この気持ちに、嘘はありません。
 どんなに遠く離れていても。貴方が私を選ばなかったとしても。
 貴方がただ、幸せでさえあれば……。



     告白


 黒鬼会との戦いの後、大神は、中尉に昇格した。それと同時に、大神の巴里留学が決定したとの報告があった。その報告は、帝国華撃団花組全体を揺るがした。
 太正十五年三月。
「巴里って、遠いんですよね……」
 誰が声を掛けたというわけでもなく、花組は自然にサロンに集まった。その中で、ぽつりと呟いたのは、さくらだった。
「当たり前でしょう、欧羅巴ですのよ?」
「で、具体的に巴里ってどの辺にあるんだ?」
「北緯四十八度五十二分、東経二度二十分。因みに、帝都は北緯三十五度四十一分、東経百三十九度四十一分」
 カンナの問いに、レニがすかさず答えた。
「全然わっかりませ〜ん!」
「せやな。なんとなく遠いんは解ったけど、雰囲気しか解らんわ」
 織姫と紅蘭が溜め息を吐いた。
「そうですよね……。遠いですよね……」
「アイリス、フランスに帰る! お兄ちゃんと一緒にパリに行く!」
「アイリス!」
 最年少のアイリスが、駄々っ子そのものの様子で声を上げた。それを、マリアがぴしゃりと叱る。
「だってぇ……」
「誰かが帝撃を抜けるのが嫌というのは、みんな同じよ。貴方一人、我儘は許されないわ」
「でも……」
 気持ちが解らないでもない。寧ろ、痛い程よく解る。“誰かが”とは言ったが、本当は他の“誰か”でなく、大神だからこそ、みんなこれ程までに落ち込むのだ。勿論、他のメンバーが脱退するとなればそれはそれで騒ぎだろうが、大神は別格だ。
「けど……やっぱり、私は嫌です。米田さんを説得して、大神さんの留学をなくしてもらいます!」
 さくらが勢い良く立ち上がった。
「アイリスも行く!」
「せや、大神はんは花組にはなくてはならんお人や。その辺を、米田はんにも解ってもらわな!」
「私も行くで〜す!」
 さくらに同調して、アイリス、紅蘭、織姫も立ち上がった。
「ちょっと待てよ。いつかは帰ってくるんだ。それで良いじゃねぇか!」
 カンナが声を張り上げた。
「カンナさんはそれで良いんですか!? 花組から大神さんがいなくなっても良いって言うんですか? 私には、大神さんのいない花組なんて考えられませんっ!!」
 さくらは、目にいっぱいの涙を溜めて叫んだ。
「僕も、隊長が帝都を離れるのが嬉しいとは言わないけど、みんなでそうやって支配人を困らせるのが良いとも思わないな」
「レニの言う通りですわ。わたくしにも中尉は必要ですけど、これが中尉のためになる行動だとはとても思えませんわね」
 レニが冷ややかな声で呟き、それにすみれが賛同する。支配人室に向かい、米田を説得しようと意気込むさくら、アイリス、紅蘭、織姫と、それを止めようとするカンナ、レニ、すみれ。 マリアはその間に挟まれたまま、その様子を眺めていた。
「カンナさんもレニもすみれさんも冷たいです。大神さんは、花組になくてはならない人なんです! 私は絶対、留学なんて嫌です!!」
 さくらのその科白の中には、個人的な感情が大いに含まれている事を、全員感じていた。寧ろ、花組のためというより、自身のために必要だと。だが、それは誰しも同じだった。さくらは代弁者に過ぎない。さくらに賛同したアイリス、紅蘭、織姫も、さくら達の行動自体には賛同しないと主張したカンナ、レニ、すみれも、それぞれが同じように大神に対して個人的な感情を抱いている。
