本当の気持ち、何処にありますか?
 貫きたい想い、大切な心、曲げずにいられますか?
 どんな誘惑にも負ける事無く。


   唇からナイフ


 一九二九年、大晦日。
 日本の帝都・東京にある大帝国劇場には、何故か帝国華撃団、巴里華撃団、紐育華撃団の面々が集まっていた。巴里華撃団が帝都に遊びに行くと言ったのとほぼ同じ時に紐育華撃団のメンバーも帝都に来たいと言ったのだ。巴里からの連絡を受けたのは副司令の藤枝かえでだった。一方、紐育華撃団からの連絡は、司令の大神一郎が受けた。ふたりはほぼ同時に双方からの申し出を受け入れた。それ自体は偶然の巡り会わせとしか言えない。その結果、三華撃団が一同に介するという非常に珍しい状況が生まれたのだ。
「よろしくお願いします!」
 帝国華撃団の面々八名に司令と副司令、巴里華撃団からは隊員五名、紐育華撃団からは隊員五名に隊長の大河新次郎、司令官のラチェット・アルタイルの七名が集まり、総勢二十二名の大所帯になった。頭を悩ませたのは、帝国華撃団花組隊長のマリア・タチバナである。全員が大帝国劇場に泊まるのだ。しかも、今回は退団して実家に帰った神崎すみれも泊まる事になっている。なるべく騒ぎを起こしたくない。なるべく揉め事も起こしたくない。そうなると、どういう部屋割が妥当か。考えに考えたが、その内、どんな組み合わせにしたところでトラブルが起きる時は起きるものだと割り切った。
「部屋割は私が独断と偏見で決めましたが、異論は一切聞きませんからそのつもりで!」
 午後一時、サロンに集まった二十一名を前に、マリアは声を張り上げた。十二名分の荷物が並び、サロンもかなり狭く感じる。
「帝国華撃団のメンバーは、同室になったメンバーを各自部屋に案内して、必要があれば劇場内の案内をしてちょうだい。大人数だから、みんな自分勝手な事しないように!」
 隊員の中では最年長に当たる事もあり、マリアは自分がしっかりしなくてはと、必死だった。
「一回しか言わないからちゃんと覚えてちょうだいね。まず、かえでさんの部屋には、ラチェット」
「はい」
 ラチェットは金色の髪を靡かせて立ち上がると、かえでと共にサロンを後にした。
「さくらの部屋には、エリカ」
 帝撃一そそっかしい真宮寺さくらと、同じく巴里撃一のエリカ・フォンティーヌ。不安要素はあるが、二人は喧嘩や揉め事とは無縁であろう。
「すみれの部屋には、ダイアナ。アイリスの部屋には、コクリコとリカリッタ」
 紙を片手に、淡々とマリアは言い進める。気の強いすみれだが、控え目なダイアナ・カプリスとは上手くやれるだろうし、アイリスの部屋は可愛らしいから、コクリコやリカリッタ・アリエスのような年少者には楽しいだろう。次々にメンバーが出て行って、少し広さを感じ、圧迫感もなくなってきた。
「紅蘭の部屋に花火。カンナの部屋にジェミニ。織姫の部屋にグリシーヌ」
 発明家である李紅蘭の部屋には未完成の発明品がごろごろしている。下手に触って爆発でもしたら事だ。好奇心の強い者は避けると、大人しい北大路花火が犠牲者となった。面倒見の良い桐島カンナはやんちゃなジェミニ・サンライズを任せても大丈夫だろうし、ソレッタ・織姫とグリシーヌ・ブルーメールは欧州の貴族の娘として何かと気が合う。一週間程なら上手くやるだろう。それ以上となると不安だが。
「レニの部屋に昴。で、私の部屋に後の二人。大河隊長は、大神司令の部屋に」
 欧州星組時代からの知り合いのレニ・ミルヒシュトラーセと九条昴は心配いらない。後は、殆ど消去法だ。認めないとは言ったが、実際、異論はないようで、全員が大人しく各自の部屋に向かった。

「流石の采配だな」
 マリアの部屋で荷物の整理をしながら、サジータ・ワインバーグが微笑んだ。
「確かに……けど、あたしは巴里華撃団の副隊長なんだから、他の隊員を見張れる方が良いだろ。帝撃隊長のあんたと同室ってのはどうなんだい?」
「見張る必要はないわ。みんなの滞在中、楽しく仲良くやってくれたらそれで充分よ。そう考えてたら、自然といつも見張りに回る年長組が集まったって感じね」
