雨にけぶる赤の花。
 貴方の側でも咲きますか?



   あなたを愛します。



 僕は空っぽだった。
 お父様の言いつけ通りに、毎日カーキ色のズボンと白いカッターシャツを着て、背筋をぴんと伸ばして歩く。僕はカーキ色が嫌いだ。なんだか土の色みたい。僕は花の色の方が好き。そう言ったら、お父様に怒られた。だからもう、二度と好きな物の話はしない。嫌いな物の話もしない。一番嫌いなのはお父様だから。
 いつも怒るお父様。哀しそうなお母様。笑うのが苦手な僕。――変な家族。
 僕は、六月が好き。お父様にもお母様にも言わないけれど、六月が一番好き。雨が降って、総ての色が消えて行く感じが好き。僕も消えちゃえば良いのに。
 お父様の人形のような僕。お母様を泣かせている僕。僕は僕が嫌いだ。

 梅雨に入ったばかりの朝。昨日の降った雨に色を拭い去られた世界が、鮮やかな色を取り戻していた。目に映るもの総てがモノクロオムの世界を縁側から眺めていると落ち着いたのだけれど、今日は妙に明るい。僕はほぅっと息をつく。空気が少し白く濁った。もう六月なのに、寒い。
 雨だから、今日は行進はないだろうな。武道場で剣術と柔術と合気道……それか、射撃か。お父様は朝早くから軍の仕事に出てる。今日は、誰が来るんだろう。斧彦さんなら良いな。僕が身支度を整えて居間に行くと、お母様は出掛けの支度を整えていた。今日は学校は休みの筈なのに、何処へ行くのだろう。
「お早うございます、お母様。お出掛けされるのですか?」
「えぇ、知人のお宅へ御邪魔するの。琴音さんもいらっしゃい」
「え、でも……」
「良いのよ、偶には。お父様もいらっしゃらないし、斧彦さんには言っておきますから。斧彦さんなら解って下さるでしょう」
 お母様が柔和な笑顔を見せて下さるのは、お父様がいらっしゃらない時だけだと僕は知っていた。
「遠いのですか?」
「そうね、少しだけ遠いかしら。蒸気自動車で三十分くらいよ。メトロでも同じくらいかかるわ」
「お父様には……」
「内緒にしておきましょう。私が一人で行った事にしておきますから」
 お母様は、唇に人差し指をあてて微笑んだ。こんな風に楽しそうに笑うお母様を余り見た事がなくて、僕は嬉しくなった。お父様はとても厳しくて強くて、お母様もよくぶたれてるから、お父様がいなくてきっとほっとしてるんだろう。僕も少しほっとしている。だけど、同時に怖くもなった。お父様にばれたらどうしよう……。