「私は絶対、絶対にっ……――」
 涙で震えるさくらの言葉は最後まで続かなかった。バン、と机を叩く“音”に遮られて。一瞬の音に、誰もが一斉に息を呑み、机を叩いたその人に視線を注いだ。それまでずっと沈黙を守っていたマリアが、机に手をついて立っている。水を打ったように静まり返る花組の面々を、マリアはゆっくりと見回し、一人一人を威嚇するように睨んだ。
「みんな、好い加減にしなさい。これは隊長にとっては、人間として、軍人として成長するためのとても良い機会だわ。それを私達の我儘のために無下にしろというの? 誰が一番辛いのか、誰が一番不安なのか、もっとよく考えて御覧なさい。そして、自分に悔いの残らないように、自分に出来る事をしたら? 文句ばかり言っても、仕方ないのよ」
 マリアの恐ろしく冷ややかな声に、サロンは更に鎮まり返り、重々しい空気が立ち込めた。マリアはそのままサロンを出た。つられる様に、サロンの出入り口に固まっていた者達――米田に進言しようとしていたさくら、アイリス、紅蘭、織姫――も、サロンを後にした。すみれは暫しそこに留まっていたが、間も無く、自室に引き上げた。
 残ったのは、カンナとレニの二人だけだ。
「さっすが、マリアの言う事は違うね」
「そうだね。マリアは……多分一番隊長の気持ちを解っているんだ……」
 レニの言葉に、カンナは妙な重みを感じた。
「なぁ、レニ。おめぇ、今何考えた?」
「多分、カンナと同じ事だよ。マリアと隊長の間に、特別な絆を感じる……」
「……だよなぁ。そういう事、マリアはあたいにも話したがらないからさ、あたいもはっきりと聞いたわけじゃねぇ。レニも、だ。それなのに、こうして解っちまう。露骨な態度をとっていなくても、いずれはみんな、気付く筈だ……」
 そうすれば、誰かが必ず傷付くのだ。普段、そういった事にあまり敏感ではないカンナがそれに気付いたのは、マリアの事だったからだろう。親友のマリアの態度が、微妙な変化を見せたという事だけでも、気付くには十分だった筈だ。しかし、そうなれば、“大神の態度の変化”に気付く者が現れてもおかしくはない。大神に特別な想いを寄せている者達の中から。カンナに関しては、大神に対する気持ちより、マリアとの友情の方が先にたったというだけの事。逆だったとしてもなんら不思議はない。
「僕も、最初に知った時はショックだったよ。なんとなくは感じていたけれど、バレンタインの頃、はっきり解った。でも、マリアなら良いと思うよ」
 その類の事にあまり敏感ではない、いや、寧ろ鈍感なカンナに、レニの科白の意味は、どのくらい通じただろうか。
「あたいだって、マリアの良さは誰より知ってるつもりだ。マリアだったら、隊長にはぴったりだと思う」
 その一瞬、二人は同じ事を考えた。一番辛いのは、一番不安なのは、他の誰でもなく――マリアだと。





 当のマリアは、自室に戻り、机に顔を伏せた。
「……大神……さん」
「行かないで。側にいて……」
 それは、誰よりもマリアが望んでいる事だ。大神を想っている事は他のみんなと同じであっても、大神に想われているマリアは、その想いが誰よりも強く、深くなる。しかし、口から言葉となって現れるのは、巴里へ行く大神を激励する、本心とは裏腹の気持ちばかりだ。迷惑はかけられない。大神の門出だ。笑顔で送り出すのは、当然の事だ。“帝国華撃団花組・副隊長”としては。そして、大神のいなくなった花組の“隊長代行”を勤める者としては。では、“マリア・タチバナ”としては?