 マリア、ロベリア、サジータは、各組の最年長である。マリアの唯一の誤算は、この三人は全員長身で、しかも日本の文化に不慣れであること。部屋が狭い上、誰も床で寝る事が出来ないので、寝台を後二台用意しなくてはならないのだ。
「……一台……で良いかしら。三人並んで寝たら。カンナに手伝ってもらおう……」
 もしくはソファを用意して、交代でベッドを使うか。マリアは、自分の部屋を見回し、うんうんと頷いた。
「ロベリアは、帝劇内の案内は不要よね?」
「まぁな」
「じゃぁ、サジータを案内してちょうだい」
「はぁ?」
 あからさまに不満そうな声を上げたロベリアを無視し、マリアはこれから始まる集団生活の事を考えて気合いを入れ直した。面倒事は増えるだろうが、マリアは自分の仕切好きを自覚している。わくわくしているのも事実だ。
 午後七時には、それまで帝劇内を探検していたり帝都を散策していた面々も、自然と食堂に集まってきた。
 マリア、カンナ、かえで、大神が中心となり、年越蕎麦と天麩羅を用意した。帝国華撃団の面々にとっては毎年恒例だが、巴里華撃団と紐育華撃団のメンバーにはあまり馴染みがない。
「このフリット、もしかして“テンプラ”ですか?」
 ダイアナが興味津々といった様子でテーブルを眺めた。
「外国人は、やっぱり天麩羅と寿司に興味を持つんだね」
「レニ、自分が何人<ナニジン>のつもりか聞かせてくれないか?」
「しかも、漢字で……」
 すっかり日本に慣れ切っているレニの隣りで、昴とラチェットは肩を竦めた。
「ジャパニーズ・ヌードル? リカ、早く食べたい!」
「「ボクも!」」
 すでによだれをあふれさせているリカリッタを挟んで、ジェミニとコクリコは声を揃えた。
「細く長く暮らせるようにという意味合いがあるんですよ」
「その通りよ。他にも、蕎麦が切れやすいことから、一年間の苦労を切り捨て翌年に持ち越さないようにという意味もあるのよ」
 日本に馴染みのない紐育華撃団や巴里華撃団に説明する新次郎の頭にぽんと手を乗せ、マリアは説明を補足する。
「マリア、うちの甥っ子はそんなに子供っぽいかな?」
 子供の頭を撫でるようなマリアの仕種に、大神は苦笑した。指摘されたマリアが手を離したのは勿論、まんざらでもない様子で褒められた事に頬を緩めてマリアを見上げていた新次郎も、ばつが悪そうに俯いた。
「細く長くねぇ……あたしは、太く短くで良いんだけどな。ショートパスタとかでさ」
「元も子も無いこと言わないで下さいよ、ロベリアさん」
 さくらはがっくり肩を落とした。
「あたいは喰えればなんでも良いけどな」
「どっちもどっちだな」
「もう少し、日本人としての慎みを持って欲しいものですわ」
 グリシーヌとすみれは、呆れたように呟いた。
「それより、早く食べようよ!」
 アイリスが全員を席に促した。一番乗りでジェミニが椅子に座り、リカリッタ、コクリコが勢い良く席に着いた。他のメンバーも続々とそれに続き、全員が座ったのを確認してからマリアが座った。
「ほな、かえではん、今日もお願いします」
「そうね。それじゃ、みんな、手を合わせて」
 かえでの声に、帝撃メンバーは両手を合わせた。巴里と紐育のメンバーがそれを真似た。
「いただきます」
『いただきま〜す』
 全員が声を揃えた。
「エリカ、おハシ苦手です〜」
 上手く蕎麦を食べられず、エリカやグリシーヌ、ダイアナ、サジータ等は悪戦苦闘している。早々に箸で蕎麦を摘むことを諦めたジェミニ、リカリッタ、コクリコの三人は、箸を握り締め、丼に口をつけてそのまま掻き込んだ。
「うまい!」
 リカリッタは、瞳をきらきらさせた。
「この海老も美味しいですね〜」
「掻き揚げも、とっても美味しいです。私、掻き揚げを上手に揚げられないんですけど……今度、教えて下さい」
「えぇ、勿論よ、花火。帰るまでに一緒に作りましょうか」
 嬉しそうに海老天を頬張る織姫の隣りで、花火が掻き揚げに感動していた。マリアは、にっこりと微笑みながら、白身魚の天ぷらを摘んだ。
「あー、これ、難しいな、ホントに!」