 朝食を済ませたら、いつも通り六時半に斧彦さんがやって来た。斧彦さんはお父様の旧友の息子で、僕に武道を教えてくれている。他に剣(つるぎ)さんと槍治(そうじ)さんというお兄さんがいて、交代で毎日来る。斧彦さんの太田家は江戸時代は代々松本藩の御殿医だったらしい。今は軍医の家系だけど、軍隊に携わる以上武術も心得ておかなくてはならないと、武道は一通りやってる。剣道、柔道、合気道に、弓道、長刀、居合。僕は取り敢えず、剣さんから剣道、槍治さんから合気道、斧彦さんから柔道を教わっている。他に、読み書きや銃火器の扱い、射撃、歴史と、色々な勉強をする。お父様はこれに杖術や槍術、空手、中国武術にフェンシングと、僕が大人になるまでに詰め込めるだけの物を詰め込み、身につけられるだけの物を身につけさせるつもりでいる。僕を士官学校に主席で入学、卒業して、歴代最年少の大将にするために。それも、そう簡単に塗り変えられない記録にするつもりだ。その上、僕の息子をどうするかも決めているという。僕が結婚出来るようになるまで十年はあるのだけど。僕は、お父様の望む通りに生きる。それだけが僕の価値。僕の意志なんか関係ない。僕は、お父様の為に生まれ、お父様の為に生き、お父様の為に死ぬ。お母様は、それを嫌がっている。僕を自由にするように、お父様に進言する。その度にぶたれる。お母様には、もうやめて欲しい。僕は平気だから……。お母様は、僕がそれを望んでいるのか再三聞いてくれたけど、僕は何も答えられない。嘘はつきたくないけれど、考えてみたら、僕は、何も望んでいないんだ。良いとも嫌とも思えない。
 好きも嫌いも、僕にはない。剣さん達に比べたら斧彦さんの方が好きだけど、斧彦さんと武道の稽古をしたいわけじゃない。もっと他の事がしたい。だけど、それが何かは解らない。僕には何が出来るのか。
 斧彦さんはお母様が出迎えて、僕は隠れてた。病気とか言って誤魔化すと思っていたから。
「斧彦さん、折角来て頂いたのに申し訳ないのだけど、今日のお稽古はお休みにして頂けませんか?」
「琴音君、体調を崩されたりしているのですか?」
「そうじゃないんだけど……少し出掛けようと思っているんです」
「成程。藤原少将には秘密ですよね?」
 斧彦さんはさっきのお母様みたいに、楽しそうに微笑った。
「兄達が軍事訓練に参加しているので暫くは私が伺いますから、また明日来ますね。――琴音君」
 斧彦さんは、奥にいる僕に声をかけた。隠れていたつもりだったけど、ばれてた。僕が顔を出すと、斧彦さんは僕に手招きした。
「偶には羽を伸ばしておいで。柔道は、私が考えていたよりずっと上達してるから」
「羽を伸ばす?」
「ゆっくりしておいでって事さ」
「え……あぁ、はい」
 斧彦さんが、僕の頭をぽんぽんと叩いた。
 お母様は斧彦さんを信頼してる。剣さんや槍治さんだったら、きっと直ぐにお父様に報告をしているし、僕にこんな言葉をかけたりもしない。斧彦さんは身体が大きくて筋肉質で逞しいけど、女の人みたいな柔和さがあるとお母様は言う。僕もそう思う。お父様は、斧彦さんより剣さんや槍治さんを気に入っていて見習えと言う。お父様が言うには、斧彦さんは人の上に立つ人間じゃないって。人の上じゃなくて同じ高さにいるから良いとお母様は言うのだけど。お母様とお父様は根本的な考え方が違う。
「いってらっしゃい」
 笑顔で見送ってくれた斧彦さんが、後でこっそりお父様に言いやしないかと不安になったんだけど、お母様は大丈夫だと言った。僕は、お父様の言う事と違う事をするのが怖い。誰かが裏切る気がして。以前、剣さんがそうだったから。前日の合気道の稽古で腕を捻って竹刀が握れず、一日座禅を組んで終わったけど、剣さんはお父様に僕が稽古嫌さに嘘をついてサボったと報告した。僕はお父様に叱られ、そんなに正座がしたいなら、と、二十時間殆ど飲まず食わずで道場で正座をさせられた。斧彦さんは、今まで僕に嫌な事はしなかった。でも、この先もそうだとは言えない。誰が裏切るかなんて解らない。お父様は怖いし、偉い人だから。お父様に逆らったら、陸軍では大変な事になるらしいから。
 怖かったけれど、僕はお母様に連れられて家を出た。蒸気自動車は、西岡が運転してくれた。お母様の乳母の息子で、お母様が嫁いだ時、藤原家の執事になった。無口で口が堅い。お母様は、信用してるらしい。召使い達はみんな何でもかんでもお父様に告げ口するのに、この人だけ信用出来るなんて感覚は理解出来ない。僕は黙って座席に座り、お母様は西岡と話をしていた。
「十二時までに帰れるように迎えに来て下さいね」
「かしこまりました」
 西岡は低い声で答えた。お母様は座席に深く座って、僕に笑い掛けてくれた。やっぱり、お母様はお父様のいないところの方が穏やかで楽しそうだ。
 窓の外を流れる街は、所々に瑠璃や紫の鮮やかな花に青葉を添えて、梅雨の半ばに空から降りた光に照らされている。
 あの花は何というのだろう。煌めく瑠璃色の花。
 僕はぼんやりと窓の外を眺めていた。



