命の続きは、此処から始まる。
 二つの命が、紡いだ今を――


    あじさい



 昨晩遅くに降り出した雨は、昼前にはやんでいた。
 四季の移り変わりが世界で最も美しいと言われるこの国には、“梅雨”と呼ばれる雨の多い時期がある。今が正にその時で、この季節には特有の情緒があり、マリアはそれを好んでいた。尤も、日に日に暑くなり、常に湿度が高い状態というのはマリアの産まれ育ったロシアにはなかったため、決して過ごし易いとは言い難いのだが。
 マリアは、帝劇の図書室にいた。雨の降る日はよく此処にいる。雨はもうやんでいたが、読み始めた本を放り出す気もなく、読書を続けている。大抵の休日は、こうして読書や鍛練に費やして終わっていた。花組の面々は遊びに行くと決めたら雨だろうが雪だろうが曲げずに外へ飛び出す。今日も例外ではなく、カンナやアイリスは新作のキネマを見て浅草を散策すると朝早くから出て行き、さくらと紅蘭は紅蘭の新しい発明品を保管してあるという花やしき支部へ、すみれはショッピングに出かけている。風組も、今日は久々の休みで、三人で食事に行った。
 帝劇内は静かだった。
 誰もいない。
 隊長の大神が海軍に復帰して以来、マリアは隊長代理として花組を纏めている。副司令の藤枝あやめは――もう、いない。


 窓から差し込む日差しが心地良かった。マリアはひたすら本に縦に並んだ文字を目で追っていた。
 が、不意に顔を上げる。丸眼鏡をかけた老人が一人、顔を出した。
「お、マリアじゃねぇか。何やってんだ?」
 支配人の米田だ。
「米田支配人……」
「読書中か?」
「はい、次回公演の原作を読んでおこうと思いまして……」
 米田は、マリアの手にした本を見やる。この国に来てから数年、マリアが積極的に日本語の本を読んでいた事を米田は知っていた。今や、日本人のカンナやすみれより日本語に通じているのではないかと思われた。
「お前さんは、本当に真面目だなぁ」
「……いえ、そんな事は……」
「しかし、折角晴れたってのに部屋に籠ってるなんざ勿体ないと思わねえか、若いってのに」
「そう……ですね」
 マリアはふと窓の外を見上げた。まだ空の半分程は雲に閉ざされているが、日が照っていて、外は明るい。
「これから散歩に行くんだが、どうだ、一緒に行くか?」
 少し曇った図書室の窓の外に見える木々が、露に濡れて日の光に輝いている。マリアは表情を和らげた。
「……はい。ご一緒します」
 マリアはしおりを挟んでから本を閉じ、小脇に抱えて立ち上がった。
「すぐに置いてきますから、少しだけ待って頂けますか」
「あぁ、俺もこれから仕度するからよ、急がなくて良いぞ。ゆっくり仕度しな。玄関ホールで待ってるからな」
 マリアは背筋を正して「はい」と返事をし、きびきびと自室へ向かった。
 急がなくて良いといっても、マリアは最短時間で仕度を済ませる事は解っている。きっと、自分の仕度時間より短いだろうと米田はふんでいた。女の仕度は長いというが、マリアはその限りではない。マリア程外出の仕度の短い女性を、米田は知らなかった。
 案の定、米田が玄関ホールに向かった時、既にマリアはそこにいた。普通、待ち合わせをしているのだから相手の来る方を向いて待っていそうなものだが、マリアは玄関から三メートル程離れたところで扉に向かい、肩幅に足を開いて両手を垂らして立っていた。マリアがよく取る姿勢だった。
 マリアの後ろ姿に、米田は微かに顔を歪めた。この姿勢の意味を知っている。それは正しく、マリアの生きて来た姿そのものだった。
 米田は気配を消して玄関の方へ歩き、階段の踊り場で気配を露わにし、マリアを睨み付けた。
 その瞬間、マリアは振り返り、胸元から銃を抜いた。それと同時に後ろに飛んで、着地の瞬間には米田に向かってしっかり銃を構えていた。
「……あ」
「なんでぇ、どーした、マリア。俺を殺す気か?」
 米田は、慌てたように両手を振った。
「……すみません」
 マリアは米田から銃を反らしたが、右手に銃を収めたままだった。
「たかが散歩に物騒なモン持ってくんな。置いて来いよ」
「しかし――」
「そんな危なっかしいもん持った奴と歩けねえよ」
 しかも、その銃を向けられたのだから堪らない。
「……はい」
 マリアは眼球の動きだけで周囲の様子を探った。確かに殺気を感じた。だから銃を抜いたのだ。しかし、何も変化はない。気の所為……か?
 ゆっくりと頭を振り、
「置いて来ます」
 マリアは階段を駆け上がった。数秒で戻って来た事は流石の一言に尽きたが、マリアの表情に一瞬、米田は不安の色を見た。
「行くか」
「はい」
 マリアは背後を横目で伺い、何の気配も感じない事を確かめると、米田に並んで歩き出した。



