貴方が幸せになれるように、僕はなんでもする。
 だから、僕を側において下さい……



    僕はあなたの奴隷になる



 明治十三年五月、東京――
 豪華な邸宅の二階の奥に、女がひとり眠っていた。
 八畳の部屋の片隅には行灯がひとつ置かれ、部屋の中をぼんやりと照らしている。部屋には一面に花が散らばっていた。茎を短く切り落とした花は、二百はあるだろうか。無造作に散らかっている。紙をくしゃくしゃと束ねたような、幾重にも複雑に重なった花弁は全体が桜のような色をしているが、縁取りだけが赤みの強い紫だった。日本では見掛けない、珍しい種類の花だ。
 女はそんな部屋の真ん中に敷かれた布団にしどけない姿で横たわっていた。年の頃は二十四、五。漆黒の長い髪は敷布団の外にまで広がり、赤い襦袢を肌蹴させた胸元は白く淫らだった。
「お姉様」
 襖の向こうから、小さな声が女を呼ぶ。まだ幼い少年の声。暫く沈黙があり、少年の声はもう一度「お姉様」と呼んだ。
「んー、うるさいわねぇ」
 女はむずむずと身体を動かし、乱暴に目を擦った。寝惚け眼で僅かに開いた障子の向こうを見遣ると、煌々と満月が街を照らしている。確か布団に入った時は、まだ日の落ちる前だった。随分と寝入っていたようだ。行灯は、今はこの部屋にいない男が付けて行ってくれたのだろう。女は気だるげに起き上がると、髪に絡みつく花を払い除けた。
「お姉様、お夕飯を御用意しました」
「入っていらっしゃい」
 女は艶やかな声で少年を呼んだ。少年は返事もせず、ゆっくりと部屋と廊下を隔てる襖を開いた。指が震えていた。襖の向こうから顔を出した声の主は、十歳程で、昏い瞳をして俯いていた。少年の首には、幅二寸程の黒い鉄製の首輪が付けられていた。少年の首の太さにぴったりとはまるその首輪は、少年が首を上下に動かすだけで肌を擦り、赤い痣を刻んだ。少年は両手を床について頭を下げた。
「早くおいで」
 女の声には苛立ちが混じっていた。少年は顔を伏したまま立ち上がり、花を避けながら女の側へと進んだ。
「お姉様、お夕飯が冷めてしまいます……」
 少年は震える声で訴えるが、女は非難するように丸い目を眇めて少年を睨んだ。こうしている内に食事が冷めて、「悪い子」とまたぶたれる事を少年は知っている。しかし、少年は女に抗う事が出来ない。少年の世界は、この女が支配していた。
「私の可愛い奴隷ちゃん。もうすぐ新しい首輪が出来るからね」
「……有り難うございます」
 少年は立ったまま項垂れるように頭を下げた。それだけで、喉元に首輪が喰い込む。少年が歯を食い縛る姿を見上げる女の形の良い唇は卑しく吊り上っていた。
「可愛い可愛い奴隷ちゃん。触ってちょうだい」
 女は、少年の手を握る。縹色に白や黄の小花を散らした上等な女物の着物を身に付けた少年の指は白く細く、炊事をするために襷でたくし上げた袖から覗く腕は、青黒い痣に点々と染められていた。少年は表情のない空ろな顔で女を見詰め、そっと布団の端に膝を下ろした。
 少年の手が、何の言葉もなく女の首元に触れ、ゆるゆると肌を撫でながら胸へと下ろされる。豊かな乳房に触れる手が微かに震えた。
「ほら、ちゃんと」
 女に咎められ、少年は意を決したように唇を噛むと、女の耳元に舌を寄せ、乳房を丁寧に愛撫した。女は甘い声を上げて再び布団に寝転がった。障子の隙間から吹き込んだ風が、行灯の火を消す。月の光が一層強く輝き、ふたりを照らした。少年は小さく息を飲み込むと、目の前の女の鎖骨に口付け、両手で乳房を掴むと花の蕾のような突起を赤子がするように口に含む。女は、また嬌声を上げた。

 少年は五年程前、この女に買われた。五つの砌に京都の楼閣に売られた少年の愛らしい顔立ちを、偶々京都に旅行に来ていた女がいたく気に入り、買い上げたのだ。女は東京の邸に少年を連れて来て、共に生活を始めた。最初の内は美しい着物を着せて楽しんでいた。大抵が少女の着るような女物の着物だった。少年の白い肌に映える着物が見付かるまで何着も着せ替えて、気に入りの着物が決まるとそれを着せて添い寝をさせた。少年は眠るには分厚く寝苦しい着物で幾晩も過ごした。日中は、女中と共に邸の掃除をさせた。女中達は高価な着物で掃除をさせる事を反対したが、女は着飾った少年が細々と動き回る姿を眺めて楽しんだ。しかし、誤って桶を引っ繰り返したり埃を擦ったりして着物が汚れると、少年に手を上げた。
 女には複数の男がいた。殆ど性交を目的とした関係だった。朝な夕なを問わず部屋に男を引き込んでは、蜜事に耽った。時には少年がその様子を目撃する事もあったが、気に留める事はなかった。しかし、少年はその行為に言い知れぬ嫌悪を覚えた。それがどういう行為であるか、少年には意味は解らなかった。ただ、男と交わる時の主の様相は酷く気味が悪かった。
 少年は一度、耐え切れずに邸から逃げ出した事があった。だが、裸足で駆ける少女の着物を着た少年は街中で目立ち、間もなく警察に保護され、連れ戻された。女はその事に怒り、少年の両手を紐で縛り、少年の首に十本の釣り糸を括り付けて部屋の隅に繋いだ。そして、鉄の首輪を作らせ、首輪が出来るとその細い首に嵌めて鍵を掛けた。首輪は、鎖で繋ぐ事も出来るような仕掛けの付いたものだった。鉄の首輪は幼い少年には重かったが、少しでも弱音を吐けば折檻して黙らせた。
 女は男のいない日は少年に添い寝をさせ、男のいる日は掃除以外の時間は部屋や庭に鎖で繋いだ。
 少年が六つになると、女は女中に言い付け、少年に掃除に加えて料理や洗濯を覚えさせた。少年は掃除より料理が好きになった。女が気紛れに見せる笑顔のために、懸命に料理を覚え、七つの頃には一通りの料理が出来るようになっていた。
 その頃になると、女は少年の添い寝に飽き、身体を触らせるようになった。少年の小さな手や舌に自分を喜ばせる方法を教え込んだ。逃げ出したくなる程嫌悪した行為を、少年は最初は拒否したが、女は無理矢理押さえ付けて教え込んだ。その甲斐あって、少年は黙って従うようになった。男の無骨な手とは違う細やかでぎこちない愛撫を女は好み、週に二度は少年を求めた。
 その様子は、傍から見れば異様としかいえなかった。女中達は少年への行為を止めるよう何度も女を説得したが、女は聞く耳を持たなかった。その内、鬱陶しくなり、女中達を次々に解雇した。そして、最後に少年ひとりを残して総ての女中を片付け、家の中の事は総て少年に押し付けた。その頃、少年は八つになっていた。
 少年は愛らしさを残したまま成長し、十一歳になった。勤勉で、料理の本を買って勉強し、益々料理の腕を上げた。女を喜ばせる術も身に付けた。女は、少年が十三になったら性交の相手をさせようと決めていた。手指や舌や唇だけでなく、少年の全身を味わうのだ。それは、女にとって楽しみで、滑稽な事だった。
 時々ではあるが、少年は酷く震えて奇妙な事を口走る事があった。例えば、「西の方が気持ち悪い」とか、「黒い鳥が飛んでくる」といった、一見意味のない言葉だった。しかし、必ずその数時間後、良くない事が起きた。西の川で女の恋人のひとりが水死したり、烏が何羽も窓から飛び込んで来て、女の自慢の宝石の付いた装飾品を浚って行くといった具合だ。女は、それを気味悪く思っていた。
 いつからか、少年は「奴隷ちゃん」などと呼ばれるようになった。名前を呼ばれなくなってどれ程経つだろう。女中がいた頃に読み書きを教わり、帳面に名前の漢字を並べてくれていなかったら、自分の名前を忘れてしまっていただろう。

