離れれば離れる程、愛しい人だと気付く。
 求めれば求める程に、切ない距離を感じてる。



    1/3の純情な感情



 明治十六年十一月。
 会津は、雪の季節を迎えていた。

 十月に会津を訪れた相楽左之助は、雪の季節を前に信州へと発った。信州には彼の生家がある。明治十一年の晩夏に海外に逃亡して以来、五年間日本を離れていた左之助は、この年の六月に帰国した。しかし、帰国後一度も故郷を訪れることはなかった。明治十一年に、東京から故郷である会津に戻った高荷恵は、この地で八人の養子を取り、医者として働いている。左之助は恵から、せめて一度は家族に顔を見せるべきだと説得され、信州へ赴くことを決めたのだ。自分を兄と知らない弟は剣術家を目指して上京し、妹は嫁いだと聞いている。弟の話では、父はまだ故郷で生活をしているようだが、頑固な父の事だ、受け入れてくれるものとは思えない。しかし、明治元年の戊辰戦争で家族と生き別れ、未だ再会出来ていない恵の言葉を無碍にする事も出来なかった。
 恵は、身篭る事もなく、夫となる者もないままに八人の子供の母となった。最も年長の者は、今年十六。明治元年、会津戦争の最中に産まれたのだという。結婚が女の幸いというのなら、恵は幸いを得ることなく、既に齢は二十八を過ぎた。結婚よりも大きな幸いを得たのだと、左之助は理解している。つまり、子供達が恵の幸福そのものなのだと。
「そいじゃ、ま、俺は行くな。恵に宜しく言っといてくれ」
 左之助が会津を発つ日、恵は早くから往診で遠出をしていた。他の子供達も、恵からそれぞれ仕事を与えられ、長男の征太郎だけが、左之助の見送りを恵から言いつかった。左之助を慕う次男の瀧尋が見送りをしたいと申し出たが、兄弟唯一の力自慢の瀧尋に、町の者が手を借りたいと以前から言っていたので、諦めざるを得なかった。
 町の外れで、左之助は征太郎に声を掛けた。征太郎は、口元に微かな笑みを見せ、まるで笑っていない瞳で左之助を見詰めた。
「ええ、色々と有り難うございました。どうぞ、道中お気を付けて。また、いつでもお出で下さい」
 慇懃に頭を下げる征太郎の言葉の冷ややかさが、言葉と裏腹の強い意志――「もう来るな」――を突きつけてくる。左之助は苦笑し、征太郎の肩を小突いた。征太郎の身体は背丈の割に細く、骨張っている。
「俺がいたら、お前は不愉快だろうな……」
「いえ、滅相もない」
 緩く首を振るものの、それもまた嘘と解る。当たり前だ。昨日までと、まるで態度が違うのだから。征太郎は、母の周りにちらつく男の影を、悉く嫌っている。左之助と、年に何度も会津を訪れる四乃森蒼紫はその筆頭だ。何故、こうもその存在に腹立たしさを覚えるのか、その理由を彼自身は理解出来ていない。兄弟や周囲の者は、既に察しているその答えに、自身が辿り着けていない。いや、辿り着かないようにしていると言った方が良いのかも知れない。
「ま、その態度はムカつくが……それは置いといて。お前だって、本当は解ってんだろ、いつまでもこのままじゃいけねぇって事くらい? いつか、決着を付けないといけない日は来る。そうじゃないと、お前も恵も本当に幸せにはなれない」
 征太郎が自ら触れぬようにと避けていた事に、左之助は易々と踏み込んで来る。征太郎はあからさまに顔を歪めた。
「お前に母さんの幸せが解るか」
「お前が幸せじゃなかったら、恵も幸せじゃねぇよ」
 呆れたような口調ながら、「解ってるんだろう」と諭すような柔らかな響きがあり、征太郎は居心地の悪さを感じた。
「鈍い俺から見ても、お前はちょっと妙だ。お前の事を、いつも近くで見てる恵は気になるだろ」
 畳み掛けられ、征太郎の視線は足元に向く。冷たい風が殴り付け、征太郎は益々惨めな心地がした。しかし、
「若いんだから、めいっぱい苦しめや。きつくても良いじゃねぇか、お互い苦しんで、ちゃんと決着ついたら、本当に幸せになれるんじゃねぇの? 苦労も無しに幸せなんか手に入るかよ」
 左之助はからりと笑いながら、征太郎の肩を叩いた。湿っぽい空気を一気に吹き飛ばす太陽のような明るさが彼にはある。自分にはない資質で、征太郎は唇を噛んだ。
「…………また来てよ。母さんが喜ぶから」
 独り言より微かな声で、征太郎は呟いた。そよ風がすり抜けるように耳に届いた言葉を左之助は一瞬信じられなかったが、白い歯を見せて笑った。
「またすぐ来らぁ」
「春くらいで良いです」
 左之助を睨み、きっぱりと言い切るところが如何にも征太郎らしく、左之助は大笑いしたのだった。
 時間はかかりそうだが、きっと大丈夫だ。左之助は確信めいたものを感じた。
 しかし、当の征太郎は、自身の胸に淀む暗く深い沼を探り切れず、焦っていた。左之助の言葉が、耳の奥に響き続けている。
