何故、こんなにも気になるのか、その理由が解らない。
 いつか、解る時は訪れるのだろうか。



     置き去りの花



 明治十一年、晩夏――
 蝉の声が時雨のように降り注ぐ夏の午後。日差しは東京の街に容赦なく照り付けている。
 じっとしていても汗ばむ季節に、三人はやって来た。暑さに顔を歪める事もなく、平然と街道をすり抜けて行く。背の高い男がひとりと、ふたりの女。長い髪を下ろして背中で揺らす長身の女と、団子頭の小柄な女は、色違いの帯を締め、揃いの装束を纏っている。男の着物も、女達の物によく似ていた。これは、江戸時代、幕府に仕えて江戸城や京都の街を守護していた隠密御庭番衆の忍び装束だ。
 男は幕末、史上最年少で江戸城御庭番衆を束ねる御頭となった四乃森蒼紫。長身の女は、京都御庭番衆の中位隠密の近江女。団子頭の女は同じく中位隠密の増髪といった。今、三人は京都の料亭・葵屋に住んでおり、ある目的から連れ立って東京へ訪れた。
「あ、あそこですよ、蒼紫様」
 増髪が一点を指差す。人差し指の先に示されたのは、立派な門構えの屋敷だった。
「本当だ。さっき裏で聞こえてたの、やっぱり操ちゃんの声だったのね」
 三人がこの屋敷の塀沿いを歩いていると、「でやーっ!」「とーっ!」といった奇声が響いていた。その声に、聞き覚えがあった。
 増髪と近江女は少し早足になり、門前に並んで立った。門に掛かった木札には、太い毛筆の文字が並んでいる。"神谷活心流剣術道場”――間違いない。此処が目的の場所だ。振り返ると、少し遅れてふたりの背後に立った蒼紫は、ふたりに目線で指示を出す。ふたりは顔を見合わせて頷いた。
「ごめん下さーい」
 増髪が門の中に向かって声を掛ける。「はーい」と応じる声と共に、中で人の動く気配がした。こういった気配を敏感に察する事が出来るのは、御庭番の訓練の賜物だ。肌を焼き付ける陽光を浴びながら、三人は気配が近付いて来るのを待った。
 暫しの間を置き、最初に姿を現したのは道場主で神谷活心流の師範代である神谷薫。
「貴方達は!」
 薫が、思いがけない人物の来訪に目を丸くする。続いて、街外れの長屋に住み、神谷道場の食客と化している青年・相楽左之助がやって来た。
「懐かしい顔じゃねぇか」
 左之助は、増髪と近江女の姿を見るや、口元を緩めた。薫達に向かって、ふたりはゆっくりと頭を下げる。
「ご無沙汰してました」
「操ちゃんが長々とお世話になって」
「お増さんとお近さん!」
 そこへ、京都御庭番衆で御頭を名乗っており、数日前に東京に来て以来、神谷道場に泊まり込んでいる巻町操も顔を出す。操の顔を見ると、増髪は眉を吊り上げた。
「操ちゃん! もう、いつまで経っても帰って来ないから、心配したじゃないの!」
「ごめん、もう帰るつもりだったんだけど……」
 操が申し訳なさそうに笑いながら頭を掻く。
「それで、おふたりがお迎えに?」
「いえ、ふたりじゃないんです」
 近江女は口元に柔らかな笑みを浮かべ、振り返る。操達はそこに、蒼紫の姿を見付けた。真夏の日差しを浴びているとは思えない程涼やかな顔で、蒼紫は操を振り返る。
