瑠璃色の君

 瑠璃色の花を思う。
 この身体に宿る温もりを愛す。



    瑠璃色の君



 嘉永六年一月、会津――
 陰鬱な空から、ちらちらと雪が舞い、城下町が真っ白に染まってゆく様を、ひとりの少女が城の一室からぼんやりと眺めていた。
 鶴ヶ城とも呼ばれ、白亜の美しさを誇る会津の城は、会津の象徴として人々に愛されている。少女もまた、この城を、そして自身の生まれ育った会津を愛していた。
 風が吹くと、少女の唇から零れる吐息が遠く南へ棚引いて消えてゆく。窓に寄り掛かってそっと目を閉じると、脳裏に穏やかな像が浮かんだ。温かく、幸福な夢。
 どのくらいそうしていただろうか。すらりと襖が開かれた。
「あら、おふゆ様、そんな所で眠っていては、風邪を召されますよ」
 優しく声を掛けたのは、ふゆと呼ばれた少女より、四つ、五つ年上の女だった。丁寧に結い上げた黒髪に、凛とした目鼻立ちの映える女は、ふゆの肩にそっと手を置く。
「おふゆ様」
「ん……うーん……」
 ふゆはいやいやと小さく首を振りながら、ゆっくりと眼を開いた。ぼやけていた視界が明瞭になると、女の黒い瞳の中に、寝ぼけた自身の姿が映っていた。
「清加様……」
「こんな寒いところにいるのなら、せめてもう少し温かい恰好をして下さい。また春日様に叱られますよ」
「は、はい、ごめんなさい……」
 寝ぼけていた頭が働き出したようで、ふゆは慌てて居住まいを正した。
 春日は、城に仕える女中頭だ。若い頃から藩主の家系に忠義を尽くしており、今は特に子女の振る舞いや行いに目を光らせている。大人しく引っ込み思案ながら、そそっかしいふゆに対して、春日は特に厳しい。
「私のような者にまで、清加様はお優しいですね」
「おふゆ様……」
「ふゆで結構です。いえ……ふゆと呼んで下さい、清加様。せめて、ふたりでいる時は」
 ふゆは立ち上がろうとしたが、足指が悴んだのか、力が入らず身体が傾いた。ふゆが姉様と呼ぶ女は、慌ててふゆに駆け寄り、肩を引き寄せる。
「ふゆ。慌てないで。落ち着いて。貴方ひとりの身体ではないのよ」
 ふゆが転ばぬように身体を支えた清加という女の口調は、焦ったためか、やや厳しかった。ふゆは表情を曇らせた。
「……私も、清加様みたいになりたいのに……」
「ふゆ……」
 清加は、優しくふゆを抱き寄せてゆっくりと座らせた。
 清加は、姓を高荷という。年は十九。会津藩御殿医のひとり、高荷隆生の妻である。高荷家は代々会津藩で御殿医を担う医者の家系で、清加も高荷家と交流のある会津藩の高位な医者の娘だ。母親は産婆であり、清加自身も幼い頃から母について産婆の仕事を見知っていたため、若くして会津藩お抱えの産婆となっていた。会津藩主や家臣の家で出産のある時は、清加が世話をする。
 ふゆは、大きく膨らんだ腹にそっと手を当てた。もう、いつ産まれてもおかしくない。
「清加様、お産は怖くありませんでしたか?」
 か細い声でふゆが問う。
「いいえ、嬉しかったですよ。私は、幼い頃から旦那様に憧れていましたから、旦那様の子を産めるのだと思うと、それだけで胸が踊りました。隆明は、立派なお医者様になるでしょうし、楽しみです」
 清加は笑みをこぼした。
 三ヶ月前、清加は男の子を出産した。隆生は高荷家の長男であり、唯一の男子だ。彼の家に男子が産まれたとあって、高荷家は今、幸福の最中にある。しかし、清加は二、三日に一度、隆明を姑に預けて城や家老の邸宅に赴き、妊婦の様子を確認している。現在、会津の藩主や家臣に近しい家柄の中には四人の妊婦がおり、その中で最も出産が近いのがふゆだった。
