手を伸ばしても届かない、金色の星。
 あの日、見た、美しい人のように……



      星の旅路



 俺は今夜も、屋上に上る。晴れ渡った広島の夜空には星が瞬き、海の薫りを孕んだ風が吹いて、まるで星の海を漂っているようだ。星を渡れば、いつかあの人に辿り着くだろうか。
「なんだ大神ぃ、また此処か」
 コートを着込み、屋上まで持って上がった毛布に包まって空を眺めていると、軽い声が聞こえてくる。ドアを開けた気配さえないのに、いつの間にか近くにいる。
「加山……」
 この江田島海軍士官学校の同級生で、親友――というか悪友――の加山雄一だ。何故か気配を消すのが上手い。
「お前は本当に此処が好きだな」
「まぁな。日本を離れる前に、日本の空を見ておきたいし」
 俺達はこれから、ハワイ沖に航海に出る。実習のために。
「同じだろ、何処だって。まぁ、見えなくなる星座もあるか」
 それはそうだが、そういう意味ではない。いや――こんな話をしたら、笑われるかも知れない。
「ところで――お前の想い人は、何処にいる?」
「いぃっ!?」
 俺の隣りに寝そべって、加山はいきなりそんな事を言う。俺は思わず飛び起きた。
「な、何言ってるんだ!?」
「はははっ、やっぱりそうか。そんな気がしただけだ。いつも、誰かを捜してるように見えたからな……」
「馬鹿な事を言うなよ」
 呆れた振りをして、俺は加山から顔を背けて寝転がる。とはいえ、俺は誤魔化しや嘘が苦手だし、この友人は、何でもお見通しだ。
「よく言うぜ。正月からそわそわしてるじゃないか」
「そ、そんな事ないさ」
 俺が答えると、加山はくすくすと笑い出した。こんなところでどもってたら、肯定してるようなものか。
「大神が恋をするとはなぁ」
「恋とは言えない。一度見かけただけの人だから……」
「故人曰く、“誠の恋をするものは、みな一目で恋をする”。一目惚れって言うんじゃないのか、そういうの? 一度……て事は、やっぱり浅草か……」
「…………あぁ」
 こいつに隠し事は無理だ。俺は観念して頷いた。
 正月の休暇で、俺達は各々実家に戻った。三が日は実家で過ごし、俺は一度帝都に立ち寄ってから広島に戻ると加山達に話していた。海軍の本部を見てみたいと思ったのだ。中には入れなくても、将来そこに勤務する事を思い浮かべ、気合いを入れ直してハワイ沖演習に臨もうと考えていた。すると、加山や数人の級友がそれに賛同して、四日に帝都に集まった。加山以外は関東に住んでいる面子ばかりだったので集まり易かった。海軍の本拠地は、正月だからか誰もいなかった。建物を前に整列して敬礼し、俺達はそれから浅草に初詣に向かったのだ。それは、単なる観光だった。俺達はみんなで初めての帝都を満喫した。その時、じゃんけんをして負けた者が煎餅を買ってくるという、他愛もない賭をした。負けたのは俺だった。浅草の老舗だといわれる煎餅屋に走り、全員分の煎餅を買った。その戻りの途中、近道をしようと細い路地に入った時、俺はふと足を止めた。星のようにきらりと輝く金色の髪が、俺の視界をよぎる。振り返ると、通り過ぎた小さな寂れたカフェの奥の席に、一人の女性が座っていた。人形かと思った――そのくらい、この場に、この国に不似合いだった。短く切り揃えられた金色の髪、白い肌、淡い唇、切れ長の瞳……。美しく凛々しくて、きりりとした中性的な雰囲気の女性だ。黒い厚手のコートを着込み、黒い表紙の分厚い本を手にして、一人静かに読書を楽しんでいる。手には、赤い手袋。その赤の鮮やかさが、何故か俺の胸を締め付けた。
 俺は煎餅の袋を抱えたまま、呆然と女を見ていた。汚れた窓硝子を一枚挟んだだけなのに、全く別の世界にいるかのようだ。まるで手の届かない儚い存在に思えた。外国人という事で目を引くのは勿論だが、こんなに美しい女性を、俺は見た事が無かった。
 その人は不意に顔を上げた。俺に気付いたのだ。一瞬、視線が交わった。しかし、彼女はすぐに視線を戻た。何事もなかったかのように――俺などそこに存在しないかのように。
 俺は走り出した。外国の神話に出てくる女神のようだ。現実味のない美しさ。だが、あの薄暗い喫茶店のうらぶれた雰囲気に、妙に溶け込んでいた。
 ほんの一瞬の邂逅。あの日から、あの星のような髪の女性が忘れられなくなった。どんなに印象が強くても、人の記憶だ、徐々に薄らぐ。それでも忘れられない。星の色の髪、白い肌、赤い指――
「もう、顔もはっきりとは覚えてないし、声だって聞いたわけじゃない。でも、どうしても考えてしまうんだ。頭から離れない……」
「それを“恋”と言わずに何だっていうんだ?」
「…………知りもしない人に恋なんて」
 俺は空を見上げて息を吐く。空気が白く揺れた。
「知りもしなくても、それは“恋”だろう」
