貴方は此処にいる。
 私の目の前に貴方はいる。
 此処に、生きている――


      刃


 京都の夏は暑い。とはいえ、明け方はまだ涼しい風が吹く事もある。
 明治十一年初夏、京都――
 午前五時二十五分、女医は、しっかりと端を結わえた包帯に鋏を入れて始末をすると、深い息をついた。眼前に横たわる患者から大きく体を反らし、額に玉のように滲んだ汗を手の甲で拭う。
「先生、手拭を……」
 背の高い精悍な顔つきの男が、白い手拭を差し出す。しかし、それも随分と湿っている。手術中、患者に――患部に――汗がかからないように何度も顔を拭わせ、乾いている手拭はもうない。
「ありがとうございます、白尉さん。手術終了。麻酔が切れたら、目を覚ますでしょう」
 女医はもう一度大きな息をついた後、部屋をぐるりと見回して、満面の笑顔を見せた。最後の最後まで女医を手助けしていた白尉と呼ばれた男や、次の指示を部屋で待ちながら手術を見守っていた三人の男女は、どっと力が抜けたようで、床に倒れ込んだ。
「はぁ〜、良かったぁ」
「お手伝い頂いて、有り難うございました。――戦闘の後に、手伝わせてしまって……」
 女医は、気遣うように眉を寄せて微笑むと、ゆっくりと立ち上がって窓を開けた。熱気の籠った閉め切った部屋に、ひやりとした風が吹き込んだ。黄金の朝日が、まだ夜の名残を残す紫紺色の西の雲に、細い光の帯を引いている。淡い光を浴び、女医は患者を振り返った。
 女医――高荷恵は、窓辺に腰をかけ、ただただ微笑む。首の後ろで纏めた長い髪がさやさやと風に靡き、朝日に照らされて微笑をたたえる恵は、とても激務を終えたばかりとは思えないほどに、穏やかで美しかった。
 恵は、昨夜東京から馬車で駆けつけた。道中、何度もその道に慣れたという駿馬に鞍を変えながら、休みなく半日以上走り続けて漸く辿り着いた。
 今、京都には医者がいない。医者の手が空いていない、というのは、馬車の中で聞いた話だ。京都ではこの数日、事件が立て続いた。一夜にして数十名の警官が惨殺される事件や、謎の黒装束集団が暗躍し、飛翔する男や巨大な鎌を振るう女らと共に、警察と衝突する事件。同時に、京都市中各所で放火未遂事件が相次いだ。また、警察署が放火される事件が起き、全焼している。兎に角、警察の被害が大きく、京都市内のみならず、山科や亀岡からも医者を呼び寄せなければならなかった。
 これらの事件は総て、日本を征服せんと目論んでいた維新志士・志々雄真実の配下によるものだった。志々雄の暗躍を阻止するため、時の内務大臣・大久保利通は、かつて長州派維新志士として名を馳せ、現在は流浪人として日本中を放浪している緋村剣心を京都へ向かわせた。剣心は志々雄との死闘に事実上勝利するも、瀕死の重傷を負った。しかし、剣心が志々雄を討たんと志々雄のアジトに向かった事は表立っては知られておらず、更に先の放火騒動で医者が警察に独占されていたため、剣心を治療出来る者はいなかった。剣心の仲間で、彼に想いを寄せる少女・神谷薫は、医者不足を察し、剣心が戻る前に東京へ文を飛ばした。薫らと手を組んでいた仲間に、隠密京都御庭番衆という集団がいた。彼らは、江戸時代、江戸城に置かれた隠密江戸城御庭番衆の分派で、幕府から京都守護を密かに命じられていた。彼らは明治を十年過ぎても京都中の伝令手段や情報網を管理しており、日本中に情報を発信する力を持っていた。尤も、江戸城御庭番衆は既に解散しているため、発信された情報を受け取る人間は年々減少しているのが実情だ。しかし、東京に住む元御庭番衆の男のひとりと連携をとっており、伝令手段としては最速の鷹を東京まで飛ばして恵を呼び寄せたのだった。
 かくして京都に到着した恵は、その足で剣心を寝かせている部屋に飛び込み、すぐさま手術に移った。手術は夜通し行われた。手術を手伝ったのは、京都御庭番衆の面々だった。御庭番衆に属するものは、能面に因んだ通り名で呼ばれている。それは現在でも変わらない。幕末、医務方を務めており、それなりに医術の知識を持つ青年・白尉を中心に、市中警護方の青年・黒尉、京都探索方の女性・増髪と近江女の四人。
 近江女は縛っていた長い髪を解き、恵の隣りに腰をかけた。