 ふゆは、藩主の遠縁の四乃森家に一年前に嫁いだ。十四の頃だった。四乃森家は、代々産まれた子供の多くを隠密江戸城御庭番衆に差し出す事を定められている。隠密江戸城御庭番衆とは、江戸城を影から守護する事を目的とした戦闘集団で、その半数は、産まれて間もなく御庭番衆に引き取られ、幼少の頃から修練を積んでいる。赤子の殆どは、四乃森家のような、代々長子以外を御庭番衆に預ける事を幕府から命じられた家系の子供だ。男も女も関係なく御庭番衆の一員となるべく過酷な修行を受ける事になる。
「私の子供は、御庭番としてお江戸のために働くのですね……」
 産まれる前から、人と違う人生を決定された子供。ふゆの表情は虚ろだった。
 ふゆにとって、産まれてくる赤ん坊は第一子だが、四乃森家の長子にはあたらない。ふゆの夫の紫弦<しづる>の上には姉がおり、婿を迎えて四乃森家を継いでいる。今、八つになる男子もいるため、次代はこの子供が継ぐ事になっている。その下の、生きていれば六つになっていたであろう長女は、訓練に耐えられず命を落とし、小さな骨となって会津に戻ってきた。
 紫弦は、御庭番衆で密偵型を務めていた。御庭番衆には“型”と呼ばれる幾つかの職務があり、密偵型はその中でも特に憧れられ、誰もが一度は目指す職だ。諜報活動を主な任務とし、高い身体能力と戦闘能力に加え、変装や様々な技術を要する。紫弦は、密偵型の中でも優れた能力を持ち、江戸の防衛に貢献していた。端正な顔立ちも相まって、男女問わず人気もあったのだが、ある任務の最中に左目と左足を負傷し、御庭番衆として任務に就く事が困難になったため、鶴ヶ城の防衛と、新たな御庭番を産ませる事を目的として会津に戻らされた。
 ふゆは、会津藩家老の妾腹として生まれたが、様々な事情から女中として城に出入りしていた。不器用だが働き者で、朗らかな人柄は城の者から好まれていた。特に、次期藩主である松平容保はふゆを痛く気に入り、目をかけていた。近しい者にはふゆを嫁にする意志も口にしていたというが、そこへ紫弦が江戸から戻り、間もなくふゆとの縁談が決まって夫婦となった。容保を一女中と婚姻させないために、急遽決められた事だった。容保からしてみれば皮肉な事に、紫弦は容保の護衛として城に住む事となり、ふゆは顔も知らない男に嫁ぐ上に、江戸城御庭番衆のために子供を産む事まで命じられた。
「ふゆ……」
「沢山子供を産めば、旦那様も喜ばれるかしら……」
 溜め息をこぼすように、ふゆは呟いた。
 紫弦が自分の事を気にも掛けていない事をふゆは知っている。その証拠に、紫弦はふゆが身籠もってからというもの、度々城を抜け出している。外に女を囲い、子供を産ませようとしていると専らの噂だ。清加はそれを信じていなかったが、ふゆはそうではないようで、虚ろな顔付きで俯いた。
「紫弦様は、余り人と関わる事を好まれる方ではないし、表情も解りづらいけれど、きっとふゆの事を考えてるわ」
「いいえ……私なんか、旦那様には吊り合わない事は解ってます。だからせめて、旦那様に喜ばれるような子供を産みたいです」
 普通ならそれは、元気な男の子だろう。だが、四乃森家においては、有能な御庭番になれる人材。そんな事は産まれたばかりでは解らないから、数を産むしかない。双子が産まれれば、喜ばれるようなものなのだろうか。しかし、今回の妊娠は双子ではない。
 清加は、元気な子供が産まれてくればそれで良いと思っているが、とうの母親がそうではないのは、悲しいとしかいいようがない。
「ふゆ、しっかりしなさい。お母さんがそんな風では、子供は元気に産まれてこないわ」
「はい……」
 健康な子供が産まれれば、御庭番で活躍する事もあるかも知れない。それは、少しはふゆの支えになるだろう。清加は、優しく肩を抱きながら囁いた。



 翌朝早く、漸く朝日の差したばかりの薄暗い雪の道を、清加は息子の隆明を抱いて歩いていた。ふゆの事を思うと落ち着かず、城へ向かおうと思ったのだ。
