貴方がいた。
 だから生きてこられた。



   月が見ているから



 隠密江戸城御庭番衆――徳川吉宗が設け、幕末まで約百五十年続いた集団。
 元は十数名から始まり、密偵を主な職務としていたが、次第に江戸城の護衛や薬の開発など、様々な分野に活動の幅が広がり、一大兵力にまで成長した。泰平の世においても戦闘訓練は欠かさず、有能な兵士を幾人も育て、兵力育成法を蓄積してきた。
 嘉永六年、浦賀にペリー率いる黒船が来航した折、時の御頭は、京都が動乱の中心となる事を逸早く察し、京都の護衛や情報収集のために京都御庭番集を配した。職務が増えるにつれて人数も増え、慶応四年四月の時点で、育成中の年少者も含めて百数十名が御庭番の職に就いていた。
 御庭番に属する者は、能や狂言に用いられる面に由来する二つ名が与えられ、平時はそれを名乗っていた。
 長い間、江戸のため、日本のために戦ってきた。だが、大政奉還により徳川幕府の時代が終わり、江戸無血開城で江戸城が明け渡された事により、慶応四年四月に解散した。

 御庭番衆に属する者は、出自を問われる事はなかった。御庭番の家系や幕臣の系譜に産まれ、幼少の頃に親元を離れて訓練を受け、十代でその職務に就く者が多かったが、幕末に本丸警護方を務めた式尉のように他藩から寝返った者もあった。また、全く所縁のない者が、何らかの形で上役の目に留まり、育てられる事もあった。
 慶応三年、十三歳で密偵方に就いた“三日月”という二つ名を持つ少年は、月のような金色の髪と碧い眼を持つ異国人だった。四歳で当時の御頭であった巻町陣衛門に拾われ、育て上げられた。
 隠密御庭番衆は完全な実力主義であり、年齢や性別を問わず、実力のある者は幾らでも上位隠密となれる機会があった。江戸城御庭番衆最後の御頭である四乃森蒼紫は、その実力が買われ、若干十五歳で御頭の任に就いたのだった。
 しかし、蒼紫が御頭になった僅か数ヵ月後に御庭番衆は解散。明治維新後、多くの者は市井に下りて新たな職に就いた。



 明治十一年三月――
 東京郊外に建つ巨大な洋館は、警察に狙われていた。所有者は武田観柳。表の顔は青年実業家だったが、裏では六十名を超える私兵を抱え、胡散臭い商売に手を染めているとの情報があり、警察は秘密裏に捜査を続けていた。長い捜査の末、観柳が阿片を密売している事を突き止めたが、その証拠が掴めず、なかなか踏み込む事が出来ない。しかし、警察の動きが怪しくなってきた明治十年十二月、観柳はかつて江戸城を警護していた御庭番衆の残党を雇い、護衛を命じた。その中には、御庭番衆最後の御頭である蒼紫や、その直属の配下で優秀な密偵であった般若も含まれていた。
 当時警察は、観柳邸にひとりの女が幽閉されている事を知らなかった。名は高荷恵。会津藩の高名な医家・高荷家の末裔であるその女は、観柳に捕らえられ、阿片精製を強制されていた。
「恵」
 卯みっつ時。人ふたり寝ても余裕のある大きな寝台の端に、恵は眠っていた。気温の低い朝で、一糸纏わぬ姿で布団に包まっていた恵は、「んん」と小さく唸ると、寝ぼけ眼で声の主を見上げた。
「流弦<りゅうげん>……」
「お早う、恵」
 流弦と呼ばれた青年は、火傷らしき傷跡の目立つ顔を緩めて微笑み、穏やかに声を掛けた。恵は布団から顎を突き出す。流弦は恵の顔を覗き込み、そっと唇を重ねた。
「朝食を持って来た」
「うん、ありがとう」
 恵はのそのそと身体を起こすと、胸元まで布団を引き上げ、流弦の頬に手を伸ばした。ひやりとした空気が、白い肌に纏わり付く。鎖骨の下に、小さな赤い痣が見える。
「恵、早く服を……。これ以上は理性がもたない」
 流弦は早口に言うと、さっと恵に背を向けた。頭に巻いた黒い布の下、首元に月のような金色の髪が覗いている。
 恵は枕元に重ねた着物に袖を通し、寝台の下に脱ぎ散らかした着物を集めて部屋の隅の布袋に放り込むと、流弦の背中に寄り掛かる。
「時間が掛かりそうだわ……」
「もうやめないか、そんな身体で……どんなに頑張っても、崩せない城はある」
 流弦は振り返り、恵を抱き締めた。華奢な身体を両腕で包み込み、耳元に唇を寄せる。
「俺が般若様を説得する。般若様なら解ってくれる筈だ」
「般若があの男の命令に背くとは思えない。たとえ可愛い元部下の願いであっても」
「恵……俺は諦めない。ふたりでこんな所早く抜け出して、診療所を開こう。俺の親友は腕の良い医者だ。きっと恵の良い助手になる。俺は此処を出られたら必ずお前の家族と俺の弟を見付け出す」
「うん……」
 何度そんな話をしただろう。途方もない事のようにも思えたが、しかし、流弦の言葉は恵の支えだった。生きて医学に携わっていれば、きっと生き別れた家族に逢える。そのために、なんとしてもこの邸を出なくては。
「一緒になって、子供を育てて、静かに暮らそう……。産まれてくる子は、恵によく似た可愛い女の子が良い」
「ふふふ……。流弦、お願いだから無茶はしないで頂戴。どうか、死なないで……。死んでしまっては総てがお終いなのだから」
「解ってる」
 流弦は恵の肩から顔を離し、深く頷いた。彫りの深い顔に埋め込まれた鮮やかな碧い瞳で見詰める流弦の背に腕を回し、恵は力一杯その逞しい身体にしがみ付く。
「希望は捨ててはいけない……」
 ふたりは一頻り抱き合った後、恵は部屋の真ん中の丸テーブルに用意された朝食の前に座り、流弦は先程恵が着物を投げ入れた布袋を持って部屋を出た。

 これが、恵が流弦と交わした最後の会話だった。

 この年の四月、恵は単身観柳邸を脱出し、逃げた先で緋村剣心、相楽左之助という男達に助けられた。剣心は、かつて幕末最強と謳われた長州派維新志士・緋村抜刀斎だった。観柳の奸計により恵は再び観柳に捕らえられたが、剣心達は蒼紫ら御庭番衆と戦い、死闘の末、恵を奪還した。観柳邸での騒動は直ぐに知れ、遂に警察は邸に踏み込み、観柳を捕縛した。恵も阿片密造の罪により、本来であれば死刑に処される筈だったのだが、剣心の進言により解放された。その後、東京で医者の助手として働き、福島県令直々の申し出により、九月に故郷の会津に戻って診療所を開く事となった。