「私達なら大丈夫よ、軽傷だし、白にちゃんと手当してもらってるから。私達、足手纏いじゃなかった?」
 恵よりも少々年上ではあろうが、やけに親しげに話しかけてくる近江女に面食らいながらも、恵は微笑みを絶やさなかった。
「……もし貴方方がいなければ、あの子達に手伝わせるところでしたから……」
 恵はぽつりと呟くと、さっと腰を上げて剣心の脇に一纏めにした使用済みの晒を集めた。
「え…………?」
 訳が解らずに首を傾げる御庭番の面々。恵は口許に微かな笑みを浮かべていたが、眼は全く笑っていなかった。
「……あの子達は未だ、二十歳にも満たないんです。左之助や薫さんもね。だから、出来ればこんな場面見せたくないんですよ」
 使用済みの晒には、生々しい血糊がべったりと付着している。恵は眉を寄せた。
 恵のいう“あの子達”とは、薫やその弟子の少年剣士・明神弥彦、剣心の友人であり、志々雄との戦いにも立ち会った青年・相楽左之助、京都御庭番衆の御頭名乗る少女・巻町操のことだ。左之助は間もなく二十歳になるが、操や薫は十六、七、弥彦に至ってはまだ十歳である。人手がなければ手伝いが必要とはいえ、この場にいさせたくない。剣心の姿を見た時からこうなることは解っていて、彼らには決して部屋に入らないよう言いつけて手術に入った。
「でも、手術より血腥い場面を見てるんじゃないの?」
 さらりと言う近江女を、白尉が小突いた。
「“だからこそ”だろう」
 白尉は恵の集めた晒を抱え、手近にあった布袋に詰めて立ち上がった。
「……有り難うございます、白尉さん」
 恵も、ゆっくり髪を解く。見ると、剣心の右頬に血の跡がついていた。恵は、そっと指先でそれを拭った。まるで宝物に触れるかのように、そっと。その瞬間――ほんの一瞬ではあったが、恵の笑みが明らかに変わった。慈愛に満ちたその表情は、医者としてのそれではない。女の勘とでもいおうか、その意味が――恵の、剣心への想いが――近江女と増髪には解った。
「後は大丈夫ですから、休んで下さい。本当に、有り難うございました」
 恵は手術着を脱ぐと、御庭番の四人にもう一度笑い掛ける。
「そんな……。あ、薫さん達呼んで来ましょう」
「そう……そうね」
 白尉の言葉に、躊躇いつつも増髪が応じた。黒尉も頷き、三人は階下で待機する面々を呼びに部屋を出た。
「思ったより、皆さん元気ですね」
「私達は、他のみんなに比べて軽傷だからね」
「……近江女さんは、特に今痛む所はありませんか?」
「大丈夫よ……恵ちゃん」
 言いながら、近江女はそっと恵にの頭を撫でた。まるで幼い少女にするような仕草に、恵は今度こそ目を丸くして驚きを露わにしたが、近江女はどこか懐かしそうに目を細め、うんうんと頷いた。
「立派なお医者さんね。そうやって……みんなに心配かけないように、気遣わせないように笑ってるの、本当に偉いと思う。でも……貴方も疲れてるでしょう? 辛かったでしょう? あんまり無理しないで……ね」
 見透かされていた。“微笑”のわけを。戸惑う恵の頭を、近江女は微笑みながら撫でていた。
 間もなく、薫達の足音が近付き、恵はさっと近江女から離れ、小さく会釈する。それからぱんぱんと頬を軽く叩くと、もう一度口許に微笑を作った。
「剣心!」
 部屋に飛び込んできた薫が意図せず剣心に触れないようやんわりとその動きを制しながら、恵はその憔悴しきった少女の顔を覗き込んだ。眼の下に、黒々とクマを浮かべている。
「今は麻酔で眠ってるけど、数時間で目を覚ます筈よ。安心なさい」
 剣心の側で膝に顔をうずめた薫の肩を、恵は優しく叩いた。
「有り難う、恵さん……」
「貴女の為じゃないわよ。それより、ちゃんと休んだの? 酷い顔して。痛む所はない? 怪我は?」
 ぼさぼさになった薫の髪を撫でながら、恵は畳み掛けるように質問する。薫は顔を上げ、たじろぎながら「大丈夫」「平気よ」と答える。元気とは言えないまでも、休息と栄養さえきちんと取れば、直ぐにでも回復しそうだ。彼女は心配ないだろう。
「良いわ。彼が目覚めた時笑いたいのなら、今はしっかり休みなさい。今の貴方、とても剣さんに見せられる貌してないわよ」
 最後の一言は薫にだけしか聞こえないような微かな囁きだった。薫は、耳まで顔を真っ赤にした。