 雨上がりの空に、薄く虹が架かっている。雲も徐々に晴れて来た。陽の光に照らされた雫が、宝石のように鮮やかに紫陽花の葉の上で輝いていた。
 道の脇に咲き乱れる紫の花は雨をいっぱいに浴び、満足そうに空を仰いでいた。
「お……綺麗だな、紫陽花じゃねぇか」
「紫……陽花」
「知ってるよな、紫陽花?」
「勿論ですよ」
 もう、日本に来て五年になるというのに、知らない筈がない。しかし、珍しくぼうっと花を見詰めるマリアが、米田にはまるで見た事もない花の名を繰り返しているように見えたのだった。
 マリアの瞳が、鮮やかな紫の花を映す。花と同じ色の髪が目の奥にちらついた。
「丁度、去年の今頃か――」
 ぽつりと漏らした米田の声に、マリアははたと顔を上げた。
「え?」
「すまなかったな。……去年の今頃、おめぇさんには色々と嫌な想いをさせちまって」
 米田が言わんとしている事は解っていた。去年のこの時期に起きた、戦いの事。突然、目の前の紫陽花の上に、紫の髪の少年が見えた。ふわりと宙に浮いた少年は、前髪で丸い眼を隠し、唇の端をつり上げて嗤う。
「――刹那」
 マリアの唇が、その名を声として零した。かつてマリアを追い詰めたそれとは違って、殺気も禍々しさもないその少年の影は、名前を口にした途端に消え失せた。今でも鮮明に幻に見えるほどに、彼の姿はまぶたに焼き付いて離れない。憎悪、嫌悪、そして感じる、罪悪感。
「……そうでしたね。刹那と戦ったのは、丁度この時期でした。それから少しして、バレンチーノフが……」
「紐育の……」
「はい」
 人の心を読み、心の闇を操る刹那はマリアの過去を暴き、マリアを罠に嵌めた。
 ロシアではマリアの所属部隊を嵌め、紐育ではマリアを利用しようとしたバレンチーノフは、大帝国劇場の観客を人質にマリアをおびき寄せた。
「でも、別に支配人の所為では……」
 マリアは何事もなかったかのように笑って見せる。
「……だがな」
 マリアの隣りでじっと紫陽花を見詰めていた米田は、徐にマリアの方へと視線を上げた。
 その瞬間。
 マリアは肌に微かに電流の流れるような痛みを覚え、咄嗟に米田から距離をとった。米田が顔を上げてから僅か一秒足らず、その間に、一瞬も米田から目を離さずに、三メートル以上離れたのだ。
 両足を前後に開いて後ろ足に体重をかけた姿勢。攻撃に対応出来るように、全身の神経を張り詰めて「構えて」いる。
「支配人……?」