 蒸気自動車は、大きな洋館の前に着いた。眩しいくらいの白い壁、広い庭には色とりどりの花が咲いている。若い女のお手伝いさんが、門を開けてくれた。庭に入ると、まるで別世界のように空気が澄み切っていて、僕は思わず深呼吸をした。
「いらっしゃい、雅さん」
「お久し振りね、吉野さん」
 お母様は、明るい声でお手伝いさんに挨拶をした。この吉野さんという人とお母様は親しいみたいだ。お母様は吉野さんに、僕の事を紹介してくれた。僕は今までに見た事もない庭に魅せられて呆然としていた。
「どうしたの、琴音君?」
「あんまり見事なお庭だから吃驚しているのでしょう。うちの庭園も大きいけれど、こんなに鮮やかなお花は咲いていないから」
 お母様の言う通りだ。うちのお庭は綺麗だけど石と樹ばかりで、花をつける植物も少ない。
「なら、色々見て来ると良いわ。広いから見応えがあるわよ。裏手の薔薇園は丁度満開だし」
 吉野さんは、僕の背中を叩いた。
「ばらえん?」
「薔薇が沢山咲いてるわ。お嬢様が大切に育てているのよ。琴音君は綺麗なお顔をしてるのに、顔色が良くないわ。もっとお日様の光を浴びなくちゃ。折角、久々に晴れているんだし、お庭で遊んでいらっしゃい。お腹が空いたら、玄関のベルを鳴らして頂戴ね」
 僕は吉野さんに言われるままに、庭を駆け出した。お母様が嬉しそうに見てる。今まで誰も遊ぶ事なんか許してくれなかったから、胸がどきどきした。
 ばらえん……ばら……どんなお花だろう?
 綺麗なお花なのかな?
 見てみたくなった。まだ知らないお花。僕はわくわくして、走った。お屋敷の裏側にあるという、ばらえん。
 それにしても、なんて広いお庭だろう。今まで見た事もないくらい広い。お屋敷も大きいし、離れもある。
 僕は離れの脇を抜け、お屋敷の裏に回った。息が止まりそうだった。なんて……なんて綺麗な花!
 これが、ばら?
 目の前には、大きくて真っ赤な、沢山の花弁を豊かに開いた上品な花が満開だった。奥には白やピンク色もある。
 凄い、凄く綺麗だ。
 僕はばらえんに踏み込んだ。甘くて爽やかな香り。胸が詰まる。こんなに綺麗なものがこの世にあるなんて。ゆっくりとばらえんの中を歩いた。この中にいたら、嫌な事全部忘れられる。僕、この花が好き。好き。初めて思った。花を、好きだなんて。
「あら……お客様?」
 色とりどりのばらに気を取られていたら、後ろから声がした。透き通った女の人の声で、ばらが喋ったのかと思って吃驚した。振り返ったら、そこにいたのは喋るばらじゃなくて、豊かな黒い髪を風に靡かせた、白い肌の、お人形みたいな女の人だった。
「こんにちは。どちらの坊やかしら?」
 僕は慌てて手を後ろで組み、両足を肩幅に開いた。
「藤原琴音です」
 この姿勢は僕の癖で、お父様に厳しく言いつけられて身に付いた。
「まぁ、軍人さんみたいね。藤原先生の息子さんかしら?」
「はい。母と伺いました」
 藤原先生は、お母様の事だ。お母様は日本舞踊の先生で、女学校でも教えてる。女学校の生徒かな?
「いらっしゃい。私は、橘須磨です。そういう堅苦しい姿勢はよして。実を言うと、私はあんまり軍人さんが好きではないの。ごめんね、貴方のお父様を悪く言うわけではないけれど、その……戦争が好きではないから」
「あ、ごめんなさい」
 僕は姿勢を少し崩した。少し悲しそうな貌をしたこの人に、申し訳ない気がして。須磨さんは綺麗な人。ばらえんに佇む須磨さんは、天女みたいに見えた。
「良いの。こちらこそごめんなさい。ねぇ、貴方の名前は、“琴の音”と書いて“琴音”なの?」
「はい。お父様とお母様が一番好きな楽器なんです」
 二人が唯一共通して好きなものが琴の音だったんだって。お母様は琴が上手。僕も弾きたいけれど、お父様が許してくれない。
「素敵ね。私の“須磨”はね、兵庫にある地名なのだけど、とても穏やかで美しい海で、お父様が大好きなんですって。いつか、琴音君も行ってみてね」
「はい」
 須磨の海。彼女の名前になった海を、僕は今すぐにでも見てみたいと思った。
「琴音君は、薔薇が好きなの?」
「はい。今日初めて見たけど、こんなに綺麗な花があるなんて知りませんでした!」
「ふふ。私も大好きな花なのよ」
 微笑む須磨さんが、ばらを一輪撫でた。うん、とっても似合う。
「何色が好き?」
「どれも綺麗だけど、僕は赤が良いです。お母様が舞の時に差す紅の色に似てる……。最近はあまり踊っている姿を見ないけれど、踊っているお母様は、別人みたいに輝いて見えて、美しいんです」