 人気の殆どない道を、白い息を吐きながら清加は歩き続けた。分厚い布団で包んだ息子が少し重く感じられたが、それもあまり気にしなかった。思いはただ、ふゆの事ばかりだ。
 少し俯き加減で歩いていた清加は、人の気配に、ふと顔を上げ、振り返った。背の高い細身の男が、分厚い外套を翻し、こちらに歩いてくる。その姿に、見覚えがあった。
「紫弦様!」
 清加は思わず声を上げた。呼ばれた男は、清加に向かって歩を早める。
「高荷の……清加様ですか。こんな時間に、何故こんな所に……」
 紫弦は訝しげに目を細めながら、清加の肩に自らが羽織っていた外套を掛ける。間近で見れば、遠めに見ているよりも成程美丈夫だ。ずっと、無口で無愛想で冷たい男だと思っていたが、覗き込んだ漆黒の瞳は澄み切って、何より、こんな風に女を気遣える程に優しい。
「これからお城に……ふゆ様のところへ行こうと思っていたのです」
「ふゆに……。そう、ですか。ふゆに良くして下さっているのですね」
「妹のように可愛いですしね。何より……どうにも可哀想で。旦那様に冷たくされているようで」
 清加は思い切って、そう口にした。上目で紫弦を睨むと、表情の解り辛い紫弦の面に、明らかな驚きが見えた。気付いていないとでも思っていたのだろうか。無関係のはずの清加気付いていた事、或いは、ふゆが気付いて清加に伝えた事を意外に思っているのだろうか。清加は深々と白い息を吐き、更に眼を吊り上げた。
「ふゆをお城にひとりにして、貴方はこんな時間まで何処にいらっしゃったのでしょうね。勿論、貴方に課せられた任務は、御庭番衆のために沢山の子供を産ませる事である事は、ふゆも解っています。けれど、もうすぐその大切な子供が産まれようというのに、貴方はふゆの側にいてやろうともしない。それではあんまり……あんまりにもふゆが――」
 清加が怒りを懸命に抑え、冷静に、冷静にと自身に言い聞かせながら言葉を紡ぐと、紫弦は黙ったまま徐ろに手を伸ばし、清加の腕から眠っている隆明を取り上げた。
「何をするんですか」
「来て下さい。こんな所で立ち話をしていては、貴方も隆明君も風を引いてしまいます」
 低く静かな声で言い、紫弦は清加の前に立って歩き出した。清加は唇を結び、軽くなった両手を握り締めた。意外だった。紫弦が、自分の息子の名前を知っていたなんて。
 紫弦は黙って歩いた。背が高く足が長い紫弦の歩幅は清加より広いはずだが、紫弦は清加の前を歩きながらも、歩調を合わせていた。
 紫弦は城に着くと、寝所とは別に紫弦にあてがわれている四畳半の部屋に清加を通した。
「大丈夫か? 寒かろう」
 言いながら、隆明を床に寝かせると、紫弦は部屋の隅から炬燵を移動し、火をつけた。
「ありがとうございます……」
 清加は、隆明の側に腰を下ろした。
 紫弦とまともに言葉を交わすのはこれが初めてだが、これまでに受けてきた印象と随分違う。眼は刃のように鋭く、人を寄せ付けない冷たさを感じていた。それに、無口で無愛想で、考えている事が解らないと誰もが言っていた――子女の間では、それが神秘的で魅力だと騒がれていたが――から、そういう人なのだと思っていた。だが、目の前にいる紫弦は、そんな噂や遠目から見る印象と異なる人物だ。確かに表情も口数も少ないが、柔和で気配りが出来、穏やかな印象を受ける。
 外見の冷たさとこの優しさの差が一層女性を引き付けるのだろうか。そうして、身重の妻を放り出して外に女を囲っているのだろう。
 紫弦の気遣いや優しさが、清加を苛立たせた。清加は唇を噛み締め、隆明へと視線を落とす。
「そんな険しい顔で見ていては、隆明君が目を覚ましたら泣いてしまいますよ」
「女子<おなご>にも赤子にもお優しい事で。でも――」
「ふゆの事ですか?」
