きっと、貴方を想う人は他に沢山いるでしょう。
 それでも私は、貴方を想って良いのでしょうか……



     Bitter


 二月。
 ヴァレンタインディが一週間後に迫ったある昼の事。突然、ロビーでマリアは腕に重みを感じた。
「マ〜リア!」
 愛らしい声が耳に届いた。腕に視線をやると、金色の髪と宝石のような青い瞳がこちらを見ている。アイリスだ。屈託のない笑みを浮かべて、アイリスはマリアを見上げていた。
「どうしたの、アイリス?」
「あ、あのね、あのね、マリア」
 さっき、腕に飛び付いてきた時とは違い、腕にしがみついたまま、アイリスは頬を赤らめて俯いた。マリアの細く、長い指に、自分の小さな指を絡めている。恥ずかしそうに、躊躇いながら、薔薇のような頬をしてアイリスは微笑った。
「あのね、アイリス、チョコレートの作り方教えて欲しいの。ヴァレンタインにね、お兄ちゃんにあげたいんだ!」
 意を決した自分の言葉に照れてしまい、アイリスはマリアの腕を更に強く抱いた。
「隊長、に?」
「うん!」
 嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。恋をする少女の瞳は、なんて輝いているのだろう。
「えぇ、良いわよ」
 マリアは、微笑んだ。
「本当? やった! 絶対だよ、絶対!!」
「じゃぁ、十四日のお昼で良いかしら? 稽古が終わってから」
「うん!!」
「その代わり、お稽古はいつも以上に頑張るのよ」
「約束する!ありがとう、マリア!」
 これ以上ないという程明るい笑顔を見せて、アイリスは階段を駆け昇っていった。
「あんな顔されたら、断れないわね」
 眉を寄せ、口元だけに笑みを浮かべて、マリアは呟いた。エプロンドレスの後姿。白いリボンが眩しかった。
 アイリスは、大神の事が好き。それは、出会った頃からずっと言っている事だ。“お兄ちゃんのコイビト”。しかし、アイリスは知らない。マリアと大神の関係なんか。かえでや米田は一応知っているし、カンナも薄々気付いているようではあるが、それ以外は誰も知らないのだ。
 恋をすると、女の子は可愛くなるとは言うが、アイリスはそれを証明しているかのようだった。毎日顔を合わせているのに、日に日に愛らしさが増してきているように思える。子供の成長は早いというが、これ程変化が目に見えるものなのかと、感心する程だ。
 だが、それはアイリスに限った事ではない。
「あの……」
 階段を見上げながら、ロビーに立ち尽くすマリアの背後から、誰かが再び声をかけてきた。
「え?」
 相当、警戒心が薄れていたらしい。間近に寄られて声を掛けられるまで、その気配に気付かなかった。振り返った先にいたのは、さくらだった。
「さくら。どうしたの……?」
 問われて、さくらは頬を染めて、俯いた。先程のアイリスと同じように。
「あの、マリアさんにお願いがあるんです」
「何?」
「そのぅ、さっきのアイリスの、聞いてしまったんですけど、私も、アイリスと同じ事をお願いしたくて。私、チョコレートの作り方なんか知りませんけど、大神さんに手作りのチョコを贈りたいんです。お願い出来ませんか? マリアさんがご迷惑でなければ」