「私も、藤原先生の舞は好きだわ。あんなに美しい踊りを見たのは初めてだったもの……。今、踊っていらっしゃらないなんて勿体無いわ」
 僕もそう思う。清流院流の踊りの免許皆伝で、今、清流院流を継いでいる神楽様より美しいと評判だ。神楽様は男踊りだから違うのは当たり前だけど、神楽様とお母様が二人で舞う踊りは息も出来なくなるくらい美しかった。年に一度、お正月にしか見られないけれど。
「琴音君には、薔薇が似合うわ。とても凛として、情熱を秘めた瞳をしてる」
「え……?」
「薔薇のように、いつも美しく、逞しい人でいてね」
「須磨さんこそ、薔薇がぴったりです!」
 まさか、須磨さんがそんな風に言ってくれるなんて思わなくて、僕は力一杯言ったけど、須磨さんは俯いて首を横に振った。
「私は違うの。強くは生きられないの。明冶になって久しいというのに、女は自由には生きられないものね……」
「……?」
 虚ろに見えた須磨さんの横顔がなんだかとても悲しくて、僕は居た堪れなかった。
「須磨さん……」
 悲しい貌をしてる須磨さんを見詰めていたら、元々曇っていた空がさらにどんよりと重くなり、ぱらぱらと雨が降ってきた。須磨さんは慌てて貌を上げた。
「あら、大変!」
 須磨さんは僕の手を取り、走った。ばらえんの側に、小さな塔みたいな建物がある。見上げた丸い屋根の天辺に、何か建ってるのが見えた。十字の……棒?
「うわぁ……」
 須磨さんに手を引かれて駆け込んだ塔には、壁に鮮やかな色の付いた硝子で描かれた窓が天井近くに並んでいて、奥には女性の白い像が飾ってあった。木の椅子が劇場みたいに三列並んでいる。
「藤原家は神道の家系だからこういうところには来ないかしら」
「ここは、何をするところ?」
「お祈りよ。キリスト教といって、橘家は西洋の神様を信仰しているの。橘家は江戸時代に幕府にとても大切にされていたから、外国の宗教を信仰して弾圧された人達をこの聖堂で匿っていたんですって」
「へぇ……」
 頷きながらも、僕はよく解っていなかった。
「この人……須磨さん?」
 奥の台に掲げられた女性の像は、清らかで優しい顔をしていた。
「まさか。マリア様というの。神様の子を産んだ尊い人よ」
「神様の子……。綺麗だ。須磨さんみたい……」
「恐れ多いわ、それは。でも、そうあれたら素敵ね。……どうしたの、琴音君?」
 須磨さんに聞かれてはっとした。僕は、いつの間にか泣いていたんだ。
「綺麗で……僕、こんなに綺麗なものを見たのは初めてで。ばらも、須磨さんも、マリア様も……綺麗なものを見ていると、こんなにも胸が苦しくなるなんて……」
 涙が止まらない。マリア様を見詰めていると、この人に祈りたくなった人達の気持ちが解る。
 須磨さんは僕を抱き締めて、髪を優しく撫でてくれた。胸が熱くなる、この想いは何だろう。
「琴音君は優しいね」
 時間がゆっくり流れてゆくような気がした。嬉しいのに、胸が痛くなった。
 僕が泣きやんでから、僕らは聖堂の入り口に座ってばらを眺めながら話をした。
「琴音君は、他に好きな花はある?」
「……うぅん。でも、道に咲いてる瑠璃色の花は綺麗だなと思う。梅雨空の下に咲いてる花……小さい花が沢山集まって鞠みたいな形になっているの」
「あぁ、紫陽花ね」
「あじさい……」
 花の名前を、僕は知らない。知らなくても困らないから、お父様は学ばせてくれなかった。
「じゃぁね、最近咲いてる、白くて甘い香りのする花は?」
「山梔子かしら」
「春に大きな木に咲いた、ピンク色の花は?」
「桜」
「去年の秋に咲いてた、凄く良い匂いのする橙色の小さい花は?」
「金木犀ね」
 あの花、この花、僕は次々に質問をして、須磨さんは全部に答えてくれた。
 今まで何となくみていて当たり前にあったものが、美しいものに思えてきて、僕は嬉しくなった。須磨さんはなんて凄いんだろう。
 なんて……素敵なんだろう。
「ばらは、外国のお花?」
「そうよ。日本にも薔薇の仲間は昔からあるけれど、あそこにあるのは西洋の品種。私が一番好きな花なのよ。私も、赤い薔薇が大好きなの」
「へぇ……」
「露西亜にも薔薇は咲くかしら……」
 消え入りそうなくらい微かな声で、須磨さんはぽつんと呟いた。
 露西亜……?
 露西亜は大陸の北部、西から東に渡って広大な領土を持つ大陸だ。お父様は、いつか露西亜とも戦う事になると息巻いていたけど、僕だって本当は戦争なんか好きじゃない。戦争なんか、して欲しくない。大切なものを守るため、戦わないといけない事もあるけれど、互いに奪い合うために戦うなんて、嫌だ。そんなのおかしい。
 須磨さんは、露西亜に行きたいんだろうか。



