生きる事に、意味はありますか?
 悲しみに埋め尽くされて、それでも生きていたいですか?
 苦しみも総て、受け止めていられますか?
 愛する人も、いないのに……――



    Angel Calling


「天使を待つ少女」
 物語にでも出てきそうな少女が、紐育にいるという噂がある。その生い立ちは誰もが知っている。
 少女は、前年、母親を亡くした。マフィアの抗争に巻き込まれ、流れ弾に当たって。父親は仕事で帰りが遅いということになっているため、父親が帰るまで、町の片隅にある小さな教会で神父が預かっている。しかし、もう半年以上迎えに来ていない。半年前までは毎日のように来ていたが、浴びるように酒を飲んでいて、家では少女に暴力を振るうのが日課だったという。少女は傷だらけになった。母親の死と父親の虐待とが、彼女の心と口を閉ざした。少女は声を出す事が出来ない。その内、父親は迎えに来なくなった。女とどこかへ行ったという話もある。
 少女は今、毎日教会で天使が来るのを待っているだけ。母親が生前に言っていた、幸せを運んでくる“天使”を……――


 一九一八年十二月二十三日。紐育。
 街の片隅にある小さな教会に、二人の無法者が飛び込んできた。一人は中年の男。もう一人は、若い女であった。女は、男を追っていた。女は教会の十字架の前でやっと彼を追い詰め、彼の眉間に銃口を突きつけた。
「助けて……くれ……」
 女は何も言わない。静寂を引き裂いて銃声が轟き、大理石で出来た白い十字架に赤い血が飛んだ。彼女は顔に浴びた鮮血を拭おうともしなかった。人の命を奪ったと言うのに、泣きもせず、笑いもしない。大人びてはいるが、彼女はまだ少女と呼べる年であった。だが、握り締めた銃の引き金を躊躇いもなく引き、その事にまるで無関心のように見える。まるで、悪魔。
 マリア・タチバナ――それが、この悪魔の名前である。もとは、天使のような少女だった。だが、彼女は悪魔に魂を売り渡した。この先の人生を絶望で埋め尽くしたいがために。
 人を殺す。マフィアの世界で。だが、大抵の場合、その理由は聞かない。指令が出て、それに従うだけ。理由を知る必要など、ない。それが普通だ。この仕事が例外なだけ。指令を伝えに来た男が勝手に話したのだ。敵対するマフィアがある仕事を成功させようとしている。当然、汚い手段で。それを、邪魔するために、幹部の一人を片付ける。見せしめのために。それだけだ。ようは、ライバルの邪魔をしようというだけ。子供の喧嘩となんら変わりはない。
「馬鹿馬鹿しい……」
 自分の呟きにすら同じ事を思いながら、マリアは胸に銃をしまった。
 その時だった。カタン、と、背後で小さな音がして、マリアは振り返った。夜も遅いため、だれもいないと思っていた教会。そこに誰かいるとなると、後々厄介だ。場合によっては、その人も殺さなければならない。だが、マリアはそんな事すら考えられなかった。そこには、幼い少女が一人立っていたのである。
 薄暗い教会では、ステンドグラスから差し込む雪明かりにその影が浮かぶだけだ。それだけで十分姿は確認出来るが。
 その後自分がとった行動を、マリアは殆ど覚えていない。無意識だった。少女と床に転がる男の死骸を交互に見、マリアは咄嗟に叫んだ。
「見るな!」
 急に駆け出し、少女の身体を抱き上げて教会を飛び出す。その間、少女は身動き一つとらなかった。音を立てて扉を閉め、マリアは少女を雪の上に降ろした。夜闇の中で顔についた血を拭うと、途端に自分の事が解らなくなった。どうして、こんなに慌てているのだろう。別にこの子がどうなろうと関係ないではないか。……関係ないではないか。ただ、何故か子供には見られたくなかった。平気で人を殺している自分にとって、道徳観や倫理観などと言うもの程似合わないものはないが、今、自分はそれによって行動していた。
 矛盾している。私は、悪魔にはなれないのか……?
 だが、悩むより先にやるべき事がある。マリアは、少女の方を向いた。
「帰りなさい。こんな時間に、子供が一人で出歩くものじゃない。それに、今日はこの中に入らない方が良い」
 マリアは、出来るだけ優しく言った。それが、彼女にとってどれ程難しいか。少女は頷くと、抱えていたノートを開いた。ノートは、異常に薄っぺらで、千切った跡がある。書いては破り、書いては破りして此処まで薄くなったようだ。そのノートに、ポケットから取り出した古びたペンで何か走り書きすると、少女はマリアに手渡した。
――うん。でも、最近この辺で多いですよ。
 突然、返答を書かれた紙を渡され、マリアは首を傾げた。
「……まさか、口が……」
 少女は、小さく頷いた。
「……そうか。ところで、多いというのは……」
 マリアの問いに、少女はまたノートにペンを走らせた。
――お姉さん、マフィアの人でしょう?
「ああ」
 よく解っていることだ。慣れほど恐ろしい物はない。こんな幼い少女から、こんな言葉が出てくるのだから。子供は無邪気で恐ろしい。
――私のママも、それで死んだから。
 少女は、あどけない表情で笑った。あんな物を見たというのに。すると、少女の長い金色の前髪が揺れ、露わになった額に生々しい傷が覗いた。赤い、切り傷。薄暗く見え難いが、目を凝らせば頬や首筋にも傷痕が見える。恐らく、身体にも――。明らかに、人為的なものだった。
 何故、こんな……
 考え始めたマリアの脳裏を、ある言葉が過ぎった。
――天使――
 もしやこれが、噂の少女か。あの、「天使を待つ少女」――。教会、虐待されたような傷痕、そして、口が利けない少女。総てが噂の話に当てはまる。