 明治十一年十月、会津――
 卯ひとつ時。恵は診療所の診察室で、小さな木の容器に瓶から薬を移していた。高荷家秘伝の傷薬。いつも懐に入れて持ち歩いているのだが、昨夜使い切ってしまったのだ。何かあった時に直ぐに使えるようにと用意した傷薬の容器を懐にしまうと、恵は額の包帯を解いた。壁に立てかけた鏡を覗き、傷の具合を確認する。もう大分良くなっている。包帯は解いても大丈夫だろう。入念に傷口に薬を塗り込み、前髪を下ろす。髪で傷は隠れそうだ。
 恵が帰ったばかりの故郷は、戊辰戦争第四の戦役・会津戦争の爪痕を深く残し、政府からの不当な弾圧により、荒廃していた。人々は飢えと病に苦しみ、医者の手も全く足りていなかった。恵の父・隆生は、会津戦争で戦死するまで「生ける理想」として日本中でその名を知られる程の医者であった。福島県令がわざわざ新しい診療所を建ててまで恵を会津に呼び戻したのは、そんな隆生の娘であれば、直ぐに会津の人々から受け入れられ、会津を復興に導く一助となるだろうと期待したためなのだが、現実はそんなに甘くはなかった。勿論、恵に期待を寄せる者は多かったし、恵の力になろうと奮起する者も少なくはなかったが、突然現れた恵を疑い、拒否する者も多かった。
 恵は昼夜を問わず会津中を駆け回り、寝食も忘れて診察や治療に多くの時間を費やした。半月後には戦時中に産まれたという孤児の征太郎を養子に取り、征太郎の手も借りながら奮闘した。
 額の傷の手当を済ませ、恵は朝食の支度に取り掛かった。台所で忙しなく動き回っていると、征太郎が身支度を整えて顔を出した。
「お早う、母さん。何か手伝う事はある?」
「お早う、征太郎。こっちは大丈夫。もう朝食にするわ。今日も留守番をお願いね」
「はい」
 征太郎は明るく笑って見せた。秋も深まり、窓からは冷たい秋風が吹き込んでくる寒々しい台所でも、息子の穏やかさが恵の胸を温めた。恵も、征太郎に笑いかけ、ふたりで朝食を取った。
 食事を終えると、恵は握り飯をふたつ包んで診療所を出た。これが恵の昼食だ。
 診療所はあるが、恵が此処で患者を待つ事は少ない。恵が会津に来て一ヶ月が経つが、積極的に診療所に治療に来ようという患者は殆どいないからだ。怪我人や病人が少ないというわけではない。寧ろ、病に苦しんでいる人々は大勢いる。しかし、日々の生活の糧を得る事に精一杯で、それ以外の事が出来ないのだ。身体が動かず、診療所に来る事すら出来ない者もいる。また、十年以上会津を離れていた高荷家の末裔が突然現れて人々に手を差し伸べているという事そのものに疑いを持つ者もいた。政府が送り込んだ間者で、会津が再び決起しないよう、毒を配り歩いているのだという噂も実しやかに囁かれた。
 だからといって、腕を拱いているわけにはいかない。それでは、噂通りだと言っているも同然だと恵は思う。自ら行動を起こし、信頼を勝ち取る以外に会津を救う道はない。
 この一ヶ月で、恐らく会津に住む殆どの人と会っている。会っていないのは、肝煎の奥内一族。会津戦争の戦火から免れたという大きな邸に住む一家だ。しかし、奥内家は医者を囲っているという話なので、心配はないだろう。
 その他には、会津の境界付近の山林に住み、方々で略奪行為を働いているという山賊集団“正蓮団”にも会えていない。構成員は少年も含めた若い男ばかりだという話だが、山賊だけあって声を掛けても姿を現す事はなく、未だ誰一人見掛けていない。征太郎を始め、多くの人々が関わらない方が良いと口をそろえる。だが、会津の人々がどんな被害にあったのかと思えば、誰一人として何かを奪われたという者はいない。どうやらそら山賊を名乗っているが山林に入った者から奪うというわけではなく、会津の外で活動しているらしい。
 恵は夕方まで会津中を歩き回り、患者の治療や診察に注力した。
 そして、町外れの林の側までやって来たので引き返そうかと思ったその時、「ピー」と細い笛のような音が耳に触れた。聞きなれない音だったが、引き付けられるように恵はその音を追った。二度、三度その音が聞こえる度、徐々に音源に近付いている事が解る。
「くっそー。誰もおらへんか」
 小さく声が聞こえた。笛の音の主だろうか。恵は足元の草を掻き分け、人の姿を探した。がさがさと足場の悪い林に分け入っていると、その音に気付いたのだろうか、「誰や」と声が飛んで来た。と同時に、恵はその声を発した人物を漸く見付けた。大木の根に腰を下ろし、蹲っている。男のようだ。漆黒に染め抜いた装束に身を包み、頭に黒い布を巻いている。
「どうかしましたか?」
 恵が声を掛けると、男は顔を上げた。恵は思わず足を止めた。白い肌、彫りの深い顔立ちに、碧い瞳。その顔に、見覚えがあった。
「……流弦?」
 かつて、地獄のような邸の中にあって、唯一の味方だった男。兄と同じ響きの名に親しみを感じていた。見間違える筈がない。あの時、凍てつく心を救ってくれた男と同じ顔をしている。いや、外国人だから、よく似ているように見えるだけだろうか。実際、流弦よりは随分若い。外国人の年齢は解り辛いが、恐らく恵より年下だ。
「あんた……あれか、噂のお医者さんやな。なんやっけ、名前……そうや、“高荷恵”やろ?」
 端正な外国人顔に不似合いな関西訛りの言葉が、青年の口から飛び出す。恵は目を丸くした。
「え?」
「知ってんで。ようここら辺で俺らの事探してるやろ?」
「貴方……“正蓮団”の……?」
 男は形の良い唇に不敵な笑みを浮かべてのろのろと立ち上がる。見ると、服の太腿辺りが大きく裂け、血が流れ出している。
「無理しちゃ駄目! 座って」
 恵は青年に駆け寄り、その背中に手を添えて木の根に座らせた。見れば見る程流弦に似ている。恐らく、黒い布に包まれた髪は、月のような金色だろう。だが、流弦ではない。声も流弦より高いし、何より、流弦であるはずがない理由は、恵が一番よく知っている。
「有難う。会ったからには挨拶しとくわ。俺は、“正蓮団”の橙野蓮次<とうのれんじ>」
 怪我をしている割には落ち着いた声で青年は名乗り、軽く頭を下げた。
「蓮次君……ね。知っていると思うけど、私は高荷恵。診療所で医者として働いていて……」
「あぁ、そんで、征太郎を養子にしたんやろ? あの“抜刀斎”の一件も、遠くからやけど見とったから知ってる」
 恵は一瞬表情を硬くした。蓮次のいう一件とは、半月前に起きた事件の事だ。東京から恵の恩人であり友人であり患者でもある緋村剣心が、何か手伝いが出来ればと会津を訪れた。しかし、長州藩や抜刀斎に恨みを抱く会津の民が剣心を追い返そうとし、その騒動の中で恵は額に傷を負った。剣心はそのまま立ち去り、剣心に憎しみを向けた征太郎を、恵は養子として向かえる事を宣言したのだった。
「そう。取り敢えず、その傷を見るわね」
 恵が傷口に手を伸ばすと、蓮次はその手首を掴んだ。
「あんた、こんな所でこんな事しとって良いんか?」
「……?」
「他所者がまた来とるで。あいつらは異常や。只者やない。俺の気配に気付いて剣気叩き付けて来やがった。それだけで硬直してもうて、追おうとしたけど木から落ちてこの有様や。情けないけどな。あいつら、診療所に向かったで。征太郎おるんちゃうんか。下手したら抜刀斎どころの話やないで」
 蓮次は捲くし立てるように早口で告げた。
 恵の背筋に戦慄が走る。額の傷がずきずきと痛み出した。蓮次のいう“他所者”がどんな存在なのかは解らないが、“あいつら”というからには複数なのだろう。そして、樹上の気配に対して剣気で圧倒出来る程の剣術家。剣心の時のような騒動が起きれば、また怪我人が出るかも知れない。前回は自分の怪我だけで済んだが、今度は会津の人々が、例えば征太郎が被害に遭うかも知れない。一瞬で考えを巡らし、恵は蓮次に背を向けた。しかし、実際に此処で怪我をして蹲っている蓮次を放っておく事など出来ない。
「先生」
 逡巡する恵を、蓮次が鋭く呼ぶ。
「俺は大丈夫や。直ぐに仲間が来る。はよ行ってくれ。なんかあってからじゃ遅いんや」
 蓮次は必死の形相で恵を説得する。本心から征太郎を、会津を気遣っている事が伝わり、恵は決意を固める。懐から高荷家秘伝の傷薬の入った小箱を取り出し、蓮次の頭に巻かれた黒い布を引き剥がす。案の定というべきか、布の下からは短く切り揃えられた金色の髪が現れた。しかし、恵は驚きもしない。
「この布を縛って止血して、この傷薬を塗りなさい。貴方達の住処に、晒しはある?」
「大丈夫。仲間が処置してくれるはず。はよ行け!」
 恵は蓮次の乱暴な言葉に背中を突き飛ばされ、転がるように走り出した。
 恵の頭の中には、征太郎の事しかなかった。純粋だが、維新志士に強い憎しみを抱いている息子。幼い故に、何をするか解らない恐ろしさがあり、怒りに任せて剣心に石を投げつけた事もある。もう、人を傷付けるような事はさせてはいけない。そうして傷付くのは、結局征太郎自身なのだから。征太郎は恵にとって、何が何でも自分が守らなければならない大切な存在だ。
 診療所へ向かって走っていると、恵は町中で人だかりを見付けた。誰かを中心に二重三重に人が輪を描くように集まり、賑やかな声を上げている。蓮次のいう“あいつら”がいるのだろうか。だが、そこには剣心が来た時に人々が見せたような殺気や怒声は存在しない。どちらかといえば、楽しそうな様子すらある。
「何があったの?」
 輪の一番外側にいた女性に声を掛けると、女性は笑顔で恵を振り返った。
「あら、恵先生! 恵先生が来たよ!」
 女性は恵を見ると、輪の中央に向かって声を掛けた。そして、「恵先生にお客さんだよ」と言いながら恵を輪の中央に押し込んだ。
 訳が解らない恵を、人々は輪に入れる。
「あ、恵さん!」
 楽しげな声が恵を呼んだ。輪の中央はそれなりに広く空間が取られ、そこにふたりの人物が立っていた。恵を呼んだのはそのひとり。恵は目を瞬かせた。そのふたりは、恵のよく知る人物だった。
「操ちゃん……に、あぉ――四乃森さん!?」
 そこにいたのは、隠密江戸城御庭番衆最後の御頭であった四乃森蒼紫と、京都御庭番衆で御頭を名乗っている少女・巻町操。
「恵先生、本当にこのふたりの事知ってるのか?」