 紫弦の低い声に、清加ははたと口を噤んだ。目を合わせる事はしなかったが、声は穏やかだ。
「ふゆの事を、いつも気に掛けてくれているのですね。有り難い事です」
「…………ふゆは……苦しんでいます。ご存知ですよね、容保様に見初められていた事を。それ故に、女中の間で嫌がらせにあったりしていたんです。貴方に娶られても、貴方を気に入っていた女は多いですから、やはり目を付けられて……。ややを身籠っても貴方はさっぱり側にいないし……いつも寂しそうにひとりで目を伏せるふゆを、私はとても見ていられなくて」
「そう……ですか」
 紫弦は小さく息をつき、清加の前に座して軽く頭を下げた。
「ふゆを想って下さっている事、感謝します」
「私に感謝などしなくて結構です。それより、ふゆの事を、もっと……」
「えぇ……私は――」
 紫弦が唇を開きかけた瞬間、わっと隆明が声を上げて泣き出した。慌てて清加が手を伸ばすと、すっと立ち上がった紫弦が横から隆明を抱き上げた。
「可愛いな……」
 溜息を零すように呟く。
「私は、良い父親というものになりたかった」
「…………え?」
「折角ふゆとの間に子供が産まれるというのに、私は何度もその子を抱く事が出来ないのです」
 隆明を抱く紫弦の横顔は穏やかで、何処か悲しげにも見えた。
「私は……ふゆとの間にしか子供はいらない。どれだけ沢山子供を産む事を望まれようとも、ふゆ以外の女との間に子供を作るつもりはないんです」
 紫弦の言葉はきっぱりとしていて、積もったばかりの新雪のように真っ白に澄んでいた。そのあまりにも真剣な眼差しに、清加は息を飲んだ。
「そこに……その棚の箱を開けてもらえますか?」
 紫弦が視線で示したのは、部屋の隅の棚の一番下に隠すように置かれている木箱だった。そっとそのくすんだ箱を持ち上げ、蓋を開くと、中には小さな茶碗が納まっていた。
「これは?」
「本郷焼きの茶碗です。……私が、焼きました」
 最後の言葉を口にする時、ほんの僅かに躊躇いが見えた。驚いて清加が顔を上げると、紫弦の白い頬がひとはけ朱に染まっていた。
「え……えっ!?」
 信じられず、紫弦と茶碗を交互に見て、清加はゆっくり茶碗を手に取った。思ったよりも軽く、白くつやつやとした側面には、青とも紫ともつかない鮮やかな色で、紫陽花の花が描かれていた。
「紫陽花……ふゆの好きな花!」
「静かに。声を落として下さい」
 照れたように早口で言う紫弦は、いつもの落ち着いた冷たい男ではなかった。
「私は、いずれ城を出ます。ふゆを連れて。何年掛かるか解りません。五年……十年掛かるかも知れません。それでも、必ず城を出て、ふたりで暮らします。これから産まれてくる子供は、御庭番衆に差し出さなくてはなりませんが、いずれ……ふゆとふたりで子供を育てて、平凡な家庭を築きたい。そのために、本郷焼きの職人の修行をしているんです」
 しかし、普段は容保の護衛につかねばならない。だから、護衛を交代する時間――しかも夜中に――城を抜け出し、早朝に戻ってくる。度々城を出ているのは、外の女に逢いに行っているのではなく、ふゆと……
「そ、それをどうしてふゆに言わないんですか?」
「ただでさえ、私のせいでふゆは普通の母親になれずに苦しんでいるというの、私の一方的な想いから、容保様からも引き離しました。もし妾だとしても、容保様と結ばれる方が幸福だったかも知れないのに……」
「は……一方的な……?」
 慌てて唇を結んだ紫弦は、隆明を抱き直してくるりと清加に背を向けた。障子の隙間から、細く朝日が差し込む。
「御庭番衆から切られて、会津に戻されて……苛立っていた時、誰も私に近付かなかった。療養しながら、怪我さえ治れば御庭番衆に戻れるのだと信じて鍛練を続けようとしていたら、ふゆは……」