 やはり、こんな顔をされては、断ることなど出来るはずがない。
「構わないけど……アイリスには言わない方が良さそうね。アイリスが眠った後の方が良いでしょう。十三日の夜はどう?」
 マリアの答えに、さくらは顔を上げ、花が開いたような表情を見せた。
「はい。有り難うございます! ところで、もう一つお願いがあるんですけど」
 躊躇いがちにマリアを見上げるさくら。マリアは首を傾げた。
「編み物、したことあります……?」



 マリアは、さくらの部屋に招き入れられた。きちんと片付けられた、少女らしく可愛い部屋。片付いてはいるが片付き過ぎていて、あまりに殺風景な自分の部屋とは大違いだ。女の子らしさが溢れているが、アイリスのような幼さはない。机の上には、編みかけの白い毛糸の布と毛糸玉、編み棒が籠に入って置かれていた。その横には薄い本。
「本を見ながらやっているんですけど、此処がよく解らないんです」
 机の上の本のページを繰って、さくらは一部分を指し示した。
「これは、マフラー?」
「はい。バレンタインに、チョコレートと一緒に大神さんにあげたくて、ちょっと前から編み始めているんです。マフラーならすぐに出来るんじゃないかと思って挑戦してみたんですけど、思っていたより難しくて。本当はセーターを編んであげたかったんですけど、寸法が解らないのでマフラーにしたんです。大神さん、白が一番好きでしょう?だから、白いマフラーにしたんです」
 頬を紅潮させ、さくらは恥らいながらも微笑んだ。ちくりと胸が痛む。マリアは微かに唇を噛んで、さくらの示す本を覗き込んだ。
「解りますか?」
「ん……。多分ね。昔、少しやった事があるから」
 マリアは、さくらに編みかけのマフラーを出すように指示し、編み方を教え始めた。
 編み物は、露西亜にいた頃に教えられた。穴が開いたり使えなくなったセーター等は、一度解いて毛糸玉を作り、編み直して使ったのだ。短い毛糸を繋ぎ合わせたりしたのでかなり不恰好ではあったが、それでも、少ない物資で遣り繰りをする上では重要だった。露西亜を出てから編み物をする事はなかったけれど、その時の経験がこんなところで役に立とうとは。
「あ、なるほど。解りました。有り難うございます、マリアさん」
「喜んでもらえると良いわね」
 露西亜にいた頃なら、こんな事は言わなかったかも知れない。日本で覚えた社交辞令。それでも、半分は本心だった。一生懸命作っているのだから、贈る相手に喜んで貰いたい。さくらの直向さを知っているからこそ、マリアも同じ想いでそれを望む。相手が大神でなければ、きっと心からそう望めただろう。
「はい!」
 マリアの言葉に、さくらは頷いた。桜の花を思わせるような、愛らしい笑顔。マリアは、胸の奥をナイフで刺されたかのような鋭い痛みを感じた。
 さくらの部屋を後にして自室に戻り、机の奥にしまった小さな鏡を取り出した。鏡を覗くと、自分の翡翠の瞳が映った。
 不意に浮かんだのは、二人の瞳。アイリスの瞳は、宝石のようなサファイア・ブルー。さくらの瞳は、光を帯びた、澄んだ黒。大神と同じ色。母も同じ色の瞳をしていた。愛する父が残してくれた瞳が疎ましく思えるなんて。もしも、瞳の色も髪の色も母から譲り受けていたなら、彼と同じだった?