 マフィアに母親を殺された少女だ。

 雪はしんしんと降り続けていた。マリアは何か罪悪感のようなものに苛まれ、実際より酷くゆっくりと時間が流れているような気がしていた。ずっと、ずっと、少女は微笑っていた。思わず、目を反らしそうになるほど純粋な笑顔。純粋で、残酷。だが、彼女から目を背ける事が出来なかった。少女の瞳が、まるで誰かと同じようで――目が離せなかった。
 マリアは、何もいう事が出来なかった。動く事も、話す事も、許されないような気がしていた。
――お姉さん、名前はなんていうの? 私は、イヴ。
 少女――イヴは、ノートに走り書きして、マリアに見せた。慌てる様子もなく、至って自然な動作だった。こちらの迷いなど、お構い無しだ。しかし、マリアはきりと唇を噛み締めた。……何故、この娘は……。
「お前は、マフィアに対して何の恨みも持っていないのか? 母親を殺されたというのに……」
 例えば“あの時”気が狂っていたとしたら、銃を乱射していたかも知れない。あの場にいた白軍の者を片っ端から調べ出して、銃を向けていたかも知れない。なのに。
――解らない。でも、お姉さんがしたんじゃないから。
「何故、解る? 顔を見たのか?」
――いいえ。でも、お姉さんはそんな事、しないから。
 確かに違う。去年はまだ、紐育にいなかったのだから。だが、母親が意味もなく殺されて、それでも人を信じる幼さがマリアに奇妙な感情を抱かせていた。決して、良い意味の感情ではない。
――名前は?
 再び問われる。
「……マリア」
 吐き捨てるように名乗った。
――聖母様と同じ名前ね。
「ああ……」
 よく言われる。自分と全く正反対の女の名だと。同じなのは、名前だけ。
――じゃぁ、天使様のいるところ、知ってる?
 小さな指が握り締めたペンに語らせた言葉に、マリアは表情を硬くした。同時に、やはり、とも思った。
――待っているの。天使様を。
「知らない……。そんなもの、いないよ」
――いるよ。でも遠いかな?
「知らない」
――私は、近いと思ってるの。
「何故?」
――ママはすぐに行っちゃったから。
 あどけない笑顔。屈託のない笑顔。笑いながら言うような事か。この娘は、おかしいのではないか。だが、やはり目が離せない。この娘の瞳は誰かに似ている。
――天使様は、幸せを運んでくれるのよ。
「そうか……。お前にそんな天使がいれば良いな」
 心にもない言葉だった。適当にやり過ごして、彼女と別れたかったがために口から出た虚言。
――いるよ。
「え……?」
 さも当然のように肯定するイヴ。マリアは、思わず声上げた。
――ママ。私、ママといる時が一番幸せだった。私のママは、天使様よ。
「…………」
――ママが、私を迎えにきてくれるの。私はそれを待っているの。
 つまり……――
 マリアは、眉一つ動かさず彼女を見詰めた。無邪気な笑顔。天使を待つ、幸福な少女。そうか、そういう事か……。
 マリアは、再び黙り込んだ。彼女から目が離せない。その瞳に、吸い込まれてゆきそうだ。どれ程そうしていただろうか。いつの間にか肩に雪が積もり、闇に溶けそうなマリアのコートが、白く浮き上がっていた。少女の呼吸が一瞬空気を深く淀ませると、マリアはやっと我に帰った。マリアは無理矢理イヴから目を反らした。すっと立ち上がり、彼女に背を向ける。すると、イヴはいきなりマリアの服の袖を掴んだ。
 待って。どうやら、そう言いたいらしい。そうして、またノートに走り書きし、ページを千切った。その紙を丁寧に折ると、マリアに差し出した。受け取れ、というのか。赤い指は躊躇うように空を彷徨い、しかし、結局はその紙を奪い取った。
「早く、帰れ……」
 彼女の顔を見る事も無くそう告げて、マリアは雪の街に消えて行った。
 マリアは、雪の降る暗い空を仰いだ。翡翠色の瞳に雪が入り、彼女の体温で溶けて涙のように流れ落ちる。肌に触れた雪は、いつしか体の熱に溶けてしまう。
 ……自分だけが生きている。早く、雪になれたら良い。

