それぞれの出会いは奇跡のようです。
 ほんの少し目を閉じれば……



   夢のつづき



 それは、しんしんと雪の降る朝の事。左頬に十字の刀傷を持つ男は、傍らの女の肩を抱き寄せた。長い黒髪がさらりと揺れる。驚いた女は、切れ長の目を大きく開いて、その男、緋村剣心を見た。剣心は穏やかに微笑んだ。
「剣さん……?」
「なんでござるか、恵殿?」
 剣心は、まるで自分が何もおかしな事はしていないとばかりに柔らかく言った。名を呼ばれた女、高荷恵は、いつにない剣心の態度に戸惑った。
「恵殿……」
 剣心は徐に目を閉じ、恵に顔を近付ける。恵も、つられて目を閉じ――
 ――たその直後、恵は勢い良く飛び起きて、大きく首を振った。この上もなく顔が赤らみ、火がついたように熱い。
「駄目、駄目、駄目……」
 褥を右手で握り締め、左手を頬に当てる。たったひとりの寝室、窓の外はまだ薄暗い。肌寒い朝だった。
 ひとしきり動揺し、恵は布団に包まれた膝に額を押し付けて息をはいた。心臓がばくばくと音を立てる。
 身を引いて何年経つというのか。未だに彼に関心を持つ自分自身に嫌気が差した。彼には妻子がある。彼の妻に頼み込まれて、出産にも立ち会っている――恵自身がふたりの息子を取り上げた――というのに。
 何て事だ。
 五月の初旬。京都の朝は、夏が近付いているとは思えない程に冷え込んでいた。しかし、身体は熱を帯びている。恵はのろのろと布団から抜け出し、窓を開けた。ひやりとした空気と共に、風が吹き込んできた。
「どうした?」
 微かに声が聞こえ、恵は窓の下を見下ろす。中庭で、ひとりの男がこちらを見上げていた。
「蒼紫……?」
 恵が滞在している宿“新葵屋”の主、四乃森蒼紫だ。恵と目が合うと、蒼紫はさっと室内に戻っていった。かと思えば、一分と経たずに足音もなく恵の部屋へやって来た。
「どうかしたか、こんな時間に?」
「あんたこそ」
 恵は障子を閉め、蒼紫に向き直る。薄い太陽の光が、障子を通してぼんやりと恵を照らした。
「顔が赤いな。熱でもあるのか?」
 額に触れようと伸ばされた蒼紫の手は凍てついて、蒼紫の纏う冷気に、恵は肩を震わせた。
「随分長く外にいたんじゃない? 凄く冷たいわよ。修行なの?」
 伸ばされた手が額に届く前に、恵は両手でそれを捕まえた。
 今でこそ、京都では知られた料亭兼宿屋である新葵屋の主の座に納まっているが、かつては江戸城の護衛を任とした隠密集団、江戸城御庭番衆の頭を務めていた男だ。しかも、史上最年少で頭に就任した実力者。
「いや……朝の空気が心地良かったから」
 蒼紫の口にした奇妙な理由に、恵は思わず吹き出した。しかし、思慮深いこの男のする事だ、本当は別の故があり、それを口にしたくないだけだろう。そう理解して、恵はただやんわりと微笑み、窓辺に身を寄せた。
「会津もきっと寒いわね。紫がぼやいていそうだわ」
「早く帰りたいか?」
 蒼紫は恵の側へ歩み寄り、僅かに障子を開いて窓の外を覗いた。
「そりゃね。でも、今日は漸く会いたかった人に会えるし、嬉しいのよ。緊張もしているけど……」
 ほうと溜め息をこぼす。やはり、頬が赤い。
「夢でも見たか、その相手の?」
「夢は別の人」
「……?」
「……剣さん、に、迫られる夢を……ね、ちょっとね」
 言うべきかやや躊躇した末、恵はそっと唇を開いた。今更と思われても仕方の無いことで、恵の頬は真っ赤に染まっていた。恵の意外な言葉と意外な態度に、蒼紫はふっと息を漏らした。
「笑わないでちょうだい!」
 突き飛ばすように、恵は軽く蒼紫を叩く。その姿が益々意外で、蒼紫は漏れてくる笑いを懸命に噛み殺した。笑いたがっている事が嫌でも解り、恵はばしんと音のする程蒼紫を叩いた。
