愛は、慰めの道具なんかじゃないんだし……


   ダメ!


 明治十三年二月、会津――
「あら、雪……」
 女の褪せた唇から、白い息が零れた。
「寒くなるね。たっちゃん、この間風邪引いたばかりだし、振り返してないと良いけど」
「そうね。後で様子を見てくるわ」
 障子の向こうを覗きながら呟いた少年に、女は小さく頷いた。薬の匂いに満ちた部屋は、雪の降る庭と殆ど変わらない寒さだ。
「母さん、今日は何処に行くの?」
「虎さんのところ。遠いから少し遅くなると思うけど、繕い物をお願いね、征太郎」
「うん」
 征太郎と呼ばれた少年は、明るく答えた。
 女医、高荷恵が征太郎を養子に迎えて間もなく一年と半になる。戦後十年を経て尚、飢えや病に苦しんできた故郷の復興を目指して、恵は単身会津に赴いた。生まれ育った会津のために懸命に働きながら、身寄りのない子供を 引き取ったりもしている。征太郎の他に、昴という少女と、生後半年の楓という娘が、今の恵の家族だ。乳児も含めて三人の子供を養いつつ、医者として駆け回る事は、決して容易ではない。地元の人々や、助手として働いている相葉健水の力を借りて、何とか成立しているというところだ。現在十二歳の征太郎や十一歳の昴は、自分の事は勿論、楓の面倒を見たり、手伝いを積極的にしてくれているが、日々の糧が十分にあるわけでもなく、恵自身、毎日体力の限界まで働き詰めていた。
「ねぇ、母さん、楓がね――」
 昴は嬉々として恵に駆け寄った。
「昴、母さんは忙しいんだから、煩わせるなよ」
「あ……ごめんなさい……」
「良いのよ、昴。楓がどうしたの?」
 恵はやんわりと征太郎を制し、昴を促した。昴は、まだ漸く首の据わったばかりの妹が余程可愛いようで、毎日のように恵に楓に関する報告をする。恵は、忙しい最中でも、昴の話をよく聞いた。母の負担になる事を征太郎は良く思わず、昴に注意をしたことがあったが、恵は後から征太郎を嗜めた。母でありながら楓の世話を昴に任せきりにしている負い目もあるが、昴と話をすることも、母として大切に考えていた。征太郎もそれを理解して、なるべく口出ししないようにはしているのだが、余り頻繁になると、つい嫌味が口をつく。しかし、夜半に繕い物をしながら恵と話が出来る征太郎と違い、昴は楓を寝かしつけて一緒に眠り、朝は早くから慌しく朝食の支度を手伝うため、ゆっくり話をする時間は無い。何かあると、そのため、合間を見て少しずつ話をしている。
「お早うございます、恵先生」
 柔らかな青年の声が、朝の光と共に高荷診療所の玄関を開けた。建水だ。会津の町医者の息子で、恵の兄・隆彦<りゅうげん>の友達だった。明治になってから医学を学び始めたが、三年前に父親が他界して以来、医者としての働きを辞めてしまった。しかし、恵との再会を切欠に、改めて医学を学ぶ事を決意した。今は、毎日のように恵と共に会津の人々の治療に当たっている。
「お早うございます、建水君。行きましょうか」
「はい。今日は、虎さんからですね」
「ええ」
 建水に頷くと、恵はふたりの子供達を振り返り、
「昴、楓の事、お願いね。征太郎、後の事は任せるけど、無理はしないで頂戴。行ってきます」
「行ってらっしゃい」
 征太郎と昴に見送られ、恵と建水は診療所を後にした。
「……建水君、母さんの事好きよ、きっと」
 雪深い道も難なく歩いて行くふたりの後姿を見詰め、昴はぽつりと呟いた。零れた息は、空を白く歪める。征太郎は眉を寄せた。
「は?」
 あからさまに険の立った声音。昴は征太郎をちらりと伺い、肩をすくめた。
「男女がね、あれだけ長い時間一緒にいて、なんとも感じない方が不思議でしょう? 母さん綺麗だし、まだ若いし、しかも建水君はお医者の卵よ。優秀な医者、しかも尊敬する高荷隆生の娘である母さんに惹かれるのは当たり前だわ」
「じゃぁ、母さんも健水さんを好きだって言うのか?」
