みそ汁

 馬鹿正直に見えて、男達は本音を隠して生きている。
 どうしても口に出来ない言葉を、喉の奥に飲み込んで。



    みそ汁



 明治十六年六月、会津――
 この日の昼に突然会津に現れたという男は、高荷光黄に言わせれば相当の馬鹿者だ。豪放磊落を絵に描いたような男で、なんでも、五年ばかりかけて世界を一周してきたという。やってくるなり、食事をしてすぐに寝て、亥ふたつ頃に目を覚まして母と散歩をしたらしいが、亥みっつ頃には戻って来て、今はまた寝ている。
 光黄が思うに、母、高荷恵は知的で美しい女だ。ひとかたならぬ苦労人でありながら、嫌な顔ひとつせず努力してきた。医者として働きつつ、八人の孤児を女手ひとりで育てる彼女は、戦後十年を過ぎても復興しきれずにいた会津に光をもたらした。会津は、五年前とは比べると見違える程に立ち直っている。
 光黄もまた、彼女に救われた。東京から会津に捨てられた光黄は、放っておけば死んでいたであろうところを彼女に拾われ、息子として受け入れられた。母となったあの女性には感謝してもし切れないと思っているし、彼女の役に立つように生きようと心に決めている。彼女が誰より幸せになる事を望み、そのためであれば何でもするつもりだ。
 二十八にもなって母がひとりなのは、何か事情があるのだろうと光黄は察している。見目麗しく、芯の強い働き者の母は、会津に戻る前から引く手数多だったに違いない。当然、会津に戻ってからも、母を嫁にと望む男は後を絶たなかったし、噂も数々あった。それにも関わらず、身を固めるつもりがないらしい。京都から度々足を運んでは、会津や母のために力を尽くしている四乃森蒼紫なる美丈夫と似合いだと会津中で囁かれている。彼とは他の男とは違い、近しく接しているようだが、それでもこの五年、何の進展もなかった。光黄が会津に来たのは三年前だからそれ以前の事は解らないが、きっと、今と然程変わらなかっただろう。
 光黄はこう考えていた。母は誰かを待っている、と。とても大切な人で、その人と何か約束をしているのだと。
 勘が鋭い光黄は、時に人の考えが手に取るように解る。それに、虫の報せともいうべき何かの予兆に対して驚くほど敏感だ。光黄の外には誰も感じ取れないのだが、良くない事が起こる直前に、全身に悪寒が走る事があるのだという。特に、母に対しては顕著にそれが表れていた。
 会津に現れた馬鹿者は、相楽左之助というらしい。母から聞いた。先程、ふたり揃って出掛けてゆく姿も見た。髪もひげもぼさぼさで、大柄で、粗野な感じのする男だ。光黄自身は四乃森蒼紫をあまり好ましく思ってはいないが、それでも彼の方が余程似合いに見える。あの頭の悪そうな男が、母の待ち人なのだろうか。

