君が涙に揺れる時、どうすれば良いんだろう……


      涙は知ってる


 明治十七年師走――
 思いの外寒い午後、拙者は縁側で息を吐いた。
 拙者の隣りには高荷恵殿が、押し黙って座っていた。その瞳に、涙が浮かぶ。
 妻の薫殿の涙よりも、彼女の涙はどうして良いか解らない。泣いている事すら解らない程、声を上げるでも殺すでもなく、ただ静かに涙を流すのだ。時折、本人にさえ泣いているかどうか解らないのではないかと思う。
 涙の理由<わけ>に心当たりがある。苦しみや哀しみや後悔ではなく、喜びと淋しさの混じり合った感情を、押さえ込む事はない。気の済むまで泣いてくれれば良いと思う。けれど、涙に胸は痛むし、空を見上げても、かける言葉が見付からない。
 ただ、彼女の流す涙に冷たい理由があるわけではない事を嬉しく思う事は勝手だろうか。あの日、あの時、赤い血を流しながら苦しみの涙に濡れていた彼女が頭から離れない。もう二度と、彼女が笑う事などないのではないかと思っていたから。本当は誰も、傷付かなくて良い事のはずだった。踏み込んでしまったのは、拙者自身。自分の立場も罪深さも解らずに、容易く触れようとした事が、あの悲劇を生んだのだ。
「征太郎殿も昴殿も立派でござるな」
 拙者がいうと、恵殿は赤い眼でこちらを見た。
「え……?」
「征太郎殿は、恵殿の意志を継いで医者になったのでござろう? 簡単な事ではござらぬよ」
 拙者の言葉に、恵殿は柔らかく微笑んだ。
「……有り難うございます、剣さん」
「いや……本当にそう思うから。昴殿も恵殿の背中を見て育ったでござるな」
「みんな私の誇りです」
 きりりと口元を引き締めて前を見据える彼女は、儚くも美しい。彼女の強さは知っている。逞しく聡明な女性だ。彼女に誇りに思って貰えるというのも、また羨ましいものだ。
 恵殿には、八人の養子がいる。六年前、故郷である会津で診療所を開いた。維新後荒廃していた会津を立て直すと同時に、身寄りのない子供達を引き取って養っている。自分にはとても出来ない。優しさや包容力、慈しむ心……。自分にはない沢山の物を持っている彼女を、尊敬している。ある種の愛情を抱いている。それは、多分彼女の子供達が抱く感情。母への思慕。高荷恵という女性は、拙者の母に似ている。幼少の頃に死別して、もう顔も覚えていないけれど、彼女のような人だったと、拙者の中に何かが残っている。
「征太郎殿達にとっても、恵殿は間違いなく“誇り”でござる」
「だと良いんですけど……征太郎が独立して一月……一昨日、昴もお嫁に行ってしまって……嬉しさと淋しさが突然押し寄せて来たんです。一月でふたりも家族が家を出て、なんだか静かになりましたし」
 掌で目元を拭い、困ったように彼女は微笑う。
「少し泣いて……またいつもの恵殿のように微笑って欲しいでござる。無理はしなくて良いから」
 拙者も笑って見せる。恵殿が、笑えるように。いつも近くにいることは出来ぬが、いつでも笑顔を渡したい。彼女や妻や、仲間達が教えてくれた。人の笑顔が笑顔を生み、幸せを生むこと。だから少しずつ、拙者は笑顔を返してゆこうと思う。それが、これからの贖い。
「はい」
 唇は震えているけれど、きっと大丈夫。
「それに……あの子達は私を“お母さん”にしてくれました。子供が成長して旅立つ事は、親の最高の幸せですよね?」
「きっと。拙者もいつかそんな風に、喜びと淋しさを感じるのでござろうな」
「ふふ、剣さんが泣くところ、見たいわ」
 ほんの少し意地悪な顔をして、恵殿は言った。
 冷たい風が吹いた。夕闇が東から迫ってくる。このまま外にいては、身体に障ろう。
 兎も角、元気な顔が見られて、良かった。
「拙者はそろそろ帰るでござる」
「え?もうすぐみんな帰ってきますし、泊まって行って下さい。これから東京に帰るなんて……左之助じゃないんですから」
「はは……いや、恵殿に逢いたかっただけだから。それに、会津に来られて……良かった」
 拙者が言うと、恵殿の目尻にまた涙が浮かんだ。人差し指で涙に触れると、恵殿は弾かれたように肩を竦めて、くすくすと笑った。
「嫌ですね、年を取ると、涙脆くなって」
 橙色の陽射しに、温かな笑顔か映えた。
「どうかしたか?」
 ふと、頭上に降ってきた低い声。振り返った恵殿の顔が、一気に和らいだ。
「お帰りなさい!」
「母さん、泣いてたのか?」
 ばたばたと足音を立てて駆け寄ってきたのは次男の瀧尋殿。後から、三男の光黄殿と四男の葉月殿も駆け付けた。
「急いで帰って来て良かったよ。また征兄さんの事案じていた訳?それとも、緋村さんが……?」
「剣さんの所為というか……剣さんに会津に来て貰えるようになったのが嬉しいの」
「母さん……」
 葉月殿が、眼を細めて恵殿に寄り添った。
「俺達、もっと頑張るから」
 力強く言った葉月殿の頭を、大きな手が撫でる。恵殿が、無防備で優しい笑顔を見せると、胸が微かに痛んだ。妻のある身で――そもそも、拙者は彼女の好意を断っているのに――やきもちを焼くのは如何なものか。我が事ながら呆れてしまう。でも、彼女が拙者にこんな表情を見せることはなく、穏やかさ、朗らかさが羨ましい。
 泣き顔ばかりを、覚えているから。