 頬を染めながらも、恵はどこか楽しげだ。蒼紫も、この他愛もないやり取りを楽しんでいるようで、恵は口許を緩めた。
 この四乃森蒼紫という男に出逢ったのは、豪奢な洋館に軟禁されていた頃の事だった。医者でありながら、人を死に追いやる薬を強制的に精製させられていた。自身を見張るために雇われた蒼紫をなんとか籠絡して邸を脱してやろうと、恵は生まれて初めて女を武器に擦り寄った。冷たい男だと思った。冷徹で冷酷、見目は美しいが、残虐な男。快感も欲望もなく、抱く事で自分を甚振っているのだと、次第に気付いていた。悔しくもあったが、僅かに隙が出来るやもと、一縷の望みを賭けて身体を寄せた。笑うところなど殆ど見た事がなかった。あっても、にやりと唇を吊り上げるような薄ら笑いだ。
 そんな男が、些細な事に愉楽を見出だし、微かだが笑みを漏らしている。時間は掛かったけれど、彼を閉ざしていた氷は溶け出し、快方に向かっている。
 戦後十年を経ても復興の兆しの見えない会津で孤軍奮闘していた恵に、蒼紫は手を差し伸べた。力になりたいと数ヵ月毎に足繁く通う蒼紫を、拒絶した時期もあった。会津の人々に蒼紫との関係を誤解された事も少なくはない。この新葵屋に婚約者のいる蒼紫との噂は、蒼紫のためにも会津のためにもならないと思っていた。しかし、噂はさておき、会津で人々と交流し、恵の養子達と関わることは、蒼紫にとって価値のある事なのだと、ある時期に恵は気付いた。会津は蒼紫の生まれ故郷であるらしく、故郷の力になることに蒼紫は喜びを感じていると恵には解った。表情の少ない蒼紫の感情を読み取れたのは、それだけ一緒にいる時間が長いということだろう。加えて、恵は医者という職業柄、人の表情や感情を読むことには長けている。
 会津で人々のために働く事で、蒼紫は人間らしい“心”を取り戻していた。生まれた時から江戸城のために戦うことを定められ、物心ついた頃から戦うための術を仕込まれて、維新後は自身と自身の信頼する部下が戦うことだけを求めて十年も流れた男。戦闘一色だった人生で初めて、人のためになることをして、戦うこと以外に心を向けた。人々と共に喜び、時に悲しみ、そして笑う。四乃森蒼紫が、まるで生まれ変わったかのように穏やかで人間らしい感情を露にする。恵にはそれが嬉しかった。救われていたのは、会津の民だけではないのだ。
「さて、出掛ける支度をしなくちゃ。あんたも、いつまでも此処にいないで。私が翁さんに怒られるわ」
 翁こと柏崎念治は、蒼紫の婚約者である巻町操の親代わりだ。蒼紫が度々会津に赴き、恵と逢っている事を察し、恵に手切れ金を渡した事もある。恵の今回の京都訪問は京都府警からの要請を受けての事なのだが、府警が用意した宿がこの新葵屋だった。恵は躊躇ったが、何も知らない操が是非にとわざわざ文を寄越したので、甘えることにした。翁も表向きは歓迎していたし、新葵屋で働く元京都御庭番衆の面々も喜んで迎えてくれた。しかし、だからといって明け方に恵の部屋でふたりきりになる事は好ましくない。操がたまたま早起きをして、部屋に駆け込んでこないとも限らない――実際、一度それで叩き起こされている――。
「今日も警察か?」
「ううん、警察の要請は昨日で終わり」
「観光か?」
「そんな事するくらいなら、さっさと帰るわよ。健水君に任せてるとはいえ会津の事は気になるし、早く子供達に会いたいもの」
 恵はにっこりと笑った。
