その夜に触れるまで

 十とひとつの頃に地獄を見た。
 それから幾千の悪夢の夜を超えてきたけれど。



   その夜に触れるまで



 明治十一年、初秋――
 慌ただしい一日だった。
 女医の高荷恵は、東京での最後の一日を、夕方遅くまで患者のために費やした。
 恵は明日、故郷の会津に帰ることになっている。
 恵がこの小國診療所に来たのはこの春のこと。まだ半年も経っていないが、恵はすっかりこの街の人々に気に入られ、信頼されている。最初は女の医者など奇異な目で見られたものだが、ほんのひと月もすれば縫合術の鮮やかさから“縫い針小町”の異名を取り、名指しで恵の診療を望む者が後を絶たなくなった。あまつさえ、薬学の達人で、大抵の薬を煎じることが出来る。
 年の頃は二十とふたつ。小町娘と呼ぶには少々年嵩で、切れ長の眼のためか実年齢よりも上に見えるというのに、見目の麗しさと品の良い落ち着いた雰囲気から、彼女を我がものにと望む男も、息子や孫の嫁にと望む者もまた多かった。
 医者として、女として、人々を惹きつけてやまなかった。そんな恵が東京を発つというのである。最後に診て欲しい、薬が欲しいと診察や往診が立て込んだ。診療所に押しかけたり待ち伏せたりして、「東京に残ってはくれないか」――或いは、「俺も一緒に会津へ行く」――などと言い出す男もいた。それらは勿論断り、準備もあるため、夕方には診察を打ち切って小國診療所の主である小國玄斎医師に後を任せた。
 恵の東京での最後の患者は相楽左之助という青年だった。恵より三つ年下だが、恵に軽口を叩き、年上に対する礼儀などまるでない男だ。だが、恵にとっては東京で最も気の置けない相手である。
 小國診療所で助手として働き始める以前、恵はある男の邸に軟禁されていた。表向きは青年実業家だが、その裏では強力な新型阿片を売り捌き、その利益で兵器を密売していた武田観柳というその男は、恵に阿片の精製を強要していた。会津藩御典医の娘として、幼少の頃から人の命を救う術と共に命の尊さを教え込まれてきた恵にとって、人の人生を狂わせ、時には死に至らしめることもある薬を作ることは、決して許されないことだった。初めは知らずに作っていたが、それと知ってからは地獄の日々だ。自らの手が少しずつ血に染まってゆくように見えた。
 何度も邸から逃走を試みたが、失敗した。それならばいっそこれ以上人の命を奪うより、自ら命を絶ってしまおうと小刀を手にしたことも少なくはなかったが、首を掻くことは出来なかった。
 明治元年、戊辰戦争第四の戦役・会津戦争において、高荷家は離散した。父が戦死したことは明らかであったが、母とふたりの兄とは生き別れ、現在に至るまで生死すら不明の状態である。もうこの世にはいないかも知れない。十年前に戦火にまかれて灰になったのかも知れないが、或いはどこかで生きているかも知れない。その希望を捨てることが出来ず、恵は自らの手を汚しながら生きることを選んだ。
 一方で、決して誰にも新型阿片の製法を教えることはなかった。何度も製法を吐けと尋問――それは時に、拷問に似た――を受けても、口を割ることはしなかった。自身しか知らずにいれば、精製を最小限に抑えることが出来る。観柳に自白剤を打たれても、頬の裏を噛み切って痛みで正気を保った。これ以上自白剤を使って吐いたところで、二度と正気を取り戻すことなく廃人となれば、阿片の精製は出来なくなると脅すと、観柳は尋問も拷問もやめた。実際、観柳は最初に新型阿片を開発し、恵を助手として精製を行っていた医者から製法を聞き出そうとしている内に、その医者を殺してしまっている。恵を失うわけにはいかなかったのだ。
 そうしてただひとり耐え続け、三年の時を経て漸く逃走に成功したのが、この春のことだった。逃げた先で恵を助けたのが、この左之助と、左之助の親友であり、幕末に伝説の人斬りと呼ばれた緋村剣心だった。
 恵の精製した阿片により友人を失っていた左之助は、一時は恵を拒絶していたが、恵の想いを知り、罪を償って生きるという恵の決意を前に、自身も恵を許すと決めた。
 しかし、恵という女は全く猫を被ることの上手く、平時は医者として実に凛々しく振る舞い、人々の羨望を集めているにも関わらず、実際のところ、なかなかに気が強い。出会った頃は左之助のみならず剣心からも距離を取っていたため、蓮っ葉な物言いで品のない娘を演じていた節があったが、御典医の家系に育っただけのことはあり、頭が良いだけでなく品が良く、ほんのわずかな仕草に優美さを感じる。だが、会津の戦の後、たったひとりで生きる中で、どうしても強かにならざるを得ないところもあっただろう。相手を選んではいるが、小馬鹿にしたりからかったり意地を張ったりと、気の強さを垣間見せることがある。
 尤も、誰しも全ての人に対して必ず同等の態度を取るわけではないのだから、その意味では、恵はいたって普通の人間だ。ただ、その振り幅が大きいのだ。
 そして、いつの間にやら恵からから“からかい相手”として選ばれた左之助は、誰に対しても変わるところのない元来の気の強さと口の悪さで、度々恵と衝突していた。

