朝焼けに眠る

 この手をずっと握り続けることはできないと知っている。
 いつか再びその時が来たとしたら、その時こそは、きっと――



     朝焼けに眠る



 明治十一年、京都――
 明日には東京に帰ろうというのに、高荷恵を求める者は後を絶たない。恵が京都に滞在したのは、ほんの一ヶ月ほどだ。それなのに、すっかり市中にその存在を知られるところとなった。
 この年、京都では大きな騒動が起こった。実際のところは、“騒動”などという言葉では表すことの出来ない、日本を揺るがす大事件だったのだが、京都の人々の間では“大きな騒動”程度しか知られていない。京都を火の海にしようと謎の集団が暗躍したのも、西南戦争からまだ一年と経っていない現在、明治政府に抵抗しようとする一勢力によるものだと思われている。間違いはないのだが、その裏にどんな大きな力が動いていたかを京都の人々は知る由もない。その謎の集団の暗躍を喰い止めたのは、幕末に京都市中を秘密裏に警護した“隠密京都御庭番衆”だ。まだ十六の少女を筆頭とする少数精鋭の組織で、普段は料亭・葵屋を営んでいる。隠密組織だというのに、表の顔も知られている辺りがこの組織の一風変わったところで、誰もがその正体を知っているから、謎の集団は葵屋を襲撃した。少なくとも、京都の人々にはそう思われている。
 謎の集団は、京都御庭番衆を抑える前に、警察の動きを封じるために警察署に火を放った。多くの怪我人を出し、京都中の医者と名乗る者が、名医もやぶ医者も問わず集められ、警察やその周辺の人々の治療にあたった。京都では一気に医者の手が減ってしまった。京都御庭番衆の治療もままならない状態だ。
 そこに颯爽と現れたのが、若い女性ながらすこぶる腕の良い医者・高荷恵だった――と、京都市中では噂されている。
 葵屋襲撃の裏で、比叡山において謎の集団を束ね、明治政府転覆を目論んでいた悪鬼・志々雄真実と伝説の維新志士・人斬り抜刀斎こと緋村剣心が、それぞれの仲間と共に死闘を繰り広げたことは知られていない。恵は重症の剣心を救うべく東京から京都へ呼び出されて、同じく志々雄一派と戦った京都御庭番衆の面々も治療したに過ぎない。しかし、恵が会津藩御典医の家系の出身であり、会津藩は幕末、最後まで江戸幕府側について戦っていた。京都御庭番衆の母体となるのは、江戸城を警護した隠密江戸城御庭番衆だ。つまり、幕府直轄の組織である。京都の人々は、江戸城御庭番衆と会津藩の名医の家には繋がりがあるのだろうと勝手に推察し、恵は御庭番衆を救うために駆け付けたのだと思い込んでいた。
 かくして京都へやってきた恵は、御庭番衆のことなど関係なく、医者として人々を救うことだけを考えていた。医者の手が足りていないのであれば、他にも役に立つことがあるだろうと、剣心や御庭番衆、今回の戦いで負傷した仲間たちの治療の合間に、警察署や街中で医者としてできる限るのことをした。間違った噂が広まっていることも承知していたが、人々からどういう存在だと考えられていようとそんなことには興味はなかった。それで京都の人々から信頼を得られるのであれば、そんな噂も利用してやろうと考えていた節もある。何にしても、恵はよく働いた。京都の若い医者――といっても、恵より年上の者も多かったが――に、西洋医学や薬の煎じ方を教えたりもした。
 そうしてこの頃は、恵を求めて再建された新葵屋に人が訪ねてくることも多くなっていた。

 東京に帰る前日、恵は日中を緋村剣心の居候している神谷活心流剣術道場の師範代である少女・神谷薫と過ごし、夕方に新葵屋に戻ってきた。夕食を済ませ、今日は早めに休もうと言っていたところで、慌ただしく飛び込んできたのは中年の女性であった。
「恵先生、いはりますか?」
 新葵屋の玄関を開くなり息を切らせながらそう言った女性に応じたのは、新葵屋で仲居を務める増髪だった。
「どうされました?」
 増髪はこの女を知っていた。祇園にある大きな置屋の内儀だ。
「あぁ、増ちゃん、遅い時間に堪忍な。うちのふく那が怪我をしてもうて。恵先生に見てもらいたいんよ」
「あら、大変。でも、恵さんは明日東京に帰るから、今日はもう――」
「構いませんよ、お増さん」
