誰も認めてくれないと蹲っていた。
 私、自分を誇って生きていたい。



     天使の階段



 一九二七年二月十四日。
 帝都はこの冬一番の寒気に見舞われ、夜明け前から雪が降り続いていた。帝都の子供達は大喜びで家を飛び出し、雪遊びを始める。雪が降る事自体は然程珍しくも無いが、この年は寒さの割りに天気が良く、雪はあまり降らなかった。降っても、精々粉雪が舞う程度だ。そのため、子供達が本格的に雪遊びをするのは、今年はこれが初めてなのだ。
 大帝国劇場の中庭でも、花組は雪遊びをして盛り上がっていた。沖縄出身の桐島カンナは、雪が降ると子供のようにはしゃぐ。子供の頃に雪遊びをした事が無く、まるでそれを取り返そうとするかのように、誰よりも早くから雪の中を駆け回っていた。それに続いたのは、年少のアイリスとレニ・ミルヒシュトラーセだ。二人掛かりで、カンナに雪合戦での対決を挑み、奮闘している。更に真宮寺さくらと李紅蘭も加わって、四対一での戦いが始まった。
「まぁったく、こんな寒いのによっく外に出られるものですね~」
「本当に、どうかしてるとしか思えませんわ」
 そんなはしゃぎ声を暖炉に火を焚いたサロンで、温かい紅茶を飲みながら冷ややかに聞いているのは、ソレッタ・織姫と神崎すみれだ。
「貴方達も一緒に遊んで来たら? ここにいるより、きっと身体も温まるわよ」
「そうね。みんなで雪合戦大会でもしたらどう?」
 サロンでぐったりしている二人を笑ったのは、副司令の藤枝かえでと、花組副隊長のマリア・タチバナだ。マリアが黒いロングコートを着込んでいるのはいつもの事だが、今、藤枝かえでまで厚手のコートを煽り、マフラーを巻いている。
「あら、マリアさんにかえでさん、どちらかお出掛けですの?」
「えぇ、今日はこれから陸軍省へ行かなくてはならないの」
「陸軍、ですか~?」
 なんでまた、と、織姫は首を傾げた。
「ダグラス・スチュワート社との一件で、陸軍に協力してもらったから、その後の報告とかしなくちゃいけないのよ」
「でも、マリアさんが行くんですのね。中尉はどういたしましたの?」
「大神君には、別の用事を頼んでいるの。雪が降ってるから時間も掛かるわ。マリア、行きましょう」
 雪が降ったところで露西亜育ちのマリアには大した影響はないのだが、かえでは雪に慣れていないため、なるべく早く出発したかった。
「はい。すみれ、私は出掛けるから、後の事はカンナに任せてあるわ。ちょっと頼りないから、レニと一緒にフォローして頂戴。十八時には戻るから」
「陸軍って事は……」
「えぇ、直接つれてくるわ。だから手伝えないんだけど、お願いね」
「解りましたわ。いってらっしゃいまし」
 マリアとかえでは小さく頷き、サロンを後にした。



 陸軍省には、普段は蒸気自動車で行く。大抵の場合は風組の藤井かすみが運転するのだが、こうも雪が積もっていては、蒸気自動車を出すのは危ない。紅蘭が最近、雪中移動を想定した蒸気自動車を開発したものの、タイヤが巨大で、しかも重戦車が通ったかのような騒音がするため、今は使い物にならない。時間は掛かるが、安全で迷惑の掛からない方法を取ろうと、二人はメトロを乗り継いで陸軍省に向かったのだった。
 かえでが考えていた程雪の影響は無く、陸軍省には予定より三十分近く早く到着した。マリアは厳しい外観の建物を見上げ、呟いた。
「此処が、陸軍……」
「マリアは、初めてなの、此処に来るの?」
「はい」
「あまり良い印象はないでしょうけど……」
 かえでは曖昧な笑みを浮かべて肩を竦めた。
 太正十四年十一月九日の太正維新事件で大帝国劇場を陸軍に攻撃された事があった。総てが悪いとは言わないが、陸軍はつかみどころがなく、好感は持てない。
 入り口で肩の雪を叩き、二人は省庁に入った。静まり返った長い廊下は、普通に歩いているだけでもこつこつと足音が反響した。
「でも、薔薇組の方々は陸軍にいらっしゃるんですよね。薔薇組の方々が受け入れられるというのは、やっぱり不思議ですけれど、それだけ実力が認められているという事でしょうか。日本において、そこまで“実力主義”が浸透しているとは思えないのですが」
「実力主義? そうね、浸透してるわけがないわよね」
 かえでは冷たく言い放つ。かえでの瞳は、不意に影を帯びた。
「かえでさ――」
「あぁっ、マリアさん、かえでさんっ!!」
 マリアが何か言いかけた、その言葉を遮って二人の背後から飛んできた声は、喜びに弾んでいた。陸軍に、知り合いは少ない。二人が同時に振り返ると、そこには元薔薇組の隊員で、帝国陸軍少尉の丘菊之丞がいた。相変わらず女性物の軍服に身を包み、小さくて愛らしい姿で二人に飛びついた。
「マリアさん、お久し振りです!」
 満面の笑顔でそう言って、菊之丞はマリアの手を握った。菊之丞と最後に会ったのは、『怪人別荘』の打ち上げの席だ。今日は、あの頃より少し伸びた髪を首の後ろで結っている。