 加山はすっぱりと言い切った。俺は眉を寄せる。
「お前は随分経験豊富なんだな。恋とはどんなものなんだ?」
 気の強い姉さんはいるけれど、昔から余り女性に縁がなかった。だから、恋なんてものを経験した事がない。俺は仕切りに恋を主張する友に意地悪く質問した。こいつだって、恋人がいる訳じゃないはずだ。
「そうだな……。その人の事を考えると、胸が苦しくなる。ずっとその人の事を考えて、会いたくて仕方なくなる。声を、聞きたくなる……」
 いつも軽快な友の言葉に、妙に重みを感じた。こいつは、“恋”というものに苦い想いがあるのだろうか。
「そうか……」
 俺はまた息を吐き出した。
「そんな想いを、今、感じてるのか?」
「いや、昔の話だ」
「昔の……?」
「俺にだってあったのさ、“初恋”ってヤツがな」
 加山はいつもの軽い調子でにんまりと笑った。
「“初恋”……な……」
「お前の初恋は、いつなんだ?」
「え……?」
 いきなり問われて、戸惑った。俺は今まで、恋なんかした経験がない。誰かを好きになるなんて、異性に想いを寄せるなんて、今までになかった。
「どんな人だった?」
 加山は更に畳み掛けてくる。どんな……?
 ふと、瞳の中にきらりと金色の星が輝いた。あの人の顔が、浮かんだ。もうはっきりと映し出す事は出来ないけれど、印象的な切れ長の眼。雪のように白い肌。それに、星のように輝く髪。神話の女神を思わせる、際立って美しい容貌に、何処か寂しげな影のある雰囲気。あの薄暗いカフェに溶け込む、不思議な空気感。
 胸が、ぎゅっと締め付けられるような想いがした。あの人はなんなんだ? どうして、あの人の事をこんなにも考えているんだろう? あの人に何があるっていうんだ。
 あの人に…………会いたい。
 もう一度、せめて日本を離れる前にもう一度だけでも、彼女に会う事は出来ないだろうか。もう一度、浅草に行きたい。もしかしたら、会えるかも知れない。
 今度は、きっと声をかける。声が聞きたい。
 美しい人。なのに、どこか儚くて、寂しい人。
 この想いは何だ。この息苦しさは何だ。
 これは――恋、なのか?
 俺は体中から力が抜けるのを感じた。
 そうか。加山の言う通りだ。これが、“恋”なんだ……。
「あぁ……」
 俺は小さく呟いた。
「ん?」
「そうだな。俺の初恋は、“星のような人”だ」
「星?」
「あぁ、きらきらと輝いて、闇の中に凛と光る星」
 加山は星を見上げ、そうか、と小さく呟いた。
「星か……。綺麗だけど……その分寂しいな」
「あぁ、絶対に手が届かない。そんな人だからな……」
 加山は察しているだろう。今、俺の想うその人こそ、美しく煌めいて決して手の届かないその人なのだと。
「お前の“初恋”はどうなった?」
 俺は、何気なく加山に問い掛けた。加山は微かに眉を寄せ、小さく、小さく微笑んだ。
「そうだなぁ……星になったかな」
 俺は、黙ったまま空を仰いだ。加山も同じく空を見詰めていた。闇に瞬く星は目映いばかりに美しいのに、どうしてこんなに胸を締め付けるのだろう。
「初恋は実らないものだって、何かの本で読んだよ……」
 昔読んだ小説だったか。最近は作り話の本なんか読まないけど、昔はよくよく読んだものだった。その中の一つに、そんな話があった気がする。
 本当にそうなんだろうな。
「俺の初恋は実ったさ」
 加山は月を指差し、力強い口調で言った。
「え?」
「ただ、お伽話のように“いつまでも幸せに暮らしました”にはならなかっただけだ。想いが通じ合ったなら、恋は叶ったと言えないか?」
 たとえ、いつまでも一緒にはいられなくても、心が結ばれたなら。俺は深く頷き、加山の指す月を見遣る。月の側に赤く燃える火星は、まるで月の零した涙のようだ。
「頑張れよ」
 珍しい言葉だ、加山にしては。しかし、そう言いたくなる気持ちも解るし、素直に嬉しく思う。
「お前もな……」
 実りながらも失われた初めての恋と違い、今、加山も心に宿した想いがあるのだろう。きっと。
 誰の心にも、人知れず……



 “恋”なんて想いを、俺は知らない。感じた事もない。だけど、胸に沸き立つ衝動に“恋”と名を付ければ、総てはすんなりと俺の中に入ってくる。まるで、初めからそこにあったかのように。
 いつか、この想いは消えるだろうか。それとも……
 二度と訪れる事のない邂逅。それでも、願いはいつか叶うのだと、その想い一つ胸に携えて、俺は毎晩星を辿る。満天の星空に、彼女の姿を見付けるまで、ずっと、探し求める――


いつか、会いたいと思う。
将来のことなんか解らないけれど。
もしも、また会えたとしたら……それこそ運命じゃないか?

いつでも星を辿り、君を思う。


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