 サジータは苛々していた。いつの間にか、帝国華撃団、花火、新次郎、昴、反則技を使った三人と、その他の箸を使い慣れていないメンバーの丼の残量に大きな差が出てきた。
「天麩羅、食いっ逸れんなよ?」
 蕎麦に気をとられていると、大皿に盛られた天麩羅がどんどん減ってゆく。
「この海老は頂いた」
 ロベリアが海老に箸を突き立てた。しかし、マリアがその隣りからロベリアの右手を叩いた。
「ロベリア、お行儀が悪い! それは刺し箸といって、マナー違反よ」
「だったら、あの子供にも言えよ」
 マリアにうんざりした様子で、ロベリアがジェミニ、コクリコ、リカリッタを示した。
「貴方は巴里の副隊長でしょう?」
「関係あんのかい、それ?」
「はは……ロベリアも、マリアには敵わないみたいだな」
 むくれるロベリアの皿に、大神はさりげなく海老の天麩羅を乗せた。
「……どうしたの、グリシーヌ?」
「花火…………蕎麦が……伸びる」
 和やかな食事が続いた。



 食事が終わると、極自然な流れで宴会が始まった。世界各国の酒が振る舞われ、各華撃団の料理好きがこぞってツマミを作った。マリアやラチェットが中心になって、未成年のメンバーの飲酒を止めていたが、好奇心旺盛なジェミニやアイリス達は、あの手この手で酒に手を出そうとした。
 食堂は大騒ぎで実に賑やかだったが、日付が変わり、年が明ける頃には、部屋に戻ったり食堂の隅で寝転がったりして、殆どの者が夢の中だった。
「ふぁ〜、明けましておめでとうございまふ、マリアひゃん……」
 床に寝転がっているカンナに布団をかけるマリアに、新年の挨拶をしながら、新次郎は大きな欠伸を一つこぼした。
「おめでとうございます。眠たそうですね」
 そっと膝をついたまま身体の向きを変え、マリアは床に指をついた。
「あ……あはは、すみません。眠いわけでは……」
「部屋に戻って休んで頂いて結構ですよ。長旅でお疲れでしょうし」
「そんな……あ、一郎叔父は?」
 新次郎はきょろきょろと辺りを見回した。さっきまでいたはずの大神の姿が無い。
「リカとコクリコを部屋に運んでもらってるの。ジェミニは私が運んだんだけど……」
「す、すみません! 本来なら、僕が――」
「ふふ、リカ達はともかく、それ以上の子達は年頃だから、男性にお世話してもらうのはちょっと……ね。特に大河隊長には」
 それは、確かにそうかも知れない。新次郎は申し訳なさそうに俯いた。マリアは膝立ちになって新次郎の顔を覗き込み、そっと手を握った。
「日が昇ったら、みんなで初詣に行って、お節を食べましょう。大河隊長には手伝ってもらう事が沢山あるから、それまで部屋で休んで下さい」
「あ……あの……」
 新次郎は、自分の頬がみるみる熱くなるのを感じた。きっと、今、顔中真っ赤だろう。
「ふ〜ん、新次郎、叔父を差し置いてマリアに手を出そうなんて、随分良い度胸だねぇ?」
 突然の声に驚いて振り返ると、食堂の入口に大神が立っていた。
「い、一郎叔父! いえ、これは別にっ……」
「ははっ、悪い悪い。冗談だ」
「……人が悪いですよ、一郎叔父」
「有り難うございます、大神司令」
 マリアはすっと立ち上がり、大神に会釈した。
「さてと。新次郎、俺達も部屋に戻ろう」
 テーブルに突っ伏して眠るサジータの肩に毛布を掛けながら、大神は新次郎に声を掛けた。
「マリアも、もう部屋で休んでくれ。あとは明日片付ければ良いから」
「ですが……」
「君一人がやらなきゃいけないことじゃないよ。もう少し飲みたいっていうなら止めないけど」
 大神が微笑むと、マリアは小さく頷いた。
「お休みなさい」
 大神は新次郎と共に部屋に引き上げた。
 と、入れ違いに、マリアの肩に誰かが手を掛け、引き寄せる。淡い香水の香りがふわりと漂う。間近に顔を覗き込まれ、マリアは眉を寄せた。
「ロベリア……」
「相変わらず仲の良い事で。来年……あぁ、もう今年か……結婚するんだろ?」
 気配を消す事に誰より長けたロベリアだ。香りはしたが何処にもいなかったので、残り香が漂っているだけで、部屋に戻ったとばかり思っていた。だが、何処かに潜んで今し方のやり取りを聞いていたのだろう。
「多分ね」
「羨ましい」
「…………」
