軒下に揺れる笹の葉。
 願いを込めた短冊。
 一年に一度のこの日は、星が輝きますように。
 一年に一度のこの日は、あの人に逢えますように……


       蛍川


 太正十二年七月七日。
「ただいまぁ!!」
 大帝国劇場内に、この上なく、上機嫌なアイリスの声が響いた。今日、アイリスは大神とデートをしていたのだ。二日前、アイリスの誕生日にしたデートのやり直しとして。余所行きのドレスを着て、大神と手を繋いだアイリスは、嬉々として帝劇に帰ってきた。しかし、誰の声も返ってこない。まるで誰もいないかのように静かである。
「ただいまぁぁ!!」
 アイリスは、もう一声叫んでみる。
「あ……お帰りなさい。大神さん。アイリス」
 数秒の沈黙の後、二階からさくらが階段を駆け下りてきた。
「どうしたの、さくら!?」
 アイリスは、サファイア・ブルーの瞳を見開いた。さくらの着物が、いつもと違ったのである。和服である事に変わりはないのだが、いつもの紅袴ではなく、爽やかな水色の浴衣だったのだ。
「何かあるのかい?」
「見ませんでしたか? 今夜、七夕祭りがあるんです。みんなで行こうと思って、準備してるんです」
「そういえば、幟が出ていたっけ。それで、浴衣を?」
「はい。似合いますか?」
 さくらは、大神の前でくるりと回って見せた。
「あ……あぁ。よく似合ってるよ」
「きゃっ。本当ですか? 嬉しいです」
 さくらは、頬を赤らめて、満面の笑みを浮かべた。お世辞抜きに、さくらの浴衣姿は愛らしい。しかし、
「お兄ちゃん!」
 恋人を差し置いて、と言わんばかりに、アイリスは頬を膨らませた。
「大神さんも行きませんか?」
「そうだね。アイリスも行くだろう?」
「もちろん、行くっ!」
 アイリスは、大神の手を握ったまま、飛び跳ねた。
「それじゃ、サロンへいらっしゃい、アイリス。浴衣を用意してあるから。あやめさんに着せてもらって。さくら、あやめさんの手伝いをしてくれるかしら?」
 いつからそこにいたのか。階段の上に、マリアの姿があった。マリアも、浴衣を着ている。白い肌に、濃紺の浴衣。えもいわれぬ美しさだ。金髪が浴衣に不似合いかと言うと全くそんな事はない。それが、かえってマリアの容貌を際立たせているようにも思える。
「わーい! さくら、早く早く!」
 アイリスは、さくらの手を引いて階段を駆け上った。
「あ、大神さんは……」
 振り返るさくらを他所に、アイリスは足を止めずに走った。アイリス達とは逆に、マリアは階段を下りた。
「お疲れ様でした、隊長」
「いや。俺も楽しかったし」
 マリアの労いの言葉に、大神は正直な答えを返した。マリアも、笑顔を返す。つい先日までは、こんな事は考えられなかったかも知れない。マリアが、こんなに素直に笑顔を見せるなど。
「隊長も、浴衣を着られますか?」
「え、俺のもあるのかい?」
「はい。先程、あやめさんが出していらっしゃいましたから。隊長の部屋に置いてあると思いますよ」
「そうか。それじゃ、俺も着ようかな」
「そうなさって下さい。みんなはサロンで着替えています。着替えが終わったら、ここに集合ということになっていますから、なるべく急いで下さいね」
 大神は、軽く頷いて階段の方へ爪先を向けた。が、直ぐに振り返った。
「マリア」
「……はい?」
「浴衣、よく似合うね」
「そ……そんな事……。有り難うございます」
 頬を染めて、マリアは大神に一礼した。途端、マリアの胸元から、小さな金色の鎖が飛び出した。ロケット。
「あ……」
「首にかけていないから、置いて来たのかと思ったけど、持っていたんだ、それ?」
 マリアは、ロケットを拾うと、懐にしまいこんだ。
「はい。あの……かけていなくても、いつも持ち歩いているんです……」
 公演の最中も、稽古の時も、戦闘の時も、入浴時以外は大抵いつも何処かに持っている。
「いつでも一緒なんだね」
「ア……アイリスのジャンポールと一緒ですよ」
「ジャンポールと?」
 二人は、くすくすと笑い合った。



