雨の降る日は、隣りにいて欲しい。
 ちょっとだけで良いから、寄り掛かってみたい……



    雨の日は冷たい夢を見る



 明治十五年六月、会津――
「あら、お久し振りですね」
 道を歩いていた農民らしいひとりの女が、前から歩いてくる背の高い男に声をかけた。男は、ちらりと女を見遣ると、小さく会釈した。
「元気でしたか? もっとちょくちょくいらっしゃれば良いのに」
 女は男の正面で足を止め、にこやかに話を始めた。男は行く手を阻まれ、仕方なく歩を止める。元々愛想の良くない事は自覚しているし、あまり話をしたくはないのだが、無視をするわけにもいかない。ここで無視などしようものなら、後でどんな陰口を叩かれるか解らない。別に自分はそれでも構わないのだが、周りの人間に迷惑が掛かる可能性もある。あの、気を遣う女に。
「先生も子供が増えて大変ですし、いっそずっとこちらにいらっしゃれば良いのにと、みんなで話しているんですよ。それに――」
「おーい、お前、なに油売ってるんだ!?」
 三間程離れた小屋の中から、男が顔を出す。女はそちらを振り返り、「はいはい」と答えた。これで解放されそうだ。女に引き止められていた男は、内心ほっと息をついた。せめて愛想笑でも出来ようものなら少しは違っていたのかも知れない。そういった事を芸当の部類のように考えている男にとって、この何を話したら良いかも解らない、相槌も上手く打てない状況というのは可能な限り短く済ませたい事象のひとつであった。
「それじゃ、御頭さん、また……」
 女はぺこりと頭を下げてそそくさと去って行った。
 “御頭さん”――この辺りの人間は、男をそう呼ぶ事が多い。戦後初めて会津に赴いたのが明治十一年の秋の事だった。その時連れていた部下の娘が、男が幕末、隠密江戸城御庭番衆の御頭を務めていた事を言い触らしたのだ。それ以来、“御頭”という呼び名が定着した。
「御頭さん」
 背後から、また声を掛けられる。今度は若い男の声だ。朝も早い時間に着いたので、あまり人に会わずに済むと思っていたのだが、会津の朝は早いらしい。普段はもう少し遅い時間に訪れている。だから、この時間なら大丈夫だろうと高を括ったのが間違いだった。出来れば走り去りたいところだが、そうもいかない。男はしぶしぶ振り返った。
「お久し振り……でもないですかね。髪伸びましたね」
「相葉……」
 にこやかに話し掛けてきたのは、相葉健水。男にとってはよく知る相手だった。
「どうも。恵先生に会いに来たんですか? それとも達幸? 実は昴狙いだったりして」
 健水はくすくすと笑った。会津で“御頭”の名で呼ばれる男・四乃森蒼紫は、あからさまに不満そうな顔を健水に向ける。それを、健水は一層楽しんだ。
「恵先生、もうすぐ往診に行くと思いますよ。俺もですけど。ちょっと急ぎましょうか」
 健水に促され、蒼紫はそれに従った。
 蒼紫は、健水や会津の人々が“先生”と呼ぶ女・高荷恵の元を度々訪れている。恵は幕末、会津藩で御典医を務め、“生ける理想”と呼ばれた医聖・高荷隆生の忘れ形見だ。明治十一年の秋の初めに東京から会津に戻り、医者として会津の人々のために働いている。蒼紫と恵の関係は、表立っては単なる知り合いという事になっている。友達という程親しくもない、というのがふたりの共通の認識だ。しかし、知り合いと呼ぶには深過ぎる事も認識している。恵はかつて、東京で医者としての能力を利用され、新型阿片精製のために軟禁状態におかれていた事があった。その恵の監視を務めていたのが蒼紫だった。恵は望まぬ生活から脱するため、様々な策を練り、蒼紫を籠絡しようと関係を持った事もある。恋愛関係になる事なく情を通じたふたりは、明治十一年の春、恵の脱走や蒼紫の部下達の死などを経て疎遠となったが、夏に再会した。最初は蟠りもあったものの、そんな事は殆ど問題とせず、ふたりは平然と会話をするようになり、秋に恵が故郷である会津に戻ってから、蒼紫は平然と恵を訪ねるようになった。ふたりは、過去に暗い繋がりがあった事など嘘のように接している。どちらからそうしようと言い出したわけでもなく、さも当然のように。勿論、周囲の者達はふたりの因縁など知る由もない。蒼紫が度々恵を訪ねる理由も、誰も知らない。恵も知らない。
 会津は、明治維新から十五年を過ぎても戊辰戦争の爪痕を色濃く残している。四年前、恵が会津に来たばかりの頃は、病や怪我や飢えに苦しむ人々が溢れ、健康な人間を探す方が困難だった。圧倒的に医者の手が足りず、一日中ひとりで奔走していた。突然会津に戻ってきた恵を疑う者も少なくなかった。誤解を解きながら献身的に治療を行い、健康な人が徐々に増える事により、漸く会津は復興への一歩を踏み出した。この四年の間に、恵は征太郎、昴、光黄、紫、達幸、楓という六人の会津の孤児を養子にし、力を合わせて生活している。子供達は、蒼紫を慕っている者、嫌っている者と、様々な感情を抱えてはいるが、それなりに好意的に接している。会津の人々も、蒼紫が恵の元を訪れる事に対しては特に違和感を覚えず、歓迎している。寧ろ、このまま会津に留まって恵と一緒になれば良いのに、と考えている者も多い。
 健水は蒼紫を連れて町の中程にある“高荷診療所”までやって来た。恵が切り盛りしている診療所で、健水は恵の助手を務めている。現在は行方知れずの恵の兄の親友であり、父親も医者であった健水は、年下の女性ながら卓越した医者として能でと判断力を持つ恵を尊敬していた。
「おはようございます、恵先生。お客さんお連れしましたよ」
 玄関先で、健水は家の中に声を掛ける。表は診療所、奥は恵達の住まいになっている建物は、玄関から一本の廊下で殆どの部屋が繋がっている。奥の方の幾つかの部屋の襖がすらりと開き、それぞれ住人が顔を出した。
「おはようございます、健水君。……あら、四乃森さん。いらっしゃい」