「弥彦君も……」
 恵は、薫の傍らに立つ弥彦を見上げる。額や腕に包帯を巻いているが、折れている様子はない。所々火傷の痕が見えるが、きちんと冷やし、処置をしてあるようだ。傷痕が残る事は無いだろう。
「何処か痛む?」
「いや、大丈夫」
「貴方も休んでちょうだい」
 恵は立ち上がる、弥彦の逆立った髪を柔らかく撫でる。くしゃくしゃと髪をいじられ、弥彦は照れくさそうに目を細めた。
「有り難う、弥彦君……」
「……いや。なんて事ないって」
 東京で最後に彼女と別れたのは、弥彦だった。剣心への想いを託されたのもまた、弥彦だった。礼を述べる恵に誇らしげに笑ってみせるこの少年剣士は、東京を発つ時より一回り大きくなったように見えた。
「かっこつけやがって」
 弥彦の後ろから、左之助が野次を飛ばす。からからと豪快に笑うこの男は、変わり映えないように思えたが、右手の包帯は気にかかった。
「あんたは……その右手、後で見るわ。他にどっか痛いとか気持ち悪いとかはない?」
「ん、あぁ……」
「なら、あんたより先に――貴女」
 恵が呼んだのは、左之助の向こう側に立つ、操だった。操は部屋の入口に立ち尽くし、綺麗に包帯を巻かれて眠る剣心を呆然と見詰めていた。
「どうした、鼬娘?」
「操ちゃん……?」
「貴方、肋を痛めてるんじゃない?」
「――へ?」
 操は、咄嗟に脇腹を押さえて顔を上げた。図星をさされた操は、眼を丸くして恵を凝視する。
「なんで……?」
「そんな動きしてるから」
 当然のように、恵はさらりと言ってのけた。寧ろ、何故相手が驚いているのか解らないといった風だった。しかし、これ程人の僅かな違和感に敏感に反応出来るのは、幼少の頃から医術を学んでいた恵だからだろう。
「…………あたしは、大丈夫」
 操は不意に半歩後じさる。僅かに、肋骨を庇う仕草を恵は見逃さない。それまでの緊張や戦勝後の高揚感が治まり、疲れが溢れ出すと、それまで忘れ掛けていた肋の痛みが操の身体から自由の一部を奪った。
「痩せ我慢すんな、鼬娘。この女狐は、性格は悪ぃけど腕は確かな医者だからよ」
 左之助は振り返ると、俯く操に歩み寄り、しっかりと包帯を巻き付けて開く事もままならない右手で操の後ろ頭を軽く叩いた。しかし、操は大きく頭を振った。
「操ちゃん……」
 薫も操の側に寄り、その肩を抱く。それでも、操は首を横に振った。
「私は大丈夫。大丈夫だから……」
「操ちゃん……というのね。私は――」
「ううん、恵さんが信じらんないんじゃなくて、寧ろ信じてるんだけど、だからこそ、私より先に診て欲しい人がいるの!」
 操は、熱い瞳で恵をじっと見上げ、その両肩を掴んだ。震えた声。ひたむきな瞳に、不安の色は濃い。
「あっ――」
 その時、恵の後ろで白尉が声を漏らした。
「そうです、先生。怪我人が他にもう一人いるんです……けど……」
「けど?」
 恵は白尉の方へ振り返った。このひたむきな少女とは反対に、彼はまるで絶望を見ているかのように青褪めている。
「先生には近寄り難いかも知れなくて……」
 ――近寄り難い。恵は意味が解らず、眉根を寄せた。患者がいるのであれば、その様子は見ておきたい。本当に操や左之助より優先すべきなら、すぐに治療に掛りたいところだが、“近寄り難い患者”、とは。
「お願い。緋村と闘って、怪我してるんだけど、でも……」
 操は、縋るように恵の着物の袂を握り締める。
 恵の脳裏に、馬車の中で聞いた話がよぎる。東京から馬車を出してくれたのは、元は隠密御庭番衆にて“飛出”と呼ばれていたという男で、彼は道中、京都御庭番衆についても話してくれた。その中に、彼女の名があった。操という少女――隠密江戸城御庭番衆の先代御頭の孫娘で、現御頭を慕い、彼を探している途中、剣心と出会った京都御庭番衆の少女――。不安の色濃い眼差しで恵を見上げる操。恵は得心した。彼女の慕う相手が、そこにいるのだ。
 恵はぐっと奥歯を噛み締めると、直ぐに悠然と微笑んだ。
「解ったわ、操ちゃん。その代わり、貴方は薫さん達と休みなさい。横になっていないと、肋が痛むわ」
「私……側にいたい!」
「私を信用してくれるなら、兎に角休みなさい。愛しい人がいるなら、その人の前では最良の状態でいなさい。言う事を聞けないなら、治療出来ないわ」