 そんな自問に苦笑する。
「馬鹿馬鹿しい」
 呟いて、鏡に向かって微笑んでみる。その奥に、さくらの笑顔が見えた。花のような、美しい笑顔が。
 マリアは乱暴に鏡を机に置いた。比べられない。彼女の――さくらの笑顔とは。純粋無垢なさくらやアイリス。なんて美しい花。
 さくらは、なんて綺麗な顔をして笑うのだろう。アイリスは、なんて愛らしい顔をして笑うのだろう。それに比べて、自分は。
「……嫌な女」
 さくらは知らない。アイリスも知らない。マリアが、大神をどう想っているか。大神が、マリアをどう想っているか。そして、マリアと大神がどういう関係であるか。
 何も知らないのだ。何も知らず、マリアを信じているのだ。信じて、頼りにしているのだ。だから、チョコレートの作り方を教えて欲しいと頼んだり、編み物を教わったりするのだ。もし、マリアと大神の関係を知っていたら、そんな事をマリアに頼んだりはしまい。それを解りながら、マリアは二人の頼みを断ろうとはしなかった。
「私……裏切り者じゃない……」
 吐き捨てるように呟いた。




 十四日が近付くにつれて、帝劇の少女達は、そわそわし始めた。大神は、それに気付いているが、その理由にまでは気付いていない。いつもは冷静沈着なレニでさえ、何やら落ち着かない様子である。そんな中、マリアだけは相変わらずだった。自分はそう言うことには一切無関係とでも言うかのように、サロンで本を読んでいた。
 しかし、最もバレンタインを気にしているのは、本当はマリアかも知れない。大神が、誰かからチョコレートをもらう。それは、さくらやアイリスだけではあるまい。他の少女達からももらう筈だ。それを、大神はどうするだろうか。受け取らないで欲しい、などと言えるはずもない。彼女達の気持ちは、十分理解しているのだ。あの切なる想いを、誰が断れるものか。そうは思うものの、それは、彼女達に対する裏切り行為に他ならない。彼女達の想いを大神が受け入れると言うことは、即ち、マリアとの特別な関係を絶つという事だ。
 それを望む事など、ない。
 マリア一人のサロンでは、本のページをめくるが歩く音が随分と大きく聞こえる。
「マリア。良かった、捜したんだ……」
 声をかけてきたのは、レニであった。
「何を読んでるの?」
「『白痴』よ。ドストエフスキーの」
 読みかけのページに指を挟み、本の表紙をレニに示した。
「そう。……ところで、マリア。読書中悪いんだけど、今、時間もらえないかな」
「本ならいつでも読めるし、別に構わないけど、どうしたの?」
 捜していたという割に、レニは口を噤み、うつむいてしまった。まるで、アイリスやさくらと同じ。
「これから、買い物に付き合って欲しいんだけど。ヴァ……ヴァレンタインに、隊長に何かあげようと思って。普段お世話になっているから……」
 可愛い、と、マリアは思わず零しそうになった。頬を染めるレニの貌は、天使のようだ。レニは、確かに可愛くなった。今までは、本当に男と見間違う程に凛々しかった。しかし、容姿は変わらずとも、雰囲気が女性らしさを帯びている。
 誰のお陰か。それは、言わずと知れたことだ。
 断れない。マリアは、やはりそれを悟ってしまった。
「良いわよ」
 裏切り行為を繰り返している。解っているが、断ることなど出来るはずもない。断る理由が思い浮かばない。突き放せない。一生懸命な彼女達の力になりたいと、どうしても思ってしまうのだ。それは本心。だが、彼に好意を寄せる彼女らに対する嫉妬心もまた本心で、二つの心がマリアの中で鬩ぎ合う。ナイフで刺された胸の奥に、どす黒い血溜りが生まれている事に、マリアは気付き始めていた。
 レニとの買い物は、思いの外長引いた。レニがあれこれ迷うことなど、希有なことだ。その稀有な姿は、大神のためにある。
 マリアは、レニの買い物の合間に、アイリスとさくらのためにチョコレートの材料を買った。