「お久し振りです。髪、伸びましたね」
「そうなんです。琴音さんくらい伸ばそうかと思って」
 元薔薇組の隊長である清流院琴音は、豊かな髪を腰まで伸ばしている。あの長さまで伸ばすのに何年掛かったかは解らないが、今の菊之丞を見ると、随分と先の長い話だ。しかし、彼はきっと似合うだろう。益々女らしくなるに違いない。二、三年後には、花組の舞台でヒロインを演じても可笑しくないくらい美しくなっているのではないかと、マリアは密かに思った。
「きっと似合うわね」
 マリアの考えと全く同じ事を、かえでが口にした。誰もがそう思うのだろう。彼はこんなにも愛らしいのに、どうして女性ではないのかと、不思議になる事が儘ある。マリアは、そっと菊之丞の髪を撫でた。
「私もそう思います。ねぇ、菊之丞さん、今夜、お暇ですか? 宜しければ、帝劇で夕飯をご一緒しませんか?」
「え、良いんですか?」
 突然のマリアの言葉に、菊之丞は眼を瞬かせた。頬がほんのりと紅潮し、口元に笑みが浮かぶ。
「勿論よ。折角、久し振りに会えたんだから。琴音さんや斧彦さんも、今日はいるの?」
「斧彦さんは夕方に帰ってきますから、一緒に行けますよ。嬉しいです。琴音さん達もきっと喜びます!」
「――何を喜ぶと?」
 きらきらと瞳を輝かせ、興奮気味で言った菊之丞の背中に、低く、重たい声がぶつかる。菊之丞は、背筋がぞくりと凍りつくような錯覚に見舞われた。
 マリアは、マリアだけは、躊躇いもなく貌を上げた。かえでと菊之丞は、それが誰か解っているからか、恐怖からか、息を呑んで俯く。菊之丞の頭上に、濃い影が落ちた。ゆっくりと、二人の男が近付いてくる。一部の隙もなく軍服に身を包んだ男達は、菊之丞の背後へと歩み寄った。共に、年の頃は五十代半ばだろうか。半歩前を歩く男は、頬が削げ落ち、神経質そうな顔をしていた。背が高く肩幅が広いが、全体的に細身だ。だが、サーベルか銃刀の先端に煌く刃のように鋭い印象を受ける。もう一方の男は、前の男よりやや低いが、がっしりとした身体つきで、いかにも“軍人”といった風貌だった。この男は前の男に会釈をしてから前に出ると、大股で近付き、ぴたりと菊之丞の背後に立った。仁王立ちになり、厳しい顔付きで菊之丞を見下ろしている。浅黒い肌。左のこめかみから頬にかけて深い切り傷が刻まれ、ただでさえ厳つい印象があるというのに、更に貫禄が増している。マリアはその男達の顔をうかがった。彼等の目の前で、菊之丞は貌も上げられずに震えていた。
「お久し振りです。御無沙汰をしておりました」
 かえでは微かに貌を上げ、男に軽く頭を下げた。浅黒い肌の男は笑いもせず、ちらりとかえでを見た。
「あぁ、久し振りだな、藤枝特務中尉」
 恐らく、陸軍の中ではかなりの地位にある男達なのだろう。ただ――これまで数々の戦いの場を潜り抜けてきたマリアの直感が、彼等を警戒せよと命じていた。近くにいて、良い気がしない。寧ろ、気分が悪い。この雰囲気は、誰かに似ている。
「こちらのお嬢さんは、陸軍の人間じゃないな」
 サーベルのような男の切れ長の眼がマリアを見る。ただ視線を流しただけなのだろうけれど、マリアは睨み付けられているようで不愉快だった。
「帝国華撃団花組副隊長を務めます、マリア・タチバナです」
 かえでは気丈な顔付きで答えたが、声が微かに震えていた。かえでが動揺している。それがマリアにも解り、男達に対する不信感が募った。この男達は、一体何者なのか。
「タチバナ……成程、例の露西亜娘か」
 露西亜娘。吐き捨てるような言葉に、悪意がありありと感じられた。しかし、外見やファーストネームなら兎も角、ファミリーネームからマリアが露西亜人であると察する者など、いる筈がない。“タチバナ”は日本の名なのだから。元から、マリアの事を知っているようだ。
「閣下、用事がありますので、私達はこれで失礼致します」
 かえではマリアに視線を向け、小さく頷いた。それが合図だとマリアも解り、男に軍人らしい礼儀を持った一礼をして背を向けた。当然、菊之丞もついてくるものだと思っていた。だが、菊之丞は動かない。この男が現れたその瞬間から、凍り付いている。
「菊之丞さん」
 振り返り、彼を呼ぶ。菊之丞ははっと貌を上げ、マリアとかえでの後を追おうとした。だが、聳え立つ山のような背後の男が、急に菊之丞の肩を掴んだ。
「お前は此処に残れ」
 地鳴りのように低く響く声。マリアの不快感を掻き立てる威圧的な響きだった。
「失礼ですが、私は彼に用がございますので、連れて参ります」
 手袋に包まれた紅い手を差し出し、マリアの身体が菊之丞と背後の男の間に割って入った。
「ふむ。菊之丞。お前は何処まで情けない男に成り下がれば気が済むんだ。女に庇われるなど、恥ずかしいとは思わんのか」