 着替えを終えて、大神が一階に下りて来ると、そこにはマリアとカンナがいた。カンナは、真っ赤な浴衣を着ていた。
「おう、隊長。似合うじゃねぇか」
「有り難う。マリアもカンナも、そういう恰好は珍しいけど、よく似合うな」
「止せよ。照れるじゃねぇか!」
 カンナは、力一杯大神の背中を叩いた。大神は、むせ返ってしまった。
「他のみんなは?」
「まだ仕度をしています。あやめさんは、そのお手伝い。女性の仕度は時間がかかりますから、もう少し待って下さいね」
 マリアは肩をすくめた。
「の、割に君達は早かったんだね」
 “女性の”などと敢えて言うマリアに聞き返すと、マリアはカンナと顔を見合わせ、笑いった。
「まぁ、あたいらは普通の女とは違うよなぁ」
「そうね、鏡の前で時間をかけて支度をしている貴方や私って、なんだか想像がつかないわ」
 十分後、さくら、すみれ、アイリス、紅蘭、あやめがそれぞれ似合いの浴衣を着て下りて来た。特に、あやめの浴衣姿は艶やかだ。大人の魅力を醸し出している。
「ねぇ、お兄ちゃん。似合う? 似合う?」
 ジャンポールを片腕に抱いたアイリスが、大神の前でぴょこぴょこと跳ねた。
「ああ。よく似合ってる。可愛いよ」
「大神はんもよう似おうとるわ」
「えへへ。おそろいだよ、お兄ちゃん!」
 アイリスは、嬉しそうに大神に寄り添った。
「そうだね」
「そうやって並んどると、お雛さんみたいやねぇ。お似合いや」
「良かったわね、アイリス」
 マリアが、アイリスに笑いかける。その後ろで、さくらは面白くなさそうにむくれていた。
「十歳になったばかりの子を相手に、大人気ないわよ、さくら」
 からかうような口調で、あやめがさくらに耳打ちした。
「皆さん、何をぐずぐずしていらっしゃいますの? さ、行きますわよ」
 玄関先でわいわい騒いでいる花組に、すみれが声をかけて出て行った。まるで、自分の家来を連れて行くような素振りであった。
「おめぇが仕切るなよ」
 大人気ないのがもう一人いた。