 増髪が応対していると、二階から声を聞きつけた恵が降りてきた。まだ寝る支度もしていなかったと見えて、化粧も落としていない。このところ、恵はいつも遅い時間に風呂に入り、一番最後に床に就く。
「えっと……祇園のふく春さんでしたね」
「えぇ、一回お会いしただけやのによう覚えてくれはって。来てもらえますやろか」
「すぐに支度しますので、お待ちくださいね」
 恵はそう言い残して、ぱたぱたと階段を駆け上がった。恵に声をかけたふく春の様子からして、そんなに大怪我という風ではなさそうだ。恵は手早く治療用の道具を鞄に纏めた。
「ん、こんな時間に往診か?」
 開け放しにしていた襖を覗いてきたのは、相楽左之助。東京にいた頃から恵とは何かと衝突していた気の強い青年だが、人一倍人情深く、面倒見が良い。舎弟も多いのだが、しかし、恵にはいつも世話ばかりかけている。風呂上がりで髪から滴り落ちてくる雫を手拭いでガシガシと拭っている。
「そうなの。祇園の舞妓さんが、怪我をしたみたいで」
「祇園の? 誰だ?」
「名前まではちゃんと聞き取れなかったんだけど……」
「ふーん……」
 答えながらも手を止めず、荷物を纏め終わると恵はさっと立ち上がる。恵は左之助の顔も見ずにその脇をすり抜けて階段を降り始めた。左之助は、思わずその後を追う。
「恵、一緒に行こうか?」
「あんたが? どうして?」
 恵は背中で問いながら玄関までやって来た。後についてきていた左之助に、玄関先に立つふく春はにっこりと笑いかけた。
「あぁ、左之助はん。左之助はんも明日お帰りなん? うちの娘らが左之助はんに会いたいゆうてますえ」
 ふく春の言葉に、漸く恵は左之助を振り返った。
「あんた、祇園だからついて来るって言ったの? 大体いつの間に舞妓さんに手を出してたのよ? どこにそんなお金があるわけ?」
「まぁまぁ、恵さん、落ち着いて……」
 すっかり呆れて溜息をつきながらも、どこか苛立った様子の恵は、早口で捲し立て、増髪になだめられた。左之助はむすっと唇をへの字に曲げて、恵の手から鞄を取り上げた。
「なんのつもりよ?」
「おめぇ、化粧が濃いんだよ」
 左之助も呆れたように、怒ったように溜息をつき、ふく春に「案内してくれ」と声をかけた。
「へ……へぇ……」
 左之助と恵を交互に見ながらも、ふく春は左之助と共に新葵屋を出る。「あ……あんたねーっ!」突然の言葉に意味を俄かに理解出来なかった恵は、思わず声を荒げてふたりの後を追った。

 一連の騒ぎを、いつの間にか集まっていた薫、明神弥彦、巻町操は襖の陰から覗いていた。
「化粧が濃いって……あれは酷い」
 言いながらも、操はくすくすと笑っていた。恵達が行ってしまうと、三人は二階のそれぞれが寝床にしている部屋へ向かった。
「そういえば、恵さんがお化粧落としたところって殆ど見たことないなー」
 一ヶ月も一緒に過ごしているが、いつも遅くまで起きていて、朝は誰より早く身支度を始める恵の生活に誰も追い付けない。結果として、化粧をしていない恵に会うことは殆どなくなっている。
「んー、東京では見たことあるけど、そういえば京都ではないかも」
「化粧してなくても、恵は美人だぞ、お前らと違って」
「なんですってー!?」
 年少の三人は、明日は朝が早いというのに、かまわず騒いでいる。
 そんな三人の声を聞きながら、恵達の行き過ぎた通りを眺めている男がいた。四乃森蒼紫。恵とは因縁浅からぬ男だ。
 蒼紫は、僅か十五歳で江戸城を守る隠密江戸城御庭番衆の御頭となった。しかし、戦うことなく江戸城は明け渡され、御庭番衆は解体。維新後は、戦いを求めて流れ、昨年の終わりに近い頃、東京で阿片を密売していた青年実業家の護衛を務めることになった。恵はその実業家に軟禁されて阿片の精製を強要されており、その時に蒼紫は恵と出会った。恵は実業家の邸から逃れるために蒼紫を篭絡しようとし、身体を重ねた。蒼紫を落とすことは出来なかったが恵はこの春に邸から逃亡し、その先で左之助や剣心と出会った。剣心と蒼紫は剣を交え、蒼紫は敗北する。恵はその後、薫の道場の掛かり付けの医者である小國玄斎の助手となり、玄斎の診療所に住み込みで働くようになった。