 今回の京都来訪とて、恵が望んでの事ではない。五年前、新政府転覆を目論んだ男が京都で暗躍し、剣心と対決した折、恵は剣心の治療のために京都に赴いた。その際、京都の警察署を訪ね、捕縛された者達の治療に当たった。その技術や意識の高さに、警察署に勤務する医師達は刺激を受け、何度も恵に指導を求めた。最初の内は忙しさもあり断っていたが、少し余裕も出てきたので、会津の外で稼ぐために申し出を受ける事にした。比較的若い警察官に、応急処置の正しい方法や人命救助の心得を教えたり、市中の医師に薬の煎じ方を伝授したりして三日を過ごした。昨日で一通りの仕事を終え、もっと教えて欲しいと請う警官や医師に再訪を約束し、報酬を受け取った。そうして漸く、目的を果たしたのだった。
「子供達に会うより優先する用事か」
「意地の悪い言い方ね」
 恵は、冗談混じりにぱちぱちと軽く蒼紫の頬を叩くと、頬に触れたまま上目使いで蒼紫を見上げた。
「京都にいる内に、どうしても会いたい人がいるの」
「……男か?」
「ふふ、気になる?」
 指先でくすぐるように頬を撫で、黒い瞳でじっと見詰める恵は、悪女を演じていた頃と同じ声音で話す。蒼紫にはからかわれていると解ったが、かつての事を思うと、ちくりと胸が痛んだ。
「止せ」
 頬に触れた手を引き離すようにか細い手首を掴む。驚いた恵の身体が揺れると、前髪に隠れた白い額に、赤黒い傷が覗いた。彼女が夢に見た男は、その傷は自分が付けたも同然と語った。ものを含んだその言い様から、実際に手を下したのは別の人物と解る。ふたり揃ってそれを隠すことが、蒼紫には何となく気にくわなかった。そして、何故そんな事を気にかけ、不快に思うのか――その答えにも、いつの間にか辿り着いていた。今は未だ、告げる時ではないと思いつつ、その時の訪れを探っている。
「女の人よ。戦前可愛がってくれていたお姉さんが京都にいるらしいから会いに行くの」
「そうか。誰か案内につけるか?」
「あやせさんにお願いしようと思って。良いかしら?」
「お近なら、案内には丁度良いだろう」
 蒼紫は頷いた。春賀あやせは、新葵屋で仲居を務める元京都御庭番衆のひとり、近江女の本名だ。御庭番衆の面々には、能面に因んだふたつ名があり、今も身内にはそちらで呼ばれているが、対外的には本名を名乗ることも多い。恵は、近江女から直々に「あやせ」と呼んで欲しいと頼まれていた。
「有り難う。じゃぁ、また朝食で」
 そろそろ、みんなが起きてくる時間だ。いつまでも部屋にいられては困る。
「あぁ……」
 溜め息をつくように答えると、蒼紫は部屋を出ていった。冷たい空気が、部屋を包んだ。



 操や蒼紫、翁と共に朝食を取り、翁を介して近江女に道案内を頼んだ恵は、日本髪を解いて軽く毛先を纏めた近江女と連れ立って新葵屋を出た。
 明け方空に掛っていたどんよりとした雲はいつの間にか去り、空は清々しいほど明るい晴天だった。
「恵ちゃんと蒼紫様って、お似合いよね」
 青空に似合う爽やかな笑顔で、近江女は言った。あまりに突然に、あまりに爽やかに、炸裂弾のような問題発言を放り込まれ、恵は面喰らった。
「本当に思ってるのよ。鈍い男連中はどうか解らないけど、お増とは時々そんな話するよ。まぁ、それでも私は操ちゃんの味方だけど、会津に通うのは大目に見てるの。足繁く会津に通ってるんでしょう、蒼紫様?」
 お増とは、京都御庭番衆のひとり、増髪の事だ。近江女と同じく新葵屋の仲居を務めている。
「知ってたんですか……」
「蒼紫様の様子がおかしいとは思っていたの。何かあるなって思ってたら、恵ちゃんから大金が届いたから……悪いとは思ったけど、翁宛の手紙を盗み読みして……やっぱりな、と」
 恵は、ごくりと唾を飲んだ。大金は、翁が恵に渡した手切れ金だ。会津のためにも金がいる。あれだけの大金は喉から手が出るほど欲しかったが、恵は一切手を付けず、直ぐ様送り返した。
