何があっても、必ず此処に還って来る。
 此処は私の、私達の、命の故郷――



    終わりなき再生の環



 元治元年四月、会津――
 桜はまだ少し遠く、漸く蕾が膨らみ始めたといったところだ。明け方、吐き出した息は白かった。
 少女は縁側に足を投げ出し、長い黒髪に櫛を通しながら空を見上げた。両親は、二日前から帰っていない。会津中を回り、薬を配っているらしい。また、藩主様や家老様にお叱りを受けるのではないだろうかと思いながらも、それを当然のように受け止めている。年の頃は、数えで九つ。会津藩御殿医・高荷隆生の娘で、名を恵と言った。兄ふたりは、朝早くから出かけた。若松城に行っているはずだ。今は恵ひとりしかいない。家族が家を空けることはしばしばある。藩主は、幼い娘をひとり残す事などあってはならないと何度も忠告し、手伝いを雇うよう言ったが、隆生は聞かなかった。
 二年ほど前から、隆生にはある計画があった。間もなく、その計画を実行に移そうとしている。
「ごめん下さい」
 玄関から声が聞こえてきた。恵は「はい」と短く答え、帯に櫛を差して立ち上がった。
「お早う、恵ちゃん」
 玄関には、小柄な女性が、恵より幼い少女を抱えて立っていた。長い髪を丁寧に結い上げ、桜色の着物を纏ったその女性は、立っているだけで雅やかな雰囲気を醸し出している。着物が取り分け華やかで上等というわけではないが、彼女が上流の娘だという事は、誰の目にも明らかだった。女性の抱いている幼女も、年より大人びた品の良い若草色の着物を着ていた。
「お早うございます、二葉様」
 きりりと美しい女性に、恵は丁寧にお辞儀をした。梶原二葉。会津藩家老の山川家の長女であり、家老頭梶原平馬の妻である。二葉の腕に抱かれている少女は、二葉の妹の山川さきだ。
「さきのお薬を頂きに来たんだけど……先生はいらっしゃる?」
「出掛けてます。兄様が、さきさんのお薬を預かって……今、お城に届けているんですけど。入れ違ってしまったようですね」
 年の割にはしっかりと、はきはきした口調で恵は答えた。しかし、その表情は挑みかかるように強張っていた。二葉は、やんわりと笑顔をこぼす。
「ねぇ、恵ちゃ――」
「只今、戻りました」
 二葉が口を開きかけた直後、がらりと玄関の引き戸が開き、背の高い少年がふたり、姿を現した。恵の兄達で、高荷家の長男の隆明<りゅうめい>と次男の隆彦<りゅうげん>。
「兄様」
 恵がふたりを見ると同時に、ふたりの目にも山川二葉の姿が映った。二葉はいかにも穏やかな顔で隆明達に微笑みかけるが、ふたり共、恵と同様に表情を強張らせる。
「二葉様……お早うございます」
 隆明が恭しく頭を下げると、隆彦もそれに倣ってお辞儀をした。
「さきさんのお薬は、お城に届けてありますよ。わざわざご足労頂いて、有り難うございます……」
 隆明は頭を上げると、慌てて草鞋を脱ごうとした。二葉はその様子を見ながら抱きかかえているさきの草履を脱がせる。恵は、二葉からさきの草履を受け取り、玄関に置いた。高荷家は、藩主に仕える御殿医の家系で、若松城に出入りする事も多い。家老の娘である二葉やさきとは、一緒に遊んだりする事もあり、特に年下のさきの事を、恵は妹のように可愛がっていた。末娘でふたりの兄から可愛がられている恵だが、自分が可愛がれる誰かしらがいることに喜びも感じていた。二葉は既に年も二十歳を過ぎ、大人の女性だ。美しく淑やかな二葉に対して、尊敬も憧れもあるのだが、子供同士のように秘密を共有出来る仲ではないこともあり、やや警戒もしている。このところ、特に。
 しかし、
「上がらせて頂いて宜しいかしら?
 柔和な笑顔を向ける二葉の声が、高荷家の三兄妹には重々しく感じられた。三人はそれぞれ笑顔を見せながらも、何処か緊張した様子で「どうぞ」と答えた。家老頭の妻である彼女の申し出など、正当な理由も無く断る事は出来ない。二葉はさきを恵の前に降ろし、自分も下駄を脱いだ。隆明は、二葉に一礼して奥に退こうとした。
「隆明君」
 二葉が声を掛けた。柔らかく、何故か冷たい。隆明は、背筋に只ならぬ恐怖を感じた。ゆっくり振り返ると、二葉はにこやかな笑顔で問いかけた。
「今日は、何処に行っていたの?」
「…………」
 二葉の笑顔を前に隆明は硬直した。俄に唇が震え出す。
 会津では、幼少の頃から『什の掟』という少年の約束事を教え込まれる。その中に、“嘘言<うそ>を言ふことはなりませぬ”という教えがある。嘘は、つけない。でも、この人に伝えてはならない事がある。秘密にしなくてはならない事がある。彼女は、藩主の忠臣である家老の娘なのだから。
「恵ちゃんは知っているのよね?」
「…………」
 恵は唇を結んだ。迂闊に口を開いてはならない。兄に倣って沈黙し、兄達が口を開くまで、話してはならないと判断したのだ。
「もう……三人共、強情ねぇ」
 二葉が肩を竦め、溜め息をついた時、二葉と隆彦の背後でがらりと戸が開いた。さっと外の光が差し込み、光を浴びて凛と快活な顔付きの女性が立っていた。年は二葉と同じくらいだが、色褪せた古い着物を纏っており、その身分が伺い知れた。武家の娘ではあるが、藩主に近い家柄ではないだろう。女性は異様な雰囲気に眼を瞬かせた。
「えっと……何してるんだい、玄関先で?」
 女性は一番近くにいた隆彦に視線をやった。奥で隆明が顔を引き吊らせている。
「いらっしゃい、八重さん」
 恵は慌てて頭を下げた。咄嗟の事で、その行動の意味にも気付いていなかった。
「恵!」
 隆明は恵を諌めたが、「おはようございます」と、隆彦も女性に頭を下げたのだった。
「おはよう。二葉さんも……おはようございます」
 女性は、二葉に軽くお辞儀をする。
「おはようございます、八重さん。相変わらずお元気そうね」
「まぁ……。上がるよ、彦」
「はい、どうぞ」
 隆彦は、現れた武家の女性に答え、草履を脱いで家に上がった。女性は遠慮もなく、隆彦に続いて上がる。
「私も、お邪魔しますね。八重さん、みんな私の事を警戒しているいらっしゃるのよ。困ったわ」
「二葉さんがお出ででは、誰でも戸惑うでしょう」
「八重さん!」
 八重と呼ばれる女性は、楽しげにくつくつと笑う。二葉も呆れたように笑った。
「ふたりは、仲良し……なのですか?」
 二葉と八重のやり取りに、恵は首を傾げた。八重は砲術家・山本家の娘だ。二葉との接点が見えない。
「いらっしゃい、隆明君、隆彦君、恵ちゃん」
 二葉はさきの手を引いて、三人に手招きした。
「縁側をお借りしても良いかしら?」
「…………はい」