 淡々と、恵は厳しい言葉を浴びせ掛ける。操は言い返す事も出来ず、唇を噛んで俯いた。
「薫さん、後はお願い。この子を連れて、休んで頂戴」
「え……えぇ、でも、恵さん……」
 薫の瞳が、不安を孕んで恵を見詰める。操の手前言い出せないが、伝えなくてはならない事がある。しかし、恵は薫の言わんとする事が解っていた。薫に目配せして、頷く。「兎に角、行きなさい」
「うん……」
 不安ではあるが、操もいる。これ以上口にしてはならないと判断し、薫は恵に従った。
「弥彦君――貴方方も……」
「あぁ……」
 弥彦も薫と同じようにその“患者”が誰であるかを伝えたかった。しかし、口を開く前に促され、もどかしい思いで従った。
「あの、恵ちゃん――」
 近江女がゆっくりと恵の側へ寄る。
「“その人”はね、一番奥の部屋にいるんだけど……恵ちゃんには――」
「そうです、おひとりではとても……。私も、お手伝いします」
「……いいえ、白尉さん。一人で大丈夫です。もし必要があれば呼ぶかも知れませんが、それまでは……。あ、左之助、あんたは此処で剣さんを見ててくれる?」
 恵は左之助の肩を叩いた後、弥彦を見る。弥彦は恵の言わんとすることを察したようで、有無を言わさず御庭番の四人を連れて行った。
「恵、奴は――」
 左之助が、腕を伸ばす。が、恵はその腕をかわすように身を返し、医療用具や薬を纏めた。
「解ってるわ、誰がいるか」
「え……?」
「四乃森蒼紫」
 澄んだ声が、まるで感情も抑揚も無く響いた。
「……驚かないのか、あいつがいる事?」
「此処にいるみんな、御庭番――なんでしょう? 操ちゃん達の着てるあの着物、般若の忍装束によく似ているわ……」
「ああ? それだけで、よく――」
 恵は首を振った。
「京都まで連れて来てくれた飛出さんは維新後に抜けた元御庭番だそうよ。だから、話は聞いてるわ。それに――あんた達が京都に旅立ってすぐ、入れ違いであの男が道場に来たのよ」
「!?」
 左之助は平然と言ってのけた恵を見詰めた。思いも寄らない言葉だった。それが恵の口から事も無しに語られる事もまた、予想外だった。
「剣さんとの再戦の約束を果たしに来たのね……。私が黙っていたら、あの不良警官が現れて、事の顛末を洗いざらい話して……」
 “不良警官”――斎藤一の話を出した瞬間、左之助の表情が変わったが、恵は気にしない振りをした。何があったかは察しがついたし、左之助が話すまで聞くべきではないと感じた。
「それで?」
「そのまま京都に向かったんじゃないかしら。後は、あんたの方がよく知ってるんじゃないの?」
「そうか……」
「まぁ、剣さんが負けるとは思わないし、剣さんが勝つ以上はあいつも自害でもしない限り死ぬ事はないと思ってたから、あいつと見える可能性も覚悟の上よ」
 無論、勝つと信じても心配は尽きなかったが。
 恵が答えると、左之助は沈黙した。もう質問はないのか……? 恵は僅かの間、左之助を見ていたが、左之助に反応が無いと解ると、直ぐに左之助の左脇を通り過ぎようとした。しかし――
「…………左之助?」
 左之助の左手が、恵の手首を掴んだ。
「……嫌じゃないのか?」
「全然」
 左之助の顔を見もせず、答えた。
「嘘つけ」
 左之助は無理矢理恵の手を引き寄せ、自分に向き合わせた。左之助は、恵と蒼紫の関係を知っている。恵がどれ程傷付いているかも知っているつもりだ。
「……患者を治療するのが嫌だったら、医者なんかやって無いわ」
「あいつはただの患者じゃねぇだろ? 強がってんじゃねぇよ」
 怒気混じりの左之助の言葉に、恵は苛立った。左之助の左手を振り払い、その濃い茶色の瞳を睨み付ける。
「馬鹿にしないで頂戴。それが誰であろうと、剣さんだろうとあんただろうと四乃森蒼紫であろうと、患者は患者よ。医者として、放っておく事は出来ないわ」
「恵……」
「それに……私は“高荷恵”として、あいつとつけなきゃならない“決着”があるのよ」
 左之助が再び黙り込むと、恵は穏やかな笑みを浮かべた。「大丈夫よ」そっと囁き、背を向けて進む恵を、止める術は無かった。しなやかな強さを持つあの女に、心配など無用なのか。
 ――本当に?