「お客さんって……やっぱり、蒼紫さん!」
「健水さん、昨日言われてた手術着の縫製終わりましたよ。……あぁ、おはようございます。蒼紫さんも来てたんですか」
 恵は蒼紫を見るなり微笑んだ。長女の昴は、末っ子の楓を抱えて廊下に出てきた。長男の征太郎は、薄汚れた白い着物を片手に玄関にやってくる。用事と挨拶が後先になった事を悪びれもせず、蒼紫に対しても特に関心はないようだった。
「今日は早いんですね、四乃森さん」
 恵は玄関で健水と蒼紫を迎え入れた。
「今、光黄が朝食を用意しています。四乃森さんも食べますよね? 健水君は、食べて来た?」
「まだ」
「じゃぁ、一緒に食べてから出ましょうか」
 蒼紫が訪れる事を知っていたわけではないのだが、恵は驚きもせず、さらりと応じる。
「健水さん、これ」
 征太郎は健水に白い着物を渡す。昨日行った室外での手術の際に建物の角に引っ掛けて破ってしまった手術着だ。征太郎は恵の養子になる以前に母親代わりだった女性が針子だったため、裁縫に長けていて、会津中から繕い物の仕事を請け負っている。
「蒼紫さんも繕い物があったら出して下さいね」
 あまり抑揚のない声で征太郎は蒼紫に声を掛けた。恵が当然のように蒼紫を受け入れるように、征太郎や昴達も、日常生活の一部のように蒼紫を受け入れていた。蒼紫も、この状況にすっかり馴染んでいる。
 蒼紫は最初に会津にやって来た明治十一年の秋以来、半年と空けずに会津に足を運んでいる。最初に訪れた時、既に征太郎は恵の養子となっていた。以降、昴、楓、光黄、紫、達幸の順に恵の子供になっているのだが、蒼紫は彼らが養子になるその時に立ち会った事もある。達幸の出産の現場にも居合わせた。子供達の事もよく知っているし、恵の苦労を肩代わりする事は出来ないものの、負担を減らすために力を尽くしている。恵はそれを解って蒼紫を頼っており、蒼紫は表情にも言葉にも出さないが、頼られる事を内心喜んでいる。
「光黄、世話になる」
 廊下の奥の台所を覗き、そこでひとり作業をしている光黄の背中に蒼紫は声をかけた。
「来ると思ってました。いらっしゃい」
 包丁で野菜を刻む手を止める事も振り返る事もなく、光黄は背中で答えた。
「相変わらず、何もかもお見通しか」
 溜息をつくように、蒼紫はぽつりと零した。光黄は何も答えず、軽やかな手つきで料理を進める。
「今日はご機嫌みたいよ」
 恵は光黄の背中を見詰めながら、蒼紫に耳打ちした。蒼紫には、光黄の機嫌などさっぱり解らないのだが、それを察する事が出来る辺り、恵は本当に光黄の母親なのだと感心する。光黄は高荷兄弟の中でも特に感情が読めない。蒼紫は人の感情の機微に敏感ではないため、余計に光黄の考えている事、感情の動きが理解出来ない。それでも、恐らく嫌われてはいないだろうという事はなんとなく解る。
「蒼紫さん、朝ご飯まで、楓と達幸と遊んであげて下さい」
 右手に楓を抱えた昴が、蒼紫の旅装束の袖を引く。目尻が垂れた愛らしい表情は、蒼紫がいる時にしか見られない。恵はちらりと健水を窺った。健水も面白そうに恵に視線を流し、ふたりは小さく笑い合う。蒼紫が昴のお気に入りである事を、ふたりは知っている。少女が年上の男性に対して抱く憧憬のようなものではあるのだろうが、昴の淡い恋心を母として恵は応援しているし、昴が産まれた頃から昴の親に世話になっていた健水も、昴を兄のような立場で見守っている。蒼紫が昴を泣かせるような事があれば、取り敢えず一発殴ってやろうという気持ちは以前からある。後々恵に怒られる事になっても、それだけは健水にとって譲れない事だった。
 昴は、蒼紫を連れて居間に向かった。
「お母さん」
 蒼紫の気配が遠退くと、光黄はさっと恵を振り返った。
「もうすぐ出来るから、打ち合わせでもして待っていて」
「そうする」
 恵は、光黄に穏やかに微笑んで見せた。光黄も柔らかな笑顔を返す。
「……そういえば、紫は?」
「朝から、庭の手入れをするんだって張り切ってたけど?」
「庭の手入れ……そう。畑のお世話でもしてるのかしら」
 多分、と光黄は小さく頷いた。
「ちょっと庭を見てくるわ。健水君、先に診療所の方に行っておいてくれる? 今日の打ち合わせを先に済ませてしまいましょう。朝食を食べたら、すぐに出なくちゃ」
「ですね。じゃぁ、準備しときます」
「お願い」
 恵は縁側へ、健水は廊下をそのまま戻って診察室へ向かった。
「紫ー」
 縁側から外へ顔を突き出し、恵は声を掛ける。広めに造られた庭の背の高い草がかさかさと揺れ、少女が顔を出した。右の頬を泥で汚し、両手に雑草を握り締めている。
「お母さん、もう朝ご飯ー?」
 肩で切りそろえた髪を揺らしながら、暢気な声で少女は恵に問う。次女の紫は、兄妹の中で一番大らかだ。恵は、この性格とのんびりとした喋り方に和んでいる。恵が両手を伸ばすと、紫は握り締めていた草を庭の隅に放り出し、恵の腕の中に突進した。着物が汚れる事も厭わず、恵は紫の小さな身体を抱き締めた。太陽と草の匂いがする。夏の近付いている匂いだ。
「畑の草抜き終わったよ」
「有り難う。いつも紫が畑を気に掛けてくれているから、安心して任せられるわ。光黄が、もうすぐ朝ご飯ができるって。それから、四乃森さんが来て下さったから、手を洗って挨拶しなさい。居間にいるから」
「蒼紫さんが!? うん、すぐに行くね」
 紫は草履を投げ出し、縁側によじ登った。征太郎がいたら、床に土をつけた事を咎めるところだが、恵は敢えて何も言わず、縁側から自室に飛び込んだ紫の背中を見送った。
「蒼紫さん、いらっしゃい。紫です。覚えてますか?」
 紫が居間に入ると、蒼紫は右手に達幸、左手に楓を抱え、楓を支えるように左側に昴が座っていた。紫は蒼紫の前に膝をついた。
「当然だ。紫、少し大きくなったな」
「本当ですか? 嬉しいです!」
 蒼紫の言葉を受けて、紫は顔に喜色を浮かべた。