 神谷道場の一番弟子の少年・明神弥彦と、幕末は“人斬り抜刀斎”と恐れられた維新志士であったが、現在は流浪人で神谷道場の居候でもある緋村剣心も、薫達の後ろから門の向こうを覗く。薫達同様、弥彦は三人の来訪に、特に蒼紫の存在に瞠目した。
「四乃森、蒼紫……」
 一方の剣心は、動揺する様子も見せず、蒼紫に微笑みかける。
「蒼紫、操殿を迎えに来てくれたのでござるな」
 蒼紫は答える事なく操に歩み寄り、“操へ”と書かれた文を操に差し出した。
「翁が心配している。翁からだ」
 操はその手紙を手早く開いた。左之助と弥彦も、操と共に手紙を覗き込む。
 “ちゃお、まーいえんじぇる操へ”の書き出して始まる手紙には、こう続いていた。“いつまで遊んでおる。緋村君達にも迷惑じゃ。優しいわしは、ごーじゃすな迎えを差し向けてやったぞ。どうじゃ、嬉しかろう。というわけで、さっさと帰って来なさい。追伸、土産は浅草の人形焼。では、あでぃおす”――読み終えると、操は手紙を握り潰した。
「このじじい!」
「だからね、操ちゃん。あたしたちと一緒に帰りましょう」
 操は、奥歯を噛み締め、僅かに顔を上げる。蒼紫はいつもと変わらず、表情ひとつ変えずにそこに立っている。当たり前のように彼はそこにいるが、それはただ、京都御庭番衆を実質的に束ねる翁という操の保護者のような老人に、操の迎えを頼まれたために過ぎない。彼の意志は、そこにはないのだ。操は再び視線を落とした。長い前髪が、目元に深い影を落とす。
「あたし、帰らない」
「え、操ちゃん!」
「まだ帰らないから!」
 操は子供のように大きく首を振り、そのまま屋敷の中へ駆け込んで行った。蒼紫はその後姿を黙って見詰めていた。追う事もしない。彼はその必要性を感じていないし、そうする事を誰からも指示されていない。誰かがそれを望んでいるとすれば、それは操自身。或いは、増髪や近江女もそうして欲しいと思っているかも知れない。だが、増髪や近江女は勿論、操も蒼紫にそんな指示を出せるような立場ではない。蒼紫の意志がそれを必要だと判断しない以上、それは不要な行動なのだ。誰もが一瞬息を飲み、追うべきかを逡巡した。
 その様子を覗き込んだのは、近江女に負けず劣らず長い髪の、肌の白い女だった。
「あら、お取込み中だったかしら?」
「恵さん、いらっしゃい!」
「とうとう女狐まで出てきやがった」
 左之助に“女狐”と呼ばれた女、高荷恵は、無言で容赦なくその耳を引っ張る。「いででででっ」と左之助が苦い声を上げて硬直しても、気にも止めずに艶然と増髪達に向き直り、「その節はお世話になりました」などと頭を下げた。そして、隣りで小さく会釈だけして視線を反らした蒼紫を暗いとなじり、ワライダケのエキス入りの秘薬でも飲ませてやろうかと笑う。
 薫に、「またそんな怪しげなものを」と苦笑されながらころころと笑う恵を、蒼紫は横目で伺った。剣心に「奥へ」と促され、門をくぐる瞬間、恵はちらりと蒼紫を見上げる。ほんの一瞬、視線が交わったにも関わらず、一切の表情を崩さず、赤い唇に笑みをたたえて足早に剣心達を追い、左之助の隣りに並んで何かを話しかけている恵の背中は、やけに楽しそうに見えた。