「恵ちゃんを訪ねて来たって言ってるんだけど! しかも、御庭番だって言うんだけど!」
 輪の何処からか質問が飛ぶ。気配に敏感な凄腕の剣術家。間違いなく、蓮次の言っていた“他所者”だろう。
「あ……はい、知り合いです。友達……というか、元患者で……」
「言ったでしょー? 恵さん、会津に帰ってきたばっかで困ってるんじゃないかなぁと思って、手伝いに来たわけ!」
 操が声を上げた。その横で、蒼紫はいつもの無表情を崩さず、黙っている。人々は、操のやけに楽しそうな様子や大袈裟な仕草を見て、くすくすと、或いは声を立てて笑った。
「さっきも言ったけど、私達は御庭番! で、御庭番は最後まで幕府のために力を尽くしてきた。つまり、会津の味方! ってのもさっき言った通り。しかも、此処にいる四乃森蒼紫様は、幕末、最後の最後まで江戸城を守り抜いた最期の御頭なんだから!」
 操が力一杯宣言すると、「えぇっ!?」という驚きと、「おぉっ!」という歓声が沸く。冷静に考えれば、江戸城は無血開城によって明け渡されているのだから、御庭番衆が守り抜いたとはいえない。しかし、操が余りにも自信満々に語るため、うっかり信じてしまう。操自身がそれを信じているため、聴衆にも伝わるのだろう。
「そして私は、ペリー来航以来、京都を影で守っている京都御庭番衆で、今御頭を務めている巻町操!」
 更に驚きと歓声が上がった。「幾ら何でもそれは嘘だろう」と誰かが言った。信じられないのも無理からぬ事だ。操は歳は十六だが、もっと幼く見える。十六で御頭という事とて信じ難いというのに、こんな少女が京都御庭番衆を束ねているなど、俄かに信じられるものではない。
「恵先生、本当なんですか、この人達が御庭番で、江戸や京都の御頭だって?」
 疑心暗鬼になって尋ねてきたのは、恵の事を、恵が会津に来た時から信用し、時に診療所の手伝いもしてくれている有加という女だった。操は、有加の言葉を聞き逃さなかった。
「本当、本当。どうしたら信じてもらえるかなぁ。ねぇ、恵さん?」
「えぇっと……そうね。私が知っている限りでは、四乃森さんが江戸城御庭番衆の御頭だったのは本当。史上最年少だったそうよ。で、京都御庭番衆の方は、高齢の……操ちゃんの保護者のような方が纏めていらっしゃったんだけど、京都で事件が起こった折に怪我をされて、それ以降操ちゃんが御頭を務めるようになったみたい。操ちゃんが御頭になって、未だ三ヶ月くらい……よね?」
 恵は出来るだけそこにいる全員に聞こえるよう、大き目の声でゆっくり説明した。誤魔化している事は多分にあるが、嘘は言っていない。操は満面の笑みで腕組みをしながらうんうんと頷いた。恵の話を聞き、納得した人も多かった。しかし、更に疑問を抱いた者もいた。
「京都御庭番衆は、未だあるのか。江戸城御庭番衆は解散したんだよな?」
 確かにそうだ。人々は顔を見合わせて首をかしげ、ややあって操に注目した。蒼紫は相変わらず涼しい顔で黙っている。操は笑みをそのままに、胸を張った。
「まぁ、幕府のお膝元にいた頃よりは規模は小さくなってるけどね。でも、今も京都を守るために活躍してるわ!」
 「へぇ」と感心する人々。京都御庭番衆の存続は、幕府や政府からの指示ではないだろう。京都の住民の希望や京都御庭番衆の強い意志があったに違いない。その先頭に現在立っているのが操であるという事も、会津の民の興味を引いた。
「けど……守るっていう程、京都に危険はあるものなの? だって、警察だっているのよね?」
 恵の隣りで、有加が恐る恐る疑問を口にする。すると操は、待ってましたとばかりに有加の方を向き、大きな瞳をらんらんと輝かせて人差し指を立てた。
「そう! あたし達御庭番衆はね、警察とは全っ然違うところで京都のために戦ってるわけよ! さっきも恵さんが言ってたでしょ、うちのじいやが――あぁ、京都御庭番衆を私の前に取り纏めていた人が怪我をした事件があったって。それがね、あんまり知られてないんだけど、日本政府を転覆させようと目論んでた志々雄真実っていう維新志士が起こした事件なの!」
 操は断言した。その言葉は、聴衆の耳を引き付けた。聞いた事もない事件の話。会津という閉塞された土地には入ってこない情報が、操の口から語られている。一方で恵の頭には、疑問符が浮かんでいた。蒼紫も眉を寄せ、僅かに操に視線を送る。しかし、操はそんな蒼紫の反応に全く気付いていなかった。
 志々雄真実の事件は確かに起こった。志々雄討伐の初めと終わりに恵は多少関わっているため、自分の目で見たわけではないが、事のあらましくらいは聞いている。そして、恵の知る限り、京都御庭番衆を束ねていた翁こと柏崎念至に瀕死の重傷を負わせたのは、他ならぬ蒼紫である。当時、蒼紫は志々雄と手を組んでいた。だからといって、蒼紫が志々雄の手下になっていたというわけではない。蒼紫は独断で行動していたのだから、翁が負傷した件が志々雄の事件と関係があるというのは、大きな間違いとはいえないまでも正しくはない。
 勿論、今そんな口を挟んだところで話がややこしくなるだけだから、口にはしないが。
「志々雄真実は京都に火を放ち、混乱に陥れようとしていた。それを京都の人々と協力して阻止したのが、あたし達京都御庭番衆!」
 それは間違っていない。
「志々雄の側近である十人の剣客集団“十本刀”の一部や大勢の兵士達があたし達の本拠地に攻めてきた時も、あたし達が蹴散らしてやったんだから!」
 それも間違ってはいない。自慢げに語っている操自身は、東京の神谷道場の師範代である少女・神谷薫とふたりで、十本刀のひとりを倒したに過ぎないし、最終的には剣心の師匠である比古清十郎に危機を救われているのだが、京都御庭番衆が活躍した事も間違いではない。
 操が何か言う度に人々は熱気を帯び、徐々に輪の中心へと詰め寄ってきた。
「そして何より!」
 操が声を張り上げる。人々はごくりと息を飲んだ。
「その首謀者である志々雄真実を倒すべく剣を振るったのが、此処にいる蒼紫様!」
 操は蒼紫に両手を向けた。これまで無関心な様子で黙って隣りに立っていた蒼紫は、突然名前を呼ばれ、初めて表情を崩した。驚きに目を見開き、操を凝視する。
 間違ってはいないかも知れない。蒼紫は剣心と志々雄の戦いの終盤、志々雄と手を切って参戦したと恵は聞いている。しかし、その話を恵にした左之助曰く、刀を交えはしたが、先の剣心との戦いで消耗していた蒼紫は、殆ど相手にならなかったらしい。かくいう左之助も、大した戦力にはならなかったのだが。結局、志々雄真実を倒し、その恐るべき計画を闇に葬った功労者は剣心なのだ。
 恵は思わず反論しそうになったが、手で自分の口を塞いで我慢した。此処で剣心の名前を出すのは、余りに危険だ。
 そもそも、蒼紫が剣心と闘いさえしなければ、志々雄との戦いはもっと有利だった筈だと恵は考えている。しかし、その問題の闘いがなければ、蒼紫は操達仲間の元へは帰って来なかった。そういう意味では、必要な戦闘だったといえる。
 ともかく、蒼紫も恵も操の話には当惑した。操は悪気はないのだろうが、些か話を大きくし過ぎている嫌いがある。だが、それを信じている人々は瞳を輝かせて操の話に聞き入っていた。
「それにね――」
「――蒼紫様!?」
 操が更に話をしようと拳を握った時、男の声がそれを遮った。人垣を掻き分けて顔を出したのは、鳶として働いている青年・芝曜介だった。蒼紫と操を囲んでいる人々の視線が、曜介に向けられる。曜介は今走り着いたらしく、額に玉のような汗を浮かべていたが、疲れた様子はない。寧ろ、純朴な少年のような笑顔を蒼紫に見せた。
「やっぱり蒼紫様だ! 皆が、御庭番を名乗る奴らが来てるって言うから、確かめに来たんです」
「あぁ、そうか。曜介は元御庭番衆だもんな」
 輪の後ろの方から、誰かが納得したように言った。
「え、そうなの!?」
 驚く恵を余所に、会津の人々は「そういえばそうだったな」と頷く。恵は蒼紫と曜介を交互に見た。操は曜介に駆け寄る。
「蒼紫様の事知ってるの? あたしは? あたしの事は知ってる? 巻町操って言うんだけど!」
「巻町……? って事は、先代御頭の孫の……!?」
「そう! ねぇ、蒼紫様、この人知ってる?」
 操は嬉々として曜介を蒼紫の前に突き出す。曜介は真剣な表情で蒼紫を見詰め、人々はそんな様子を興味津々で見守っている。蒼紫はじっと曜介を見た。
「……小尉<こじょう>……か? 密偵方の中位隠密だったな」
「おぉっ! 覚えてくれてましたか! そうです、小尉です! 何で会津にいるんですか!?」
 蒼紫の静かな声に、曜介は抱き付かんばかりの勢いで蒼紫に詰め寄り、思わずその両手を掴んだが、直後、慌ててその手を離した。
「あ、すみません」
「いや……」
「あたし達、恵さんの手伝いに来たの。困ってる事あるんじゃないかなぁと思って。会津にも来てみたかったしね」
 操が曜介に説明する。
「恵先生とは、お知り合いで……?」
「そうそう、恵さんは東京でお医者さんやってたんだけど、さっきの志々雄の事件――あ、小尉君は、後で誰かにそこら辺の話は聞いといてね――で怪我したあたし達のために、わざわざ京都まで来てくれたの。その時からの知り合いっていうか……友達? 友達がさ、独立して故郷で頑張ってるっていうんだから、何か出来ればと思うのは当たり前じゃん?」
「じゃぁ、本当に御庭番衆の御頭さんと知り合いなんだ!」
 誰かが声を上げると共に、手を叩いた。何の意味があるのか解らない拍手が、波のように広がった。
「えっと……いきなりで吃驚したけど、歓迎するわ、四乃森さんも操ちゃんも。取り敢えず……診療所に行きましょう。皆さん、私達は診療所に戻りますので、この場は散会とさせて下さい」
 この騒ぎをどうやって収拾すれば良いのか解らず、恵はふたりを診療所へ連れて行き、仕切り直す事にした。此処にいては、いつまでも操の演説が続くだろう。今は御庭番衆の話で盛り上がっているが、その内剣心達の話をし始めかねない。それは恵にとってはとてもややこしく、避けたい事態だった。
「うん、じゃぁ、また後でね!」
 恵はふたりと共に人々の輪を出た。振り返って何度も手を振る操の手を引き、診療所へと向かった。