 恵殿と出逢った時、彼女は逃亡者だった。自身を罪に縛り付ける男から逃れ、贖いに人を救い続ける事を誓った。幼少の頃から、医者になるという目標と共に、母親になるという夢を持っていたと聞いたのは、昨年の事。でも、あの明治十一年の夏、その夢は諦めたのだという。身重や乳児を抱えた状態では、会津のために働けないからだろう。実際、誕生と同時に実母と死別したために養女となった、末娘の楓殿の世話は、征太郎殿と昴殿がしていたそうだ。とはいえ、八人の子供を養いながら、彼女は会津を奔走し、医者として人々の命を救い続けた。並大抵の事ではない。
 明治維新において、佐幕派と勤皇派は対立した。大政奉還で武士の世が事実上終焉した後も争いは続き、各地で戦争が起こった。鳥羽伏見の戦いに始まった戊辰戦争、その第四の戦役・会津戦争で、会津の運命は大きく変わった。最後まで新政府に抵抗を続けた会津を始めとする奥羽諸藩は、長く政府から弾圧される。戦後十年を過ぎても深刻な食料不足と医師不足に悩まされ、新時代から孤立していた。
 幕末から維新まで、佐幕の志士と戦い、会津藩士も多く殺めた拙者は、会津の人々から憎まれていた。それは当然なのだが、考えが及ばず、恵殿の助けになればと会津を訪れた折、反発から騒動を生んだ。その結果、恵殿は額に傷を負った。
 拙者は、何も出来なかった――
 幕末にこの手で殺めた人々への贖うための流浪の旅。少しでも誰かの助けになるようにと逆刃刀を振るったけれど、結局、誰かを救えたのかは解らない。流れ出す血も涙も止める事は出来ない。近しい人であったはずの恵殿さえ、守れなかった。
 だけど。
「抜刀斎!」
 人気の少ない細い街道を歩いていると、背後から声が飛んで来る。振り返った時には、声の主は既に地を蹴り、拙者の間合いに飛び込んで来ていた。咄嗟に体を捻り、相手の拳をかわす。眼前を、烏のような漆黒の髪が過った。
 直ぐに体勢を立て直し、こちらに向き直ったのは、二十歳そこそこの青年だった。
「命は取らねぇから、俺の相手してくれや、最強の維新志士さんよ?」
「拙者は、誰ともやり合う気はござらぬよ。ただ……もし、お主が拙者や維新志士に恨みを持っているなら、気の済むまで殴るでござる。もう、かわさぬ故」
 拙者の言葉に、青年はむっとした。
「そういう事じゃねぇよ。確かに俺の親父は維新志士に殺られてるけど、あんたかどうかは知らねぇし、今更敵討ちでもねぇ。強い奴とは遣り合ってみたいもんだろ?」
 何処かで聞いたような話だなと思ったが、手合わせなど拙者には出来るはずがない。しかし、断りの言葉を探すが、なかなかこの手の御仁を納得させられた試しもなかった。
「浦正、それで怪我でもしたらどうするんです?」