 いつしか、マリアは泣いていた。そんなつもりはなくても、涙が次々に流れ出す。丁度一月程前に、同じ事を感じた。彼女達は素直に思いを口にする。それが出来ず、苦しい想いをしてからほんの一ヶ月だというのに、相変わらず素直になれない自分がいる。行かないで欲しいと思うわけではない。彼のためを思えば、多少の辛さなど耐えていける。だが、たった一言、「愛している」と「待っている」と、どうして伝えられないのだろう。
 マリアは大きく首を振って手の平で涙を拭い、顔をあげた。目に付いたのは、手鏡だった。ヴァレンタインの数日前に机に出した後、ずっと片付けるのを忘れていた手鏡。出しっ放しややりっ放しの嫌いなマリアにしては珍しい事だが、本の影に隠れて見落としていたようだ。 マリアは何気なく鏡を手に取り、鏡面を覗いた。
「……酷い貌……」
 鏡の中の自分を罵る。真っ赤に腫らした目が重たそうだ。眼を細めて苦笑すると、顎の辺りが歪んでいた。僅かではあるが、左下に皹が入っている。
「一体、いつ……」
 マリアは、あの日から一ヶ月以上経つ今日、初めてそれに気付いた。机からそれを出したその日、机に置いた時に皹が入ってしまっていたのだ。あの時、あのヴァレンタインの時、想った事だ。自分は、大神には相応しくないのだと。さくら達のように可愛いわけではない。素直な心も、無邪気な心も、とうの昔に失っていた。それを持っていても不思議のないような年の頃から、自分の中にない事は解っていた。両手は、人を殺めて血に濡れた。返り血を浴びた体は、漆黒に染まり、重くなる。殺めた人の血の分だけ。殺めた人の命の分だけ。本当なら、光の当たる場所に生きていて良いような人間ではない。それでも、何も知らない人を欺きながら、光を浴びている。華やかな舞台に立って。
 だから、いつも想っていたのだ。彼が自分から離れて行くのなら、それで構わないと、彼がその方が幸せなら、それで良いのだと。
 花組のメンバーは皆、それぞれの部屋で思いを巡らせていたようだった。そして、夕方、またいつのまにか、サロンに集まっていた。マリアと大神以外は。
「あぁ、みんな此処にいたのか。マリアはいないのか……」
 突然サロンに飛び込んできた声は、誰も聞き間違う事がない声。大神だった。
「大神さん!」
「おぉ、隊長。そう言えば今日は全然見なかったけど、どっか行ってたのか?」
「まぁね。ほら、巴里留学の事で、ちょっと海軍本部の方へ挨拶に」
 今日の騒ぎを知らない大神は、何気なく言ったのだが、それによってみんなの表情が一気に沈んだのは言うまでもない。
「それと、買い物に」
「なにを?」
 カンナは、間髪を入れずに尋ねた。大神に、花組の妙な雰囲気を悟られまいと、必死に空元気を振りまいた。
「今日はホワイトデーだって、由里君に聞いたから……」
 気付かなかった。今日が、三月十四日だという事に。普段なら大騒ぎをしそうなものだが、みんな忘れていた。大神の巴里留学があまりにも衝撃的で、それどころではなかったのだ。
「バレンタインのお返しをする日なんだってね、今日は。本当は、お菓子を返すのが一般的だって聞いたんだけど、それぞれのお菓子になんか意味があって複雑だったから、別のものでも良いかな?」
「これ、さくら君に」
 大神は、持っていた紙袋の中から、桜色の包みを出し、さくらに手渡した。
「これはすみれ君。こっちは紅蘭に。それから、これは織姫君。レニ。アイリス。で、こっちはカンナに……」
 大神は、一人一人に包み紙の違う小さな箱を手渡していった。 しかし、違うのは包みの色だけで、箱の大きさは同じであった。
「開けても良い?お兄ちゃん!」
「うん。良いよ。気に入ってもらえると嬉しいんだけど……」