 “妙”な態度、“妙”な感情――
 あってはならないもの、あるはずのないもの。持て余して仕方がないというのに、片の付け方が解らない厄介さ。
「会津の冬は厳しいから、暖かくなったら、また……」
 征太郎は早口で付け加え、「それでは」と頭を下げた。
「見送り有り難な。そんじゃ、また」
 左之助の笑顔に背を向けて、征太郎は奥歯を噛み締め、俯いたまま大股で自宅へ戻った。誰にも逢わずに帰れた事は好都合だった。家に戻っても誰とも言葉を交わさず、すぐに部屋に閉じ篭る。
 鈍い男にも“妙”と思われるような事を、母はどう思っているのだろうか。或いは、ずっと“妙”だっただけに、既に当たり前の事と受け入れられているのだろうか。そもそも、何が“妙”だ?  征太郎は膝に額を押し付けて目を閉じた。気持ちが悪い……
「…………母さん」
 閉ざした瞼の裏に、彼女の笑みが浮かぶ。美しいその姿は、何よりも愛おしい。
 征太郎にとって、恵は三人目の母親である。ひとり目は征太郎を産むと同時に命を落とし、ふたり目の母親は征太郎を育てるために身を粉にして働き、帰らぬ人となった。故に、恵が母親になると言った時、征太郎の胸中には不安と恐れが生まれていた。三度、“母”という存在を失うのではないか、と。母を失いたくなかった。
 “母”だから。
 “母”だから……?
 曖昧な感情が彼のいう“妙”な何かしらだというのならば、それを彼女は知っているのだろうか。この感情は伝わっているのだろうか。
 “妙”である自分が彼女の目にどう映るのか……そんな事ばかりが気になって、得意の針仕事ひとつ手につかないまま、征太郎は夜を迎えた。
 征太郎が不機嫌で口数が少ないのは、元々余り好意的には思っていない左之助の見送りを頼まれたからで、左之助が無意識に口にした言葉がカンに障ったのだろうと、皆敢えて触れずにいた。次男の瀧尋は普段ならば笑い飛ばすところだが、自分は大好きな左之助の見送りに行けなかったというのに、見送りに行った征太郎はそれを全く喜ぼうともせず、どうにも不愉快な思いをさせられたとばかりに押し黙っているのが気に食わなかった。三男の光黄は、自分が口を開けば嫌味になり、険悪な雰囲気を増長させるだけである事を理解して、苛立ちながらも口を利かなかったし、次女の紫や四男の葉月は、三人の兄達の重苦しい空気に押し潰されそうになっていた。下のふたり、達幸と楓に至っては、耐え切れずに泣き出し、長女の昴が子供部屋に連れて行かなくてはならない程だった。恵が不在だと、時折こういう事が起こる。そして、恵のように和ませる事が出来ず、昴が落ち込んで、達幸と楓が益々不安になるのだ。
「左之助さん、戻って来ねぇかな」
 箸を置くと、瀧尋が溜息混じりに呟いた。苛立たしげな声音だった。
「信州の御実家で用が済んだら、来てくれるかも知れない」
 光黄が、期待に口元を和らげる。
「また来るって……春には来ると思う」
 他の兄弟に比べてゆっくりと箸を運びながら、征太郎が答えた。
「本当に?」
「そう言っていた。また来て欲しいとも言っておいた」
「征兄さんが?」
 紫が眼を瞬かせた。光黄は、鋭く征太郎を睨む。嘘か、社交辞令で心にもない事を言ったかのどちらかだと、光黄は考えていた。左之助を歓迎していない征太郎がそんな事を心から言うはずはないし、恐らく彼に不愉快な思いの一つもさせただろう。彼は気にする事はないのだろうけれど、兄である征太郎の、感情にまかせた不用意な行動が、光黄には腹立たしく思えた。一方で、自身が、思いの外相楽左之助という男を好意的に捉えている事に些か驚いていた。
「僕が嘘ついてるとでも言いたげな顔してるな、光黄」
 征太郎は、ちらりと光黄をうかがう。どうせ信じていないのだと、最初から解っていた。
「まあね」
 鼻で笑うように光黄は答え、「言ったとしても、口先だけだ」と付け加えた。
「僕も、自分が左之助さんにあんな事言うとは思ってなかったよ。でも……あの人がいれば、母さんは笑うし……母さんの大事なもの、ちゃんと知ってる人だから」
 光黄の眉間から力が抜ける。どこかぼんやりとして、自身の意思さえつかめていないその言葉に、嘘はないと解った。ただ、迷いがある。どうしてそんな事を口にしたのか解らずに、心が宙を漂っている。
「何でも良いよ、お母さんが幸せなら」
 言いながら、征太郎は箸を置いた。両手を合わせて食事を締めくくると、すっと立ち上がる。
「ごめん、今日は……色々考えてたら、なんか食事の雰囲気悪くなったな。明日からは気を付けるから、今日は許してくれ」
 表情もなく、淡々と言い残すと、征太郎はそのまま膳を持って出て行ってしまった。