 空にはうっすらと雲がかかり、雲間から僅かに月が見え隠れしているだけである。このままでは、天の川など見えそうもない。しかし、祭りは大変な賑わいだった。
 先ず、花組は短冊を貰い、入り口の所にある笹に吊るす事にした。
「大神さんは、なんて書いたんですか?」
「ん? “みんなが健康で楽しく過ごせますように”ってね」
「真面目やなぁ、大神はん」
「そういう紅蘭は、何て書いたんだい?」
「そら決まってるやろ。“すっばらしい発明が出来ますように”や!」
 誇らしげに緑色の短冊を突き上げた紅蘭にやや引きつった笑顔を見せながら、大神は心の中で祈った。“実験台にされませんように”。
「アイリスは、なんて書いたの?」
「“お兄ちゃんとケッコンできますように”って書いたの」
「それは嬉しいな」
「ねぇ、さくらはなんて書いたの?」
「え? 私は、“お芝居が上達しますように”って……」
「それでしたら、精々稽古に励む事ですわね。ま、それ程上達するとは思えませんけど」
 すみれの高笑い。
「それじゃ、すみれさんはなんて書いたんですか?」
「“剛力バカ女が大人しくなりますように”と書きますわ」
「“高飛車サボテン女が黙りますように!!”」
 カンナが、わざと大声で短冊を読み上げた。
「何ですって!?」
「やるのかよ?」
 嫌な予感がする。このまま、こんな所で大乱闘にでもなったら……。
「“カンナとすみれが喧嘩をしませんように”」
 二人の間に入って、あやめは短冊に筆を走らせた。一同は、どっと笑い出した。カンナとすみれも、つい笑い出してしまった。
「マリアは、何て書いたんだい?」
 アイリスの短冊を本人の要望通りなるべく高いところに吊るしてやりながら、大神はマリアの耳元にそっと囁いた。
「……」
 マリアは言葉もなく、自分の吊るした蒼い短冊を示した。マリアの短冊を見上げ、大神は眉を寄せる。露西亜語だった。
「さてと。この人込みの中をこの人数で行動するのはちょっと無理があるわね。解散しましょうか? 二時間後、此処に集合よ」
 あやめの提案に、一同は賛成した。
「お兄ちゃん、アイリスと一緒に行こう!」
「私もご一緒して良いですか?」
「うちも!」
 大神は、三人に袖を引っ張られながら人込みの中へ消えていった。
「わたくしは一人で行きますわ」
 と、すみれ。
「それじゃ、あたいらは三人で行動しようか?」
 カンナが、マリアとあやめを見下ろした。
「そうね。若しはぐれても、貴方達なら捜しやすそうだわ」
 あやめは、冗談を含んだ笑顔を長身の二人に見せた。
「そういえば、七夕には笹に願い事を書いた短冊を吊るすと言うのは隊長から聞いたんですけど、どうしてそんな事をするんですか?」
 行き交う人の間を歩きながら、マリアはあやめに尋ねた。
「知らないのね。中国から伝わった風習なんだけど、中国の貴族の女性は、七夕の日に技芸の上達を願って、短冊に書いて吊るしたのが始まりなの」
「そうだったんだ?」
 あやめの説明に、カンナが頷いた。
「あたいは、織姫と彦星の話しか知らねぇなぁ」
「今は、それが一般的よ」
「それは、なんなんですか?」
 マリアが小首を傾げた。
「織姫って機織の娘と、牽牛――彦星って牛飼いがいたんだけど、そいつらが恋に落ちて、仕事をしなくなんだよ。それでお咎めを喰らって、天の川の両岸に離されて、一年に一度、七夕の夜にだけしか逢えなくなったって話さ」
「一年に一度……」
 カンナの話した昔話に、マリアはぎゅっと眉を寄せた。
 思い出すのは、小さなロケットに収まった、モノクロオムの写真のかの人。もう二度と逢う事のない人。一年に一度だって逢えはしない。彼は、川の向こうから戻っては来ない。
 他愛のない昔話と重ね合わせるなど、つまらないことだと思いながらも、かの人を思うと、胸がざわついた。どうしてさっき、彼と――漸く“隊長”と認めることの出来るようになった人と彼の話をしながら笑えたのかが解らない。
 彼を想うと、今でも胸は痛む。



 一時間程経っただろうか。マリア達三人は、林の側の小川にかかった橋を渡ろうとしていた。
「うわっ……。此処は一番人が多いな……」
 カンナは、人の波に揉まれながら唸った。カンナとあやめは、同じ方向へ進む人々に流されて、止まる事も出来ず、進んでいく。マリアが、逆方向へ行く人々の波に巻かれて、遠く離れてしまった事に気付かずに。
「はぁ……」
 マリアは、なんとか橋の欄干につかまった。既に、カンナ達は見えなくなっている。これから、この人込みの中を通ってカンナ達を探すのは至難の業だ。半ば諦めたように、マリアは溜息をついた。仕方がない。どうせ、最後はみんなそこに集まるのだから、最初の笹のところへ戻ろう、と、マリアは踵を返した。
 その時。
 橋を通る人が、突然マリアにぶつかった。これだけの人だ。誰とぶつかろうと不思議はない。しかし、その拍子に、マリアは、欄干から身を乗り出す形になってしまったのだ。なんとか川に落ちずには済んだものの、別の物がマリアの胸元から零れ落ちた。――金色の、ロケット。
「あっ……!」
 マリアは、浴衣を着ていることも忘れ、橋から川の岸辺へと飛び降りた。
「……マリア……!?」
 祭りの賑わいの中、誰もマリアの一瞬の行動を気にかけた者はいなかった。ただ一人、大神一郎を除いては。大神もやはり、さくら達とはぐれてしまったのだ。