 それは、紛れもなく“殺気”だった。マリアは幼い頃から何度も感じてきたのだ。肌がちりちりと痛み、胃が冷たくなるような感覚。“死”が迫っている。自分に対して死の刃を振り翳す何者かが目の前に――もしくは近くに――存在している、その者の放つ“気”を感じるのだ。それを逃れようと、自らの身を守るための行動は、長年死線を掻い潜ってきたマリアだからこそ出来る反応――反射といっても良いだろう。
「凄い反応だな……。今の俺じゃ、お前にゃ太刀打ち出来ねぇよ」
 米田はマリアの動きを見て、苦笑した。途端に、張り詰めていた空気が緩み、殺気が消える。
「もしや、支配人、帝劇の玄関でも、殺気を――」
「あぁ……。勿論、殺す気なんか更々ねぇがな」
「何故そんな……」
 マリアは漸く、構えを解いた。
「試すような真似して悪いとは思ったが、反応を見てみたかったんでな」
「それは……殺気に対する反応ですか?」
 マリアは腑に落ちないらしく、首を傾げた。
「そうだな」
 米田の手が、戻ってきたマリアの袖を掴む。咄嗟に、マリアは米田の腕を振り払った。その動きのにはまるで無駄がない。
「あっ……すみません」
「ん。まぁ、俺も攻撃するつもりで掴んだからな。その辺の空気読んだんだろ」
「はぁ……」
「おめぇさんの反射神経を試したかっただけだ。大したモンだよ……」
「“帝国華撃団総司令”としてですか?」
 マリアは、口許を結び、自然に「気を付け」の姿勢を取っていた。まるで、支配人室に呼ばれたかのように米田と向き合う。おおらかな米田の事だ。「まぁ、そんなとこだ」と笑い返すのだろうと思っていた。しかし、思いがけず、米田は神妙な視線を落とした。
「いや……」
「支配人……?」
「マリア、おめぇ、今幾つだ?」
「二十歳です。もうすぐ二十一になります」
「二十歳か……」
 米田は深く溜め息をつく。
 米田の想いに呼応するように風が吹き抜け、ざわざわと紫陽花が揺れた。
「そこらで、甘いもんでも食うか?」
 ふと零したように瞳に映る空ろな影を見逃しはしないけれど――米田がからりと笑顔を浮かべたので、マリアもなんとなく笑って見せた。きっと自分の瞳に映る空ろな影を、米田も見たのだろうと感じながら。
「あやめ君が好きだった甘味処が確かこの近くにあってな」
「あ……あぁ、一度連れて来て頂いた事があります。近いですね」
 マリアは記憶を辿り、米田と並んで歩き始めた。こんなに互いによそよそしいのは、一体何年振りだろうと、互いに感じていた。