「あれ、飽きちゃった」
 貿易商で殆ど家にいない父親が可愛い娘のために山程輸入した珍しい花――西洋では、カーネーションと呼ばれているらしい――の茎を切り捨てて部屋中に花だけをばら撒いた部屋で、行為を済ませた後、女は溜息混じりに恋人のひとりに言った。男は三年前に女と出会って以来女の虜になり、我侭な性格も奇妙な性癖も総て受け入れて女に従っていた。
「俺に?」
「あんたは良いの。まだ飽きてない」
 女は悪戯っ子のようなあどけない笑顔を男に向けた。もう身を固めていても良い年だが、時折こんな愛らしい笑みを見せる事があり、男はそんな女の魅力に囚われていた。
「じゃぁ、花に?」
「あの子よ。奴隷っ子。もっと可愛い子をね、この間見付けちゃったの。可愛いっていうより、強そうな逞しそうな男の子でね、服従させたらきっと面白いと思うの。もう、十三まで待つのも面倒くさいし、捨ててきてくれない?」
「は?」
 女が簡単に口にした事の意味を、男は俄かに掴み切れなかった。時々女はこういう意味の解らない事を言い出す。
「気味の悪い事口にするし、身体は弱いし、疫病神なのよ、きっと。だから……どっか山奥に――戻ってきたら嫌だから、東京からうんと離れたところにね――捨てて来てちょうだい。木に鎖で繋いでおけば、大丈夫でしょう。見付からないようにしてね。薬でも飲ませて眠らせて、目隠しして馬車で運べば自分が何処にいるかなんて解らないでしょうし、後は任せるから、適当に捨てて来てよ」
 こういう時、拒否すれば女が手の付けられない程に怒り狂う事を男は経験上知っている。しかし、当然そんな事をすれば少年がどうなるかも解っている。少年は、年の割には大人びた、整った顔立ちをしている。女は昔から可愛い物や美しい物を好み、少年の事も一目惚れして買ったのだと男は聞いている。しかし、女は飽きっぽい。この五年、少年を側に置いていた事が珍しいくらいだろう。だが、だからと言って山の中に鎖で繋ぐという発想は常人にはあろう筈がない。空恐ろしいものを感じ、男は黙った。
「ねぇ、捨てて来て。明日。今日の内に薬飲ませちゃいましょう」
「……解った。明晩、また来るよ」
「うん、じゃぁ、お休み」
 男は明るく応じて布団に潜り込んだ女が眠りに付くのを待ち、行灯に火を点して部屋を出た。
 男が一階に下りると、台所で少年がひとり夕飯の支度をしていた。黒い首輪の下に、赤く線を引いたように痣が見える。男は、忙しなく動き回る少年の背中に声を掛けた。
「光黄、お前は此処にいたいか?」
 光黄と呼ばれた少年は、さっと振り返る。青白い顔に表情はなく、世界を拒絶しているかのように見えた。
「……それを聞いたら、貴方はお姉様になんと言うんですか?」
「いや……」
「北」
 光黄は突然身体を震わせ、ぽつりと零した。
「は?」
「北が……良い」
「北……か……。そうか」
 男はそれだけ言うと、邸から去った。
 光黄は食事の支度を整えると、おずおずと女の部屋へ向かった。



 目隠しをされ、薬を飲まされて、光黄は馬車の中で眠っていた。目一杯着飾られ、髪にはあの床に散らばっていた花が一輪差してある。女は最後に光黄を飾り立て、男に押し付けた。
 男は、「北が良い」という光黄の言葉を最後の望みとして受け取り、馬車を北へ向かわせた。
 どれ程走ったか、男にはよく解らない。細い月が薄雲越しにぼんやりと輝く夜。いつの間にか深夜と呼べる時刻になっていた。男は鬱蒼とした林の前に馬車を停め、馬車に積んでおいた鎖を引きずり出し、光黄を抱き上げた。光黄が目を覚まさない事を確認すると、男は近くにあった手頃な木の幹に鎖を回して、鎖の両端を光黄の首輪の仕掛けに繋いで鍵を掛けた。これで、光黄が自力で鎖を外す事は出来ない筈だ。
 こんな暗く悲しい場所に、まだ十一の少年を鎖に繋いで放置するなど、あってはならない事だと男は理解している。しかし、そうする外ない。それは、自身があの蠱惑的な女の側にいたいという傲慢に過ぎない。それでも、彼女には逆らえない。幕府の時代が終わり、明治政府が成立して十三年も経つが、貧困や重労働で命を落とす子供は数多い。この子は、金に困った親に売られたにも関わらず、すぐに買い手が見付かり、裕福な暮らしを五年以上もしてきたのだ。それを考えれば幸せだったのだ。一生分の幸せを五年で使い果たしたのだ。男は自分にそう言い聞かせ、少年の髪の花を付け直し、立ち上がった。目隠しを外す事は出来なかった。顔をちゃんと見てしまうと、決心が鈍るような気がしたからだ。
 男は馬車に乗り込み、その場を去った。自分が今いる場所が何処であるかも解らない。きっともう二度と来る事はないだろう。いや、北にはもう二度と行くまいと心に決めた。