 ゆっくりとした口調と重々しい声、何より、菊之丞を見下す科白が、マリアの神経を逆撫でする。マリアは厳しい男の顔を睨んだ。マリアよりも男は背が低く、見下ろされる事が不愉快のようだった。男は顎を上げ、蛙のようにぎょろりと丸い目を細めてマリアと睨み合う。男の背後、距離をとって傍観者のように静かに立っている男の方が、マリアにとっては尚不愉快だった。
 二人を取り巻く空気が張り詰め、ちりちりと肌が痛んだ。二、三分、互いに何も言わず、睨み合う。菊之丞が、マリアのコートを掴んだ。その震えが、マリアに伝わってきた。かえでは何も出来ずにただただ立ち尽くす。そんな四人を、薄ら笑いを浮かべて、もう一人の男は眺めていた。
「邪魔だ。露西亜女は早々に失せろ」
 遂に男が口を開いた。
「……では、彼も連れて行きますの」
「そいつはお前には関係ない。置いてゆけ」
 マリアの肩を押し退け、男は菊之丞の右腕を掴んだ。その直後、突然振り上げられた男の拳が、菊之丞の左頬に直撃する。
「菊――」
 一瞬、マリアの反応が追いつかず、菊之丞の小さな身体は、男の拳に吹き飛ばされ、床を転げてかえでの足にぶつかった。
「なんて事を!」
「黙れ、お前には関係ないと言うておる!」
 菊之丞を殴り付けた拳は解かれ、今度は手の甲でマリアの頬を叩いた。乾いた音が冷たい廊下に響く。
「マリア!」
「藤枝特務中尉、さっさとこの薄汚い異邦人を連れて失せろ。菊之丞はそこに置いて、だ。お前まで私に逆らうまいな?」
 直接軍隊に関わらないマリアには関係はなくとも、軍籍のあるかえでは、彼等に逆らう事は出来ない。かえでは一瞬、身体を強張らせた。
 男の身体が、今度はかえで達の方へと近付く。
「かえでさ――」
 男を止めようとしたマリアの腕を、突然もう一人の男の手が引き寄せた。
 傷のある男は、片手で床に転がる菊之丞の肩を掴んで無理矢理立ち上がらせると、力尽くで壁に押し付ける。
「女のような恰好をして、馬鹿みたいに髪を伸ばして――お前は恥さらしだ。このクズが!」
 男は真っ赤な顔で、今にも菊之丞の首を絞めそうな勢いだった。マリアが駆け寄ろうとするが、もう一人の男は離してはくれない。振り解こうとすればする程強く腕を握られ、マリアは顔をしかめた。
「男のお前に髪なんかいらんだろうが!」
 怒鳴りつけるや、男はポケットから折りたたみ式のナイフを引き抜き、手首を捻った。反動で、銀色のナイフが刃を煌かせた。壁から僅かに離すと、震える菊之丞の髪の端を掴み、頭部を引き寄せる。菊之丞は無抵抗で、ただただ震えているだけだった。
「菊之丞さん!」
 かえでが、思わず声を上げる。そのかえでの視界を、別の影が塞いだ。
「私の部下に手を出さないで頂きたいですね、少将」
 銀のナイフを握る男の手首を取り、菊之丞を無理矢理引き離しす。腰まで伸びた豊かな栗色の髪。派手な外套を翻し、眼鏡の奥の瞳を自信あり気に細めて男を見遣る。
「琴音さん……」
 かえでは息を呑んだ。元薔薇組隊長、清流院琴音。穏やかな貌をしているが、まるで隙がない。
「お前は私に指図出来るような立場ではないだろう。第一、そこのクズをどうしようと、私の勝手だ」
「残念ですが、少将の勝手にはなりません。お引取り下さい」
 少将と呼ばれた男は、あからさまな苛立ちを見せながら、琴音の手を振り払った。かえでは菊之丞を抱き寄せ、琴音の後ろから男を睨み付けた。
「藤原中将、そちらのお嬢さんの手を離して下さい」
 少将が動かないように横目で見張りながら、琴音は今度はマリアと、マリアを抑えている男の方へと歩み寄り、マリアの肩を引き寄せる。藤原中将なる男は、すんなりと手は離したが、琴音に冷ややかな暗い視線を向けている。
「お前のように下らん男が、随分と偉そうな口を利くようになったものだな」
「“血”でしょうかね」
「クズが。米田も耄碌したか。お前等のような恥さらしや露西亜女のような、クズばかりを集めおって」
 男の声は氷のように冷たい。マリアは耳を疑った。陸軍中将だかなんだか知らないが、何故そんな事を言われなくてはならないのか。
「今すぐその台詞は撤回して下さい」
 愕然と目を見開いたマリアを庇うようにその前に立ち、琴音は躊躇なく静かに言った。怒りを押し殺しているのが、マリアにも解る。
「下らん。所詮米田も、それだけの男だ」
「貴方に、米田中将を――帝国華撃団を侮辱される筋合いはない。軍人がいつこの国を守ったという!」
「黙れ、お前の存在自体が私の人生最大の汚点だ!」
 藤原は拳を固め、少将が菊之丞にしたのと同じように彼の頬に叩き込んだ。かわそうと思えばかわせたが、真後ろにいるマリアに当たるかも知れない。琴音は両足を踏ん張り、その拳を頬で受けた。
「何とでも仰い。私にとっちゃ、貴方が汚点だわ!」
