精悍な顔付きで構えた銃は、他でもなく僕らの心に突きつけられてる。
 そう、怯える君の手で……



     Triangle



 明治十七年八月、東京――
 うだるような暑さが身体に絡み付き、じっとしていても汗が滲んでくる。ひとりの青年が、少女の手を引いて川沿いの道を歩いていた。背中には荷物を背負い、手にした地図を確認しながらゆっくりと道を歩く。
「あれだ!」
 少女が正面を指差す。板塀の張り巡らされた家屋。門には、“小國診療所”の文字。間違いない。ふたりは頷き合い、足を速めた。
「ごめん下さーい」
 快活な男の声が、小國診療所に響いた。待ってましたとばかりに、奥からふたりの少女が飛び出してくる。続いて、青年がふたりと老人が顔を出した。
「いらっしゃーい!」
 少女達は、玄関に立っていた青年に向かって突進するように走り込み、その脚や腰に抱き付いた。
「こんにちは。君があやめちゃんとすずめちゃんだね?」
「いらっしゃい。遠いところ、よく来たね」
 老父は穏やかな笑みを青年に向けた。青年の後ろから、ひとりの少女が顔を出す。診療所の奥から出てきた少女達は、目の前の少女に、大きく眼を見開いて笑みを零す。
「紫ちゃん!?」
「うん! あやめちゃん、すずめちゃん、宜しくね!」
 老父、小國玄斎の孫娘であるあやめとすずめは、青年の後ろから現れた少女にそれぞれ腕を伸ばした。少女、高荷紫は、嬉しそうにあやめを抱き締める。紫があやめとすずめに会うのは初めてだが、三人は自分達が姉妹だと信じていた。あやめとすずめは血の繋がった姉妹で、東京で生まれ育った。紫は会津に生まれ、今回東京に来るまで、会津を出た事がなかった。それでも、三人が姉妹であると思っているのは、同じ人物を母としているからだ。あやめとすずめの母親、玄斎の娘は、明治十年の西南戦争に医者である夫の助手として赴き、夫と共に戦死している。その後、明治十一年に玄斎の助手となった女性、高荷恵を姉とも母とも慕い、診療所で寝食を共にしていた。その恵が故郷の会津に帰り、養子にした八人の子供の内のひとりが紫だ。紫はあやめ達と頻繁に文を交わし、互いの事を報告し合った。そのため、顔を合わせるのは初めてだが、お互いの事はよく知っている。
「紫、玄斎先生にご挨拶しなさい」
 青年は、紫の肩を叩いた。紫は青年、相葉健水を見上げて笑顔で頷く。健水は恵の助手で、恵の営む診療所の近くに住んでいる。恵とは幼馴染みで、恵の兄の親友だ。
「初めまして、高荷紫です。宜しくお願いします」
「うん、いつも手紙を有り難うね」
「玄斎先生も。お母さんが会いたがってました」
「恵先生が、玄斎先生達によろしくお伝え下さいと。涼真や左之助にも」
 健水は、玄斎の後ろに立つふたりの青年に顔を向ける。背が高く、無造作に髪と髭を伸ばした豪快そうな男が、相楽左之助。恵の友人であり患者だった。長い間海外を旅していたのだが、世界一周を果たして昨年帰国した。以来、東京を拠点に恵の住む会津の他、京都や長崎、信州などを渡り歩いており、東京にいる間は小國診療所に居候している。左之助よりは小柄で細身で、知的な顔立ちの青年は、白瀬涼真。幼い頃から医学と薬学を修め、恵と入れ替わりで玄斎の助手となった男だ。会津へ発つ直前の恵と対面しており、長らく文を交わしてきた。会津にも何度か赴いているため、紫や健水とも面識がある。
「あいつ、元気してるか?」
「元気に走り回ってるよ。相変わらず凄い働き振りで、ついていくのがやっとだけど、俺もそろそろ助手の立場から脱しないとな」
