頬をなぞる指がくすぐったくて、私は微かに左目を細めた。
「琴音さん?」
「綺麗な眼ねぇ……」
「これは、私のものじゃないんです」
「あら……じゃぁ、誰のもの?」
「“あの人”のもの。あの人を失った日に、自分で封じてしまったんです。最初は眼帯をつけて、それから、髪で隠れるようにして。私は“あの人”から光を奪ったから、この眼は封じてしまおうと決めたんです。私だけ、光ある場所を生きるなんて、自分で許せなくて」
 そして、死に向かうために彼との約束の街へと渡った。紐育は、私にとっては死のために用意された街だった。
 けれど、一人の女性がそこから私を連れ出してくれた。私に、何もかも与えてくれた。住むところ、安心して眠れる場所、温かな食事、仲間、光差す舞台、それに、命。
 正月の楽しみを教えてくれた。日の出の美しさ、綺麗な晴れ着、美味しい料理とお酒。みんなで賑やかにお祝いをする楽しさ。全部、彼女がくれた。
 その彼女も、今はこの世にいない。
「その人は、貴方がこんな風に自分の一部を封じて生きる事を望んではいないと思うんだけど?」
「私も、そう思います。でも、私はどうしてもこうして生きてゆかないといけないんです。この左目は、私にとって、彼と共に生きた証だから。この瞳は、彼だけのものなんです、一生……」
 私は琴音さんの手を振り払い、立ち上がった。
「私にもくれないわけね。良いわ、それならそれで。貴方はそれを貫いて生きれば良い。貴方は、一人で生きてきたわけじゃないんだものね。沢山の人の命と共に生きているんだわ」
 亡き父と母がくれた命。
 仲間達が――隊長が救ってくれた命。
 ボードヴィルが守ってくれた命。
 あやめさんが、慈しんでくれた命。
 そして、私が命を奪った総ての人達の命を背負って、私は生きている。
「貴方は、簡単に死んではいけないの」
「はい」
 沢山の命を踏み台にして生きてきた私が、死に逃げることはもう二度とあってはならない。諦めてもいけない。何度も死線を越えてきたけれど、これからどれだけ苦しい戦いが起ころうとも、決して死んではいけない。
「簡単に生きてもいけないの」
「……」
 え?
「幸せに、生きないといけないの」
「…………はい」
「そのために、時々立ち止まって、今の生活が不思議だなぁ、と、思わないといけないのね。どうして幸せに生きられるのか、考えなきゃ。そして、これからも幸せに生きるために、どうしないといけないのか、考えないといけないの。当たり前の事を、当たり前だと思ってはいけないわ。こうして樅の木のないお正月を祝っているのは、樅の木の下でプレゼントの交換すら出来なかった貴方のご両親とのささやかな新年のお祝いがあったからなのよ」
 子供に言い聞かせるようにゆっくりと囁きながら、彼の手は、ずっと私の髪を撫でていた。
 あぁ……。例えば兄がいたなら、こんな風に私を愛してくれるのかも知れない。彼が私に、私達花組にくれる無条件の愛情に甘えて、私達は幸せに生きていられる。彼は辛い思いをしながら生きているに違いないのに。
 私は立ち上がり、彼の右手を両手で包み込んだ。
「貴方の幸せを、祈り続けて良いですか?」
「貴方が、これからずっと幸せでいられるならね」
「貴方が幸せでなければ、幸せでいられないんです」
「私は、ずっと貴方の幸せを祈るわ。そうすれば、私はとても幸せだから」
 彼も私の手を包み込み、指に唇を寄せた。
「精一杯、幸せになりなさい」
 優しい人達の隣りで、私は、幸せでいられる。
 過去を礎に、新しい未来へ――


 
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