「ごめんなさい……操ちゃんには悪いと思っているんです。でも、どうしても男手が必要で……――」
「ごめんなさい!」
 慌てて弁明しようとした恵の正面に回り、近江女は勢い良く頭を下げた。
「……は……」
「翁が失礼なことをして、本当に申し訳ない!」
「あやせさん!?」
 近江女は軽く結った髪が地面につきそうな程深く頭を下げる。恵は思わず目を丸くした。
「まさか翁があんな恥ずかしくて失礼なことするとは思わなくて……」
「でも、私が悪いんだから……」
「恵ちゃんは悪くないでしょう? 悪いのは蒼紫よ!」
 早口でそう言った後、近江女ははたと口を抑えた。「蒼紫……?」恵は思わず聞き返した。御庭番衆の御頭を、中位隠密の近江女が呼び捨てにする事など、普通であれば許されない筈だ。
「あやせさん……?」
「あー……忘れて。ていうか、蒼紫様には内緒ね、時々出ちゃうのよ、こういうの」
 近江女は照れくさそうに頭をかくと、深々と息をついた。
「私と蒼紫様ね、実は乳兄妹なの。同じ乳母に育てられて、兄妹みたいに育ってきたから、つい昔の癖で呼んじゃうことがあるのよね。密偵方目指してたから一緒に修行もしていたし。でも、私は十の時に足を怪我して密偵方になれなくなって、京都御庭番衆に回されて、蒼紫様は御頭でしょう。差を付けられて、ちょっと悔しかったりするのよね」
 淡々と語る近江女の横顔が、憂いに染まる。
「もしかして、あやせさんも四乃森さんの事を……?」
 その憂いは、好意から来るそれなのではないかと思わずにはいられない。そんな横顔だった。しかし、近江女は首を横に振る。
「まさか、違う違う。そうじゃなくて……悔しいのよね、ちょっと。すっごく。だって、蒼紫様は密偵方から更に出世して御頭になってるのに、私は密偵方にすらなれなかったんだから」
 “ちょっと”、“すっごく”。語気を強めた近江女の言葉には、並々ならぬ悔しさが感じ取れた。共に育った蒼紫が、どんどん上へ駆け昇っていくのに、自分はなかなか前に進めず、望む地位を得ることが出来なかった事が、今でも胸に引っ掛かっているようだ。恵にはよく解らない事だったが、密偵方は、御庭番衆の中では花形の職種だった。努力はしたが密偵方にはなれず、結局上位隠密にすらなる事が出来なかった悔しさは、今でも近江女の中で燻っている。
「それに私の初恋の人は、恵ちゃんも良く知っている人よ」
「私が? 四乃森さんではなくて比古さんでもないですよね、初恋ということは?」
「うん、違う」
 くすりと笑みを漏らす、その横顔にも憂いが滲んでいた。
「恵ちゃんは、本当に覚えていないのね、私の事」
「……え?」
 ぽつりと近江女のこぼした言葉の意味を解する前に、近江女は足を止めた。一軒の邸宅の門前。表札にあるのは、“新島”の文字。
「到着。恵ちゃんが会いたがっている人は、此処にいるわ。じゃぁ、私はこれで。帰りにまた迎えに来ますね」
 近江女はぽんと恵の肩を叩き、恵が口を開く前に姿を消した。
 恵は大きく息を吸うと、門扉をがらりと開いた。
「ごめん下さい」
 唇から出た声は、自分が思うより固く、大きかった。どこかから、小さく「はーい」と声が聞こえた。暫く待つと、女中らしき女性が玄関を開けた。
「はい、どちらさまでしょうか?」
「私、会津の高荷恵と申します。八重さんにお逢いしたく伺いました。八重さんは御在宅でしょうか?」
「奥様のお知り合いの方ですか。どうぞ、いらっしゃいませ」
 女中は恭しくお辞儀をすると、恵を応接間に案内した。室内は、舶来物の調度品が品よく飾られていた。恵にとっては見慣れないものばかりだった。ふかふかの布団のような布をはりこんだ椅子は、どこに座って良いものか解らず、少々落ち着かない心地がした。