「恵、俺は此処にいるからな」
「えぇ、任せるわ」
 不安要素は、少しでも減らしておきたい。万が一の場合を考えて、重症と解りながら左之助に剣心の側にいるよう頼んだ。恐らく、この中で剣心に次いで腕の立つ男。その意図を、左之助も理解していた。
 「有り難う、左之助」彼に聞こえない声で呟く。その言葉が、恵を一層勇気付けた。



 奥の部屋――。そこに確かに、“彼”はいる。恵は躊躇いもなく、すらりと襖を開いた。“近寄り難い”――白尉が言った意味が解る。部屋の中は、殺気や悪意ではないが、触れる者、近寄る者を許さない陰鬱で重苦しい負の気に充ち満ちていた。この“気”に気圧されて、誰もこの部屋に入れず、既に丸一日以上過ぎているという訳だ。こちらに背を向けて、男は瞑想していた。

――四乃森蒼紫。

 恵は瞳を閉じて静かに呼吸をする。そして、部屋に一歩踏み込んだ。
 その瞬間、心臓を潰されそうな圧迫感に、息が止まりそうになった。目の前が暗くなりそうだ。駄目、負けては駄目……。全身を恐怖が這い上がる。忘れることなど出来はしない、四乃森蒼紫という男との因縁。
 蒼紫との出逢いは、決して快いものではなかった。それどころか、恵は蒼紫という男に、好意的な印象を一切抱いていないと言って良い。此処まで負の感情しか感じない存在は、恵にとってたったふたりしかいない。
 そのひとりは、武田観柳という男。現在は死刑囚として投獄されている。主な罪状は阿片密売及び兵器密輸。元は青年実業家として知られていたが、裏で新型阿片を密売し、その利益で回転式機関砲<ガトリングガン>等の武器や兵器を密輸していた。その新型阿片“蜘蛛の巣”は、非常に繊細で精製が難しい。それを精製していたのが恵だ。観柳は恵を自身の邸に軟禁し、無理矢理阿片を精製させていた。恵の作った阿片は、東京で多くの人――その中に、左之助の友人も含まれている――の命を奪った。恵は何度も観柳邸から逃れようとしたが、観柳は百を超える私兵を雇って見張らせていた。勿論、私兵の主だった任務は観柳の護衛あったが、取引で危険な場所へ行くにしても、連れる私兵は精々十名程度。邸を囲む程の私兵の仕事は、不審者の侵入を防ぐ事と恵の監視が殆どであった。この年の春、恵は監視の目を掻い潜って観柳邸を脱出し、逃げた先で偶然遭遇した剣心と左之助に助けを求めた。一度は邸に戻ることになったものの、剣心らに救出され、観柳は警察に逮捕されることとなった。阿片密売の罪人は、死刑に処されることが通常。観柳も間違いなく死刑になるだろう。
 その観柳に護衛として雇われたのが、元隠密御庭番衆の御頭である蒼紫と、江戸城御庭番衆の残党の四人だった。四人は外見や立場が特殊故、戦う事にしか希望を、或いは人生を見出せない者達であった。蒼紫は、変わりゆく新時代の渦の中取り残される四人を捨てる事が出来なかった。蒼紫もまた、戦いこそが自身の生であると信じて止まなかった。監視する者とされる者。その出逢いは“される者”に絶望しか与えなかった。しかし、所詮は若い男だ、懐柔出来る隙はあるのではないかと、恵は果敢に蒼紫に接近した。情を交わした事もある。が、それとて悪い結果しか残さなかった。最悪の結果しか。見目ばかり美しく、冷酷な男。それが四乃森蒼紫だった。恵が観柳邸から逃走出来たのも、戦いを欲した蒼紫の策であると恵は推察している。戦闘にしか興味のない蒼紫にとって、「人斬り抜刀斎」の通り名で最強と謳われた剣心は、絶好の相手だった。だが、蒼紫は剣心に敗北する。それどころか、逆上した観柳が持ち出した回転式機関砲によって、四人の部下全員を失った。
 剣心は、去りゆく蒼紫に再戦を約束させた。自分の命を的に、彼に生きる目的を与えたのだ。そして、その再戦の目的を果たすため、蒼紫は剣心の居候している神谷道場へやってきた。それは、幸か不幸か剣心達が京都へ旅立った後であり、運悪く恵は、その場に居合わせてしまった。冷たい目で見下され、剣心の行き先を問われ、頬に触れられた時、今と同じ恐怖を感じた。立っていることもままならず、呼吸が止まりそうだった。
 観柳が処刑されることに、何の同情もない。だが、蒼紫に対する“負の感情”は複雑だ。嫌悪、憎悪、恐怖、怒り……様々な感情が混在する中に、悲しみや罪悪感も入り混じる。これ程までに憎み、恐れている相手なのに、軽蔑の念など一切ない。申し訳ない、とすら思う。彼が仲間を失ったのは、突き詰めれば恵のせいでもあるのだ。