 朝日が昇った。夜空に掛かっていた薄雲は風に流され、雲ひとつない蒼穹が広がっていた。五月の爽やかな朝だった。
 会津の林の入り口に、ひとりの青年が立っていた。青年は腕組みをして首を傾げた。この二年程京都から北上し、色々な地域をゆっくり見て回って、会津まで辿り着いたのだが、こんな状況は初めてだった。足元に、子供が転がっている。いや、それ自体は珍しくない。子供が命を落とす場面に遭遇した事はそう多いわけではないが何度かある。皆、親の腕に抱かれて息を引き取り、親はこの世の終わりのように涙を流していた。大抵は粗末な服を着て、小さな村で飢えに苦しんでこの世に別れを告げていた。そういう現場に遭う度、明治政府の無能さに幾許かの不快感を覚えたりしたものだ。しかし、今回は随分と状況が違う。死んでいるかどうかは一見した限りでは解らないが、何のためにか、手拭いで目隠しをされていた。目隠しを外してみると、睫の長い眼は固く閉ざされていた。肌の色も白いし顔立ちも極めて整っているが、どうも少年のように見える。年は十歳前後といったところだろうか。何故か女物の上等な着物を着て、髪に見た事もない愛らしい花まで飾っている。その上、首には鉄製の黒い首輪を付けられており、木に鎖で繋がれているのだ。此処で命を落とす事を望まれた捨て子なのだろうけれど、それにしては着ている物が高価だ。親の最後の愛情か? だとして、わざわざ首輪まで用意して鎖で繋ぐ必要があるか? これでは、此処で死んでも誰も処理出来ない。まるで、逃げないように対策を取ったようだ。いや、それが目的なのだろうか。今まで見てきたような貧しい村の子供が口減らしのために捨てられたのではなく、何らかの事情で――恐らく、親の利己のために――此処に繋いで捨てられた……と考えるのが妥当だろうか。
「まぁ、どうでも良いんだけど」
 そう、青年にとっては全く関係のない事だった。旅の途中では、色々な物を見付けるし、色々な人に出会う。時に自分に利害をもたらす何かしらもあるが、大抵の場合は風や雨や路傍の花のように過ぎ行くだけ、或いは多少の感情を青年に与えて消えて行くだけの日常の一端に過ぎない。ただ、状況によっては立ち止まって考える事もする。積極的に関わる事はあまりないが、思考する事は無駄ではない。それは、自分に影響を与えたふたりの人物ならこの場合どうするか、という事。確認したところ、まだ息はある。ひとり――長年自分に影響を与え続け、世界の摂理を説いてくれた男――は多分殺すか、放置して去るだろう。どうにかしようと思う対象ではないし、多少の情けをかけて命を奪う事で彼を終焉に導き、片を付ける。もうひとり――摂理を説いてくれた人物を、否定した男――は、間違いなく助けようとする。自分には全く利益のない事だが、そういう事に骨身を惜しまない人間だ。つまり、優しいのだ。ひとつでも多くの命を救いたいと思っているだろう。だから、こんな所で野垂れ死になんてさせる事はない。まずは鎖を切って、近くの町で医者を探すだろう。
「うーん」
 どうでも良いんだけど、どうしようかな。青年が小さく唸ると、林の奥から足音が聞こえた。道を歩いている音ではない。木々を揺らしながら、枝から枝へ猿のように飛び移っているかのような奇妙なざわめきだった。「あぁっ!?」と声が飛んで来たかと思うと、ざざっと頭上で音がして、ひとりの男が木から飛び降りてきた。快活そうな顔付きをした、背の高い青年だった。
「何だこれ、お前、何してんだ!?」
 いきなり、青年に問い詰められる。不審がられても仕方がない。自分も不審だと思ったのだ。その場に立っていたら、何かをした――木に少年を鎖で繋いだ――と誤解されても仕方がない。
「いやぁ、違うんですよ。僕が来た時には此処にこうなってて。僕もついさっき此処を通りかかっただけなんです」
「お前、何者だ?」
「僕ですか? 僕は瀬田宗次郎。考え事しながら日本中をふらふら旅してる……流浪人みたいなものです」
 青年、瀬田宗次郎は柔らかな笑顔で答えた。
「流浪人……か。何処から来た?」
「京都です」
「京――」
 青年は、宗次郎の姿を頭の天辺から爪先まで訝りながら眺めた。特に、腰に帯びている刀が気になる。廃刀令が施行されて四年。見たところ十代後半か、良くて二十歳そこそこ。そんな青年が、廃刀令を知らず帯刀しているとは思えない。
「まぁ、僕の事は兎も角。この子、一応生きてるみたいなんですけど、触っても起きないんですよね。どうします?」
「……あぁ、そうだな。先生……起きてるよな。町に医者がいるんだ。連れて来るから、此処で待っててくれないか?」
「良いですけど」
「あ、俺は浦正。青原浦正。もしかしたら俺の仲間が通るかも知れないから、もし来たら事情説明しといてくれ」
 宗次郎の返事も聞かず、浦正は道のない林の中を慣れた足取りで駆けて行った。宗次郎は、その背中に片手を上げて了承を示す。
 関係のない子供ではあるが、関わってしまったからには仕方がない。医者がいるというのだから任せるに越した事はないだろう。情けをかけて殺めてやる必要もないわけだ。宗次郎はするりと刀を抜き払うと、さっと少年と木を繋ぐ鎖に振り落とした。少年の身体ががくんと揺れた。衝撃で首輪が首に食い込んだらしく、喉元に血が滲む。
「あーあ、失敗」
 さして気に留めた様子もなく、宗次郎は刀を鞘に納めた。少年の身体を抱き起こして、先程まで繋がれていた木にもたれかけさせる。まだ目を覚まさない。何かの病気だろうか。寝たきりで動けなくなってしまったから、煩わしくなって捨てたのだろうか。だとしたら、鎖で繋ぐ必要はない。
「うーん、やっぱり解んないや」
 二年流れて、多くの人と接し、今までに出来なかった経験を積んだ。世の中には様々な人間が存在する。様々な思考を持ち、様々な行動に出る。それが総て理解出来るとは思わないけれど、それなりに理由や事情があり、それを察する事はある程度は可能だ。しかし、今回はよく解らない。全く経験した事のない状況。関わる気は然程なかったが、興味はあった。取り敢えず、浦正に従って待ってみる事にした。
 少年の隣りに腰を下ろし、小半時待ってみた。時刻は多分、卯ふたつくらいだろうか。風に乗って、遠くから人の話し声が流れてくる。町はもう、活動を始めているようだ。ぼんやりと木立の隙間から空を仰いでいると、林の中を駆けるふたつの足音が近付いてきた。先程浦正が走り去った時のような勢いはない。多分、浦正の言っていた医者が一緒なのだろう。宗次郎は少年の頬を軽くつついてみたが、やはり反応はない。
「宗次郎、先生連れてきた」
 足音と共に浦正の声がして、振り返り、宗次郎は目を丸くした。浦正が連れて来たのは、髪の長い女だった。褪せた藤色の着物に今様色の上着を着た、背が高く線の細い女性だ。近付いて来ると、瞳に強い意志の炎が浮かんでいるのが解る。化粧っ気はないが、艶と品のある女性だった。
「貴方が宗次郎……君? 高荷恵です」
 宗次郎は、恵と名乗った女性に軽く会釈する。医者であるという事は、俄かに信じ難かった。女性の医者に会うのは初めてだ。しかし、恵は木の根に膝を着いて少年の顔を覗き込むと、額に手を当てて熱を測り、手首を握って脈を確認し始めた。その手際から、なるほど、医者である事は理解出来た。
「いつからこの状態なの?」
「僕が来たのが半時程前……だと思います。ずっと寝てますよ。鎖を切った時、衝撃を与えちゃったんですけど全然起きません」
「そう……」
 恵は少年の口元に耳を近付け、呼吸音を確認し、鼻を近付けて匂いをかぐ。
「薬……」
「ん?」
「薬の匂いがする……。多分、睡眠薬の類ね」
 恵の顔付きが、険しくなる。柳眉を歪め、歯を食い縛る。恵が少年の着物の袖を捲り上げると、青黒い痣が覗いた。宗次郎も浦正も、その様子に目を見張った。喉元を押さえ付けるような首輪をよくよく見ると、小さな鍵穴がふたつ付いていた。ひとつは、首輪自体を外れないように固定するためのもの。もうひとつは、首輪に付いた突起状の仕掛けに鎖を繋いで外れないようにするもの。恵は淡い唇を噛み締めた。両腕が震えていた。込み上げてくる怒りとも悲しみともつかない感情を押し殺し、大きく息を吸い込むと、さっと浦正を見上げた。
「蓮次君を連れて診療所に来て。蓮次君なら、首輪の鍵を外せると思うから、道具を持って来るように言って」
「あ、あぁ、解った」
 言うが早いか、浦正は飛び上がって近くの木の枝に足を付き、そのまま木の枝を蹴りながら遠ざかった。
「えっと……宗次郎君」
「はい」
 宗次郎は突然名前を呼ばれ、鼻白んだ。
「お時間はありますか? この子を、診療所に運んで欲しいんです」
「解りました。お手伝いします」
 宗次郎が少年を抱き上げると、首輪から伸びた鎖が垂れ下がり、少年の首が仰け反った。恵は慌てて鎖を持ち上げる。思ったより、重い。じゃらじゃらと音を立てる鎖を少年の肩から胸に流し、宗次郎に首を支えて抱くように指示を出すと、恵は足早に林を抜けた。宗次郎も、なるべく少年に負担をかけないよう気遣いながら恵に付いて林を駆けた。
 診療所に向かう道に並ぶのは、掘っ立て小屋のような粗末な長屋ばかりだった。昔戦争でもあったのか、瓦礫が積み上げられて、隙間から草が生えていた。取り敢えず人が住めるように整備しているだけで、“町”と呼ぶには憚られるような有様だ。道行く人は一様に痩せていて、此処が如何に貧しい地区であるかが解る。こんな村を今まで幾つも見てきた。だから別段驚く事はないのだが、これまでに見てきた村々に比べて、幾分人々の表情には活気がある。
「おはよう、恵先生」
「えぇ」
 道行く人々が恵に声を掛けるが、恵は素っ気無く答え、大股でぐんぐん歩いてゆく。
「……お、珍しいご機嫌斜めか?」
 そんな声が聞こえ、これが普段の恵でない事を宗次郎は知った。だが、何がそんなに彼女を不機嫌にさせているのかは解らない。人々は、憮然と前だけを見据えて歩く恵の後ろを、子供を抱えて追う宗次郎を見ながら首を傾げては何かを囁き合っていた。宗次郎は、きょろきょろと辺りを伺いながら、目が合った人にお愛想程度に笑顔を返した。