 逃亡から完全な解放に至るまでの騒動の中で、恵は剣心に惹かれたが、今回の京都での事件において剣心がただひとり、薫にだけ別れを告げて東京を発ったことで、恵は剣心の心の内に薫が住まい始めていることを察した。恵が薫に剣心を託して想いを絶ったのは、ほんの数時間前、今日の昼の事である。
 恵の恋が終わった事など、薫の他には誰も知らない。しかし、蒼紫は祇園へと向かう恵の後ろ姿に、揺れる髪に、影が差しているように思えてならなかった。明日には東京に帰るというあの女に、ひと言くらい言葉をかけてやっても良いだろうと、闇に消えるその姿を見送りながら静かに考えていた。



 恵と左之助が祇園のふく春の置屋に着いたのは、戌三つ頃だった。左之助が置屋に入ると、一階で出掛ける支度をしていた舞妓達がわぁと声を上げて絡んできた。恵は左之助の顔を見ようともせず、その手から診察鞄を取り上げてふく春について二階に上がった。
 置屋の二階に、ふく那は横たわっていた。ふく那は十八で、祇園では人気の舞妓のひとりだ。今日は夕刻から、一昨年に芸妓としてひとり立ちしたふく野とお座敷に出ていたが、酔った客人に絡まれて派手に転び、足を折って置屋に運び込まれたのだという。
「ふく那さんですね。医者の高荷と申します。足を見せて下さいね」
 恵は丁寧に挨拶をしてふく那が横になっている布団の横に膝をついた。
「へぇ、ほんまに若い女子<おなご>のお医者や」
 ふく那はゆっくりと上半身を起こし、恵の横顔を眺めて鼻で笑うように呟いた。
「若いっつっても、もう二十二だぞ」
 舞妓達が出掛けて行って漸く解放された左之助は、ふく那の部屋を覗くなりそう言った。
「左之助はん! うちの事心配して来てくれはったん?」
 突然、ふく那の声が明るく高くなる。
「や、こいつの付き添い」
「何が付き添いよ。役立たずが。大体、何でふく那さんと顔見知りなわけ? あんた、京都にいる間何してたのよ? 毎日フラフラ出歩いて」
「なんや、女先生、やいてますのん? 左之助はんは、悪い男に絡まれて困っとるうちらを助けてお座敷まで送ってくれましてなぁ。それ以来時々顔を見せてくれてますのや」
「ま、どうせウロウロしてて迷子にでもなっただけなんでしょうけど」
 恵は溜息をつきながらこぼし、ふく那の足の様子を見る。固定しておけばそう悪くもならないだろう。
「この界隈では左之助はんはよう働いてくれましてなぁ。女の子達のことよう守ってくれて助かりましたわ」
 恵と左之助の険のある雰囲気を察してか、ふく春が口を挟んだ。
「やることもねぇから、稼がせてもらってたんだよ」
「どうせろくなことに使わないお金でしょ。あんたの治療代を一銭でもいいから払って欲しいもんだわ」
 恵は呆れたように言いながら、ふく那の足に痛み止めの薬を塗る。
「てめぇっ!」
「それにしても、左之助はんが帰ってしまうなんて残念やわぁ。せっかくええ用心棒が出来たと思てたのに」
 今にも喧嘩になりそうなふたりに戸惑いながら、ふく春はやんわりと左之助を恵から引き離す。
「えぇー、左之助はん、帰ってしまわはるん? 嫌やわぁ、ずっと祇園におってぇな」
 ふく那は甘ったるい声で左之助に手を差し伸べた。左之助は恵からもふく那からも離れたところにどかっと腰を下ろし、ふく那に「悪ぃな」と小さく笑って見せた。
「なぁ、ちょっと……」
 左之助はふく春を手招きし、何事かを耳打ちした。ふく春はさっと恵を振り返る。
「左之助はん、うちはそういうところや……」
「ちっとだから、察してくれ」
「朝までは困りますえ?」
「悪いな」
 恵からしてみれば、いきなり自分を見ながらこそこそとふたりが訳の解らない話をしているのが不愉快だったが、敢えて触れずにふく那の足に包帯を巻いた。
「あらぁ、噂の女先生やないの」
 ふく那より上品な整った女の声が背中にぶつかり、恵はひょいと顔を上げた。藤色の色無地の着物に品の良い帯、髪はかつらを外した後らしく軽く結い上げている。芸妓だろうか。
「あぁ、ふく野。お座敷は終わったんかえ?」
「へぇ、おかあはん。今日はふく那の分ももろてええのやね?」
「せやね」
 ふく那は怒りの表情を露わにしたものの、口には出さずふいと外方を向いた。