「そうは言わないわよ。母さんは、それどころじゃないもの。でも……恋敵が多いね、兄さん」
「僕は――」
「ま、兄さんが選ばれる事はないわ」
 征太郎の反論を遮り、昴はきっぱりと言い切った。
「皆は、蒼紫さんと一緒になって欲しいみたいだけど」
「皆って誰だよ?」
「皆は、皆よ。会津の皆。お母さんを好きな男の人と、お母さんを自分の息子のお嫁さんにしたい人以外ね」
 昴の自信に満ちた物言いに、征太郎は奥歯を噛み締めた。
「会津にはいない美丈夫だし、背は高いし、優しいし強いし、非の打ち所のない人だもの。お母さんの相手に、これ以上の人はいないわ。ずっと会津にいて欲しい……」
 昴はうっとりと目を細めた。
 四乃森蒼紫。徳川八大将軍・吉宗の時代に幕府に置かれた部隊・隠密御庭番衆の、最後の御頭だった男だ。戦闘能力に優れ、冷静な判断力と類稀な統率力を以て、史上最年少で頭となった。身長は六尺程もあり、しかも顔立ちは際立って美しい。この上、今は京都の老舗料亭の主だ。昴の言う通り、非の打ち所がない。そして、この完璧な男を昴が気に入っている事を、征太郎は知っている。
「昴だって……」
 苛立ち混じりに呟き、征太郎は昴に顔を向けた。ちらちらと舞い降りる雪が、ほんのりと赤みの差す昴の頬に触れて、すうと水に変わる。
「何よ?」
 昴が征太郎を睨む。攻撃的な鋭い眼に、警戒心が滲んでいる。征太郎は敢えて口を開かず、黙ったまま昴を見る。痺れを切らした昴が口を開いたその時、家の中からわぁっと赤子の鳴き声が響いてきた。
「楓」
 声を聞いた直後、ほんの二秒後には、昴は玄関を開けて家の中に駆け込んでいた。
「早……。流石、母さんが頼りにするわけだよな。蒼紫さんが会津にいたら、母さんはもっと助かるのかな……」
「俺が、どうした?」
 背後からの声。低く、冷たい。雪のような。
 征太郎は、一瞬背筋を震わせ、勢い良く振り返る。背の高い男がひとり、すぐ側に立っていた。
「蒼紫……さん……」
 件の、四乃森蒼紫だった。
「……どうしたんですか、いきなり?」
 普段は京都で暮らしているが、数ヶ月に一度、会津に顔を出す。恵や会津を気にかけ、何かと手を貸してくれるこの男を、恵が頼りにしている事も、昴が気に入っている事も知っている。しかし、征太郎は彼を余り好んではいなかった。出来過ぎた男。
「京の野菜を持って来た」
 蒼紫は、肩に担いでいた大きな布袋を差し出した。征太郎がそれを受け取ると、足元が危うくなる程重い。蒼紫はそっと征太郎の肩を支え、袋を地面に下ろした。征太郎が袋の口を解くと、ごろごろと野菜が転がり出してきた。
「うわ、大きな蕪!」
「大根だ。聖護院大根という、京都の冬の名物」
「こっちは里芋?」
「海老芋」
 蒼紫は、大根や芋を引っ張り出した。完璧な男は、大根を持っても似合うのか。征太郎は小さく溜め息をついた。
「どうぞ。遠路はるばる、有り難うございます。部屋で暖まって下さい」
 口調は慇懃だが、棘が見え隠れしている。いつもの事だ。蒼紫は聖護院大根をひとつ征太郎に渡し、軽々と布袋を持ち上げた。
「昴、蒼紫さんが来たから、部屋着を用意してくれないか?」
「蒼紫さん!」
 楓と昴の部屋の前から襖越しに声を掛けると、弾けるような昴の声が、襖を開けた。
「どうしてこちらに?」
 普段は落ち着いている昴が、こんな風にはしゃぐのは、蒼紫が訪れた時くらいだ。
「長旅お疲れではないですか? 布団を用意しますから、休んで下さい。母は往診で遠方に出ていて、遅くなると思いますし……」
 征太郎が、口を挟んだ。顔に張り付いた笑顔。子供らしくないそれは、恐らく、母に対する愛情によるものだ。強すぎる想いが、対抗心や警戒心を生んでいる。しかし、それを悟られまいと懸命に装い、不器用に笑ってみたりする。難しい年頃だ。
「少し出てくる。これは土間に置いておく」
 蒼紫は野菜を詰めた布袋を担ぎ、台所へ向かった。慣れた足取りだった。