 かくして、会津藩御殿医高荷家の兄妹・隆明、隆彦、恵と、会津藩家老頭梶原家の嫁・二葉、同じく家老山川家のさき、それに会津藩士山本家の八重は、それぞれ高荷診療所の奥の広縁に腰を下ろした。恵達には、この雰囲気が重苦しく感じられた。明らかに何かを訝り、こちらを探っている二葉は、その笑みすら恐ろしい。飄々としている八重も、解っているのかいないのか……もしや、何か知っているのではないかと思うと、警戒せずにはいられない。特に長男の隆明は、兄としての責任感もあり、緊張していた。兎に角、この場を切り抜けなければ、と。
 父の計画を知られるわけにはいかない――。
「隆生先生は、どちらに?」
「詳しくは……多分、虎さんや京平君のところだと思います」
 二葉の問いに、隆明がさらりと答える。隆彦と恵は横目で兄をうかがった。嘘は言っていない。自分達は、いつ、誰のところへ行くとは具体的には聞いていない。会津中を駆け回っているだろうから、ひとつのところに留まっているわけではない。
 父にとって、医者として向き合う相手に身分も性別も関係ない。それを、藩主の家臣達が良く思っていない事は恵達も知っていた。本来は、藩主の家筋やその重臣のために働くべき医者が、城に仕えて高い給金を得、それを以て殆ど無償で貧しい民に尽くす。上位の家柄のものにとっては、面白くない話だろう。“医は仁術なり”――高荷家代々の教えだが、これにより、永きに渡り藩主やその忠臣と対立してきた。御殿医の職を解かれた事もある。
 隆明が出した“虎さん”と“京平君”は、共に平民である。出来れば、知られるべきではない情報だ。
「そう。相変わらずね。それに、随分素直に話すこと」
「だって、八重さんが此処にいるんですから、身分云々いっても仕方がないでしょう」
「確かに……」
 二葉はちらりと八重をうかがう。八重は白い歯を見せて明るく笑った。恵が八重に頭を下げたり、親しく関わっている事も知っているのだし、隠しても仕方のないことだ。
「父は変わりません。僕達も変わりません。高荷家はこれからも、身分に関係無く人の命と向き合うでしょう。何を言われても……」
 隆明はまっすぐ二葉を見詰めた。揺るぎのない信念が、瞳の奥で輝く。
「良い顔してるね、隆明は。私は、隆生先生――高荷家のそういう考え方、好きだよ。大体、藩を支えてるのは、藩主様だけじゃないんだ。会津に生きる総ての人がいるから、会津は会津なんだよ。皆の命あってこそじゃないか。隆生先生の優れた医術を、私達皆に分け与えたって、バチはあたらないよ」
「殿は、そのくらいの事は解っておいでです。だから、隆生先生を御殿医として置きながら、上洛に同行はさせなかったのです。会津のために。兎や角言う石頭は、古い家臣ばかりですよ」
 二葉は、鋭く八重を睨んだ。それまでとは打って変わって、語調が強くなる。八重はからかうように首を振った。
「梶原家も、石頭でしょう」
「八重さん!」
 痛烈に梶原二葉を揶揄する八重を、隆明が嗜める。大人の会話に口を挟めるのは、年長の隆明だけだった。隆彦と恵はおろおろと見守り、訳の解らないさきはぽかんとしている。
「梶原家がそうして高荷家を見張るから、この子達はいつも怯えているんじゃないの?」
「怯えるような事をするからよ。会津を見棄てようとしているのは、高荷家じゃない!」
 声を荒げた二葉を前に、高荷家の三兄妹は硬直した。
「……どういう……事……?」
 息を詰まらせる三人を他所に、春の風がさやさやと庭をすり抜け、桜を散らす。いつにない姉の気迫に、さきは震えて恵に擦り寄った。
「二葉さん……?」
「どういう事? 隆生先生が、会津を棄てるなんて――そんな筈、あるわけないじゃないか!」
「……二葉さんは、何を知ってるの……?」
 恵の唇から、微かに声が漏れた。消え入るような、儚い声だった。
「恵」
 隆彦が、慌てて恵の手を握る。恵を気遣いつつも、口調は厳しかった。それが、余計に八重には怪しく映る。秘密を隠す三人、何かを知っている二葉。八重だけが、何も解らずにいる。