 操の説得に巻き込まれた恵は、自身と蒼紫との関係に対して「因縁がある」と口にしたらしい。後に蒼紫は、その事を操から聞かされ、「厄介なことを言ったな」と内心溜息をつく事になるのだが、それはふたりが京都に戻ってからの話。

 その因縁の女である恵は、やはり土産を買いに浅草へ行くという操達に巻き込まれ、女五人で出掛けて行った。食い気という下心丸出しの左之助と弥彦がこっそり後をつけ、蒼紫は剣心と共に茶の湯や座禅、それに、幼子達の世話をして一日を過ごした。幼子は、あやめとすずめという。あやめは五歳。すずめは四歳。この町の片隅に診療所を構えている小國玄斎の孫娘で、恵はその町医者の下で助手をしているという。
 蒼紫はあやめの姿に、幼い頃の操を重ねつつも、ふとした瞬間に、先程恵がこぼした笑い声を思い出していた。“因縁”のあるあの女は、あんな風に笑う女ではなかった筈だ。蒼紫は、恵があんな風に笑う姿を見た事はなかった。それどころか、怪しげなく薬で人を――恐らく、主に左之助や薫を――からかっていることなど考えもしなかった。勿論、あの時に取り出したものは、ワライダケのエキス入りの秘薬などではないだろう。恵は冗談半分で人の役に立たない薬など作って持ち歩くような女ではないと、蒼紫は知っている。いや、それさえ、今では違うのかも知れない。
 初夏に再会して以来見せられている高荷恵の姿は、蒼紫の知る高荷恵とは異なる人間のように思える。
 暗い目をした女だった。鮮やか過ぎる紅で危うい笑みを作り、蓮っ葉な言葉を吐きながら、慣れない仕草で誘惑してきた。何度身体を重ねても、その唇に触れることは許さなかった。常に気丈に立ち振る舞い、人知れず涙を流す。恵は洋館に軟禁され、阿片の密造を強要されていた。蒼紫はそんな恵を監視する役回りで、青年実業家の武田観柳に雇われていた。恵は邸から逃れるために、蒼紫を籠絡しようと手を尽くした。
 蒼紫は、恵に憎まれていた自覚がある。軟禁されていた邸に雇われていた私兵のひとりと恋仲になった恵の目の前から、その男を消させたのは蒼紫だ。
 しかし、初夏の京都で再会した時、恵はその憎い筈の蒼紫の治療を進んで行った。最初の内は余り言葉を交わすこともなかったが、再び生活を共にする内に、互いに言葉を交わすようになり、視線を交わすようになり、触れる事を厭わなくなった。勿論、もう蒼紫をわざわざ籠絡する理由もないため、身体を重ねるような事はしない。しなやかな指で首筋を撫でても、それは治療のためでしかなかった。包帯を変えるために、かつては爪を立てた肌に平然と触れる女を見下ろすと、伏し目がちの切れ長の瞳に、長い睫毛が揺れていた。
 今や、恵は蒼紫をからかいもする。よく笑う。“あんな事”があってまだ四ヶ月ほどだというのに、よくぞここまで変われるものだと感心もするし、呆れもする。だが、変わろうと、前向きであろうと顔を上げる女を、美しいとも思う。緋村剣心に柔らかな笑みを見せて頬を染める女を。相楽左之助を茶化しながら、ころころと声を上げて笑う女を。そして、ふと気付く。その笑顔が、自分には向けられていない事に。
 何がこうも違うものか。