「紫、朝食を運ぶから光黄を手伝ってくれる? 私は診察室にいるから、支度が済んだら声を掛けてちょうだい」
「はーい」
 軽快に答え、紫はひょいと腰を上げて台所へ向かった。紫は、見違える程に元気になった。蒼紫は詳しくは知らないのだが、紫は幼い頃から病に苦しんでおり、手足はやせ細って真っ直ぐに歩く事すら出来なかった。紫の父は突然会津に戻ってきた恵を信用せず、恵が会津に毒を撒いて回っているという根も葉もない噂を鵜呑みにしていた。そのため、紫は満足な治療を受ける事が出来ず、弱っていった。父の死後、恵の娘になって漸く治療を開始し、一年足らずで劇的に改善した。当たり前のように紫が笑っている奇跡に、恵は密かに感謝している。
 恵と健水は一日の往診の段取りを確認し、手早く鞄に必要なものを詰めた。短い時間で打ち合わせや確認を行うため、会話が早口になるのは最早日常茶飯事だ。征太郎は既に慣れているが、初めて聞く人は、ふたりの会話を正確に理解する事は出来ない。蒼紫も数ヶ月前に、打ち合わせの現場に居合わせたが、忙しなく動き回り、あれこれ言い合いながら片手間に帳面に文字を走らせるふたりの会話も行動も、半分以上理解出来なかった。それでも、ふたりは確実に仕事をこなしている。日付が変わる時間まで切り切り舞いで働いて、仕事が終わると診療所で合流し、その日の報告や検討事項を話し合い、少しゆっくりしてから翌朝に備える。健水はその時々の状況に応じて少し離れた長屋に構えている自宅に帰ったり、診療所に泊まったりしている。そんな打ち合わせを、この日も素早く行った。紫が朝食の支度が整ったと知らせに来た頃には、ふたりは一日の打ち合わせを終え、満足そうに頷き合っていた。
「では、行ってきます」
 朝食を済ませると、恵と健水はそれぞれ往診に向かった。光黄と紫は朝食の後片付けと昼食の支度や畑の手入れに取り掛かり、征太郎は洗濯を始めた。繕い物と同様に、忙しい職人の着物の洗濯も請け負っている。昴は楓と達幸の世話だ。恵の養子とはいえ、楓と達幸の面倒は殆ど昴と近所で楓と年の近い赤ん坊を育てている有加がふたりで見ている。蒼紫が来た時は、蒼紫も楓たちの世話を焼いてくれるので、昴は助かっていた。そうして、それぞれの一日が始まる。
「母さん達、いつも出掛けていないけど、蒼紫さんはゆっくりしていって下さいね」
 楓達が寝付いた後、昴は縁側で蒼紫に湯飲みを差し出した。茶葉が会津では貴重なので、白湯しか出せない事を最初は昴は恥ずかしく思っていた。しかし、蒼紫はそれさえ喜んでくれたので、少しほっとした。
「京都の方は良いんですか? 操さんが寂しがったりしているんじゃないですか?」
 庭先でたらいに水を張りながら、征太郎が尋ねる。征太郎は先程の光黄同様、作業の手を休めず背中で話し掛けている。井戸から水を汲み上げ、せっせとたらいに水を溜めてゆく。蒼紫はその背中を黙って見詰めていた。一度手伝おうとした事があったが、征太郎は冷たい言葉でそれを拒絶したのだった。
「京都の事は気にするな。……もし行きたいのなら、いつでも連れて行ってやるが」
 蒼紫は白湯をすすりながら、ぽつりと征太郎の背中に呟いた。征太郎はその言葉に、初めて蒼紫を振り返った。夜叉のように厳しい顔付きだった。
「京都に!? 僕がですか!? 残念ながら僕、凄く忙しいんです。蒼紫さんには解らないかも知れませんけどね」
 不機嫌そうな口調で征太郎は言い放つ。「征」と、昴は鋭い口調で兄を嗜めた。征太郎は、蒼紫に対していつもこんな態度をとる。昴はそれを快く思ってはいない。
「京都は……行った事はないですけど、賑やかで忙しないんでしょうね。蒼紫さんは、静かな方がお好きだから、京都より会津の方が合ってるんじゃないですか?」
 昴は蒼紫に殆どくっつくようにして隣りで膝を抱えてその顔を覗き込んだ。
「会津は良いところだ。力になれることがあるなら、なんでもしたいと思っている」
 蒼紫が静かに答えると、昴は嬉しそうに肩に頬を寄せた。蒼紫は少し躊躇いを見せた後、昴の後頭部を軽く撫でた。征太郎はその様子を横目で眺め、微かに唇を噛んだ。傍から見ても、恋人ではないように思う。どちらかといえば親子だ。蒼紫と昴が親子という事は、母である恵と蒼紫の関係はなんであるのか、それを考えただけで胸が締め付けられるような想いがした。昴は蒼紫と恵がそうなる事を望んでいる。
 征太郎の見る限り、昴は蒼紫に惚れている。本当は、蒼紫と結ばれたいと思っているのではないだろうか。しかし、それより母と蒼紫が一緒になって蒼紫を会津に繋ぎとめる方が現実的なのではないかと考えたようだ。そういう計算高さが疎ましい。
 穏やかな日差しが降り注ぐ梅雨の合間の五月晴れの午前。紫は庭の隅の畑ではしゃぎ回っている。どうやら小さな虫を見付けたらしい。征太郎は大量の洗濯物に精を出し、昴と蒼紫は並んで空を眺めている。達幸と楓は、昴達の背後の部屋で暖かな陽光に当たりながらすやすやと寝息を立てている。光黄が台所で働くかたかたという小さな音が、庭まで響いてきた。和やかに時間が過ぎた。
 蒼紫は僅かに首を回し、達幸を見た。日差しの中であどけなく眠る達幸は、どこか父に……芝曜介に似ている。眉と口元なんかそっくりだ。目元は母親のちあきに似ているだろうか。……曜介は、此処にいる。