 ロケットは、浮いていた木の枝に引っかかって、川下の方へ流されて行く。マリアは、ロケットを追って川岸を走った。
 ひたすらに、川下へ、 川下へ。
 お願い、早く止まって。マリアは息を弾ませながら、祈るように心の内で叫んでいた。
 川を下り、橋から離れるに連れて、人の影が消えてゆく。そんな事を気にも留めず、兎に角マリアは走り続けた。
 どれくらい走ったのか、かしゃん、と、川面に少し頭を出した岩にロケットがぶつかった。そして、そのまま岩に引っかかり、ロケットは川下りを止めた。
「良かった……」
 一時は、そう思った。しかし、それ程良いものでもないかも知れない。止まった事は良しとしても、川岸から離れ、川の真ん中辺りでロケットは止まっているのだ。川に入れば取れなくもないが、どうしても足がすくんだ。入っても、恐らく深さは膝くらいまでだろう。何があっても溺れるような深さではない。流れも、さほど速くはない。泳げなくても問題はないのだが。
 マリアは、暫くそこに立ち尽くしていた。しかし、そうこうしている間に、また流されてしまっては溜まらない。とうとうマリアは覚悟を決め、草履を脱ぎ、浴衣の裾をたくし上げて、川面に爪先を立てた。
「どうしたんだ、マリア!?」
 向こう岸から、マリアにぶつかった声。マリアは声に押され、思わず足を土の上に戻した。
「隊長!?」
「何か、あったのかい?」
 声の主は、大神だった。大神が、川を挟んで向こう側から叫んでいる。
「あ……あの……ロケットが……」
 一瞬、躊躇われた。しかし、問われて答えられないわけでもない。しかし、なんとなく答えたくなかった。どういうわけか。大神は、マリアが指した先に眼を向ける。
「あぁ……」
 確かに川の中程の岩に、マリアのロケットが引っ掛かっている。
「マリア、そこで待ってて。俺が取るから」
「え!?」
「だから、俺が取るって」
 驚くマリアにそう叫び、大神は何の躊躇もなく水の中に足を入れた。泳げないマリアと、海軍にいた大神との違いであろうか。大神は、一度も止まる事無くバシャバシャと水の中を進んだ。
 あっという間に、大神は岩場に辿り着き、マリアのロケットを拾い上げ、掲げて見せた。マリアの頬に、微笑が浮かぶ。大神の足は、先程より軽やかに、マリアに近付いた。
 しかし、大神に僅かの油断があった。差し出した腕が、その先のロケットが、マリアの指に触れようとした、その時。
「うわぁっ!!」
 岸の手前。大神の足は、川岸の深みにはまった。
「隊長っ!」
 大神は、転倒した。と、同時に、後方の岩に、頭を強打した。大神の体が、水に溶けるように沈んで行く。
「隊長! 隊長!!」
 マリアは土に跪き、水に腕を突っ込んだ。大神の瞼が水に触れるか否かの瀬戸際。マリアは、大神の体を引き寄せた。
「う……ゴホッ、ゴホッ……」
 マリアに肩を掴まれ、眼を醒ました大神は、喉の奥まで流れ込んだ水を、出来る限り吐き出した。
「……マリ……ア……」
 マリアの腕を借りながら、有りっ丈の力を振り絞って川から上がった大神は、足が水を離れた瞬間、脱力した。力を失った体は空気の抜けた風船のように地に落ちる。マリアは何とか大神の身体を支えた。
「た……隊長……!」
 脳に何か異常があったのか。
 マリアは、大神の顔を覗き込んだ。そうではないらしい。唯、気を失っただけだ。まるで子供の寝息のように、小さく息を吐いている。マリアは、大神の頭をそっと自分の膝の上に乗せた。
 カンナ達が、心配しているだろう。きっと、大神もはぐれたのだろうし、さくら達が必死になって探している筈だ。だが、大神を起こそうにも頭を打っているのだから、揺するわけにもいかない。
「……少しだけ」
 マリアは、袂に入れておいたハンカチを取り出した。濡れているのは、仕方のない事か。マリアはそれを川に浸して冷たい水で濡らし直すと、その場で絞って大神の頭部――先程、岩にぶつけてしまった部分――に当てた。
 人気の無い所であった事が、せめてもの救いだ。帝劇のスタァが、男に膝枕なんてスキャンダルは、帝都日報の恰好のネタだろう。それにしても、そのスタァに膝枕してもらっているこの男は、なんと幸せ者か。