 雪は、昼過ぎには辺りを覆い尽くしていた。それでも尚、しんしんと降り続ける。亥ひとつを回っても恵が帰らないので、征太郎はしきりに迎えに行きたがったが、蒼紫がそれを制した。もし、征太郎になにかあったら、きっと恵は自分を責める。子ふたつを回って戻らなければ、自分が探しに行くと約束し、子供達を床に就かせた。亥ふたつには就寝するよう、恵が子供達に言い聞かせている事は知っている。

「…………どうした」
 台所で竈に向かい、蒼紫は静かに呟いた。蒼紫の背後で、ぴくりと空気が動く。
「あの……少し、喉が渇いて」
 昴が答えた。声が震えている。ひっそりと、出来るだけ足音を立てないように覗きに来たつもりだったが、蒼紫には通用しなかった。蒼紫は、元隠密江戸城御庭番衆の御頭。気付かないわけが無い。昴はその感覚の鋭さを、初めて目の当たりにした。
「蒼紫さんは、何をしているの?」
 下駄を突っかけて土間に降り、昴は蒼紫に駆け寄った。手元に小さな蝋燭を燈し、蒼紫は杓子で大鍋をかき混ぜる。
「明日、多分炊き出しをするだろうから、その支度だ」
「炊き出し?」
「野菜を会津の人達に振舞うだろう、お前の母は」
 昴が覗き込んだ鍋には、聖護院大根が大量に煮込まれていた。確かに、最初に野菜の山を見た時、会津の人達に食べさせてあげたいと思ったし、蒼紫を含めて四人で食べても、なかなか食べきれる量ではないから、お裾分けをすることになるだろうと思っていた。
「蒼紫さん、それを見越してこんなに沢山持ってきて下さったんですか?」
「…………」
 蒼紫は答えなかったが、昴にはそれが肯定だと解った。
 昴は一歩、二歩と蒼紫から離れ、何をするでもなく、闇の中に立った。見詰める蒼紫の背中は、蝋燭の明かりと窓から差す月の明かりに照らされている。赤い光は揺らめき、白い光は冷たく彼を暗がりに浮かび上がらせた。
 こんな男は、見たことがない。美しい人。亡き父とは違う逞しさ。冷たい瞳の奥に隠された優しさ、温かさ。この人が側にいれば、どんなに幸せだろうかと考え始めると、頬が上気した。こんな気持ちは初めてだった。

――この人には、京都に婚約者がいる。

 頭の中では解っていたが、どうにも彼を、会津から離したくないと思った。そう、考えてしまった。
 昴は、蒼紫の背中に静かに、緩やかに歩み寄り、額を押し当てた。
「昴」
 思いがけない事だったのだろう。蒼紫の身体が、一瞬震えた。
「蒼紫さん……此処に、いてくれませんか……?」
「此処に……」
「このまま、会津にいて下さい」
 希望の中に、悲しみや不安が入り混じり、微かに揺れる声が、蒼紫の心の臓に粉雪のように下りてくる。
「暫くは」
「ずっと……」
「もう、休め。約束をしているのだろう、恵と」
「…………うん」
 わざと、だろうか。いつも「お前の母」か「高荷」としか呼ばない。それを、名前で呼んだ。敢えてそうしているように思えたが、その響きが妙に胸を高鳴らせた。耳慣れないが、彼の声には馴染んでいる。
 そっと、昴は蒼紫から身体を離した。長い髪が、背中でさらりと揺れる。
「お休みなさい、蒼紫さん。お母さんが帰ってきたら、私が作った海老芋の煮付け出してあげて下さいね」
 蝋燭の仄かな光が、昴の頬を紅く染める。
「解った。お休み、昴」
 蒼紫は、昴の髪を柔らかく撫でた。