 夕刻、女達は浅草で楽しんで帰ってきた。一方で、女達を追って行く先々で面倒な目に遭ったらしい左之助と弥彦は、疲れ切った様子だった。それでも、明日京都に帰る操達の送別会を行うとなると、弥彦は上機嫌で手伝いを申し出た。
「それでね、蒼紫様、恵さんって凄いの! あたし達の事をガキ扱いした嫌ーな破落戸の顔面を固焼きではたいて……」
 操は、意気揚々と浅草での出来事を蒼紫に語る。固焼きと聞いて、蒼紫は庭に面した廊下で寝ころび、煎餅をかじっている左之助に視線を投げた。左之助が不機嫌そうにがりがり噛み砕いているのが、操の言うそれだ。左之助は操の声が聞こえているのかいないのか、わざと音を立てて煎餅を口で割っている。
「なーに、あんた、いらないって言ったじゃないのよ!」
 怒気をはらんだ声は、操が「凄い」と称賛した女だ。帰ってきた時、息を切らしていた左之助に固焼きを勧めたのに、断られて腹痛などの不調があるのではと案じたが、この通り元気に断ったはずの固焼きを食べている事に立腹したらしい。
「食って良いんだろ」
「玄斎先生へのお土産なんだから、少しは残しておきなさいよ」
「あのじいさん、こんな固いもん食えんのか?」
「歯は丈夫よ」
 ぱたぱたと早足で向かってきた女が、半開きの障子の向こうから姿を見せた時、その両手には大きな皿を抱えていた。その後ろには、同じく大皿を手にした近江女と増髪の姿もある。
「ふぅん」
「何よ、不機嫌そうな顔しちゃって。私が買ってきたお煎餅が美味しくないっていうの?」
 左之助は、まだ憮然と口を結んだまま、煎餅を小さく割ってひょいと立ち上がった。
「ん」
 左之助が煎餅の欠片を差し出すと、恵は、皿にかぶらないように身体を捻って左之助の方へ首を突き出した。左之助の指が、半ば開かれた恵の口に煎餅を押し込む。赤い唇に、指先が触れたが、ふたりは気にする素振りもない。
「…………うん、美味しいじゃない」
「まーな」
 言いながら、左之助は恵の抱える皿に盛り付けられた煮物を指でつまみ上げ、口に放り込んだ。
「あーっ、あんたっ!!」
「左之兄、つまみぐいだーっ!」
 恵が声を荒げた瞬間、左之助の後ろから駆けてきたのは、あやめとすずめだった。
「もぉっ、お客さんの前で恥ずかしい事して! あやめちゃんとすずめちゃんにも示しがつかないでしょ、この馬鹿!」
「ばかー」
 すずめが、恵の口真似をしながら左之助の足にしがみつく。恵は、はっと焦るような表情を見せ、すずめを見下ろした。
「くくっ、おめぇもやっちまったな」
 恵があんまり左之助を馬鹿者呼ばわりするもので、近くにいるすずめがそれを真似るようになった。それを玄斎が良く思っていない事を恵も左之助も知っていた。恵は小さく、「怒られる」と呟いて俯いた。左之助はその様子をおかしそうにくつくつと笑い、恵の頭をぽんと撫でる。自分より年下の馬鹿者に子供のように扱われて、恵はきっと馬鹿な男を睨み上げた。
「あやめちゃん、すずめちゃん、こんな大人になっちゃ駄目よ」
 恵は首を振って左之助の手を払うと、わざと真面目な顔を作ってふたりの幼女を見詰めた。
「ならないよ。あたしは、恵姉みたいにきれいでかっこいい大人になるんだもん!」
 あやめが、瞳を輝かせる。
「すずめもー」
「ねー。そんで、左之兄みたいに強くて優しい男の人のお嫁さんになるんだ」
 満面の笑みを浮かべたあやめは、左之助の手を握った。
「おー、見る目があるねぇ」
「やめときなさい、あやめちゃん」
 幼子たちに目標とされて照れているのか、頬を染めたまま早口で言うと、恵は左之助に煎餅の袋を閉じてすずめに渡すように指図した。勢いに押されて従った左之助の手に、恵は抱えていた皿を押し付ける。
「はい、これ持って道場に行きなさい。私は支度があるの」
「これ作ったの、お前だろ?」
「そうよ」
「だよな。やっぱ、おめぇの作るもんが一番美味え。俺に渡したら、全部食っちまうぞ」
 悪びれもせず、左之助が片手に抱えた皿にもう片方の手を伸ばそうとすると、その手をさっとあやめが捕まえた。
「出来るわけないでしょ。あやめちゃん、すずめちゃん、見張りをよろしくね。左之助にお芋ひとつ食べさせちゃ駄目よ!」
「「はーいっ!」」
 ふたりは元気に返事をし、あやめは左之助の片手を握り、すずめは煎餅の袋を抱き締めて、三人で道場へと向かった。
 恵はさっと三人に背を向ける。
「それじゃぁ、私は台所へ戻りますので、道場へ置いてきて下さい。後はあやめちゃんとすずめちゃんに任せれば大丈夫ですから。あのふたり、小さいけどしっかりしているので、心配いりませんよ」
 近江女と増髪ににっこりと微笑んで見せると、恵は悠然と台所へと戻っていった。
 しかし、そこに残された御庭番の女ふたりは、それどころではない。目の前で起こった出来事に、喜色満面で視線を交わした。
「何、何、何あれ!? あのふたり、そういう関係!?」
「ホント、『あーん』ってやったよね!? しかも、それを当たり前のように恵さん受け入れてたよね!」
 操もぴょんと立ち上がり、ふたりに駆け寄った。
「でも、私はちょっと怪しいと思ってたのよね。恵ちゃん、剣心さんが好きだっていうけど、左之助さんに対する態度って、他の人と大違いだもん。京都にいた時もそんな感じだった」
 近江女は、少し澄ました顔でにやりと笑う。
「あー、そうかも……」
 操と増髪も、顔を見合わせて微笑んだ。