 曜介は、昨年死んだ。妻のちあきと共にこの世を去った。達幸の出生の際は立ち会ったが、曜介達の死は少し経ってから恵から届いた手紙によって知った。葬儀らしい葬儀は出来なかったらしいが、町中の人々が曜介の死を悼んだという。かなり遅くなってから、蒼紫は会津を訪れた。本当は、曜介を見送ってやりたかった。しかし、後から花を手向ける事しか出来なかった。その頃には既に達幸は恵の養子になっていた。もし、曜介達の死に立ち会っていたら、恵が母親になる前に自分が達幸を京都へ連れて行くと言っていたかも知れない。曜介は、幕末、江戸城を守っていた御庭番衆のひとりだった。会津藩で、子供が産まれたら御庭番衆に預ける事を約した夫婦の元に産まれた、代々御庭番の家系の男だ。かくいう蒼紫も、そういった血筋の生まれだった。御庭番の血筋の子供であるならば、京都御庭番衆の近江女や増髪が喜んで世話をするだろう。確か、増髪も同じような家系に生まれている筈だ。近江女は多少事情は異なるが、母方は御庭番の家系だった。そういう人間は少なくない。しかし、曜介らの死後、恵が泣きながら「責任を持って育てる」と言い切ったらしい。昴も、必ず大切に育てると頭を下げたという。征太郎や光黄も、特に口には出さないが、その意志は固い。そんな家族に育てられるのだから、達幸はすくすくと育つだろう。

 その日の夜は、分厚い雲の隙間から、月が細く光を投げていた。
 子供達は恵の言いつけ通り亥の刻には布団に入り、眠りに落ちた。蒼紫はひとり縁側に明かりを灯し、一冊の雑記帳を開いた。書き付けられた乱雑な文字に目を走らせる。曜介の死後、恵から渡された七冊の帳面の内の一冊だ。元隠密御庭番衆密偵方の情報網を利用して、曜介には様々な調査を依頼していた。私的な事も多分に含まれていたが、曜介は嫌な顔ひとつせず何でも請け負ってくれた。そして、報酬に支払った幾許かの金の殆どを会津のために使った。具体的には、恵に託し、薬の調達や炊き出しの材料費に当てるよう頼んでいた。恵達は知らない事だが、蒼紫から支払われる金によって、会津は随分救われていた。その、曜介が残した調査報告の一部だ。今回は、これを確認するために会津に赴いた。
「ただいま。未だ寝ていなかったの?」
「待っていたんですか? 先にお休みになれば良かったのに」
 子三つを回って、恵達は診療所に戻ってきた。診察室に荷物を降ろし、子供達の部屋を覗いた時、障子越しにぼんやりと明かりが見えて、縁側に回ってきたのだ。
「目が冴えてな」
「そう。でも、灯りで子供達が起きてしまうかも知れないし、長旅の疲れもあるでしょうから、そろそろ休んで」
「そうしよう」
「明日は、どうするの?」
 帳面を閉じ、行灯に手をかけた蒼紫に、恵がか細い声で問う。
「征太郎を借りたい。この辺りで、案内して欲しいところがある」
「…………そう、征太郎、ね」
 喉に小骨が詰まったような曖昧な口調で、恵は頷いた。蒼紫の手の中の帳面に視線を落とす。
「解った。では、お休みなさい。私達はもう少し診療所にいるから、もし何か用があったら声を掛けて頂戴。健水君、今日は遅いし、泊まって行くでしょう?」
 恵は蒼紫に必要な事を伝えた後、すぐに健水を振り返り、微笑んだ。
「良いんですか?」
「そうして。明日も朝早いんだし。多分、光黄もそのつもりで用意していると思うわ」
「だと良いんだけど……」
 以前、恵が同じような事を言って診療所に泊まった翌朝、光黄から「朝食がいるとは思わなかった」と、食事の支度が足りていない事を告げられた事がある。それを思い出し、ふたりはくすくすと笑い合った。「今度は大丈夫、多分」と、恵は答えた。ふたりが診察室へ戻って行くと、蒼紫も宛がわれた客間に退いた。



 夜が明けた。分厚い雲は相変わらず空を覆っていたが、ところどころの隙間から、日の光が淡い道を地上に向けて作っていた。健水は、早朝に目を覚まし、庭で大きく伸びをする。
「おはようございます、健水さん。今日はちゃんと食事用意しますからね」
 庭の隅の畑で、健水より一足早く収穫を始めていた光黄が声を掛ける。「有り難う」健水はにっこり笑って見せた。幼い頃から料理を仕込まれていた光黄は、すこぶる腕が良い。健水もそれなりに料理は出来る方だが、光黄の足元にも及ばない。手伝おうとしても足手纏いになった事があるので、今はもう手伝おうと声を掛ける事もない。
「母さんは、診察室ですか?」
「未だ部屋にいるんじゃないかな。俺が起きた時、隣りから音がしたから」
「そうですか」
 どちらにしても、もう起きていて恐らく働いているのだろう。あれだけ朝から晩まで休みなく働いて、いつか母が身体を壊さないか心配だが――何度か、熱を出した事がある――、最近では、健水と体調を気遣い合っているし、自分達も手伝える事も増えてきた。母の負担を少しでも減らしたいと、光黄は強く思っている。
「おはよう、光黄。おはようございます、健水さん。よく眠れましたか?」
 続いて部屋から出てきたのは、長男の征太郎だった。征太郎は両手に古びた着物を何枚も抱えていた。着物の山を縁側に下ろし、部屋に戻って裁縫箱を持ってきた。
「今日も大量だな」
 征太郎が縁側に腰を下ろして裁縫箱を開くと、健水は首をぐるぐると回しながら征太郎の横に積まれた着物を見た。
「昨日は天気が良かったから全部洗濯出来たし、ほつれの見付かった物は今日中に直してしまおうと思って。今日は降るみたいだから」
「そうなのか? 確かに、どんよりしてるな。でも、今日は蒼紫さんが、お前に案内を頼みたいと言っていたぞ」
「…………蒼紫さんが?」
 征太郎は怪訝そうに眉を寄せた。あからさまに嫌そうだ。
「良いじゃないか。偶には蒼紫さんの役に立っておけば、母さんだって喜ぶんじゃないか? 兄さんは、蒼紫さんを敵視し過ぎなんだよ。そんな意味のない事をしても、兄さんに望みなんかないんだから。まぁ、母さんに良いとこ見せておけば良いじゃない」
 からかうような光黄の口調に、征太郎は益々顔をしかめた。
 光黄は、征太郎の母に対する愛情の正体を察している。光黄だけではない。昴も紫も、健水も知っている。征太郎自身は認めていないが、征太郎の態度は解り易い。征太郎の愛情は、母親に対するそれを遥かに上回っている。恐らく、征太郎の近親者でそれに気付いていないのは恵くらいなものだ。恵は純粋すぎるほど純粋に征太郎を大切な息子として扱っており、それ以上の感情の介入する余地はない。征太郎にしてみれば、母にとって一番良い子供でいたいという想いは強いのだが、それ以上に溢れ出す感情を持て余している。