 大神は、笑顔を見せた。
「綺麗……」
 箱の中には、薄い、上品なハンカチが入っていた。淡い色で、花の模様が入っている。さくらには桜、すみれにはカトレア、アイリスにはチューリップ、紅蘭には朝顔、カンナにはひまわり、織姫には赤バラ、レニにはリンドウが描かれていたハンカチが、それぞれ渡った。
「みんな違う柄やなぁ。有り難う、大神はん。嬉しいわ!」
 紅蘭は、満面の笑みを浮かべた。 みんな、口々に大神に礼を言う。
「あたいに似合うかなぁ、こんな綺麗なの」
「カンナのは、手拭いにしようか迷ったんだけどね」
 大神の一言で、サロンにどっと笑い声が響いた。それまでの重苦しい空気が嘘のように軽くなる。これが、大神の力なのだ。そして、それ故にみんなが離れたくないと願うのだ。
「それじゃ、俺はこれからやる事あるから」
 和やかな雰囲気を残し、大神はサロンを出て行った。その後ろ姿を、さくらはじっと見守っていた。“みんなと同じ”ハンカチを握り締めて。そして、思い立ったようにサロンを出た。
「私も、用事があるので失礼しますね」
 さくらはサロンを出ると、直ぐに大神を探した。大神が、書庫に入って行くのが見えた。
「大神さん!」
 さくらは、大神を追って書庫に飛び込み、後ろ手でドアを閉めた。
「どうしたんだい、さくら君?」
 ――自分に悔いの残らないように、自分に出来る事をしたら?
 さくらの脳裏に、マリアの科白が過ぎる。そうだ、ここで何もしなければ、きっと後悔してしまう。
「あの……私、ずっと大神さんに言いたかった事があって……」
「なんだい?」
 大神は書棚から一冊の本を取り出し、さくらに向き合った。彼の大らかな笑顔を見詰めていると、さくらの頬は自然と紅潮した。
「私……その…………ずっと、初めて会った時から大神さんの事が好きでした!」
 その言葉は、さくらの頬を更に紅く染めた。耳まで真っ赤になり、淡い色の唇を震わせるさくら。その表情に、言葉に、大神の心臓が高鳴った。思い掛けない台詞に、早鐘を打ち始めた心臓がなかなか落ち着かない。大神の頬まで紅く燃え上がり、二人の黒い瞳の見詰める先が交わった。
「私、ずっと待っています。大神さんが帰ってくるのを。だから、いつか必ず帰って来て下さい。帝都に。帝劇に――私のところに……」
 さくらの声は、震えた。最後の一言を唇に載せた瞬間は、大神の顔を見る事すら出来ない程に緊張し、顔が火照った。身体中が熱を帯びて、自分の身体ではないかのように思えた。大神は眉を寄せて視線を落とし、沈黙した。ぴんと張り詰めた空気が流れ、今度はお互いに顔を上げる事も出来なかった。
「さくら君」
「は、はい……」
 どれ程時間が経っただろうか。ほんの数分だったに違いないのだが、さくらには数十分は過ぎたように思えていた。ゆっくりと二人は顔を上げ、再び視線を絡ませる。しかし、大神の表情は、さくらが思っていたような晴れやかなものではなかった。大神は、手にしていた本を机の上に置いた。
「この本、知ってる?」
「『罪と罰』――タイトルを聞いた事はあります」
「ドストエフスキーの著書。俺は、まだ読んだ事はない本なんだ。だから、帝劇を出る前に読みたいと思ってる」
 さくらには、大神が言わんとしている事が解らなかった。
「どうして……」
「ある人が読んでいたんだ、これを」
「――え?」
 さくらは眉を寄せ、首を傾げた。こんな本を読む人がこの帝劇の中に何人いるかは考えるまでもなく、それが誰であるかも直ぐに思い浮かんだ。
「俺が帝劇に来たばかりの頃、彼女は此処でこれを読んでいた」