 琴音がこんな風に怒りを露わにし、声を荒げるなど、稀有な事だ。藤原は、奥歯を噛み締めて眉を寄せた。益々神経質そうな顔付きになり、薄ら笑いを浮かべた頬をひくつかせている。
 琴音はそれ以上何も言う事などないと吐き捨て、、マリアの手を取って歩き出した。マリアは何がなんだか解らなかったが、琴音に手を引かれ、後ろをついて歩いた。忌々しげに顔を歪める少将の真横を通り、琴音はかえでの肩に手を掛ける。
「行きましょう、かえでさん」
「…………はい」
 かえではちらりと二人の将官の様子を伺い、すぐさま足を進めた。無言で歩き続ける琴音の後を追いながらマリアはそっと後ろを振り返る。二人の将官は何かを話しながら、反対方向へと去っていった。



 廊下の突き当たりで右折し、階段を昇って、琴音は長い廊下に並んだ扉の一つの前で足を止めた。
「大丈夫なんですか、清流院大尉?」
「何が?」
「先程の将官達です」
「だって、腹が立つじゃない?」
 言いながら琴音は外套の内ポケットから真鍮製の鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。
「しかし――」
 反論を仕掛けようとしたマリアに、琴音は笑顔を見せた。マリアは、思わず言葉を止めた。琴音の瞳が語っていたのだ。「それ以上言わないで」と。琴音は三人を部屋に入れ、扉を閉めた。
 広い部屋だ。だが、壁際と、部屋を仕切るように部屋の真ん中に並んだ本棚が、部屋を狭くしていた。部屋の隅には雑多なものが詰め込まれた木箱が一つと、椅子や脚立などが置かれている。書庫のような部屋だ。しかし、整理された帝劇の書庫とは違い、机にも本棚にも雑然と本が積まれている。その上窓に掛かったカーテンが引かれていて薄暗く、気の滅入りそうな部屋だった。
「好い加減、整理した方が良さそうですね」
 かえでが壁際の本棚を上から下まで眺めながら、呆れたように呟いた。
「忙しい内は無理よ。来月には落ち着くから、それから片付けるわ」
 先程の険悪な睨み合いは勘違いだったのかと思いそうな程、かえでと琴音は普段と変わらない調子で会話をしていた。しかし、無言で俯いたまま肩を震わせている菊之丞だけが、勘違いでもなんでもないのだと示している。彼にとっては、身の凍るような出来事だった。男達が現れてから口も利けずに、ただ震えて、されるがままになっていた。殴られても抵抗せず、ナイフを向けられても震えているだけ。あの男達は、一体何者なのだろう。
「さて、かえでさん、報告書の提出に行くのよね。私もご一緒するわ。マリアさん、貴方は此処でちょっと待っていて頂戴。すぐに戻るから」
「は……はい」
 早口でそう言って、琴音はこつこつと靴を鳴らす。が、扉の方へは行かず、震えている菊之丞の背後に立った。僅かの間、そうしていたが、菊之丞は何の反応も示さない。ただ、震えているだけだ。泣いているのだろうか。琴音は菊之丞が何も言わないと解ると、彼に背中を向け、今度こそ扉に向かった。
「菊之丞」
「…………はい」
 上ずった、涙声。やはり、泣いている。
「私はもう、貴方の手を引いて連れ出したりはしないわ。貴方が自分で戦って超えて行きなさい」
「私は、琴音さんとは違うんです!」
 菊之丞が叫んだ。いつも穏やかで大人しい菊之丞が、大声を上げた。
「知ってるわ。当たり前でしょ?」
 冷ややかな言葉を残し、琴音はかえでと共に出て行った。
 取り残されたマリアは、どうすれば良いのかも解らず、呆然としていた。此処で、陸軍省という場所で一体何が起こっているのかが全く解らない。普段では想像も出来ないような、琴音の怒りと菊之丞の叫び。何より、あの二人の将官。誰かに似ていると思っていたが、あの男だ。帝劇を占拠した事件の時に、陸軍を仕切っていた男、天笠士郎。今は亡きあの男によく似ている。神経を逆なでする高慢な男。陸軍には、ああいったタイプの人間しかいないのか。
 マリアが思考を巡らせていると、漸く菊之丞が涙を拭いて、こちらを向いた。
「マリアさん、髪を切って頂けませんか?」
「え? でも――」
「お願いします。短くしてないと、また少将に殴られてしまいます」
 本棚の引き出しから革の鞘に収まった鋏を取り出し、マリアに差し出した。
「菊之丞さん……」
 マリアが鋏を受け取ると、菊之丞は部屋のの木箱から布を引っ張り出してマリアの前に敷き、本棚の前の脚立を運んで布の上に置いた。普通の椅子ではマリアには低いかも知れないが、脚立に座れば、菊之丞の頭は丁度マリアが髪を切り易い高さになった。
「良いんですか? 清流院大尉のように伸ばすのではないのですか?」
「良いんです。私は、琴音さんみたいになれないから……」
 菊之丞は囁き、溜息をついた。
 切りたい筈がない。それでも、切らなくてはならない。また、あの横暴な少将に逢ったら、と考えてしまうのだろうか。いつでも都合良く琴音が助けてくれるわけではない。因縁をつけられる以前に切ってしまおうというのだろう。