 日付が変わる頃に、光黄は厠に立ち、兄弟と共に使う部屋に戻る途中で、左之助が休んでいる部屋の前を通った。大きないびきをかいて、気持ちよく眠っているらしい。日中、あれ程眠っていたというのに、よくもこんなに惰眠を貪る事が出来るものだと呆れてしまう。
 その部屋の中に、人の気配を察した。左之助だけではない。――母だ。
 襖の向こうに母がいる。それを感じ取った瞬間は、不愉快だった。あの男の傍に母がいるなんて、と。しかし、それはほんの僅かの間だった。襖越しに感じる母の気配が酷く穏やかで、不思議と胸が温かくなる。母の胸の内にあるものが、伝わってきているかのようだった。ほんの少し苦しくて、優しくて愛おしいような温もり。光黄が母から無条件に受け取っている慈愛が、今、あの男に向けられていると解る。右手の指先に、僅かに熱がこもる。母が、左之助に触れている。それから――。光黄は思わず手で口元を覆う。鼓動が突然に早鐘を打ち始めた。
 かと思えば、そのすぐ後に襖の向こうの空気が動き、光黄の目の前に母が現れた。光黄が手にろうそくを持っていたため、思いがけず廊下が柔らかな灯りに照らされていた事に、光黄の母である恵は驚いたようだった。
「光黄……?」
「あの……厠へ行っていて……」
「そう」
 穏やかに言い、恵はそっと光黄の髪を撫でた。その生い立ちのためか光黄は十三にしては華奢で、繊細な髪と整った顔立ちはどこか少女のようでもあった。そんな光黄の細い髪を恵は指で軽く梳きながら微笑む。
「突然、お客さんが来てしまって、ごめんなさいね」
「ううん。慣れてるから」
 大抵、蒼紫は文のひとつも寄越さずに突然訪れる。その度に、食事係の光黄は準備に追われていた。
「明日の朝は、私も一緒に支度をするわ。だから……光黄は、お米を炊いてくれるかしら。何も混ぜなくて良いから」
「な……え、なんで?」
「お願い」
 光黄の問いに答えず、恵はほんの少し困ったような表情を見せた。そんな顔をされては、黙って従わないわけにはいかない。二番目の兄の瀧尋のように、何でも疑問を口に出して母を困らせるよな事はしないが、それでも納得出来ない事に対しては少し表情に出てしまう。
「そんな顔をしないで。明日、ちゃんと話すから。お休みなさい、光黄。良い夢を見てね」
 恵はそっと光黄の背中を押して子供部屋へ促すと、自分はその足で台所へ向かった。本当は、そのまま母を追いたかったが、光黄は何より母の言い付けを破る事を嫌っている。渋々その言に従って部屋へ戻り、翌朝は普段より早く起きた。
 高荷家の長子である征太郎は、光黄より早い時間に起きて診察室の掃除を始めている。光黄は急いで布団を片付けると、早足で台所へ駆け込んだ。台所に近付く途中から、包丁でまな板を叩く音が聞こえていた。母がいる。軽く髪を纏め、ぴんと背中の伸びた後姿は凛々しくもどこか儚げだ。
「お早うございます、母さん」
「ん、お早う、光黄」
 恵は振り返り、たおやかな笑みを浮かべた。朝一番に母の笑顔を見ると、この笑顔を一生曇らせまいと決意を新たにする。そんな日々がもう三年も続いている。長兄のように歪んだ愛情ではなく、真っ直ぐに彼女の幸のために生きるのだと決めている。光黄はにこりと笑みを零した。
「もう、支度を?」
「そうなの。昨日の内にお米の用意はしてあるから、炊いてくれるかしら。私は味噌汁を作るから」
「……母さん、あの人……左之助さん……の、ために?」
「えぇ」
 迷いも躊躇いもなく、母ははっきりと答えた。
「そうよ」
「あの人は、母さんの何?」
「……………………昔の患者、かしら……」
 何、と問われ、恵は眉根を寄せて首を傾げた。本気で考えた末に出てきた言葉がそれだ。そんな馬鹿な、と光黄は思う。その光黄の表情から、訝る心情を察したのだろう。恵はくすりと肩を竦めて笑った。
「ね、おかしいわよね。昔の患者ってだけで」
 恵は視線で光黄に支度を始めるように指示を出すと、自分はまた野菜を切り始めた。
「五年前に、東京で会ったの……。私の命の恩人でもあって、弟みたいに放っておけない奴。でも、友達でも恋人でも、勿論姉弟でも単なる知り合いというわけでもなくて、近過ぎて、なのに遠くて、気が置けない…………困った奴よ」
 “奴”――母が滅多に口にしないような言い方だ。その口調から、相楽左之助という男が、どれだけ母に近しい相手なのかが解る。四乃森蒼紫への近しさとも何か違う。五年も離れていたというのに、昨日も一昨日も一緒にいたかのような温かさがある。困っていると言いながら、愛情が滲み出ている。
「あの人、なんで世界一周なんか?」
「本っ当に喧嘩っ早くて、何でも地位のある人間に喧嘩を売ったもので、海外に逃亡していたのよ」
「悪い人じゃないっ!」
「それを言うなら、会津で医者をしている私も悪い人ということになるのよ。そういう事って、あるでしょう?」
 かまどに火を焚きながら光黄が声を上げると、母は優しく諭した。そう言われると反論出来ない。医師として働くには免状が必要で、母は女であるが故に免状を取る事が出来ない。それどころか、明治政府は巧みに会津から医者を引き離し、会津が復興して西南の役のような内紛を起こさぬように操作していた。明治政府を正義とするならば、母の行いは悪である。それが、本当に会津にとっての悪であるかどうかは、言うまでもない。つまり、相楽左之助の罪というのもそういうものなのだろう。
「あいつは、こんな小さな島国には納まりきらない器の男なのよ。だから、この国を出るんだって言った時、止める気も起きなかったわ」
「東京で、別れたの?」
「ううん。私が会津に戻って一週間くらい……だったかしら。まだ全っ然落ち着いてないってのにいきなり来て、日本を出るって言うから、船を手配してやったの」
「……え?」
 ぽつりと声を零したのは、光黄ではなかった。ふたりが振り返ると、桶を提げた征太郎が立っていた。
「お早う、征太郎。どうかした?」
「や、なんでもない……。お早うございます、母さん。その……今日は天気が良くなりそうだから、先に左之助さんの服だけでも洗っておこうかと思って……」
 征太郎の手にある桶には、どうやら左之助の着ていた服が押し込まれているらしい。左之助は、昨夜、蒼紫が普段会津で着ている寝巻きで休んだ。
「そう。お願いね」
「朝食が出来たら、呼ぶから」
「…………うん」
 何を思っているのか、台所の戸口から裏庭へ出て行った征太郎の顔付きは険しかった。光黄はすれ違い様に、征太郎から嫌悪と苛立ちを感じ取った。左之助に対して、複雑な感情を抱いていると見える。しかし、それを今、母に悟らせる必要はないだろう。兄は独占欲が強く我侭だと光黄は思っている。母に対する独りよがりな情愛は、いずれ母を傷付ける。そんな兄の身勝手な怒りを母が背負う必要はないのだ。
 光黄はかまどに薪をくべながら、母を見上げて柔らかに笑んだ。
「それで、左之助さんは昨日帰ってきたの?」
「そうみたい。方向感覚が昔っからおかしくて、露西亜から新潟に着いて、東京を目指していたつもりが気が付いたら会津にいたんですって」
「なにそれ」
 わざと大袈裟に光黄は呆れて見せた。
「でも……お陰で一番に逢えた……」
 光黄に言うでもなく、息を漏らすように恵の唇が呟いた。
「ん?」
「あ、うん、なんでもないの。あいつはね、ほら、私、四月に東京へ行ったでしょう? その時に丁度、神谷道場に文を寄越していてね、帰ったら白いご飯と味噌汁が食べたいって書いていたのよ。
だから……」
 わざわざ、手ずから味噌汁を作って、稗も粟も混ぜずに米を炊いているというわけか。
 光黄は、ちくりと胸に痛みを覚えた。それは、兄が感じる苛立ちによく似ている。兄が持つ歪んだ情愛とは違うと光黄は認識しているが、どちらにしても今胸に沸き上がっているのは、相楽左之助という男への嫌悪だ。母はあの男のために、普段はしなくて良い事をする。普段、光黄がさせまいと努力している事を当たり前のようにする。
 恐らく、相楽左之助はこの後東京へ行く。ずっとここに留まりはしないだろう。それなら、東京で知り合いに白飯と味噌汁を無心すれば良いのだ。緋村剣心とも知り合いなのだろうし、彼の家で食べれば良い。緋村剣心達が行きつけだという牛鍋屋にも出入りしていたのだろうから、そこでなら美味い物が幾らでも食べられる。きっと、五年振りに帰って来た彼を大歓迎するだろう。母はそんな事は百も承知のはずだ。それなのに、母は疲れた身体を押してわざわざ早朝から台所に立つ。あの男に、そんな価値があるのか?
 見定めてやらなければ。
 母の横顔を見詰め、光黄は決意した。