 さくらは愕然と目を見開いた。彼が此処に来た頃にこんな本を読む“彼女”という人を、さくらは一人しか思い浮かべる事が出来なかったから。少なくとも、自分はそれを読んだ事はない。タイトルを聞いた程度、と、つい今し方自分で言ったばかりだ。大神は、間を置く事もなく先程の紙袋から包みを取り出し、本の上に置いた。
「これは彼女に――マリアに渡すつもりの物だ」
 “マリア”。遂にその名が、彼の口から語られた。彼が示したそれは、明らかに他のメンバーに渡した物とは違っている。
「俺は、いつか必ず帝都に帰ってくるよ。でも、君の元に、という事は出来ないんだ。さくら君や他のみんなの事は大好きだよ。でも、それとは違う気持ちで、マリアと接している……」
 大神の唇が震えた。一瞬、躊躇った。それでも、はっきり言わなければならない。
「さくら君。俺は……俺は、マリアを愛しているんだ……」
「マリアさん、を?」
「ああ」
「……私じゃ駄目ですか? 私はずっと、大神さんを好きでいました。きっと、マリアさんよりずっと!」
「すまない、さくら君……」
 さくらの言葉を塞き止めるように、申し訳なさそうに大神は呟いく。さくらは、ぎゅっと唇を噛んだ。
「大神さん」
 本の上に置いた小さな包みに手を添え、それをじっと見詰める大神に声をかけるが、彼はさくらの方を見ようともしなかった。まるで、その声が届いていないかのように。
「大神さん!」
 一歩踏み出したさくらの身体が、大神の胸に触れる。大神はさくらに押される形で一歩後退し、指先は箱から離れた。と、同時に箱が本から滑り、軽く音を立てて床に落ちた。さくらは大神の背中に腕を回し、ベストを硬く握り締める。
「大神さんが好きです」
「……さくら君!」
 突然の事に大神は戸惑い、うろたえた。さくらは益々力を込めて大神にしがみ付き、彼の名を呼び続けた。
「さくら君……」
 しかし、その声は直ぐに平静を取り戻す。大神は、縋り付くさくらの肩にそっと両手を当てた。
「大神さん……」
 優しい手に頬を紅潮させ、瞳にいっぱいの涙を浮かべながら、さくらは大神を見上げた。だが、大神は眼を閉じ、ゆっくりを首を横に振った。瞬間、手の力が抜け、ベストを離したさくらの身体を、両手でゆっくりと引き離しす。
「すまない、さくら君」
「でも」
 さくらは、まるで子供のようにいやいやと首を大きく振った。
「でも、私は大神さんが好きです。大神さんが帰って来るまでに、絶対マリアさんより素敵な女性になっていますから。絶対、絶対、貴方に振り向いてもらえる女性になって見せますから!!」
 思いの丈をぶち撒け、大神の言葉など聞かずに、さくらは書庫を飛び出した。
「すまない、さくら君……。俺は、マリアを愛しているんだ。もう、マリア以外の誰かを愛する事は出来ないんだ……」
 大神は床に落ちた包みを拾い上げ、口付けた。もう、彼女以外の女性を愛する事はないと、そう誓った。彼女だけが、総ての女性の中で一番愛おしい。一生涯愛しぬく、唯一の女性なのだ。だから、嵐のようにこの場を去った少女に眼を向ける事は、決してあり得ないのだ。
 罪悪感を覚えながらも、そうするしかない。これで良かったのだと、大神は自分に言い聞かせた。




 さくらはサロンに駆け戻った。そこには、すみれ達はもういなかった。ずっとそこに残っていたらしいカンナ。そして、マリア。
「マリアさんっ!」
「さくら?」
 さくらは、頭に血が昇っていた。そのために、すっかり思考力が低下していた。兎に角、自分が何を言い出すのか、さくら自身にもまるで解っていなかったのだ。
「マリアさんは、解っていたんですか? 大神さんが、マリアさんの事をどう想っているかを、マリアさんは知っていたんですかっ!?」
「……隊長が、何か言ったの?」