 診療所は町の中程にあった。他の家屋とは比べ物にならないくらい真新しく立派で、きちんと壁に白い漆喰が塗られ、ウコギの垣根で囲まれている。門柱に、『高荷診療所』の文字を見て、本当にこれが彼女の診療所である事を理解すると同時に、些か驚いた。彼女がひとりで切り盛りしているとはとても思えない。夫がこの診療所の主なのだろうか。
「こっちへ」
 恵は診察室に宗次郎を通す。宗次郎は恵に指示されるまま、少年を寝台に寝かせた。しかし、女結びの帯が邪魔で、身体が傾く。恵は少年の身体を起こして手早く帯を解き、分厚い長着を脱がせた。三着重ねられた着物を一枚ずつ剥ぎ、長襦袢姿にする。襦袢さえ薄紅色の女性物だった。着ている物は間違いなく上級の品なのに、その着物に包まれた身体は、平均的なこの年頃の少年にしては随分と痩せている。襦袢の上から撫でただけで、浮き出た肋骨の感触が伝わってきた。
「征太郎」
 恵が診察室の戸口から診療所の奥に向かって声を掛けると、「はい」という細い声と共に、間もなく少年が姿を現した。眠っている少年より幾らか年上だろう。知的な顔立ちの細身の少年だった。
「あぁ、宗次郎さん。私の息子の征太郎です」
 宗次郎は突然紹介され、取り敢えず首だけでお辞儀をする。征太郎は丁寧に頭を下げ、「高荷征太郎です」と名乗った。どう見ても恵の息子にしては大き過ぎると思うのだが、そこは敢えて口にはしなかった。
「征太郎、この着物を洗っておいて。丁寧にね」
「うわっ、随分上等な……」
 恵は、少年から脱がせた着物を纏めて征太郎に押し付ける。征太郎は、見た事もない高価そうな着物に目を丸くした。しかし、どうにも母親の機嫌が良くなさそうで、余り何かを言うべきではないと判断し、すぐに診察室を後にした。
「運んでくれて有り難う、宗次郎君。この子は、ずっとあそこにいたの?」
「多分。僕が見付けた時、あの木に鎖で繋がれた状態でしたよ。鎖が外れないように首輪に細工してあったから斬ったんですけど……何日もあそこにいたのかなぁ」
「それは……ないと思うわ。あそこは“正蓮団”――あぁ、浦正君が仕切っている自称山賊団なんだけど――の縄張りで、毎日見回りをしているみたいだから。多分、昨日の晩でしょうね」
 恵は早口で答えた。言葉の端々に苛立ちが見え隠れしている。宗次郎は「そうですか」と短く答え、恵を見詰めた。冷静そうな顔をして、頬に、手の動きに、瞳の奥に、湧き上がってくる感情を押さえ込もうとしている様子が見て取れる。だが、言葉には抑え切れないそれが溢れ出している。恵もそれに気付いていて、自分を落ち着かせようと何度も深呼吸を繰り返した。
「病気でもないようだし、薬……で、眠らされているだけのようだから、間もなく目を覚ますと思うわ。申し訳ないんだけど、この子を見ていてくれないかしら? 朝食を用意するから。宗次郎君も、今朝はまだ食べていないでしょう?」
「あ、僕も呼ばれて良いんですか?」
 宗次郎はぱっと表情を和らげ、喜色を見せる。恵も出来るだけ笑顔で応じようと口元に笑みを作ってみたが、やはり苛立ちが滲んだ。
 その時、診療所の奥からわぁっと赤ん坊の泣き声が響いた。宗次郎が戸口に顔を向けると、恵は「大丈夫」と呟いた。
「娘よ。上の子が見ているから大丈夫。気にしないで……」
 その言葉通り、子供をあやすような少女の声が聞こえ、泣き声は徐々に小さくなった。
「征太郎……以外にも?」
「昴という娘と、赤ん坊は楓というの。さて。その子が起きる前に、さっさと支度しなくちゃ。じゃぁ、お願いしますね」
 恵は宗次郎に頭を下げると、診察室を出て行った。恵が引き戸を閉じると、診察室に静寂が訪れた。松の木の梁の剥き出しになった診察室は、落ち着いた匂いがする。少年も、穏やかに眠っている。
 不思議だ。この少年を見付けて、この半時程に起きた事、見た物総てが不思議だった。荒れた作り掛けのような町、女の医者、関わっても何の利益もない筈なのに、少年の事で必死になる浦正……そして、目の前で寝息を立てる痩せこけた少年はその筆頭だ。綺麗な着物、見た事もない花、この首輪だって、そこらで安く売っているものではない。わざわざ鎖で繋ぐために作られた代物だ。誰が、何のために? どう見ても上流の家庭の少年。けれど、凡そ人間らしい扱いを受けていたとは思えない。首輪は勿論の事、痣まみれの腕も、日常的に暴力を振るわれていたとしか思えない。こういった傷に、宗次郎は覚えがあった。
 宗次郎は、妾腹だった。母親を亡くし、米問屋を営む父親の家に養子として引き取られた。しかし、宗次郎が養子になった時、父は既にこの世になく、世間体を考えて引き取っただけの家族に愛情は欠片もなかった。家の者達はまだ幼い宗次郎を使用人同然に扱い、無理な量の仕事を押し付け、達成出来なければ暴行を加えた。身体中痣だらけになっても、笑っていれば耐えられた。そうして、“楽”以外の感情を失っていった。それももう過去の事ではあるけれど、彼も同じような苦しみを受けていたのだろうかと思うと、小さく胸が痛む。赤の他人だというのに、恐らく今日という日を越えて別れれば二度と会う事もない子供だというのに、共感が微かだが確かな痛みを生んだ。
「ん……」
 小さく、少年が呻く。そして、ゆっくり瞳を開いた。黒い瞳は丸く大きく、あどけない印象を強調した。
「あ、起きた」
「此処は……?」
「…………診療所ですよ」
 此処は何処かと問われ、宗次郎は答えに詰まった。診療所である事は間違いないのだが、考えてみれば、どの辺りなのか解らない。適当に北を目指して歩いてきたから、最近地図を見ていなかった。那須を過ぎたのは、いつ頃だったか。
「お姉様……は……?」
 少年は、ゆるゆると起き上がる。首輪を引っ張る鎖が重たくじゃらりと音を立てる。
「……お姉様? よく解らないけど、ちょっと待っていて。先生を呼んでくるから」
 宗次郎はそれだけ言い残すと、診察室を飛び出した。長い廊下の先でかたかたと炊事をする音がする。音を頼りに覗いてみると、土間の台所で恵が料理をしていた。
「恵さん、あの子が目を覚ましましたよ」
「えっ!?」
 恵は慌てて手に持っていた包丁を置き、宗次郎に駆け寄った。「本当?」
「なんか、『お姉様』とか、良く解らない事を言ってるんですけど、様子を見てあげて下さい」
 恵は草履を放り出し、ばたばたと廊下を走った。しかし、診察室の前で足を止めると、一呼吸おいてからゆっくりと引き戸を引いた。
「目が覚めた?」
 中を覗くと、少年は顔を強張らせて恵を見詰めた。恐れや戸惑い、不安が少年を支配する。
「落ち着いて。大丈夫よ。何処か痛いところはない? 苦しくはないかしら?」
 恵はゆっくり少年に近付き、様子を見ながらそっと髪を撫でた。少年はびくりと身体を震わせたが、いつしか恵の穏やかな呼吸に静かに呼吸を重ね、落ち着きを取り戻していったようだった。
「此処は……何処……?」
「此処は会津の、私の診療所よ。君は、この近くの林の中で倒れていたの」
「会津……? 東京じゃないの?」
 恵の言葉で、宗次郎は初めて自分が会津にいる事を知った。恵は、少年が鎖で繋がれていた事には敢えて触れなかった。少年の顔を見詰めても、その表情から感情を読み取る事は難しい。瞳には何も映らず、ただぼんやりと恵の顔を見詰めていた。悲しみや不安が交じり合い、彼から表情を奪っている。どうして良いのか解らないようだった。恵はそっと少年の首の後ろに手を添えた。
「少し横になりなさい。鎖が重たいでしょう? もう少ししたら、この首輪を外してあげるからね」
「駄目! お姉様に怒られる。僕は……」
「大丈夫、大丈夫よ」
 宥めるように髪や頬を撫で、恵は出来るだけ穏やかに少年に言った。そして、少年を寝台に寝かせ、手を握って微笑んだ。
「もう大丈夫。誰も貴方を怒らないから」
 片手で少年の手を握り、もう片方の手でその手の甲をそっと撫でる。触れられる手が温かく、優しくて、少年はうっすら涙を浮かべた。胸が締め付けられる気がした。
「僕は……要らなくなったの? だからお姉様は、僕を捨てたの?」
 言葉にすると益々胸が潰されるように痛み、身体中から力が抜けた。息をするのも苦しい程だ。少年は寝台の上で大きく首を振った。首輪が皮膚に擦れ、乾きかけた傷が開いて血が滲む。
「動かないで……。落ち着いて。色々……聞きたい事はあるけれど、今はゆっくり休みなさい。朝食を用意するからね。お腹空いてない?」
 恵の柔らかな声を聞くと、少年のお腹がぐるぐると音を立てた。恵はくすりと笑う。しかし、少年の目から突然涙が溢れ出し、恵の手を振り払って顔を隠すように両腕を額の前で交差させた。
「ごめんなさい! ごめんなさい! 僕が悪いんです、ごめんなさい!」
「どうしたの、何にもないわよ。誰も怒ってないわ。大丈夫よ。お腹が空いているんでしょう?」
 恵は少年の両腕を優しく掴み、その顔を覗く。「大丈夫、大丈夫」と繰り返しながら、そっと少年の額に額を当てると、少年の呼吸が落ち着くまでじっと待った。少年は静かに息をつき、恵の瞳を見詰めた。恵は額を離すと、穏やかに少年に向かって微笑んだ。華やぐ笑顔に、少年は小さな温もりを覚えた。
「……お食事を作るから、少し外すわね。待っていて。あ、嫌いなものはある?」
「ない」
 少年はきっぱりと答えた。これまでのおどおどとした雰囲気が消え、まるで「ある」と答える事が禁じられているかのように、素早くはっきりとした答えだった。恵は頷くと、宗次郎を振り返った。
「此処で、彼を見ていてくれる?」
「解りました」
 恵は宗次郎に少年を託し、また台所に向かった。少年は、一瞬恵に手を伸ばしかけた。しかし、その手はすぐに宙を掻いてぱたりと布団の上に降ろされる。
 宗次郎は寝台の側に椅子を寄せて座った。ふたりは黙っていた。宗次郎は恵のように少年を慰める言葉を持っていなかったし、少年ももう何か問う事もなく黙って、宗次郎から視線を背けていた。どのくらいそうしていたか解らない。時折赤ん坊のはしゃぐ声や人の足音が聞こえたけれど、それ以外は静かだった。
 不意に、少年が口を開いた。
「ひとりに……してくれませんか?」
「……うん。じゃぁ、台所の様子でも見て来ようかな。じっとしていて下さいね」
 少年に言われ、宗次郎は素直に従った。