 昼前に、雨の中、西岡が迎えに来たとお母様は僕を呼んだ。
「いつでもいらっしゃい、琴音君。聖堂の裏側に裏門があるから、そこからならすぐに薔薇園に入れるから。好きなだけ、薔薇を見に来てね」
 ばらの花よりも僕は須磨さんに逢いたくて、いつでも来て良いと言われたのが嬉しかった。

 家に戻り、僕は裏口から道場に回った。僕は今、柔道をしている事になってるから。僕がこっそり道場に入ると、道着を着た斧彦さんが禅を組んでいた。
「斧彦さん……」
「おかえり、琴音君。すぐに着替えておいで。今日は座禅をして過ごした事にしとくから」
 斧彦さんは、にっこりと笑った。僕は急いで着替え、彼の隣りに座った。
「楽しかった?」
「え?」
「おでかけ」
「は……はい」
「……緊張しないで良いよ。私は、藤原少将に今日の事を言ったりしない。剣兄さんの事もあるから信じてくれなくても仕方ないけど、絶対言わないから。外に出たい時はいつでも言いなよ」
 斧彦さんの口調は優しくて、嘘じゃないと信じたかった。僕は斧彦さんを信じたかった。
「信じたい……です……」
 須磨さんがくれた温かい気持ちが、僕に信じる勇気をくれた。
「今日は、とても素敵だったから……」
「何があったか、教えてくれる?」
「ばらという花を知っていますか?」
 斧彦さんが興味を持ってくれたのが嬉しくて、僕は今日の事を色々話した。斧彦さんは僕の話をしっかり聞いてくれた。須磨さんにも逢いたいと言った。だけど僕は、斧彦さんと須磨さんが仲良くなったら嫌だなと思った。それは本当は素敵な事の筈なのに。僕はその事を、斧彦さんには言えなかった。
「花は私も好きだよ。花を見ていると幸せな気分になれるし、心が豊かになる。そういう気持ちを、琴音君も感じているんだね」
 逞しい斧彦さんの柔らかな表情にも、花のような優しさを感じる。だからやっぱり、須磨さんと逢って欲しくない。
「須磨さんのところに行きたくなったら、いつでも言いな。私が此処に来ている時なら、出してあげられるし、西岡さんがいれば、蒸気自動車を出してくれるだろうから」
「はい……。でも、斧彦さんはお父様が怖くはないのですか?」
 もしもばれたら、斧彦さんだって責められるのに。
「そりやぁ怖いけど、君がこんなに柔らかな顔をしているんだもの、その方が大事だよ」
 僕の頭を撫でる斧彦さんのごつごつした手は、温かかった。