 マリアは、自分の鼓動の高鳴りを感じた。しかし、出来る限り平静を装って尋ねた。
「私は、大神さんに好きだと言いました」
「え?」
「ずっと待っているから、私のところに帰ってきて欲しいって。そうしたら、大神さんはマリアさんが好きだからって……だから、私のところには戻れないって! マリアさんは、大神さんの気持ちを御存知だったんですか?」
 怒りか、悲しみか、或いはその両方だろうか。顔を真っ赤にして今にも泣き出しそうに問い詰めるてくるさくらを見ていると、胸が痛んだ。
「貴方は、やっぱりいえるのね……」
 ほんの微かな声で、喉の奥で呟いた。彼女に、嘘を口にする事は出来ない。これ以上は、隠し切れない。
 マリアは、小さく頷いた。
「ええ。私も、隊長と同じ気持ちでいるから」
「いつから?」
「想いが通じ合ったのは、クリスマス公演の頃。『奇跡の鐘』の聖母役に選んでくれた時、その言葉をくれたわ」
「十二月って――だったら、どうしてバレンタインの時、私に協力してくれたんですか? 応援してくれてたんじゃないんですか!?」
 それだけ叫んで、さくらは肩で息をした。一体、どれ程深く大神を想っているのか、これだけでも解る気がする。
「落ち着いて、さくら。私はね、隊長がさくらやアイリスを……私ではない誰かを選んでも構わないと想っているわ」
「マリア!?」
 さくらと向き合い、表情を硬くするマリアの肩をカンナが掴んだ。
「どういう……」
「私にとって一番大事なのは、隊長の幸せよ。隊長が、私を想ってくれる事がとても嬉しいけれど、彼の想いを束縛する事は出来ないわ。他の誰かを想う事が隊長の幸福であるならば、私はそれで構わないのよ。言い訳にしか……ならないかも知れないけれど。貴方には、悪い事をしたと思うわ。いずれ、本当の事が解る日が来るのは当然だったから。でも……」
 自分の気持ちを解って欲しいとは、絶対に言えない。裏切り行為を働いていたのは、自分でもしっかり理解しているのだから。
 さくらは、それ以上叫ぶ言葉を見付けられなかった。熱が冷めたのか、妙に頭の中がはっきりとしてきた。同時に、自分に対する怒りが込み上げてきて、さくらは硬く両手を握り締め、サロンを出ていった。
 皮肉なものだ。マリアの言葉に、全く嘘がない事がはっきり感じられてしまった。そして、大神がどうしてマリアを選んだのかも、理解出来てしまったのだ。自分のように、彼を一人占めしたいという身勝手な考え方ではなく、ただ、愛する者の幸福だけを願っているのだから。マリア・タチバナという女性が、既に自分よりずっと遠いところで、人を深く愛し、想い、慈しんでいるように思えた。それはさながら、聖母のように。
「何か……妙なところでマリアの本心を聞いちまった気がするな……」
「そう……?」
 さくらの激昂に圧倒され、マリアの告白に度肝を抜かれて、カンナは一瞬にしてパワーを吸い取られてしまったようだった。椅子に深く腰を掛けてマリアを見やると、マリアはうっすらと笑みを浮かべた。その笑顔は、しかし、何処か悲しそうだった。
「人を想う心というのは、人それぞれなのよ。さくらも、私も、他のみんなも、それぞれがそれぞれに人を……隊長を想っているのよ」
 マリアは溜息を漏らすように、そっと囁いた。





 その夜、就寝前のマリアの部屋に、さくらが訪ねてきた。
「さっきは、すみませんでした。でも、私、マリアさんには負けませんから。絶対!」
「ええ。私もね。隊長が他の誰かを選ぶ前に、私が隊長を幸せに出来る存在であるつもりだから、貴方には負けないわ」
 マリアの言葉に、さくらは満足そうに笑みを浮かべ、自室に戻った。
「“隊長”……」
 マリアは、天井を仰いで呟いた。