 つい数ヵ月前まで、帝国華撃団の副司令を務めていた藤枝あやめの好んだ甘味処は、そこから五分程歩いたところにあった。小ぢんまりとした、落ち着いた佇まいの店だ。窓の外に見える小道には、両脇に紫陽花が鮮やかに咲いている。
 二人は、窓際の席に向かい合って座り、あんみつと葛切りを注文した。しかし、それきり互いに口を開かなかった。マリアからしてみれば、何がこんなに“いつも”と違うのかはよく解らなかったが、確かにお互いいつも通りではなかった。まるで初めて日本に来た時のように、米田を探っている自分に違和感を感じながらも、平然となどしていられない。
 五分程経ったろうか。店員があんみつと葛切りを二人の前に置いた。
「……甘い物がお好きなんですか、支配人は?」
「まぁな。物にもよるが、大抵なんでも好きだな」
「お酒を飲まれる方は甘い物が嫌いだと聞いた事があるので、お嫌いなのかと思ってました」
「はは。そんなら、マリアこそ嫌いなんじゃねぇのか?」
「そんな事ありませんよ。私が酒飲みみたいじゃないですか」
「違うってか?」
 漸く、“いつも”に戻ったような気がして、マリアは胸を撫で下ろし、あんみつを一匙口に運んだ。
 ……あれ?
 口の中に広がる上品な甘みのあんみつに、マリアはふと手を止めた。このあんみつはこんな味だったろうか? この店もそうだ。この店は、こんな風だったろうか?
「どうかしたか?」
「……いえ」
 何がおかしいのか、解らない。何が違うのか解らないが、何かが違う。マリアは小さく首を振り、なんでもないと答えた。
「毒でも入ってるってか?」
「いえ。それなら恐らく口に含めば直ぐに解る筈ですから」
 マリアがさも当然のように、さらりと口にしたその言葉に、米田は思わず息を飲んだ。
「え?」
 米田の呆然とした視線に気付いたマリアは、小首を傾げる。
「そう……か。そんなことまで解んのか、おめぇは」
「……アメリカで、命を狙われた事もあります。その……当時は“破滅”を……“死”を望んでいましたけれど、それでも死なないものだと思いました。身体が直ぐに反応して、それを反射的に吐き出してしまったり」
 マリアが視線を逸らしたのは、毒に対する話をしているためではなく、自分が死を望んでいた事を恥じているためだと米田は感じた。毒に対する反応は、マリアにとっては当然の事なのだ。
「それで、二十歳か……」
「……はい。どうかされましたか、支配人? 今日はなんだか、いつもと違っています」
「そうだな。……なぁ、マリア。俺は、ずっとお前に謝りたかったんだ……」
「……謝る?」
 マリアは目を丸くした。何を謝る事があると言うのだろうか。マリアにはとても考えられなかった。謝られるような事をされた覚えはないのだから。
「なにをいっておられるのか、さっぱり解りません」
 マリアは器に匙を置いて、米田を見詰めた。彼は窓の外の紫陽花を見やる。あどけなく首を振る花のその色は、まるで少年のようで、胸焼けがした。
「“本当の事”を話しておきたい」
「“本当の事”?」
「あぁ……」
 米田の顔に笑みはなかった。いつもの“大帝国劇場総支配人”の顔ではない。優しく穏やかな彼とは違う。様子が違う。梅雨空を覆う分厚い雨雲のようだ。
「なんだろな。こんな事言ってどうなるわけでもないし、自己満足でしかないんだが……」
 そうして前置きして、米田はぽつりぽつりと話し始めた。