「髪は、いつでも伸ばせますしね。切りますよ……」
 髪を束ねている紐を解き、マリアは菊之丞の艶やかな黒髪に鋏を入れた。また、震えだすのではないかと思ったが、菊之丞は落ち着いていた。落ち着いているように、マリアには見えた。
 元々伸ばし始めたばかりの髪は、五分程度で切り揃えられた。マリアが終わったと告げると、菊之丞は五分前よりすっきりした後頭部を撫で、眼を伏せた。
「マリアさんは、髪は伸ばさないんですか?」
「私は男役が多いから、伸ばさない方が都合が良いのよ。女役を演る時は、必要に応じて鬘を使うけど」
「そうですか」
 マリアは、伸ばすも切るも自分の意思だ。誰からも強制はされない。ただ、役者として良いと思う方を自分が選んでいるだけだ。
 菊之丞は違う。薄暗い部屋の中で俯いていると、菊之丞の気持ちは益々落ち込むのではないか。マリアは、カーテンを開け、部屋に光を入れた。それから硬く閉ざされた窓も開いて、部屋に風を通した。
「寒いですか?」
 雪の上を滑った風が、菊之丞の髪を撫でる。マリアは窓辺に積もった雪をハンカチに包んだ。
「いいえ、気持ち良いです」
「雪は、好きですか?」
「大好きです。私が生まれた日も、雪が降っていたんですって。真昼なのに真っ暗で、空より地面の方が雪明りで明るいくらいだったそうです」
 懐かしそうに眼を細め、漸く微笑んだ菊之丞にの頬に、マリアは雪を包んだハンカチを当てた。
「冷たっ!」
「少し腫れてますよ。女性を殴るなんて、最低だわ」
「女性……ですか……」
「女性ですよ。私は、菊之丞さんが羨ましいもの。私よりずっと女性らしいわ」
 マリアの言葉は、菊之丞には空しく響いた。
「私は、女じゃありませんよ。マリアさんだって、解ってるんじゃないんですか?」
 菊之丞は、床に膝をついて頬を冷やしてくれているマリアの目を見据え、はっきりと言い切った。しかし、マリアは首を横に振る。
「女ですよ。こんなに女性らしいんですから」
「……女性、らしい?」
 菊之丞が声を発した瞬間、マリアは思わずハンカチを取り落とした。ぱしゃ、と音を立てて雪が床の上で散る。何が起こったのか、解らなかった。見る限り、何も起こってない。なのに、突然マリアの手は、菊之丞の肌から弾かれたのだ。確かに、何かによって手を叩かれるような感触があった。しかし、菊之丞が手で払ったわけでもなんでもない。菊之丞は、微動だにしなかったのだから。
「菊之丞さん?」
「マリアさんは女性ですけど、私は女性じゃありませんよ……」
 眉を寄せ、肩を震わせて、菊之丞は今にも泣き出しそうだった。声が涙に揺れ、掠れて、悔しそうに奥歯を噛み締める。
「貴方は、女性より女性らしいです」
「でも、女じゃないんです!」
 菊之丞が、声を上げる。その瞬間、マリアは急に身体を目に見えない力に押され、抵抗出来ずに床を転がった。
「菊――」
「貴方は女性です。でも、私はどうやったって男なんです。スカートをはいても、髪を伸ばしても、私はどうやったって男なんです。好きな人がいたって、選んではもらえない。でも、マリアさんは大神さんに選ばれたじゃないですか! 私は元々、彼に目にも映らないのに。同じ場所に立つ事すら出来ないのに! 女性より女性らしくしたって、私は女性にはなれないんです!」
 普段の線の細い声からは想像も出来ない程太い声で、菊之丞は吐き散らした。その声は、誰が聞いても男だった。少女の頃から声がやや低く、重みのあるコントラルトのマリア、男性にしてはやや高めのテノールの菊之丞。声の高さだけなら然程変わりはないのかも知れないが、声の質そのものは男と女とでは違う。二十代の、当然声変わりを通り越した菊之丞は、どんなに高くても男の声を持っている。菊之丞の科白を証明するかのように。
「私は間違って生まれてきたんです。だから誰も選んでくれないんですよ。間違って男になんか生まれてきたから、だから……だから、お父様も選んでくれなかった。私を認めてくれなかった。愛してなんかくれなかった――!」
 マリアの身体を、またも見えない力が押した。マリアは起き上がる事も出来ず、床に這い蹲って、菊之嬢を見詰めた。




 かえでと琴音は兵器局長の大橋少将に書類を提出し、元来た廊下を歩いていた。
「かえでさん、今度、菊之丞の測定をして頂戴。あの子、また霊力が強くなってきてるみたいだわ」
「解りました。時間が出来たら、帝劇に来て下さい」
「年を重ねれば重ねる程、あの子は女性としての心が目覚めてゆく。霊力が強くなるのは、その所為かしらね」
 かえでは頷いた。菊之丞も、人並み以上の霊力を持っている。それは、かえでも米田も知っている事だ。華撃団に関わる人間は、最初に霊力を測定する事になっている。薔薇組の霊力も、かえでは記憶していた。菊之丞の場合、霊子甲冑等の霊子機器を動かせる程の力はないが、一般人よりは霊力のレベルは高い。そして、その力が徐々に強くなっているように琴音には感じられた。