「わぁ〜!!」
 朝食を居間に運ぶと、兄妹達から歓声が上がった。支度をしている途中にやって来た、恵の助手の相葉健水も、目を丸くしている。そんな様子を、左之助だけが不思議そうに眺めていた。光黄と同じ頃に目を覚まし、近所をぐるりと歩いて回ってきたという左之助の髪は、朝露に触れて湿っている。
「うわっ、久し振りに白飯見ましたよ。恵先生、何かあったんですか?」
「母さん、これ、食べて良いの!?」
「俺達の分だよね!?」
 恵より年上ながら、落ち着きない様子の健水に、光黄のすぐ下の妹にあたる紫と、すぐ上の兄にあたる瀧尋が興奮気味に続く。
「そうよ。その前に、みんなにちゃんと紹介しておくわね」
 恵はお櫃から白飯をそれぞれの茶碗に盛りながら、子供達を見回した。
「そこの大きい男の人は、母さんの昔の患者さんの相楽左之助。私が知る中では、世界で一番無鉄砲な男で、五年前に突然日本を飛び出したかと思ったら、世界を一周したらしくて、昨日日本に着いたんですって」
 くすくすと笑いながら、恵は大雑把に説明する。
「左之助、昨日も会ったと思うけど、一番大きい子が長男の征太郎」
 恵に名前を呼ばれ、征太郎は膳を並べながら左之助に軽く会釈する。
「そこでふたりの子を抱えているのが、長女の昴。昴の右手にいるのは、昨日あんたが拾ってくれた末娘の楓。左が達幸。私が会津に帰ってきて、初めて生まれた子供なのよ」
 昴と呼ばれた少女は、顔立ちは整っているものの、憮然と赤い唇を結んで、慇懃に頭を下げて見せた。楓はきゃっきゃと笑い、達幸は昴にしがみ付いて左之助をうかがっている。左之助は、ふたりの小さな子供に手を挙げて挨拶をした。
「で、昴の下が――」
「瀧尋っす! 世界一周って、本当!? どんな国回ってきたの!?」
 頬に一文字の傷を持つ快活そうな少年、次男の瀧尋は、飛び付かんばかりに左之助に駆け寄り、瞳を輝かせている。
「瀧尋か」
「やんちゃよー。あんたにちょっと似てるわ。瀧、話は後にしなさい。先にみんな紹介したいから」
「左之助さん、あの母さんの横で味噌汁よそってるのが俺の下の光黄。飯係」
 早く紹介を済ませたいらしい瀧尋は、ぞんざいに光黄を指した。
「もう……。光黄は本当に料理上手なのよ。毎日の食事は、殆ど光黄が作ってくれているの」
「でも、今日の味噌汁は母さんが作ったんだよ……」
「母さんが!?」
 瀧尋はまた興奮した様子で光黄を振り返った。
「わぁ、母さんの味噌汁食べるのも久し振り。本当に、今日は何の日なの!?」
 座ったまま光黄から味噌汁を受け取り、しげしげと眺める小柄な少年は、笑みを綻ばせた。
「嬉しい、光兄の味噌汁も美味しいけど、やっぱりお母さんのが一番好き」
「有り難う、紫。左之助に挨拶は?」
「あ、次女の紫です。私にも、外国のお話聞かせてね、左之助兄ちゃん!」
 屈託のない笑顔が満面に弾ける。明るく元気そうな少女だが、着物の裾から覗く手足や首筋は、驚くほど細い。
「あぁ、どんな話が聞きたい?」
「俺は、海外の医療について聞きたい」
 瀧尋と紫が口を開きかけた時、逸早く声を発したのは、先程味噌汁を眺めて驚いていた小柄な少年だ。
「四男の葉月。っていっても、此処に来たのは一番最後。瀧兄と一緒に、去年仲間入りしたばっかり」
「去年の七月だから、一年足らずだな。全然そんな感じしないけど」
 くすりと笑った健水は、遠慮がちに光黄から味噌汁の椀を受け取った。
「相楽左之助さん……ですか。俺は、相葉健水。高荷隆生先生の次兄の親友で、恵先生の幼馴染みで、今は先生の助手」
「……次兄……て事は、隆彦の?」
「え……?」
 “隆彦”――突然左之助の口から出た兄の名に、恵は顔を上げた。
「左之助……?」
「や……さっき町で聞いた。おめえの……家族の事とか……」
「そうなの。あんた、町の人に色々聞かれたでしょう?」
「まぁな……」
 曖昧に答えてはいるが、大方想像はつく。しかし、恵はあえて口には出さなかった。
「この八人が私の子供で、健水君はこの近くに住んでいて、殆ど毎日一緒に働いているの。散歩してきたなら解るでしょうけど、会津の町はまだまだ復興途上で、貧しくてね……。だから、白いご飯はそうしょっちゅう炊いてないのよ」
「って……もしかして、俺が文に書いたから、用意したってのか!?」
「私だって、偶には……たまーに、だけど、子供達にちょっとだけ贅沢させてあげたくなる時があるのよ。それに、いつも食事の支度は光黄に任せ切りだけど、偶には母親として味噌汁のひとつも作ってあげたいと思う事もあるの。今日はそういう日なのよ」
 つんと澄まして見せる母の頬が、ひとはけ朱に染まる。光黄は眼を瞬かせた。なんて嘘のつき方をするのだろう、母は。こんな母を見た事はない。いつも穏やかで落ち着いている母が、まるで意地っ張りの少女のようにさえ見える。少し、姉の昴に似ているように思われた。
「相っ変わらずだな」
 左之助がくっくっと笑い、「このはねっかえり」と呟く。
 全員の膳に食事が揃うと、一同手を合わせてから箸を取った。
 白飯、恵の作った味噌汁、青菜のお浸し、それに、鰆の粕漬けがひと切れ。これは、光黄が漬け込んで取って置きの日に出すと決めていた物だ。母に言われて渋々切り分けた。本当は、左之助に食べさせるようなものではない。けれど、母はこれを彼の帰国を祝う“取って置き”として出した。母は、彼を昔の患者だという。昔の患者というだけで、ここまでするわけがない。“弟”のように気の置けない“命の恩人”。つまり、母にとってとても大切な人というわけだ。
 こんなに母に色々させておいて、それをさも当然という顔をして受け入れているこの男は、どれだけの贅沢者なのだろう。
「左之助さん、いつまでいるの? 色んな話、聞かせてくれよ」
 久々の白飯を惜しむように噛み締めながら、次男の瀧尋は瞳を輝かせた。
「あー、そうだな。東京にも行かなきゃだけど――」
「東京、早く行きなさいよ」
 言いかけた左之助の言葉を断ち切るように、口を開いたのは恵だった。
「剣――緋村さんもきっと待っているし、薫さんも弥彦君も、あんたに逢いたがってたわ。後でご飯、おにぎりにしてあげるから、それ持って東京に行きなさい」