「僕は朝食の支度を始めるよ。支度が整ったら呼びに来る」
 光黄は短く言い、野菜の入った籠を抱えて家の中に入って行った。征太郎は憮然と俯き、針に糸を通す。出来れば蒼紫とは話をしたくないと、密かに思っていた。
 しかし、そんな征太郎の思いは完全に無視される。征太郎が勝手に思っていただけの事だから、それも仕方のない事だ。朝食の席で、蒼紫が声を掛けて来た。
「征太郎、今日、時間をくれないか?」
 征太郎と蒼紫の他に、恵、健水、昴、光黄、紫、達幸、楓がいて、全員が征太郎に注目する。征太郎は「とうとう来たか」と思いつつ箸を止めた。
「はぁ……何か?」
「少し、この辺りを案内してもらいたい」
「今更案内ですか? 今更?」
 二回言う事ないのに、と内心呟いた恵だったが、敢えて口にはしなかった。征太郎が蒼紫に対して好意的な想いを持っていない事は知っている。まだ子供が征太郎しかいなかった頃の話なのでもう五年も前の事だが、かつては征太郎も蒼紫に懐いていた筈だ。強くなりたいから、京都に行きたいとまで言い出した事がある。一体いつの間にこんなに蒼紫に嫌悪を示すようになったのか。蒼紫がそれをすんなり受け流してくれているのが有り難いと、恵は思う。
「征太郎、案内して差し上げなさい」
 恵は努めて冷静に、ゆっくりと征太郎に諭した。母に言われては言い返す事が出来ない。征太郎は唇を結んだ。
「兄さんが行きたくないのなら、私が行きますよ、蒼紫さん。兄さん、家にいるなら、達と楓の面倒を見てくれるわよね?」
 昴が身を乗り出した。これには、征太郎も渡りに船と、嬉々として乗り掛けた。しかし、蒼紫は首を横に振る。
「征太郎に頼んでいるんだ。駄賃は弾む」
 金でなんでも言う事を聞くとは思われたくない。だが、金は重要だ。会津には兎に角金がない。会津の中で回る金など高が知れている。やはり、外から稼がなければならない。本郷焼きの職人の朱苑虎太郎の作品は、遠く九州からも注文が入る程の人気だ。それが、会津にとっては重要な資金源になっている事は、征太郎や昴達はみんなよく知っている。外で稼ぐ事が出来ないのであれば、蒼紫のように外から来る人間に頼るしかない。悔しいけれど、ここは蒼紫の言う事を聞いておく方が良さそうだ。征太郎は、渋々ながら頷いた。
「僕で良ければ、お供します……」
 長男の苦渋の選択に、恵は小さく笑ってしまった。きっと会津の事を考えている。会津のために、嫌な事も引き受けようとしているそれは、成長というのだろうか。可哀想だと思う反面、頑張ろうとしている征太郎を応援したい気持ちもあった。
「あぁ、頼む」
 こうして、征太郎と蒼紫は連れ立って会津を散策する事になった。
 いつも通り、恵と健水はそれぞれ往診に出掛け、昴は掃除と年少者の世話、光黄は台所の片付けと昼食の支度、紫は昴や光黄の手伝い。それがひと段落着いたら、光黄と紫は手分けして近所に薬を配ったり、御用聞きをしに出て行く。蒼紫がいようといまいと、普段と変わらない日常が会津にはあった。

 重たい雲が垂れ込め、もう隙間なく空を埋め尽くしていた。その内雨が降るだろう。もう少し……あと二時間は大丈夫か。征太郎は空を仰ぎながら、そんな事を考えていた。征太郎の仕事は洗濯と裁縫。洗濯は天気に左右されるため、自然と天気を読む力が備わっていた。
 蒼紫と征太郎は、会津若松城の側まで歩いて来た。かつて鶴ヶ城と呼ばれた白亜の城は、もう跡形もない。明治元年の会津戦争の籠城戦で砲撃を受け、明治七年には政府の命で天守を始めとする建築物は総て取り壊された。これまで、嫌という程この城跡を見てきた。会津の敗北を思い知らされ、城はおろか町さえ復興出来ない会津の無力さを突き付けられるようで、この場所はあまり好きではない。
 辺りはまだ荒れていて、何本か大きな木が生えている以外何もない場所だったが、不自然に五株の紫陽花が植えられ、青紫の花を咲かせていた。
「……お前は、会津戦争の最中に産まれたといったな」
「はい……」
 征太郎は静かに頷いた。それは、会津の人々は殆ど知っている事だ。
 会津戦争末期、鶴ヶ城から数人の女の一団が城下へ逃走した。女のひとりは身篭り、臨月に入っていた。藩主の血筋の女だった。女達は始めこそ鶴ヶ城に籠城していたのだが、激化する戦争の中で女はみるみる体調を崩していった。これでは、胎児にも悪影響があると判断し、数人の侍女を連れて城下の安全な場所を探して避難しようと決めたのだった。籠城していた人々の殆どがそれに賛成した。会津の未来を担う子供を、安全な場所で産む事が女の戦いだと考えたためだ。しかし、逃走の途中、新政府軍の男達四人に見付かってしまう。男達は身重の女を見るや、胎児が男か女かを賭けようと騒ぎ出した。逃げる女達を捻じ伏せ、男は身重の女の腹を切り裂いた。そして、胎内から男の子を引きずり出した。偶々そこに居合わせた会津の民が男達を蹴散らし、赤子を保護した。赤子の母親はその場で命を落とし、偶然通り掛った会津の娘が赤子を育てると申し出た。負傷した侍女達は赤子を抱く事すら儘ならず、娘に託す事を決めた。あまり知られていない事だが、侍女達は後に戦死している。そうして産まれたのが、征太郎だった。そして征太郎を育てた娘が、征太郎の育ての母・まりである。
 征太郎はまりから、征太郎が産まれたのは月の明るい夜で、煙の上がる鶴ヶ城の白い壁が月に照らし出されていたと聞いた事がある。生まれたのは、戯れに母が殺されたのは、鶴ヶ城の見える場所だった。
「高荷には……お前の母親には話した事があるが、俺は会津の生まれだ」
「え……そう、ですか」
 意外な言葉だった。しかし、興味を持っているとは思われたくない。興味がないというわけでは決してないが。征太郎は蒼紫を見上げ、その顔色を窺った。この場所で何をしたくて、何故突然自分の出生の話などしたのだろうか。