 買い物を終えて部屋に戻ったマリアは、机の上に、買ってきた製菓用のチョコレートを置いた。本当は、食堂の冷蔵庫にでも入れた方が良いのだろうが、誰かに見付かっては、具合が悪い。マリアの部屋ならば、そう室温が高くなることもない。
 椅子に座り込むと、マリアは頬杖をついた。
「偽善者……?」
 ぽつりと自身に呟く言葉。自虐的に微笑み、髪を掻き上げた。あの時から、机の上に置きっぱなしにしてある手鏡。両眼を映したところで、彼女達には敵わない。アイリスや、レニ。それに、さくらには……。
 鏡を硬く握り締めた、その時、誰かが部屋をノックした。マリアは、咄嗟に買ってきたばかりのチョコレートを机の引き出しにしまい、返事をした。
「マリアはん。うちやけど……」
 この声と、奇妙な関西訛り。紅蘭だ。
「どうぞ、入って」
 紅蘭は、ゆっくりと扉を開き、わずかな隙間から体を部屋の中に滑り込ませて、さっと閉じた。まるで、何かから隠れているかのように。
「どうしたの?」
「いやぁ、その、マリアはんに聞きたい事があるんや」
 紅蘭のその様子から、マリアは紅蘭が部屋を訪ねてきた理由を察した。しかし、自分からは何も切り出さなかった。何処かで、それを否定したかったから。
「マリアはんは、大神はんの事、どう思ってる?」
「……隊長の事?」
 案の定、である。
 マリアは、紅蘭を促し、ベッドに座らせた。向かい合うように、自分は椅子に座る。
「マリアはんが大神はんの事好きやったら、うち、絶対敵わへんから」
 眉を寄せ、恥ずかしそうに紅蘭は笑った。
「まぁ、さくらはんがおる時点で、勝てへんねんけどなぁ」
 他のみんなの気持ちは、どことなく察しがつくが、マリアの事だけは解らない、というような意味の事を、紅蘭は付け加えた。
「貴方、隊長が好きなのね……」
「うん。せやけど、さくらはん、ホンマに可愛くて、優しくて――さくらはんには、絶対敵わへんなぁって、思うんよ。実際、大神はんもさくらはんの事好きみたいやし、ね。それでも、夢見てまうんや。うちでも、望みはあるんちゃうかって……」
 眉を寄せて眼を伏せる紅蘭の姿が切なく感じられた。しかし、それ以上に紅蘭の目から見た大神の想い人の話に胸が締め付けられるような想いがした。傍から見れば、彼はさくらに恋をしているように見えるのか。それとも、本当にさくらに恋をしていて、今、彼と交際しているというのは、自分の思い込みなのではないか。マリアは、複雑な想いを振り払うために小さく首を振った。
「そんな事解らないわ。紅蘭。貴方は、本当に素敵だと思う。紅蘭が笑った顔、とっても綺麗だと私は思うわよ。誰の心も明るくする事が出来るの。確かに、さくらは素敵だと、私も思うわ。でも、紅蘭だって、さくらにない素敵なところが沢山あるわ」
 励ます事が、罪だと解っていた。だが、思うままを言えばそうとしか言えない。嘘は言えない。特に彼女は、嘘を嫌っている。けれど、真実だからこそ尚更罪深い。
「有り難う、マリアはん!」
 お願いだから、そんな笑顔を見せないで。
 どろどろに汚れた胸の奥が、声にならない悲鳴を上げている。
 嫌な女。裏切り者で偽善者で。私、大神さんに相応しくない――
 紅蘭が去り、一人に戻った部屋で、マリアは机に突っ伏した。アイリス、さくら、レニ、紅蘭……。みんなの笑顔が、目まぐるしく脳内を駆け巡る。
「大神さん……」
 その名を口にする事すら罪深いのではないかと思う程。こんな風に恋に身を焦がす日が来るなんて、考えた事もなかった。
 淡い初恋は残酷な終わりを告げ、その後は人の道から外れて生きた。恋だの愛だのとは無縁の世界だった。日本に渡って来て、彼に出会ったのは二十歳になる年。マリアは、年の割りに恋愛経験が乏しい。経験をした事がないからこそ、対処のしようがなかった。
 マリアは息をつき、歯を喰い縛った。