「征兄さんがあんな事言うなんて……」
 取り残された兄弟達は、呆然としていた。
 普段は冷静で頭も良いが、母の事となるとすぐに頭に血が上り、独占欲を剥き出しにする。兄弟はそれぞれに、母を独占したいという感情が大なり小なりあるものだが、征太郎のそれは、他の兄弟とは明らかに違う。その理由に、彼自身が気付いていない事に対して、光黄は苛立ちを覚え、昴は呆れている。その兄にしては、意外な言葉だった。
「なんか……思うところがあったかな」
「だね。私、姉さんとこ行ってくる。落ち込んでるだろうし」
 紫はひょいと腰を上げると、自室に駆けていった。
「紫の奴、片付け逃げやがったな!」
 妹の後ろ姿をぽかんと見送った瀧尋は、その場に残された膳を見付けて悪態をついた。夕飯の片付けの当番は、今日は紫と瀧尋だが、仕方がない、紫の代わりに自分がやろうと、葉月は思ったのだった。




 雪が降り出したのは夜半の事だった。
 征太郎は、ひとり診療所の窓から雪を眺めていた。
 布団に入ってもなかなか寝付けず、同じ部屋に寝る男四人の男兄弟達の寝息がやけに耳についた。何となく落ち着かず、その場にいたたまれずに、征太郎は布団を抜け出し、診察室に逃げ込んだのだった。片手に本を持ってはいるが、明かりもつけず、開きもしない。
 診察室は、薬の匂いがする。棚にずらりと並んだ瓶には、沢山の薬が詰まっている。母が煎じたものもあれば、外国から秘密裏に輸入しているものもある。母が、幼少の頃に蘭学を学んだ際、知り合った外国人医師や薬師が、横流ししている品らしい。勿論、日本では認められていない行為だが、母は「必要悪だ」と言っている。そうでもしないと、会津の人々の健康を守れない事は事実だ。母親に対する贔屓目を除いても、正しい事だと征太郎は信じている。
 頭から、高荷恵という女の総てを信じているのは、母であり、信頼出来る医者だからだ。優れた医療を会津にもたらし、崩壊しかけていた会津の復興に一役買った。それだけではない。聡明で、美しく、優しく……出逢った時から、「この人の側にいたい」と強く願った。祈りのような悲しみのような複雑な感情だった。まぶたにその姿を思い浮かべると、胸が苦しくなり、鼓動が早くなる。そして、彼女を独り占めしたくなるのだ。彼女の側にいる人、特に男は気に入らなかった。
 まるで、ヤキモチをやいているよう……
 そんな事を考えると、不意に涙が零れ出した。闇に浮かぶ雪明かりが、征太郎の頬を照らす。訳も解らず、とめどなく溢れる涙を手の平で拭った。
 愛しい。
 こんなにも、あの人が愛しい。
 母に対してあってはならない感情だと解っていて、五年間知らん振りをしてきたけれど、彼女を想うと鼓動が高鳴り、唇から零れる息が熱を帯びる。
 窓を開けると雪が舞い込んできた。呼吸をする度に空気が白く揺らぐ。
 これが、“恋”であるならば、成程、“妙”に違いない。
 かたんと背後で音がして、振り返ると、白い影がこちらを見ている。
「誰……?」
 影は低く落ち着いた女の声で問う。それが、正に今、思い浮かべていた人である事は明かりをつけるまでもなく明らかだった。
「……お母さん」
「征? どうしたの、こんな時間に」
「眠れなくて……本を読もうと思ったら、雪が綺麗だったから、見てたんだ」
 征太郎は、手にしていた本を軽く叩いた。暗闇で本そのものは見えなくても、本の存在を確認させたい。なんのわけもなく此処にいるわけではないのだといる主張だ。
「あら……」
 恵はさっと窓に近付き、外を覗いた。
「本当、綺麗ね」
 急に近くなった姿。さっきまで見えなかった顔が、蝋燭もないのにやけにはっきりと見えて、征太郎の心臓は早鐘を打った。淡い唇から零れる白い息がきらきらと輝き、やわらかな笑みが温もりさえ感じさせる。