 恵は丁寧に左之助の右手の包帯をほどきながら、視覚や触覚でよくその状態を観察した。骨ばった筋肉質な手。最初に治療した時から比べれば、随分良くはなっているが、負傷前に比べると、骨格にわずかなずれが生じている。この部分をこれ以上元に戻すことは難しいだろう。
 初夏の頃、激しい戦いに参ずるために身に付けた技は、左之助の手に大きな負担をかけた。皮膚は引き裂かれ、骨は折れ、また、あらぬ方向へ曲がった。
 恵はひと月以上かけて地道に治療を行ったが、使うなというのにこの頭の悪い男は、無暗に――本人なりにはそこそこの考えの上で――使うものだから、治療はこの上なく順調に長引いている。傷は殆どふさがっているし、薬を定期的に塗って包帯を巻いてさえいればまだ回復の余地はある。
「痛みはない?」
「ああ」
「こっちに曲げたら?」
 恵は左之助の指を反らせる。
「平気」
「こっちは?」
「大丈夫」
「こっちは?」
 いつもの診察で毎回行われているやり取りだ。左之助は普段、色々と喋りながら、差し挟まれる恵の問いに答えていたが、今日は淡々と質問に答えるのみだ。
 やけに静かな――静か過ぎる――診察室で、恵はてきぱきと仕事を進めた。
「はい、今日はもう良いわ」
 恵は新しい包帯の端を結びながら言った。
「ん」
「今後のことは玄斎先生に伝えてあるから、ちゃんと指示に従って治療を続けるのよ。先生に迷惑かけないでね」
「ああ」
 淡々と。
 不自然なほどに淡々と答える。
 恵も特に何も言わなかった。ここであれこれたわいないことで笑い合う方が不自然なように思われた。
「じゃあ、お大事に」
「ん」
 左之助は明日、恵の出立を見送るつもりでいる。恵もそれは知っている。それでもふたりは「また明日」などというようなことは言わなかった。左之助は黙って診察室を出てゆき、恵は東京での仕事を終えた。



 夜、夕飯を終えた頃に剣心が訪ねてきた。近くまで来たから挨拶がてらに寄ったというが、こんな時間に何の用があって出掛けたのやら。
 縁側で並んで話をした。出会って間もなく、恵は剣心に惹かれた。剣心の強さや優しさ、その裏に隠した悲しみや孤独と、一生拭うことの出来ない罪を背負い生きる姿に共鳴した。しかし、剣心は別の女性を選んだ。太陽のような明るさを持つ少女だ。同じ闇に共鳴する関係より、同じ喜びを分かち合い、寄り添える相手の方が良かったのだろう。剣心は、その方が幸せになるだろうと、恵は何も伝えることなく身を引いた。
 たわいない話をして、剣心は帰っていった。ふたりきりで過ごす最後の時間だった。剣心の背中を見送りながら、恵は彼の道に光が差し続けることを願った。消えゆく背中の先にある夜闇を照らすであろう月を仰ぎ、静かに息をついた。
「良い月だな」
 思いがけず声をかけられ、恵は庭の端に視線を向ける。背の高い男の影が見えた。
「左之助」
「おう。……剣心、来てたのか?」
「……ええ、会ったの?」
「いや、見掛けた。すぐそこで」
 入れ違いで来たのか。声を掛ければ良かったものを。
「そう……」
「最後の夜か?」
 左之助はゆっくりと歩み寄り、にやりと笑った。左之助は、恵が剣心を想っていたことを知っている。
「何もしてないわよ?」
「ふーん」
 つまらなそうに、どこか訝るように左之助は呟いた。
「支度は済んだか?」
「大方ね」
「……出られるか?」
「え……?」
 戸惑う恵をよそに、左之助はさっと踝を返して歩き出した。「ちょっと」恵は慌てて彼を追った。
 左之助は恵を振り返らず、黙々と歩き続けた。恵は左之助の背中を見詰めながら後ろを歩く。白い羽織に大きく『惡』の一文字。彼もまた、闇を背負って生きている。兄とも師とも仰いだのが、赤報隊の隊長だった。賊軍の汚名を着せられて晒された師の首を、彼はどんな思いで見詰めたのだろう。以来、世間からは悪とみなされようと、己の信じた道を走り続けている。
 左之助は、ぐんぐんと暗がりの道に入っていった。やや勾配の急な林道を黙って登ってゆく。街から外れ、滅多に人の入らないような小高い丘。鬱蒼とした木々に囲まれたでこぼこ道は、草履で歩くには辛い。恵の歩く速度が落ちていることに気付きながらも、左之助は構わず歩き続けた。
 恵が何とか丘の頂にたどり着き、林を抜けた時、眼前に広がっていたのは月に照らされた街。だが、そこに左之助の姿はなかった。
「左之助!?」
「おう、こっちこっち」
 辺りを見回していると、足元から声がした。高さは二間ほどだろうか、崖の下に、左之助が立っていた。大昔に斜面が崩れたのだろう、ちょうど京都の清水寺の舞台のようになっている。岩が突き出している部分もあるが、殆どは草に覆われて、白い花が月の光を受けて花弁を広げていた。
「どうやって……いや、あんたは飛び降りられるわよね。そりゃそうよね。で、私はどうすれば良いわけ?」
「跳べよ」
「出来るわけないでしょ、このお馬鹿!」
 思わず、いつもの調子で声を荒げた。左之助も、いつもと変わらず、悪戯っ子のようにくっくっと笑った。
「来いよ」
 左之助は、恵に両手を差し伸べる。どうやっても、“落ちる”しか方法はないのだ。仕方がない。恵は草履を草地に投げ落とし、崖に腰を下ろした。そして、ゆっくりと身体をずらし、左之助に向って落下する。左之助は、いとも簡単に恵を抱き止めた。
「っと……ヨシ」
「ヨシ、じゃないわよ。全く」
「良いだろ。連れてきたかったんだ、此処に」
 左之助は、恵を地面に下ろすと、さっと背を向け、街を見やる。恵もつられて、視線を上げた。確かに、美しい景色だ。天気が良くて月も星も明るい。この上、足元に広がる白い花は甘やかな香りを漂わせて、この場所だけが世界から切り離されたかのように幻想的だった。
 恵は息を飲む。この景色にも心が震えるが、それより、このガサツな男がそんなことを考えてくれていたことが素直に嬉しかった。
「そう……ありがとう」
 左之助は、岩に腰を下ろし、街を見下ろす。その後姿を、恵はぼんやりと眺めていた。
 この男は、こんな風だっただろうか。たくましい背中。だけど、どこかほんの少し寂しげで。血を流す師の首を前になすすべなく立ち尽くした少年時代を経て、悪を背負って己の力ひとつで生きてきた青年は、ただただ強く、そして、悲しい。
 その瞬間、恵はなぜか、目の前の背中が遥か彼方へ消えゆくように感じられた。ひゅっと風が吹くように、彼はどこか遠くへ旅立っていく――そんな予感が恵を襲った。
 会津と東京……そんなものじゃない。北へ南へと長いこの国は、それでもこの青年には狭過ぎる。いつかきっと、それは遠くない未来に、彼は、海の彼方へ旅立つだろう。月に照らされた街の向こうの、海を越えたその向こうに広がる無限の大地を駆けてゆく惡一文字。その姿がやけにはっきりと見えて、爪先から震えが走った。