 青年の向こうから、背の高い別の青年が歩いて来た。凛とした姿は何処か恵殿に似ている。知った顔だ。
「征太郎殿……」
「僕は兎も角、それで母を煩わせるのだけは勘弁して下さいね」
 高荷征太郎殿。恵殿の養子のひとりで、恵殿から医学を学び、医者として独立した。
「はいはい、今日は蓮がいないから、俺一人でやれると思ったのに」
 征太郎殿の冷静な態度に興を削がれたのか、青年は肩を竦めて、ゆっくりと拙者に歩み寄った。敵意や闘志はなく、瞳は穏やかで明るかった。
「抜刀斎、俺達はもう、あんたを憎んだりはしない。憎しみじゃ、何も変えられないし、誰も救えないからな」
「え……」
「だから、次に来た時は手合わせしようぜ。俺、左之さんにも蒼紫さんにも一目置かれてるんだ」
 青年は、手を差し出した。
「俺は浦正。覚えといて。えっと……剣心、さん?」
「浦正……殿……」
 傷だらけの武骨な手は、しかし、喧嘩に明け暮れている様子はない。寧ろまめだらけで、働き者の証が刻まれていた。
「春になったら……東京の桜が散ったら来いよ。会津の桜は見事だぜ」
 浦正殿の笑顔につられて、拙者の口元緩んだ。
「楽しみでござる」
 握り締めた手は力強く温かく、去り行く背中は逞しかった。彼も、会津の未来を担うひとりなのだ。
「……浦正は、瀧尋と葉月の昔の仲間です」
 征太郎殿が静かに言った。
「あれで面倒見が良くて、親を亡くした男の子を引き取ってるんです。っていっても、幼児は無理ですけど」
「真っ直ぐな男でござるな」
「そう。だから――」
 征太郎殿の眼が急に鋭くなり、拙者を睨んだ。
「無闇に傷付けさせるような事を言わないでくれませんか?」
「…………」
「怪我をした貴方を治療する母が傷付きますから」
 …………あぁ。確かにそうだ。
「貴方が傷付く事にも、浦正が傷付けた事にも、会津から憎しみが溢れる事にも、あの人は傷付くんです。良い事なんかひとつもない……」
 そして、そんな母親の姿に彼も傷付くのだ。額から血を流す彼女の姿が瞼に浮かぶ。
 拙者は何も解っていなかった。
「傷付けた者も傷付く……で、ござるな」
「えぇ。でも、貴方が会津の人々に対してあんな風に考えるのは、僕が原因なんでしょうね……」
 征太郎殿は小さく息をついた。陰る横顔に、雪が舞い降りた。僅な沈黙の後、彼はぐいと胸を張った。
「また来て下さい。今度は、薫さんや弥彦達も一緒に……」
 懸命に笑顔を作って見せる彼が、年より余程大人に見えた。
 拙者に、誰かを守ることなんて 簡単には出来ない。
 だけど。
 彼は、彼らは、大切な者を守るために立ち向かっている。小さな蝶が海を越えて行くように、勇気を携えて荒波を越えて行く。