 早く……
 早く……
 早く……――


 自分の住む部屋に着くと、マリアはおもむろに手を開いた。さっきまで固く握り締めていた手の中で、あの紙が丸まっていた。

――24日、もう一度来て下さい。

 たったそれだけ、書かれた紙。少女の笑顔が瞼の裏を過ぎる。純粋な、笑顔が。
「…………」
 マリアはもう一度紙を手の中で丸め、ゴミ箱に向かって放り投げた。


 翌日、一九一八年十二月二十四日。
 この日も、雪は夜まで降り続けた。これ程の寒さと雪が続くのも、珍しいことだ。この日の夜半頃、マリアは馬車に乗っていた。積もり積もって深まる雪は、馬車の車輪を滑らせた。何の馬車か、マリアは知らない。恐らくは、酒か何かだろう。いつも通り用心棒の仕事だ。馬車は進みが酷く遅く、カーブのたびに滑っては道を外れた。広い広い荒野を駆ける馬車。こんな雪の日に何の準備もなく馬車を駆らせようとは。かつて住んでいた国では考えられない事だ。
 昔、凍えるように寒い雪の夜、トロイカに乗っていた事があった。手綱を繰る“彼”の腕に包まれながら。その頃は、まだ幼かった。幼い少女だった。子供だった。子供染みた馬鹿な考えで、自分に出来ないことはないと信じていた。愛することも、愛されることも叶うのだと。目の前で緋の花が散ったその時でさえ、信じて疑わなかった。愚かなほどに。