 “愛する者の幸福”――マリアは、それを望む事しか出来ない。それは、マリアが今まで生きてきた中で、自然と身に付けてしまった“人の愛し方”だった。初めて愛した者の死を目の当たりにしたマリアとっては、自分の側にいてくれなくても、たとえ自分を想ってくれないとしても、自分の愛する人が生きているだけでも、幸せな事だ。更に健康で幸福であるならば、言う事はない。それ以上に、何も望みはしない。たとえ辛くても彼が幸せに生きているのだと思うだけで、幸福でいられるのだ。
 素直に感情を露わに出来る、明るく朗らかな彼女より、彼が自分を選んでくれた事が嬉しい。けれど、本当に自分は、彼に相応しい女だろうか。私なんかで、良いのだろうか。
 自嘲的に笑い、マリアは溜息をついた。
 一方、問題の男、大神一郎は、丁度夜の見回りのために部屋を出た。
「たぁいちょぉ!」
 そこで声をかけたのは、マリアの本心と共に大神の気持ちまで知ってしまったカンナだった。
「カンナ。どうしたんだい?」
「いや。さくらをさ、振ったんだって?」
「な……なんで、それを?」
「さくらが言ってたんだよ。さっき。マリアが好きだからって、さくらの告白はうけなかったって?」
「……ああ。そりゃぁ、悪い事をしたとは思うけど」
 苦虫を噛み潰したように苦笑する大神に、カンナは大仰に肩を竦めて見せた。
「悪い事したって思わない様にするには、さくらの告白を受けるほかねぇだろ。それって、今度はマリアを振るって事じゃねぇか?」
 カンナの言う事は正論である。
「そうだね」
「さくら、傷付いたろうな」
「追い討ちをかけないでくれよ。俺だって、傷付けずにすむならその方が良いと思っているさ。でも、無理だろう? たとえ今、傷付けないでいたとしても、いつか必ずこうなるんだ。早い方が良いというわけじゃないけど……」
 どうする事も出来ない。さくらの気持ちを受け取る事は出来ないのだから。そうすれば、マリアを傷付ける結果になってしまうのだから。
「俺にとって、今一番大事なのはマリアだ。だから、仕方ないんだ。他の人にまで良い顔は出来ない。それを、バレンタインの日にはっきり知ったよ……」
 バレンタインのあの夜。マリアの涙を見て、マリアの震える肩を見て、痛い程それを思い知った。
「まぁ、みんなもその内解ってくれるだろうし、隊長はマリアを守ってやってくれよ。巴里からでもさ。傷付けたりなんかしたら、承知しねぇからな」
「勿論、そのつもりだ」
 言い切った大神の瞳は、果てしなく真っ直ぐで、澄んでいた。嘘はない。カンナは満面の笑みを浮かべ、大神と別れた。




 一日の内に、様々な事があった。余りに沢山の事が。
 それぞれの想いが交じり合い、ぶつかり合った。それぞれが傷付き、それぞれが想いを新たにした。
 そんな一日の終わりに、大神は、マリアの部屋の前に立った。深く呼吸をして、そっと扉を叩く。
「はい」
 中から、マリアの声が聞こえる。
「俺だけど。夜分遅くにすまない。入っても、良いかな?」
「どうぞ」
 大神が部屋に入ると、マリアはベッドから立ち上がり、大神に背中を向けてブラウスのボタンを留めた。就寝準備に入っていたらしく、既に前の肌蹴ていたブラウスをきっちり一番上まで止め直してから、漸く大神に向かい合い微笑みかけた。
「こんな時間に女性の部屋を訪ねるなんて、感心出来ませんよ、大神さん」
「すまない。どうしても今日中に渡しておきたい者があって……」
 大神は、先程書庫でさくらに見せた箱をマリアに差し出した。
「バレンタインにチョコをもらったから、そのお礼に……」
 思わぬ贈り物に、マリアは頬を赤らめた。
「あ……有り難うございます……。開けても良いですか?」