 剣心を中心に、恵、近江女、増髪が作った料理が道場に並べられた。
 最後の一皿を運び込んだ恵はずらりと並んだ料理の皿から、料理が減っていない様子に満足そうに笑みを浮かべて左之助を見やる。左之助は悔しそうに恵を睨んだ。
「ありがとう、あやめちゃん、すずめちゃん」
 重要な任務をやり遂げた幼い姉妹を、恵は優しく抱き寄せる。
「うん! でも、左之兄も良い子にしてたよ」
「そーお、良い子だったの、左之助」
 わざとあやめの言葉を繰り返してにやにやしている恵を前に、左之助は顔を赤くして頬を膨らませた。
「あら、可愛い顔」
 左之助を楽しそうにからかう恵は、好奇の視線が注がれている事に気付いていない。ひとしきり左之助で遊び、あやめとすずめと一緒に頭を撫でると、恵はあやめとすずめを両側に座らせて床に腰を下ろした。
 宴会が始まる頃には、弥彦と仲の良い少女・三条燕も道場に顔を出し、宴席に参じた。
 建前は、操の送別会だが、薫も弥彦も左之助も操も大勢で賑やかに食事をする事が好きで、楽しい時間が過ごせればそれで良いのだ。近江女と増髪もそれに便乗する。剣心と恵も、こういった雰囲気は苦手ではない。唯一、それを苦手としている蒼紫だが、操に押しきられて参加せざるを得なくなった。
 半刻程過ぎると、食事もそこそこ食べ終えて、様々なお喋りに興じ始める。
 最初に内は恵にべったりくっついて料理を取ってもらったり世話を焼かれていたあやめとすずめは、いつの間にか蒼紫の隣に陣取っていた。操が蒼紫の隣は自分の指定席だと主張すると、すずめは蒼紫の膝に座って嬉しそうに笑う。流石の操もそれを引き剥がすことは出来ず、左之助と話していた恵に抗議にやって来た。恵は軽く操をいなし、左之助に押し付けて弥彦と燕に食後の水菓子を勧めに立った。操に噛みつかれた左之助は、どういう流れでそうなったのか、操と飲み比べを始めた。
「ねぇ、恵ちゃん」
 よく冷えた瓜を全員に配り終えた恵に、声を掛けたのは近江女と増髪だ。
「はい?」
「聞かせてよ。左之助さんとは、どうなってるの?」
「お付き合いしてるんですか?」
 ふたりはきらきらと瞳を輝かせる。
「は?まさか……」
「でも、恵ちゃんて左之助さんといる時って、顔付きが違うじゃない?」
「そんなことは……」
「自分の顔は、自分じゃ解らないですよね?」
 御庭番のふたりに両側をがっちり固められ、恵は困ったように曖昧に笑う。彼女らの御頭に文句のひとつもいってやろうと顔を向けると、一瞬視線が絡んだ気がしたが、すぐに反らされてしまった。頼りにならない男だ。
 当の蒼紫はといえば、あやめとすずめ、操の三人に囲まれて騒がれてはいるものの、三人の話など殆ど聞いていなかった。特に自分に対して話しかけているわけではないと解っていることもあり、あまり意識を向けていない。それより、左之助との仲を追求されている恵が気に掛かっていた。
 左之助といる時は顔付きが違うと、蒼紫も気付いていた。少なくとも、自分といる時とはまるで違う。自分の側にいる時の恵は、探るような視線を向けてくることが多い。以前は誘うように切れ長の瞳を流してあるかなきかの淡い笑みを浮かべている事が多かったが、今は医者として体調を気遣っているのか、真っ直ぐにこちらを見てくる。探るような、挑むような視線だ。少なくとも、相楽左之助に向けるような、どこか幼さの残る表情を見せる事はないし、大口を開けて笑う事もない。左之助といる時の恵の、見た事もない顔や聞いた事もない声に、ほんの少し胸のすくような感情を覚える。
 全てが欲しいというわけではないけれど、あの表情が、あの声が、恵という存在を遠ざける。
「あお兄はつよいの?」
 膝の上から大きな瞳で見詰めてくるすずめは、あどけない口ぶりで問いかける。
「当たり前でしょ! 無茶苦茶強くて格好良いんだからっ!」
 ひと回り以上年下の幼女にもムキになる操は、我が事のように胸を張った。
「左之兄とは、どっちが強い?」
 興味津々といった明るい表情であやめも蒼紫を見詰める。
「そりゃぁ、蒼紫様よっ!」
「たたかったの?」
「戦わなくても解るわよ。あんな鳥頭に蒼紫様が負けるはずないでしょ!」
 確かに、手合わせをした事はない。聞いたところによると、左之助は式尉に勝ったらしい。
 式尉は隠密江戸城御庭番衆で、筋骨隆々の力自慢だった。御庭番衆が解体された明治維新後も蒼紫と行動を共にし、件の邸で観柳の乱射した回転式機関砲<ガトリングガン>の弾雨に倒れた。御庭番衆秘伝の筋力増強剤で膨らんだ筋肉が、機関砲の弾さえ通さない縦になると笑みながら、蒼紫の眼前でこの世を去った。その式尉が最後に手を合わせ、負けたのが左之助だ。しかし、蒼紫はかつて式尉と剣を交え、その顔に傷を刻んで勝利を手にしている。左之助が式尉に勝ったからといって、自分より強いとは限らない。いや、緋村剣心にこそ勝っていないが、最強の二文字を求め戦い続けてきたのだ。町の破落戸ごときに負けるわけがない。
 今更競っても仕方がないのだが。
「さの兄もつよいんだよ!」
 すずめが嬉しそうに笑う。
「でも、ケンカしたら恵姉が怒るね。だから、どっちかわかんないね」
 あやめが穏やかに微笑み、蒼紫にもたれ掛かる。
「恵姉はどんなケガでも治すけど、ケンカは嫌いだから」
「そうだな……」
 蒼紫の大きな手が、あやめの髪を柔らかく撫でた。その横顔に、操は何故かちくりと胸に棘の刺すような痛みを感じた。

