雪の聖夜

 大好きな貴方に見せたい。
 この夜のすべてを貴方にあげる。



    雪の聖夜



 そろそろ、東京では瓦斯燈が燈る時間。私は空を見上げ、遠い街を思う。降る雪の粒が、少しだけ大きさを増している気がする。
 故郷に戻って三ヶ月。十年振りにこの日を、私のバースデーを、私の生まれた場所であるこの会津で迎える事が出来た。バースデーは、英語で生まれた日の事をさす言葉。欧米では、生まれた日をその人の記念日として毎年祝うのだそう。幼い頃、長崎で知り合った独逸人の先生が教えてくれた。しかも、明日は切支丹の間で神の子と崇められているイエスという人のバースデーで、基督教では一番大きなお祝いの日。今日はその前夜、クリスマスイブという日で、家族が揃ってお祝いをするのだと教えてくれた。あくまでも基督教の話ではあるけれど、とても特別な日に生まれたのだと言われて嬉しくて、以来私にとっては、十二月二十四日は元旦よりも特別な日となった。二十一年前の私が生まれた日も、こんな風に雪が降っていたのだと母は言った。
 去年の今頃は、此処でこんな風に雪を見上げてバースデーを迎えられるなんて思っていなかった。阿片を作っていたから。去年のバースデーの朝を、私は会ったばかりの男の腕の中で迎えた。私は男を籠絡しようと、生まれて初めて女である事を武器にした。口付けを交わす事はしなかった。男は一片の情も持たず、私を乱暴に組み敷いた。眩暈のするような痛みと共に、深い闇に沈んだ。その頃には、私には将来を約束した相手がいたけれど、あの監獄のような邸から脱するためには、あの男を落とすしかないと思っていた。この世にこれ以上の絶望があるのかと思うような事を、あの邸では幾つも経験した。あの男と交わった所為で、私は恋人を失った。
 もう、夜は明けないのだと思った。
 死にたいと、死のうと、思った。
 それでも……愚かしい程に私は、生きる事を望んだ。家族になる筈だった存在を失って、狂おしい程に家族を求めた。何処かで生きているかも知れない、大好きな母に、私を可愛がってくれた兄達に、逢いたいと願った。彼の死に対して、私は一粒の涙も零す事なく、淡々と計画を練り、ひとりで邸を抜け出した。我武者羅に走った先で、出逢った人が、私の人生に夜明けをもたらしてくれた。
 東京で五年過ごした。最初の三年は、郊外の小さな町で医者の助手をしていた。その医者は、私の薬剤精製の腕を見込んで、大量の薬を作らせた。特別な麻酔薬で、自分しか作れないのだと語った。それを此処で作って、都市で売っているのだと。私はそれを信じて薬を精製し続けた。それが、新型阿片だとも知らずに。ある青年実業家の手を介して阿片の密売を行い、かなりの儲けを出していたようだけれど、医者は利益争いで実業家と対立し、勢い余った実業家に殺された。私は実業家の邸に軟禁され、強制的に阿片を精製させられた。何度も死を考えた。それでも、家族への想いが私を生に縛り付けた。脱走と捕縛を繰り返し、見兼ねた実業家があの男を雇ったのが、去年のこの時期の事。出逢ったその晩に、身体を重ねた。
 逃げ出して、実業家は警察に逮捕され、漸く自由を手に入れた。実感が沸かないまま、優しい老医師の助手として働く事になった。桜の舞う夜、往診で訪れた京橋で、初めて瓦斯燈を見た。余りの美しさに、心が震えた。やっと解放されたのだと、やっと本当の意味で生きてゆけるのだという実感が足元から温もりとなって全身に駆け巡り、涙が零れた。
 瞬きを沢山して、舞い降りる雪が目に入らないように払う。少し首が痛くなっているけれど、それでも飽きずに私は空を見上げていた。ふぅわりと宙に浮かぶような心地がして、足元がよろめく。近くにあった樹にもたれ掛かり、白い息を吐いた。