「はぁ〜、何やってんだよ、マリアの奴。一緒にいんの、隊長じゃねぇか!」
 カンナは呆れ顔でぼやいた。大神はもとより、マリアも気付いていない。視力が元々よく、夜目も利くカンナには、やや離れた場所に佇む二人の姿がよく見えていた。
「こっちは心配して捜してたってたってのに。っつーか、いつの間にそういう仲になってんだよ!?」
「マリアが理由も無くあんな場所であんなことするとは思えないわよ。何かあるんでしょう。大体、あの不器用なマリアが、やっと心を開いたばかりの大神君といきなりそういう仲になると思えて? 今日の所は見逃してあげましょう。後で幾らでも尋問出来るわ」
 あやめは、口元に笑みを浮かべた。
「するぜ! あたいは絶対する! 隊長の奴、あたいのマリアに手ぇ出しやがって!!」
「……お願いだからそういう事を大声で叫ぶのは止めて頂戴……。せめて“親友のマリア”くらいにして……。それより、さくら達が大神君を探している筈だわ。あんな所を見られたら、厄介よ」
「そ……そうだな。よし。マリア達が見付かるより先にさくらたちを捕獲しようぜ!」
「捕獲って……」
 あやめとカンナは、今度はさくら達を探しに走った。
「大神さん、知りませんか? はぐれちゃったんですけど……」
 カンナ達は、直ぐにさくら達を見付けた。肩で息をして額に汗を浮かべるさくらの様子から、如何に大神を心配していたかが伺える。とはいっても、まさか事実をありのままに話すわけにはいかない。
「大神君なら、さっきそこで逢ったわよ。貴方達を探していたんだけど……その時、丁度海軍学校時代の先輩が来てね。私も逢った事のある人達なんだけど……。その人達に強制連行されたわ……。先輩には逆らえないものだから、貴方達に謝っておいて欲しいって」
 あの面子にさらわれたんじゃ、ちょっとね、と、あやめは苦笑し、ご愁傷様と付け加えた。
「先輩やったら仕方ないわな。海軍やったら、先輩後輩五月蝿そうやし、逆らわれへんやろ」
 物分りの良い紅蘭は、直ぐに信じ込ませる事が出来た。紅蘭の言葉に、さくらやアイリスも納得したようである。
「ところで、マリアはんはどないしたん?」
「え……? あ……あぁ……マリアは……その……」
「蒸し暑さと人込みに酔って、川縁で涼んでるわ。大した事はなさそうだし、先に帰っても良いそうよ」
「そうなの? マリア、大丈夫かなぁ……」
 心配そうに眉を寄せるアイリスに微笑みかけるあやめに、カンナは良くも悪くも感心しきりだった。まったく、次から次へとよくも此処まで嘘の出てくるものである。この手の嘘をつかせたら、右に出る人はいないだろうと、カンナは思った。