 大いに飲み、大いに食べ、話し、笑い、そして、気が付くと随分遅い時間になっていた。薫は剣心の肩にもたれ掛かって眠っていた。弥彦と燕も肩を寄せ合って眠りに落ちた。長旅の疲れも出ていたのだろう、近江女と増髪も恵への追及を諦めて道場の隅で壁にもたれて寝息を立てている。左之助は満腹になるとごろりと酒瓶を抱えて寝転がり、左之助を叩き起こしてあやめとすずめをどうにかさせようとしていた操も、いつの間にか丸くなっていた。すずめは蒼紫の膝の上で、あやめは蒼紫の太腿を枕にすっかり夢の中だ。
 恵は、留守を預かっていた事もあるので、神谷道場の勝手はよく解っている。薄手の毛布や掛布を引っ張り出してきて、それぞれに掛けて回った。
 強くもない酒を左之助に無理に飲まされてうとうとしていた剣心は、恵に掛布を掛けられて起きようとしたのだが、恵は剣心の顔を覗き込み、「薫さんが起きてしまいますから」と囁いた。整った顔<かんばせ>が部屋のあちこちに灯された行燈に仄かに紅に染まる。ふたりの幼女の眠りを預かって身動きの取れない蒼紫は、その淡い女の姿を見るともなく見詰めていた。
 近江女と増髪に、弥彦と燕に、操に布団をかけて回り、最後に左之助の大きな身体を優しく包む。母のように温かく、少女のようにいとけないその仕草に、表情に、視線を捉われる。最後に恵は、左之助の耳元にそっと唇を寄せ、何かを囁いた。何を言ったのか、蒼紫にも聞こえない。ほんの僅かに息の漏れる音と声ともつかない声を聞いただけだ。赤い唇を耳に触れそうな程に近付けて、眠っている左之助に何を伝えたかったのか、蒼紫には見当もつかない。問う気もないが、何かが胸に引っ掛かる。
「さて……」
 左之助の肩をぽんぽんと軽く叩いてから、恵はすっと立ち上がった。
「流石にあやめちゃんとすずめちゃんはこのままにしておけないわね……」
「場所さえ解れば、連れて行けるが……?」
「そう? 助かるわ。ほら、さっき川沿いを歩いてきたでしょう? あの道をそのまま真っ直ぐ行くと、橋がふたつ掛かっているわ。ひとつは私達と合流する前に通ったわよね。そのふたつめの橋を渡って、真っ直ぐに歩くと、十字路があるから、その十字路を右に――」
 恵は言いながら、そっとすずめを蒼紫の膝から抱き上げた。蒼紫も、あやめを抱きながら立ち上がる。あやめを右腕に抱き、安定する位置を確認してから、左腕を恵に差し出す。恵は両手ですずめを支えながら、蒼紫に抱かせた。
「さっき、宴会の支度をしている途中に一度診療所に戻って、玄斎先生に貴方達がいる事を話しているから、私からこの子達を預かったと伝えてちょうだい。私はもう少し片付けてから帰るから。お願いね」
 早口で言い、恵は蒼紫の背中を押す。
「お前も帰るなら、一緒に――」
「少し遅くなりすぎたから、玄斎先生が心配しているかも知れないわ。先に行ってもらえない?」
「………………解った」
 恵のきっぱりとした口調に気圧され、蒼紫は頷くしかなかった。
 恵がそっと引き戸を引くと、涼やかな風が吹き込んで来る。僅かに振り返った恵の頬に、差し込んだ月明かりが影を落とした。