 銃声が響いた。馬に乗り、銃を振りかざした男達の影が近付いてきた。いつもいつも、どこからこんなに現れるのか。どこからか情報が漏れているのだろうか。諜報部の者がそろそろ間者を捕まえても良い頃ではないか。それとも、わざと死地に送り込んでいるのか。いや、それならその方が有り難い。死ぬなら、早い方が良い……――――
 死の瞬間を瞼に浮かべ、マリアは銃を構えた。
 が、今宵も雪にはなれなかった。地面一杯に散らばった人形の部品と動力液。その中で、自分だけがやはり自分の意志で動いていた。押し付けられた生の中で、自らに向ける事の出来ない銃を握り締めている。
 白く染まった荒野。紅に染まった雪。懐かしい風景だ。戻るまいと決めて、もう何度この風景の中に戻ってきただろう。“あの時”と同じ。愚かな子供だった頃と同じ風景に。
 子供は馬鹿で愚かだ。だが、子供染みた愚かな考えを、人は時に“純粋”と呼ぶ。そんな事を思いながら、マリアはイヴに想いを寄せる。隠しても隠し切れない無数の傷。あれほどまでに傷付いても笑っていられる。純粋な、希望に満ちた笑顔。子供にしかない愚かな笑顔。
 その愚かさが羨ましいのだろうか?――マリアは疼く左胸を抑えた。解らない。けれど、同じだ。“あの日”以来直視した事のないこの身体にも、恐らく傷が残っているはずだ。腕に、足に、胸に、背に、戦場で受けた無数の傷。もしかすると、臓器の中にも。子供の頃の記憶。
 自分も彼女も、傷を抱えて、“死”を望む。破滅か、天使か。名前は違うけれど。自分は破滅と言う名の天使を待ち、彼女は天使という名の破滅を待つ。自分は総てを捨てて、彼女は微笑って。
 そうか。誰かに……誰かに似ている、そっくりだと思っていた。彼女の瞳。まるで同じ。――自分と。“死”を望む者の瞳。向かい合えば、鏡に映したようだったはずだ。目が離せないと思ったのはその所為か。
 それに、本当は知っている。死にたくなるほどに苦しくても、微笑っていられるココロ。愚かな子供のココロ。自分も、そうだったから……
 地上に広がる黒い雪から視線を反らすように、マリアは天に瞳を向けた。
 “24日、もう一度来て下さい。”
 彼女の手紙の文面を思い出す。二十四日。今日、だ。
「……クリスマス・イヴか……」
 もう随分長い間無関係だった行事。この日、子供は皆、望む物を手に入れる。だが、彼女はどうだろうか。彼女が本当に望む物を与えられる人間は、何処にもいない。自分以外は。
 マリアは、紅い手の中の銃に視線を落とした。自分によく似た少女。目が離せない、儚げな少女。傷だらけの少女。天使を待つ少女。
「天使を、あげようか……――」



 彼女の頼みなど、関係ない。自分の意志でやって来たのだ。この教会に。
 教会の中はガランとしていた。死体は片付けられたらしい。警察も、毎日のように起こるマフィア同士の殺し合いなど、もう興味はないようだ。市民が巻き込まれたりしないかと警備をしない辺りを見ると、成程、この辺りが紐育の中でもどれだけ寂れているかよく解る。生命の営みを感じない、澄み切った空気。空虚だった。
 十字架に磔にされた男は、虚ろな瞳でマリアを見詰めていた。彼の白い肌には血が付着している。昨日の血が。永遠の哀しみを湛えたかのような男に、マリアは冷めた瞳を向けた。男の瞳は白いほどに白く、死してなお崇められ、愛され……その誕生と生涯を賛美されている。
 マリアは教会の中を見回した。誰もいない。この十字架の男以外には。時間も何も指定されてはいなかった。今は、昨日のそれと時間はほぼ同じ。二十三時を少し回った頃だ。待っていれば、いずれ現れるだろう。そうしたら。そっと、左胸の辺りを確認する。銃の感触。この胸の物は、“彼”がくれた。
「“貴方”は、私にとって神のような人でした。救いの、神……――」
 自分にしか聞こえないほどに小さな声で、マリアは呟いた。かつて、本人に向かってそう言った事がある。伏せた瞳の奥に、“彼”の顔が見える。
「何故、そんな表情をして……」
 囁きながら、マリアは指の背で額を撫でた。思い出す。突きつけられた銃の、凍りつくような感触。吹雪にかき消されて聞こえなかった、“彼”の言葉。最初の言葉。最後の言葉――
 イエスが微笑んでいるように見えて、マリアは彼の像から目を反らした。瞳に浮かぶ“彼”とは正反対の表情。
 すると、重々しく扉を開ける音がして、マリアは振り返った。イヴだ。
――約束、守ってくれたんだね。
 イヴは、さっとノートに書き、マリアに差し出した。
「約束をした覚えはない。お前が勝手に押し付けただけだろう?」
 冷めた声で返す。イヴは頷いた。そして、何かに酔い痴れるように、満面の笑みを浮かべた。それが、いつもとなんとなく違う笑顔のようで、気に障った。
「どうかしたか……?」
――マリアの声、ママに似てる。優しくて、とても澄んでいるね。
 イヴは、そっと瞳を閉じた。“ママ”の声を思い出しているのだろうか。マリアは、そんなイヴを見詰めていた。初めてだ、この声を優しいと言ったのは。言われた事があるとすれば、低くて、まるで――悪魔だと。
――私、マリアの声が大好き。
 無邪気に微笑む少女に、笑い返す事など出来るはずが無い。誰もが嫌ったこの声を、好きだというこの少女に。あまりに無邪気で、残酷で。確かに、自分もこんな少女だった。こんな私を、“彼”はどう思っていただろうか。
 手近な机の上でイヴの手がノートに浮かび上がらせる文字は、ゆらりと蝋燭の炎に揺れた。
――ママの声、聞かせてあげる。だから、マリアもママに聞かせてあげてね。
「え?」
 先の言葉に続いた行りに、マリアは喉の奥から声を立てた。それはあまりに唐突で、突拍子もない事だった。マリアの戸惑う表情に微笑みながら、イヴは続けて書き足した。
――マリアも、天使様に逢いたいんでしょう?
「…………」
 天使に、逢う――それは、つまり……つまり……――
 まるで解らないというわけではない。だが、本当にそれをそれとして受け止めて良いのか。
――私と一緒に、行こうよ。
「何処に?」
――天使様のいる所。
――天使様が迎えに来てくれるの。マリアも、望んでるんでしょう?
「何故、そう思う?」
 平静を装って、問い返す。その答えは、すぐに紙の上に表れた。
――私と同じ瞳をしているから