 舞妓は二十を過ぎるまでは置屋でふく春のような「おかあはん」に育てられ、踊りや長唄を仕込まれてお座敷に出る。二十を過ぎた舞妓は芸妓となってひとり立ちし、仕事も自分で取らなければならない。今回は事故とはいえ、ふく那はお座敷に穴を空けた事になる。ふく野は後輩の分までひとりでお座敷を務めたのだから、取り分は全て自分のものだと言いたいのだ。ふく春もそれを理解している。
 ふく野は満足げにふく春に頷くと、しずしずと恵の隣に移動した。
「女先生ゆうだけでも珍しいのに、こんなに若いなんて。お幾つなん?」
「二十二です」
 恵は艶然と微笑み、隣に立ったふく野を見上げた。
「なんや、うちと同い年か……。そんな年でお医者が務まるとは大したもんやないの。その上こんな別嬪で。苦労のひとつもした事ないゆうような顔して……さぞええお家の出ぇなんやろねぇ、羨ましいわぁ。うちは――」
「ふく野」
 ふく春がぴしゃりとふく野の言葉を遮る。恵は気にしていないという風に、小さく肩をすくめた。
「はい、これでもう大丈夫ですよ。一ヶ月くらいは安静にして下さいね。怪我の状態と今行った治療、これから行うべき治療を纏めておきますから、近くのお医者さんに引き継いで下さい」
「へぇ、おおきに」
 ふく春は恵に頭を下げた。恵は鞄から紙を取り出し、引き継ぎ書を纏め始めた。ふく春が一旦部屋を出ると、ふく野は左之助にしな垂れかかる。
「左之助はん、いつになったらうちのお座敷に上がってくれますのん? 今は幾つかの置屋の用心棒してるらしいやないの」
「悪いな、明日東京に帰るんだ」
「あらぁ、それは残念。ずっと京都におったらええのに」
「ふふ、随分もてるのね、用心棒さん」
 恵はふく那の状態を纏めた紙を手にすっと立ち上がる。僅かに足元がふら付いたが、深く息をついき、足に力を入れて堪えた。
「先生、ほんまにありがとうございます」
 戻ってきたふく春は、真っ先に恵に頭を下げた後、左之助の方に顔を向けた。
「一番奥の右手の部屋、今は誰も使てへんので、支度しましたよって……」
「あぁ……悪いな」
 ふく春の言葉を受けて、左之助はゆっくりと腰を持ち上げた。恵は立ったままふく春に紙に纏めた内容を説明する。左之助はその隣に立ち、意味も解らないのに紙を覗き込んでいた。
 ひと通り説明を終えて、恵がふく春を見やると、ふく春は何度も礼を述べながらも顔を引き攣らせていた。「どうか――」しましたか。問い掛けの言葉を飲み込んだのは、左之助が腕を掴んだからだ。
「何?」
「もう済んだか?」
「え……えぇ……」
「じゃぁ、ふく春、部屋借りるぞ」
 言いながら、左之助は忙しなく恵の背中を押して階段とは逆方向に歩き出した。
「あらぁ、隅に置けへんなぁ。あのおふたり、そういう関係やったん?」
「えー、あないなおばはん、左之助はんに相応しゅうないわ」
 興味津々のふく野に対し、ふく那は不満そうだ。同い年の女性を「おばはん」呼ばわりされて、ふく野は苛立たし気に包帯を巻かれたふく那の足を軽く蹴る。
「いったー、何すんの、姉さん」
「ふく野、いくら何でもそれはやめなはれ」
 女三人の騒ぐ声を背中に聞きながら、恵は背筋が強張ってゆくのを感じた。



「あんた、何考えてるの?」
 恵の声が震えた。恵自身、これしきの事で自分が動揺するなんて思っていなかった。
 左之助に連れてこられた部屋――先程、ふく春が「一番奥の右手の部屋」と言っていたそこは、四畳半の東向きの部屋で、真ん中にひと組の布団が敷かれている。左之助は恵を部屋に押し込むと、さっと襖を閉めた。
「寝ろよ」
 それだけを言い、左之助はずかずかと部屋の窓にかけられた障子を開く。朧だった月の光が、鮮やかに部屋を照らした。さらりと柔らかな風も吹き込んでくる。
 左之助が掛布団を捲ると、その下に現れた白の鮮烈な色味が恵の脳に信号を送る。――キケン――。恵は後ろ手で襖を開きかけた。しかし、その音に気付いた左之助はすぐに恵との距離を詰め、その肩に腕を回してきっちりと襖を閉じ直す。
「止めなさい、私は帰るのよ」
 抵抗する恵の耳元で「ちっ」と小さく舌打ちをすると、左之助は軽々とその身体を抱き上げた。
「あんたっ――」