 宗次郎は台所を覗いた。やはり、恵は食事の支度に勤しんでいた。
「あの子が、ひとりにして欲しいって」
「そう。少しは落ち着くと良いんだけど……」
 廊下と土間の段差に座って背中に声を掛けると、恵は俯いて鍋を見詰めたまま答えた。恵の肩が、声が、震えている。宗次郎はひょいと立ち上がり、近くにあった草履を履いて恵に近付いた。下からその顔を見上げると、恵は唇を噛み締めていた。目の中には涙が徐々に膨らんでいる。
「どうして、恵さんが泣いてるんですか?」
 恵は乱暴に掌で涙を拭うと、その手を胸に当てて深く呼吸をする。宗次郎が首を傾げると、恵は大きく首を振った。
「……怒ってます?」
 宗次郎の問いに、恵は深く頷いた。
「だって……なんなの、あれ……。あの傷、あの着物、あの首輪! 貴方が来るまで、鎖で繋がれていたんでしょう? 子供は玩具じゃないのよ」
 玩具――その言葉で、漸く腑に落ちた。貧困に喘いで口減らしに捨てられたわけではない。恐らく彼の言う「お姉様」は、彼を着飾って楽しんで、言う事を聞かなければ手を上げて、彼を鎖で繋いで飼っていたのだ。犬のように。そして、何らかの事情で――想像でしかないが、恐らく傲慢な理由で――捨てたのだ。東京に戻って来られないように会津の林の中に繋いだのだ。宗次郎が通り掛らなかったとしても浦正が見付けただろうけれど、東京にいる「お姉様」はそんな事は知らないから、きっと死んでも良いと思っていただろう。彼は、要らなくなった玩具だったわけだ。
 成程と思う一方で、今度は恵の事が解らなくなった。恵には彼が生きようが死のうが関係ない。宗次郎の知る限り、会津は戊辰戦争で敗北して以来、明治政府から差別を受け、弾圧されている筈だ。町中を見ただけでも、あちこちに瓦礫が積み上げられ、十数年が過ぎているというのに復興さえままならない状態に見える。そんな町で、恵がどうしてこんな立派な真新しい診療所を構えているのかは解らないが、兎も角会津のために医者として働いている。浦正が真っ先に恵を呼びに走ったように、頼りにされているのだろう。しかし、この苦境にあって、捨て子ひとりに構っている余裕があるとは思えない。会ったばかりの子供のために、何故此処まで――そう、林で彼を見た時から――怒りを覚え、涙さえ流している。無関係の子供のために、どうしてこうまで感情的になれるのだろう? 彼のために、見えない「お姉様」に憎しみを感じている。
 不思議だった。けれど、別な感情も芽生えていた。それは、あの少年に対して。
 恵は料理の手を止め、竃の火を消した。どうやら支度が済んだらしい。その時、玄関から声がした。
「ごめん下さい。恵先生、蓮次です」
「蓮君」
 恵は草履を脱いで玄関へ向かった。宗次郎も後を追う。玄関には、背の高い青年が立っていた。頭を黒い布で覆い、黒い装束に身を包んだ男は、彫りの深い顔立ちで、目が淡い青色をしていた。日本人ではないらしい。どうやら恵とは顔馴染みのようで、恵は蓮次を診療所に招き入れた。
「浦正から話ちょっとだけ聞いたんやけど、酷い事されてる子ぉらしいですね」
「えぇ、今は起きているけど、刺激しないようにしてね」
 恵に促され、宗次郎は蓮次という異人の青年とともに診察室に入った。しかし、そこに少年の姿はない。蓮次は「厠か?」などと暢気な事を言ったが、そうでない事はふたりにはすぐに解った。閉まっていた筈の窓が開いて、風が吹き込んでいる。ふたりは窓から身を乗り出して辺りを伺う。少年の姿はない。隠れている様子もない。
「此処に来るまでに、そんな子ぉ見いひんかったで」
 恵は玄関に回ると、すぐさま診療所を飛び出した。
「幾つくらいの子なんや?」
「十歳……くらいですかね」
「首輪しとるんやったな? まぁ、すぐに見付かるやろ。俺も探してくるわ」
 蓮次も、恵の後を追うように診療所を出た。「ふむ……」宗次郎は腕組みをして首を傾げた。



 少年は、首の後ろから伸びる日本の鎖を両肩から垂らし、その両端を握って走った。出来るだけ人の少ない道を選び、家や瓦礫の陰に隠れながら町を抜けると、林の中に飛び込んだ。彼が繋がれていた林だ。薬で眠らされていたから、此処に連れて来られていた事や此処から診療所に連れて行かれた事は彼自身は知らないが、どういうわけか自分の目指す方向が少年には解った。殆ど人目につく事なく、少年は林の中を駆けた。兎に角、東京へ向かわなければ。東京に戻ったら、お姉様にまた殴られるだろう。何日食事を与えてもらえないだろう。でももしかしたら……可能性は低いかも知れないけれど、もしかしたら、「何処へ行っていたの、心配したのよ」と優しく言ってくれるかも知れない。泣きながら抱き締めてくれるかも知れない――そんな筈はない、きっとない。でも、もしかしたら――。
 少年は林道を闇雲に走った。林の向こうに開けた場所が見えて、そこまで駆け抜けた時、思わず足を止めた。燃えた家と思しき残骸が無残に放置された廃村だった。その、崩れ落ちた家屋の上に、ひとりの青年が座っていた。先程、寝台の横についていてくれたあの青年だ。青年は、少年に向かってにっこり笑った。
「はは。やっと来た。待ってたよ」
 少年はたじろぎ、すぐに方向を変えて走り出したが、数秒後には目に前に青年が立ちはだかった。
「走って僕から逃げられるわけないじゃない」
 少年はまた方向を変えようとした。しかし、急に肺が潰されたかのように呼吸が苦しくなる。少年は乾いた地面に膝をつき、襦袢の胸元を握り締めて荒く呼吸を繰り返した。
「ん? どうかした? 大丈夫?」
「あっ……はぁっ……」
 身体を折り曲げて額を地面に押し付けて喘ぐ。尋常でないと察した青年は、少年の身体を抱き上げた。
「診療所へ行きましょう」
「大丈夫……!」
 少年は、青年の着物の肩口を掴んで青年を止めた。瞳に映るのは、恐怖や不安といった感情だった。
「少し休めば大丈夫だから……」
「……そう?」
 そういうものなのか? よく解らないが、青年は少年の言葉に従う事にした。青年は刀を置いて木に持たれかかって座り、少年に膝を貸して寝かせた。少年は鎖を煩わしそうに何度も位置を移動していたが、結局胸の上に置く事で落ち着いた。林の中で、鳥のさえずりが賑やかに響く。風が木々を通り過ぎる音さえ心地良く、少年の呼吸は次第に落ち着いていった。
「少しは楽になった?」
「うん……」
「君、名前は?」
「瀬戸光黄」
 か細い声で少年は答えた。
「瀬戸かぁ。僕は瀬田。瀬田宗次郎。似てるね、苗字が」
 光黄は宗次郎の膝の上でその顔を見上げ、小さく笑った。
「東京へ戻るつもり? “お姉様”は君を待ってはいないよ」
 さらりと、現実を突きつけられ、光黄は鼻の頭に熱が込み上げてくるのを感じた。しかし、奥歯を噛み締めてこらえる。
「でも僕……行くところがない。あの診療所は駄目……あの人は怖い……」
「怖い?」
 “あの人”は恐らく恵だろう。宗次郎は会津に着いてからずっと恵と一緒にいたが、恵が光黄に対して辛く当たったところなど見ていない。寧ろ、全く無関係の光黄に対して、宗次郎からすれば信じられない程優しく、穏やかに温かく接していた。
「僕は……“悪い子”なんだ。幸せになっちゃいけなくて、喜ぶ事は人にしてあげるためだけのもので……僕は喜んだり、嬉しいなんて思っちゃいけないんだ。何にも出来ないし、弱いし、生意気だから……駄目なんだ。それなのに、あの人……あの人が側に来ると、胸があったかくなって、嬉しくて、幸せで。駄目なんだ……あの人は僕の悪いところを知らないから……」
 だから、「怖い」。
 宗次郎はそっと光黄の額に手を当て、目を閉じた。耳の上に飾られた花の茎が髪に絡み付いている。
 「役立たず」と罵られ、殴られていた頃、本当に自分が駄目な人間かどうかなんて、考えもしなかった。言い付けを守ってもきっと殴られたし、優しくしてくれる事なんてなかっただろうと解っていたから。光黄はきっと、優しくされた事もあるのだろう。だから、帰りたいと思うのだ。けれど、「悪い子」と言われ続けてきた。暗示のように何度も言われて、それを信じてしまっているのだろう。何年そうして過ごしてきたのかは解らないけれど、罵られ、暴力を振るわれ、玩具にされて、それが日常になっていた。身体が空腹を示しただけで怒られたのだろうか。宗次郎は、それ笑われた覚えがある。自分自身と境遇は違うけれど、似通ったものも感じている。
 宗次郎は、この年の頃には、もう人を殺していた。養父やその家族を脇差で斬殺した。宗次郎の人生に影響を与えたひとりである男が教えた、「強ければ生き、弱ければ死ぬ」という摂理に基づき、弱ければ殺されるのだから、その前に殺してやった。血に濡れた手に脇差を握り締め、氷雨の中で涙を流した。けれど、強くなった気もした。強くなろうと、思った。
 例えば彼を連れて東京に戻って、彼の言う“お姉様”を探し出し、彼に刀を貸して殺させる事は出来るだろう。だが、その後彼を導く事は出来ない。脇差を与え、摂理を教えてくれた男は、家族を殺した宗次郎を連れて生きる道を示してくれたけれど、宗次郎にはそれが出来ない。彼の教えてくれた事と正反対の信念を持ち、刀を交えた男に敗れた時、何が正しいのか、自分の目で確かめるために旅に出る事を決めたから。宗次郎自身が、まだ答えを見出せていないから。だから、彼に主を“殺させる”事は出来ない。それは余りにも無責任だ。
「僕はね、光黄が羨ましいよ。あの人は……恵さんは、光黄のために泣いていた。光黄を『悪い子』だって言って傷付けて、勝手に捨てた“お姉様”に対して、怒ってた。僕にはそんな人はいなかった。僕のために泣いて、怒ってくれる人はいなかった。僕も恵さんには会ったばかりだけど、あの人は優しくて、信用出来る人だと思う……。あの人は、光黄の“悪いところ”も受け入れてくれる人かも知れない。光黄がどうなったって、彼女には何の利益もない筈なのに、彼女は光黄がいなくなったら真っ先に飛び出して探しに走ったよ」
「え……」
 “お姉様”が本当に光黄を大切にして、心配しているというのなら、きっと探しに来てくれている筈だ。でも、どれだけ待っても彼女は現れない。探す気なんか毛頭ない事は、宗次郎にも解る。光黄にはもう、帰る場所はないのだ。
「落ち着いた? 診療所へ戻ろう。きっと恵さんは心配してる。泣いているかも知れない。光黄のために……」
「…………うん」
 微かな声で光黄は答えた。宗次郎が抱き上げようとすると、光黄はその手を断ってゆっくりと立ち上がった。宗次郎は、長襦袢の土を払い、光黄の手を握った。