 マリアはあやめに連れられて、日本にやって来た。アメリカでの様々な出来事を経て、マリアはあやめを信頼するようになっていた。しかし、人に対して簡単に心を開かないマリアだ。あやめの上官である米田一基に対しても、必ずしも初めから信頼をおいていた訳ではなかった。
「お前に、俺は資料見せた事あったろ?」
「資料、ですか?」
 それこそ、膨大な量の資料をマリアは今まで米田から受け取っていた。
「あー、アレだ。日本に来たばっかりの頃。おめぇについての資料だよ」
「あぁ」
 マリアは、当時、賢人機関の諜報部が“マリア・タチバナ”について調べて米田やあやめに渡されていた資料を、米田自身から見せられた事がある。それは、マリアの出生から生い立ち、マリアが参戦した総ての戦闘や抗争まで総て詳細に記されていた。死傷者数や抗争の規模、発端など、マリアさえ知らない事すら少なくなかった。全く見ず知らずの人間が、自分の過去を知っている事ほど気味の悪い事は無い。そうしてこちらに警戒心を抱かせないようにと、米田はマリアに自分がマリアについて知っている情報を総て明かすと言ったのだ。実際にマリアに見せた資料はその内の八割程度だったのだが。
「アレ見た時な、思ったんだよ。“良い戦力手に入れた”ってな……」
 米田は自嘲気味に微笑んだ。“戦力”。米田が花組の誰かに対してそんな表現を使うのを耳にするのは、初めてだった。
「そう、ですか」
 気にしない振りをしてみたが、妙に引っ掛かる言葉だった。
「過去の大戦で、俺達はたった四人で戦ってな、一馬が命を落として、山崎が行方不明……。そんな思いをしてまで守った帝都を新たに守る部隊だ。何が何でも、この街を守らにゃならねぇって、思ってた。思い過ぎてたな、あの時は。そう……丁度去年のこの時期に大神にも言った事だが、“命を天秤にかける事なんか出来ない”のにな」
「天秤に……」
「お前達の命と、帝都の人々の命を秤にかけてたんだ」
 マリアは静かに頷いた。驚かなかったわけではないが、動揺もしなかった。
「おめぇさんの資料にかかれてた戦跡見たときに思ったよ。“こいつがいれば花組は戦える”ってな。寄せ集めの部隊だ。何処まで通用するか解らない。霊力が高いだけの少女達を集めたところでどうなるとも知れない。だが、おめぇさんなら大丈夫だって、資料読んだだけで思っちまったわけだ。考えてみれば、“軍人”そのものの考え方だ」
 マリアは再び頷いた。思い出す、あの資料に書かれていた事。あの資料を見て初めて知った事も含めて、自分の生きてきた十六年間をざっと読み返し、思った。この経験は役に立つ、と。初めて、誰かに手を引かれて戦うわけでもなく、また、破滅を願って死地に臨むのでもなく、誰かのために戦えるのだ、と。
「その言葉をあの頃の私が聞いたら、きっと喜びましたよ」
「ふん……そうか?」
「えぇ」
「今はどうだ?」
 問い返されて、マリアは押し黙る。そう、今は――
「資料を読んで、俺は嬉しくてな。早くおめぇに逢いたいと思ったよ。だが、実際に逢った時、そんな思いは消え去った」
「……何故ですか?」
「おめぇの目があんまり冷たかったからな。日本人の俺からすりゃぁ、当時……十五か。資料で年齢は知ってたが、大人びてて、二十歳そこそこに見えたな。だが、たとえ二十歳でも、若い娘がするような目じゃなかった。それに、常に張り詰めた空気を纏って、まるで触れるもの総てを切り裂く勢いだった。今日も思ったよ。“本当に十五歳か?”ってな」
 米田は、再びゆっくりとマリアを見る。その黒い瞳に宿った光の、なんと哀しい事か。
「俺は、幾つかの戦争を乗り越えてこの階級を得てこの地位に立ち、この年になった。だがな、当時のおめぇさんは、その俺よりもよっぽど多くの死地を潜り抜けて生きてきたんだって、初めて会った瞬間に思ったよ。おめぇが部屋を出てから、涙が止まらなくなった。十歳になる前から銃を握って幾つもの死線を潜り抜けて生き抜いた僅か十五の娘を、これからまた戦場に送り込もうっていう自分が嫌で堪らなかった。何より――紙の上に書かれてる戦績だけ見て、おめぇさんを兵器かなんかと一緒にしちまった自分が情けなく思えた」
 数十枚に及ぶ資料の中の言葉を、マリアは今でも覚えている。それは自分の経緯だったが、まるで他人事のように思えた。紙に書かれた言葉は事実を書き連ねていても真実の欠片も無く、歯を食い縛って耐え抜いた苦しみも、絶望と共に生きた闇の奥の冷たさも、何一つ書かれてはいなかったのだから。
 誰が見ても、その資料の中のマリアは優秀な戦闘兵器だった。