「えーっ、母さん、一日だけ! 私も左之助さんの話聞きたいの!」
 紫も懇願する。好奇心の強いふたりは、左之助が外国から帰ってきたというだけで、すっかりお気に入りだ。恵は紫に、小さく首を振って見せる。
 左之助は、右目を眇めて恵を見詰めた。確か、左之助が日本を発つ頃、恵は剣心を「剣さん」と呼んでいた筈だ。それを、「緋村さん」と言い直した。この五年、何があったのかは解らないが、四乃森蒼紫が出入りしている事といい、恋い慕っていた剣心を他人行儀に呼んでいる事といい、五年前とは随分状況が違うらしい。子供達に、何かを隠しているのだろうか。だから、五年前の事しか知らない自分を引き離したいのだろうか、と、左之助は推察する。実際、先程町を散歩し、町の人と話す中で、蒼紫の話を何度か耳にした。蒼紫がいるのだから、恵先生に近付かないで欲しいだとか、蒼紫が五年も態度をはっきりさせないのが許せない、他の男が恵先生を支えるべきだ、とか。左之助が知る限り、巻町操という娘が、蒼紫を一途に想い続け、京都で一緒に暮らしているはずだ。操は、どうした? 蒼紫は操の事を隠して会津に来ているのか? だから、恵は操の話を出しそうな自分を東京へ行かせたいのか? 考えても解らないが、取り敢えず蒼紫や操の事には触れずにい
た方が良いだろ。それはそうとして、
「つか、握り飯なんざいらねーよ」
 呆れたように左之助は言ってのけ、鰆の粕漬けを口に放り込む。
「ん、これ、うめーな」
「それは、光黄が作ったのよ。って、あんた、東京に着くまでにお腹がすくでしょう。お金もどうせ持ってないんでしょうし――」
「東京には、まだ行かねぇ。それに、白飯は俺なんかじゃなく、全部こいつらに食わせてやれよ。偶にしか食えねーんだろ。俺が食って良い分なんて、あって精々茶碗一杯だろ」
「あんた……」
 ぽかんと左之助を見詰める恵に、左之助はにやりと笑った。
「昨日、久々に逢った時から……おめぇがどんだけこいつらを大事にしてるか、感じてる。あと、此処でどんだけ力を尽くしてきたかもな。昔から逞しい女だとは思ってたけど、こうまでとは恐れ入ったぜ。おめぇは、俺の事を気にするこたぁねぇんだよ。飯は、適当に自分で調達するから、暫く屋根を貸してくれねぇか? おめぇが頑張ってきたこの会津で、ちっとなんかの役に立つ事をしてぇし、おめぇの大事な子供らに、俺の見てきたものの話をしてやりてぇ」
「暫く、此処にいるの?」
 葉月が落ち着いた声音で問う。
「おめぇらの母ちゃんが嫌がんなきゃな」
「僕はお断りだ。あんたのような粗野な男、母さんの傍に近寄らせるわけにはいかないよ」
 征太郎は、強い口調で左之助を拒絶した。
「そうね、母さんは優しいから迷惑をしていても口にしないかも知れないけど、私もあんまりいて欲しくないわ。それに、食べるものは自分で調達するって、町の人に物乞いでもするつもり? そんな事、絶対やめてよね。母さんが困るんだから」
「いや、そこらで山菜でも採るし、この時期なら猪もとれんだろ」
「猪、ひとりで獲れんの!?」
 瀧尋が興奮した様子で立ち上がった。瀧、と健水が静かに諌める。
「征太郎と昴は反対、瀧尋と紫は賛成、達幸と楓は……まだ解らないわよね。葉月は?」
「俺は……どちらとも言えないなぁ。本当は反対したいけど、正直、世界の話には興味ある」
「だろ、やっぱり俺の弟だよな!」
 瀧尋は勝ち誇ったように右手を握り締める。「でも、反対もしてるから、俺は数に入れないで」と、葉月は付け加える。そうなると、左之助の運命を左右するのは、あとひとり。全員の視線が、光黄に向けられた。征太郎と昴は肩を撫で下ろす。光黄も落ち着いていて理知的な少年で、きっと粗野で乱暴そうな左之助の事は嫌いに違いない。左之助は、東京へ向かう事になるのだ。
「僕は……いてもらって良いよ。母さんの大切な人を追い出すなんて、そんな事はしたくない。でも、母さんに迷惑を掛けるなら、容赦なく追い出す」
 「やった!」紫が声をあげて手を叩いた。
「冗談でしょう、光黄。こんな頭の悪そうな男!」
「昴! 頭が悪いのは確かだけど、そういう言い方はしないの」
「おめぇなぁ……」
 庇っているのかけなしているのか解らないような恵の言葉に、当の頭の悪い男は苦笑するしかない。
「緋村さんには手紙を書きなさい。あと、昴の言うように、食事の事とかで町の人には絶対に迷惑を掛けないで。うちはまだ恵まれている方なの」
「あぁ、約束する」
 はっきりと答えた左之助に、恵は満面の笑みを向けた。
 その瞬間、健水が恵から目を反らした事に、健水の隣りにいた昴と、恵の隣りにいた光黄だけが気付いた。光黄は思わず笑い出しそうになり、口元を押さえる。
 相葉健水という男の初恋の相手が母である事を光黄は知っている。戊辰戦争の前、家族と共に暮らしていた母は、何不自由なく生活していただろう。きっと、ふたりの兄に可愛がられて、屈託なく笑う素直で明るく真面目で勤勉な少女だったのだろうと想像している。それは、健水の口振りからも間違いないと思っている。今の母は、勤勉で真面目ではあるが、少女ではないからという理由だけでなく、維新後十数年をひとりで苦労に苦労を重ねながら生きてきた事もあり、“屈託なく”などとはとても言えず落ち着いている。一途に医者として働いているが、蒼紫との関係を見ていると、どこか屈折しているようにも見える。根暗ではないけれど、決して心底明るい性格でもない。どちらかというと、明るく振舞っている節がある。医者として笑顔を絶やさぬようにしようという心構えからだろう。働き者で優しく、誰に対しても平等で穏やかで、とても好感の持てる女性ではあるけれど、人には見せない影もある。健水は、そうした母を見て、「見違えるように美しくなったけれど……」と言葉を濁した事がある。しかし、時折少女の頃を思わせるような仕草や口調が零れた時、“初恋の恵ちゃん”の影を見付けて頬を紅潮させる。その様が、光黄にはとても微笑ましく、少しだけ滑稽に見えていた。そんな健水の反応を見逃さない姉に対しても。