 人々の声が遠ざかる。診療所の周りはいつもと変わらず静かだった。
 診療所は、周囲をウコギの垣根に囲まれた、漆喰の白い壁が目立つ。町中の民家に対してはかなり大きな造りの建物で、操は目を見張った。
「ただいま。征太郎、お客様が来たわ」
 診療所の裏手にある家の玄関を開けると、恵は奥に声を掛けた。
「征太郎……?」
 意外にも、反応を示したのは蒼紫だった。操は蒼紫と顔を見合わせる。男の名前だ。会津に戻って僅か一月だというのに、もう男性と住んでいるのかと考えると、自然と操の口元は緩んだ。しかし、奥から姿を現したのは、操の期待に反し、十歳前後の未だ幼いといえる少年だった。
「お客様? 患者さんじゃなく?」
「患者さん、来た?」
「来てない。そちらは?」
 あどけないが知的な印象の少年が、客人ふたりを見上げる。恵は征太郎の肩に手を置き、ふたりと向き合った。
「こちらは四乃森蒼紫さんと、巻町操さん。私が東京のいた頃の知り合いで、ふたり共京都に住んでいるの。詳しい事はおいおい話すわね」
 恵が蒼紫と操を紹介すると、征太郎は観察するような思慮深い眼差しでふたりを向けて軽く頭を下げる。
「四乃森さん、操ちゃん、この子は高荷征太郎。私の息子」
「息子!? え、恵さん、子供いたの!?」
「なわけないでしょ。養子よ。でも、私の大切な家族なの。仲良くして頂戴ね」
「そーなんだ。あたし、ぷりてぃがーる操! 京都御庭番衆で御頭やってまーす!」
 操は人差し指を頬に当てて小首を傾げると、明るく挨拶した。しかし、征太郎は動じる事もなく冷静に「よろしくお願いします」と微笑んだ。
「立ち話もなんですから、中へどうぞ。長旅お疲れでしょう。布団を敷きますから、良かったら休んで下さい」
 恵はふたりを促した。しかし、笑顔で操は首を横に振る。
「あたし、もっと会津を見たいな。さっきは人に囲まれて全然見られなかったんだもん!」
「まぁ……私も未だ往診に行くつもりだったからそれは構わないけど……疲れてないの?」
「ぜーんぜん!」
 見る限り、操は確かに疲れている様子はなかった。会津を見たいというのは嘘ではないだろうが、それ以上に、先程の演説が気持ち良く、もっと会津の人々と話したいとでも思っているのだろうと恵は察した。先程は操の言動に驚いたし、聴衆に正確でない話が伝わっている気がしてならないが、今のところ不都合はない。寧ろ、恵に対して不信感を抱いていつも睨みを利かせてくるような人も数人あの場にいたが、御庭番衆と知り合いである事が解り、ふたりの身元を曜介が証明した事もあり、普段より柔らかい眼でこちらを見ているのが解った。俄かに不信感が払拭出来たとは思わないが、“隠密御庭番衆”の看板を味方に付けておいて損はないだろう。
「そうね。じゃぁ、征太郎は四乃森さんにお茶を出して差し上げて。操ちゃんは、私と一緒に行きましょう。でも、私は仕事もするから、あんまりゆっくり案内出来ないわよ」
「良いの、良いの。手伝いに来たって言ってるじゃない」
 期待は出来ない。しかし、こう言ってくれているのだし、連れて行くだけ行ってみよう。
 蒼紫を連れて行く事も一瞬考えたが、操ひとりでもそれなりに騒ぎになりそうなのに、蒼紫まで連れて歩いたらまた人に囲まれて厄介な事になりそうだ。それに、操が何かしようと、人に囲まれようと、蒼紫が助けてくれるとは思えない。征太郎と留守番をしてもらった方が良いだろう。
「食事は用意してあるから、帰りが遅くなったら食べて寝なさいね」
 恵は征太郎に優しく言うと、当然とばかりに征太郎は頷いた。
「行ってらっしゃい」
 恵と操は診療所を後にし、先程来た道を町へと歩き始めた。
「何処に行くの?」
「さっきまで町外れの方を訪問していたから、町の中心の方へ行くわ。言っとくけど、会津は本当に貧しいし荒れてるから、それだけは覚悟しておいてね」
 操は鼻歌混じりに「気にしないよ」と答える。しかし、歩きながら何度も足元を見ている。恵はこの一ヶ月ですっかり慣れているが、京都とは違い整っていない道が歩き辛いのだろう。恵は気にしない振りをして町へと向かった。
 町に入ると、操の歩みは更に遅くなった。想像以上だったのだろう。民家は掘っ立て小屋のような、剥き出しの柱に板を打ち付けただけの簡素な長屋が並び、町のあちこちに戦争の爪痕が残っている。
「あぁ、操様! どうされたんですか?」
 声を掛けてきたのは曜介だった。町の雰囲気に不似合いな明るい声と笑顔で手を振りながら歩み寄ってくる。
「手伝ってもらってるんです。会津を案内がてら」
 恵は微笑んで答えた。
「曜介から聞いたんですけど、操さんて本当に御頭なんすか?」
 曜介の後ろから顔を出したのは、曜介の鳶仲間だった。背の高い男が三人、快活そうな顔に好奇心を滲ませている。
「そうよー。こんなぷりてぃがーるが御頭だなんて信じられないでしょ? でも本当!」
「恵先生は顔が広いっすね。会津の御殿医の娘だから京都に呼ばれたんすか?」
「それは関係ないわ。偶然よ。それより、私は曜介さんが御庭番の一員だった事の方が吃驚なんだけど」
 曜介は一軒の家の前にある木の長椅子に腰掛けた。その隣りを操に勧め、仲間はその周りの地面に腰を下ろした。すると、向かいの家から三十代半ばの女性が出て来た。
「あ、さっきの可愛い御頭さん。うちの夫と兄さんも御庭番だったのよ!」
「え、それは初耳ですよ、愛さん?」
 恵は思わず声を上げる。自分が思う以上に声が出てしまった。その声につられたのか、人が屯しているのが気になったのか、近所の人々が長椅子の周りに集まってきた。先程の操の演説にいなかった人の姿もある。十五、六人も集まっただろうか。その間に、口を開いたのは曜介だった。
「恵先生、会津に長い事いなかったから知らないよな。あ、嫌味じゃなくて。先生は先生で、子供なのに独りで生きなきゃならなくて大変だったのは解るし。
 御庭番衆の人員は、産まれた時から御庭番衆に入る事を決められた奴が多いんだ。七割か八割くらいはそうだと思う。会津藩には、そういう子供を産む――つまり、産まれた子供を御庭番にする事を約している家系も多かった。俺も、そういう家系の産まれ。だから、俺達にとって会津は故郷なんだよ。御庭番解散後、戦えなかったからって理由だったり、故郷のためって理由だったり、人それぞれではあったけど、御庭番衆から会津戦争に参戦した奴は結構いるんだ。俺もそのひとり。戦死者も沢山出た。戦線を北上して函館まで行った奴も、斗南藩に流れた奴もいた。俺の知る限り、今会津に残ってるのは俺くらいかな」
 曜介はしみじみと語った。恵は初めて聞く話だったし、操も知らなかったようだ。黙って聞いていた。
「私の兄さんは戦死した。私は、御庭番にするための子供を産むために会津で生きていて、御庭番だった夫との間に産まれた男の子を江戸に送ったけど、それからどうなったかは解らないわ」
「ご主人は……?」
「函館の戦争に行ったきり、帰って来なかった……」
 そんなもんでしょ、と、愛は渇いた笑みを浮かべる。
 会津には、恵の知らない事がまだまだ沢山ありそうだ。御庭番の御頭である蒼紫と知り合ったのは全くの偶然だが、会津はこんなにも御庭番と縁の深い郷だった。
「御庭番衆の仲間が会津にいたなんて知らなかった! そっかぁ、御庭番衆は戊辰戦争でも活躍してたのか。良いね、凄く嬉しい!」
 曜介や愛の神妙な語りを、操は興奮気味に聞いていた。操の言葉に、集まっていた人々は呆気に取られた。聞きようによっては重たい話の筈だが、操はそれを御庭番衆の活躍譚として聞いていたらしい。
「あはは、すっげー、御頭さん、前向きっすね!」
 曜介の鳶仲間が笑い出すと、集まっていた人々もつられて笑い出した。それまでの深刻な雰囲気が一瞬で吹き飛んだ。
「だって、もう十年も前の事だよ? 十年前に解散しちゃった江戸城御庭番衆の最期の活躍を知れるなんて思ってなかったもん。京都からはるばる会津まで来て良かったよ。蒼紫様も一緒に来れば良かったのに」
「そういえば、蒼紫様は今どちらに?」
「征太郎と診療所にいるわ」
 曜介の問いに恵が答えた。
「よし、じゃぁ、診療所に行ってみるかな。ちあきの事も紹介したいし」
 曜介が長椅子から立ち上がると、仲間達も腰を上げた。すると、空いた場所に周囲を囲んでいた者達が代わって座る。
「操様、もっと話を聞かせて下さい! 京都御庭番衆の活躍なんかも聞きたいです」
「そうね〜、じゃぁ、あたしが御頭に就任する前の活躍から話してあげる!」
 操は勢い良く長椅子の上に立った。聴衆から、拍手が広がる。普段“様”を付けて呼ばれる事などない操にとっては、相当気分の良い事だろう。
 その時、何者かが恵の肩を軽く叩いた。恵が振り返ると、普段恵が訪ねても家の前で追い払う青年が立っていた。
「母が朝から腹が痛いと言っているんだ。ちょっと看てやってくれないか?」
 何処か申し訳なさそうに彼は小声で言った。恵は悠然と微笑んで、頷いた。青年も柔らかな笑みを返した。
 御庭番衆効果だろうか。不信感を抱いていた人も、信用出来る他者が現れた事で、恵に心を開き始めている。
「操ちゃん、私は仕事に戻るから、適当に診療所に帰ってね」
「うん、解った!」
 いつの間にか集まっている人は二十人程になっていた。調子に乗って話している内に剣心の事を話し出さないか心配ではあったが、問題が起きたらその時対処すれば良い。それより、今まで診せてもらえなかった患者を看る事が重要だ。
 操は京都御庭番衆の武勇伝を面白おかしく語り、恵はその間に患者の家を回った。元々、操を案内したのは比較的恵を受け入れてくれている人の多い地区だったのだが、恵を拒否していた人々も恵に声を掛けてくれた。