 紫弦はそこで話を切った。その続きを、清加は知っている。紫弦が密かに鍛練を続けている事を知った時、清加の夫の隆生は、それを止めようと紫弦の部屋を訪れた。その時、紫弦に食事を運んできたふゆが部屋に入っていった。大抵の女中は、紫弦の美しさを遠くから眺めて羨んでも、その鋭さに近寄る事も出来なかったというのに、ふゆは震えながらも襖を開けたのだった。そして、怪我を押して鍛練を積む紫弦の身体に巻かれた包帯に触れ、言ったのだ。
「お休み下さいませ。貴方はもう、十分お江戸のために、殿様のために励まれました。この先はゆっくり、自分の好きな事をして過ごして良いと神様が言っているのですよ」
 ふゆはそれから度々紫弦の部屋に赴き、何をするでもなく、ただ穏やかに微笑んで側で繕い物をしたりしていたという。それは、紫弦を見張るためだったのかも知れないが、単に紫弦の真面目さや不器用さが気掛かりだったのだろうと、隆生は清加に話した。臆病で口下手なふゆが、あの刃のような男に自ら近付き、そんな言葉を掛けた事を、清加は意外に思っていた。そうして紫弦の元に通う内に、ふゆが紫弦に惹かれていっていた事にも気付いていた。だから、容保と引き離すためとはいえ、ふゆが紫弦の妻となる事が決まった時も、紫弦との間に子供が出来た時も嬉しく思ったものだ。
「では、ふゆを嫁にするというのは、貴方が言い出したことなのですか?」
「…………」
 紫弦は、微かではあるが、確かに首を縦に振った。
「だ……だったらきちんとそうお言いなさい、男のくせになんです、そのように臆病風を吹かせて。それでも本当にお江戸の城を守った御庭番ですか!?」
 清加は思わず声を上げ、茶碗を手にしたままぐるりと紫弦の正面に回った。
「な……隆生様の奥方は、意外と気丈な娘だったのですね。その茶碗は、子供が産まれたらふゆに渡して、本当の事を伝えます。ちゃんと…………想っている事も」
 隆明を見詰める瞳は、長い前髪に隠れて見え辛かったが、柔らかな光を湛えていた。
 清加は確信した。彼は、確かに良い父親になる。きっとこれから産まれてくる赤ん坊をふゆと共に育てる事は出来ないけれど、いつか、そう遠くない未来に、ふたりがふたりの間に産まれた子供を育てる幸せそうな絵図が清加には見えた。ふたりがその手を握るのは、ふゆによく似た男の子だ。
「貴方はきっと――」
 清加がそう言いかけた時、紫弦は突然鋭い眼差しで振り返った。清加の耳には届かなかったが、城の奥で声が聞こえた。徐々にその声は近付いてくる。「清加様を呼んで――」そんな言葉が清加の耳に届いた頃には、紫弦は隆明を清加の腕に押し付けて部屋を飛び出していた。清加も茶碗を箱に収め、隆明を抱いて部屋を出る。そこで、ばたばたと廊下を駆けてくる女中のひとりに会った。
「清加様!」
 女中は慌てて清加の腕を掴む。
「おふゆが……おふゆが産気づいたみたいで、痛がってて……」
 紫弦はこの声を聞いたのだ。御庭番衆は鍛え抜かれた聴力で、常人には聞こえない遠くの声も聞き分ける事が出来るという。きっと、清加より早くこの事に気付いたのだろう。
「だったら、ひと言言ってから行きなさいよ。私がいなきゃどうにもらないんだからっ!」
 もう見えない紫弦の背中に、口の中で悪態をつきながら、清加はふゆの部屋へと急いだ。





 嘉永六年の一月の終わり、会津にひとりの男の子が産まれた。
 この子供は十五年後、隠密江戸城御庭番衆で史上最年少の御頭となる事を、この時は誰ひとり知る由もない――


平凡でも良いから、元気に生まれてきて欲しい。
たとえ、親らしい事ができなくても。
たとえ、二度と会う事はなくても。



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