 新島というのは、八重の今の姓だろうか。恵が知る限り、八重は会津藩で蘭学を教えていた川崎尚之介の妻だった筈だ。尚之介とは離縁したのだろうか。尚之介の消息は解らないが、或いは会津戦争で犠牲になったのかも知れない。再婚したのだろうか。そんなことは、これから本人に逢って確認すれば良い――
 と、そこで恵の思考は途切れた。廊下から、バタバタとけたたましい足音が聞こえ、近付いてきた。
「恵ちゃん!? 本当に恵ちゃんなん!?」
 足音は応接間の前で止まり、がらりと襖が開かれた。顔を出したのは、四十前後の中年の女性だった。年はとっているが、恵はその顔に覚えがあった。間違いない。会津藩士の娘・山本八重だ。
「八重さん!」
 恵が立ち上がると、八重は勢いよく恵に抱きついた。
「恵ちゃん! 恵ちゃんや〜。よう生きとったなぁ」
「八重さんこそ! 銃を担いで新政府軍と戦ったって聞きました。よく無事で」
 恵と八重は、身分も年も違うが、会津藩では親しい仲だった。しかし、恵が両親に連れられて脱藩して以来、会っていない。恵達が会津に戻った直後、会津戦争が勃発したからだ。恵は父の言い付けで安全な場所に避難していたが、結局ひとりが心細くなり、戦場へ足を向けた。辛くも生き延びたが、父が惨殺される現場に居合わせ、心に深い傷を負って会津から去った。一方の八重は髪を切り、男装をしてスペイサー銃を片手に戦場へ赴き、男達と共に戦った。
「会いたかった、会いたかった!」
 恵は八重の腕の中で何度も繰り返した。
「何で此処に居るん? 京都に住んでんの?」
「京都には仕事で来ただけで、明日帰ります、会津に」
「会津に住んでんの?」
「はい!」
 八重は感極まった様子で、何も言わずにもう一度恵を強く抱き締めた。
「痛いよ、八重さん」
 ひとしきり恵を抱き締めた八重は、漸く満足したのか、腕を緩めた。
「大きなって、綺麗なって、これがホンマにあの小さい恵ちゃんやとはなぁ」
「ふふふ、変わりました、私?」
「こんな素敵なお姉さんになってるなんて。ええ旦那さん捕まえた?」
 八重は恵をソファに座らせ、悪戯っ子のように瞳を輝かせて顔を覗き込んだ。その表情が十数年前と全く変わらなくて、恵は頬を緩めた。
「結婚は、してないんです。五年前に会津に帰ってから、大忙しだったから……」
「でも、好きな人とか、好いてくれる人はおるやろ?」
 問われ、恵の脳裏に、今朝方見た夢が思い出された。恵の思考に反し、その頬はみるみる赤らんでゆく。
「心当たりある顔やね?」
「な……ないです。ただ……五年前に諦めた恋があって……偶々今朝、その相手の夢を見てしまって……」
「諦めなあかん相手なん?」
「私が身を引いた翌年、別の女性と結婚しましたから」
 それはどうにもならない。八重は小さく頷くと、恵の髪をさらさらと撫でた。
「でも……とうに諦めたのに、未だ夢に見るなんて、情けないし恥ずかしいし……穴があったら入りたいです」
「私だって、今でも尚之助様の夢を見ることあるで」
 その言葉と表情に得心した。八重の夫であった川崎尚之助は、もうこの世にはいないのだ。
「八重さんは……今は……?」
「戦争が終わって……色々あって。十一年前に兄様を頼って京都に来たんや。尚之助様が亡くなって、再婚して、今は新島八重になった。でもな、時々今でも、夢の中に尚之助様が出てくる事あるで。今の夫には悪いと思うけど、それでも、嫌いで離縁したわけやないしね」
 恵が罪悪感と後ろめたさで沈んでいた事を、さらりと八重は微笑んで語る。恵の胸に、小さく温もりが宿った。