 なんて、彼女は美しいのか。今し方、ほんの二分前に自覚したばかりの恋が、口にしてはいけない言葉を表しそうになる。五年間閉じ込めてきた思いは、既に溢れ出しそうになっていた。
「もう寝なさい、征太郎」
 恵が言った。優しい声が胸に響く。
 部屋を出ようとふたり並んだ時、恵は不意に見た征太郎の肩が、自分の肩より大分高い事に驚いた。
「征太郎、いつの間にそんなに背が伸びていたの?」
「成長期だからね、伸びるよ。でも、もうすぐ瀧に抜かれそうでひやひやしてる。光黄にだけは負けたくないな……」
「ふふ、みんな元気に大きくなってくれて嬉しいわ。あんな小さかった征太郎が、私より大きくなったなんてね。老けるわけだわ」
 急に困った振りをして澄まし顔を作る恵に、また鼓動が速くなる。これ以上緊張していては、心臓が破裂してしまうのではないかと思われた。それなのに、そんな征太郎の気持ちなど気にも止めず、恵は征太郎の背中に手を触れた。
「さて、もう行きましょうか。明日は朝寝坊して構わないから、ゆっくり休みなさい」
 触れる手が、凍える背中を温める。
 十一歳年上の、血の繋がらない“母親”。身長は彼女を越えたとしても、年齢を越える事はない。年齢と立場、大きく立ちはだかるこの壁を越えたら、ひとりの男として見てもらえるのだろうか……。見詰める黒い瞳が美しく、言葉に出来ない想いが宙を舞う。
「……母さんは何してたの?」
「私も眠れなくて。なんだか、急に静かになって落ち着かないのかしらね」
 くすくすと恵が笑う。
 恵の寝室の隣りは六畳の客間で、左之助は滞在中、そこを利用していた。瀧尋や葉月、紫が昼夜を問わず出入りしていたので、常に賑やかだった。夏に左之助が来た時には、それを不愉快に思っていたのだが、今回の滞在では、不思議と嫌な気はしなかった。
「声、大きいしね」
 ほんの少し嫌味を交えて呟くと、恵はまたくすりと笑う。
「そうね。でも、嫌な気がしないの、あいつの声。……何か話した、左之助と?」
「え?」
「見送りに行ってくれたでしょう。有り難う。貴方があまり左之助を好きではないのは解っているし、あいつは本当に五月蠅いし、人の迷惑を考えないし、図々しいけど、悪い奴じゃないのよ」
 解って欲しいと、言葉に込めて語りかけてくる。
「解ってるよ」
 それは嘘ではない。寧ろ、解っていないのは貴女の方だと、征太郎は心の奥で嘯く。せめてあいつが、馬鹿でどうしようもない奴だったら良かった。面倒見の良い母が貧乏くじを引いているというのならば、彼を引き離す事も考える。瀧尋がどれだけごねようとも、高荷診療所に立ち入らせるような事はしない。しかし、口惜しい事に、彼は気の良い男だ。懐が広く、温かみがある。世界を見てきた男故か、その背中に強さが滲み出ている。強さとは、決して力ばかりではなく、包み込むような豊かな心によるのだろう。相楽左之助という男を見ていると、自分が如何に矮小かを思い知らされるのだ。
 彼の話をしないで――そんな事を考えてしまう自分のちっぽけさにもうんざりする。
 四乃森蒼紫も、相楽左之助も、他の多くの男達――自分達兄弟と、何処かにいるはずの伯父達以外――は皆、高荷恵と結ばれる権利を持つ。家族であるが故に、こんな夜半にこうして並び合える。家族であるが故に、例えばこのまま寝室を訪ねても、拒まれることはないだろう。しかし、家族であるが故に、それ以上踏み込むことは出来ない。近過ぎて深くはなれないこの距離が、愛しさを募らせる。悲しい程に。

 もしも、この腕で貴女を抱き締められたなら。
 もしも、貴女と抱き締め合えたなら……
 どれだけ貴女を愛したら、この想いは届くのだろう……?