「小尉――曜介もそうだったが、会津藩には子供が産まれたら御庭番衆に預ける家系が幾つかあった。他の藩にも勿論あったが、会津は御庭番で戦えなくなった者が子供を産む役に回るために移り住む事が多く、代々続く“御庭番の血筋”の者が特に多かった」
 言われ、征太郎は頷いた。納得は出来る。会津藩は幕府と密接な繋がりのあった藩だ。その結果、会津戦争に至ったわけだ。
「俺もそうして産まれた。此処で育ったわけではないが、生まれ故郷の力になりたいと思って、度々足を運んでいる」
 蒼紫は征太郎を見る事もなく独り言のように口にした。何かの言い訳なのだろうか。蒼紫が何かにつけて会津を訪れる事を快く思っていない自分に対して何か言いたいのだろうか。征太郎は黙って聞いていた。蒼紫は、片手に帳面を持っている。征太郎はそれがなんだか解らないが、曜介の残したそれだ。蒼紫は帳面を見ては辺りを見回し、何かを確認している。そして、深く頷いた。
「……何処に行きたいんですか?」
 怪訝そうに征太郎が問う。
「此処だ」
「……は?」
「お前は、此処で産まれた」
 オマエハ、ココデ、ウマレタ――
 耳の奥で、脳内で、蒼紫の言葉を反芻する。突然蒼紫の口から脈絡もなく吐かれた言葉を、俄かに意味を理解する事が出来なかった。
「…………なんて?」
「此処がお前の出生地だ。この紫陽花が目印だと書かれている。間違いない」
「どういう……」
「お前の母が城から逃げ――」
 斬り殺された場所。胎内の赤子――後の高荷征太郎――が、下衆な男達の手によって引きずり出された場所。罪もない女達の血が流れた場所。偶然、赤子だけが生き延びる事が出来た場所。
「うわぁっ!」
 征太郎は咄嗟に耳を塞いだ。
「征――」
 震えていた。半開きの唇が戦慄き、両の瞳が濡れた。
 紫陽花の花が風にざわざわと揺れている。ざわざわ、ざわざわ。
 征太郎は大きく首を振った。見た事のない光景が、征太郎の視界に広がる。紫陽花の根元に赤い血が流れ出し、逢った事もない女が横たわっている。身体の前面を大きく切り裂かれ、淡い色の唇がぱくぱくと金魚のように開閉を繰り返す。何か言っているのか。
 風が強くなった。
 征太郎は一歩、二歩と後じさり、紫陽花から離れてゆく。蒼紫は、耳を塞ぐ征太郎の手首を掴んだ。
「征太郎、落ち着け。俺はお前――」
「触るな!」
 征太郎の腕が勢い良く蒼紫の手を振り払った。征太郎の瞳から大粒の涙が零れ出し、それを拭う事もせずにさっと背を向けると、そのまま走り去ってしまった。
 ぽつりと、小さな雨粒が空から零れ落ちた。
 早過ぎただろうか。或いは、事前に説明してから来るべきだっただろうか。もしかしたら、前の母親――まりという女が、征太郎に産まれた場所、実母の死んだ場所を教えていたかも知れないと思った事もあったが、征太郎と話している限り、知らない様子だった。だから、知らせてやるべきだと思ったのだ。
 紫陽花の花は、曜介が植えた。何処からか調達してきて、この場所の目印に、と。それをこの帳面に記していた。これを見た時、いつか征太郎を連れて来ようと決めた。だから花の咲く時期を選んで此処へ来た。征太郎は知りたくなかったろうか。もっとちゃんと話をしておけば、こんな事にはならなかったのだろうか。何にしても、不用意に征太郎を傷付けてしまったらしい。蒼紫は息をつき、側の大木に身を寄せた。雨が徐々に強くなる。鈍色の雨の中で、紫陽花だけが空を見上げている。
 蒼紫は紫陽花に向かってそっと手を合わせ、目を閉じた。征太郎の母が眠る場所。その遺体は、恐らく何処かに捨てられている。それでも、征太郎の母が此処で息を引き取った事に間違いはない。紫陽花は、曜介が目印として、墓標の代わりとして植えたもの。此処が、その女の墓。蒼紫自身、殆ど逢った事もない女の。
「……四乃森さん?」
 雨音が変わったと思ったら、大きな赤い傘を差した恵がこちらへ向かって歩いてきていた。傘が雨を弾く音に紛れて、小さな声が蒼紫の耳に届く。
「征太郎は?」
「帰った。濡れていなければ良いが」
「傘を持って来なかったの? 雨が降るって、征太郎が朝から言っていたし……貴方なら、そのくらいの事解るんじゃないの?」
「…………」
 蒼紫は黙って視線を反らした。躊躇い、迷い、後悔――薄暗い感情が、蒼紫の中に渦巻くのを感じ、恵はそっとその腕に触れた。
「蒼紫」
「……恵」
「帰りましょう、蒼紫。私も一旦診療所に戻るから」
 恵は蒼紫に傘を差し出した。蒼紫は恵の手から傘を取り、一歩踏み出した。足元で、僅かに水が跳ねる。
「征太郎を怒らせた?」
「……泣かせた」
 あら、と恵は呟く。
 征太郎は気の強い少年だ。ちょっとやそっとの事で、人前で涙を見せるような事はしないだろう。蒼紫の前では特に。恵は小首を傾げた。蒼紫は足を止め、紫陽花を振り返る。
「あそこが、征太郎の産まれた場所だと告げた」
「曜介さんの手記に書いてあったのね。それで……」
 征太郎の気持ちは、解らなくもない。恵自身、父が殺害された現場に居合わせたのだが、もし父の死を人伝に知らされていて父の遺体と対面する事もなかったとしたらどうだろう。十五年後に突然連れてこられた場所が父の殺害現場だと言われたりなどしたら、混乱するに違いない。手を合わせる場所が何処か解る事は幸いな事かも知れないが、それを受け入れられるのは時間が経ってからの事で、急にその場所でそんな事実を知らされたら、耐えられないのではないだろうか。しかも、征太郎の母の死は、余りにも残酷で、人道に反れた行いによるものなのだから。
「征太郎が泣くのも無理はないわ。でも……征太郎の事を思ってしてくれたのよね? それは、有り難う」
 征太郎の母として礼を述べる恵の横顔は、何処か儚げだった。
「綺麗な紫陽花ね……」
「俺の母は、紫陽花が好きだったらしい」