 “正蓮団”は、会津戦争で打撃を受けた山中の廃村を根城としていた。恵と別れて数分後、蓮次は指笛を何度か鳴らし、仲間である青原浦正を呼び出して、住処まで肩を借りて戻った。
「うっわー、痛そ」
「痛いわ。当たり前やろ」
 十歳前後の少年が、晒しを準備しながら蓮次の脚の傷を覗く。蓮次は半ば笑いながら答えた。
「瀧、取り敢えず手拭い洗ってくれ。血ぃ乾いてきたけど、一応傷口拭いとかんと」
 瀧と呼ばれた少年・飯田瀧尋<たきひろ>は、蓮次の指示に従い、井戸で手拭いを洗って固く絞った。蓮次は瀧尋が濡らした手拭いで傷口の周りの血を拭う。出血量は多いように見えたが、案外傷は浅そうだ。傷口の具合を確認した蓮次は、懐から木箱を取り出した。恵から借り受けた傷薬だ。
「なんだ、それ?」
 家の入り口付近に寝転がっていた浦正が、興味深そうに近付いてくる。
「あぁ、借りたんや。逢うたで、あの噂の女先生に」
「偶に俺達の事探してる人?」
「せや」
「どうだった、なかなかの腕だって町じゃ噂になってるみたいだけど?」
 浦正は蓮次の手から傷薬を取り上げ、蓋を開けて匂いを嗅いでみたり指で触れてみたりした。独特の匂いが鼻につく。
「美人。腕は治療してもらってへんから解らんけど、責任感は強そうやし、征太郎の事も凄く大事にしてるみたいや。信用出来ると思う。あの人は、会津に希望と復興をもたらす要……やと俺は思うで」
「けど、十年も会津を離れてたんだろ? そんな人がいきなり戻ってくるなんて、やっぱりおかしいよ」
 瀧尋は訝しげに呟く。
「会津戦争の時十一だろ? そんな年で、親が目の前で殺される場面見たんだ。会津に戻るのが怖くても不思議じゃないだろ。十年経って、気持ちの整理がついたってとこじゃないか?」
「俺も浦正の言う通りやと思う。俺は……あの人にやったら託しても良いと思うんや」
 浦正の手から傷薬を取り返し、指先で傷口に塗り込んでゆく。少し沁みたが、耐えられない程ではない。
「何を?」
「葉月」
 瀧尋の問いに、蓮次は静かに答えた。
「駄目だ! 葉月は俺の弟だ。絶対に誰にも渡さない!」
 瀧尋は勢い良く立ち上がり、蓮次に手拭いを投げ付けた。蓮次の頬に、濡れた手拭いがぶつかる。
「瀧。ちょ、落ち着けや。お前にとって葉月が大事なんは解る。けど、葉月は頭もええし、恵先生の下で勉強とかした方が、会津のためになる男になるんちゃうかと思うんや。すぐに結論出せとは言わん。けど俺は、正蓮団の副団長として、それも可能性のひとつとして考えてるって事だけは解っといてくれ。何が一番葉月と会津のためになるか、ちゃんと考えなあかん」
 蓮次はいきり立つ瀧尋を、穏やかな声音で諭した。