 “最後の夜”――先の彼の言葉が耳に響く。

「どうした?」
「え?」
「来いよ」
 包帯で巻かれた右手を差し出す。包帯に包まれた、手。皮膚を閉じ込めた、その手。「……ん」
 恵はその手を取り、彼の隣に腰を下ろそうとした。しかし、草に隠れていた石に躓き、体勢を崩す。崖から飛び降りた時より危なげで、左之助は思わずその身体を抱き寄せた。
「しっかりしろよ」
 肩を腕の中に包んだまま、ゆっくりと岩に座らせる。見下ろした白い貌に、月の光が影を落とした。
「恵」
 呼ばれて顔を上げる。
 それは、ごく自然なことだった。
 ごく自然に、何の違和感を覚えることもなく、まるでそうすることが当たり前のように、ふたりはどちらからともなく唇を寄せた。
 軽く、唇の先が触れ合う。
 誰もが眠りに落ちようとする街の上で、月明かりの差す舞台で、音も立てずに、ほんの微かな口づけを交わした。
 甘い香りが、惑わしているのだ。きっと、この花のせいだ――頭の奥の方でそんな言い訳を考えながら、恵は左之助の右手を握り、その肩にもたれかかった。
「この街にいたのは短かったはずなのに、随分長かった気がする」
 あんたといた時間は――あんたが京都に行ってた時期もあったから――もっと短かったのに、ずっと隣にいた気がする。
「そうだな……。おめぇは、ずっと隣にいた気がする」
 ああ、同じことを考えていたのか。
 寄り添いながら、また、ふたりは黙り込んだ。もう、一緒にいられる時間は長くはない。彼はそんなこと露ほども考えていないだろうけれど、きっと恵が会津へ旅立った後、会わない時間は想像以上に長くなる。
「“最後の夜”ね……」
「ま、すぐに会えるさ。会津なんて、ひとっ走りだ」
 馬鹿ね。そんな簡単じゃないわ。あんたはもっと遠くへ行くんだから。
 馬鹿ね。
 ……きっと、そう、私も馬鹿なんだわ。
「医者としての、東京での仕事は終わったの」
「ああ、お疲れさん」
「だから……医者として、やってはいけないことをしてみたい」
「は?」
 椿のような赤い唇の両端を釣り上げて、恵はいとけない少女のような笑みを見せた。
 何言ってやがんだ、こいつ。
 左之助の思考が追い付かない内に、恵は左之助の右手の包帯をしゅるしゅると解き始めた。
「お、おいっ!」
「後でちゃんと巻き直すわよ」
 そういうこと言ってんじゃねーよ。
 恵は黙って包帯を解き続け、先程の診察の時のように、傷だらけの手をじっと見詰めた。
「痛みはない?」
「ああ」
 さっきも言ったじゃねーか。
「こっちに曲げたら?」
 目の前に手を差し上げて、指を反らせる。
「平気」
「こっちは?」
 いや、だから、
「大丈――」
 恵の唇が、左之助の指の傷に触れた。
 ひとつひとつの傷を癒すように、慈しむように、優しく、口づけを落としてゆく。