「そうじゃね。恵君の取引相手と会えるように準備はしてきておるんじゃろう? こちらでも色々手伝ってもらうつもりでおるから、宜しく頼むよ」
「はい、お願いします」
 健水は玄斎に深々と頭を下げた。
「紫姉、お外に行こうよ。この辺を案内してあげる」
 あやめが、紫の手を引いた。
「行ってきて良い?」
「あぁ、気を付けて。危ない事はするんじゃないぞ。俺が恵先生に怒られるからね。あやめちゃん、すずめちゃん、紫はちょっと危なっかしいところがあるから、気を付けてあげてくれるかな?」
「はーい!」
 あやめとすずめは元気に答えた。紫は、「そんな事ないのに」と頬を膨らませつつ、あやめとすずめに両手を取られてそのまま三人で飛び出して行った。
「良かった、少しは元気になったみたいで……」
 紫の後姿を見送り、健水はぽつりと呟いた。
「紫、どうかしたのか?」
「うん……一週間くらい前からかな、ちょっと塞ぎこんでる事が多くてさ。恵先生も心配してて」
「そっか。いつも凄く明るくて元気な子なだけに、余計に心配だよね」
「だから、気分転換も兼ねて連れてきたんだ。本当は光黄とか瀧尋が来たがったんだけど、恵先生が宥めてさ」
 道の向こうへ小さくなってゆく三人の少女の背中は、思っていたより逞しく、夏の日差しに眩しい。何の苦しみもなく生きて欲しいなどというのは大人の我侭かも知れないけれど、どうしてもそう願ってしまう。健水にとって、紫は家族も同然だ。恵の助手になって以来、恵やその養子達と共に過ごし、成長を見守ってきた。健やかであって欲しいと思うのは当然の事なのだ。
「それにしても、左之助は相変わらず居候か?」
「そうじゃよ。全く、日本を離れて少しはしっかりして帰ってくるかと思ったが、さっぱりじゃな」
「それでもあの頃よか働いてるぜ? 金だって入れてんだろ」
「当たり前じゃ!」
 胸を張る左之助に、玄斎は呆れたように答えた。
「左之助さん、会津行ったら? 恵先生の役にも立つだろうし、会津は今でも人手不足だろう? 力仕事が出来る人材は喉から手が出る程欲しいんじゃない?」
「それは確かにそうだけど、恵先生が嫌がるかも……昴とか、征太郎とかも……。瀧尋は喜ぶけどな」
「行かんで良い。恵君に迷惑が掛かるじゃろう。今はうちの手伝いもしてもらっておるし、取り敢えずは此処におれば良い」
 玄斎は苛々した様子で言った。
「昔は、早く帰って来て恵先生の婿に、なんて言ってたのに、玄斎先生も考えが変わったんですね」
 涼真がくすくすと笑うと、左之助は「そうだったのか?」と驚きを見せ、玄斎は「ふん」とそっぽを向いた。この老人は、時々子供のような反応を見せる事がある。健水も、思わず吹き出してしまった。
「で、おめぇはどうなんだ?」
「うん……秋には、結婚を申し込もうと思ってる。だから、それまでに早く自立して、少なくとも恵先生と肩を並べられるようにならないと」
 左之助に見据えられ、健水の瞳が決意にきらりと輝く。
「そっか。あの跳ねっ返りが素直に頷くとも思えねぇけど、頑張れよ」
 左之助が拳を突き出すと、健水はそれに自分の拳をぶつけた。微笑む健水の顔付きは、以前より男らしく逞しく見える。
「取り敢えず、上がってよ。いつまでも玄関先で立ち話してるのも何だし、疲れてるでしょう? 荷物降ろして、ゆっくりして」
 涼真が促すと、玄斎も頷き、健水は草履を脱いで診療所に上がった。



 紫、あやめ、すずめは夕方まで街中を駆け回ったらしく、お腹を空かせて帰ってきた。七人で食事をとり、順に入浴を済ませた後、誰が言うともなく若者達は縁側に集まって星を眺め始めた。雲ひとつない夏の夜空は、月も星も明るく、行灯をつけなくても総てが見渡せた。