「あの……有り難うございます、琴音さん」
「ん?」
「気を遣って頂いて。また、藤原中将達に遭遇したら、マリアも菊之丞さんも大変ですものね」
「そうね。マリアさんは何も知らないから、あの人達の横暴を見逃せる筈もないし。これが大神中尉だったら、どうだったかしらね。見てみたかったわ。将官達に楯突いてでも正義を貫いてくれたかしら?」
 琴音の問い掛けに、かえでは苦笑した。帝国華撃団花組の隊長である大神一郎は、真面目で誠実で正義感が強い。横暴の場面にいて、上官からの命令には忠実に従う真面目さか、それとも横暴を許さない正義の心か、どちらが勝つだろうか。
「大神君だから、正義感だとは思うけど……」
「どうかしら。藤原中将は帝国陸軍のカリスマよ?」
「……えぇ。中将も少将も、陸軍を牛耳って、誰も逆らえない存在だわ。少なくとも、菊之丞さんは敵わない。だから、菊之丞さんは出たくても陸軍を出られないんですね」
「そればかりではないわ。あの子もいつか認めなきゃならないの。どちらかを捨てなきゃいけないって事。私は捨て易かっただけだけど」
「マリアや大神君達には信じられないでしょうね。彼の戦うべき相手が自分の父親だなんて」
 琴音は小さく頷いた。
「たとえ心が女でも、誰もそれを認めやしないわ。身体が男である以上、ね。特に、丘少将のように頭の硬い人間に、理解出来るわけがないのよ」
 琴音は呆れきった様子で溜息をついた。
 丘征之丞少将――丘菊之丞少尉の実の父親であり、陸軍の英雄でもある。こめかみから頬にかけての傷は、日清戦争での名誉の負傷だ。英雄は、自らの息子が同じ道を歩む事を望んだ。戦場を勇猛に駆け抜ける、男の中の男だ。身体が育たず小さいだけでも気に食わないというのに、この上女性物の軍服を着て内股で歩くなど、以ての外だ。
「悲しいですね……」
「だから、選ばなきゃいけないのよ、あの子も。父親か、自分かを。私や斧彦がそうだったように」
「親子で解り合えないのは、辛いですね」
「話し合いで理解しあえない事は、貴方もよく解っているでしょう。覚悟を決める時が来ているの。そうでないと、一生逃げ続ける事になるわ」
 琴音は、真っ直ぐに廊下の先を見据えた。
 一人の男が、向こうから歩いてくる。男――藤原中将は琴音とかえでを見止め、鋭い眼で睨んだ。





 菊之丞が声を発する度、誰も触っていない本棚の本がばさばさと床の上に散らばり、マリアは何度も見えない力に押された。間もなく、マリアも、これが菊之丞の霊力だと解った。アイリスの暴走時とよく似ている。だが、よもや菊之丞に、人体や物体に影響を及ぼせる程の霊力があるとは思わなかった。
「…………お父様?」
「さっき髪を切ろうとしたのは、私の父親です。軍人で、少将です。私を立派な軍人にするんだって、育ててくれた父です」
 明らかな暴力で彼を押さえつけていたあの男が、実父。見ていて憎しみすら生まれてきたというのに、それが、彼の父親だったなんて。
「私は軍人になんかなりたくなかったんです。女として生きていきたくて、髪を伸ばしてきました。だけど、十になったら、もう子供じゃないからって髪を切られたんです。全部切り落として丸坊主にされて、泣きに泣きました。だけど、お父様は泣きじゃくる私に言ったんです。『お前は恥さらしだ』『お前など生まれなければ良かった』って……」
「――酷い」
「私は女でいたいのに。女として生まれてきたのに、何で身体は男なの? みんなが私を恥じて、嫌ってる。どうして……私だって、恋をして、誰かに愛されたいのに、その権利もない……」
 ついに、菊之丞の瞳から涙が零れだした。
 愛したい。愛されたい。みんなと同じように生きていたい。菊之丞は、全身でそう叫んでいる。全身で、泣いている。
「そんな事ないわ。恋をする事は、誰にだって自由よ。貴方のように同性を思う人は沢山いるわ。いつか、きっとそういう人と――」
「もしも……もしもいたとしても私はどうやったって女にはなれません。女らしくはなれても女にはなれないんです。私だって、愛する人と結婚して、子供を産んで、家庭を持ちたい。だけど、私は男なんです。私の身体は、どうしたって女にはなれないし、どうしたって子供は産めないんです!」
 喉が切れるのではないかと思う程、悲痛な叫び。
 女性ならば、多くの人が当たり前のように持って生まれた権利。自らの身体を介して、愛する人の子供を産む事。どんなに女性らしく振舞おうとも、菊之丞は男だ。子供は、産めない。どんなに望もうとも。
「私が女だったら、花組さんの一員として戦えたかも知れないのに。大神さんと恋をする事だって、誰かと結婚して子供を産む事だって出来たかも知れないのに、私にはそれが出来ないんです。もしもそうだったら、お父様だって――」