 何より、蒼紫は近かった。情を交わす程に近く、その空虚な心に触れる事を密かに望んでいたのも事実だ。肌が触れる度に、確かに距離が縮んでいた。戦闘への欲望に隠された空っぽな心の奥底に残る微かな熱に触れたいと願った。しかし、ふたりを別った結末が、蒼紫への感情を負の色の染めた。
 恵は両手を固く握りしめ、もう一度大きく息を吸い込んだ。
 蒼紫は、自分の領域に人が入って来た事に、不快感を覚えたようだった。瞼を開くと、闇のように黒い虚ろな瞳が現れる。恵は蒼紫の纏う陰の気に圧倒されながらも、そんな事は気にもかけていない振りをして、部屋の中をずんずん進み、蒼紫の正面に回った。上から彼を見下ろしても、長い前髪に隠されて表情は読み取れない。しかし、恵は普段と変わらぬ仕草で“患者”と向き合う。心拍数の過剰な上昇にも気付かない振りをして、他の患者にするのと同じように彼の前に座り、その青褪めた顔を見詰めた。
「何故……」
 蒼紫は、恵が此処にいる事すら知らなかった。“何者かの来た気配”――恐らく医者が剣心の治療に来たであろう事――は察していたが、よもや東京から恵を呼んでいるとは思わなかった。
「傷は? 診せて」
 質問には敢えて答えず、何事もないかのように接する。が、蒼紫は答えない。
「要らぬ意地を張らないで頂戴」
 軽く戒め、恵は膝立ちになって蒼紫に手を伸ばした。しかし、その手は蒼紫の手によって押し戻される。「構うな」とでも言いたいらしい。
「構うわ。私は、医者よ」
 恵は蒼紫を睨み付けた。その瞬間、それまで感じていた蒼紫の“気”が、ほんの僅かだが和らいだ。恵はゆっくりと呼吸を整える。自分の言葉に救われた気分だった。そうだ、自分は医者なのだ。彼は、患者なのだ。みんなにそう言ってこの部屋に来た。左之助に強がるなと言われたけれど、強がってでも向き合わねばならない患者が此処にはいるのだ。蒼紫は恵から目を離さず、また、恵も座り直して蒼紫と対峙し、そのまま膠着した。
 暫く――少なくとも十数分は――そうしていたが、痺れを切らし、恵は口を開いた。
「こうしていても埒が明かないわ。私は医者として貴方の治療に来たのよ。……御庭番の方々にも頼まれているし」
 “御庭番”――その言葉に、蒼紫が反応したのが微かに解った。ほんの一瞬だが、彼の髪が揺れた。風もないこの部屋で。ほんの僅かな蒼紫の身体の震動が髪に伝わったようで、その言葉の重さを恵は噛み締める。
 “仲間”。かつての自分にはなかったもの。観柳邸から逃げ延びて匿われた時、剣心らの穏やかな姿に心惹かれた。あの中に入りたい、あの中に触れたいと思いながらも、そこから更に更に遠くに逃げる為、恵は心を殺して距離を取った。自分の罪や、自分自身、そして彼らを巻き込み傷付ける戦い――それら総てから逃れるために恵は離れようとした。けれど、手に入れた今、どうしても守りたいと思う。何を失っても、守り抜きたい“仲間”。だから此処まで駆けて来られた。傷だらけの愛しい人を前にしても、揺るがずに立ち向かえた。守れるのは、救えるのは自分しかいないと。恵は“仲間”という至宝を手に入れた。が、同時に蒼紫はその至宝を失った。この鉄面皮の男が唯一心を許せた者達。
 観柳邸で最後に見た彼の姿が目の前にちらついた。蒼褪めた顔に虚ろな闇を纏う瞳を埋め込んで自分達を見下ろす、一分の熱も持たない男。
 そして、剣心達が旅立った道場にやって来た暗く冷たい瞳のこの男の姿が浮かんだ。
 仲間を失い、闘いという唯一の目的を失い、それでもこの場に――この世に――彼が留まれるのは、きっと大切なものがあるからだ。そうでなければこの男は死んでいる。自ら命を絶つなり、もう二度と人に触れられない場所へ流れるなりしている。この男はそういう男だ。しかし、そうではなく、こうして街中にいるかつての仲間の元に戻ったという事は、彼が再び穏やかになれる場所を手に入れたという事ではないか。
 それなのに、何故この男はこんなに蒼い顔をしているのか。何を拒み、何を恐れているのか。
 恵は蒼紫に右手を伸ばす。触れたい、と思った。ふと、その肌に触れたいと。恵の指は、青白い頬に触れた。蒼紫は受け入れはしなかったが、さっきのように拒みもしなかった。蒼紫が拒否しないと解ると、手の平を頬に滑らせる。
