独りでは遠い明日を夜明けのままで越えてゆく。


    夜明け前


 明治十一年、暗殺される直前の大久保利通卿と言葉を交わしたという時の福島県令・山吉盛典は、卿の暗殺後、この国の行く末を案じた。特に、自身の治める福島県は、幕末に新政府に最後まで抵抗した会津藩や、奥羽越列藩同盟に加盟していた福島藩を含んでいる。維新三傑の一角が暗殺され、情勢が不安定になれば、ただでさえ維新以来、朝敵として新政府から虐げられてきた福島県が、益々蔑ろにされることも考えられた。これ以上、県内――特に会津の不安を煽りたくなかった。
 この頃、明治元年の会津戦争以来、消息不明とされていたある人物が、東京にいることが解った。会津藩最後の御殿医、高荷隆生の忘れ形見だ。隆生は戦死が確認されているが、妻と三人の子供は行方知れずとなっていた。高荷家は、幼少の頃から女も医学を学ぶ珍しい家だった。特に隆生は、蘭学を学ぶために一家総出で脱藩した程、医学に対して真摯であった。しかし、その真摯さが裏目に出たか、“医は仁術也”という信念の元に治療を施した敵に斬り付けられて命を落としている。彼の志は、子等に受け継がれていると信じる者は多いが、肝心の子供の生存が長く確認出来ずにいた。末の娘・恵は、偶然に父の殺害される現場に居合わせ、同じくその場にいたという会津の青年がそれを証言しているが、それ以降の動向は掴めていない。その娘が、この度見付かったのだ。出来れば長男が見付かって欲しいところだったが、死亡が確認されるより余程良い。しかも、東京にいるとはいえ、身を固めたわけではない。既に二十二ではあるが、独り身だ。縛るものはない。しかし、会津は辛い記憶を蘇らせる場所故、これまで離れていた可能性もある。戻って欲しいと頼んだところで、断られることも考えられた。山吉は、周到に恵を調べた。断られた時の準備をするためだ。調べる内に、恵が思いの外美しく成長していた事や、街で頗る評判の良い事に驚いた。一方で、この美しく知性に溢れた気立ての良い女が、二十二の砌まで独りであることに些か疑問を持った。故は、警察から漏れた。恵は、通称“東京阿片事件”と呼ばれる、阿片の密造・密売、及びその利益を元にした武器売買に関与していたのだ。恵は、事件の首謀者、武田観柳の愛人だったという。そして、観柳が東京中にばら撒いていた、依存性の高い新型阿片“蜘蛛の巣”を精製していた。恵が死罪とならなかった事には、暗殺された大久保卿の口利きに因るところもあるらしい。恐らく、高荷の末裔として今後を期待されたのだろう。山吉は、恵に会津行きを断られたら、これを盾にすることもひとつの手として考えていた。
「私は、阿片の密造者です」
 初めて恵に対面した時、その艶やかな赤い唇から零れた言葉に、山吉は耳を疑った。最後の――強請の――手段と考えていた、秘密であるはずの事実を、自ら語ったのだ。しかし、その瞳には、深い影が落ちていた。
「本来なら、死刑に処されて然るべき罪人です。それを貴方に隠して、故郷へは帰れません。……いえ、勿論、会津の人々に明かすつもりはありませんが……もし、私が会津に帰るとしたら、罪人を迎え入れるのだという事実だけは、覚悟して頂きたいのです」
 真っ直ぐに顔を上げた恵の澄んだ眼差し、その凛々しく真摯な姿は、正に高荷隆生の気質に相違ない。山吉は、恵の言葉を受け入れ、会津に戻って欲しいと頼んだ。
 恵は僅かに逡巡したが、帰郷を決めた。
「あんたが、ケンレイか?」
 恵と最後の打ち合わせを行った三度目の訪問の後、山吉に声を掛けたのは、見るからに素行の悪そうな大柄の男だった。額に赤い鉢巻き、晒しを巻いた筋骨隆々の身体に引っ掛けた羽織りには、背中に大きく“惡”の一文字。片目を細め、にやにやと口元に笑みを浮かべていた。
「いかにも……福島県令、山吉である。君は?」
「相楽左之助。まぁ……恵の患者だ」
 左之助と名乗った青年は、山吉に右手を示して見せた。派手に包帯が巻かれている。
「患者……か」
「あいつ、会津に帰るんだな」
「あぁ」
 山吉は、訝し気に眉を寄せ、左之助を睨んだ。この不良然とした青年は、自分を脅しに来たのではあるまいか。或いは、武田観柳の元私兵か何かで、彼女の弱みを握っているのか……。
「あ、いやいや、俺は決して怪しいもんじゃねぇ」