「なんなの? 本当に……隆生先生は、会津を棄てるって言う事?」
「そんな事はしませんよ、八重さん」
 低く静かな声が響き、六人は一斉に顔を上げ、振り返った。庭先に、背の高い男がひとり立っている。身体付きは厳ついが、穏やかな男。
「父様!」
 恵は思わず声を上げ、庭に降りて男に駆け寄った。
「こら、裸足で降りては駄目だろう」
 男、高荷隆生は、ひょいと恵の身体を抱き上げた。
「はい……すみません」
「ん。それで……八重さん。貴方が心配している事を、お話しましょう。二葉様も……」
「話してくれるんですか?」
 厳しい口調の八重に、隆生は柔らかく微笑み、「勿論です」と答えた。
「父様……」
 本当に、話して良いのか。心配そうに見詰める三人に、隆生は頷いて見せる。
「心配事や不安はね、病の素なんだ。だから、医者である私達が、人に不安を与えてはいけない。お前達も、医者としてよく覚えておきなさい」
 隆生はそっと恵を広縁に下ろし、自分も腰を下ろした。
「二葉様には、特に不安を抱かせてしまいましたね」
「話して頂けますか?」
 二葉は背筋を伸ばし、膝の上で固く手を握り締めた。
「えぇ」
「偽り無く?」
「はい。私も会津の男です。嘘偽は言いません」
 隆生は、真っ直ぐに二葉と向き合う。その姿勢は、先の隆明と全く同じだった。
「会津を棄てるってどういう事なんですか?」
「棄てるわけではありません。ただ――少し、離れようかと……」
「へ?」
「脱藩……?」
 意味が解らないという様子の八重の隣りで、二葉が静かに口を開いた。
 “脱藩”――
 八重は耳を疑った。それは、“棄てる”よりも重く響く。その二文字は、“死”と殆ど同意語だ。
「そんな……何の冗談ですか?」
「ふむ……やはり、二葉様は聞いていたんですね、あの時の話を」
「ちょっと待って下さいよ、なんですか、隆生先生……冗談だって言って下さい」
 隆生と二葉は落ち着いていて、それが八重には落ち着かなかった。
「藩を抜けようと考えていることは、確かです。しかし、詳しく話したいところではありますが、これ以上この話をしたら、貴方がたは共犯になります。若い貴方がたに、罪を抱かせるわけにはいきません」
「何を今更。聞かせて下さい、後生ですから。私は誰にも口を割りません。八重さんだって、きっと……」
 二葉は身を乗り出し、隆生に詰め寄った。見ると、八重も固い表情で隆生を見詰めている。
「何だかよく解りませんけど、このままじゃ納得出来ませんよ。私も、誰にも言いません。私達とて会津の娘です。什の掟に誓って、嘘偽は申しません」
 姿勢を正し、膝に拳を置いて隆生に向き合う八重の姿は、まるで武士そのものだった。強くひたむきな意志が眼差しに宿る。隆生は深く頷き、「では」と切り出した。
「真実を申しますと、私は長崎に……行きたいのです」
「長崎?」
「蘭学は、日本の医学より遥かに進歩的で、高い効用が期待出来ると、江戸の知人に聞きました。大陸は総て繋がっていますから、世界中の医学や研究が集まるんでしょうね。それで、長崎に異国船が出入りしている中に蘭学者や薬師も大勢いると聞きまして……」
 幼少の頃、時の藩主について父が江戸に上った折、隆生も同行した。江戸で知り合った医者の息子とは、今も頻繁に文を交わす。その中で、蘭学の事を知った。同梱されていた異国の医学書は、読む事こそ出来なかったが、詳細な人体図に圧倒された。
「医者として、これは学ぶべき学問だと思います。何より、未来を担う子供達に学んで欲しい。我が子の命を危険に晒してまで行く必要があるかといえば、そうではないかも知れないが」
「行きたいと言ったんです。医者として学びたいと……」
 隆明が言った。八重と同じく姿勢を正した隆明は、最早少年の面差しではない。
「僕も、学びたいです。医者を志す者として、蘭学というものを知ってしまったからには、じっとしてはいられません」
 隆彦も、瞳を輝かせた。