 ヴァレンタインの前日、マリアは書庫にいた。先日、此処から借りていった『白痴』を返し、別の本を借りに。
「マリア?」
 背後から聞こえた声に、マリアの心臓は跳ね上がった。
「隊長……」
 振り返る。そこには、大神が微笑んで立っていた。
「何か、探しているのかい?」
「いえ、何でもありません。適当に、持って行きますから」
「そう……。じゃぁ、マリア――」
 辺りに、誰もいないことを確認し、
「――後で、俺の部屋に来ないか? 最近、マリアとあんまり話してない気がするし」
「いえ、結構です」
 大神の言葉を遮るように、口早にそう言った。
「今日は、用事がありますから。失礼します」
 近くにあった本を取り、マリアは踵を返した。軽く大神に会釈して、逃げるように書庫を出ようとする。しかし、マリアは、突然大神に腕を掴まれた。
「マリア、最近俺の事避けてる?」
「そ、そんな事ありません。誰かに見られたらどうするんですか!」
 動揺と焦燥。厳しい口調で言い放ち、マリアは大神の手を振り解いて部屋に戻った。
「俺……嫌われるような事、したかな……」
 マリアに振り払われた手を握り締め、大神は呆然として、動けなかった。
「偽善者……」
 マリアにとっては、最早自分を呪う呪文となった言葉。マリアは上着を脱ぎ、ベッドに横たわった。
「嫌われてしまうわね、あんな露骨な態度をとったら……」
 大神を、自分一人のモノにしたいわけではない。しかし、大神を想い、大神に想われる程、自分がさくら達に対してしている事を、罪深く感じる。何より、さくら達を見ていると、自分なんかよりずっと大神に相応しいのではないかと思えてくる。自分が、大神に相応しくないのではないかと思えてくる。
 このところなかなか寝付かれずいつも寝不足だったため、本を抱えたまま、マリアは微睡み始めた。
 目覚めたのは、それから約三十分も経ってからだった。



 午後十一時。
 マリアは、そっと机の引き出しを引いた。
 製菓用のチョコレート。それに、綺麗に包装され、リボンのかけられた小箱。製菓用チョコレートだけを取り出し、先程、書庫から持ち出した本を抱えて、マリアは部屋を出た。丁度、大神が見廻りを終えて部屋に戻るのが見えた。
 マリアが食堂にやって来た時、食堂には灯りがともっていた。さくらだった。さくらは、そこで白いマフラーを編んでいた。本を確認しながら、一目、一目、丁寧に。
「さくら」
「あ、マリアさん。済みません。こんな夜中に……」
 マリアは、一瞬躊躇ったが、さくらに声をかけた。さくらは、にっこりと笑って見せた。心なしか、目の下にくまが出来ている。
「マフラー、編んでいるのね」
「はい。大神さんが来た時は、膝の上に隠して、本読みしてる振りをして……」
 さくらは、隣の椅子から次の舞台の台本を取り上げた。焦りました、とくすくす笑い、肩を竦める姿の、なんと愛らしい事か。彼は、慌てて台本を読む振りを始めた彼女に、一体何を言っただろう。二人は、どんな話をしたのだろう。そんな疑問がふと脳裏に浮かんで、また胸が痛み出した。考えても仕方がないと思うのに、考えずにはいられない。
「随分編めたようね」
「はい。もう、明日ですから!」
 さくらはマフラーを広げた。あと僅かで完成するようである。さくらの笑顔は、やはり見ているのが辛い。
「それじゃぁ、始めましょうか」
 マリアは、テーブルに本を置いて用意していた材料を出し、道具を揃えた。さくらはその間に編み掛けのマフラーを片付ける。さくらの表情は、真剣そのものだった。作っている間中、マリアは、殆ど手を出さなくて良かった。さくらは、マリアが教えた事を殆ど正確にやってしまうのだ。料理は元々苦手ではなかったのだろうけれど、それにしても、上手い。これが、さくらの“想い”の形。
 チョコレート作りは順調に進んだ。
「あとは固めるだけよ」