 月の光が左之助の輪郭を縁取る。精悍な横顔。三つも年下の、手のかかる弟のようにしか思っていなかった彼の、「男」の顔が覗き見えて、その美しさにぞくりとする。一方で、この月が昇る前、ほんの数時間前に日の光の中に投げ出した恋は、決してその瞬間に消え去ったわけでもなんでもなく、夕日に照らされる優しい「彼」の笑みを前に、刃のように心を抉った。「彼」への想いを捨て切れないままに、自棄になってこの男に抱かれる事など出来ない。もう二十二だ、あの邸で恋情の絡まない情事を幾つも経験してきた自身が、おぼこな娘ではないことを理解はしているが、だからとてあまりにも直ぐな彼の熱情を、欲望を受け止める事が出来るとは思えない。いや――したくない。
 左之助は、優しく恵を布団に横たわらせた。そして、抵抗しようとする恵に無理矢理掛布団を掛けると、自分はその横に腰を下ろす。
「――え?」
 恵だけが布団に横になっただけ。
「何よ、なんのつもり?」
 逆に、ここまで来て手を出してこない事をどう理解すれば良いのか。
「化粧が濃いんだよ」
「な、何よ、別にあんたを誘惑する意図は――」
「たりめーだ。解ってるよ、そんな事。――あぁ、そうか、そうだな。悪い、誤解させるようなことして……」
 左之助の頬がさっと朱に染まる。どうやら、彼は恵が抵抗した理由に今気付いたらしい。恵が何に危険を感じていたのか。そうだ、確かに、普通の女ならそれを警戒する。
「どうしたのよ、何がしたいの?」
「顔色が悪いから、化粧で隠してんだろ?」
 戸惑いつつも、左之助の声は柔らかい。恵はぐっと息を飲んだ。
「京都に来てから、ずっと寝ないで治療したり、剣心の様子見たり……ずっと剣心に付きっ切りで、疲れてたんじゃないのか?」
「それは……」
「朝早くから夜遅くまで働いて、偉いとは思うけど、なんか変だなぁと思ってた。最近、東京にいた頃より化粧が濃いんじゃねぇかって。疲れた顔隠すためにそうしてるんじゃねぇのか?」
「……まさかあんたに気付かれるとは」
 恵は深く溜息をついた。悔しいのは、この鈍感な男に気付かれた事だ。誰にもばれていないと思っていたのに。布団をかぶったまま、恵はごろりと左之助に背を向ける。悔しくて、涙が出そうだった。
「あんまり、眠れなくて……」
「あいつがいるからだろう?」
「…………」
 “あいつ”。
 左之助の意図するところは解る。それが、四乃森蒼紫を指していることくらい、恵だって解っている。気にしていないつもりだった。彼とはちゃんと向き合って、ちゃんと医者と患者として関わることができるようになった。お互いの闇に踏み込み合った暗い過去は消えはしないけれど、それでも目を見かわして話が出来るようになったと思っていた。それなのに、同じ屋根の下の、いくつか襖を隔てた先に彼が――恵の闇を遍く知っているあの男が、熱も持たずに身体だけを交わらせ、刃も持たずに斬り合ったあの男がそこにいると思うと、言いようのない不安が込み上げてきた。向き合えば平然と関わることが出来るのに、その姿が見えないところでその気配を感じると、心臓がざわめく。布団の中で幼子のように震え、朝焼けを待つ自分が、惨めで情けなくて仕方がなかった。だから、夜遅くまで働いて、わざと眠る時間を短くしていた。朝は早く起きて、青ざめてゆく顔を知られないように隠していた。
 何でこの鳥頭が、そんな事までお見通しなのだろう。頭の中には喧嘩や酒や、短絡的な欲求しか入っていないはずなのに。
「ここなら少しは眠れるだろ。ふく春に丑の刻に起こして欲しいって言ってある。数時間でも眠れれば、マシなんじゃないか? 夜が明けたらまた長旅だ。疲れるだろうから、少しは眠っとけ」
「馬鹿……」
「言うに事欠いてそれかよ」
 同じ女でありながら、ふく野やふく那のように甘ったるい声で甘えたりしない。誰にも絶対にしないというわけではあるまいに、こうも自分の前では意固地になる女が、恨めしくもあるが、それはそれで可愛らしくも思えるのが不思議だ。
「……俺がいて眠れないなら、廊下に出てるけど」
「良いわ。そこにいて……」
 左之助は、風の吹き込む窓の下に寄り掛かった。
「ん」
 月が空を滑りながら、静かにふたりに光を投げ掛けている。いつしか風の音に、穏やかな恵の寝息が混じり始めていた。左之助はそっと恵の手を取ると、静かに目を閉じ、久々に聞いたその安らかな寝息に耳を傾けた。