 約束の時間、合流したさくら、アイリス、紅蘭、カンナ、あやめは、笹の下ですみれを待った。
「……これ、マリアはんのんやろか?」
「どれ?」
 紅蘭の指す蒼い短冊を、さくら達は覗き込んだ。
「読めませんね……」
「露西亜語か? あやめさん、読めるか?」
「えっと……あら……」
 マリアのものらしき短冊を読むなり、あやめは一人で笑い出した。
「何て書いてんだよ!」
「教えて、教えて!」
「じらさんと教えてぇな、あやめはん!」
「んー……。内緒。知りたければ、自分で読む事ね」
 あやめは、くすくすと笑う。
「あやめさん!」
「あやめはん!」
 四人は、大声で叫んであやめに詰め寄る。しかし、あやめは一向に口を割ろうとはしない。一人で笑うばかりだ。そういう反応を取られては、気になって仕方がない。更に声を大にするのだが、あやめはやはり話さなかった。
「あー、五月蝿い、五月蝿い。これだから下々の方は嫌ですわ!」
 さくら達の後ろから現れたのは、すみれであった。
「よく言うぜ、遅刻してきやがって!!」
「あなた方があんまり騒々しいものですから、離れて他人の振りをしてただけですわ」
「はっ。あたいらが騒ぎ出したのは、つい今し方の事だろうが。三十分以上も遅れて来て」
「耳元で叫ばないでも聞こえておりますわ!」
 みんな、久々に人込みに入ってはしゃいで疲れたため、誰も止めようとしない。帰るのは、随分先の事になりそうである。あやめの願いが叶うのは、更に先のことになりそうだ。
 あやめは二人のじゃれあうような口喧嘩を聞き流しながら、異国の文字の認められた風に揺れる短冊を仰いだ。その口許に、柔らかな微笑が浮かんでいた。