「國脱けは死罪――計画を知られてはならぬと、特に藩の上層に近い方々には気を付けるようにと子供達に言い聞かせていたら、二葉様に訝られるような態度をとってしまいまったようですね」
 隆生の手が、恵の髪を撫でる。恵は居たたまれない様子で俯いた。
「先日、相葉がうちへ来て蘭学の話をした時、偶々二葉様が来られて、話を少し聞かれたのでしょう。あの日から、何となく態度が……」
 町医者の相葉勇水<ゆうすい>は、隆生の旧知の友だ。長男の健水は隆彦の幼馴染みで、藩校でも机を並べている。件の日は、勇水と健水が高荷家を訪ねて来ていた。帰りがけ、隆彦と健水がじゃれ合いながら飛び出し、隆生は長崎への憧れを少し語った。「新しい医療を会津にもたらしてくれないか」――さきの薬を取りに城下に降りた二葉は、偶然にその話を聞いたのだった。
 二葉は俯き、顔を赤らめた。
「そうです。でも……いつかこうなると思っていました。長崎とは考えませんでしたが、隆生先生は、会津藩の御殿医に留まる事をよしとするような方ではないと解っていましたし、沢山の人を救うために、いつか京都や江戸へ行かれるのではないかと……」
「そうですか」
「恵ちゃんの様子が変わっていたので、その時が来たと思いました。それで、乳母に頼まず自ら薬を取りに通っていたのです」
 やはり、自分の態度が原因であったかと、恵は視線を落とした。頬に触れる風はまだ冷たく、恵を責めるように吹き抜けた。不意に、恵の手に細い指が触れる。長兄の隆明が、恵の手を握った。交わる瞳の温かさが、恵を落ち着かせる。
「それで、探ってどうするつもりだったの? まさか、告げ口なんか――」
「だめ!」
 八重は二葉を睨んだ。詰め寄ると、殴り掛かりそうな勢いがあり、恵は思わず腕を伸ばした。しかし、八重の手を掴んで止めたのは恵よりずっと小さな手。
「さ……さき……」
「ねえさまをいじめないで!」
 さきの指が、力一杯八重の手を握る。その指先は、震えていた。
「あらあら。少し落ち着きなさい」
 澄んだ女性の声が、緊張した場に柔らかに割って入る。華奢な腕が、さきを抱き上げた。簡単に結った黒い髪が、透けるような白い肌に映える、線の細い女が輪の中に入る。
「母様……」
 恵達の母であり、隆生の妻である高荷清加だ。
「二葉様が誰かに報告するつもりなら、始めからしているでしょう。真相が知りたかっただけなんじゃないかしら?」
「そうです。だって、高荷家は会津になくてはならない一族です。私は、隆生先生が身分に関わらず広く医療を提供されている事は、素晴らしいと思っています。だから、今日は恵ちゃんにもそれを伝えようと思っていたんですよ。そんな風に警戒しなくても良いと」
「有り難うございます、二葉様」
 清加は嬉しそうに頬を染めて微笑んだ。少女のように愛らしい笑顔だった。
「さて、男性諸君。女同士の話があるの。席を外して頂けるかしら?」
 さきを抱えたまま、清加は夫と息子達をぐるりと見回した。
「え……?」
 八重と二葉は目を丸くした。さばさばとした清加の物言いは、凡そ夫に対する女性の態度とは思えなかった。
「はいはい、そうしましょう。では、二葉様、八重さん、失礼します」
 しかし、驚くふたりの客人をよそに、隆生はすっと立ち上がり、ふたりに会釈した。隆明と隆彦はそれに倣い、同じように頭を下げて去った。
「え、え……隆生先生にあんな事……」
「いつもの事なんです」
 恵はくすくすと笑いながふたりに近付いた。人数が減り、輪が小さくなる。
「男も女も、同じ“人間”ですからね。お互いに言いたい事は言わないと」
「へぇ……格好良い!」
「有り難う。これからは、女性がもっともっと活躍する時代になります。男性と対等に生きられる時代……私はそう信じています」
 清加は力強く言い切った。八重はぱっと瞳を煌めかせ、頬を紅潮させて清加に期待の眼差しを向けたが、二葉は表情を曇らせ、俯いた。
「そんな事……」
「二葉様?」
「そんな事が、出来るでしょうか。私とて、夫に……平馬様に申し上げたい事はありますけど、そんな事が許される訳がないじゃないですか。ならぬことは、ならぬものです」