 恵が戻ったのは、子ひとつを回った頃だった。往診のために南会津に行き、街の人々に声を掛けて様子を見たり、治療を施したりしながら戻ってきた。昼過ぎにはすっかり雪が積もり、歩く事も儘ならなかった。健水には途中で帰るよう言ったが、彼は最後まで恵の往診に付き合った。
「遅くなりましたね」
「そうね。送ってくれて有り難う。健水君がいてくれて、本当に助かるわ。これからも、お願いします」
「…………」
 恵に笑顔を向けられ、健水は嬉しさと惑いの混じった複雑な笑みを恵に向けた。短い髪をくしゃくしゃと掻きながら、師である女をじっと見詰める。
 恵も真っ直ぐに健水を見上げた。背丈が高く、見目も整ったなかなかの男前だ。昴の手によってさっぱりと切り揃えられた髪が、彼の爽やかさを一層引き立てている。町医者の長男として、将来を期待されて育ちながら、会津戦争を機に医の道を離れた彼が、再び医者として学び始めるまでには、紆余曲折があった。当初は会津の人々に受け入れてもらえずにいたが、今では頼りにされているし、かつてのような期待も寄せられている。 二十五歳の男盛りだ、彼を気に掛けている娘もいるだろう。余り自分の側にいさせると、彼の男としての可能性を潰す事になるだろうか。
「……お休みなさい、また明日」
 戸惑い、答えにつまる健水の肩を叩き、恵はにっこり笑って見せた。
「……お休みなさい」
 健水が躊躇いがちに答える。恵はくるりと彼に背を向けた。
「ただいま」
 呟きより小さく、恵は声を掛けた。子供達が目を醒まさないよう、注意を払う。
「帰ったか」
 玄関から伸びた廊下の奥から、低く静かな声が耳に触れる。
「蒼紫? 来ていたのね」
「あぁ」
 この前に来たのは、師走の終わりだったか。まだ二月程しか経っていないのに、また来るなんて珍しいものだ。
「今日は特に寒いでしょ。あ、炬燵に火を入れてちょうだい。夕飯……は、食べたわよね?」
「炬燵は火を入れてある。居間で待っていろ、昴が食事を用意しているから」
 そう言うと、蒼紫は恵の返事も聞かずに台所に向かった。
 蒼紫の言う通り、居間に置かれた炬燵の中で、墨が燻っていた。恵は炬燵にあたりながら、手に息を吐きかける。一日、よく働いた。少し疲れを感じている。しかし、充実感もある。遣り甲斐も。
「恵」
 居間の襖を開け、蒼紫が膳を持って入って来た。
「昴が作った。京の野菜を持って来たから」
「だったら、明日は炊き出しに行こうかしら」
「そうだと思って、下拵えはしておいた」
 前に膳を置かれ、箸を取った恵は、訝るような顔付きで蒼紫を見た。
「……どういう風の吹き回し?」
「…………」
 恵は、疑いを隠そうともしなかった。蒼紫を睨み付け、低い声で畳み掛ける。
「どういうつもり?」
「…………少しでも会津の助けになるように」
「ふうん」
 明らかに信用していない様子で、恵は芋を口に運ぶ。
「ん……昴、また料理が上手くなったわね。海老芋なんて初めてでしょうに」
「昴は素直で飲み込みが早い」
「可愛いし、しっかり者だし、いつか素敵なお婿さんに出逢って、ちゃんと幸せになるわ」
 “ちゃんと”――
 蒼紫は目を伏せ、小さく溜め息をついた。
「まさか、操ちゃんが大きくなったから、今度は昴にって言うんじゃないでしょうね? それで会津に? あんたロリコン?」
「ちょっと待て。話が飛躍しているだろう」
「そうね。で、本当はどういうわけなの? 二月足らずで来たと思ったら、野菜持って来ただの炊き出しの仕度しただの、この上甲斐甲斐しく私の世話まで焼いてくれちゃって……ねぇ、何があったの? 誰かに何があったの?」
 それが言い辛くて、優しくするのかと。そう心配しているわけか。蒼紫は堪念した様子で溜め息をつき、
「逃げただけだ、京都から」
「は?」
「操が花嫁修業と称して、花や茶の湯や琴なんかを始めた」
「はぁ……良い事じゃない」
 優雅な事だと、半ば恨めしい想いもあるが、敢えて口にはしない。会津と京都が違うのは当たり前だ。しかも、京都でも有名な老舗料亭のお嬢様。花嫁修業となれば、更に三味線や和歌、社交ダンスまでついてくるのではないだろうか。
「五月蝿い。毎日、騒々しい」
「ふふ……慣れない内はそういうものじゃないの?」
「極めつけは料理だ。食材は上等だが、腕が悪い故、食べられたものではない。それを毎日食べさせられて、うんざりした……」
「で、逃げてきたの? それはいくらなんでも、操ちゃんに失礼よ」
 呆れ顔で呟き、箸を置いた恵を前に、蒼紫はまた息をつく。
「いや、緋村の嫁の作った物は食べた事はあるか? あれを上回る酷さだ」
 何があって彼女の料理を食べたのか知らないが、“あれ”を上回るとは相当だと解る。恵が東京にいた頃に知り合い、恋情を抱いた相手、緋村剣心。当時は恋敵で、今は彼の妻である旧姓神谷薫は、料理下手で有名だった。自分自身、食べた事はないが、剣心の親友で、今は訳あって海外逃亡中の相楽左之助は、寝込みに彼女の作った味噌汁を飲まされ、毒を盛られたと思って飛び起きた程だ。尤も、飲ませたのは恵だが。
「に、しても」
「お前や昴なら、どんな料理にするかと考えた。良い食材だ、会津の者達にも食べさせたい。達幸や曜介も、喜ぶだろうと……」
 ぽつり、ぽつりと想いを溢す。こんな蒼紫は初めてだ。いつも、自分の想いや考えなど決して口にしないのに。
 戦うために生きてきた、戦えなかった御庭番の御頭。戦いのために修羅にも近付き、感情を殺した男。闘いの傀儡。出会った頃は、氷の刃のような男だった。情交の時にすら、熱を持つ事のないような。そんな男が、こんなにも気持ちを露にするなんて。
 そしてそれは総て、彼女のためだなんて。
「明日、炊き出し手伝ってくれるなら助かるわ。でも……終わったら帰って」
「…………」
「そっちの勝手で来といて、溜め息ばかりじゃね。たまらないわ、御頭さん」
 恵は膳を持って立ち上がった。
「先に休んで。お休みなさい」
 早口にそう言い残し、恵はさっさと居間を出ようとした。
「恵」
 声に、恵は足を止める。
「会津を思う事は、悪か」
「あんたが会津を大事にしたいならそれはそれで結構だけどね。薄い愛情にすがっても、誰も救われないわ」
「会津は、幕府のために戦った。立場は同じだ。助けになりたい」
 いつまでも彼は、“戦い”に価値を見る。
「あんたは京都の可愛い婚約者を想いなさいな。その方が幸せよ」
「お前は……」
「私には、子供達がいる。それ以上なんて望んだら、罰が当たるわ。でもあんたは、仲間を亡くした分、ちゃんと幸せにならなくちゃ。ね」
 “ちゃんと”――
 首だけで振り向いた恵の顔に、笑みと小さな涙が浮かぶ。
 幸せだと言うのなら泣くな。抱き締めたいと、衝動が疼く。しかし、恵はそのまま廊下の闇に溶けて消えた。