「へぇ……」
「――と、小尉が記している。よく調べたものだ」
 優秀な密偵方だ、と、蒼紫は口元を緩める。
「紫陽花の花が雨の中に揺れる風景が好きだったのかも知れないな。俺も……心惹かれる。俺の名は、紫陽花の花の色にあやかって付けられたそうだ」
「一月に生まれたのに?」
「よく覚えているな」
「……まぁね」
 相当、紫陽花が好きだったのだろう。恵も、紫陽花の花は好きだった。暗い雨の中でも凛と咲く逞しさを羨ましくも思う。蒼紫の母は、それを望んだのかも知れない。そんな強さを備えた男になって欲しいと思っていたのかも知れない。青紫色の鮮やかな花は、くすんだ景色の中でも色を放つ。そして、その美しさを忘れる事が出来なくなる。
 ――蒼紫。
 そんな男だ。一時は暗い闇に飲まれていたけれど、今は雨の中でも真っ直ぐに立つ男だ。凛々しく美しい男だ。紫陽花の花のように、仲間に慕われる男だ。
 素晴らしい男だ、と、思う。思えば思う程に、胸が小さく痛むのだけれど。
「征太郎に伝えたのは……此処が征太郎の産まれた場所だという事、だけ?」
「そうだ」
 蒼紫の短い答えを確認すると、恵は蒼紫の腕を押した。
「診療所へ戻りましょう。余り時間が無いの。直ぐにまた出なければならないから」
 恵に促されて、蒼紫は紫陽花に背を向けた。
 ひとつの赤い傘に窮屈ながらふたりは肩を寄せ合って歩いた。何年か前なら、傘を取りに診療所に戻って、もう一本傘を用意してから帰ったかも知れないと恵は思う。いつから、こうして寄り添って歩く事に抵抗を覚えなくなったのだろう。それとも、もう何年も前から――あの夏、京都で再会した頃から、それは当たり前の事になっていたのだろうか。この男も、傘からはみ出した肩が少しばかり濡れる事など気にも留めない。この表情のない男の考えている事が解るようになったのはいつからだったろうか。地獄のような邸で情を交わしていた頃は、それが全く解らずに苛立っていたというのに。
 いつまで、こんな風でいられるんだろう。
「征太郎を、連れて行くの?」
 唐突に恵の口をついたのは、そんな言葉だった。
「どういう事だ?」
「だから、征太郎を京都に連れて行くつもりでいるのかと聞いているの」
 強い口調ではっきりと言ったが、傘を叩く雨の音が恵の話の邪魔をした。もし此処にいたのが征太郎や健水なら、聞き取る事が出来なかったかも知れない。しかし、蒼紫は多少の雑音で言葉を見失うような事はない。幼少の頃から、そういう訓練を重ねてきたのだ。
「随分前に……いつかの正月にそんな話をした事が無かったか? 俺は、征太郎を京都に連れて行くつもりは無い。あいつも、今はそんな事を望みはしないだろう」
 恵はじっと蒼紫を見詰め、その言葉を一言一句聞き逃さないように集中した。蒼紫の低くくぐもった声は雨音に紛れるが、何とか聞き取る事が出来た。恵は険しい表情のまま、蒼紫を見詰めた。
「でも、連れて行きたいと思っているんでしょう? 本当は、手元に置きたいと思っているんでしょう?」
「何を言っているんだ、お前は何を……」
 言いかけて、蒼紫は雨が降り出すと同時に懐に仕舞い込んだ曜介の手記の存在に思い当たった。これは、恵の手から渡されたものだった。
「少し……少しだけ読んでしまったから。ちらっと、征太郎の名前が見えて少し気になったのよ。それで……」
「恵……」
「本当は、側に置きたいと思っているんじゃないの? 征太郎は、“御庭番の血筋の子”だから。それに、征太郎はあ――――と――ら……」
 殆ど囁くような微かな声。唇は僅かに動いているが、強い雨音のせいで、蒼紫ですらその言葉を明確に聞き取る事は出来なかった。言い切った唇は震えていた。瞳が潤んでいるようにも見えた。恵は言いたい事を言い終えると、ふいと蒼紫から視線を外した。
 聞き取る事は出来なかった。それでも、恵が何を言いたいのかは理解出来た。恐らく、その内容を読んでしまったのだろう。恵が曜介の残した七冊の手記を全部読んだとは思わない。曜介は悪筆で、走り書きや御庭番衆にしか解らない暗号も多かったから、相当根気が無ければ読み解く事は不可能だ。それが出来たのは、蒼紫に時間と根気と目的があったからに他ならない。それに、もし全部読んでいたとしたら、征太郎の事以前に直ぐにでも確認したい事がある筈だ。それを確認するためだけに京都まで飛んでくるのではないかと思える程、恵にとっては重要な事が手記の何冊目かに記載されている。そうしないという事は、本当に偶然開いてしまった項に征太郎の名を見付けただけなのだろう。御庭番の手記に征太郎の名が記される事自体、恵にとっては考えられない事だったろうから。
 恵の言う通りだった。征太郎は、蒼紫や曜介と同じく“御庭番の血筋”を引く者。時代が時代なら、産まれて間もなく御庭番衆に引き取られ、親の顔も知らずに修行に明け暮れていただろう。そして、その血筋についても、曜介は詳細に記していた。そこには暗号も混じっていたから、それを総ては理解していないだろうが、恵はそれまで知らなかった事を知ってしまった。そしてその事実を、征太郎が知る事を恐れている。
 蒼紫は黙っていた。恵の言う事は正しい。それを、否定する嘘を蒼紫は持ち合わせていなかった。曜介の手記を読み、その事実を知った時、征太郎を欲しいと思ったのは事実だ。逢えるとは思っていなかった、いや、存在する事すら考えもしなかったその事実は、蒼紫の衝動を掻き立てた。直ぐにでも会津に赴き、恵に頭を下げてでも征太郎を京都へ連れて行きたいと何度も考えた。だが、その度にその考えを思い止まらせたのは、他ならぬ恵自身の存在だった。恵がそんな事を望むはずが無い。恵が最も悲しむ事だ。誰よりも征太郎を大切に思っているのは恵であり、恵以上に征太郎を幸せにする者はいない。それは、自分自身でも決して叶わない事だと蒼紫は解っていた。何週間か経ち、蒼紫は漸く納得した。征太郎は会津にいて、自分が征太郎に逢いに来れば良いのだと。由緒正しい御庭番の末裔。徳川吉宗の時代から、代々会津藩で受け継がれてきた数少ない御庭番の血脈。それを継ぐ、誇り高き少年。その意味は彼に解るわけもないし、もしそれを知る事によって、征太郎自身が悩んだり嫌悪する事も考えられた。或いは、御庭番衆や蒼紫の事を強く意識する可能性もある。それは、望むべきではない。だから、征太郎には言わなかった。ただ、教えてやりたかった。母の事を。紫陽花の咲く時期に。