 ならぬことはならぬ――什の掟に記された言葉で、会津の信念だ。それは、二葉にとっては重い鎖でもあった。
「ならぬことはならぬ……割には、二葉様は八重さんと親しくしているし、主人の計画を、人に話そうとはしませんでしたね。真実を知りたいと思って探っていたのでしょうけど、それを人に明かそうとはしなかった……。國脱けの共犯は罪と知りながらね。“ならぬこと”は、どちらでしょう?」
 二葉ははっと顔を上げる。今にも涙が零れそうだったが、唇を噛み締めてこれを堪えた。清加の膝からさきが立ち上がり、二葉の胸に抱き付いた。
「なかないで、ねえさま」
 妹の声が喉の下で響き、二葉の瞳からは涙が溢れ出した。
「二葉様……私、兄様達と同じようにお医者さんになるんです。人の命を救うのに、男も女もないでしょう?」
 恵は背筋を正して二葉と向き合う。隆生や隆明と同じように、凛として。
「恵ちゃん……」
「これからもっともっと会津のために働くには、蘭学は必須です。私も学ばないと……。兄様達には負けてられないんです。女だって、お医者さんになれるって証明します」
「うん……恵ちゃんなら、きっとなれるよ。きっとそうなるよ。楽しみですね、清加様」
 八重は、恵の手を取り、微笑んだ。
 庭先で、桜の木がざわりと揺らぐと、二葉は涙を拭い、顔を上げた。
「二葉様……二葉様は、どんな風になりたいの……ですか?」
 恵はそっと、二葉に声をかける。問われ、二葉は目を見開いた。そんな問いがあるとは思わなかった。自分は、家老頭梶原平馬の妻であり、それ以外の何かにはなり得ない。考えるまでもなく、それは決まりきった事――と、思っていた。
「私は……」
 しかし、その事実を、梶原平馬の影に潜む事を受け入れるには、二葉は若かった。それに、高荷家を異端と想いながらも、惹かれて止まない故はそこにある。
 どう、なりたい――?
「ゆっくり考えたらどうですか? 人生は長いんですから」
 黙り込み、唇を結んだ二葉の肩を、八重は軽く叩いた。
「八重さん……」
「正直に言いますと、私も清加様と同じように考えてます。女だって、いざとなったら銃を手に戦います。会津を守るためなら、戦に赴くことは怖くない。学問も砲術も、男だけのものではありません。……よね?」
「そうですよ。私の実家も医者の家柄でしたけど、医学を身につけたのは高荷に嫁いでからです。でも、私の医療は、夫の手助けにしかならないの。恵には、医者としてひとりで働ける女性になって欲しいと思っています」
「兄様達より、立派なお医者さんになって見せるからね」
 恵は、満面の笑みを浮かべた。
「会津の中にいるだけじゃ、会津の人々を救い切れない……。だから、会津の外で学んでくるんです。でも、私は会津の娘。どんな事があっても、必ず会津に帰って来ます。私の帰る場所は、いつだって会津だけだから――」
 恵の言葉に八重と二葉は頷き、目を見交わして微笑んだ。さきも二葉の真似をして、こくこくと頷きながら笑った。
「立派な、お医者さん……。そうね。私は、この動乱が落ち着いて平安が訪れたら、子供達に学問を教えたい……な。お医者さんになりたくても、恵ちゃんみたいに読み書きが出来ないと難しいし、学問はきっと、子供の可能性を広げると思うんです」
 何処か遠くを見詰めるような二葉の眼差しは、希望と諦めが混在していた。会津の現状、自らの立場、夫の存在、様々な事情が、二葉の仄かな望みを遠ざけている。けれど。
「諦めちゃ駄目ですよ、二葉様。貴方は素敵な人。知性も教養もあるし、人を思い遣れる優しさもある。貴方のような方が、子供達の未来を切り開く力になれば、この国の未来派明るいでしょう」
「見ていて下さいね、清加様。きっとやり遂げて見せますから!」
 医療、防衛術、教育――それぞれの想いが、少女達を輝かせた。
 恵、二葉、八重、そしてさき。四人の少女を見詰め、清加は眩しそうに瞳を細めた。
「めぐみちゃん、きっとあいづにかえってきてね?」
 さきの小さな手が、恵の左手に触れた。