 朝食を済ませると、恵と健水はそれぞれ鞄を持って出掛けた。診療所を構えてはいるが、往診に出ている事も多い。それでも、五年前に比べれば随分落ち着いた方だ。三日に一度はどちらかは診療所にいる。左之助にそんな話をすると、左之助は驚いた様子を見せつつも納得しているようだった。左之助の知る五年前の東京にいた頃の“高荷恵”も、働き者で町の人から信頼されていた。
 朝食に炊いた白飯で小さな握り飯を作りながら、相楽左之助という男の事を考えていた。
 見るからに粗野で荒っぽくて、母の言う通り、きっと喧嘩っ早くて問題ばかり起こしていた男に違いない。しかし、自分なりの正義というものを持っているようで、それを貫いて世界へ飛び出したのだろう。聞くところによると、赤報隊――それがどういった組織かは知らないが、健水が言うには、新政府に騙されて賊軍の汚名を着せられたらしい――に参加していた過去があり、明治政府とは異なる正義の証として、自ら“悪”の一文字を背負っているという。それは、会津戦争に敗北して明治という時代の中で後ろ指を差されながらも懸命に生き抜き、未だに政府から手を差し伸べられずにいる会津で医者として働く母に似ている。
 それに、母が彼を大切に思っているように、彼も母の事を大切に思っているようだ。
「光黄……つったか?」
 背中に、今し方考えていた男の声がぶつかり、光黄は振り返る。
「でかい鍋あるか?」
「……鍋?」
「美味い朝飯の礼に、山でなんか獲って来る。猪か鹿かなんかいるだろ」
「いるだろうけど……本当にひとりで獲りに行くつもり?」
 光黄は声を上げた。まさか、本当にそんな事が出来ると思っているのか、この男は。いつも、町の男達が弓や仕掛けで苦労して捕まえているというのに、「散歩に行ってくる」というくらい軽く出掛けていこうとしている。それも、手ぶらで、だ。
「あぁ……まぁ、俺ひとりで十分だけど、瀧尋も一緒に行くっつってる。あと、なんとか団って、瀧尋が世話になってた山賊にも声掛けるって」
「正蓮団か……でも……」
「危険な事はさせねぇよ。あいつが悲しむような事は絶対させない」
「…………」
 まるで心を見透かされたようで、光黄は唇を結んだ。人の心を見透かす事は自分の十八番だと思っていたのに、こんな無粋な男にしてやられるなんて。しかも、無意識に、無自覚に。
「捕まえてきたら、さばけるか?」
「は……猪を? やった事ないけど……」
「料理は出来んだろ。一番でかい鍋用意して、広場で炊き出ししようぜ」
 炊き出しは偶にするから、町長の家に行けば大鍋がある。光黄がそれを伝えると、左之助は大きく頷いた。
「よっしゃ。じゃぁ、行ってくるか」
「ま……待って!」
 大きく伸びをした左之助を、光黄は慌てて止める。急いで手を洗い、前掛けで拭いながら、左之助に駆け寄った。
「貴方は母さんの大切な人だと解ってる。母さんの命の恩人だって聞いた。母さんの恩人であるなら、僕にとっても恩人だ。母さんは恩人だから貴方をもてなそうとしている……のかなって、思ったんだけど、そうでもないみたいで、貴方が母さんにとってなんなのか、解らない。いつもなら、母さんの事なら何でも解るのに、今はよく解らない。今朝は、母さんがなんだか嬉しそうにしてたから、朝食の支度を一緒にしたけど、いつもは絶対にさせない。母さんは毎日毎日毎日毎日朝から晩まで働いて、本当はくたくたなんだ。だから、僕は僕に出来る事はなんでもやる。母さんを少しでも休ませたい。母さんは、僕を息子にする時、一緒に幸せになろうと言ってくれた。母さんが幸せじゃないなんて、僕にとっては幸せじゃないから、絶対辛い思いなんかさせたくないし、無理もさせたくない。貴方が此処にいることで母さんが今より無理をするような事があるなら……すぐに出て行って欲しいと僕は言う。母さんが引き止めても僕は貴方を追い出す。そのつもりでいて」
 早口で言い捨てた光黄の瞳に、うっすらと涙が浮かんだ。唇が震えている。
 左之助は真剣な眼差しで光黄を見詰め、深く息を吸った後に、その大きな手を光黄に差し出した。
「約束する。光黄、お前の母ちゃんに無理をさせたり、苦しませたり、悲しませたり、そんな事は絶対にしない。お前は心配せず、母ちゃんの事を考えてやってくれ。お前の母ちゃん……恵は、それを嬉しいと思ってるはずだ」
 光黄はおずおずとその手を握り返した。不意に、一筋涙が零れ落ちた。
「お前はカッコいいな、光黄。流石、恵の息子だ」
 左之助は光黄の手を握ったまま、もう片方の手で光黄の髪を撫でる。その温もりに、胸が締め付けられた。昨晩、母が同じようにしてくれた。それが嬉しくて、胸が潰れそうになった。今、彼の手に頭を撫でられて、母がしてくれたよりずっと喜んでいる自分の感情に気付いてしまった。
 彼は――――