 あぁ……


 疼く左胸。そこに仕込んだ、鉄の塊。血塗れの、銃。マリアは、紅い手で、漆黒のコートのその部分を握り締めた。
「私は……」
 だが、その言葉は最後まで続かなかった。外で、人の気配がしたのだ。それも、一人や二人ではない。空気で解る。不穏な動き。その刹那、物の焼け焦げる臭いが辺りに立ち込めた。
「これは……」
 思わずマリアが手で口元を覆った時、教会は炎に包まれた。辺りを見渡す。四方の壁が焼け始め、煙が上がっている。扉付近が燃え、室内が恐ろしいほどに明るくなる。赤々と炎が上がり、マリアとイヴの影が重たく床に焼き付けられた。
「どういう事だ……」
 何故、こういう状況に陥ったのか解らなかった。解るのは、教会が焼かれているという事。そこに、自分がいるということ。そして、この異常に落ち着いている少女・イヴが、何かを知っているという事……――
「はいかいいえで答えてくれるか? 頷くか、首を振るかで良い。……今、教会が燃やされている。お前は、それを知っていたんだな?」
 マリアの問いに、イヴは首を縦に振った。
「マフィア、か?」
 更に、頷く。
「……何故知っている? 誰かが話しているのを盗み聞いたのか?」
 はい。
「つまり……此処にいれば、天使に逢えるというわけか……。それで、私を呼んだ、と……?」
 頷くより、イヴは笑顔で返事をした。彼女は、ようやく望みが叶えられるのだ。そして、マリアも。聡明な子。総てを解っていたのだ。
 マフィアは、恐らく教会を焼き、新しく教会を建てるために州から出される金を横領しようとしているのだろう。そしてそれは、マリアが属するマフィアと敵対する組織。昨夜、殺した男の属する組織。いつか、話に聞いた気がする。まるで気にもかけていなかった事だ。まさか、その場に自分がいるなどとは、考えてもみなかった。
 この少女は、その計画を知り、天使を待つにはうってつけだと思ったのか。
「……有り難いな。これでやっと、お前は母親の元へ行けるわけだ……」
 マリアは呟き、胸元を探った。鈍く輝く金色のペンダント。ロケットだ。
「私も、みんなの元へ……」
 マリアの言葉に、イヴは首を傾げた。
「みんな、だ。両親も、恩人も、みんな死んでしまった……。だから、私は死ななければならないんだ。でも、自分で死ぬ事は赦されない……」
 そっとマリアの唇がロケットに触れる。
「やっと……」
 無実の罪に苦しめられた父。地位も名誉もなげうって、母と自分を愛してくれた父。ただ、日本人と言うだけで傷つけられた母。その国籍ゆえに、その国で生きる事を赦されなかった母。死のその瞬間まで、残される自分の事を気にかけ、抱き締めてくれた母。そして、母国を想い、平和を願って死んだ者達――
 どれくらい、時間が経ったろうか。
「苦しそうだな……」
 呟くように、イヴに声をかけた。熱そうだ。煙も次第に濃くなり、幼いイヴの身体はその苦に耐えられそうになかった。イヴは、いつしか床に張り付いていた。
「早く、逝きたいだろう……?」
 涙で潤む瞳で、イヴはマリアを見上げる。マリアは、懐から銃を引き抜いた。母の死後、“彼”に拾われてから、今、この破滅の時まで片時も離さなかった銃。眠る時ですら、枕元に忍ばせていた、愛すべき片腕。
 炎の向こうで、誰かが叫んでいる。男の声。少女の名を呼んでいる。――神父か。こんな古い、信徒の少ない教会だ。燃やしたところで、再建の可能性は少ない。神父がいなければ。だが、そこに就く神父がいれば話は別だ。恐らくこれを計画した者達は、神父を脅迫していたか、もしくは、そんな事は一言も話さずに今夜無理矢理教会から引きずり出したのだろう。鼓膜の底に響く音を突き破って、二人の耳を震わせていた。
 マリアは、ロケットを握る左手を硬くした。人を殺すのは慣れている。今更、この程度の事、なんとも思わない――――はずなのに。なのに、どうしてだろう。苦しい。呼吸、いや、胸が。何故か、胸の奥が痛む。
 ……良い。さっさと彼女の元に、天使を連れて来てあげよう。マリアは、銃の弾奏を開いた。空の弾奏に、一本だけ、弾を詰め、閉じる。覚悟を決めたかのようなイヴの眼差し。幸福感と、ほんの少しの不安。大丈夫、と語りかける事もなく、マリアは彼女の眉間に銃口を突きつけた。
 ……冷たい……
 イヴの唇が囁く。声はない。唇だけが。