「良いのかな……?」
「良いんよ。好きなだけ、好きでいたら良いんよ」
 あの頃と変わらない長い髪で白い肌の恵。細過ぎる腕と顎が、今の会津の苦しさを物語っているが、元気でいる事が、八重には嬉しかった。
 恵も、八重との再会を喜んでいた。しかし、一方で心にぽっかり穴の空いたような空しさにも囚われていた。八重の口から、京の訛りが語られる。自分も、会津の訛りは捨てたけれど、もう八重は会津の人ではないのだと突き付けられているようで胸が痛んだ。それでも――八重が生きている。男に交じって銃撃戦に臨んで、死んでいてもおかしくなかったはずの八重が。
「八重さん……」
 恵は、ゆっくり八重の肩にもたれかかった。八重は、恵の頭に頬を寄せ、優しく恵の髪を撫でた。普段甘えたり頼ったり出来る相手のいない恵にとって、八重は稀有で貴重な存在だった。
「隆明君も、男前に成長してるんだろうなぁ。元気、隆明君?」
 八重は、くすくすと笑いながら言った。“高荷隆明<りゅうめい>”――恵の兄だ。恵の両親である高荷隆生・清加夫婦の長子。会津戦争で生き別れて以来、行方知れずとなっている。
「隆明兄さんは、消息不明なの。生きているとは思う。思いたい。でも、会津戦争以来、行方が解らなくなっていて……」
「え……?」
 八重ははたと顔を上げ、恵の顔を見詰めた。恵の瞳に映った八重の顔には、驚きの相が浮かんでいた。
「隆明君、まだ会津に戻ってないの?」
「……え? どういう事ですか?」
「尚之助様からの文に書いてあったで、隆明君と清加様が斗南藩におるって」
「斗南藩?」
 青森だ。会津藩が降伏した後、藩主であった松平容保の嫡男・容大が立藩した斗南藩には、多くの会津藩の民が流れた。その中に、尚之助も含まれていた。
「尚之助様が斗南藩に移った時同じ船に清加様と隆明君が乗っていて、励まし合って傷付いた人々の治療にあたったって書いてあった。てっきり、もう会津に戻ってるもんやとばっかり……」
 直後、恵の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。
「そんな……知らなかった。母様と兄さんが生きているなんて……」
「もう十年以上前の事やから、その後の事は解らへんけど、今も青森におるんちゃうかな。こればっかりは諦めたらあかん、絶対お二人とも生きたはるからな」
「うん……うん……」
 恵は大きく頷き、立ち上がった。
「有り難う、八重さん。会津に来る事があったら、絶対うちに寄って下さいね」
 落ち着きなく早口で挨拶をすると、恵は足早に新島邸を後にした。



 恵は走った。転げるように走り、新葵屋に駆け込んだ。玄関で、丁度出掛けようとしていた近江女と鉢合わせる。
「あやせさん!」
「恵ちゃん!?」
「蒼紫――四乃森さんは!?」
「え、えっと……二階に」
 恵は下駄を投げ出し、ばたばたと足音を立てて階段を駆け上がった。
「恵ちゃん、どうしたの!?」
「四乃森さん」
 恵ががらりと蒼紫の私室の襖を開けると、蒼紫は何事かと眼を丸くした。続いて、近江女が駆け込んで来た。操と翁が外出していたのが幸いだ。こんな大騒ぎ、首を突っ込むに違いないが、近江女には只事でないと察せられた。
「探し人をお願いします。斗南に、私の兄と母がいるの。お願い、探して。お願い!」
「斗南……」
 近江女が呟いた。息をのみ、声が震えていた。窓の外を、黒い鳥が一羽翔け抜けた。
「隆明君……」
 近江女の声が、恵の耳に触れた。何故、その名を知っているのか。
「あやせさん……?」
 振り向いた近江女の瞳が潤んでいる。その悲痛な表情が、恵の胸を粟立てた。