 昼時の広場は大賑わいだった。
 町の人々は、それぞれの家から椀を片手に飛び出し、大きな鍋を囲んだ。町長の家に置かれていた大きな鍋だけでは足りず、近所の家々から各家で一番大きな鍋を持ち出し、石を積んで作った簡易な竃に火を焚いて猪肉や鹿肉を煮た。焼くよりも煮た方が大人数に行き渡るだろうと考えての事だった。
 一緒に狩りに出ていた瀧尋が言うには、左之助は山に入るなり、獣のいる方向を察して足音を忍ばせて山を駆け上がり、半時程で大きな猪一頭と、鹿を二頭ひとりで捕らえたのだという。その後、瀧尋や一緒にいた自称山賊の正蓮団の少年達に、獣のさばき方を教えた。その肉を使って、光黄や数名の女性に頼んで味噌仕立ての鍋料理を作らせた。
「うめーっ! 左之助さん、これ、すげー美味い!」
「浦正達にも残しといてやれよ。頑張ってくれたからな」
 正蓮団の青原浦正や橙野蓮次達は今、広場から離れた場所に住んでいたり働いている人達に声を掛けて回っている。以前は目の敵にされていた正蓮団が町の人達に受け入れられたのも恵の尽力の賜物だと聞き、左之助は舌を巻いた。
 光黄は朝食の後に作っていた握り飯と、玄米の握り飯を作って広場に征太郎や葉月と共に運んだ。昴と紫は達幸と楓の世話をしつつ、子供達にしし鍋を配って回った。
 恵や健水も、出先で浦正や蓮次に呼ばれて広間へ向かった。ふたりはそれぞれ、正蓮団に、寝たきりや家から出られない人達に食べ物を持って行くように指示し、浦正達はそれに従った。
 広場の賑わいに驚きつつも、恵と健水は、その日回る予定だった家の人々を見付けては診療を行い、近日中に回る事になっている家の人々に薬を渡したり、診察をした。
「左之助さん、あんた、力ありそうだな。あっちに家建てるんで、会津にいる間だけで良いから手伝ってくんねーか?」
 老練な大工の棟梁が、左之助に声を掛ける。
「おう、勿論だ。明日から手伝うな」
「頼むよ」
 五年前、東京にいた頃の左之助は、よく舎弟に囲まれていた。兄貴肌で誰からも好かれる明朗快活な人柄は健在のようで、すっかり会津の人々に受け入れられている。それは素晴らしい気質なのだが、恵はほんの少し、そんな左之助に嫉妬もしていた。自分は、会津で医聖と呼ばれて人々のために働いた高荷隆生の忘れ形見だ。しかし、医者の手が足りないと会津に帰ってみれば、恵を待っていたのは反発の嵐だった。勿論、恵を歓迎してくれた人も大勢いたが、恵が明治政府の間者だとか、明治政府の指示を受けて会津に毒を撒きに来たのだと実しやかに囁かれ、随分苦労をした。受け入れられるまでに、罵声を浴びせられる事もあれば、殴られる事もあった。その度に、息子になったばかりの征太郎を泣かせもした。それなのに左之助は、あっという間に町の人を笑顔にした。後ろ暗い事を隠している自分とは違うのだろうかと、恵は考えてしまう。
「左之助さんは、普通じゃないんだと思う……」
 左之助の横顔を眩しそうに眺めていた恵に、ぽつりと声を掛けたのは光黄だった。光黄は母親を僅かに下から見上げ、小さく微笑む。
「左之助さんは、ちょっと特別な人なんだ。あの人の温かさとか、心根の真っ直ぐさとかを近くで感じると、なんだか自分が凄くちっぽけで、つまらない人間に思えてくる。でも……あんな人が傍にいたら、良いなって……思っちゃった」
 光黄は溜息を零すように呟く。
「光黄……」
 敏感な息子は、彼を手助けする内に、その懐の大きさに心を許してしまったらしい。光黄はその生い立ち故、人に対して厳しく、人の心を探るようなところがある。実際、どういうわけか探れてしまうから、人の心の闇に踏み込んでしまう事もあり、疑心暗鬼になりがちだ。しかし、左之助はどこまでも一本気で過ぎるほどに真っ直ぐな男だ。闇さえも自力で吹き飛ばす男に踏み入って、その天性の明るさに触れてしまったのだろう。いつになく気弱で素直な息子に愛おしさを覚え、恵はそっとその肩を抱き寄せた。