 一方、その頃診療所には、曜介を始めとした十人程度の男女が集まっていた。
「すみませーん!」
 診療所の玄関から声がしたので、征太郎は蒼紫に断り、居間から診療所に向かった。
「曜介さん……どうしたんですか?」
 まさかそんなに沢山の人がいるとは思わなかった。しかも、誰一人怪我や病気にかかっている様子はない。
「よぉ、征太郎。蒼紫様が診療所にいるって聞いたんだけど」
「蒼紫……様……?」
 先程母が連れてきた四乃森蒼紫という男が居間にいる。纏う雰囲気はなんとなく陰があるが、端正な顔立ちですらりと背の高い美丈夫だ。しかし、“様”を付けて呼ばれているのはどういうわけなのだろう。
「どうかしたか、征太郎」
 訓練により優れた聴力を持つ蒼紫は、奥にいながら自分の名を誰かが口にしたのを聞きつけたのだろう。診療所の玄関に顔を出した。
「蒼紫様! さっき挨拶させて頂いた曜介です。どうしても妻のちあきを紹介したくて来ました」
 曜介は、隣りに立つ若い女性の肩を抱いた。曜介がちあきと呼んだ女は、どうやら妊娠しているらしく、お腹が膨らんでいる。
「貴方が、操さんが言っていた江戸城御庭番衆の御頭さんですか。曜介の友人で、鳶やってる清道といいます!」
 耳から顎にかけて濃い髭を生やした武骨な青年が手を上げて挨拶した。それを皮切りに、次々にそこにいた人々が自己紹介してゆく。
 征太郎はその様子に圧倒されながら、何度か質問を挟み、母が教えてくれなかった――言う暇がなかっただけだとは思うが――事実を知った。四乃森蒼紫という男は、幕末、江戸城を守護していた隠密江戸城御庭番衆の御頭だったらしい。御庭番衆の訓練が如何に苦しく、一人前になるのが如何に大変かを曜介は語り、その御頭であった蒼紫の素晴らしさを征太郎に伝えた。
 いつまでも玄関先で立ち話もないだろうとは思っていたのだが、曜介らの勢いに圧されて何も言えなかった。
 蒼紫は取り敢えずそこに立って話を聞いている風ではあったが、征太郎の見る限り、そこにいる人々に興味を持っているとは思えなかった。尤も、先程まで話をしていて、興味を持っていようといまいと表情に表れないという事は解っていたので、もしかしたらちゃんと関心を持って聞いているのかも知れない。
「蒼紫様、うちの子が産まれたら是非逢いに来て下さい!」
 曜介は希望に満ちた瞳で蒼紫を見詰めた。こんな曜介の表情を見るのは、征太郎は初めてだった。曜介は決して暗い人間ではない。どちらかといえば、絶望の色の漂う会津において、空回りな程に明るく、活発な人間だ。だが、今まで見た中でも最上級に瞳が輝いている。白黒の世界に鮮やかな花が咲いたかのような表情だ。
「偶に……会津に来よう」
 何処か穏やかな声音で、蒼紫は答えた。
 小半時程、入れ替わり立ち替わり来客があった。全員、町で噂を聞きつけて青紫を一目見ようと、あわよくば挨拶でもしようという者ばかりだった。曜介は最後までいたが、蒼紫に再会を約束させて町へと戻って行った。
 人気がなくなると、征太郎は肩で大きく息をつく。家の中に入れなくて良かった。入れていたら、いつまで居座られるか解ったものではない。しかし、来訪者の中に、普段母が訪問すると罵声を浴びせたり、手を上げる事もあるような者達が含まれていたのが意外だった。四乃森蒼紫という男の存在が、もしかすると母を助けるかも知れないと、淡い期待が胸に宿る。
「沢山人が来ましたね。御庭番衆の御頭って、やっぱり凄いんですね」
 征太郎が蒼紫に声を掛けるとほぼ同時に、一度は閉ざされた玄関の扉が開いた。
「失礼、高荷先生は戻ってはる?」
 現れたのは、頭の天辺から足の先まで黒い装束に身を包んだ背の高い青年だった。顔は白く、瞳が海のような碧色で、日本人でない事は明らかだった。征太郎は初めて見る異国人に身動いだ。
「お前は……」
 蒼紫が微かに息を呑んだ。
「高荷先生は?」
「母は……未だ……」
「そうか。せやったら、これ返しといて。『助かった』ゆうて伝えといてくれるか?」
 青年は懐から小さな木箱を取り出した。恵がいつも傷薬を入れて持ち歩いているものだ。征太郎が手を出そうとすると、青年は木箱を蒼紫に向かって差し出した。蒼紫は黙ってそれを受け取る。青年の口元に、何か言いたげな笑みが浮かんだが、青年は無言で蒼紫の手に木箱を乗せた。その指先が微かに震えている事に気付き、青年の笑みは優越感を滲ませたそれに変わった。
 ふたりは言葉を交わさなかった。
 征太郎も、言葉を発する事が出来なかった。何も行ってはいけないような、重苦しい空気に包まれていた。