 さくらは、マリアに言われ、チョコレートを冷蔵庫にしまった。
 時刻は十二時を少し回った頃。思ったより、早く出来た。
「固まるまで、待ってないと駄目ですよね」
「そうね。誰か来ないとも限らないし」
「じゃぁ、マフラーを完成させちゃいます。あ、マリアさんは、もう休んで下さい。本当に、有り難うございました」
 さくらは、疲れも見せず、マフラーに取りかかった。
「そう。それじゃ、そうさせてもらうわ。お休みなさい。ちゃんと、暖かい恰好をして寝るのよ。風邪引かないようにね」
 椅子に腰を下ろしてマフラーを広げたさくらに、やんわりと言いながら、テーブルに置きっぱなしにしていた本を抱えた。さくらは元気に返事をして、「おやすみなさい」と微笑んだ。
 一分、一秒でも早く、この場から立ち去りたい。さくらの笑顔も、もうすぐ編み上がるマフラーも、これ以上見ていたくない。
 小さな声で「おやすみ」と呟き、足早に食堂を立ち去る。廊下でふと視線を落とし、腕に抱えた本を見た。本の表紙には、『罪と罰』と書かれている。もう、何度も読んだ事のある本だ。大神から逃れようと、慌てて書庫から持ってきた本。しかも、それからずっとぼんやりしていたので、一度も本のタイトルを確認しておらず、気付かなかった。彼が此処へ来たばかりの頃にも、一度この本を読んだ。何度目かも解らないのに、読むたびに新鮮に感じられた。そして、これを持って書庫にいるところ、大神と逢った。
 マリアは寒々とした廊下に立ち尽くし、白い息をついた。



 マリアの胸の内など知りもせず、躊躇いもなく日は昇る。
 午前中は舞台の稽古をして、午後はアイリスにチョコレートの作り方を教える。アイリスが大神に寄せる想いは、みんなよく知っているから、アイリスがチョコレートを作っている姿を誰に見られても、全く問題はない。
「湯気とお湯をボールに入れないようにね。ゆっくり、かき混ぜて、よく溶かすの」
 刻んだチョコレートをボールに入れて、湯煎にかけて溶かす。アイリスは、なんでも自分でやりたがる。さくらと違って不器用ながらも、額に汗を浮かべて真剣にチョコレートを作るアイリスの直向さを、マリアは痛い程感じていた。
「良い匂いすんなぁ」
「チョっコレート作ってるですかぁ〜?」
「隊長にやるんだろ、アイリス?」
 チョコレートを型に流し込んでいると、紅蘭と織姫、それにカンナが食堂を覗き込んできた。
「もうすぐ出来るんだよぉ」
 大袈裟なほどにフリルのついたエプロンは、チョコレートでどろどろになっていた。頬や鼻の頭にも、チョコレートがついている。そんな姿で笑っているアイリスを、みんな、同じ気持ちで見詰めていた。
「チョコレート、作ってるんだね。良い匂いがする」
 そこへやって来たのは、大神だ。
「お兄ちゃん!」
 見られたのが恥ずかしいのか、アイリスは声をあげた。
「今日はバレンタインって言う日なんだってね。由里君が言ってたよ」
「そうで〜す。セント・ヴァレンタインディは、キリスト教の愛の日なんですよ〜。そして、日本では何故か女性が男性にチョコレートをあげる日で〜す」
「らしいね。全然知らなかった」
「アイリスね、お兄ちゃんにおいし〜チョコレートあげるから、待っててね!」
「あ……あぁ!」
 返事に、一瞬戸惑ったのは、アイリスの後ろに、マリアがいたから。理由も解らず嫌われているようで、マリアと目を合わせる事を躊躇ってしまう。しかし、マリアが思い掛けず、ふと笑顔を見せた。
「そうだ、隊長。ほら!」
 そう言って、カンナが四角い包みを放り投げた。大神は、咄嗟に手を出し、それと受け止めた。
「やる。バレンタインだからな」
「カンナぁ!」
「そう怒るなって、アイリス。義理チョコっつってな、いつも世話になってる人とかに贈ったりするチョコもあるんだよ」
 頬を膨らますアイリスに、カンナはパチンと片目を閉じた。
「私も義理チョコで〜す!」