 左之助、健水、涼真は並んで縁側に腰を下ろし、左之助の膝の上に紫が座った。それを見て、あやめは健水の膝に、すずめは涼真の膝に居場所を決める。
「紫、お前幾つだっけ?」
「じゅうさーん」
 悪戯っ子のように言いながら左之助にもたれかかると、紫は左之助の両手を握った。
「……どうかしたか?」
 あどけなく明るく振舞う紫の瞳に、微かに影がちらつく。左之助は、紫の顔を覗き込んだ。紫はふいと視線を反らす。
「何か言いたい事があるのなら、言ってごらん、紫ちゃん。少しは心が軽くなるかも知れないよ」
 穏やかな声音で語りかけながら涼真が紫の方を見遣ると、あやめとすずめも視線を紫に集めた。
「うん? うーん……」
 紫とて、このところ自分があれこれ考えている事が原因で、母や健水や兄弟達に心配を掛けている事は解っている。それに、涼真の言うように口にしてしまった方が案外すっきりするのかも知れない。紫は小さく頷いた。
「左之助さん……世界を回ってきて、戦争をしている国ってありましたか?」
「戦争?」
 突然の問いに、左之助の表情が曇る。健水と涼真も訳が解らないまま、続く言葉を待った。
「……あぁ、あったぜ。国内で争ってる国もあれば、隣り合わせの国が戦ってる事もあった。世界中、色んなところで色んな戦争が起こってた……」
 左之助は重たい息と共に言葉を吐き出す。鮮やかな星が皮肉な程に煌いていた。左之助自身、戦争に参じたわけではないが、戦場に立った事がある。命からがら逃げ延びた事もある。銃を向けられた記憶が、今でも消えない。あの時の少女は――
「辛かった?」
「そんな言葉じゃ、表せないくらいきつかった。何度経験しても嫌なもんだ。なんでこんな事を人間は繰り返してるのかって……涙が溢れてきた事もあった。俺は戊辰や西南を見た事はないけど、日本でもほんの十数年前にこんな争いがあって、傷付け合って、苦しめ合ってたんだなって思うと吐きそうだった」
 ゆっくりと溜息を零すように左之助は語った。紫の首筋に触れる左之助の息が重たく胸を滑る。紫はぎゅっと胸の前で手を握り締めた。時折母が見せる仕草。苦しいのだろうか、辛いのだろうかといつも心に掛かるけれど、深く息をついて顔を上げると、いつも通り微笑む。そんな母の癖が、いつの間にか紫にもうつっていた。けれど、母のように上手く微笑えない。その度に母の強さを思い知る。
「私……幸せなんだ。東京と比べたら会津は田舎だし、まだまだ荒れてるけど、平和で、みんな頑張ってて素敵なところだと思うの。だから、昔、戦争があった事も、今、何処かで戦争が起こっている事も嘘みたいに……全然関係ない事みたいに思えるんだよね」
 ぼんやりと左之助の手を握り、紫は呟く。いつも明るく天真爛漫で、言い方は悪いが余り物事を深く考えている風には見えない紫の口から紡ぎ出された言葉に、男達は瞠目した。こんな事を考えているなんて、思わなかった。左之助は、そっと紫の手を握り返す。
「紫、何かあったのか?」
 健水がおずおずと尋ねる。何か深刻な出来事があったとしか思えなかった。膝の上のあやめを抱く腕に力が籠もる。
「んー……あのね、お母さんの身体って見た事ある?」
「はっ!?」
 何気なく問い掛けた紫の言葉に、左之助が声を上げる。健水と涼真も口元を抑えて顔を赤らめた。あやめとすずめは、男達の膝の上できょとんとしていた。
「何言ってんだよ、ねーよ。あるわけねーだろ!」
「俺もない……というか、恵先生に会ったのだって片手で足るくらいしかないし」
「健水君は? お母さんとずっと一緒にいるけど……」