 ふたりは黙ったまま診療所に戻り、恵は診察室から荷物を幾つか鞄に詰め込んでもう一度出て行った。そして、その日も日付が変わるまで帰る事は無かった。



 蒼紫は庭に叩きつける雨を眺めていた。深夜の闇の中でも、傍らに灯した行灯の光が雨粒を赤く照らし出した。診察室の方から、恵と健水が話をしている気配を感じる。内容までは解らないが、恐らく一日の報告をし合っているのだろう。この雨だ、健水は今日も泊まって行くのだろうと蒼紫は察した。恵達が戻って半時程で、会話は終わり、健水は自分が利用している部屋に戻ったようだった。
「今日も遅くまで起きているのね」
 蒼紫が、恵達の報告会の終了を察してから更に四半時過ぎて、恵は前日と同じように縁側に姿を現した。湯浴みをしていたのか、濡れた髪を手拭いで拭いている。
「…………あぁ」
 蒼紫は僅かに恵を窺った後、直ぐに庭に視線を戻した。恵は蒼紫から少し距離を取って縁側に腰を下ろし、膝を抱えた。髪が濡れているせいもあり、肌寒く感じられた。
「ご飯は、食べたの?」
「あぁ」
「達幸や楓と、遊んでくれたの?」
「少しな」
 有り難う、と恵は呟いた。その声が聞き取り辛く、蒼紫は縁側に手をついて恵の方へ身体を傾けた。それに気付いた恵は蒼紫に顔を向けて、有り難う、と繰り返した。そのまま、唇を結んだ。
 ふたりの間には沈黙が下りた。ただ、五月蠅い程に響く雨音が、静寂を破っていた。つやつやとした赤い雨粒は、地面で弾け飛ぶ。無数の雨が跳ね上がるのを眺めながら、恵は裸足の爪先が徐々に冷えてゆくのを感じていた。
 蒼紫が何を考えているのか、今は解らない。ただ、もしかしたら征太郎の事を考えているのかも知れないと恵は思った。蒼紫はさっき答えなかったけれど、きっと征太郎を欲しているだろう。でも、絶対に渡したくない。征太郎がどうしても京都に行きたいというのならば話し合う覚悟はあるけれど、今は征太郎と離れる事なんて考えたくない。征太郎は大事な息子だ。成長を見届けたい。あの邸で諦めた夢が、彼のお陰で叶ったのだ。そういう意味では、最初の養子である征太郎は特別だ。勿論、他の子供達が大切な事に変わりは無いけれど。昴も、光黄も、紫も、達幸も、楓も。昴……彼女が京都に行きたいと言い出したらどうしよう。見ている限り、昴は蒼紫に好意を抱いている。仕切りに蒼紫に会津にいて欲しいと言っている。達幸や楓も懐いている。光黄や紫だって、嫌っているわけではない筈だ。蒼紫は会津に馴染んでいる。隣りにいるのが当たり前に思える程に。会津の人々も、蒼紫を快く迎えているし、何かと手を貸してくれるから助かっている。何より、御庭番衆の御頭だった男が会津のために力を尽くしているという事実が、会津の人々を勇気付けている。
 だとしたら。
 恵は、床に手を這わせた。蒼紫の方を向く事なく、雨を見詰めたまま蒼紫の手を捜す。指が触れた。蒼紫は恵の方へ視線を投げる。恵は、そっと蒼紫の小指を握った。
「側にいて……」
 ぽつりと、唇から言葉が零れた。
「ずっと、会津<ここ>にいて……欲しい……」
 掠れて消えてしまいそうな程、儚い懇願。恵はぎゅっと指先に力を込めた。蒼紫の顔を見る事が出来ない。その考えに触れたくない。ただ、望みを口にしたかっただけ。それは恵自身の、子供達の、会津の望み。満たされなくても拒絶されても構わないから、喉の奥に引っかかっていた想いを吐き出してしまった。
 恵は深く息を吸う。
「……今…………なんて言った?」
 蒼紫は恵に顔を近付けた。
 その瞬間、恵の脳裏にひとりの少女の姿が浮かぶ。細く長いみつ編みをなびかせてくるくると笑うあどけない少女。彼にとって大切な人であり、彼の婚約者である少女――巻町操。
 ――間違えた。
 咄嗟に、恵は蒼紫の指を離した、仰け反って距離を取った。駄目だ。口にしてはならない事を言葉にしてしまった。これは、言ってはいけない事だ。拒絶される以前に、望む事さえ許されない事だ。“彼女”の存在を無視した言葉だ。
「恵……」
「なんでもないわ!」
 恵はきっぱりと言い切った。
「なんでもない。聞こえなかったのなら、良いの。忘れて」
 早口で言うなり、恵は立ち上がった。もう蒼紫を振り返る事も無く、そのまま部屋に戻っていった。
 聞き返してはならなかった。それが是であっても非であっても、答えなくてはならなかったのだと蒼紫が思い知ったのは、恵の姿が消えた直後の事だった。聞こえなかったわけではない。もう一度言わせたいと、ほんの僅かな欲望に火がついた。本当なら、手を握り返すべきだった。ちゃんと答えるべきだった。雨のせいにすべきではなかった。
 忘れて、と、恵は言った。本当に忘れるべきなのか? それとも、明日答えても良いものか? 恵の口から出る筈のないあの言葉は、恵の本心だったのだろうか。
 蒼紫は、深く息をついた。



 雨はふたりの間に降り続けた。望むべきではない望みが顔を出したのは、きっと雨のせいだ。雨音が、心細くさせたのだ。雨が、身体を冷やしたからだ。もう夏が近付くというのに、今夜はこんなにも寒い。

 雨の日に見る夢は、こんなにも冷たい――

fin
雨の夜に初めて口にした言葉。
二度と言いはしない。
言ってはいけない言葉だから――
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