 きっと、認めてくれた。愛してくれた。見捨てたりしなかった。罵ったりしなかった。
 想いは涙となって次々と溢れ出し、菊之丞は立っている事も儘ならず、床に膝をついた。悔しくて、悔しくて、苦しくて。心も男だったら、陸軍でやっていけただろう。身体が女だったら、花組や風組にいたかも知れない。繋がらない心と身体の性別が、こんなにも“彼”――或いは”彼女”――を追い詰めている。
 そんな菊之丞と同じように、性のジレンマに悩み、嘆いた少女を知っている。十四の頃の自分自身が正にそうだった。男になりたかった。男として生まれなかった事を恨めしく思った。
 抱き締めたい。
 そう思えば身体は止まらず、マリアはゆるりと起き上がると、菊之丞の小さな身体を抱き寄せた。十四の頃の自分と同じくらいの、小柄な少女。あの頃の自分を抱き締めるかのようだ。
「解るわ。私もそうだった……」
「……マリアさんが……?」
「私が男だったら、誰も私を戦いに出す事を躊躇いはしなかった。私が男だったら、みんなと同じ思いで生きられた。私が男だったら、あの人に恋なんかしなかった。あの人を死なせはしなかった。もっと、一緒に生きられた。私は、男に生まれたかった……」
「“あの人”……?」
 問われ、マリアは頷いた。そうか、彼は知らないのだ。
「九つの頃に両親を亡くして、革命軍に入ったの。そこで、隊長だった男性を愛したわ。だけど、私を残して部隊は全滅したのよ」
 マリアは腕を解いて菊之丞を解放し、今度は彼の頬に触れた。先程雪を握ったばかりの手は、菊之丞の頬を冷やした。
「全滅?」
「恋をしたら、戦えない。戦いに集中出来ない。それに、私が女だから、みんなが私を庇ってくれたわ。幼かった事もあるけれど、もしも男だったら、あんなに足を引っ張らなかったかも知れないと思うと、女である事がとてももどかしかったの。隊長やみんなを亡くした時、その想いは強くなった。私が男だったら、誰も死なせはしなかったのに、と。だから、二度と恋なんかしたくなかったわ」
 冷えた指を静かな声が、菊之丞の熱を冷まし、興奮を鎮めてくれた。海のような碧い瞳を見詰めていると、息が詰まりそうだった。
「今は……?」
「……今はね、女として生まれた事を誇りに思うわ。女の心と女の身体を持って生まれた事を。壊れてしまった心を治してくれた人や、私に恋を教えてくれた人がいて……人を殺した私でも、認めて、愛してくれる人達がいて、生まれてきた事を、嬉しく思うの」
 窓の外でしんしんと降り続ける雪のように、菊之丞の瞳からも止め処なく涙が溢れた。
「総ての人が、認めてくれるわけではないわ。私を憎んでいる人も大勢いる。だけど、私は私として、生きてゆくの」
「私として」
 震える唇が呟いた言葉。それは、菊之丞の胸に火を灯した。ほんのりと明るく、温かな思い。
「出来ない事は、私にも沢山あるわ。だけど、それを言い出したらキリがないのよ。私を認めてくれない人達を並べても、やっぱりキリがない。だけど、同じように、認めてくれる人も、並べだしたらキリがないくらい沢山いるわ。それは、貴方も同じのはずよ。私は、貴方の存在が嬉しいの。貴方に出会えた事が、嬉しいのよ」
「私は欠陥品だと……父は言いました。マリアさんはそんな私でも、喜んでくれるんですか?」
「とんでもない。貴方を誇りに思う人は、きっと沢山います。私だけじゃないわ」
「私なんかが出来る事、ありますか?」
「沢山あります。貴方にしか出来ない事が、沢山あります。貴方だけが出来る事が、沢山あります。欠陥品なんかじゃない。貴方は、素敵です」
 頬を伝う涙の粒は大きく、幾筋も流れ出す。いつしか、菊之丞の嗚咽が、部屋に響いていた。



 最初に生まれた子供は、男の子。征之丞は、大喜びで、菊之丞と名付けた。それから四人の女の子。
 結婚した直後に日露戦争に出陣し、素晴らしい戦績を残した征之丞は、殆ど家に帰る事は無く、総ての事を妻・芍子に任せきりにしていた。しかし、菊之丞が十になった頃、少女のようなナリをして妹達に交じって遊んでいる事を知るや、激怒し、罵った。そして長い髪を切り落とし、服や玩具も総て燃やした。
 征之丞は菊之丞を家族から引き離し、旧友の息子に預けて厳しく育てた。
 菊之丞は、父の期待に答えるために勉強し、修練を積んだ。ただ、父を喜ばせたいがために。父に、認められたいがために。だが、菊之丞の努力とは裏腹に、胸の中で膨れ上がる違和感。男として成長してゆく事への不安感。それは特に、変声期を迎えた頃から強く感じるようになった。
 違和感を押し込め、自分を誤魔化しながら、陸軍士官学校では優秀な成績を収めた。征之丞は大いに喜び、士官学校主席卒業生の陸軍少尉として陸軍に正式入隊する日を心待ちにしていた。