 その資料から、マリアの“人間性”を見出していた藤枝あやめは稀少な存在だったといえよう。


「言ったな、あの時おめぇは。『二度と人を殺さない。しかし、平和を侵す人に在らざるものは排除する』ってな」
「言いました。その意味も、自分ではよく解っていなかったのだと思いますが」
「降魔の事は漠然とした説明しか受けてなかったんだろう、その時は。だけど――」
 紫の少年が、まぶたに浮かぶ。
「刹那」
 マリアの口にした名に、米田は頷いた。
「私は、人を――殺しました」
「どんな戦いになろうと、今まで確かに苦しんで生きてきたおめぇ達を、もう二度と苦しませるような事はしないと俺は誓った。初めてお前さんに逢った時にな。それなのに、おめぇの人生そのものを盾にヤツは罠を張った」
「そして、私はその罠にまんまと嵌った。――嵌りに行った。そして、この手で刹那を殺しました」
 雨の降る倉庫。空にかかった虹の鮮やかな色。初めて“彼”を隊長として認め、総てすっきりとしたはずだったのに、いつの間にか心を蝕まれていた。“人を殺した”――その想いが、胸を焼き付けた。罪悪感、また、血に濡れた手に、雨の匂いが染み付いた。そうして、雨が降れば、思い出した。
「バレンチーノフの野郎の時もそうだ。まさか、観客まで含めた帝劇全体を人質に、お前をおびき寄せるなんざ思わなかった。何の力にもなれなかった自分が、情けなくてしかたねぇよ」
「そんな事は――」
「気付いてるか? お前は、玄関で待てといえば、玄関の方を向いて立つ。直立している時は、両手を体側にピッタリつけて立っている。銃を持って行動する。銃を持っていない時は、誰かと戦闘体勢になった時、攻撃じゃなく、防御の構えを取る――」
 米田の言葉に、マリアは何度も頷いた。確かに、そうだ。
 玄関から無法者が飛び込んできて、いつでも殺そうとしていた頃、玄関や窓に背を向けることは命取りだった。いつでもそうして、人の入ってくる方向に意識を向ける癖。どんな攻撃にも即座に対応出来るように、構えたりせず、自然な体勢で待機する癖。何事にも即座に対応出来る備え。被害を最小限に抑え、体勢を立て直すための構え。総て、幼少の頃から少しずつ身に付けた、生き延びる知恵。そして、それ故に死ぬ事すら出来ずにいた。
「そんな二十歳を、俺は知らない」
「私だけですか」
 今度は、マリアが自嘲気味に笑った。
「すまない、マリア……」


「すまない――」






「“本当の事”をお話しても良いですか?」
「ん?」
 マリアが静かに囁いた。
「告白します。私はこの国に、“死ににきた”のです。多くの人を殺してきたから、今度は守るために戦いたかった。守るために戦って、死ねるなら本望でした。ずっとずっとそんな事を思って……あやめさんに見抜かれて、此処に連れてこられました。雨の季節でした」
「…………」
「何が言いたかったのか解りませんでした。何を食べても美味しいとも思いませんでしたし、何も感じませんでした。あやめさんは何も言いませんでしたし、ただ此処に連れてこられて甘いものを食べさせられただけでした。でも――」
 まるで堰を切ったようにマリアは淀みなく喋り続けた。その言葉が一瞬途切れ、
「今、美味しいと感じてます。紫陽花が綺麗だと感じてます。……私はこの国に“生きに来た”んです。だから――私に生きる場所を与えて下さった米田支配人に、ずっと……感謝してました」
「マリア……」
「謝らないで下さい。お願いです」
 マリアは深く頭を下げた。
「覚えていますか? 五年前のこの季節、さっきの紫陽花の側を私とあやめさんが歩いていた時、支配人が来たんですよ。散歩の帰りだって言って……。いつも笑顔で私達を迎えてくれてました。私には、それがとても心強かったんです。雨空の中でも、太陽みたいで――」
「覚えてるよ。あやめ君と何を話してたのか、おめぇが笑っててな、これが十五、六の娘の本当の顔だって思ったのさ」
 だから、戦わせたくなかった。
 その言葉を、米田は飲み込んだ。もう、これはいってはならない事だ。どうにもならない事なのだから。どうにもならないからこそ、自分が守り抜かねばならない少女達なのだから。
「あやめさんは――帰っては来ませんけど……」
 ぽつり、と、マリアの瞳から涙が零れ落ちた。
「私達の帰る場所に、どうか、ずっといて下さい……」
「――ありがとうよ」
 窓の外の紫陽花の向こうで、髪の長い女が微笑んでいるのが見えた。


 “もう、大丈夫ね”




 命を賭けて私を守り抜いたご両親が君に望む事が、“死”なんかであるはずがない。
 戦って、傷付く事であるはずもない。
 生きて、生きて……誰よりも幸せであって欲しいと、死の直前まで思っていたに違いないのだから。


 私は、誰もにそう願うのだから。

 もう、大丈夫。
 誰よりも幸せに、生きる――


Fin
総ての事には意味がある。
こうして共に生きる事にも。
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