 
 元治元年四月、高荷恵、八歳。
 この三年後に起きる戊辰戦争第三の戦役・会津戦争は、恵を始め、会津の娘達の運命を引き裂く事となる。
 梶原二葉――後に離縁し、山川二葉。
 山本八重――後の新島八重。
 山川さき――後の大山捨松。
 三人は戦後、二度と会津に戻ることはない。
 しかし、それぞれの胸に会津への思いを秘めながら、新しい女性の生き方を切り開いて行くこととなる。




 鳥羽伏見の戦いに始まり、函館で終結を迎えた戊辰戦争。維新の動乱はこれを以って終わりを告げ、時代は急速に変化を遂げる。幕府方についた会津藩は実質消滅。会津の中心を担った多くの者達は、遠く青森へと追いやられる。
 元治元年初夏、密かに脱藩に成功し、長崎に渡った高荷家は、四年後会津に戻り、二葉や高荷に救われた人々の力添えのお陰で、特別に無罪となった。直後、会津戦争に巻き込まれ、高荷隆生は戦死。清加、隆明、隆彦、恵は行方知れずとなる。

 時は流れ、明治十一年。所は東京。
 二十二になった高荷恵は、巨大な洋館の一室で唇を噛み締めた。
 短刀を握る右手が震えていた。こめかみから滲み出た雨が頬を伝って流れ落ちる。
「帰りてぇ……」
 喉から掠れた声が漏れる。
「会津に帰りてぇ……」
 左手首に押し当てた刃が、鈍い光を放つ。

 ――きっとあいづにかえってきてね

 幼い頃の約束が、耳の奥で響く。
 恵は大きく息を吸い込んだ。
 もう桜は散ろうとしているけれど、きっと会津はまだ肌寒いだろう。あの日、冷たい風の吹く春の縁側で交わした約束は、もう過去の話だろうか。兄達より立派な医者になると、優しい姉様達や、可愛い妹に誓ったというのに。
 こんな邸を出ることくらい、家族を連れて國脱けをやり遂げた父に比べれば、なんという事もないはずだ。

 どんな事があっても、必ず会津に帰って来ます。私の帰る場所は、いつだって会津だけだから――

 帰らなければ。あの場所に。
 生きて、帰らなければ。


 帰らなければ。




fin
生きるか死ぬか。
今、死ぬより。
明日死ぬかも知れなくとも、今を生きる。
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