 一方で征太郎は、そんな左之助の明るさに不信感を抱いていた。
 早朝に母と光黄の話を聞いてしまった。母が会津に戻って一週間程して、左之助が来たという話。それがずっと気に掛かっていた。征太郎は、左之助がひとりになった隙を見計らって、広場の隅へ呼んだ。
「どうした、征太郎?」
「聞きたい事がある。東京を発つ時、母さんが手引きをしたって聞いたんだけど?」
「あぁ……亜米利加行きの商船を紹介してもらってな」
「会津に来たの?」
 鋭い眼差しで左之助を睨め付けながら、征太郎は普段より低い声で問う。剥き出しの敵意の意図は掴めなかったが、左之助は別段気にする様子もなく頷いた。
「そうだ。つっても、夜中に訪ねて……夜明け前には出たけどな」
 やはり、と征太郎はひとりごちる。
「なんで、母さんを泣かせた?」
「…………は?」
 左之助が眉を寄せて硬直した時、広場の隅のぴりりとした空気を感じ取った光黄は、微笑んで母の手を擦り抜け、彼らの傍へ駆けた。
「……泣かせた? 恵を?」
「母さんが会津に戻って来て一週間くらいして……朝早い時間に診療所に行ったら――その頃は、まだ母さんと暮らしてなかったんだけど――、母さんはひとりで泣いてたんだ。静かに涙を流してぼんやりしてて……五年経った今でも、その時の事が忘れられない。あんたが、母さんを泣かせた張本人なんだろ?」
 左之助は、思わず眼前の少年の母親を広場に探す。長い髪を風になびかせ、その女は町の人に笑いかけていた。あの女が泣く姿を見た事がない。恋を諦めた時でさえ、昏い眼をして俯きはしても泣きはしなかった。そう容易く泣く女ではない。ましてや、自分のために。
「母さんを泣かせる奴を、僕は許さない。僕はあんたを許さない」
 きっぱりと言い切り、征太郎はその場を後にした。
 兄の言葉に、光黄は息を飲んだ。兄から聞いた事がある。明け方に泣いていた母の話。誰かを思っていたのだろうかと、そんな話をした。それがもし、旅立つ左之助を思っていたのだとしたら。当然、日本を離れては診る事が出来ず、案じる思いはあるだろう。だが、それだけでないとしたら。
 もしかしたら――――