 林を抜け、会津の町に入ると、町はざわついていた。
「あれ、なんか賑やかだなぁ……」
 宗次郎が呟くと、遠くから「宗次郎君!」と叫ぶ声が聞こえた。通りの向こうから、恵が走ってくる。剥き出しの足は土で汚れている。恵は宗次郎の隣りに立つ光黄を見るや、速度を上げて勢い良く駆け寄ってきた。
「見付かったのね、良かった!」
 恵は光黄の前に膝を付き、顔を覗き込んで頬に触れる。
「何処か痛いところはない?」
「……ん」
「良かった、見付かって。有り難う、宗次郎君」
 言いながら、恵は光黄の身体を抱き寄せた。髪の中で、桜色の花が揺れる。光黄は一瞬身体を強張らせたが、温もりに包まれ、そっと息を吐きながらその腕に身を委ねた。肩越しに、自分を抱きしめている恵という女性が泣いている事に光黄は気付いた。
「あ、先生、見付かったんですか?」
 宗次郎の背後から声がする。宗次郎が振り返ると、蓮次が林の中から現れた。どうやら、林の中を探していたらしい。恵は顔を上げ、蓮次に向かって頷く。
「じゃぁ、鍵外します。どいてもろて良いですか?」
 光黄から身体を離した恵は、やはり泣いていた。代わりに、黒尽くめので青い目の男が、光黄の前に跪く。初めて見る異国人に、光黄は後じさり、宗次郎の着物の袂を握った。
「大丈夫だよ、怖くないから」
 宗次郎に穏やかに宥められ、光黄はおずおずと蓮次の前に立った。恵は光黄の隣りに屈み、その肩を抱く。
「じっとしとりや」
 蓮次は懐から細く短い棒状のものを取り出すと、光黄の後ろに回り、首輪の鍵穴に棒を差し込んだ。光黄は鼓動が早鐘を打つのを感じた。これを外してしまったら、もう“お姉様”のところへは戻れない。“お姉様”は怒るだろう。きっと殴るだろう。階段から突き落とされるかも知れない――あれは本当に辛い――。でも、帰らなければ、もうこの首輪をしている必要はない。喉に食い込む重たくて冷たい首輪。冬は、凍るように喉元を締め付けるのだ。そんな心配をする必要はなくなる。だけど、もしも……もしも“お姉様”が探しに来たら? 見付かったら?
 光黄の頭の中で様々な考えが駆け巡る内に、首輪はかちんと音を立てたかと思うと、光黄の首を解放した。
「よっしゃ、取れた」
 蓮次は、その手に首輪と鎖を取ると、息を呑んだ。想像以上に重かった。こんな物を、こんな幼い少年の首に巻き付けて鍵を掛けるなんて、どんな事情があったって普通はしない。この首輪の持ち主は、異常だ。自分の弟分達がこんな目に遭っていたらと考えると、背筋に悪寒が走った。
「有り難う、蓮次君」
「これはもういらんやろ? 捨てときます。あと……浦正とか町の人に、子供が見付かった事ゆっときます。みんなまだ探してるやろから」
「お願いします」
 恵の答えを聞くと、蓮次は風のように姿を消した。蓮次の軽やかな身のこなしに、宗次郎は感嘆した。
「診療所に戻りましょう。朝ご飯を用意しているから。お腹空いているでしょう?」
「…………」
 光黄は答えなかった。突然軽くなった喉元が心許ない。恐る恐る首に触れると、真一文字に刻まれた傷に掠って痛みが走る。本当に、なくなってしまったのだ。
――“お姉様”は君を待ってはいないよ。
 宗次郎に突き付けられた言葉が脳裏に響き渡る。もう、ひとりなのだ。誰も待っていない。誰も迎えには来ない。この荒れた町で、ひとりきりで生きなければならないのだ。もう、誰も縛ってはくれない。殴られても、蹴られても、髪を燃やされても、気色の悪い声を聞きながら“お姉様”の喘ぐ姿を見せ付けられても、それでも、眠る場所と生きるに足る食事は与えてもらった。気紛れではあったけれど、笑顔を見せてくれる事もあった。それだけが支えだった。
 何もない。もう、何もないのだ。
「光黄?」
 立ち尽くす光黄に、宗次郎が声を掛ける。恵は光黄と手を繋いだ。
「光黄君……というのね。一緒に行きましょう」
 そっと恵に手を引かれ、光黄は漸く歩き出した。診療所へ戻る道すがら、幾人かの人が恵に声を掛けた。「見付かったのかい」「その子が、探していた子?」「見付かって良かった」恵はみんなに「えぇ、有り難うございました」「診療所に戻ります」と丁寧に答えていた。朝方、林の中に繋がれていた光黄を診療所へ連れて行った時、先を歩いていた恵は憮然として、町の人々の声に碌に答えなかったが、これが恐らく本来の恵なのだろうと宗次郎は思った。
 診療所に戻ると、玄関が開く音を聞きつけて奥から征太郎と、赤ん坊を抱いた少女が駆けつけた。
「見付かったんだ、良かった」
 征太郎が安堵の息を漏らした。
「征太郎、何か着る物を」
「はい」
 少女は赤ん坊を抱いたまま屈み込むと、光黄に視線を合わせる。
「初めまして、高荷昴です。こっちは妹の楓。すぐに朝ご飯を用意しますね。お味噌汁を温めるから、少しだけ待っていて」
「僕は……瀬戸光黄です」
 昴の挨拶に、光黄はたどたどしく答えた。昴は微笑を浮かべ、「宜しくね」と言った。楓が訳も解らず光黄に手を伸ばす。光黄はその手をそっと握った。その頬に、小さな笑みが浮かぶ。恵はほっと胸を撫で下ろした。光黄の初めての笑顔が見られたのだ。
「さぁ、入って。宗次郎君も。……昴、健水君は?」
「あ、光黄君探しに行った。でも、すぐに戻ってくるんじゃないかな」
 相葉健水は恵の助手だ。恵が光黄を追って飛び出した後に診療所にやって来て、蓮次に事情を聞き、探しに出たらしい。先程蓮次が、光黄が見付かった事を町の人に連絡すると言ってくれていたから、その内健水も戻ってくるだろう。恵は頷いて、光黄と宗次郎を居間に通した。昴は楓を恵に渡し、台所へ向かった。
「えっと……恵、さん?」
「はい。挨拶がまだだったわね。高荷恵です。この診療所でお医者さんをしているの。待っている間に、首の傷に薬だけ塗っておきましょう。傷は乾いているみたいだけど、念のため」
 座布団に座った光黄にしずしずと近付き、恵は懐から掌に収まるくらいの小さな丸い箱を取り出した。箱を開けると、独特の匂いが鼻につく。恵は白い塗り薬を指に取ると、光黄に少し上を向くように言い、赤く刻まれた傷にそっと薬を塗り込んだ。光黄は顔を歪めたが、耐えられない痛みではなかったらしい。黙って治療を受けていた。恵が「もう良いわ」と光黄に告げるとほぼ同時に、襖の向こうから征太郎が「失礼します」と声を掛けた。征太郎は、洗濯のシャボンの匂いが残る紺色の麻の着物と、黒地に白い模様の入った帯を持って入って来た。
「これ、着られると思うんだけど……ちょっと良い?」
 そう言って光黄を立たせると、征太郎は着物を広げて光黄に宛がう。光黄は、色の褪せた紺色の着物を見て、眼を瞬かせた。
「うん、着られそう。袖を通して」
 征太郎が肩に着物を引っ掛けると、光黄は袖を通した。征太郎は、手早く帯を結び、着物を着付ける。着物は、今まで着ていた物に比べると随分と軽く感じられた。どんどん、身体が軽くなってゆく。それが一層光黄の不安を煽ったが、光黄は何も言葉にはしなかった。着付けが終わると、征太郎はぽんと軽く光黄の腰を後ろから叩いた。
「はい、終わり。座って」
 光黄は言われるままに座布団に正座する。立ち上がりかけた征太郎は、光黄の髪に半ば埋もれた花を見付け、手を伸ばす。
「珍しい花。外しておくよ」
 征太郎の指が丁寧に光黄の髪を掻き分け、花を取り出す。征太郎は、光黄の掌に花を置いた。縁取りが妖しい程に鮮やかな紫色の、花弁の重なった愛らしい花。光黄はそれを、自分の隣りにそっと置いた。
 そうこうしている内に、今度は昴が膳を二段重ねて運んで来た。一膳は光黄の前に、もう一膳は宗次郎の前に置く。
「すみません、僕までご馳走になっちゃって」
「良いんですよ。大した物はご用意出来ませんでしたけど、遠慮なく召し上がって下さい」
 恵が笑顔で宗次郎に応える。その言の通り、見るからに貧相な食事だった。玄米に細かく刻んだ大根を混ぜ込んで水増しした飯に、青菜が少量浮かんだだけの味噌汁、山菜の煮付けと沢庵。取り敢えず腹を膨らませるためだけの食事だった。宗次郎は、こんな食事には慣れていた。屋根のある場所で食事が出来るだけでも有難いというものだ。しかし、光黄は肉も魚も出ない食事など、久しく見ていない。そういった食事を食べていた事すら、もう覚えていない。
 光黄は黙って椀を手に取った。恐る恐る口にした味噌汁は温かく、それだけで胸が詰まった。
「美味しい……。誰かの作るご飯食べるの、久し振り……」
「……え?」
 両手を温めるように椀を抱えながら光黄はぽつりぽつりと涙を零した。温かい食事を取るのも久し振りだった。いつも、“お姉様”が食べた後に鍋に残った、或いは“お姉様”が残した冷めた料理を食べていたから、食材は上等だったし、肉や魚も食べられたけれど、どれひとつ温かくはなかった。光黄は止め処ない涙を拭う事もせず、一気に朝食を平らげた。宗次郎はその様子を眺めながら、素朴な食事を堪能した。こんな食事も悪くない、と思う。
 ふたりの食事が済むと、昴は徐ろに膳を下げた。その瞬間、光黄の胸に恐怖が過ぎる。傷の手当をしてもらった。着物を着させてもらった。朝食を食べさせてもらった。これ以上、してもらう事はない。これから、ひとりで生きてゆかねばならないのだ。宗次郎は、一緒に連れて行ってはくれないだろうか。もしくは――光黄は、ふと襖の側に座る恵を見上げた。
 そうか。
 光黄の脳にひとつの考えが浮かんだ時、玄関を開ける音がした。恵は立ち上がり、襖を開ける。そして、一度だけ光黄を振り返り、すぐに居間を出た。
「お帰りなさい」
「見付かったみたいですね。浦正から聞きました、林の中にいたって……。大分見当違いなところ探してました」
 玄関から男の声が聞こえ、ふたつの足音が居間に近付いてくる。顔を覗かせたのは、恵と年端の近い男だった。宗次郎は漸く得心した。彼が、恵の夫か、と。それにしても、思ったより若い。どう考えても征太郎や昴は恵の子供というには大きい。夫の連れ子かと考えていたのだが、男も征太郎達の父親というには若いだろう。宗次郎は小さく首を傾げた。が、「まぁ、良いか」と内心で呟いた。別に気にする程の事でもない。
「先生、俺はすぐに往診に出ます。さっき愛さんに声掛けられたんで」
「解った。行ってらっしゃい」
 男は光黄を見て小さく笑うと、軽くお辞儀をして玄関の方へ戻って行った。男の後姿を見送ると、恵は宗次郎と居間の隅に楓を抱いて座っている征太郎を順に見て、
「少し……外してもらえるかしら?」
「僕もですか?」
 宗次郎が問う。
「えぇ、光黄君とふたりで話しがしたいの」
「ふーん……。解りました」
 宗次郎はにっこり笑って応じた。基本的には常に微笑を湛えている宗次郎が、一瞬光黄を見て表情を曇らせたが、恵はそれが、宗次郎の光黄への気遣いによるものだと察した。林の中で何があったのかは解らないが、宗次郎は光黄の事を随分気に掛けている。恵にはそれが嬉しく思えた。味方はひとりでも多い方が良い。