 マリアは黙り込んだ。みんなの前でなら何事も無いようににこやかでいられるが、ふたり切りになるとどうにも警戒してしまう。それを楽しむように、ロベリアはにたりと笑う。
「そうぴりぴりすんなよ、あたしが巴里華撃団の“副隊長”だからって」
 ロベリアの、切れ長の眼がマリアを射抜く。
「何が見張らなくて良いだ。解ってんだよ、マリア。あんたが一番見張っときたいのはあたしだろ? だから、自分の部屋にしたんだ。だけどふたりじゃ気まずいから年下で絶対文句を言わないサジータを巻き込んでな。違うかい?」
 ロベリアはにやりと口元に不適な笑みを浮かべ、至近距離でマリアを睨む。マリアは唇を真一文字に結び、懸命に聞き流そうとしていた。
「勝負しないか、マリア?」
 何の前触れも無く、ロベリアはマリアから離れてそう言った。
「勝負?」
 不意をつかれ、マリアは思わず聞き返す。
「あぁ、こいつでさ」
 窓に寄り掛かり、ロベリアが差し出したのは、ウィスキーの瓶だった。
「……飲み比べって事?」
「御名答。あたしが勝ったら、今晩一晩、隊長をあたしに貸しな」
 にたりと笑い、ロベリアは瓶を振る。精巧な細工の彫り込まれた瓶は、窓から差し込む月の光りを受けて妖しく煌めく。
「断るわ」
「それは、不戦敗って事で良いのかい?」
「良いわけないでしょ? 大神司令に―― 一郎さんに何かしたら、貴方を絶対に許さない!」
 今度は、マリアの翡翠色の瞳がロベリアを射抜く番だった。正真正銘の“本気”の怒り。指先からびりびりと響く震動と張り詰めた空気が、ロベリアには最高のご馳走だった。
「はっ、なら、新次郎なら良いのかい? あの坊やもなかなか美味しそうだ」
「――聞き捨てならないね」
 がたん、と音を立てて椅子が倒れた。音に、声に視線を向けると、先程まで机に突っ伏していたサジータが、ふらりと立ち上がっていた。
「肌に刺すような空気があんまり懐かしいんで目が覚めちまったよ。そうしたら、まぁ、随分面白い事言ってんじゃないか。うちの……紐育華撃団の隊長に手を出そうって言うなら、あたしが相手になるよ」
 サジータの低く唸るような声が空気を揺らす。しかし、ロベリアはふふんと鼻で笑った。
「何が懐かしい、だ。あんたの纏う空気なんざ、痛くも痒くもないね。精々、暴走族かなんかでちょっとやんちゃしたくらいだろ? お子様はとっとと寝てな」
「冗談じゃない、あんたに好き勝手されるわけにはいかないね」
 サジータは近くに置いてあった水差しから直接水を喉に流し込み、ロベリアに歩み寄る。
「なら、あんたに勝ったら新次郎をあたしの好きにさせてもらうよ?」
 真正面に立ったサジータの顎を指でくいっと持ち上げる。サジータが答えない事を、ロベリアは「YES」のサインととらえた。
「いい加減にしなさい、貴方達!」
「マリアには関係ない」
 あろう事か、反抗したのはサジータだった。彼女まで制御不能になったら、もう手が付けられない。
「…………解ったわ。でも、命にかかわると私が判断したら、強制的に止めるからそのつもりで。そんな事、それこそ一郎さんや大河隊長を苦しめる事になる」
 ロベリアとサジータは、同時に頷いた。
「それから――私も、サジータにつくわ」
 マリアの静かな宣言に、二人は目を見開いた。直後、ロベリアは満足そうに笑みを浮かべる。
「上等」
 三つのグラスにウィスキーを注ぎ、三人に行き渡ると、ロベリアはグラスを掲げた。マリアとサジータもそれに倣う。かちん、とわざと音を立ててグラスをぶつけ合い、それがスタートの合図となった。
 一杯目を飲み干すと、三人は同時にグラスを差し出す。ロベリアが三つのグラスに再び酒を注ぎ、飲み干す。ただ、それを繰り返す。
 マリアは、酒に強い。それには自信があった。十年前、紐育に住んでいた頃に男と飲み比べをして勝利した事もある。それに、今日は最初の乾杯以外はみんなの世話をしていて殆ど飲んでいないのだ。負ける事はない。逆に、スタートの時点で酔っていたサジータはロベリアに勝てないだろう。自分が、勝たなくては。マリアは三杯目のウィスキーを煽る。