 冷たい……?
 炎の中にある鉄の銃が……?
 …………ああ、そうか。
 そうだな。道理で……。

 自分には、他の人にはない力があるのかも知れない。そう、薄々感じていた。初めてその力が爆発的に発動したのは、“あの日”。目の前で、雪の中に崩れ落ちるあの人の姿を見た時、思わず銃を投げ出し、駆け寄った。それなのに、周りは敵だらけだったというのに、自分は無傷だった。抱き締めた彼の体が、次第に凍りついていった。
 今までだって、死にそうになった事は何度もある。それを、自分では“破滅”と呼んでいるが、結局は、ただ死にたいだけだという事も解っている。だが、死んでいない。
 この力の所為なのか。死を望めば望むほど、死が遠くなるというのか。だとすれば、今も同じ事だ。この炎の中にいながら、まるで熱さを感じていない。それに、銃に“力”が移っているとしたら、冷たくもなる。
 それでは、もしや彼女も死ねないのだろうか……?
「……大丈夫」
 自分に言い聞かせるように囁き、マリアは引き金に人差し指をかけた。
「バイ……」
 小刻みに震える手に力を込める。力を、込める。力を……
 イヴの瞳は赤く燃えながらじっとマリアを見詰めていた。“死”を前にしても崩れない、幸福な笑顔。死を望んでいた時と同じ、幸福な笑顔。どうか、苦痛に表情を歪めて。悲痛に叫ぶ人間を殺す方が、楽なのだから。罪の意識に苛まれる事が出来るのだから……。
 マリアは、そっと、瞳を伏せた。ロケットを手の中に感じながら。
 かつては“彼”を救いの神のように思っていた。その“彼”に、自分はこんな想いをさせたのか……
 ゆるゆると視線を上げると、炎の中に吹雪が見えた。幻覚。視界の中で、吹雪の景色がみるみる内に広がっていった。