「……生きていてくれて、良かった」
「………………?」
 震えた恵の声に、蒼紫は顔を上げた。その瞬間、蒼紫は自分の視界が晴れてゆくように感じた。視界に映る恵の姿が、随分細く見える。
「怖かったのよ、あの日、貴方が来て以来。貴方が死ぬんじゃないかって……」
「抜刀斎が俺を殺すと……?」
 恵は大きく首を横に振る。
「“不殺”を貫く剣さんが貴方を殺すですって? そんな訳ないじゃない……」
 殺されるのではない。そうではなくて――
「俺が、自害するとでも……?」
 恵は答えなかったが、それを蒼紫は肯定と捉えた。
「俺が、負けると……?」
「私は剣さんを信じているわ。剣さんは貴方には負けない。でも、剣さんに再び敗れたら、貴方はどうなるのか……。貴方が修羅に落ちて、人を殺める事しか出来ない存在になるか……自ら地獄を欲するか……それを考えるのが、怖かった」
 恵の手の平が、ゆるやかに蒼紫の頬を撫でる。左手は、長い前髪をすくい上げた。窓を閉ざす障子の隙間から差し込む朝日が、蒼紫に刺さり、蒼紫は眼を細めた。
「貴方には帰りを待つ人がいたんじゃない……」
「抜刀斎と戦った後は随分すっきりした気分だった。それまで俺は、修羅に墜ちて――」
「いいえ」
 恵の両手が蒼紫を包む。
「貴方は修羅に墜ちてなんかないわよ。だって、私が生きているもの」
 明るい色をした恵の瞳は、穏やかに微笑む。
 蒼紫が修羅そのものの男だったとしたら、どうだろう。神谷道場で恵と逢い、恵が剣心の居場所を語らなかったその時に、容赦無く恵を惨殺していただろう。恵の死体を道場に転がしておけば、少なからず剣心を揺さぶれるだろう。恵が話さないと言い切った時、「殺す」と脅すなら、首に触れるだけでなく、実際に首を絞めた筈だ。だが、実際の蒼紫は、冷酷ではあったが、殺しはしなかった。斎藤が現れなくとも、きっと殺されはしなかったと、恵は思った。だから、自分さえその場で耐えれば、剣心との接触も避けられると信じていた。
 その時、四乃森蒼紫の心は確かに生きていたのだから。
 それは、同情だったのかも知れない。恵の傷を知る故に僅かに見えた情けかも知れない。それがなんであれ、恵の生は蒼紫が修羅に墜ちていない事を示す証拠だった。
「少し、痩せたか……」
 蒼紫は、恵の頬に指を伸ばす。だが、一瞬躊躇いを見せ、触れることなくその手を下した。
「そうかしら」
 恵の頬が赤らむ。
「今は、すっきりしてるの?」
「……解らん。此処にいる事すら違うように思える……」
「相変わらず難しい男ねぇ」
 そして、不器用な男。
 誰かに似ている。そう、自分のよく知る誰かに。つまらない意地だと解っている。ただ、それまでの自分の行いに照らし合わせて、余りにそれまでと違うように思われて触れられずにいる。誰もそんな事は気にもとめていないのに、そしてそれすら解っているのに、その罪が、その影が、手に入れる事を許さない。そんな小難しいことばかり考え、不器用にしか生きられないその様が、よく似ているのだ。昔はそんな“誰か”が嫌いだった。憎かった。けれど、こうして似た者を前に、不意に沸き上がったのは、“愛おしさ”のような感情だった。
「それなら、正しいと思えるまで求めれば良いんじゃない? 貴方は、産まれた時から御庭番にいて、若くして御頭になって……“生きる道”を用意されていたから、迷う事を知らないのよ。戦いの中しか知らないから、平穏なこの場所に戸惑うのね……」
 恵の手は、自分の頬を離れ、床に下ろされた蒼紫の手に重ねられた。それから傍らに置いた鞄を引き寄せ、中から細い布包みを取り出した。群青の風呂敷に包まれていたのは、鉄拵えの鞘に収まった一振りの細身の短刀だった。
「覚えてる、この刀……?」
 言うなり、恵は刀を鞘から引き抜き、蒼紫の喉元に突き付けた。が、蒼紫は意とも容易くその手首を掴み、恵を床にねじ伏せた。
「ふふふ……。漸く動いたわね」
 ずっと座布団の上に禅を組んでいた蒼紫が、座布団から動いた。恵の手から短刀を捩り取ると、蒼紫は再び禅を組んだ。
 恵はくすくすと笑いながら、蒼紫に短刀の鞘を放って寄越した。
「それ、あげる」
 無銘の短刀……これが何の役に立つと言うのか。「必要無い」蒼紫は無感情に答えた。
「持っていて欲しいのよ。そうね……要らなければせめて、預かっていて欲しいの」
 ――預かる?