 丑の刻になり、襖をゆるりと開いたのはふく野だった。ふく野の気配に、左之助ははっと顔を上げる。
「あらぁ、手ぇ握り合って寝てるやなんて、仲えぇ事で」
「ふく野……もう時か?」
「へぇ。寝顔も綺麗なもんやね。羨ましいやないの、左之助はんが側についててくれるなんて」
 傾いた月が、恵の顔に深い影を落としている。左之助は、恵の手を握ったまま、反対の手でその髪を撫でた。漆黒の闇を紡いだ絹糸のように、白い額をさらさらと流れる。
「ふく野、さっきの話だけどよ、こいつが苦労知らずなんて、そんな事はねぇ。ずーっとひとりで、孤独に生きてきたんだ。誰も味方のいない中で、生き別れた家族と会う事だけを望みながら」
「生き別れ……御維新で? あぁ、女先生、会津の出やったっけ。戊辰の戦か……」
 ふく野はふと、目の前に眠る女先生の出自を思い出した。会津藩の御典医の娘と聞いている。
「戊辰で生き別れたんやったら、十一の頃か」
 ふく野の問いに、左之助は深く頷く。
「ふーん、羨ましいこと」
「おい」
 吐き捨てられた言葉に、左之助は眉を吊り上げた。戊辰戦争で親と生き別れたというのに「羨ましい」はないだろう。
「まぁ……御典医の家系に生まれたからって、生まれた頃から医者の腕があるわけはないやろうし、この年で名医と呼ばれるからには幼い頃からずっと勉強しとったんやろね。この年まで勉強し続けられたからこの腕があるんやとしたら……運のええ事や」
「運……?」
 恵の腕は実力によるものだと左之助は思っていた。それが、「運」のひと言で片付けられるとは。
「運や。うちは下級武士の家に生まれて、御維新で親を亡くしてな。父の上役の懇意にしとったおかあはんに引き取られて、芸を仕込んでもろた。せやな、うちも運がえぇんよ。それから食うに困ることはなかったし、おかあはんや同じように引き取られた仲間もおった。もし、ここにおらんかったとしたら……うち、廓におったと思うわ」
 ――廓。
 その言葉が耳に届いた瞬間、左之助の背筋にぞくりと悪寒が走った。思わず、恵の手を握る指に力が籠る。
「十一の、なんの能力もない女子がひとりで生き延びよう思ったら、身ぃ売るしかないやろ。うちもやけど、女先生も、身売りせんで済んだんは、誰かがひとりで生きられるだけの力を授けてくれたからや。子供の頃から親に医者として働けるように躾けられてたからこそ、女先生はこの荒んだ世の中でひとりで生きてこられたんや。逞しゅうて、羨ましいわ」
 窓から風が吹き込み、左之助の、恵の、ふく野の髪を弄んで、廊下の奥に消えてゆく。ふく野は煩わしそうに首を振ると、静かに眠っている恵の頭上を回って窓の障子を閉めた。恵の顔に、ふく野の影が差す。
「その女先生が、この先もずっとひとりで生きていけるもんかは知らん。けど、中途半端に手ぇ握るくらいやったら、初めから触れたらん方が優しいと思うえ。うちやったら、どうせ離されるなら手なんか握らんといて欲しいわ。情けなんかかけて欲しないんや。ほんまに本気でその手を取るんやったら、何があっても離さん覚悟を持ちや」
 ふく野はきっぱりと言い切ると、さっと踝を返して部屋を出て行った。
 覚悟――。
 左之助はゆっくりと恵から手を解き、その肩を揺すった。
「ん……」
「恵、起きられるか?」
「えぇ……ありがとう。少し、身体が楽になったわ」
 恵はさっさと身支度を整え、布団を畳むと、一階で繕い物をしていたふく春に礼を述べて左之助と共に置屋を後にした。
 月は明るく道を照らし、ふたりの正面に深い影を落とす。左之助は、一歩後ろを歩く恵の影を踏みながら歩いていた。左之助は振り返る事はせず、ふたりは黙って歩き続けた。
 覚悟――。
 その言葉が、左之助の頭の中で巡っていた。一生手を離さないなんて、そんな覚悟は欠片も持てない。大体、恵はそんな事を望んではいないだろう。
 ざ、と何かが地面に落ちる音がして、左之助は振り返る。恵が、地面に膝を付いていた。
「恵!?」
 左之助は恵に駆け寄り、肩に手を乗せる。恵は顔を上げず、吐き捨てるように言った。
「大丈夫、ちょっと足がもつれただけよ」
「歩けるか?」
「大丈夫、大丈夫だから――先に行って」