 左之助は大きく首を振り、困ったように乾いた笑みを漏らした。それから、真面目な顔をして、
「ただ……あいつの家族が見付かれば良いと思ってる。それには、会津に帰った方が良いんだろうな」
「家族――高荷家の事を、知っているのか? ご家族は生きて……?」
「いやいや、知らねぇよ。だから探してるんだろ。でも、諦めたくないとはいいながら、どっか怖がってるからな、あいつ」
「もし生きていなかったら、と……?」
 山吉の問いに左之助は頷いた。
「私も、それは考えたよ。でも、彼女は生きていた。医者として。それは、私にとっても会津にとっても、希望の光だった。君は……彼女より年下だね?」
「ん? あぁ……」
「なら、幕末の頃の事はあまり知らないかも知れないな。……彼女の父親の事は知っているのかい?」
「名前くらいはな」
 それも、恵が現在助手を務めている小國医師から聞いた事だが。
「斬新で大胆で真面目……でなければ、御殿医の身でありながら、脱藩してまで蘭学を修めようなどと思わない。土佐の坂本龍馬がそうであったように、立場は違えど、新時代を見据えていた人物だ。あの時代、会津にとっての苦難の時代に、彼がいた事は希望の光だった。その志を継いだ者が、今の会津には必要なんだ」
 山吉の言葉に熱が篭る。それは、彼女が新たな希望の光であるということか。左之助は小さく笑った。
「良かった。あいつを、本当に必要としてるみたいで」
 先程までの粗野な雰囲気と違い、左之助は何処か穏やかだった。
「君の先生を、預からせてもらうよ。ときに、君の生まれは?」
「信州だけど?」
「なら、大丈夫だろう。いつでも会津に来ると良い。体力もありそうだし、力仕事でも手伝ってくれたら有り難い」
「……ま、その内な」
 山吉は和やかに笑いかけ、去って行った。
 八月の終わり、早くも秋の風が東京を駆けていた。



 明治十六年十月、会津――
 収穫の季節を迎え、田畑は賑わっていた。黄金色の稲穂は、維新後最も見事に実り、会津の復興を象徴した。昨年からは、廃れていた秋祭りも再開され、元福島県令の山吉も足を運んだ。


「だから、ケンレイのおっさんがそう言ったんだって」
 縁側に腰を掛けて片手に焼き芋をつまみ、膝に乗った小さな女の子をもう片方の腕に抱えて、相楽左之助は答えた。
「ケンレイって…………山吉さん? もう県令じゃないわよ。……って、そうじゃなくて」
「山吉のおっさんの話は良いよ。それより左之さん、手合わせしようぜ!」
「これ食ったらな」
 左之助の正面には、長い髪を束ねた少年が、瞳を輝かせて立っていた。その脇に焚いた火の側に、呆れ顔で火をつつく高荷恵の姿もある。少年は、高荷瀧尋<たきひろ>といった。恵の八人いる養子のひとりで、年齢でいえば三番目の子供だ。
「おっさんて言うな。山吉さんのお陰で、僕達は此処にいられるんだぞ、瀧」
 高荷恵と共に火にあたる細身の少年は、瀧尋を咎めた。恵の養子・征太郎。恵の最初の養子であり、長子だ。
「大体、瀧は左之助さんの影響受け過ぎよ。どんどん言葉使いが荒くなるじゃない」
 左之助の隣りで、左之助の膝に乗る娘の口元を拭いながら、品の良い顔立ちの娘が眉を寄せた。長女の昴だ。逆隣りでは、黙々と焼き芋を頬張りながら、少年が頷いている。
「葉月まで姉さんの味方かよ?」
 少年・葉月は、焼き芋を食べながらもう一度頷いた。
「楓が悪い言葉覚えたらどうするの?」
「いつか覚えるっての」
「うん」
 葉月は、少女の言葉にも頷く。
「瀧! 葉月!」
「昴はホントに母ちゃん似だな」
「かあちゃんにだなぁ」
 膝の上で、左之助の口真似をする幼女を、昴が抱き上げた。
「ほら、もう!」
「昴、良いから」
「母さんは左之助さんに甘過ぎるのよ」
「絶対蒼紫さんの方が甘やかしてるよ、母さんは」
 大きな皿に団子を並べて、昴の後ろから顔を出したのは、三男の光黄。その隣りには、人数分の湯呑みを乗せた盆を持ったおかっぱ髪の少女、次女の紫がいる。紫の後ろから飛び出した五、六歳の男の子は、昴の背中に飛び付いた。五男の達幸だ。
「すばる姉、ぼくもおだんごしたよ」
「そうなの? 頑張ったね」
「はい、達も手伝ってくれた芋団子。今年は甘薯(サツマイモ)の出来が特に良かったからね」
 光黄は、左之助と昴の間に皿を置いて、小皿にふたつ団子を取ると、葉月に渡した。