 全員が三杯飲んだところで瓶は空になり、ロベリアは新品のブランデーを用意した。慣れた手つきで瓶を開けながら、ロベリアはちらりとサジータを見遣る。
「あんた、新次郎の恋人かい?」
「な……いきなり何をっ」
「いや、あんまり必死だからさ」
「……星組の中じゃ、あたしが一番年上なんだ。隊長だろうとなんだろうと、年下を守ってやるのは当たり前だろ?」
 不機嫌そうに言い捨てながら、差し出されたブランデーに口を付けるサジータを、ロベリアは再び鼻で笑う。
「そういうところが子供だな」
「なんだと?」
「単に、理由をつけて独り占めしたいだけなんだろ? ホントのコト言ってみな、『あたしは新次郎が』――」
「黙れ!」
 酒のためか、顔を真っ赤にしたサジータがロベリアに飛び付かん勢いで立ち上がる。怒りの沸点が相当下がっているらしく、サジータらしくない逆上の仕方だった。
「落ち着きなさい、サジータ!」
 マリアがサジータの手を掴む。すると、サジータの身体はぐらりと傾いた。
「サジータ!」
「うっ……」
 倒れかけたサジータを抱き止め、マリアはサジータの頭を自分の肩にもたれかけさせる。チョコレート色の肌が黒く血の気のない色に変わり、唇も青ざめている。
「サジータ、水を飲みなさい。これ以上の継続は許可出来ないわ」
「駄目だ! あたしは……新次郎を……」
「彼を大切に思うなら、心配をかけるような事はしないの!」
 マリアはそっとサジータを床に寝かせ、テーブルの上の水差し取って戻った。
「年齢で言うなら私が一番上だから、年下の貴方達を守るのは私の役目ね。よく頑張ったから……今はもう、休みなさい」
 ゆっくりと水を飲ませながら、マリアはサジータの頬を撫でる。仲間思いで情熱的で……少し不器用なくらいが愛おしい。
「後は、頼んだよ……」
 サジータが力尽きて眠りに落ちるまで、マリアはずっとサジータを介抱し続けた。その間ロベリアに背中を向けていたマリアは、ロベリアの奇妙な行動に気付かなかった。
「マリアも抜けるかい?」
 マリアのグラスを指先で弄びながら、ロベリアはくすくすと笑う。
「こういう時のために私がいるのよ」
「後悔するなよ」
 マリアの掲げたグラスに軽くグラスを合わせると、ロベリアは酒を一気に飲み干した。
 二杯目を飲もうとグラスを持ち上げた瞬間、マリアは自分の身体の異変に気付いた。身体の芯がかぁっと熱を持ち、頭が重くなる。マリアはグラスを落とさないように注意して置いてから、床に手をついた。倒れそうになる身体を支えながら、熱い息を吐き出す。
「しんどそうだな、マリア?」
 頬を紅潮させるマリアに比べ、平然としているロベリア。マリアは瞳を潤ませながら、歯を喰い縛ってロベリアを睨めつける。
「私の酒に何かしたの?」
 呂律の回らない舌で懸命に言葉を紡ぎながら、飄々としたロベリアに掴み掛かろうと腕を伸ばす。しかし、ロベリアはその手を払い退けた。その衝撃に堪えられず、マリアは床に転がった。
「ロベリア……」
「あたしの勝ちだ、マリア。隊長に心配掛けないためにも、ここでリタイアしときな」
 もたれかけていた背中が壁から離れると、流石のロベリアも少々酔いを感じた。だが、この程度なら問題ない。朝まで楽しんでもお釣りが来る。
 立ち上がり、伸びをすると、しどけない姿で床に横たわるマリアと目が合った。男なら、こんな女の姿を見て感じたりするんだろうな。
「あたしだけ楽しむんじゃ悪いし、隊長に声掛けといてやるよ」
 ひらひらと手を振り、去り行くロベリアを、マリアは為す術も無く見詰めていた。



 食堂の外はやけに冷える。巴里程寒いわけではないとはいえ、身体の芯が凍るような冷え込みに、ロベリアは両腕を摩った。
 ロベリアが階段を上がりかけると、踊り場に人影が揺れる。
「…………隊……長?」
 程なくして、それが大神だと解った。
「ロベリア? まだ起きていたのかい?」
「あぁ……マリアとサジータと飲んでた」
「そっか。みんなが仲良くなってくれて、嬉しいよ。本当に飲んでたとは思わなかったけど……。マリアは食堂?」
「かなり酔っ払って食堂で寝てるから、部屋に連れていってやんなよ」