 慌てて否定した左之助と、戸惑う涼真の答えを聞き、紫が健水を見ると、あやめ達も健水に注目した。
「残念だけど、ないよ」
「残念なんだ?」
 あやめが笑顔で口にすると、健水はますます顔を赤くする。月明かりに照らされて健水の顔がやけにはっきりと見えて、すずめはわけも解らずけらけらと笑った。
「何が言いたいんだ、紫?」
「あのね、お母さんとお風呂に入った事がなかったの。兄さん達は勿論だけど、姉さんも楓もないの。私、お母さんとお風呂に入りたくって、何度もねだったんだ。でも、いっつも流されて。お願いした時は必ず、お母さん遅い時間にお風呂に入るしさ。だからこの間、お母さんがお風呂に入った後にこっそりついていって、無理矢理お風呂場に乗り込んだの」
 五人は紫の言葉を頷きながら聞いていた。あやめとすずめも、一緒にお風呂に入った事はないという。
「お母さんの背中にね、大きな傷があったんだ。こう、刀で斬られた傷」
 紫は右手を突き出し、刀を握っているかのように真一文字に振って空気に見えない線を引く。
「会津戦争で付けられたんだって」
 紫の唇が重々しく動く。思い出せば、瞳に涙が滲む。
 雪のように白い母の肌に赤く引かれた古傷。その背中を見た瞬間、身体が固まって動かなくなった。振り返った母は焦燥に歪んだ顔を見せた。けれどそれはほんの数秒の事。諦めたように、眉宇を寄せて微笑み、紫の頭を撫でた。
「お母さんがどんな怪我をしてたって、私は……私達は嫌いになんかならないよ。でも、お母さんはずっと隠してたんだよね。十年以上経つのに、消えない大きな傷。あの傷がついた時、お母さん、私より年下だったんだって思ったら、なんか、余計に……」
 声を震わせる紫の横顔を見詰め、健水は唇を噛み締める。
 恵の長男の征太郎は、戦争の只中で産まれた。正に戦場の真ん中で。そして、実の母をその場で殺されたらしい。沢山の人が死んだ。沢山の人が苦しんだ。沢山の人が泣いた。そんな戦争が起きたのは、まだほんの十六年前。けれど、そんな現実も苦しみも知らず、辛さや大きな傷を抱えて生きている人達がいる事さえも考えずに無邪気に生きてきた自分が腹立たしい。紫は表情を曇らせ、そう吐き出した。
「それは、仕方のない事だ。紫は産まれていなかったんだし。それに、戦争を経験してきた俺からしたら、紫が苦しみに遭わずに元気に生きている事が嬉しいよ。苦しみを理解したいと思ってくれるのも、嬉しいけどな……」
 健水も、会津戦争の戦災孤児だった。偶々顔見知りの大人に保護されて生き延びたが、家族が戦死し、辛うじて生き延びた。健水は奥歯に力を入れて俯いた。
 あの日の事は、今も忘れられない。天まで伸びる炎を見た。空が焼き尽くされるかと思って呆然と見詰めていたが、気が付けば見慣れた街が焼け野原になっていた。家族と暮らした家、父が働いていた診療所、友達と遊んだ広場や、机を並べた藩校、総てが燃え尽きた。そして、あの美しかった白亜の白が真っ黒になって崩れていた。どれだけの砲弾が撃ち込まれたのか、幼い健水には見当もつかなかった。砲撃音を聞きながら、近所の人から父母が死んだ事を告げられた。爆音が響いていた筈なのに、その言葉だけははっきりと聞き取れてしまって、夢であって欲しいと願った。焼け野原に父を探した。母を探した。けれど、見付かる事はなかった。今となっては見付からなかった事が幸いなのかも知れないと思う。別れの言葉を掛けられなかった事は悔やまれるが、両親の亡骸を見ても冷静でいられなかっただろう。