「何……? 何か知ってるの、あやせさん!?」
「高荷清加・高荷隆明親子は、恐らくもう……」
 近江女に代わり、蒼紫の声が冷酷に告げた。
「嘘。だって、八重さんが……尚之助様が……斗南藩に生きてるって……嘘! 嘘よ! 信じない、探してよ。幾らでも払うから、全力で探して! お願い、お願いだから……! ねぇ、蒼紫!!」
 蒼紫の胸にしがみつくように、恵の両手が蒼紫の胸倉を掴んだ。瞳からは止め処なく大粒の涙が流れだす。近江女は、咄嗟に恵の肩を抱き寄せた。
「落ち着いて、話を聞いて、恵ちゃん」
「お願い……お願いよ……」
「隆明君達の消息は、もう調べたの!」
 近江女が、叫ぶように言い放つ。恵は漸く蒼紫から手を離し、近江女を見た。
「隆明君は、私の初恋の人なのよ。覚えてないみたいだけど、私達、幼い頃に逢っているのよ。恵ちゃん達が脱藩して陸路で長崎を目指す途中、京都で宿泊した宿は、京都御庭番衆が情報収集に利用していた宿のひとつで、私達、そこで逢ったの。私はそこで隆明君に恋をしたわ。だから、恵ちゃんが志々雄との戦いの後に京都に来た時、隆明君の消息が気になって、蒼紫と一緒に調べ始めたの。結論から言うと……」
 近江女は声を詰まらせた。「嘘、嘘……」恵は大きく首を振り、繰り返した。
「戦後、斗南藩に移ったと思われていた。だが、新政府が、高荷親子が戦士達に治療を施し、反乱を起こすことを恐れて東京へ出頭を命じた。その時出頭した親子が、後に高荷親子とは別人だと解り、釈放された。斗南藩で確認した限り、高荷清加・隆明の両名は、青森に移動する直前に死亡したらしい。青森に何度か諜報員を送って調べたが、何度行っても答えは同じだった……」
「嘘……だって……だったら、なんでそう言ってくれなかったの? なんで私に教えてくれなかったの?」
「恵ちゃんが悲しむの解ってて、どうやって切り出せば良いか解らなかったから。でも、いつまでも隠してられないのは解ってたし……ふたりで時期を探ってた」
 俯いた近江女の眼からこぼれた涙が、畳に小さなしみを作った。
「じゃぁ……本当に母様と兄さんは亡くなったの? もう、この世にはいないの?」
「恐らく……」
 蒼紫の陰鬱な声が、残酷な現実を告げた。
「唯一、高荷親子の顔を知っている小尉――曜介が死んで、調査の手が足りなくなったというのもあるが、曜介には三度斗南に行ってもらった。それでも、何の収穫もなかったんだ」
 曜介は、会津で鳶をしていた青年だ。戦前、隠密江戸城御庭番衆の小尉<こじょう>という名で密偵方として諜報活動に従事していたらしい。会津で蒼紫に再会して以来、蒼紫の指示で諜報員として会津以北を調査していた。御庭番衆解散から十五年を過ぎ、蒼紫の手足となって諜報にあたれる人材は枯渇していた。しかし、その曜介も帰らぬ人となり、蒼紫は貴重な諜報員をひとり失った。
「まだ調べる事は出来る。だが、期待はしない方が良い。すまない……」
 蒼紫の腕が、恵に伸ばされる。蒼紫は、優しく恵を抱き寄せた。
「すまない……」
 蒼紫は、何度も恵の耳元でその言葉を呟いた。



 悪い夢ならば覚めてほしい。
 夢のつづきは、また悪夢でしかないのだろうか。
 叶わぬ恋も求め続ける家族も、いつになっても悪夢のつづき。

 夢を見る事が罪だというのなら、もう眠りなど要らない。
 どうか、幸いな夢を見せて――

fin
夢に罪はない。
けれど悪夢なら消えて欲しい。
幸いの実現を夢見ているのに、何故こうなるのだろう……
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