 甘い香り――頭が くらくらする

 左之助は、指先で恵の唇をなぞる。恵はその指を舌で舐め上げる。艶めかしいのに、どこか品があり、優美な仕草。唇を親指で撫でながら、左之助は左手を伸ばし、白い両の頬を包んだ。親指の傷に、ちろちろと赤い舌が這う。
「恵」
 指を舐めさせながら、長い黒髪を鼻でかき分けて左之助は耳元で囁く。
「恵」
 ああ、この月が沈んだら、もう、当たり前のように会うことはないのか。
 ひとっ走りで着くっちゃ着くだろうが、毎日走ることも出来るわけでもなし。
「恵」
 この細い身体ひとつで、十年前に逃げ出した故郷へ戻るのか。戦火に包まれ、父親を失い、家族と生き別れたその場所へ、こいつは帰っていくのか。
 ひとりで。
 たったひとりで。
「恵」
 囁きながらも胸にこみあげるのは、苦々しい思いだった。彼女はまた、ひとりに戻るのだ。十年前に離れた故郷の人々が、簡単に受け入れてくれるとも限らない。近しかった人々は、あの日に死んだかも知れない。或いは、北へと逃れた者たちもいると聞く。親や友達の待つ故郷への帰郷とはわけが違うのだ。
「大丈夫よ」
 左之助の思いを察したのか、恵はそっと左之助の頭を抱える。
 私は、大丈夫。何にも怖くない。
 地獄なら、悪夢なら、もう十分に見た。この十年、嫌というほど見た。何十回も何百回も、私は死んだの。幾千の悪夢の夜を越えたの。だから、もう、何も怖くない。地獄の果てで――あんたに会えた。
「恵」
 両腕を細い背中に回し、噛みつくように白い首元に触れる。幼子のような青年をからかうように、恵はわざとちゅ、と音を立てて耳を食んだ。
「――っ」
 その音が、左之助の中で、何かが弾けさせた。
 しなやかな筋肉を持つ両腕で恵を抱えて岩から草の上へ下ろすと、乱暴に帯を緩め――どう頑張っても、上手く解くことが出来なかった――、胸元をくつろげる。
 瞬間、左之助は硬直した。月の下に露になった乳房に、大きく歪んだ縫合痕が照らし出された。肩には火傷と思しきただれた痣。晒された右手で恐る恐るもう一方の胸元を開くと、同じく幾つかの――どこかの藪医者が適当に縫ったとしか思えないような――縫合の痕、切り傷、痣、火傷――