 両足を泥だらけにして、傷だらけにして、敵と思しき人間から身を隠しながら歩き回った。両親を探す傍ら、知り合いを求めて彷徨った。太陽は動いているのに、昼も夜も解らなくなるような混乱状態が続いた中、ひとりの少女を見付けた。知った顔だった。親友の妹、無事であって欲しいと祈ったひとりだった。可愛くて、可愛くて、「大人になったらお嫁さんにしてあげる」と笑い合った、そんな少女。周りに大人はいない。彼女ひとりだった。ふらふらと覚束ない足で歩き回る少女を抱き締めたくて、駆け寄ろうとした。空ろな瞳で辺りを見回した少女の肩で髪が揺れた。腰まで伸びていた筈の髪が、鎖骨の辺りまで切り落とされていた。ぐらりと身体を傾けながら振り返った少女の背中に、一筋の大きな傷が刻まれていた。着物を引き裂かれ、夥しい量の血が足まで流れ出していた。背面の着物が色を変え、見た事もない模様を描いていた。その瞬間、足が止まった。怖気付いた。息が止まり、殆ど空になった胃袋から胃酸が喉まで込み上げてきた。少女の背中に背を向けて、一目散に走った。死ぬかも知れない。彼女は、死んでしまうかも知れない。その瞬間に立ち会う勇気がなかった。抱き締める勇気がなかった。ただ、抱き締めて欲しかったのだ。誰かに優しく「大丈夫」といって欲しかったのだ。誰かを助ける気力など、もう持ち合わせてはいなかった。あんなに血を流した少女を助ける事なんて出来る気がしなかった。本能で、その場から逃走した。
 その先の事はよく覚えていない。何日も蹲って隠れて、顔を知っている大人が見付けてくれた。抱き上げて、一緒に行こうと言ってくれた。その人に救われ、生き延びる事が出来た。
 その時の事は、誰にも話していない。今も、懺悔する勇気を持てずにいる。
「知りたい……」
 紫は呟いた。
「苦しい事、繰り返したくないよ。だから、知りたい。知らないと、同じ事が起こるかも知れない。同じ事を、大人になった時に起こしちゃうかも知れない」
 紫の瞳に、星明りが灯る。強い意志が輝いた。
「…………そうだな。いつか、話すよ。あの日、俺が経験した事。それから、恵ちゃんにも話してもらおう。維新が何度も起こるとは思わないけど、いつかまた西南戦争のような争いが起こらないとも限らない。その時、紫達があの哀しみを少しでも知っていたら、抑止力になるかも知れないから……」
「沢山、人が死んだの?」
 すずめの声が怯えを含んで唇から漏れる。
「うん……」
「すずめのお父さんとお母さんも、戦争で死んじゃった。誰が、死んで良い人を決めて殺すの?」
 あどけなくも生々しい問い掛け。涼真の大きな手が、優しくすずめの髪を撫でる。
「死んで良い人間なんて、この世にはいないんだよ。それなのに、人が人を殺すんだ。それは、誰にも許されない事だ。絶対にやってはいけない事だ。その罪を多くの人が犯したんだ」
 涼真の言葉に深く頷くと、左之助はゆっくりと紫の手を持ち上げる。月の光が縁取るか細い指は、日に焼けていた。
「俺は、世界をぐるっと一周回ってきて、色んな奴らに会って来た。世界には色んな民族がいてな、肌の色、髪の色、目の色なんかが全然違うんだ。紫の目が、あやめの手が、すずめの声が、それぞれ違ってるみたいに、自由だからこそ生命は有り難いもんだと俺は思ってる。違う母ちゃんから産まれて、違う場所で育って、違う肌の色、髪の色、目の色をしていても、みんな愛されて生きる……それは、それだけで奇跡みたいな事だ。だから尊くて、大事なんだ。そんな生命を、誰かが勝手に奪って良い筈がないだろ? 意見が食い違う事はあるから、争いが総て悪いとは言わないけど、生命を奪う事ってのは、絶対にやっちゃいけない事だ。日本でも世界でも、それは変わらねぇ」