 そう言いながらも、織姫は頬を真っ赤に染めて、大神に包みを渡した。
「う……うちも……大神はんに……!」
 紅蘭は、どもっていた。眼鏡の奥の瞳を輝かせながら、大神にチョコレートを渡す紅蘭を見詰める一同。その中に、いつの間にかレニもいた。
「お、レニじゃねぇか。気付かなかった。レニも隊長に用事か?」
「成程。みんな、やっていることは同じのようだね。これ、隊長に」
 レニは、大神に青い包みを差し出した。先日、マリアと一緒に買いに行った物だ。レニの態度は、“礼儀”を見せている。しかし、マリアは解っていた。買い物に付き合ったマリアだからこそ、解るのだ。“礼儀”の後ろに隠されている“本心”。
「あら、少尉。此処にらしたんですの?」
「すみれ……」
 丁度、大神がレニから包みを受け取った時、今度はすみれが食堂に入ってきた。
「アイリスも少尉にチョコレートをあげるんですの?」
「も、ってことは、すみれもか?」
「勿論ですわ。わたくしのは、一流シェフの高級チョコレートですわよ!」
 すみれの高笑いが、食堂に響く。
「アイリスのチョコの方が美味しいもん!」
「そりゃそうさ。何たってマリア直伝だし。何より、アイリスの気持ちがこもってんだもんなぁ。あんなへなへな女のチョコレートよりずっと美味いに決まってるぜ、アイリス」
 カンナの一言で、お約束の口論が始まった。アイリスも紅蘭も織姫も、それに大神も呆れ顔である。
 アイリスは、義理チョコだと決めつけているようだ。しかし、マリアにはそうは見えなかった。すみれの指が、傷テープに埋め尽くされている。「一流シェフの高級チョコレート」とは言ったが、「一流シェフの作った」とは言わなかった。つまり、「一流シェフに教わって、すみれが作ったチョコレート」なのではないだろうか。不器用で、料理なんて帝劇では絶対にしないすみれが、あんなに手を傷付けてまで作ったのだ。総ては、大神のために。
 アイリスは、大神を待たせ、その場で完成したチョコレートを渡した。包みもしなかったが、大きなハートのチョコレートは、アイリスの気持ちを伝えるには、十分すぎるモノだった。
「アイリスの、いっちばん最初に食べてね、お兄ちゃん!」
「ああ」
 一同は顔を見合わせ、肩をすくめた。全く、アイリスには敵わないな、と。
 三十分ほどそこで談笑した後、いつの間にか散会となっていた。全員が引き払って、マリアは一人で片付けを始めた。大神は、アイリスに連れていかれた。
「……はぁ」
 一体、何度目の溜め息か解らない。
 全員が、一度に大神に気持ちを贈る。目を反らせば、不自然極まりないでだろう。そう思って、ずっと見ていたけれど、それらのシーンは想い出すだけで、息が漏れる。彼女達の気持ちを、大神は一体、どれくらい受け取ったのか。
 しかし、断れない事は、マリアが一番よく知っている。
 アイリスが使った道具類をつけた水面に、波紋が出来た。歪んだ自分の貌を、マリアは手で掻き回す。貌にかかった水滴を、乱暴に腕で拭った。
 カンナが本当に義理で贈ったかどうかは、解らない。自分と彼の事を察して身を引いたようではあるが、彼女もまた、以前は大神に惹かれていた。織姫や紅蘭、レニ、すみれは、大なり小なり、特別な気持ちがある。アイリスは、言わずと知れたことだ。
 それでも。
 部屋に戻ったマリアが、次に部屋を出たのは、午後十時を回った頃だった。机の引き出しにしまって置いた包みを持って。大神に贈る。そのために、一昨日、夜を徹して作ったチョコレートだ。
 大神さんに、渡そう。他のみんながどうであれ、これは私の気持ちだもの。
 ぎゅっと胸の前で包みを抱きしめて、足音も立てずに空気のひやりとした帝劇の廊下を歩き出した。
 しかし、事はそう上手くは運ばなかった。大神の部屋。そこから、光がこぼれていた。部屋の扉が開いている。そこに立っているのは、大神。それに、
「さくら……」