 結婚して子供をもうけ、“ちゃんと”幸せになる。“ちゃんと”。ありふれた、一般的な幸せは、贖罪の道を選んだ罪人には遠く、どうにかそれを手にして欲しいと望む。自分には手に入らないものと、諦めながら。
 高荷恵はそういう女だ。
 台所から、気配が移動した。時は恐らく子ふたつ。雪はやんだが、寒さはやまず、寧ろ一層冷え込みは厳しくなっている。気配は、客間――いつも、蒼紫が借りている部屋――の前で止まった。
「……起きてる?」
「あぁ」
「入るわよ」
 言うなり、返事を待たずに恵は襖を開けた。何故か、蒼紫の部屋は他の部屋よりも冷えている気がした。蒼紫は部屋の中央で禅を組んでいる。
「炊き出しの仕度、有り難う。美味しいわ。貴方も、料理の腕を上げたわね」
「少しはな」
「……操ちゃんの事だけど……あの子は貴方を何より大切にしているわ。解っているんでしょう?」
 だとしても。
 言いたい事はあったが、蒼紫は敢えて口を噤んだ。その代わり、黙って立ち上がり、ゆっくりと恵に歩み寄った。覗き込む瞳に影が射す。外の雪より冷たい指が、頬に触れた。その瞬間、恵の脳裏に何かが瞬いた。頭の中で鋭い閃光を放つそれは、恵の心臓を凍り付かせた。大切な物を失ってしまう――そんな恐怖が、恵を絡め取る。
「ダメ!」
 恵はぴしゃりと蒼紫の手を払った。
「恵……?」
 唇が戦慄き、胸で深く息を繰り返しながら、恵は蒼紫を睨め付けた。
「今、あんたに甘えるわけにはいかないわ。少なくとも、京都から逃げてくるような弱い男には。あの時……あんたのありもしない愛情に慰められていたのも確かだけどね。でも、もう……」
 慰めの道具にしたくない。縋りたくない。求めたくない。
 三人の子供を育てることにも、会津を復興に導く事にも、自信があるわけではない。使命感だけで立っているが、寄り掛かれる誰かに側にいて欲しいと思う事もある。それでも、甘えられない。
 恵はふいと踵を返し、蒼紫の部屋を離れた。美しい後ろ姿が遠退いて行く。
 振り払われた手が、微かに痺れている。蒼紫は指先に視線を落とした。恵に触れた瞬間、何かが引っ掛かった。ほんの一瞬。しかし、恵の手に叩かれ、あの戦きの眼差しを向けられて、腑に落ちた。大久保利通卿暗殺に端を発し、京都は比叡山で終局を迎えた志々雄真実暗躍事件。大久保利通の銘を受け、志々雄と戦うために緋村剣心が東京を旅立った直後、蒼紫は剣心の住んでいた神谷道場に赴いた。そこで、恵に会った。緋村剣心の居場所を教えろと言い、黙り込む恵の頬に触れた。先程のように。そして、「教えなければ殺す」と脅した。あの時の恐怖に硬直した顔を思い出す。恵も、同じ事を思い出したのだろう。恵にとっては、“大切な者”を失う恐怖。
「強くなったな……」
 恐怖を振り払った。あの時は、腰を抜かしたのに。逞しくなったらしい。大切な者に守られる訳でなく、大切な者を守るために。