 宗次郎と征太郎、楓、それに食事の後片付けを終えた昴は、征太郎の私室に集まった。縁側では、光黄が着ていた上等な三着の着物が陰干しされている。昴は膝に楓を抱え、ぼんやりと高価な着物を眺め、呟いた。
「……兄弟が、ひとり増えるかもね」
「十中八九増えるね。母さん、楓を引き取る時と同じ顔をしていた……」
 征太郎は古びた着物に継ぎあてを縫い付けながら答える。兄妹の会話に、宗次郎は僅かに眉を寄せた。日陰で着物がはたはたと風に靡く。着物を揺らす風は、宗次郎達の髪を撫でた。
「兄弟が増える?」
「僕達、みんな養子なんですよ。親がいなくて」
「あぁ、そうだったんですか。てっきり、さっきの……恵さんの旦那さんの連れ子かと……。でも、それにしてはお父さんが若いし、変だなぁと思ったんですよね」
「あは、さっきの男の人の事ですか? 彼は健水さんといって、お母さんの助手なんですよ」
 昴がくすくすと笑う。
「じゃぁ、楓ちゃんも恵さんの実の子供じゃないんですか?」
「違いますよ。楓が産まれてお母さんがすぐに亡くなっちゃったから、お母さんが引き取ったんです。お母さんは一昨年会津に帰って来てこの診療所を開いて、すぐに孤児だった兄さんを養子にして……去年、私の両親が亡くなったので私の事も娘にしてくれて。それから、楓が生まれて」
 昴がさらりと言う。宗次郎は呆気に取られた。恐らく間抜けな顔をしていただろうが、そんな事を気にする余裕もなかった。
 どうやら自分は、“高荷恵”という女性を侮っていたらしい。つまり、この診療所は本当に彼女がひとりで――健水という助手がいるとはいえ――切り盛りしていて、しかも縁も所縁もない子供を三人も引き取って育てている。この、まだ戦後の復興から程遠い会津で。例えば東京や京都のような都会であれば、養子を取る事もそう難しくないかも知れないが、どう考えても食料も満足にない土地で子供を育てるという事は、大変な苦労の筈だ。それも、医者という仕事をしながら。この上、まだ光黄まで引き取ろうと考えているのだろうか。彼らの反応を見る限り、そうらしいが。逞しいにも程がある。線の細いたおやかな女性だと思っていたが、人は見掛けによらないものだ。
 そして、楓は兎も角、その恩恵を受けて当然という顔をしているふたりの子供達が、宗次郎には少々妬ましくも思えた。養子に迎えてくれる人間が、必ずしも善良であるとは限らない。理不尽に働かされ、殴られ、食事を与えてもらえない事だってあるのだ。実際、自分はそういう環境で育った。彼らは、養母を恨まずに済んでいる。殺さずに済んでいる。その愛情に甘え、優しさに包まれて生きている。それは、幸せな事なのだ。
 恵という女性は、損得勘定で生きている人間ではないようだ。自分が被る不利益など考えず、無条件に人を愛しているのだろうか。だから、裸足で飛び出していけるのだろうか。そして、無関係の人間のために涙を流せるのだろうか。
「そういう人……いたんだ……」
 自分に影響を与えた“彼”に似ている。利益など度外視で、弱い人のために剣を振るっていたあの剣客に。
 宗次郎は遠くを見詰めた。彼のような人間に、救われている人はいるのだ。光黄も、そうなってくれると良い。