 卒業式の日、征之丞は陸軍で訓練生の指導に励み、式には出席しなかった。芍子と妹達は、菊之丞との接触を征之丞から禁じられていたため、出席していない。身内のいない卒業式を終えた時、菊之丞を迎えたのは、思い掛けない人物だった。昔から、自分の事を可愛がってくれた優しい男達。陸軍のエリートで、父の旧友達の息子。それが、清流院琴音と太田斧彦。琴音は、かつての陸軍の英雄・米田一基からの辞令を差し出し、微笑んだ。
「貴方がこれを受け取るなら、貴方に自由をあげる」
 女性としての人生をあげる――
 それは、父との訣別を意味していた。



「お前達のやっている事は、結局は自己満足だろう」
「どっちが?」
 藤原の言葉を、琴音はせせら笑った。
「丘の息子は、丘に従おうとしている。お前は無理矢理引き離し、服従させてるだけだろうが」
「馬鹿言わないで。菊之丞は、自分で選んだのよ。十の砌から縛り付けて、あの子の自我を殺した父親を捨てる事を。捨てられずに戻るというのなら、私は止めないわ。だけど、あの子はそれをしない。悩んでも、苦しんでも、自分のあるべき場所に必ず戻ってくるのよ」
「丘も、太田も、お前も、戻るべきは此処だ。今なら俺が、お前達を此処に置いてやる。藤枝特務中尉、君も、今陸軍に戻るなら私が便宜を図ってやる。琴音、お前は藤原に戻り、いずれは陸軍大将になるのだ。お前のために、私は何でもしてやろう」
 藤原は真剣そのものだった。さっきは汚点だとまで言い罵ったというのに、今はこれ程までに真剣で、酷く白々しい。琴音は、高らかに声を上げて笑った。
「藤原時悠中将殿、我が父上。私の大切なものを悉く奪っておいて、何が私のため? 私がわざわざ陸軍の名家の藤原を捨てて、母の清流院を名乗る訳を、知らないとは言わせないわ。今度は私が、貴方の宝物を全部奪ってあげる」
「琴音!」
「貴方が露西亜女と罵る女性も、耄碌したと嗤った人も、私にとっては貴方より大切な人達よ。これ以上の侮辱は赦さないから、覚悟しておいでなさいな。春までは陸軍の務めを果たしましょう。でも、次に此処を出たら、私は二度と戻らないわ。良い、覚えておいて、私は必ず、真琴を連れ戻す。貴方から、必ず奪うわ」
 これ以上話す事はない。琴音はかえでと共に、颯爽と歩き出した。
「後悔するぞ。お前達は地獄を見る」
 鋭い刃を振り翳すように、藤原時悠は去り行く息子に言い放った。
「此処より酷い地獄は無いわ」
 振り返り、琴音が残した言葉は、たったその一言。親子はこうして、真の訣別を迎えたのだった。
 かえでは、琴音の隣りを歩きながら、琴音を見上げて噴出した。
「嬉しそうですね、琴音さん」
「私にとって、帝国華撃団は誇りなの。自分の誇りを貫いて生きられるって、幸せな事だわ」
 いつの間にか雪はやみ、分厚い鈍色の雲の間から、光が差している。雪が、きらきらと輝いていた。
「そうですね。さ、今日はお祝いですよ。帝劇に来て下さいね」
 二人が部屋に戻ると、菊之丞とマリア、それに斧彦が、床や机に本を積み上げて本棚の整理をしていた。
「お帰りなさい、琴音さん」
「ただいま。何やってるの?」
「整理よぉ。さっき着いたら、菊ちゃん達が大掃除してたの」
「大掃除?」
「だって、片付けなきゃ。ですよね?」
 大きな脚立の上で満面の笑みを浮かべ、本棚の一番上の段に雑巾を掛ける菊之丞は、晴れやかな顔をしていた。その首の後ろに、先程まであった短い尻尾がなくなっている。
「似合うわよ、その方が。貴方の髪、真っ黒だから、あんまり長いと重くなると思うわ」
「さくらさんみたいに紅いリボンで結びたいのにぃ」
「残念だったわね」
 琴音はくすりと笑い、脚立の下から両手を差し伸べた。
「お帰りなさい、菊之丞。私は貴方を、誇りに思う」
 温かな言葉が、雪解の雫を溢れさせた。
「有り難う、ございます……」


「さてと。明日、またマリアと一緒に――あ――花組総動員で片付けに来ますから、今日はそのくらいにしましょう」
「そうですね。みんなが準備してますよ。今日は、お祝いですし。行きましょう、皆さん。帰りましょう、私達の、帝劇へ――」
「お祝い?」
 首を傾げる菊之丞の頭上で、斧彦と琴音は目を見交わし微笑んだ。
「忘れてる?」
「みたいね」
「行きましょう、菊ちゃん。帰りましょ」
 マリアとかえでに手を引かれ、斧彦と琴音に背中を押されて、少女のような青年は、陸軍を飛び出す。


 光の階段を駆け上り、一つ、大人になるために。


END
薔薇組の、丘菊之丞メイン。
未熟な菊之丞には、割り切れない想いがあると思います。
大切なものを総て手に入れる事は出来ず、何かを捨てる選択肢も、出てくる事もあります。
世間から認められなくても、自分らしく生きるため、菊之丞は歩き出すのです。
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