 十年。

 何不自由なく生きてきた十年の後に、生き抜かねばならなかった地獄の十年の痕跡が、白い身体に刻まれていた。着物が肩から滑り落ちると、右腕の付け根に刻まれていたのは刀で刺した傷だった。
 唇が震えた。声が出ない。艶やかに微笑み、多くの男から求愛されても、着物で包み隠して誰にも見せなかった肌。その、誰も知らない秘密。ずっと隣にいたはずなのに、考えもしなかった。恵は微笑とも嘲笑ともとれるような笑みを口元に浮かべ、左手で右腕の傷を撫でた。
「あの男、本当に馬鹿でねぇ……頭に血が上ると、あんたより馬鹿だったかもね」
 いや、そもそも、あんなことを考えて実行する時点で馬鹿の極みか。人を狂わせる薬で儲けて、その上人殺しの機械を買い漁るなんて。
「は……?」
「観柳は、私の前に組んでた医者を殺してしまったものだから、私には優しくしてやった、付け上がりやがって、なんて言ったけど、実際のところ、結構平気で手を上げたりもしたわ。御一新の前は農村で貧しい暮らしをして、武士に足蹴にされた反動なのか、やたらと高価な刀を買い求めて、酔う度に侍の真似事をして暴れるのよ」
 それが厄介で、何度も酔い覚ましの薬を煎じて介抱してやったっけ。ああ、なんであの時、毒を飲ませてやらなかったんだろう。私も馬鹿だったわね……
「それで、どれだけ飲んだんだか、『阿片の製法を吐け』って刀を握って私の部屋に押し入ってきたことがあってね」
 淡々と、恵は語る。あまりに無感情で、背筋が凍りそうだった。左之助はただ、傷の刻まれた身体を見下ろしていた。
「その時に右腕を刺されて……あと、何か所か斬られて。私が死んだら元も子もないって、私兵たちが止めに入って落ち着いたんだけど、鏡を見ながら慣れない左手で縫ったから、酷いもんでしょ? 何が“縫い針小町”よねぇ?」
 他人事のように自身を嗤う。まるで、遠い世界の出来事のように。
 もう、止めてくれ、聞きたくない――
 左之助は、無理矢理自身の固まりかけた筋肉を動かして恵を抱き寄せると、そっと草の上に横たわらせた。恵の右の頬に、白い花が触れる。甘い香りが、ふたりを包み込んだ。
 さっき恵が左之助にしたように、今度は左之助が、その傷のひとつひとつを癒し、慈しむ。そっと口づけ、舐め上げて、もう二度と、誰にも傷付けられないように、優しく身体を撫でる。
「左之助」
 ありがとう。
 こぼれる涙を見せたくはなくて、首を傾け白い花の根元に落とす。
 左之助は、いつもの乱暴さが嘘のように、ゆっくりと丁寧に恵の身体を撫でた。左の鎖骨の小さな傷に唇を押し付けて、右手を足の間に滑り込ませた時、突然頬に緊張を走らせ、恵から顔を離した。先程恵が舌で触れた指に絡みついた液体が、左之助を現実に引き戻した。
「…………い、良いのか?」
 恐る恐る、問い掛ける。
 は?
「今更?」
 ここまで着物広げといて、何言ってんの、この男……は……
「あー……そっか、そうよね……」
 恵は得心がいったとばかりに、慄く左之助を前に頷いた。
 そういうことか。
 いつもお金がなくて治療費を踏み倒すどころか人にたかったり、喧嘩で小銭を稼いでは博打に注ぎ込んでるこいつが、女を買ったことがあるわけない。その上、頭が悪くて感情むき出しで横暴なくせに、妙に情に厚いこいつが、適当に女を手籠めに出来るわけがない。
 そういうことか。すっかりそのつもりになっていたこっちが恥ずかしい。
 けど、何よ。
 可愛いじゃない。
 恵はゆるりと身体を起こして着物の胸元を整えると、「ちょっとそこに座りなさい」と左之助を草の上に座らせた。下履きのその下で、彼自身が膨れ始めているのが見て解る。恵は診察で包帯を解く時のようにてきぱきと左之助の腰紐を解き、いきり立ったそれを夜の空気にさらした。
 随分と、まあ。
 恐らく左之助の心臓はこの上なく早鐘を打っているだろう。一方で、恵も自身の身体が熱を持ち、心臓が全身に全力で血を送り出すのを感じていた。
 幼い頃から医学を学び、維新後も方々で幼いながら、医者や産婆の手伝いをして生きることが出来た。御典医という身分と、女であろうと関係なく医学を学ばせてくれた高荷の家系のお陰で、恵は女を売り物にしたことはない。実際に破瓜の痛みを知ったのも、ついこの間のことだ。いつ、誰に、とは左之助には言わないが――その男を殺しに行きかねない。今は東京にいるが、きっと京都まで走ってでも行くだろう――。
 それでも、全く経験のないこの男とは違う。観柳にとらえられる前に助手として仕えていた医者は、花街の幾つかの店のかかりつけ医でもあったので、出入りしていた折に女たちの手管を覗き見たこともある。特に抵抗はない。寧ろ、想像以上の雄々しさを見せるそれが、やけに愛おしくも思えた。
 はしたない?――知ったことか。
 恵は左之助の足の間にかがみこみ、その先端に舌を這わせた。ぞくり、と左之助が震えたのが解った。面白い。
 先程指にしてやったように、その時よりも激しく、はしたなく、両手で包み込みながら口づけを繰り返し、先走りを舌ですくう。しかし、花街の女たちのようにそれを咥え込む程の勇気はなかった。精一杯、唇と舌で熱を持つ彼を悦ばせようとした。
 それでも、押し寄せる快楽の波の合間にわずかな余裕が出来ると、左之助でもなんとなく察することが出来た。
 おめぇだって、慣れてねーじゃねーか。
「っ――ちょっ、もう、良いっ」
 左之助は、恵の肩をつかんで無理矢理身体を起こさせると、膝立ちになって恵を見下ろし、深く唇を重ねた。開いた唇から舌を差し込み、獣のように貪り尽くす。

 頭の芯が、ぐらぐらと揺れているようだった。それは恐らく、お互いに。

 やられっぱなしでいられるかよ。
 左の腕に恵の肩を抱き、今度こそ着物を割って右手で太ももを撫で上げる。しとどに濡れたその付け根に手を這わせた時、小さく膨らんだ蕾に指先が触れた。
「ひゃぅっ」
 左の耳元で、恐ろしく甘ったるい声を聞き、思わず恵の顔を覗き込む。いつも凛として気丈な女が、くってりととろけた貌を見せていた。
 ここか。
 左之助はもう一度その蕾を探り当てる。
「あぅっ……ん、あ、あ、、、」
 もう、言葉になりもしない。触る度に身体が跳ね、その度に身体から力が抜けてゆく。左腕に力を入れてしっかりと抱えながら、左之助は執拗に一点を責め続け、花の香りより甘ったるい声に酔いしれた。
「やめ……もう、やめ……て……」
「んだよ。良いんだろ、ここが?」
 わざと、強くそこを押す。どこから出てくるのかと思うほど、聞いたことのないような甲高い声で鳴きながらも、恵は大きく首を振り、何とか力を振り絞って左之助の右手を押し出した。
「やめて……」
「あ? 気持ち良くなかったか?」
「い……良い、けど、嫌。私だけ良くても意味ない……の、よ。あんたも……一緒、じゃないと……」