「ん……」
 大神は、微かに声をもらした。
「隊長、気が付きましたか……?」
「マリア……?」
 上から覗き込んでいたマリアに、大神は笑顔を見せた。辺りが暗く、月も見えない所為でマリアの顔を見るのもやっとだ。
「マリア、俺……」
 いつもより表情の緩いマリアの顔に、大神は頬を赤らめた。
「もう、大丈夫ですか?」
「え、あぁ……」
 言いながら、大神は現状を把握しようと努めた。頭に、柔らかな感触。
「……うわぁ! す、済まない!!」
 思い掛けない事に、勢い良く体を起こす。頬を赤らめるどころか、耳まで火が点いたように真っ赤だった。
「うっ……」
 だが、大神の上半身は直ぐに傾いた。マリアは、大神の肩を抱き止めた。
「頭を打っておられるのですから、そんなに急に動いたら……もう暫く、横になっていた方が良いようです……」
 大神の頭は、マリアの膝に戻された。
「……マリア?」
 大神は、思いもよらぬマリアの行動に戸惑っていた。
「あの……土の上よりはマシだと思うのですが……。隊長が嫌でなければ……」
「い、嫌だ何て、そんな……。マリアこそ、良いのかい?」
「構いません……」
 マリアは、再びハンカチを濡らし、大神の頭に当てた。
「ん……。気持ちが良いな……」
 水の音が、やけの大きく聞こえる。風に乗って流れてくる祭囃子が、まるで遠い世界の音のように静寂を際立たせた。
「隊長……」
 躊躇いがちに、マリアは大神の声をかけた。
「何?」
「あの…………き……昨日仰っていた事は、本当……ですか……?」
「昨日って……?」
 まるで何も覚えていないかのように問い返す大神。
「いえ……やっぱり、良いです。何でもありません」
 マリアは、やや沈んだ声を返した。
「……今一番君が、大切だって言った事?」
「…………はい」
 マリアは、小さく頷いた。
「本当だよ」
「考える暇が無くて、咄嗟にたまたま出た名前が私だったとか……」
「そんな、無茶苦茶な……。冗談や嘘なんかで、あんなこと言える程、俺は器用じゃないよ……」
 暗闇で顔が見えないのがせめてもの救いだ。顔が、真っ赤なのが自分で解る。大神も、マリアも。
「若し、みんながいなかったとしたら、俺はきっと、自分の短冊に本当に書いていたと思うよ。“マリアと仲良くなれますように”って。自分でもはっきり解るわけじゃないけど、俺にとって、君は大切だ……。先の事は解らないけど、今は、誰よりも……」
 言いかけた大神の顔が、マリアの瞳に映った。マリアの顔が、大神の瞳に映った。頬が真っ赤ではないか。それは、ほんの一瞬の事。眼前を、光の玉が過ぎったのだ。
 瞬間。二人はほのかな光に包まれた。
「見て下さい、隊長!」
 マリアは、声をあげて川を指差した。水面いっぱいに、光が飛び交っている。――蛍だ。
「綺麗……」
 大神も、首を傾け、そちらの方へ視線を送る。光の洪水。
「天の川みたい……」
「地上の天の川、か……」
 夢のような光景だった。そして何よりも輝く笑顔が、そこにはあった。
「……マリア。これ」
 大神は、腕を上げ、マリアの前に示した。水に濡れた、小さなロケット。鎖が、螢の光に照らされてきらりと光る。
「あ……有り難うございます。済みませんでした、隊長。私なんかの為に、こんな怪我をさせてしまって……」
「いや……。君の彦星は、君の元に帰って来たよ、“織姫様”」
 マリアは、両手でロケットを握る大神の手を包み込んだ。
「彦星は、川の中から来るのですか……?」
「え?」
「天の川の向こう側から来るのでしょう?」
 マリアは、“天の川”を見詰めた。向こう岸から来たのは――。
「それは……ねぇ、俺も聞きたい事があったんだ、マリア。君は、短冊になんて書いたんだい? 俺には、露西亜語は読めないよ……」
「露西亜語で書いたのは、誰にも読まれたくなかったからです……。個人的な事なので、あまり人に見られたくなかったので……」
「それじゃ、やっぱり言えない……?」
 マリアは、きゅっと唇を噛み締めた。そして、ゆっくりと首を左右に振った。
「私……私は、“どうか――

  ヒュ…………――――――

――――――――――――――すように”と……」
 二人の間を一陣の風が吹き抜け、木々を揺らし、マリアの金糸をかき乱して止んだ。
「……き、聞こえなかった……」
「えっ!?」
「いや、風が――ねぇ、何て言ったんだい?」
「も……もう二度と言いません……!」
 マリアは、大神から思い切り眼を反らした。頬に血が昇る。
「マリア!」
「……」
「見て、マリア! 空!」
 大神の声がマリアの瞳を空へと促した。
 雲が晴れ、輝く星。まるで、帯のように長く続く星の川。
「本物の天の川だ……」
「さっきの風で、雲が切れたんですね……」
 地上と、天上。二つの天の川に、光の海に、二人は囲まれていた。
「織姫と彦星は、逢えたのでしょうか……?」
「逢えたさ。きっと。そして、きっと願い事も叶う……」
 落ち着いたのか、大神は体を起こした。
「……マリア……」
 柔らかな光が、大神の黒い瞳を照らし出す。まるで星を映す宇宙のような深い瞳に飲み込まれてしまいそうで。
「……隊……長……」
 マリアの震える唇が、細く息を零した。



 輝く星の元、笹は願いを抱えて風になびく。
 きっと叶えられると信じる気持ちと共に。
 たった一枚、異国の文字で書かれた蒼い短冊を、螢がそっと撫でていった。


――“どうか……


fin
信じても、良いですか。
きっと願いは叶うのだと。
信じても、良いですか。
あの日貴方が、零した言葉を。
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