 僅かに、声が震えている。泣いているのか。どこか捻ったか? 左之助は恵の足首に手を伸ばす。
「触らないで。大丈夫、大丈夫だから……ひとりにして……」
「恵……?」
 覗き込んだ眼の奥に、涙が浮かんでいる。痛んでいるのか、身体ではない、どこかが。
「どうしたんだよ、何があった?」
「何でもないわ。ただ、悔しいだけ」
「悔しい?」
 恵は肩を抱く左之助の腕を押し戻そうとしたが、恵の細い腕で左之助の力を制することなど出来るわけもなく、諦めた様子で項垂れた。
「悔しい……私は、自分ひとりの力で生きてきた気になってた。ずっと、父が守ってくれていた事に気付いてもいなかった。でも……いわれてみればその通りね。女ひとりで生きるのに、私には医者としての知識があったから今まで渡ってこられただけ。本当なら、身売りのひとつもしていても可笑しくなかったのよね。父が、女の私にも兄達と分け隔てなく医学を学ばせてくれた幼い頃の環境があったから生きてこられた……。私は、ずっと父に守られていたんだわ。そんな事にも気付かずに、ひとりで生きてきた気になっていたなんて、恥ずかしい。悔しい……」
 時々言葉を詰まらせながら、恵は胸の内の想いを吐き出した。
 父の与えてくれた力のお陰で、清いまま二十一までは生きられたのに、生きることにしがみつくために、それすらも投げ出してしまった。乱暴に組み敷かれたあの時の恐怖が、生々しいまでに身体に刻まれた痛みが、脳裏に蘇る。自分ひとりのものではなかったのに。ずっと、守られていたというのに。
「聞いてたのか……」
「枕元であんな話されちゃね」
「……どんなに近くに医者として学ぶ環境があったとしても、子供が医術を身に着けるなんて、そんな楽な事じゃねぇだろ。地道な勉強と努力の積み重ねなんだろ? おめぇが頑張ったって事じゃねぇか。子供の頃からずっと、医者として誇りをもって生きてきたって事じゃねぇか。胸を張れよ。しゃんとしろ」
 左之助の力強い言葉が胸を突く。恵の瞳からは、大粒の涙がこぼれだした。
「あー、もう、嫌だわ、左之助のくせに何よ。いっちょ前に慰めてるんじゃないわよ」
「口の減らねぇ女だな。大人しく慰められてろよ」
 喧嘩腰で噛み付きながら、左之助は喉の奥で小さく笑っていた。立ち上がり、腕を引いて恵を立ち上がらせながら、どこか子供のような女の肩に寄り添って離れない影を蹴散らしてやりたいと思っていた。
 気が強いくせに、ふとした瞬間に折れてしまいそうな脆さがある。何かの瞬間にまるでそこに初めからいなかったかのように消し去ってしまいそうな影が、闇が、常にこの女に付き纏っている。妖艶な笑みの下に、隠している孤独がある。いつも、いつも、ずっと。
 左之助は、溢れてくる涙を拭う恵に背を向け、その手を握って歩き出した。
「あんたに、覚悟があるの?」
 幼い女子が生きる術の話を聞いていたのだとしたら、当然、その後の話も聞いていただろう。手を握る、覚悟。
「いや」
「でしょうね。私もいらないわ。私はひとりで生きる。何があっても、ひとりで生き抜いてみせる。あんたにも、剣さんにも、……四乃森蒼紫にも、“ちゃんと”幸せになって欲しい。そのために、然るべき道を生きて欲しいと思っているわ」
 ひとりで、生きる。
 “ちゃんと”幸せになる。
 然るべき道。
 左之助にはそれは、自分自身に、剣心に、蒼紫に、或いはこの先出会うかも知れない多くの人々にとって、高荷恵という存在が隣にあるべきではないと言っているように聞こえた。この女は、剣心を好きなのではなかったか。それなのに、剣心との将来を描くこともしないのか。
 背中に聞こえた言葉が、やけに重く感じられた。
 からころと草履の音がする。その音にぴったり自分の足音が重なっていることに左之助は気付いた。出会ってからそれほど経っていない。でも、考えてみれば週に何度も顔を合わせて、隣を歩く事も少なくはなかった。いつの間にか身体が、恵の歩調を覚えている。何も考えなくても、恵に合わせて歩く事が出来る。足音を重ねていると、不思議と落ち着いた。