 恵が診療所に戻ったのは、子ひとつを回った頃だった。細い三日月が、恵の足元を照らしていた。
 今まで看られなかった患者との話が盛り上がったり、詳しく話をしている内に、普段より長い時間診察をしていた。
「ただいま……」
 征太郎はもう寝ている時間だ。恵は小さく言って家に入った。
「帰ったか。……操は?」
 居間を覗くと、蒼紫が禅を組んでいた。
「操ちゃんは、町の人と意気投合して酒宴に誘われたみたい。未だ帰ってないのね」
 貧しい故、酒宴といっても酒も肴も大してありはしない。日々飲んでいる酒は、半分以上水で薄めたものだ。しかし、今日はそれぞれの家から秘蔵の酒を持ち出し、客人をもてなそうとしている。操が大仰に宣伝したためでもあるが、それだけ御庭番衆関係者は歓迎されているのだろう。
 操には、人を引き付ける才能がある。往来で、町中で、あれだけの人を集め、注目させる事が出来たのは操だったからだろう。自分にはとても出来ないと恵は思う。それに、今まで恵を敵視していた人々の見る目が変わったのも、操のお陰だ。操は、恵が一ヶ月かけて出来なかった事を僅か数時間でやってのけた。その才能は羨ましくもある。無いものねだりと知りつつも。
「征太郎は?」
「寝た」
「そう」
 短く答えながら、恵は隣りの客間を覗く。二組の布団がきちんと並んで敷かれていた。征太郎が用意したのだろう。まるで夫婦の寝室のようだなとぼんやり思い、はっとした。つまりふたりは、そういう関係になったのだろうか。京都から会津まで、一日、二日の距離ではない。ふたり連れ立って来たという事は、ふたりの関係が進展していると見るのが普通だ。恵は頬を綻ばせた。
「恵」
 穏やかな心地に浸っている恵に対して、背後からの蒼紫の声は冷たく、陰鬱だった。
「何?」
「これを……」
 蒼紫が差し出したのは、先刻黒づくめの青年が届けに来た木箱だった。予想外に早く戻ってきた――戻らない事も覚悟の上で渡したのに――事にやや驚きつつ、何の気なしにそれを受け取った恵だったが、蒼紫の表情は険しかった。
「奴は、誰だ?」
 低く押し殺した声が問う。
「“奴”……?」
「この箱を持って来た、あの男は誰だ?」
 暗い部屋の中で、鋭い眼が閃く。恵は手の中の木箱に視線を落とした。“奴”――。持って来たのは蓮次だろうか。それとも、蓮次の仲間だろうか。その答えは、蒼紫の態度でなんとなく察しがついた。しかし、恵は敢えて尋ねる。
「……どんな人だった? 私がこれを渡したのは、、関西訛りの――」
「“三日月”」
 蒼紫の声が冷たく告げる。ぞくりと背筋に悪寒が走り、恵は大きく息を吐き出しながら客間に繋がる襖にもたれ掛かった。
 月が障子に淡い光を投げ掛けている。その光が、蒼紫の顔を照らすと同時に深い影を作る。恵は木箱をぎゅっと握り締め、小さく首を横に振った。脳裏に浮かぶのは、月のような鮮やかな髪を持つ、今し方蒼紫が二つ名を口にした青年の姿。
 顔を上げる事が出来ず、俯いたまま恵はもう一度首を振った。
「違う。“三日月”では……“流弦”ではないわ」
 はっきりと言い切った。その声は、涙に震えていた。恵の右の頬を、一筋、雫が流れ落ちる。
「“流弦”じゃない。彼には、私も今日初めて逢ったの。“流弦”によく似た、でも“流弦”じゃない人――」
 名前は橙野蓮次。山賊集団“正蓮団”のひとり。知っているのはそれだけだ。それは、何も知らないにほぼ等しい。
 蒼紫の眼は、鋭利な刃物のようだった。恵はその眼を直視する事は出来なかったが、頭上から見下ろす視線が何故か酷く重たかった。こんな風に睨まれる覚えはない。大体、
「“流弦”であるわけがないでしょう? それは貴方だってよく知ってるはずでしょう? だって彼は……貴方が、貴方自身が般若に命じて“殺させた”んだから。貴方は自分の部下に、その部下を殺すように命じた。そうでしょう!?」
 恵は蒼紫から眼を反らしたまま、一息に事実を突き付けた。知らないわけがない。それなのに何故、自分はこんな風に彼に責められているのか。納得いかない。けれど、彼を見る事が出来ない。木箱を握る手が、震えていた。怒りで、悲しみで、憎しみで。
「忘れもしないわ。あの日……般若が鉤爪に赤い血を滴らせて部屋に入って来た時の事。貴方は“あの人”を――」
 バンッ!
 耳元で大きな音が響き、恵はびくりと肩を震わせた。蒼紫の手が、頬のすぐ側を通って襖を叩き付けた。思わず、僅かに恵は顔を上げかけた。それより早く、蒼紫は指先を恵の顎に当てて引き上げる。望まずして、視線が交わった。
「何よ」
 気丈に――せめて気丈な振りをして――恵は言い返す。漆黒に染まった刃のような瞳が、微かに揺れていた。
「恵、俺は……」
 ぐっと奥歯を噛み締める恵に、冷たい声が何かを言いかけるが、それ以上の言葉は続かない。淡い光の差す居間で、ふたりの間に沈黙が下りた。静寂が、肌に刺さる。
 耐え切れず、恵は顔を背けようとしたが、蒼紫の指が恵の顎を掴んで離さない。交わる視線を閉ざしたのは、蒼紫の方だった。不意に鋭い眼を閉じると、恵に顔を近付けた。