 腕の中にいる少女の母は、戦場で家族を失った。父が殺される現場に居合わせたらしい。母とふたりの兄は行方知れずになり、長い間消息が解らなかった。誰も側にいない戦火の中で、彼女はきっと怯えていただろう。そんな人は沢山いたのではないだろうか。おかしなものだ。武功を上げた長州の英雄も、戦火に震えた子供達も、戦場に産み落とされた赤子も、同じ尊ぶべき生命だというのに、何故奪い合うのか。何を正義としていたのか。今も血を流した土地に深い傷を刻んで。
「生きてる事を、大切にしろ。母ちゃんは、それを望んでる」
 左之助は、紫を後ろからそっと抱き締めた。
「……私は、姉さんみたいに綺麗じゃないし、征兄さんや光兄さんみたいに利口でもない、瀧兄みたいに強くもない、年下なのに葉月の方がしっかりしてるくらいだし、全然良いところも取り柄もないけど、それでも母さんは大事にしてくれるんだ……。優しくしてくれるんだ……。もっと、役に立てたら良いのに」
「紫は笑顔が素敵だよ」
 涼真は口元に笑みを浮かべ、紫を見詰めた。
「初めて逢った時、凄く素敵だと思った。恵先生も、どんなに辛い時でも紫の笑顔を見ていると元気になるから、みんなに会わせたいって、度々手紙に書いてた。それで良いんだよ。十分役に立っているよ」
「私も、紫ちゃん大好き。初めて逢ったけど、ずっと一緒にいたみたいな気分なの。紫ちゃんは、私の大好きなお姉ちゃんだよ」
「すずめも、紫ちゃん大好き!」
 あやめとすずめが、満面の笑みを紫に向ける。
「俺も、紫にいつも励まされてるよ。生きてる……それだけで、価値のある事なんだ。だから、誰に対しても笑顔を忘れないでいてくれ。そうして互いに優しさを分け合えたら、戦争なんて起こらないんだから」
 健水が言うと、あやめは健水を見上げて頷きながら笑った。
 この少女達がずっと笑顔でいられるように、平和な未来を作らなければならない。そしてこの子達が大人になった時、同じ平和を作り続けられるように、苦しみの時代を語り継がなければならない。それは、乗り越えてきた大人の仕事なのだろう。
 少女達は立ち上がり、踊るように庭に飛び出して月の光を浴びながら笑い合った。何がおかしいのか、何が楽しいのか解らないけれど、この笑顔を未来へ繋いでゆくのだと、男達は決意を固めていた。
 少女達のはしゃぎ声を聞きながら、左之助は静かに瞳を伏せる。
 あんな笑い声を、世界中で聞いてきたけれど、日本では知らなかった銃声を、砲撃音を、海の向こうで聞いてきた。全身を泥だらけにして、裾の擦り切れた服を纏い、手足から血を流した少女――あやめや、紫と近い年頃の――が、洋式銃を抱えていた。身を守るために、何処かの兵士から奪ったのだろう。恐らく、生命を落とした兵士から。左之助は思わず少女に駆け寄ろうとした。少女は咄嗟に慣れない仕草で銃を構えた。怯えながら、奥歯を噛み締めながら、その銃を左之助の心臓に向けた。
 あの女も、あんな風だったのだろうか。あんな風に怯え、たったひとりで戦っていたのだろうか。そんな想いが脳裏を過ぎり、涙が溢れた。
 忘れない。忘れられない。
 そして、今も、あの銃口は向けられている。



 精悍な顔付きで構えた銃は、他でもなくこの心に突きつけられてる。
 そう、怯える小さな手で……

fin
この小さな手もいつかは大きくなるけれど。
永遠のこの手が銃を握らずに済むように。
怯える日々がこの世界から消えるように。



INDEX

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