 恵は強い。でも、影を纏っているのも事実。その影を、消し去る力が自分にはない事を知っている。だからこの手を、握り続ける覚悟なんか持てない。ほんのひと時、涙を流す姿を見ないように、見せないように背中に隠して歩く道が、永遠に続いているとは思わない。今の自分に、守って欲しいなどとこの女が思っていない事も解っている。だから、「ひとりで生き抜いてみせる」と断言するのだ。恵は。この女は。

 新葵屋に着くと、月は西の端へと落ちかけていた。
「やだわ、年甲斐もなく泣いたりなんかして。しかもあんたの前で……情けない」
「本当に口の減らねぇ女だな」
 左之助はぱっと手を離し、今度はその両肩を掴んで向き合わせた。ゆっくりと、腰を折って恵の顔を覗き込む。
「大丈夫、別に目が赤くなってるわけでもねぇし、誰にも気付かれねぇよ」
 どうせ、それを気にしているんだろう。くっくっと笑いながら肩を叩かれると、恵は勢いよく左之助の手を払い除けた。
「って、この高飛車女が!」
 思わず声を荒げた左之助に、恵は唇の前で指を立てて静かにしろと促す。
 ふたりはなるべく音を立てないように気を配りながら新葵屋の中に入った。
「……眠れるか?」
「もし眠れないって言ったら、側にいてくれるの?」
 自嘲気味に笑う女を、飲み込みそうな影が肩口から首筋へ上る。その影を払うように、首筋に、頬に、手を這わせた。
「馬鹿な男……」
「おめぇもな」
 本当は、その腕に甘えたい。
 恋を失って、この心にも傷は刻まれているのだ。たったひとりで生きてゆくと覚悟を決めたところで、胸の痛む夜くらい、ひと時の温もりを求めたくなる事もある。
 でも。
「お休み、左之助」
 ほんの微かに、触れる。
 その、僅かな温もりを飲み込んで、残り短い夜を、迫ってくる朝焼けに向かって眠るのだ。
 たったひとりで。



 操が今にも泣きだしそうな顔をして東京の面々を見送る中で、左之助はろくに隠そうともせず大きな欠伸を漏らした。
 横浜へ向かう船の中で、左之助はずっと眠っていた。恵は呆れ顔だったが、肩に寄り掛かって来ても邪険にはしなかった。
 なんの覚悟もなくて良い。
 ただ、人間だから、辛い事や苦しい事は必ずあって、そういう時に、何も言わずに側にいてくれる……そんな存在があることは、心強い。ずっと側にいて欲しいわけじゃない。誰かと結ばれて、“ちゃんと”幸せになって欲しいと思う。
 でも、ほんの少しの間だけ、寄り添えればそれで良い。
 愛しい人が、大切な人の隣で微笑んでいる。未来を見据える少年の瞳が、陽光の中に輝いている。このたくましい背中は、いつかきっと、今よりずっと広い場所を求めて離れてゆくだろう。
 それで良い。それで、十分だ。
 恵は右側に温もりを感じながら、ひっそりとその小指を握りながら、波に誘われるように目を閉じた。
 船は、日差しを浴びながら穏やかに航行を続ける。



 京都にもまた、穏やかに初夏の日差しが降り注いでいた。
 部屋で禅を組んでいた蒼紫は、息をつき、立ち上がる。昨晩の事が思い出された。
 あの女は、京都に来て最初の内は、誰よりも重傷を負って意識を失っていた男に付きっ切りだった。医者としての務めかと思ったが、どうやら、女はあの男に好意を抱いていたらしい。
 昨日の夕方、外出から戻った女の瞳は伏せがちで、あの男の事もちゃんと見ようとはしなかった。共に出掛けた少女があの男を好いて東京から追ってきた事は知っている。昼日中に出掛けた女ふたりの間には、恐らく何かがあったのだろうと察した。だから、少しくらい声を掛けてやろうと考えていた。
 だがあの女は、別の男と仕事に出掛けたと思ったら、戻ったのは日付も変わって久しく、街も深い眠りに落ちた時分だ。睦まじく、互いの手を取り合って帰ってきた。あまつさえ、影を連れた女は、両の手を肩に添えて月に背を向けた男と、人通りのない往来で口付けを交わした。
 別に、あの女がどうなろうと知った事ではない。
 だが、凍える身体を重ねて熱を灯した頬が、その髪の甘い香りが、記憶の底に疼く。
 胸の奥に疼く。
 あの男を、斬り殺したい程に。


甘え方も知らずに孤独に生きてきた女。
奔放故に、確かな将来を証明できない男。
そして――燻ぶりだしたのは、過去の記憶か。



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