「マリアが酔うなんて、珍しいな……」
 大所帯をひとりで仕切って疲れたのか、それとも一段落ついて羽目を外してしまったのか。偶にはそれも良いだろう。「有難う」と短く礼を言い、大神はロベリアと擦れ違った。しかし、ロベリアの真横を通り過ぎた瞬間さっと振り返る。
「……これ、ロベリアの……」
「は?」
 二つ上の段で振り返ったロベリアに、大神は思わず微笑んだ。
「良い匂いだね」
「は……あぁ、香水か?」
「だと思うけど。ロベリアに、よく合ってる」
「シャネルのNo.5。こっちに来る前に本店で買ったんだ。ちゃんと、買ったんだぜ?」
 自慢げなロベリアに、大神は吹き出した。
「ふっ、それってわざわざ自慢するような事じゃないだろ?」
「おいおい、あたしを誰だと思ってるんだ? あたしがシャネルに入って何も盗まなかったんだから、褒めて欲しいくらいだね」
 にやりと口元に笑みを形作り、ロベリアは音も無く大神の正面に立った。するりとネクタイに指を絡めると、大神の身体に緊張が走るのが解る。
「意外と……似合うかもよ、隊長にも……」
 ネクタイを引き寄せ、耳元に息を吹き掛けるように囁く。ふっと鼻孔をくすぐる香りに、大神は唇を噛んだ。
「ロベリア……」
「移してやろうか、あたしの香り……」
 覗き込む瞳がきらりと光る。薄暗い夜の大帝国劇場の中、ひやりとした空気に淡い光りを点す瞳は、大神を捕らえて離さない。するすると器用にネクタイを緩めながら、ロベリアは徐々に大神との距離を詰めた。上品な香りに、脳天の痺れるような感覚が走る。
「ロベリア」
 微かに開いた唇が、大神のそれに重なろうという、その刹那。
「ロベリア!」
 大神の両腕がロベリアを引き離した。
「…………どうしたんだい?」
「悪ふざけはよしてくれ」
「悪ふざけ……じゃ、ないって言ったら?」
 思い掛けないロベリアの真摯な眼差しに、大神は一瞬、たじろいだ。しかし、次の瞬間には、強張っていた頬を緩めて、ロベリアに穏やかに微笑んで見せた。
「だとしたら、“ごめんなさい”というしかない。君も知っているはずだ、俺がマリアを大切に思っている事は。だから……“ごめん”」
「ばれやしないさ、ちょっとくらい」
「でも、マリアに顔向け出来ないような事や、マリアが知ったら傷付くような事は、絶対にしたくない。君は俺が信頼を置いて巴里華撃団副隊長に任命し、その信頼にこたえてくれた。だけど、それ以上の事は、ない」
 清々しい程に、大神はきっぱりと言い切った。此処まで言われて、尚大神を口説こうなどという気力は、ロベリアにもなかったらしい。ロベリアはさっと踝を返す。
「その、“大切なマリア”が食堂でへばってるから、何とかしてやんな、隊長」
「あぁ…………ロベリア」
 大神は階段を降りかけた。が、直ぐに振り返り、ロベリアの背中に声をかける。ロベリアは振り返りはしなかった。ただ、その場で足を止めただけだった。
「ロベリア、“ありがとう”」
 しんと穏やかな帝劇の空気が、ロベリアにも纏わり付いている。ロベリアは何も言わず、また階段を昇って行った。
 こんな時に、聞きたくない言葉だ。あんたに振られたこの足で、あたしはあんたの甥っ子を口説きに行く。不様ったらないな。
 後ろ髪を引かれるような感覚に首を振り、ロベリアは目的の部屋に向かった。



 喧騒の去った帝劇。ロベリアの胸中もまた、落ち着いたものだった。これから起こる事――もとい、“起こす事”など、気に止める価値もないとばかりに。
 とんとんとんとドアを三回叩くと、奥から「はーい」とあどけない声が返ってきた。大神の凛々しい声とは違い、丸みのある、可愛らしいとさえ言える声。この声が、ベッドでどんな風に聞こえるのか楽しみだ。
 新次郎が開けると、ドアの音まで可愛らしく聞こえる――というのは、ロベリアの贔屓目による思い込みであろう。酒の力も手伝って、良い具合に気分が昂揚している。妙にわくわくしてドアを開け、思いがけない来訪者に目を瞬かせる新次郎に、ロベリアは手を伸ばした。
「ロベリアさん!?」
「コンバンハ、可愛い隊長さん?」