 不思議だ。一日の殆どを家の中で過ごし、武術に勉学にと、軍人になるための訓練に明け暮れて、それ以外の事なんか考える事もなかった僕が、今は毎日、須磨さんの事を考えている。
 夢もよく見る。現れたマリア様が須磨さんに姿を変えたり、二人でばらを眺めていたり。
 須磨さんの事を考えていると嬉しくて、楽しくて。気持ちがうきうきする……。時々、逢いたくて胸が苦しくなる。なんだか、変な感じがする。
 一週間が過ぎた。僕は毎日須磨さんの事を考えて楽しくいられたけど、その夜不意に、何か不思議な感覚が胸をよぎった。雨が降る夜中、僕は汗びっしょりで目を醒ました。嫌な感じだ。何か良くない……そう、“予感”がした。きっと、悪い事が起こる。あちこち関節が痛んで、汗をかいているのに体の芯から寒気がした。
「……須磨……さん……」
 行かなきゃ。須磨さんのところに行かなきゃ。須磨さんが……泣いてる。
 僕はいつものカーキ色のズボンと白いカッターシャツを着て、中庭の木の影を通り抜け、使用人達の離れに忍び込んだ。普段、お父様に入ってはいけないと言われている離れだ。一番右端が西岡の部屋だと解っている。西岡の部屋の障子には、ぼんやりと橙色の光が揺れていた。もう直ぐ日付の変わる時刻なのに、まだ起きているのか。
 僕はこっそり西岡の部屋の窓を開けた。
「……どうしました?」
 あまり驚いた様子もなく静かな声で西岡が聞く。僕が怒られないように気を使ってくれてるみたいだ。僕は、御行儀が悪いとは思ったけれど、窓から西岡の部屋に入った。
「須磨さんに逢いに行かなきゃ」
「……え?」
「何か、今夜何かがあるんだよ。よく解らないけどそんな気がする。行きたいんだけど、僕の足じゃ辿り着けない。お願いします、西岡さんしか頼れる人はいないんです。僕を橘のお屋敷に連れて行って下さい!」
 僕は床に手をつき、頭を下げた。お父様は人――特に使用人に頭を下げるなんてしてはいけないと言うけれど、人にお願いをするんだから頭を下げて然るべきだと僕は思った。
「余程の事ですね」
「多分……」
 根拠はないから解らないけれど。
「琴音様は雅様と違って“力”はかなり弱い筈だが……感覚はお強いようです。行きましょう、私を信用なさい」
 西岡は立ち上がり、ランプを消した。雨に濡れるのも気にせず表に出ると、二人で駐車場へ急いだ。
「ごめんなさい、西岡さん、巻き込んでしまって……。お父様に怒られても、僕が悪いと言いますから」
 蒸気自動車を発進させ、屋敷が見えなくなってから、僕は西岡にまた頭を下げた。
「良いんです、琴音様。貴方は自由に生きねばならない。雅様もそう望んでいらっしゃるのです。そのためなら、私は幾らでも力をお貸ししましょう」
 いつも寡黙でよく解らなかった西岡の眼が、きらきらと光って見えた。お母様と西岡は、“特別”なんだ。主従関係だけじゃなくて、とても大切な。
「有り難うございます」
「兎に角、急ぎましょう」
「はい」