 救われているのは拙者の方だ。

「三年待って下さい。貴方が何の心配もなく会津に来られるようにしますから」
 かつて、恵殿は拙者にそう言ってくれた。青白い顔をして、頬の痩けた顔で微笑った。今にも壊れそうで、きっと泣きたかろうと、弱音のひとつも溢したかろうと、そう思ったけれど、彼女は直向きに、立ち向かう事が自分の使命と言わんばかりに、瞳を耀かせていた。彼女の姿が美しければ美しい程、胸が締め付けられる思いがした。流浪の旅に出ようと、何度も思った。その想いを踏み留まらせたのは、彼女だった。拙者の身体は、流浪の旅にも、飛天御剣流の剣を振るう事にももう耐えられないのだという。医師である彼女の見立てだ、間違いはないだろう。大切な人のためにも、徒に命を削るような事は止そうと決め、薫殿と結婚して東京に落ち着いた。
 薫殿は勿論だが、恵殿が拙者に与えた影響は大きい。
 三年後、多分拙者は何の心配もなく会津に来られるようになっていたのだろう。けれど、会津に来るまでに更に二年かかった。恵殿の傷と向き合う勇気がなかったのだ。
 でも……もう、本当に心配は要らないようだ。何も。

「緋村剣心さん」

 真面目な顔をして、征太郎殿は拙者を見た。
「……はい」
 思わず、肩に力が入る。
「聞いて良いですか?」
「あぁ…………なんでござるか?」
「母さんは貴方の事、好いていたんです。知っていました?」
 思いがけない問いだった。しかも、真正面から斬り掛かってきた。大した男だ。愛情深く、正直な。拙者は、黙って頷いた。彼は驚いた様子で目を見張る。
「いつ、気付いたんですか?」
「気付いた訳ではござらん。恵殿が打ち明けてくれた。薫殿との結婚を報告した日に」
 拙者の言葉に、征太郎殿は目を丸くして、「母さん、怖い」と小さく呟いた。
「……怖い?」
「薫さんから奪おうとしたわけですよね、貴方を? それが結婚を報告した日というのは、大胆過ぎるかと」
 そう来たでござるか……。そう言われると、恵殿はまるで悪女だ。
「そうではなくて……けじめをつけたのだと言っていたでござる。自らの道を進み、何より、側に大切な存在があればこそ出来る事でござろう」
「大切な……」
 当時は、まだふたり、征太郎殿と昴殿だけだった。ふたりの事を話す彼女の微笑は、紛れもなく母親のそれだった。
「貴方は……母を、全く好きではなかった?」
 真っ直ぐな問い。揺るぎない想い。
「好きでござる」
「…………」
 征太郎殿は覚悟を決めたようにぐっと唇を噛んだ。精悍な青年の面をした彼には、憎しみに任せて仇に礫を放った少年の影など欠片もない。背丈以上に、大きくなっている。
「征太郎殿は怒るやも知れぬが、拙者は恵殿を母のように思っている。慈愛に満ちて、心が休まる……」
「確かに腹の立つお答えで……」
「拙者は母を知らぬ。出逢った頃、蒼紫は愛情を知らず、左之は安らぎを知らなかった。拙者は、蒼紫に愛情を教えたのも、左之に安らぎを与えたのも、結局恵殿だったと思っているでござる。それは、お主ら兄弟が教えられ、与えられたように。恵殿は、誰にもかけがえのない人でござろう。拙者は、恵殿を好きでござるよ」
 口にすればする程に心が軽くなる。拙者は穏やかな心地で笑って見せた。征太郎殿の顔が朱に染まる。
「僕は貴方を越える男になる。維新志士に殺められた母に、身を粉にして僕を育てた母に、そして、僕を旅立たせてくれた母の想いに報いるために……最強の貴方を、越えて行く。また、遇いましょう」
 背筋を伸ばして、彼は拙者に背中を向けた。
 気付いていないのだろうか。とうに、拙者など追い越して、未来へ羽ばたいている事に。

 子供を肩に乗せた男、睦まじく寄り添う若い男女、母を乗せた車を押す青年……痩せて、傷を負っていても、道行く会津の人々は、皆微笑んでいる。




 恵殿――六年前、涙に濡れた貴方……。
 憎しみと絶望の闇に捕らわれていた人々も、今は笑顔の光を得ている。勿論、総てが恵殿の力ではないけれど、彼等の力を引き出す手助けを、きっと今までしてきたのだろうし、そのために苦しみも絶望も沢山乗り越えたのだと思う。
 貴方の背中を追い、走ってきた若者達が、これから、羽ばたいて行く。
 高荷恵殿――みんなの“お母さん”。ねぇ、信じていいよ、虹はやって来る。貴方の爪先へ。信じて良いよ、貴方の、そして貴方の愛する人達の時が来る。もう、新しい風の中にいる……。
 貴方を見ていると、胸が温かくなって、涙が溢れてくる。貴方が信じさせてくれる。そう、かならず夢はやって来ると。その腕を拡げて。きっと、涙はそれを知っているのでござるな。教えに来ているんだ。“明日”から――

 信じていいよ 夢はやってくる
 君のためだけに
 泣いても良いよ どんな悲しみも
 翼に変わるのさ


 その胸で――――


fin
君の未来に
幸多からん事を


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