「へ……? こんばんは、ロベリアさん……」
 律儀に答える新次郎がおかしくて、ロベリアはくつくつと笑いながら新次郎の肩に手を掛けた。と、次の瞬間、ロベリアの身体がぐらりと傾いた。
「わひゃぁっ」
 ロベリアを支えようとしたものの、咄嗟の事で勢いに負けてしまい、部屋の奥に転がり込んだ。ドアが音を立てて閉まった。危うく倒れかけ、体勢を立て直そうとしたが失敗し、結局縺れ合いながら倒れたところがベッドだったというのが出来過ぎた話である。しかも、なんとか体勢を変えようともたもたしている内に倒れてしまったため、新次郎はロベリアを下敷きにしてしまった。まるで自分が押し倒したかのような状況に、新次郎は真っ青になった。
「すすすすすすすみませんっ!!!」
「ふふふ……かぁわいいなぁ」
 赤ら顔で呂律の回らないロベリアを見下ろし、新次郎はきょとんとした。この人は……酔っ払っているのか。かなりきつい酒の匂いがする。
「あの、僕、お水汲んできます」
 うっとりと眼を細めるロベリアにそう告げて、新次郎が身体を起こそうとした、その時、ロベリアの腕が新次郎を捕らえた。首に腕を掛けて引き寄せると、バランスを崩した新次郎はロベリアの胸に顔を埋めた。
「わひゃぁっ。あっ……あわわ……すみませんっ!!!!!」
 慌てて起き上がろうと新次郎が踏ん張ると、またバランスを崩してごろんと転がり、今度は新次郎がロベリアの下敷きになった。
「あっ……」
 微かに新次郎が漏らした声には、妙に甘い響きがあり、ロベリアはぞくりと背筋を走る快感に身を震わせた。“もっと”――この快感は、恐らく誰もが欲するだろう。貪欲なロベリアが求めるのは無理からぬ事である。ロベリアは新次郎の胸にのし掛かり、白くすらりとした首筋に口づけた。
「ロ、ロベリアさん!? ん……あっ……」
 脳天の痺れる甘やかな声。ロベリアが首筋を強く吸うと、更に甘い声が漏れた。ロベリアは身震いした。堪らない、快感。
 坊や顔のくせに、随分やり手じゃないか、声だけであたしを夢中にさせるなんて。
「ふふふ……ねぇ、隊長さん。折角のめでたい日なんだ、イイコトしたくないかい?」
 ロベリアの淡いブルーの瞳が、きらりと妖しく輝いた。彼女は酔っているわけではない。新次郎はごくりと唾を飲む。その様子を、ロベリアは楽しそうに見詰める。
「本当に、可愛い坊やだね」
 言いながら、ロベリアは慣れた手付きで新次郎のシャツの釦を外してゆく。開いた胸は逞しく、華奢な見た目に反してがっしりとしている。
「あの、ロベリアさん……?」
 新次郎の声は上擦って震えていた。それが、ますますロベリアの加虐心に火を付けた。
「大丈夫、痛くしないから……」
 艶のある声で囁かれ、新次郎はかぁっと顔が熱くなるのを感じた。
「だ、駄目です、ロベリアさん……っ」
「何が駄目なんだい?」
 シャツの釦を総て外し切り、肌に手を滑らせる。肌目細かく、滑らかな肌。指先でへそを撫でてやると、身体をむずむずとくねらせた。新次郎の一挙手一投足が、ロベリアには可愛く見えた。実に……美味しそうだ。
 ロベリアの手が、ゆっくりと降りて来る。新次郎はただただ戸惑い、震えていた。白い指がベルトにかかった、その時、新次郎はぐっと歯を食いしばった。
 そして、
「すみませんっ!!」
 ロベリアを力一杯引き離した。突然の事に、今度はロベリアが眼を瞬たかせる番だった。
「僕、ロベリアさんとそういう事、出来ません!」
 ベッドから飛び降り、床に正座して、新次郎は一息で言い切った。
「……どうしてだい? 女のあたしから誘ってるんだ、失礼じゃないか?」
 ロベリアに礼儀どうこうは言えた事ではないのだが。
「僕には、心に決めた人がいます。その人以外と関係を持つ事は出来ません! 恥をかかせて申し訳ありませんが、お引き取り下さいっ!」
 耳まで真っ赤にして頭を垂れる新次郎に、ロベリアは溜息をつき、
「あたしは、そんなに魅力ないかい?」
「そ、そんな事っ……」
 顔を上げた新次郎は、はっと息を飲んだ。ロベリアがブラウスの釦を途中まで外し、胸の谷間を覗かせていたのだ。透けそうに白い豊かな胸は、見るからに柔らかそうで、並の男なら耐えられず、すぐにでもむしゃぶりつきたくなる程、魅惑的だった。