「お休みなさい、征太郎」
 廊下を挟んで向かいの部屋。隔てるは襖分厚い壁だ。互いにこの向こうに行く前に、抱き締めて口づけたいと思う。その想いが、罪悪感を沸き立たせる。
 眠りに落ちれば夢の中で、彼女は微笑んで手を握ってくれる。
「好きだよ」
 想いを口にすると、頬を染めて恥じらいながら、ぎゅっと手を握り締めて答えてくれる。
 言えない言葉。
 伝えたい気持ち――



 翌朝、征太郎はいつもより随分早く目を醒ました。結局殆ど眠れなかった上、幸福な夢を見て酷く気分が悪かった。
 母に、ゆっくり休めと言われてもそんな事が出来る状態ではない。窓の外を見遣ると、思いの外雪が積もっている。
 朝食まで、雪掻きでもして気を紛らわせようと、征太郎は診療所に回った。
 雪は今尚降り続けている。ゆっくりと、ゆっくりと。
 あの日――彼女が三番目の母親となった日に、苦しい日々が終わり、春が来たような心地がした。二番目の母の死後に世話を焼いてくれたのは、母をよく知る男性で、同じ人の死を同じように悼み、苦しみばかりを分け合っていたような気がする。余りに長い冬に降り積もった悲しみの雪を溶かしたのは、新たな母という春だった。
 しかし、新たな母は、知らず知らずの内に冬を連れて来ていた。いや、新たな母への思慕が、冬に導いたのだ。叶わぬ恋という雪は五年をかけて胸に降り積もり、征太郎を凍えさせる。春と冬の狭間で、征太郎は心の置き場所を捉え切れずにいた。
 診察室の前を通ると、開け放たれた戸の向こうに黒い髪が揺れた。それが恵だと、考えるまでもなく解って、征太郎は息を飲んだ。呼吸が止まりそうだった。昨夜の征太郎のように、窓際に腰をかけて雪を眺める横顔が、美しくも儚く見えたから。雪を見詰める瞳が憂いに濡れている。誰を思っているのか、その眼差しが京都や信州に向けられているのか、それが気に掛かる。
「お早う、母さん」
 声をかけると、恵は、まさかいるとは思わなかったと、目を丸くして振り返った。
「昨日と逆だ。どうしたの?」
「早くに目が覚めたのよ。征は、どうして?」
「僕も同じ。折角だから雪掻きでもしようと思っ――」
「おーっ、すっげぇ! すっげぇ積もったぞ! おい、兄貴、葉月、光黄、達幸、起きろよ。真っ白だぞ!」
 母屋から、妙に明るい声が響いてきた。瀧尋が起きたらしい。ふたりは顔を見合わせ、吹き出した。
「瀧、達幸、雪掻きするよ!」
 征太郎は診療所の窓から顔を突き出し、兄弟の部屋に向かって声を張り上げた。
「おーっ!」
 瀧尋の雄叫びは了解の合図だろう。征太郎はひょいと顔を引っ込めた。
「あったかい恰好しなさいね。あんまり寝てないんだから無理しない事。貴方はすぐに頑張り過ぎるから……。雪掻きが終わったら少し寝なさいね。それから――」
「母さん」
 恵が言葉を切ったのは、目の前にいる息子の声よりも、彼の手が突然に自分の手首を掴んだためだった。
「征……?」
「僕……もう子供じゃないよ」
「そうね……。うん、便りにしているわ」
「母さん、十八になったら、僕、此処を出るね」
 静かに笑みを浮かべ、征太郎は恵の瞳を真っ直ぐに見詰めた。
「え?」
 恵は眼を見開いた。
「十八までに一人前になって、母さんに……母さん“達”――三人の母――に教えてもらった事を活かして、南会津に診療所を開きたいんだ。母さんは北で、僕は南で、会津の人々を救うんだ。だから、これからも色んな事を教えて……」
 征太郎が言い終わるより早く、恵は征太郎の首に腕を回して抱き締めていた。温かな身体は、震えていた。
「母さん?」
「貴方は私の、自慢の息子よ……」
 腰に手を添えると、思っていたよりずっと細く、背中には背骨が浮き出していた。
 抱き締めれば折れてしまいそうな、細い身体。



 あぁ、どうか……
 あぁ、この人が幸せでいられますように。雪が溶け、幸福が咲きますように。

 そしてどうか、この胸に積もる雪が溶けて空に還りますように……

 どんなに狂おしい程に愛を抱いても、決して届かぬ想い。

 いつか、春が来たなら……。




fin
どうか春が訪れますように。
悲しい雪が溶けますように。



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