  風なら許そう 何もかも――

 低く響く女の声が、風に乗って蒼紫の耳に届いた。
 先程の説明でいうところのふたつめの橋の欄干にもたれ、恵は歌を口ずさんでいる。診療所から戻った蒼紫は、月明かりに浮かぶ恵にそっと歩み寄った。
 恵は蒼紫に気付くと、片手を振った。
「蒼紫」
 明るいようで、僅かに強張った声。
「連れて帰ってくれて、ありがとう、蒼紫。私がひとりで抱えて帰るのは難しいし、左之助はすっかり眠っていたから起こすと機嫌が悪くなって困るから、助かったわ」
「すずめが寝言でお前を呼んでいた」
「あら……」
 恵は嬉しそうに小さく微笑った。
 この笑みも、自分に向けられたものではないと蒼紫には解っている。
「その歌、よく歌っていたな」
「そうね。吉原でお世話になった姐さんに教えて頂いたの」
「夜子といったか……」
「話した事があった?」
 恵が首を傾げる、蒼紫は「いや」と呟く。恵は別段気にした様子もなく、欄干に体重を掛ける。
「“石畳には置き去りの花”か……」
 言いながら、蒼紫は足元に視線を落とし、不意に身体を折ると、橋に落ちていた花を拾い上げて恵に差し出した。
「“置き去りの花”ね。私にお似合いだわ」
 恵の口元に浮かぶ笑みに、先程のような明るさはない。
「めぐ――」
「操ちゃん、なんだか、京都で逢った時より可愛くなったみたい。何かあった?」
「何か……?」
「…………ううん、なんでもない」
 また、月が恵の青白い頬に濃い影を落とす。
 言いたい事があるならば言えば良い。蒼紫はそっと恵の肩に手を伸ばす。華奢な肩を隠してしまいそうな程闇に似た色の髪に指先が触れた時、恵はやんわりと蒼紫の胸を押した。
「私は、ひとりで帰るわ……」
「夜道をひとりで行かせるわけにはいかない」
「此処までひとりで来たし、もうすぐそこだもの。大丈夫よ。あんたは、操ちゃんの側にいてあげて。目が覚めた時、あんたがいなかったら飛び出して来るかも知れないわ」
 もしかしたら、もうすぐそこまで来ているかも知れない。ふたりでいるところを見られたら、やましい事がなくても面倒だと恵は思っているのだろう。
「気を付けて帰れ」
 気の利いた事のひとつも言えず、蒼紫は恵に背を向けた。
 恵は蒼紫が橋を降りると、また月を仰いであの歌を口ずさみ始めた。