 その理由は解らないが、この短刀には見覚えがあった。彼女が脱走後、観柳に脅されて屋敷に戻った時、観柳と心中しようと振り翳した刀だ。恵が刺そうとした瞬間、蒼紫が背後からそれを奪い、恵は観柳の暴行を受けた後、監禁された。その時、蒼紫はその刀を恵に投げて返したのだった。
「今でも時々、貴方を殺したくなるわ。それに……今でも時々、自分を殺したくなる……」
「悔いているのか?」
「当たり前でしょう? 当たり前じゃない。私は――」
 恵の白い顔が、俄かに耳まで真っ赤に染まる。ぎりぎりと奥歯を噛み締め、喉の奥で呼吸を繰り返した。
「でも……剣さんが生きろと言ってくれたわ。生きて償う道を示してくれた。私には医術があるから、人々を救う事が今まで殺めた人々への償いになると……」
「……抜刀斎が……」
「だから、東京に残ったのよ。患者さんがいるもの。私だって、剣さんを追いたかったけど、でも――剣さんの示してくれた道を貫きたかった」
 静かなる叫びの中に、ふと、穏やかな色が見え隠れする。時折、操が見せる表情と同じ種の貌。しかし、その艶は操とはまるで違う。
「患者さんがいる限り、私は何処にでも行くわ。だから、貴方も救いたいと……医者の私が言うのよ。なのに、貴方を殺したいと――私の中の鬼が言う」
 あの頃、自分の中に飼い慣らした“鬼”が。人が戦っていればその隙に逃げるだの、幼けな振りをして付け入るだのと、自分を守るためなら何でもする、醜い“鬼”。それは、自分の過去を知る忌まわしい存在を消し去ろうとしていた。そして、自分自身さえも。
「俺も時折、あの時関わった総ての者を殺したいと思う……。殺したところで、般若達が戻る訳でもないが」
「私が逃げさえしなければ、般若達は死ななかった……」
「だが、お前が逃げなければ、抜刀斎と戦う事もなかった」
 蒼紫は、渡された刃をじっと見詰める。僅かだが血で曇っている。
「この血は……お前の……?」
「……左之助よ。観柳邸で自害しようとした時、素手で取り上げられたのよ」
 思えば、彼もまた、自分に生きろと示してくれた。友達の敵である筈の自分に――
「会津戦争の時、父が私にくれたのよ。護身用にと。父が初めてくれた、“人を傷付ける道具”……」
 短刀を手放した父は死に、この短刀で人を殺そうとしたり、自ら死のうとしたりと、父の望まざる事をしようとしていたのだから、それは、恥ずべき事だ。
「これを俺に預けてどうしろと?」
「別に……」
 蒼紫は静かに刀を鞘に納めた。恵は何も言わないし、その表情も何も語らない。しかし、その答えはない方が寧ろ良いのかも知れないと思われた。蒼紫は静かに頷く。
「預かっておこう……」
「有り難う。……ついでにもう一つ」
 蒼紫の目の前に、人差し指を立てて見せた。
「治療をさせて頂戴」
「…………」
「別に致命傷では無いけど、治療はするべきよ」
 恵は徐ろに髪を結い始めた。長い髪は背中をさらさらと流れ、白い指が豊かな黒髪を一つに纏める。纏め上げられた髪の影から、項が覗いた。
「操ちゃんが心配していたわ。自分も肋を痛めてる――多分折れてる――のに、貴方を優先して欲しいと言っていた……」
「操……か……」
「般若達も……」
「…………」
 蒼紫は両眼を静かに閉じた。瞼に浮かぶのは、仲間達の姿。失って以来ずっと見えなかった彼等が、誇らしく笑っている姿が浮かぶ。その四人の周りには、操が、翁――柏崎念至が、白尉達四人が、そして先の御頭や飛出達の姿がある。頼もしい仲間達は、死しても別れても誇りだけは失わない。
「……………………頼む」
 振り返った恵は、医者の顔をしていた。


「生きて――」


fin
貴方の生を喜ぶ人がいる。
私もそのひとりであるということを、どうか忘れないで下さい。



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