 ――っ。

 不意打ちも良いところだ。ったく、んな可愛い台詞、もっと前に言っときやがれ。そしたら俺だって、もっとちゃんと――
「この女狐、悪ぃけど優しくなんか出来ねェからな」
 優しく仕方も知らねーし。
 左之助は恵の背中を草の上に押し付けると、いきり立った己自身をつやつやとした恵の花弁に宛がい、一気に奥まで押し込んだ。
「ああっ!」
 恵が大きく身体を仰け反らせる。本当に気遣いの欠片もなく、ただ無茶苦茶に、乱暴に、左之助はただただ何度も恵の奥の奥を突き上げた。
「おおっ」
 やばい、こいつ、良過ぎる。自分でやるのと全然違う。すげぇ、すげぇ、すげぇ――
 興奮する左之助の下で、恵は、つい今し方上り詰めそうなまで猛っていたというのに、この上勢い良く責め続けられて、息をするのがやっとだった。微かな痛みもありはするが、それでも快感の方が遥かに大きい。羽織の下に手を差し込んで、恵は左之助の体にしがみついた。
「あぁっ、あ、んぁっ……」
 もう、駄目。
「やべェ、もう――」
 互いに頂きへ達する予兆を感じ、恵は一層両腕に力を込めた。悪を背負う男の背中に爪を立てる。その直後、恵の中に左之助の熱が放たれた。同時に、恵も月より彼方へ達した。
 肩で息を繰り返しながら、ふたりはお互いの身体を抱き締め合った。それでも、愛おしさで、嬉しさで、この十年で最大の幸福の内に全身からあふれ出した熱と共に零れた涙を、彼の肩にしがみついたまま拭った自分を、可愛くないな、と恵は思う。
 この男に、涙を見せてなどなるものか。



 秋の虫が鳴いている。
 甘い香りが、月の下に漂っている。ひとしきり余韻に浸って花の香りで互いに肺を満たした後、先に身体を起こしたのは左之助の方だった。
「悪い……」
 着物を身体にかけて横たわる恵の頭上から声を掛ける。
「何が?」
「……いや……何やってんだ、俺たち……普通、こういうんじゃねぇだろ?」
 俺たち、こんな関係じゃねぇだろ?
「まあ、そうね。“こういうんじゃない”わね。悪かったのは私の方だわ。私が煽ったようなものだし」
 恵はゆっくりと身体を起こし、恵は解けないままに乱れた帯を一旦解いた。
「悪かったわ。初めてが私なんかとじゃ、ね。しかもこんなところで……」
「そういう――」
 こと、言ってんじゃねェよ。
 長い髪をまとめて左の肩から胸へ垂らし、着物に袖を通した恵の後ろ姿に、左之助は息を飲んだ。
「お前、それも……?」
 先程まで黒い髪に隠れて見えなかったが、肩甲骨のあたりに真一文字に太い刀傷が刻まれていた。紅を引いたように、鮮やかな色が白い背中に浮かんでいる。
「ああ……」
 恵は首を捻って自分の背中をのぞく。
 自分じゃ見えないから普段気にもかけないけど、そういえばあったわね、こんな傷。
「これは、戦の時の。ひとりで逃げていたら、後ろから――長州の男だったみたい」
 また、他人事のように。
 また、左之助の背筋が凍る。
 これだけの傷だ。出血とて相当だったに違いない。ひとりということは、父母や兄も近くにはいなかったのだろう。縫合の痕がないということは、自然に治癒するのを待ったのだろう。痛みと出血に耐えながら、どこで遭遇するとも解らない敵に怯えながら。戦火から逃れながら。
 死に抗いながら――或いは、それを望みながら――。
 恐らく、恵は麻痺しているのだ。傷を負うことも、心身に痛みを覚えることも、何ら仕方のないことで、特別なことではないとでも思っているのだ。
「私だけじゃないわ、こんな傷。私は生きているんだもの」
 ぼんやりとした頭で、恵は着物を調える自分の手を見るともなく眺めていた。
 赤い手。
 人の血に染まった。
 こんな傷、大したことないわ。私は生きているもの。大勢の人が家族や大切な人を失って苦しんできた中で、家族恋しさに人の命を奪ってまで生きてきたんだもの。
「医者として償いながら、これからも生きてゆく」
 それは、剣心が恵に示した道。剣心もそうして生きてきたから、恵にも同じように生きろと、その道を差し出した。それが、茨の道だと知りながら。
 “償い”。それは、呪いのような。
 その赤い傷に触れることが憚られて、恵が着物を調え、腰紐を結ぶのを待ってから、左之助は恵を後ろから包んだ。傷付けたいわけじゃないのに、ただ自分の欲望のままに猛った。後先なんか考えやしなかった。それは、酒に飲まれて刀を振り回した男と変わりはしない。
 石鹸の香りのする髪に顔を埋め、その向こうに月を見やる。
「月が……きれいだな」
「そうね」
「月が――」
「今度はちゃんと、惚れた女を大事にしてやりなさいね」
 背中に左之助の悔悟と鼓動を感じながら、恵は左之助の言葉を断ち切った。
「俺たちは、こういうんじゃない――けど、何でもねぇ女には絶対にしねぇよ」
 ……知ってる。
 解ってるわよ、そのくらい。
 だからあんた、あの状況でたじろいだんじゃない。何でもない女とは出来ないから。だけど、“こういうんじゃない”私たちは、なんで“こう”なったの?
「月が、きれい、ね」
 ぽつりと呟き、それから、恵は左之助の腕を振り解いた。
「でも、月なんか会津にだって上るわ。地球の裏側にだって上る」
 時間は違っていたとしても、どこにいたって、同じ月を見ることになる。同じ空の下で、同じ月を。ただ、「きれいね」といえる相手が隣にいないだけ。
「月はいつだって見られるの」
 長い髪を風になびかせ、恵は左之助を振り返る。
「だから今は――」
 あんたを見せて。
 次はいつ会えるか解らない。もう二度と会えないかも知れない。次に会ったときは、“ちゃんと惚れた女”の子供を抱いているかも知れない今のあんたを見られるのは、今だけだから。この瞬間だけだから。
「……なんだよ」
 こみ上げてくる言葉を決して舌には乗せまいと唇を噛む恵に、左之助はそっと両手を差し出す。立ち上がり、頬を包んでその瞳をのぞき込む。
「なんて顔してんだよ。今生の別れじゃあるめェし。すぐに会いに行ける距離じゃねぇか」
 茶化すような左之助に、胸の奥で呟く。
 馬鹿。
「そうね、どうかしてる。嫌だわ、明日会津に発つもんだから、感傷的になってしまったみたいね。悪かったわ……」
 なんだよ、こいつ。
 さっきから、何に謝ってんだ?
「恵」
「何?」
「俺を、呼べ」
「は?」
 恵の黒い瞳を見詰めたまま、左之助は言う。
「呼べ、俺を。俺の名前」
「……?」
 眉を寄せ、訝りながら口にする。