 恵は光黄と向き合っていた。
「少し……貴方の事を話してもらっても良いかしら?」
「僕の事、ですか……? えっと……京都で産まれました」
 京都、と恵は呟く。東京ではなかったのか。光黄は恵をちらりと伺い、視線を落とした。何を話せば良いのか思いあぐね、ぽつりぽつりと言葉を零す。
「僕は……今は、十一歳です。五歳くらいの時に売られました。色町……というんですよね。そこで“お姉様”が僕を見付けて買い取って、東京に連れて行ってくれました。“お姉様”は僕を、奴隷にしてくれたので、“お姉様”の側で暮らしました……」
 光黄の唇から漏れた言葉に、恵は耳を疑った。“奴隷”――? 意味が解らなかった。五歳の少年を買い取って、養子にしたというのなら解るが、奴隷にするとはどういう意味だ? 恵のこれまでの人生の中で、一度として奴隷などという者に逢った事がない。誰かを奴隷にしようと考えた事は当然ないし、そんな考えを持った人に逢った事もない。光黄の口にする“お姉様”という存在が、自身の中にある常識からかけ離れたところにいるように感じられ、理解に時間が掛かった。じわり、じわりと、恵の胸の中に暗い感情が生まれ、同時に心臓の辺りが静かに燃え上がり始めた。
 恵は動揺を見せないように努めながら、「それから」と促した。
「お、“お姉様”のために、なんでもしました。言い付けは守りました。“お姉様”は僕に、綺麗な着物を着せて――いえ、それは良いんですけど……。お料理もお洗濯もお掃除もしました。何年か前にみんないなくなっちゃったけど、女中の人達は僕に読み書きや算盤を教えてくれましたから、字も読めますし計算も出来ます」
 たどたどしかった光黄の口調が徐々に早くなる。何かを訴えかけるように。恵は出来るだけ笑みを崩さないように気を付けていたが、奥歯を噛み締めていなければ、言ってはいけない事が溢れ出しそうだった。燃え上がる暗い感情を押し殺しながら、恵は光黄の話にゆっくりと頷く。
「だから」
 光黄が言う。光黄は座布団から降り、両手を畳についた。
「何でもしますから……僕を、側において下さい。僕は、貴方の“奴隷”になる。必要な事は、何でも覚えます」
 光黄は目の前に置いてあった花を手に取り、恵に差し出す。
「貴方を“喜ばせる”事も――します」
 最後に言葉に、躊躇いや戸惑いや嫌悪が滲んだ。“喜ばせる”。その言葉の意味を正確に掴むまでに、十秒掛かった。十秒後、恵は頭が真っ白になった。
 限界だ。
 もう、何もかも恵の想像を遥かに超えている。
 女物の着物、鉄の首輪、鉄の鎖、身体の痣、林の中に繋ぐ、“奴隷”、“喜ばせる”、十一歳の、少年に――
 恵は両手の平でこめかみを押さえた。混乱する頭を懸命に整理するが、どれだけ冷静になろうとしても、胸を暗くどろどろとした感情が支配し、燃え上がる。それはもう、憎悪としか言いようがなかった。「やめて」と小さな声が恵の淡い唇から零れた。瞳が濡れ、視界がぼやけるのが解ったが、それを止める術も解らなかった。それはいつしか瞼から溢れ出した。この涙が、同情や憐憫によるものだと思われたくはない。違うのだ。そんな想像もしない世界が現実にある事が恐ろしく、そしてそういう生き方しかないのだと僅か十一歳の少年に教え込んで、行き場を失った少年に「奴隷になる」などと言わせる“お姉様”が許せないのだ。
 何より、そんな言葉をこの少年に言わせてしまった自分が許せないのだ。
「恵さん……“お姉様”とお呼びした方が……?」
「違う、違うの、違う……」
 恵は大きく首を振った。
「どうしたら……僕はもう、何処にも行けないんです。“お姉様”は僕が要らなくなったんです。多分、僕が“悪い子”だから。僕、“良い子”になります。貴方の言い付けは何でも聞いて、決して口答えはしません。だから……」
 姿勢を低くしたまま、静かに光黄は恵に近付いた。そして、膝の上に花と手を置き、はらはらと涙を零す恵の顔を覗き込む。光黄の手が、恵の太腿を優しく撫でた。ぞくり、と恵の背筋が冷たくなる。光黄は、恵を“喜ばせよう”としている。小さな手で。
 吐き気が込み上げてきた。こんな事を、少年に教え込んだ女への憎悪が、恵の中で燃え上がる。だが、それを彼に向けたところで、何の解決にもならない。どうしたら良い? どうしたら。
 恵は光黄の両手の手首を掴み、何も言わず彼の額に額をあてた。何を言えば良いのか解らなかった。抱き締める事すら、性的な意味を持つ気がして出来なかった。泣き止もうとしゃくり上げると、目の前で光黄が目を細めた。唇をわななかせ、白い歯を食い縛る。
――恵さんは、光黄のために泣いていた。
 宗次郎の言葉が、光黄の中に蘇る。もしかしてこの人は、自分のために泣いてくれているのだろうか。可哀想だから? それとも、辛かった事を、本当は“お姉様”の奴隷でいる事が苦しくて、気持ちが悪かった事を、ほんの少しでも感じ取ってくれたのだろうか。もしも、もしもそうだとしたら、それは嬉しくて、幸せで……怖い。
 優しくて信用出来る人だと宗次郎は言った。それは、薄々感じていた。まだ何もしていないのに、食べ物を与えてくれた。裸足で探しにも来てくれた。髪を撫でてくれた。優しく、してくれた。その優しさが気紛れで、いつかまた殴られるのだとしたら。いつかまた捨てられるのだとしたら。怖い。それならいっそ、優しくなどしてくれなくて良い。幸せな心地など、感じさせてくれなくて良い。
「優しく……しないで。奴隷で良いから、側にいさせて下さい」
 側にいたい。それが本心だと、光黄は漸く気付いた。髪を撫でてもらった瞬間に、遠く忘れていた母の温もりを思い出した。抱き締めてくれた時、離れたくないと思った。だけど母のように、“お姉様”のようにいつか捨てるくらいなら、優しくしてなどくれなくて良いから、せめて側にいさせて欲しかった。寝床が欲しいわけじゃない。それよりもこの人の笑顔が見たい。髪に触れて欲しい。
「奴隷は要らないの」
 恵はきっぱり言い切った。それは、光黄にとって『お前は要らない』といわれているのと同義だった。光黄の全身から力が抜けた。
「でも、貴方には側にいて欲しい」
 恵の次いだ言葉の意味は、光黄には俄かに理解出来なかった。
「どうしたら……?」
「奴隷としてではなく、私の息子として、側にいて、私を手伝って欲しい……」
「息……子……?」
「さっき貴方に着物を着せた男の子、征太郎は、貴方のお兄ちゃん。朝ご飯を持ってきた女の子、昴は、貴方のお姉ちゃん。赤ちゃんは、楓。貴方の妹。みんなで助け合って、みんなで幸せになるために、一緒に頑張るの。家族として」
 お兄ちゃん、お姉ちゃん、妹、家族……。だとしたら、
「……お母さん……に、なってくれるの、恵さんが」
「貴方が嫌でなければ。貴方がもし、この会津で幸せになるために一緒に頑張ってくれるのであれば」
「頑張るって、何を?」
「貴方が出来る事を。貴方は、何がしたい? どんな事が好き?」
 何がしたいか。何が好きか。初めて聞かれた、自分の意志。考えた事もなかった。何もかも与えられてきたから。何もかも命じられてきたから。何かが楽しかったとすれば、それは料理くらいだ。極々稀に“お姉様”が笑ってくれるのが嬉しかったし、細かな作業は楽しかった。
「……料理が、好き、かなぁ」
「じゃぁ、みんなに美味しいお料理を作って。家族のためにね。それから、偶に会津の人達のために。会津はまだまだこれからだから、会津のために一緒に頑張りましょう」
 恵は光黄の手首から手を離し、その小さな掌を握った。細くしなやかな指が、恵の手を握り返す。着物の裾から覗く青黒い痣は、時間は掛かるけれどきっと消えてゆく。この幼い少年の傷付いた心を癒す事も、医者としての務めだと恵は自分に言い聞かせる。
 光黄はじっと恵を見詰めた。“お姉様”とは違う澄んだ瞳。この人が笑ってくれるなら、この人が幸せでいてくれるなら、何でも頑張れる気がした。
「…………お母さん」
 もう、産みの母をそう呼んだ事すら覚えていないけれど、その言葉を口にすると、不思議と胸が温かくなり、高揚感が光黄を包み込んだ。
「はい、光黄」
 今朝、目覚めてから、ずっと皆が呼んでくれた名前。忘れかけていた本当の名前。これから、“瀬戸光黄”ではなく、“高荷光黄”になるのだ。征太郎や、昴や、楓や、それからこの恵と同じ“高荷”という姓。家族なのだ。
「抱き締めても良い、光黄?」
 光黄は照れくさそうに頬を染め、穏やかに頷いた。
 恵の両腕に優しく包まれると、もうずっとこうしてもらう事を望んでいたのだと気付いた。本当はずっと、誰かに抱き締めて欲しかった。五年以上、この温もりを求めていたのだ。

 騒動の午前は、高荷光黄という新しい会津の住人を迎える事によって幕を閉じた。



「本当に息子になったんだ……」
 征太郎や昴の言葉の通りになった事に、宗次郎は些か驚いた。こうなれば三人でも四人でも、もう変わらないのかも知れないけれど、少年達の人生を守ろうというのだ、生半可な覚悟ではない筈だ。この理知的な女性は、そんなに軽々しく物事を考えているとは思えない。恐らく、光黄が捨てられていた事を知った時から考えてはいたのだろうけれど、ふたりで話をして、お互い納得ゆく形で決めたのだろう。
 世の中には、色んな人がいる。自分の利害など考えず、無条件に人を愛せる人がいるのだ。光黄がそういう人に廻り逢えた事が嬉しかった。そして、自分自身が彼女と出逢えた事も、幸いなのだと感じられた。
「うん、良かった。じゃぁ、僕ももう行こうかな」
「え、何処に?」
 ぐいと伸びをして立ち上がった宗次郎に、光黄が慌てて問う。
「もっと北に。まだまだ、世の中解らない事だらけだし」
 宗次郎は微笑みながら、恵を見た。この荒廃した土地で新しい発見があったように、まだまだ知らない事は沢山あるのだ。それに、目に映る弱き人々のために剣を振るう……なんて事が自分に出来るのか、そうする事に意味があるのかはまだ解らないけれど、光黄を救う一助になれたことは素直に嬉しかった。
 光黄はきっと幸せになれる。これから辛い事も沢山あるだろうけれど、恵や兄妹達が助けになってくれるだろう。それが確信出来るから、もう心配ないと思える。
「ねぇ、恵さん。また此処に来ても良いですか? 光黄が元気に過ごしているか、偶に見に来たいから」
「勿論、歓迎しますよ」
 恵は、目の前に立つ光黄の両肩にそっと手を置いた。光黄は頬を赤らめ、微笑んだ。
 この日一番の笑顔だった。


 恵は、光黄が差し出した花をくしゃくしゃに千切り、風に散らした。彼を縛る物は、もう何ひとつない。

 日の当たる場所で生きる事が出来なかった少年は、漸く太陽の光を見た。
 この先苦しい事も悲しい事もある。人生には避けられない痛苦が幾つも待ち構えている。
 それでも幸せになれると信じて欲しい。

 この世に生を受けた時点で、総ての人は価値ある存在だから。



fin
生まれてきたことを悲しまないで欲しい。
辛い過去も乗り越えて未来へ進め……

“母の日”をテーマに。
複数色のカーネーションの花言葉:私はあなたの奴隷になる。


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