 その時だった。

「蒼紫様〜〜〜〜!!」
 診療所の玄関ががらりと開き、賑やかな声が飛び込んでくる。操だ。明らかに酔っ払っている。
 蒼紫はさっと恵から離れると、一瞬恵に視線を投げたが、何も言わずに居間を出て行った。
 取り残された恵は、呆然と心臓の辺りに手を当てる。ばくばくと心臓が早鐘を打つ。何があったのか。今、何が起きたのか。まるで接吻でも迫られたようではなかったか。触れられていた顎の先から脳まで血が駆け巡り、顔が真っ赤になっていくのが解る。
「違う、違う……あいつは、操ちゃんの……」
 戯れ。或いは、何かの攻撃を仕掛けるつもりだったのかも知れない。女であろうと、傷を負わせる事に躊躇のない男だと恵は思っている。
 二度、三度大きく深呼吸をし、恵も診療所の玄関に向かった。
 玄関では、曜介が操に肩を貸していた。
「いやぁ、調子乗って飲ませ過ぎちゃって……すみません。こんな遅い時間に……」
 曜介は申し訳なさそうに何度も頭を下げる。恐らく、調子に乗ったのは操の方だろう。それを曜介が庇っているとしか思えなかった。蒼紫も、恵も、そこは同じように考えていた。
「すまない、操が世話になった」
「いえいえ、こちらこそ楽しかったです。今度は蒼紫様もいらして下さい。みんな喜びますから」
「…………」
「曜介さん、有難うございます。後はこちらでやりますから、ちあきさんも待っているでしょう? また明日伺いますね」
 黙する蒼紫の隣りで、恵が口を開いた。曜介は頷き、また頭を下げて「それでは、おやすみなさい」と言い残して診療所を後にした。
「全く、こんなに酔っ払っちゃって」
 恵が溜息混じりに呟くと、蒼紫はやはり何も言わず、操を抱き上げた。
「んん〜〜、蒼紫様ぁ〜」
 蒼紫の腕の中で、ぐずぐずと身体を揺する操。蒼紫は操を宥めながら抱き直す。操は意識があるのかないのか、甘やかな声で蒼紫を呼びながらその首にしがみ付き、頬に唇を押し付けた。
「んふふ〜」
 甘える操を抱いたまま、蒼紫は全く動じる様子はない。恵は蒼紫より先に廊下を進み、二組の布団の敷かれた客間の襖を開けた。
「すまない」
 言いながら、蒼紫は手前の布団に操を寝かせる。操は蒼紫の首に腕を回したまま離そうとせず、酒の臭気を漂わせながら蒼紫の顎をぺろりと舐め上げた。
「よせ、操」
「うふふ、蒼紫様、大好き〜。御庭番衆は凄いんだからぁ」
 蒼紫は無理矢理操の腕を解き、布団に押し込んだ。恵は布団の反対側に回ると、慈しむように操の額を撫でる。操はくすぐったそうに「うふふ」と喜色満面の笑みを浮かべた。
「今日は、操ちゃんのお陰で助かったわ。操ちゃんは、御庭番衆を本当に大切にしているのね。貴方や御庭番衆の事をみんなに知って欲しいって、町のあちこちで触れ回っていたのよ」
「……隠密である筈の御庭番衆について言い触らす事は、些か問題があるんだが……」
「でも、御庭番衆っていう大きな組織が味方だった事が解って、希望を見出した人もいたみたい。私も、それが嬉しいし、有難いなと思うわ。だから……操ちゃんの事、大事にしてあげてね、蒼紫」
「蒼紫様ぁ」
 むにゃむにゃと寝言の合間に、操は蒼紫の名を呼ぶ。こんな風に愛されて、きっと蒼紫は幸せだろう。
「幸せね」
 思った事を、そのまま口にする。操の側にいると、何故か素直になれた。操の素直さが、移っているような気がした。柔らかく微笑む恵を、蒼紫は鋭く睨む。
「……私はもう、貴方から大事なものを奪うような事はしない。どんなに貴方が憎くても、貴方から操ちゃんを奪ったり、操ちゃんを傷付けたりは絶対にしない。だから……貴方ももう、私から何も奪わないで。あの人“達”を私から奪ったように。征太郎は私の宝物なの。もし征太郎に何かあったら……私は貴方を許さない」
 “あの人”――。恵の口にするその言葉に、微かに胸がざわつく。かつての仲間。そして、恵にとって掛け替えのない存在。彼を恵の前から消し去ったのは、間違いなく自分だと蒼紫は自覚している。
 蒼紫はゆっくりと息を吐き出した。すぐに口を開けば、ささくれ立った心の棘を吐き出してしまいそうだった。それはきっと、恵を傷付ける。一日に二度も恵の涙を見る覚悟は、蒼紫にはなかった。
「……お休みなさい」
 恵は静かに立ち上がり、客間を後にした。

 蒼紫は布団に横になる。隣りでは、操が楽しそうに寝息を立てている。
 会津に来るまでの道中でも、宿で操との関係を誤解され、こんな風に布団を並べられた事があった。部屋が空いていないという事で諦めて同室で休んだが、操は深夜、蒼紫の布団に潜り込んで来た。操の気持ちを知らないわけではない。寧ろ、幼い頃から率直過ぎる程の愛情を向けられてきた。それはもう、幼子の頃のそれとは違う事は解っている。しかし、どうしても受け入れる事が出来なかった。
 この旅に出る前、女に恥をかかせるべきではないと翁から言われていた。最初は意味が解らなかったが、操の態度から漸くその意味が解った。恐らく自分のした事は、翁の言う「女に恥をかかせる」態度だったのだろう。子供をあやすように操の髪を撫で、腕枕で寝かせてやるのが精一杯だった。
 女を抱けないわけではない。十と幾つかの頃に、訓練と称して女を抱かされた事がある。それを、良いとも悪いとも思わなかった。
 あの邸で、色香で籠絡しようと恵は擦り寄ってきた。慣れない仕草で悪女を演じ、指先に唇を寄せてくるあの女の、切なく揺れる瞳が忘れられない。操に恥をかかせた行為とそれとは関わりのある事だとは思わない。だが、操が胸に頬を寄せてきた時、あの瞳がちらついた。
「大事に……」
 先代御頭から頼まれているから、大事はしているつもりだ。それ以上の事が、今、必要になっているのだろうか。そうなる事を、あの女は望んでいるのだろうか。
 それが、正解なのだろうか。



 操の寝息の向こうに穏やかな吐息を探しながら、蒼紫は静かに瞳を閉じた。
 障子の隙間から、細い三日月だけが、彼を見詰めていた。


fin
大事にするとは、どういう事だろう?
守るべきもののため、守りたいもののため、人は懸命に生きる。
では、それが見付からない者は、どうする事が正しいのだろう?


INDEX

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