「左之助」

「もっと」

「左之助」

「もっと」

「左之助」

「もっと、もっと」

「左之助、左之助、左之助、左之助――――なんなの、一体!?」

 繰り返す度になんだか苛々してきて、恵はしまいには声を荒げた。
「いや、今のお前の声、もう聞けねぇんだな、と思ってよ。今この瞬間のお前の声。二十と二歳の、東京を発つ前日の、今夜の、今の、お前の声。もう二度と聞けねぇんだ。だから、“悪かった”とか、“私なんか”とか、“ちゃんと惚れた女を”とか、そんな言葉聞きたかねぇんだよ!」
 応じるように、左之助も言葉尻を荒げる。

 ――嫌だ。

 ああ、嫌だ。こいつ、本当に嫌だ。嫌い。大っ嫌い。
 私と同じこと考えてる。
 今この瞬間の、十九のあんたを見られるのは、触れられるのは、もう、これが最後。二度とないから、月なんかより、ずっと見ていたい。
 あんたを。
 あんただけを。

「だったら――」

 最後に、わがままを言わせて。
 あんたにしか言えないこと。
 ずっと隣にいてくれた、あんたにだから言えること。
 あんただけにしか言わないこと。

「優しくして、今度は」

 はしたないことだと解りながら、恵はおずおずと震える手で着物の裾をたくし上げる。
 泣いてなどなるものか、この男の前で。
 強く噛んだ唇に、左之助は優しく口づけた。