 東の空が白み始めた。前夜に積もった雪が、朝陽にきらきらと輝く。陽の出ている分、寒さも和らいだように感じられた。
 あまり眠れず、明け方に布団を抜けた蒼紫は、寝間着のまま診療所に向かった。母屋と廊下で繋がっていて、診察室の直ぐ隣が恵の書斎だ。診察室にいつも置いてある医術書を読もうと考えていたのだが、開き戸に手を掛ける直前、蒼紫は一瞬動きを止めた。部屋の中に気配がある。恵が眠っている……戸を開けるまでもなく、蒼紫にはそれが解った。戸を開くと、正しくその通りであった。
「恵……」
 小さく声をかけてみるが、反応はない。床に足を投げ出して診察用の寝台の上に仰向けに横たわり、ゆっくと胸を上下させている。寝台に腰掛け、そのまま上半身だけ寝転んだ格好だ。蒼紫には気配が扉の向こうでも感じ取れたが、発見したのが征太郎や昴なら、命の危険すら考えて慌てそうだ。背筋の冷たくなるほど、顔が青ざめている。
 普通なら、自室に戻って布団に入る筈だ。仮眠を取ろうと横になって、そのまま眠ってしまったのだろう。彼女には、度々こういう事がある。机や床で眠ってしまう事も多い。寝不足や疲れで集中力がもたない事は解っているが、使命感――半ば、強迫観念のような――に突き動かされている。
 先程と同じく、そっと頬に触れてみる。ぴくりとも動かない。
 痩せた、哀れな女。出会った頃からそうだった。美しく気丈、それも変わらない。閉ざされた邸の中では身を守る鎧だった冷たい妖艶さは、今は見えない。
 荒れた手指や骨と皮だけのような手首が、女の生活の過酷さを如実に示している。助けを求めてくれたなら、誰もが……勿論自分も、手を差し伸べる用意があるというのに、なかなかそうしない。相手や、その周りにいる人々への気遣いが先に立っている。
 触れて、思う。
 ダメと言われても、拒絶されても、この女の力になりたい。会津のために働きたい。京都の安穏とした生活に飽いたわけではない。刺激が欲しいというわけでもない。ただ……ここにある“命”を、今ここに生きている人々を、失いたくない。幕末、同じ志の元に戦った者達と、彼等が繋いだ新たな命を、守りたい。そして、彼女を守りたい。近付く度に、触れる度に、強くなる想いの訳を知りたい。
「恵」
 ただ、彼女の存在だけを確かめるように、蒼紫は神経を研ぎ澄まし、その蒼い顔を覗きこむ。
「恵……」
 弱々しく息を零す唇に生命力を吹き込むように、蒼紫は柔らかく、微かに、唇を触れた。胸が熱くなる。
 この想いの訳を、知りたい。



 そんな風に……と、昴は思う。
 そんな風に、人に愛されてみたいのだと。“彼”に愛されてみたいのだと。
 あんなに気配に敏感な男が、扉一枚隔てた廊下にいる存在に気付かないなんて、そんなはずはない。扉の向こうの男が、母の名を呼ぶ。男は、気付いているのだろうか。その心に息づく感情に。その感情こそ、昴が最も求めるもの。
「良いなぁ、母さんは……」
 ぽつりと零して、昴は台所へ向かった。
 全く、男というものは。

 ダメな人ね……。



fin
気付かないなんて、解らないなんて、駄目な人ね。
言い訳なんかしないで……いつになったら、向き合うの?



INDEX


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