 人の気配には気付いていた。敢えて恵には言わなかったが、操ではない別の人間が、わざわざ探しに外に出ていたらしい。どちらを探していたのかは明白だ。
 蒼紫は正面に呆然と立つ男から、敢えて視線を外して真っ直ぐに歩いた。
 相楽左之助。
 さっきまで、気持ち良さそうに眠っていたというのに、もうすっかり目は醒めていると見える。恵は、寝起きが不機嫌だと言っていたが、眉間や口元に浮かぶ機嫌の悪さは、何も寝起きだからというわけではなさそうだ。
 左之助は、殺気にも似た気配を漂わせて蒼紫を睨み付けている。しかし、蒼紫はほんの一瞥しただけで左之助の横を通り過ぎた。つかみ掛かられても軽くいなす自信があったし、つかみ掛かってくる事さえ出来ないであろう事は察していた。
 実際、左之助は「ちっ」と小さく舌打ちしただけで、黙ってそのまま立っていた。振り返り、背中に殺気を叩き付けてきた事にも気付いていたが、蒼紫は無視して立ち去った。
 左之助の足音が遠ざかる。数秒後、ふたりの声が聞こえてくる。
 意識しているわけではないが、重りがのしかかっているかのように蒼紫の足取は徐々に緩やかになり、いつしか止まってしまった。振り向けば、ふたりは何事か言い合っている。声がはっきりと聞こえるわけではないが、左之助の口調は荒く、恵は穏やかで、不機嫌な左之助を恵がなだめているかのようだった。
 あの女は、随分変わったものだ。もともと面倒見が良かったから、年下のあの男を弟のように可愛がっているのかも知れないが、あの男も随分女を気遣っている。
 ふたりは話し込んでいるようだが、気にする事もない。気にしたところで、どうにもならない。恵の言うように、操が目を覚ましたら厄介だ。道場へ戻るべきだろうと、蒼紫は再び歩を進めた。風向きが変わり、先程まで風に流れて聞こえてきた声も聞こえなくなる。道場に程近い橋の袂まで来て、もう一度だけ振り返る。大きな影が覆いかぶさるように小さな影を飲み込み、ふたつの影はぴったりとひとつに重なった。



 京都にいた頃から、砕けた態度で接しているとは思っていた。男が悪態をつけば、目を吊り上げて睨んだり、耳を引っ張って懲らしめたりするが、それも総てじゃれあっているようだった。元気がないようだと食べ物を差し出す。或いは、差し出された食べ物を躊躇いもなく男の手から口にする。幼女と四人で笑い合う様は、まるで親子のようだ。慈しむように穏やかな視線を向ける事もある。寝ている時は気を掛け、寝起きが不機嫌だという事も知っている。

 つまり、そういう事、なのか。

 四か月前よりはよく笑うようになったとは思うが、近江女達がいうように、あの男に見せる顔は違う。あどけなくすら見える。
 だが――あの男だけかといえば、そういうわけでもない。落ち着き払って澄ましているところは以前と変わらないが、以前とは違う穏やかさがある。緋村剣心にも、相楽左之助にも、あやめやすずめにも、穏やかな眼差しを向けている。
 あれが、本物の“高荷恵”なのだろうか。今まで見ていた“高荷恵”が、作り物だっただけで。幾つかの、幾つもの嘘を重ねて、阿片密造人の“高荷恵”を作り上げていた。
 心に鬼女の面をかぶせていたのは、あの女だったのだろうか。
 酒に酔ったり、眠った時だけは、面が外れていたのかも知れない。意識を手放した時だけは、重ねた唇から本物の“高荷恵”に触れていた。
 今、嘘のひとつもつかずに本来の姿を見せているのだとしたら、触れる事は叶うのか。

 振りむく事はせず、星明りの道を歩く。
 冷酷で、冷淡な、無情の男。その姿は、本物か、作り物か。



 置き去りになっている“花”の存在に誰も気付かぬまま、月は冷ややかに落ちる。

fin
気付かないのか、気付かない振りをしているのか。
誰にも触れられないもの、触れさせないものは何か。
嘘と作り物で固めたのは、あの女か、それとも――


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