 西岡に裏門の側に自動車を停めてもらい、僕は雨の中飛び出した。裏門は開かなかったけれど、飛び越えるのに難はなかった。僕の予感が外れている事を祈った。そうじゃないと……。
 ばらえんは夜の暗闇と雨にけぶっていた。でも、そこに人がいる事は直ぐに解った。須磨さんだ。
「須磨さん……」
 小さく声をかけると、彼女はゆっくりこちらを向いた。
「琴音……君……?」
「どうしたの?」
「君こそ……」
 暗い中で須磨さんの声は雨に紛れていた。僕は須磨さんに歩み寄り、手を取った。どれだけ長い事此処にいたんだろう。須磨さんの指は冷えきっていた。
「どうしたの? 悲しいの?」
 ずぶ濡れだけれど、須磨さんが泣いている事は解った。
「少しね。琴音君は、どうして此処にいるの? こんな時間に雨の中……薔薇を見に来たの?」
「須磨さんに逢いに来たんだよ。須磨さんが泣いてる気がして……良くない事が起こっている気がして」
 僕は須磨さんを見詰めた。溢れる涙が、全身を濡らす雨に紛れて流れ落ちる。
「君はなんて優しいの」
 須磨さんは倒れるように地面に膝をつき、首に腕を回して僕を抱き締めてくれた。胸がぎゅっと押し潰されるような感じがして、急に苦しくなった。同時に、須磨さんから離れたくなくなって、僕も須磨さんを抱き締めた。どうしようもなく胸が苦しくて、絶対に須磨さんから離れたくなくて。
「何が貴方をこんなに悲しくさせるの?……僕は貴方を悲しませるものを許さない」
「女は、自由には生きられないのよ」
 ぽつんと須磨さんが零した言葉が悲しかった。僕はその言葉に、お母様の存在を思い出していた。いつもお父様に殴られ、詰られ、苦しんでいるお母様。偉そうなお父様。自分が一番偉いと思ってる。僕は本当は、あんな風になりたくはない。
 人を沢山殺す事が活躍する事じゃない。素晴らしい事じゃない。戦争をして奪い合うなんて嫌いだ。武術を学び、沢山勉強するのは、人を守るため。殺すためじゃなくて、泣いている人を抱き締めるため。そうじゃないと、悲しみが増えるだけだ。
 この人が泣いている事が、僕にはこんなに苦しいもの。
 僕は……
「女の人だって、自由に生きないと駄目だよ。須磨さんに涙なんか似合わない。自由でいて欲しい……」
「……琴音君」
「幸せでいて……下さい。貴方のためなら、僕は何でも出来るから」
 僕が言うと須磨さんはやっと貌を上げて微笑んだ。
「有り難う……」
 須磨さんは僕の肩越しに手を伸ばし、僕の後ろにあるばらを一輪摘み取った。須磨さんの手から僕に差し出されたその花の色は、暗くてよく解らなかったけど、きっと赤だと思う。貴方の大好きな、赤いばらだと。
 須磨さんは何も言わなかった。僕は何も言えなかった。
 そっと僕の額に口付けて微笑んだ須磨さんは吃驚するくらい美しくて……ほら、やっぱりマリア様だ。





 夜が明ける前に僕は家に戻った。僕は誰にも怒られなかったけど、西岡はその朝、クビになった。
 須磨さんが僕にくれた赤いばらは悲しいくらい鮮やかで、いつか散りゆくけれど、それもまた美しいのだろうと思う。
 僕はもう、あの屋敷には行かない。少なくとも、この先何年かは行く事はない。もう、きっと彼女には逢えないから。何も言わなかったのは、「さようなら」を言ったら本当に二度と逢えなくなってしまう気がしたから。いつかまた逢えると思いたかったから。
 これきりなんて悲しいけれど、須磨さんはこれから遠くへ行ってしまうのだと、なんとなく解った。
 露西亜……かな。なんで露西亜なのかは解らないけれど。

 須磨さんが本当に露西亜に旅立ったと知ったのは、それから五日後の事。六月十七日、あの雨の夜、僕が帰った後に出ていったらしく、朝にはもういなくなっていたそう。
「あの清楚で大人しい彼女が、駆け落ちとはね……」
 呟いたお母様は、何処か晴れ晴れとした貌をしていた。嬉しそうだった。
 須磨さんは、今、幸せだろうか。自由なのだろうか。



 僕の手はとても小さくて、僕の存在はちっぽけで、偉そうな事を言っても西岡が一人で犠牲になってくれた事さえ直ぐには解らなかった。
 須磨さんやお母様には自由であって欲しいと思うけれど、そのために僕に何かが出来るわけでもない。須磨さんには何でもすると言ったけど、結局は何も出来なかった。でも、もっと強くなって、大事なものを守りたい。お母様の笑顔や、優しい人達、武器を持たずに平和を望む人達、それから、この国の外で夢を見る人達を。
 僕に美しいものを教えてくれたあの人は、やっぱりマリア様なんだ。
 マリア様。尊い人。僕に心をくれた人。失っていた心。
 美しい人よ。
 この心に芽生えたものは“愛”という、美しく密やかな温もり。
 いつか、貴方への想いが、貴方の微笑みに変わりますように。

「貴方を愛します」


 赤いばらに照らされた、貴方がくれた心で。


fin
赤い薔薇の花言葉:情熱、愛情、あなたを愛します

初めての恋を知り、少年は歩き出す。
まだ小さくてちっぽけな存在だけれど、いつかきっと愛しい人の笑顔に出会うために。
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