 “彼”は、少女の眉間に銃口を突きつけていた。吹雪の中で、真っ白な空間で、二人だけが存在していた。僅かばかりの不安と、それを大きく上回る幸福感に満ちた少女の翡翠色の瞳。先程から、全く絶やさない笑顔。
 引き金を引けば、彼女の総てが終わる。苦しみも、悲しみも、総て。それが、“彼”の結論だった。
 死にたいのだと微笑い、何度も目の前で自殺を試みた少女。凍りついた河に飛び込もうとした彼女を止めた。しかし、彼女はその腕を逃れ、今度は枯れ木の枝で喉を突こうとした。来ないで、止めないでといわれても、その通りに出来るはずが無い。いくら初対面だといっても、人が死のうとしているのを見過ごせるわけが無い。
 だが、それも彼女の生い立ちを聞いた時に終わった。日本人の母親。無実の罪。流刑。父親の死。母親の死。村からの脱走。自由を手に入れても、子供一人でどうすれば生き抜けよう、この時勢に。国中に革命と言う嵐が訪れたこの時勢に。両親もなく、頼る当ても無く、ただ広いだけの白い荒野に放り出された子供が。
「俺も、どうせ人殺しだ……」
 そう囁いて、銃を抜いた。
 これが、彼女の短い人生の最後だ。これから起こるかも知れない幸福も、今までの苦しみに覆い隠して、初めから無かったことにしてしまうのだ。それなのに……どうして微笑っていられる?
 苦しみから逃れられるのが、そんなに嬉しいか?
 両親といた時の美しい思い出だけを持って、逝く事が……?
 そうかも知れない。けれど……

 何故……?

 少女の瞳は、静かにこちらを見詰めていた。


「イ……ヴ……」
 マリアは、初めて彼女の名を口にした。そして、紅い手袋を外すと、火照った彼女の頬に触れた。その異常な高温と、それを感じる手の異常な低温。
「…………御免ね」
 燃え盛る炎の轟音にかき消されて、マリアの呟きはイヴの耳には届かなかった。
 本当にそれが正しいのか、解らない。彼女の望みは、叶えられないのだから。けれど……
「これで、良いんですよね……? ユー……リー……」
 炎に包まれたイエスが微笑んでいるように見えて、マリアは静かに微笑んだ。
 その後の事を、マリアははっきりとは覚えていない。無我夢中だった。初めて逢った時のように彼女の体を抱き上げ、教会を飛び出した。雪になれない氷の身体で、燃える扉を突き破って。


 貴方とまるで同じ瞳をしていた人間を、知っている。
 自分の死を望みながら、微笑みながら……。
 貴方は、あの時の“私”と同じ顔をしている。
 そして私は、あの時の“彼”と同じ顔をしている……?


 バックドラフト。まるで玩具が壊れるように崩れ落ちる教会の音を、マリアは背中で聞いていた。イヴを抱えたまま。二人を取り囲む人々の歓喜の声。驚喜の声。聞こえない。何も聞こえない。ただ、耳の中で“彼”の声だけが静かに響いている。
 “…………すまない”
 きっと、そう。聞き取れなかった、あの時、吹雪の中で彼が言った言葉。そして自分は、あの時の“彼”と同じ事をしている。
 黒い腕の中に、マリアはイヴの華奢な身体を抱き締めていた。力強く、折れそうなほどに。
「生きなさい……」
 彼女の耳元で、そっと囁いた。
「生きなさい。貴方は……私とは違うんだから」
 生きる事が、赦されるのだから。
「生きなさい……苦しくても……」
 “彼”は、そうして生かしてくれた。自分には、“彼”のように貴方に幸せをあげる事は出来ないけれど。
 自分は悪魔だから、もう貴方の側にいる事は出来ないけれど……――
 引き離した小さな身体。引き止める声も聞かず、マリアは走り出した。


 私は、貴方とは違う……
 私は、貴方とは違う……


 呪文のように、繰り返す。



「あなたは、天使様……?」



 幻のように、遠くから少女の囁くような声が聞こえたような気がした。
 立ち止まり、一度だけ、たった一度だけ振り返る。そこには誰の姿も無い。教会も、人々の声も遥か遠く。静まり返った、闇に沈む街。
“天使”
「違う……」
 “天使……様……”
「違う、違う、違う、違う――」
 何度も繰り返す。

 私は、天使じゃない……
 私は、破滅を待つ悪魔なんだ……
 純粋な物を汚す、悪魔なんだ……

 白い手の中にロケットを握り締め、雲間からのぞく月を振り仰いだ。




 翡翠の瞳から流れたのは、雪の雫だったのだろうか……?





 Merry Christmas……


死ぬ事よりも、生きる事の方が辛い。
それでも、生きなければならない時がある。
天使が、見ている。


INDEX

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