「うん。開けてみて」
 大神は、にっこりと笑った。マリアのこの貌を見られただけで満足だ。
 マリアへの贈り物の包みは、真っ白な和紙だった。他のみんなに渡したものは、包みがそれぞれの光武や戦闘服と同じ色だったが、マリアのだけは、自分の一番好きな色にした。
「……鏡……?」
 白い和紙の下からは、丁度両手の平に乗る程度の黒い小箱が現れ、その中には、小さな円形の鏡が入っていた。裏は黒い漆塗りで、白い花が描かれていた。見るからに和風である。
「ああ。この前、ちょっとマリアの部屋に入った時、マリアの手鏡に皹が入ってたみたいだったから……。こんな日にこんな和風なのも似合わないかなとは思ったんだけど」
「そんな……。よく、あんな小さな皹に気付かれましたね。私だって、今日気付いたのに」
 本の影に隠れていたあの鏡の、あの小さな傷。花組隊長の観察力は並ではないと、今更ながら感心してしまった。
「綺麗です、とっても。本当に有り難うございます。大事にしますね」
 大神は、マリアの手の中の鏡を覗き込み、裏返した。きらりと白い花が光る。
「これを小間物屋の店先で見付けた時、何故かは解らないけれど、君が見えた気がしたんだ。それで、思わず買ってしまってね。ねぇ、マリア。この花、なんだか解る?」
 問われて、マリアは首を傾げ、ゆっくりと横に振った。
「これ、“橘”なんだよ」
 マリアは、思わず顔を上げた。しかし、間近に丁度大神の顔があり、息の掛かる程の距離に戸惑って、直ぐに視線を鏡に戻した。
「“橘”……」
「そう。店の人の話だと、橘の花言葉は、『幸福』なんだって」
「幸福……」
「ホント、偶然だけどね。でも、君が幸福であれば、俺は……」
 ふと、マリアの視界がぼやけた。同じ事を想っていた。それを考えるだけで、止めようとしても、涙が止まらない。
 さくらやカンナにあんな事を言われたからだとは思わない。けれど、何よりマリアが大事だと、大神は強く、深く感じた。そして、言葉より先にマリアを抱き寄せた。
「大神さん……」
「本当は、もっと別な物を渡したかったんけど、俺は未だ、それを渡せる程強くはない。でも、いつか必ず君に手渡したい。これは、俺の勝手な気持ちだ。待っていてくれなんて、絶対に言えない。君を束縛しておきたくなんかない。でも、俺は離れていても心は繋がっていると思いたい」
 大神は、いつもでは考えられない程に止めど無く話し続けた。それは、恥ずかしさの裏返しでもあった。
「巴里でも、きっと戦いの日々になるだろう。命懸けの戦いが続くだろう。でも、いつか、必ず帰ってくるよ。此処へ。君の元へ。そしてその時には、“それ”を君に渡せるくらい強い男になっているから。だから……」
 大神の腕に、更に力が篭る。大神の胸からマリアの胸へと熱が伝わり、互いの鼓動が重なった。同じリズムを刻む心臓は、まるで一つのもののように。
「待っています。ずっと、貴方を待っていますから……」



 口を開くと 嘘になりそうだから、心だけを開いて抱き締める。
 温もりに嘘はなく、鼓動は生きている証。
 側にはいられない。けれど、ずっと幸福であるように。
 その名に刻まれた白い花に、祈りと誓いを込めて。


END
2000年頃に書いたヴァレンタインSS「Bitter」の続き。
同年ホワイトデーに書いたSSです。
「Bitter」の不器用なマリアを支える大神は、誠実で真面目です。
大神がどう答えるのかが解らず、書きながら自分でどきどきした覚えがあります。
大神が、さくらに対しても誠実に応じてくれて、ほっとしました。
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