 貴方が私を、解放してくれた。

 背の低い、赤毛の男。左の頬に十字の傷を持つその人は、私のように、罪を背負って生きていた。償うために、日本中を旅する流浪人だった。偶然出逢い、ただ刀を持っていたというだけで、私は彼に――貴方に、助けを求めた。貴方は嘘と秘密にまみれた私を疑いもせず、助けてくれた。何も語らないのに、匿ってくれた。貴方の優しさが、胸に傷に沁みた。痛みを感じない振りをして、私は貴方と何とか距離を取りながら接した。でも、貴方が私の傷に触れた時、何の迷いもなく総てを口に出来た。貴方の優しさの中に自ら足を踏み入れた時、怖くなってしまった。貴方を、失う事が。
 再び実業家に捕まり、あの男と貴方が剣を交える音を聞いた時、生きる意志が揺らいだ。これ以上誰かを傷付けるくらいなら、貴方を失うくらいなら、生命なんかいらない。家族だって諦めて良い。何もいらない。総て捨ててしまって構わない。
 貴方が再び私に微笑みかけてくれた時、死ぬ決意が出来た。私は不幸をばら撒く人間なのだと、もしこのまま生きていたら、いつか貴方を本当に失ってしまうのだと思ったから。
 だけど貴方は、生きろと言った。生きて償う事が、私の道なのだと教えてくれた。医者として生きる道を、私にくれた。貴方のお陰で、幼い頃からの夢だった医者としての人生を歩む事が出来ている。貴方の生命を救う事も出来た。貴方の人生に穏やかな導を示す事も出来た。そして――苦しみをもたらし合い、傷付け合うだけだと思っていたあの男とも、肩を並べて歩む事が出来るようになった。
 貴方が示してくれた道。教えてくれた優しさ。貴方から貰った沢山のものを、少しずつ人々に返しながら、今日まで生きてこられた。荒れ果てた故郷を救って欲しいと、望まれて戻ってくる事が出来たのも、貴方が私の生命を繋いでくれたから。
 こうして、今、懐かしい故郷の雪を見てる。瓦斯燈の煌きはないけれど、小さな白い粒同士が微かな輝きを分け合っている。
「嫌だ……」
 京都に置いて来た筈なのに。貴方の瞳に映る女性がいる事を知って、夏の日が差す京都に、置いて来た筈なのに、この想いが、まだ私の胸を締め付ける。嫌になるくらい、すべて、私が見えているものすべて、貴方にも見せたい。それから、家族になれなかった人に。
 そっと、帯に手をあてる。失ってしまったものは、もう決して戻る事はない。家族になろうと、私に言ってくれた人がいた。一緒に子供を育てて、生き別れた家族を探そう、と。それは、貴方と出逢う前に失った人。希望諸共消えた人。もしかしたら本当は、今、私の隣りにいたかも知れない人達を私から奪ったあの男を許し、あの男の仲間を奪う切欠を作った私をあの男に許させたのも、結局は貴方の優しさだったのだと、私は思っている。私やあの男の心を変えたのは、貴方だった。
 俯いた視線の先、足元の石に重なる白が、私の唇から呟きを消した。
 闇に手を差し伸べると、手の平に雪が落ちる。目を凝らしてみれば、綺麗な結晶が輝く。戦争の傷跡を残す広場に降りる雪達は、瓦礫を白く包んで小さな雪原を生み出す。人々の小さな営みを守る貧しい家から零れてくるざわめきを、清らかな夜が吸い込んでゆく。
 こんな静寂を、人の息遣いを、絶望の中で暗い眼をしていた人々が見付けかけている希望を、希望を探す手助けが出来ている今を、くれたのは貴方。
 なのに私は、貴方に背を向けた。
 貴方は私達を、政府から見捨てられたままのこの故郷を助けようと来てくれた。だけど貴方は、私の故郷の人々にとって、認めたくない存在。敵であった筈の人。十年以上前の戦争からまだ復興出来ないこの郷にとって、憎んでさえおけば少しばかり気が紛れる存在。貴方の優しさを、生き様を知らない私の故郷の人々は、貴方に牙を剥いた。私は貴方を突き放し、もう来ないで欲しいと頭を下げた。
 額の傷が今も疼く。
 だけど、傷付いたのは私じゃない。私を苦しみから救ってくれた筈の貴方に、私は苦しみを押し付けた。ごめんなさい。でも、私にはそうする事しか出来なかった。この郷でやり直すために、貴方を遠ざけるしかなかった。貴方と離れて、貴方を引き離して手に入れたものを、私は守っていくから。貴方が示してくれた道を歩き続けていくから。そしていつか、貴方が何も気にせずにこの場所へ来られるように、必ずするから。その時、見て欲しい。私の目に、今、見えているものすべて。貴方に見せたい。冷たい夜に伸びてゆく枝を細く縁取って揺れる純粋な白さを。すべて。すべて。貴方にも見せたい。

 大好きな貴方に。

 気持ちが動いてゆく。言いたい。本当は、言いたかった。今でも言いたい。京都にも東京にも置き去りに出来ずについて来たこの想いを、口にしたい。たとえ貴方が、あの煌く瓦斯燈の下で他の誰といても……。
 この夜を貴方にも見せたい。貴方がくれたもの全部、貴方に見て欲しい。絶対に無理だと思っていた、故郷で向かえる聖夜。
 それから――

「母さん」

 男の子がひとり、小さく駆けてくる。粗末な着物に草臥れた綿入れを羽織って、白い息を吐きながら傘を片手に駆けてくる。
「征太郎」
「どうしたの? 今日は早く戻るって言ってたのに、遅いから迎えに来たよ」
「危ないわ」
「大丈夫だよ」
 目を細めて屈託なく笑う少年は、私が貴方を突き放したあの日に、私の子供になった。私の大切な存在になった。
 彼と家族になれたのは、突き詰めればやっぱり貴方がいたからで。私が二度と手に入れる事が出来ないと思っていたものさえ、貴方は私に与えてくれた。私は可愛い息子の手を握り、ふたりの頭の上に傘を開く。
 生きているから、あの時死ななかったから、私はこうして彼と手を繋げる。温もりを分かち合える。微笑み合える。

 聖らかな夜に思う。貴方の存在を思う。遠く、遠く、貴方が幸いである事を願う。祈る事しか出来ないけれど、貴方が誰よりも幸せになる事を望む。私に沢山のものをくれた貴方が、身を削り、心を砕き、分け与えるばかりでは辛過ぎる。貴方はこれから、幸せにならなければならない人。どうか、貴方のこの先の人生が光に満ちていますように。
 そんな風に願える相手がいる事は、きっと、幸いなのだと思う。




 貴方と出逢えた事が、今年の最大の宝物。



 聖なる夜に降る雪に、ささやかな祈りを込めて。


この生命は貴方がくれた。
生きる道を示してくれた。
貴方と出逢えて、本当に良かった。



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