「お前だから、するんだ」

 力強くしなやかな腕で抱き上げて、白い花の上にゆっくりと下ろす。
「お前にしか、しない」

 大嫌い。
 同じこと考えてる、こいつのことが、私は――

 恵は少しだけ身体を起こして、左之助の唇を吸った。
 甘い香りの中で、深く甘い口づけを繰り返しながら、左之助はそっと恵の着物の裾をめくり、皮膚の露になった右手で下の唇をなぞり、くぷりと指を沈めた。長い中指が、恵の一番柔らかくあたたかな場所を探る。
「はぁ……」
 恵は肺から穏やかに息を吐き出した。その息を、声を堪能するかのように、左之助は恵の口元に耳を寄せた。甘やかに息を繰り返す恵の声を聞きながら、何度も角度を変えながらゆっくりと指を抜き差しする。
「んんっ」
 くちゅり、くちゅりと指先から夜の帳の溶ける音の中で、恵の声音が変わった。もう一度、同じところに触れる。
「はうっ」
「ここか?」
「ん……」
 そこ。
 頬をひと刷毛朱に染めて甘ったるい息を漏らす恵の瞳が、濡れているように見えた。左之助はそっと恵の瞼に唇を寄せる。
「覚えた」
 忘れない。この右手が、ちゃんと覚えた。お前の、一番可愛い場所。
「一緒に、行こうな」
 ええ、今夜だけは。
 今だけは、あんたを離さない。
 恵が開いた身体の中へ、左之助は静かに、優しく沈んでゆく。先程右手で探った場所を、時に強く、時に弱く、何度もこすり上げる。
 他の男には、絶対知られたくない場所。最高にきれいなお前が見られる、俺しか知らない秘密。
 最初はゆっくりと、次第に速度を上げながら、左之助は恵を頂きへと導く。左之助の右手を握り、恵は左之助と同じ頂へと上り詰める。
 左之助の肩越しに、空が白んで見えた。
 ああ、やっと行ける。これで私は、もう何も恐れずにひとりで行ける。

 ――“最後の夜”

 東京で、の。



 何事もなかったかのように朝はきた。
 帰りがけに恵は左之助の手を近くの神社の井戸水で洗い、包帯を巻き直してその皮膚を閉じ込めた。左之助は恵を診療所まで送ることはせず、恵もそれが当然であると解っていたので名残を惜しむこともせずに、ふたりは破落戸長屋と診療所への一番近い分かれ道で互いに背中を向けて歩き出した。
 恵は軽く湯あみをしてから床に入り、短い眠りについた後、玄斎医師に挨拶をして半年働いた診療所を後にした。
 先に京都へ発つ四乃森蒼紫と巻町操を見送ってから、恵は新橋駅で見送られる立場になった。駅といっても、会津まで鉄道が走っているわけではない。疑問を口にした少年剣士・明神弥彦に、玄斎先生の知り合いに馬車で送ってもらうのだと説明した。
 剣心は尚も笑顔で医者としての道を進む恵の背中を押す。恵は笑顔でその茨の道への旅行きを剣心に応える。剣心が選んだ少女・神谷薫は、剣心のことで何かと浮き沈みしては恵に叱咤されてきたし、恋敵であった恵を好んではいなかったものの、それでも恵との別れに沈んだ顔をしていた。
「別に今生の別れって訳じゃねェ。誰とだって会おうと思えばいつでも会えるじゃねェか」
 そうね。その通りだけど……そんな簡単じゃないこと、多分気付いているのは私と、もしかしたら剣さんくらいでしょうね。でも、せめて今は、こいつの言うことを否定せずにいてやろう。
「あんたも、右手おかしくなったら会津にいらっしゃいよ。剣さんのついでじゃなくてちゃんと看てあげるから」
「そりゃどーも」
 左之助は、フッと息を漏らして笑う。一晩情を交わした程度で自分の女だなどと思うわけではないが、それでももう誰かの“ついで”のような関係ではないことにくらい自信を持って良いだろう。
 恵は、最後まで沈んだ顔をした薫を叱咤し、「損な役回りだわ」とうそぶく。
「それじゃあ皆さん、御機嫌良う」
 笑顔を。
 最後の最後は、絶対に笑顔を見せると決めていた。あの狸みたいなお嬢ちゃんに敗れたことなど、気にしていないところを示して。
 たった一度結ばれたあんたに、未練などないんだと示して。
 そうじゃないと、あんたは行けなくなる。馬鹿みたいに情に厚いから、ここでほんのわずかでも顔を歪めようものなら、あいつの後ろ髪を引いてしまうかも知れない。万が一、「一緒に会津へ」なんて言われでもしたら、一生自分を許せなくなる。
 剣さんに対してそうであって欲しいと思うように、あいつの道にも常に光が差していて欲しい。私の存在が、影を落とすようなこと、絶対にあっちゃいけない。
 あいつは、もっともっと大きな男にならなきゃいけない。
 あんたはあの月の下の出来事を、一夜の夢だと思えば良い。遠い場所で月を仰ぎ見て、何年かに一度でも、「そういえばそんなことあったな」なんて思い出す程度でも構わない。
 だから、振り返らない。馬車の窓から顔をのぞかせて手を振るようなこともしない。乗り込んだらすぐに出してもらって、絶対に見せない。
 この頬を伝う涙を。
 涙なんか見せない。あいつには見せない。
 これまで幾千の悪夢の夜を越えて、ほんのひと時、夢のような一夜を手に入れることが出来たんだもの、十分だわ。この先に幾万の悪夢の夜が待っていたとしても、私は越えてゆける。だから、もう、この地を離れたら泣いたりなどするものか。
 いつか、もしもいつか、あの悪を背負う背中が今よりひと回りもふた回りも大きくなって私の前に現れた時、それでもまだその右手を私に差し出してくれるなんてことがあったらその時にだけ、その腕の中で見せてやるの。
 嬉し涙として。
 だから決して、振り返りはしない。



 いつか来る、その夜に触れるまで。 


どんな地獄も歩いて行ける。
どんな悪夢も越えて行ける。

その先に、もう一度会いたい人がいる限り――



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