 だとしたら、彼は――――





 恵の細く白い手が、左之助の右手の包帯を解く。月明かりが、ふたりの肌を薄く縁取っていた。
「悪いわね、外で……」
 縁側で向かい合い、恵は視線を落としたまま呟いた。
 賑やかな昼食の後、鍋の中の残り物は幾つかの家で平等に分け、残った肉も分け合った。恵と健水は久々に早い時間に家路に着き、恵は葉月と薬を煎じたり、帳面をつけたりして普段早い時間には出来ない仕事をこなした。左之助はその間、達幸と楓をあやしつつ、瀧尋や紫に世界の話を聞かせた。
 そして、夜が更けて子供達がそれぞれに床につくと、恵は左之助を縁側に呼んだ。治療半ばで亜米利加へと発った左之助の右手が気になったのだ。見た限りでは問題なく使えているようだが、五年経った今でも包帯を巻いている事が少し気に掛かった。念のため診ておこうと思いつつも、貧しい暮らしの中で、あまり夜半に灯りをつける事をしないようになり、月明かりに頼ろうと思ったのだ。今夜は殆ど円形に近い月は明るく、星もその灯りを助けている。
「いや、最後に別れたのも、此処だったな……」
「そうね」
 征太郎の話では、此処から発った後に恵は泣いたという。左之助には俄かに信じられなかったが、敢えてそれを問う事もしなかった。
「ふぅん……手、綺麗になってるじゃない。もう包帯もいらないわね」
「だろうな。欧羅巴で逢った医者が馬鹿みてーに懇切丁寧に診てくれたが、問題ないっつってた。日本に、これだけ縫合と骨接ぎの出来る医者がいるのかって吃驚してやがったぜ」
「だったら、なんでわざわざ包帯してるのよ? その医者、もう包帯は要らないって言わなかった?」
「言ったけど……俺の主治医はおめぇだろ? おめぇが良いっつーまで外せねぇよ」
 医学は欧州の方が間違いなく進んでいる。こんな小さな国の小さな郷でろくに勉強も出来ない自分の知識などたかが知れていると恵は思っている。左之助が、その医者の方が優れていると気付いたかどうかは解らないが、医者として信頼されていると知って悪い気はしない。恵は小さく「馬鹿」と呟いた。
「元気だったか?」
「風邪を引いている暇もないわ」
「五年で八人も子供が出来たんじゃ、そうだろうな……」
「あんたは? 向こうで待っている女性<ひと>はいないの?」
 淡々とした会話に、相変わらずの強がりが滲み、左之助は苦笑した。
「日本で別れた女の事が気になってたからな……」
「え……?」
 そんな女がいたのか、彼にも。確かに、男盛りの十九で出て行ったのだから、そういった相手のひとりやふたりいても可笑しくないが……などと考え始め、恵はふと気付く。そのひとりやふたりの女の中に、自分が含まれてやしないかと。或いはそれがひとりだとして、自分だったりしないかと。
「恵」
 柔らかに呼ばれ、恵は俯いたまま左之助の着物の胸元に手を差し込み、肩からずらした。
「おいっ……」
「ちょっと脱ぎなさい。他も診てあげるから」
 恵は胸の早鐘を聞きながら、静かに息を深く吸い込む。もう、診察でもしていない事には落ち着かない。常人であれば男の着物を脱がせる方が落ち着かない心持ちになるところなのだろうけれど、恵は人の皮膚やその下の内臓の様子を探る方が気が休まるのだ。
「恵……」
「なぁに?」
「…………いや」
「何よ」
 きっと、苦しんでいたに違いない。
 きっと、辛かったに違いない。
 きっと、一筋縄でいかない事ばかりだったに違いない。
 五年間、遠く離れた外国を流浪する旅の中で、この眼前の女が笑顔でいる事を願っていた。別れたその日、この女は、帰国した時にもしもまだひとりだったら、と言った。もしも身を固めていなかったら嫁にするという約束だと左之助は信じていた。恐らく、その時はそんな意味合いで口にしたのだろうが、実際五年経ってこの独り身の女を前にしたところで、今すぐ嫁に貰ってやろうなどと、そんな気にはとてもなれない。
 自分より遥かに苦労し、戦ってきた女。
 意地っ張りの長男、気の強そうな長女、活発過ぎる次男、疑り深い三男、細過ぎる次女、足を引き摺っている四男、気弱な五男に、腕白な末娘、八人の子供をひとりで抱えて、こんなにも痩せた女に、かける言葉が見付からない。「頑張ったな」「お疲れさん」……傍から見れば五年間外国で遊んできただけの自分が、そんな風に上から物を言えるはずがない。
 丁寧に皮膚越しに骨や筋肉の様子を観察する女の額で揺れる髪の下に、赤黒い傷が覗く。
 細く、白く、傷付いたこの女に掛ける言葉を見付け出す事も出来ず、左之助の迷った手は、そっと女の後頭部に触れた。
 大きな手の、その温もりに、女の胸が疼く。
「後ろ向きなさい」
 強い口調で言うその声が震えている。
 逞しい背中は、五年前より大きくなっている。それが、恵には解る。
「喧嘩したの?」
「あぁ……」
「世界は、広かった?」
「あぁ……」
「楽しかった?」
「あぁ……」
「きっと、知らない国の食べ物は珍しいんでしょうね」
「あぁ……」
「美味しかった?」
「あぁ……」
「そう」
「でも……」
 間を持たせようと震える声で次々に質問を重ねる恵に静かに答えながら、左之助は背中に触れる指の感覚に懐かしさを感じていた。
 味噌汁が食べたいと文に書いた。それだけで、疲れた身体を押してわざわざ作ってくれた。東京の友が、きっと料理を作るだろう事を解っていながら。そう、この女は知っているのだ。恐らく、 五年前から。口に出せない本音など、とうの昔から。

――毎日食べたいと思えるのは、おめぇの味噌汁くらいだ。

 月明かりに浮かぶ背中に刻まれた幾つもの傷。脇腹の銃創。肩の火傷。喧嘩だけではない。きっと、それだけではない。海の向こうの国々総てが平和だなんて、とても思えない。医学が日本より優れているように、日本が優れた兵器を輸入しているように、世界では日本より血なまぐさい戦を繰り広げている国々があるはずだ。そんな国をいくつも越えて来たはずだ。流浪人のように放浪しながら、この逞しい背中は幾人もの人を守り、救った事だろう。これだけ沢山の傷を受けて、彼は此処まで帰って来た。
「馬鹿」
「っせー」
「馬鹿」
 堪えきれず、背中に額を押し付ける。大きな切り傷に、額の傷が重なる。
「馬鹿」
 温かい。彼の背中は、こんなにも温かい。
「馬鹿」
 生きている。彼は、生きて此処にいる。
「馬鹿」
 生きて、そして、此処へ帰って来た。
 帰って来てくれた。



「おかえりなさい……」



 絞り出した声は、確かに濡れていた。


五年の月日を今更に感じる。
五年間、遠い地で乗り越えてきた苦難をそれぞれに感じてしまうから、言えない。
胸の内に隠した本当の言葉。



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