「ち……違うんです。魅力がないとかそういうんじゃなくて――」
 胸元を見ないよう硬く眼を閉じ、俯きながらしどろもどろに説明する。
 その時、爽やかな甘い香りを察知して、新次郎は不意に目を開けた。必死になり過ぎていて気付かなかった。ロベリアが間近ににじり寄っている事に。
「大丈夫、ばれやしないさ」
 息のかかるような距離で視線が絡んだかと思うと、新次郎はそのまま再び床に押し倒された。
「わひゃぁっ」
 何度目か解らない悲鳴を上げると、その腕を振り払って脱兎の如く壁際に回避し、再び正座してロベリアと向き合った。そして、真っ直ぐにロベリアを見詰める。
「ごめんなさい、ロベリアさん。でも、その人に顔向け出来ないような事や、その人が知ったら傷付く……あんまり良い印象を持たないような事は、絶対にしたくないんです」
 真剣な眼差しの新次郎を、ロベリアは冷ややかに受け止める。
「大切な人なんです。そして、素敵な人なんです。その人以上の魅力はどんな人からも感じないんです。たとえ、ロベリアさんでも。貴方をどれ程傷付けても、どれ程恥をかかせても、僕は貴方と今以上の関係は築けません。一時的なものであっても、です」
 子供だと思っていた青年が、彼の叔父貴と同じ一端の台詞を吐きやがる。まるでどっかで聞いていたんじゃないかと思う程似ているけれど、彼の瞳を見詰めれば、彼自身の中からあふれる言葉だと解る。
「……言いたい事はそれだけかい?」
「え?」
 ロベリアのナイフのような視線が新次郎に突き刺さる。新次郎は息を詰まらせた。
「まぁ、そこまでいうなら理解してやらないでもないけどさ……」
「ロベリアさん……」
「けど、条件がある」
 ロベリアが、人差し指を立てた。“条件”――ロベリアの口から出るその言葉は、妙に重い。そして怖い。
「は、はい……」
 ロベリアはゆっくり立ち上がり、胸元の釦を留めながら大神のベッドに腰を下ろした。
「あんたのその“心に決めた人”とやらの名前を聞かせな」
「えぇっ!?」
「言ったら許してやる。言わないなら、ベッドに鎖で縛り付けて、無理矢理犯す」
 ストレートな言葉に真っ赤になりながらも、回避不能な二者択一だと新次郎は覚悟を決めた。何しろロベリアだ、やると言ったら絶対やる。間違いなく犯られる。
 既に赤い顔を更に紅潮させながら、誰もいるはずがないのにきょろきょろと辺りを見回し、ゆっくりとロベリアに歩み寄る。誰に聞かれるはずもないのにわざわざ耳に顔を近付けて来る新次郎を、このままちょっとばかり喰ってやろうかと、ちょっとですむわけもないのにロベリアは考えた。が、約束通り大人しくしておいてやる。

「僕の心に決めた人は――」

 それはとても、静かな告白だった。ロベリアは唇を固く結び、新次郎を見詰めた。その瞳は思いもかけず穏やかで、新次郎もつられて微笑んだ。
「そうか」
 と、ロベリアは言った。
「解った」
「ロベリア……さん……?」
「あたしはこれから、あんたの“大切な人”とやらのいる部屋に行ってくる」
「えっ? なんっ……」
 またも突然にそんなことを言われ、新次郎は目を丸くした。慌てて止めようと伸ばした手を振り払い、ロベリアは肩を竦めた。
「あんたの“大切な人”と一緒にいる奴を連れ出してやるから、後は好きにしな。覚えてるだろう、誰がどの部屋にいるかは? 多分、あんたの叔父貴はマリアの部屋にふたりでいるだろうから、この部屋は好きに使えるんじゃないか? そうそう、そんな訳だから、マリアの部屋には近付かない方が良い」
 ひらひらと手を振り、ドアの向こうに消えたロベリアを、新次郎はいつまでも見詰めていた。

「ありがとうございます、ロベリアさん……」


 新次郎は、そっと部屋を抜け出し、“心に決めた人”の元へと、急いだ。
誰のために?
ただ、貴方のために。
貴方の笑顔を守るためなら、どんなことにも耐えられる。


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