 どれくらいの時間だったか、解らない。ただ、マリアはその時間をとてつもなく長く感じていた。さくらと大神がそこにいて、何をしているのかは一目で解る。立ち尽くして、その光景を見詰めていた。目を反らせなかった。見たくもないのに、見詰めていた。
 大神と別れ、さくらがこちらへ戻ってくるのが解り、咄嗟にマリアは包みを隠した。
「あれ、マリアさん。どうなさったんですか?」
「ちょっと……喉が渇いたから、水を飲みに行こうと思って」
「そうですか。私は、今、大神さんに渡してきたところなんです。喜んでもらえたみたいで、良かった!」
「…………ええ……」
 おやすみなさい、と、言い残し、さくらは立ち去った。
 途端、涙が止まらなかった。
 一番見たくない場面を見てしまったのだ。その光景がまざまざと眼に焼きついて離れない。気の向くまま歩みを進め、マリアは、サロンに行き着いた。一番奥の椅子に腰を下ろす。頬杖を付いて、ぼんやりと窓の外の空を眺めた。星のない空に、月だけがやけに明るい。



「……マリア?」
 どのくらいの時間、マリアはそうしていたのか。見回りをしていた大神は、サロンで見付けたマリアに声をかけることを躊躇った。
 マリアの瞳からは、止めどなく涙が溢れている。
「マリア……」
 僅かな躊躇の後、名を呼ばれ、マリアはふと貌を上げた。大神の姿を確認するや否や、涙を拭う。
「大神さん……。見廻り、ですか?」
「あ……ああ……。マリア、どうして泣いて――」
「私……嫌な女ですね……」
 突然の言葉。それは、静かに大神の耳を貫いた。大神はマリアに駆け寄った。
「な、何を言い出すんだ、急に?」
「さくらの気持ち、アイリスの気持ち……みんな、知っているんです。でも、私は断らなかったんです」
「え?」
「チョコレートの作り方を教えたり、マフラーの編み方を教えたり、買い物に付き合ったり、励ましたり……。みんなの気持ちを裏切っていたんです」
 マリアの言う事を理解するのに、そう時間はかからなかった。今日の事を言っているのだと。
「女性が男性にチョコレートや贈り物をする理由を、貴方は知っていますか?」
 虚ろな瞳で月を仰ぎ、大神に貌を向けようともせずに、問う。
「いや」
「“愛の告白”。カンナの言う通り義理やお礼で渡す例もありますけど、大抵は愛情の形です」
「え……」
 沈黙が流れた。もしそれを知っていたら、受け取らなかったろうか。そんな筈はない。あの直向な瞳を見て、断れるわけがない。そして、惹かれないわけがないのだ。
 マリアは、そっと大神に包みを差し出した。
「私は、裏切り者です。嫌な女です。きっと、貴方には相応しくない――――」
「マリア……!」
「受け取って欲しいとは、言えません……」
 特別な日。愛する人に、想いを伝える日。それが、こんなにも痛みを伴う日なのだと、マリアは初めて知った。
 特別な日だと、知った。同時に、特別な人を傷付けてしまう日なのだと、大神は初めて知った。一番大事な人を、こんなに泣かせる日なのだと。
「それでも、私は……」
「もう……良いから……」
 大神は、そっとマリアをその腕で包んだ。マリアは、子供のように大神の背に手を回し、しがみついた。
 微かな言葉。震える唇が漏らした言葉。罪を贖う言葉。



 まるで、懺悔のような……。



――――――貴方が好きです――――――


END
2000年頃に書いたヴァレンタインSS。
恋愛経験の浅いマリアの、不器用な恋。
本来経験すべき年齢で経験出来なかった想い。

ところで、この頃の日本にヴァレンタインにチョコレートを贈る習慣はありません。
が、女性の間ではそういう風習が浸透し始めていて、未だ男性はイマイチピンと来ない、という感じ。
だと、思って下さい。
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