「ひい、ふう、みい……八人、これで全員か。こうして見ると、やっぱ多いな」
 左之助は、庭をぐるりと見回した。恵と共に焚火の側にいる細身の少年が征太郎。今、十五だと聞いている。裁縫が得意で、医者を目指して勉強中だといっていたか。自分の右隣りの、上品な顔立ちの娘が長女の昴。面倒見が良く、下の子の世話を焼いている十四歳。正面にいるのが次男の瀧尋。背が高く、筋肉もある。顔に傷を持ち、いかにもやんちゃそうだ。歳は昴と同じだが、生まれた時期は遅いため、昴の方が姉ということになっているらしい。斜め後ろにいる三男の光黄は十三歳。手先が起用で料理が上手く、食事の支度は殆ど彼の仕事だ。その隣りは十二歳の紫。以前は病弱だったらしいが、恵の治療で回復したという。今では、病弱だった頃の面影などどこにもない。左隣りは、四男の葉月。十歳だ。昨年、事故で左足を傷め、夏に来た時は杖無しでは歩けない状態だった。今は、引きずりながらではあるが、杖を持たずに歩いているから、回復はしているらしい。昴の背中にしがみついているのが五男の達幸、五歳。恵が会津に戻って最初に生まれた赤ん坊だったという。腕白で、昴の事が大好きだ。昴の膝に乗っているのは末っ子の楓。快活で、好奇心の旺盛さは達幸以上だ。四歳児にしては物覚えも良い。
 ひとりひとりの顔を見ながら、左之助は全員の名前を頭の中で反芻していた。会うのは二度目だが、案外、覚えているものだ。
 焼き芋を平らげて団子をひとつ口の中に放り込むと、左之助は庭に出た。
「うっし、やるか、瀧尋」
「おう!」
「ちょっと待って、焚火消すから。危ないでしょう?」
 恵が言うと、左之助は首を左右に曲げながら、恵の肩を叩いた。
「俺がやるから、団子食えよ。旨かった、流石光黄」
「へへ……」
 光黄は、照れ臭そうに肩を揺らした。
「左之さん、私も一緒に作ったんだよ?」
「ぼくも!」
 名前の上がらなかった紫と達幸が抗議する。
「紫のは形見たら解るな。もうちょっと頑張れよ。達幸の作ったもんは昴のだろ?」
「うん!」
 達幸は、にっこりと笑う。
「もー、光兄みたいにはなれないよ」
「当たり前」
 光黄はふふんと鼻で笑った。
「んなこと言ってると、今に抜かれるぜ?」
「抜かれないよ。料理だけは誰にもね」
「僕が抜こうか?」
 自信を滲ませて征太郎がほくそ笑む。
「冗談でしょ? 征太郎兄さんにそんな事出来るもんか」
「征兄さんは、なんでも一番じゃなきゃ困るのよね?」
 昴が何かを含んだように呟く。
「昴」
 左之助が肘で小突くと、昴は挑戦的な眼差しを向けた。
「あら、左之助さんにしては気遣いのあることですね」
「お前、本当に母ちゃんにそっくりだな」
「褒め言葉としてとっときます」
 左之助はちらりと恵を見た。恵は小さく肩を竦めた。
「兄さんには負けないよ。僕が兄さんに勝てることなんか、料理くらいだし」
「ひとりひとつで良いの。天は二物を与えないものよ」
「母さんが言うかなぁ。その美貌と知性と……料理だって上手いし、信奉も厚いじゃない」
 羨ましい、と紫が零す。
「確かに、母さんに敵うものなんかひとつもないわね」
昴は溜息を零すように言った。当たり前だ、と、征太郎や光黄が茶化す。
「そんなことないよ。昴姉さんや紫姉さんだって、母さんに負けないこと、あるよ」
 もそもそと団子を頬張りながら、葉月が微笑む。「それって?」と瀧尋。
「姉さんの素直さと、紫の天真爛漫さは、母さんにはないって蒼紫さんが言ってた」
「昴が素直?」
 征太郎がくすりと笑う。昴は眉を吊り上げて征太郎を睨んだ。
「蒼紫の言う通りね。昴は私によく似てるけど、素直だわ」
 恵は、先程まで左之助が座っていた所に腰を下ろし、昴の髪をくしゃりと撫でる。
「そう……かな……」
「楓や達幸が昴を大好きなのも、町の子達が昴を慕うのも、昴が素直で優しいからよ。幼い子程、真っ直ぐな感情に敏感だから」
「なるほど、僕は町の子達には好かれないもんなぁ……」
 光黄は溜息をついた。
「そんなことないわ。ただ……ちょっと取っ付き難いかも知れないわね。私はそんな光黄も好きよ」
 恵は穏やかに微笑みを浮かべた。
「ん…………」
「母さん、俺は?」
 思いがけない言葉に、光黄は顔を赤らめた。すかさず、葉月が身を乗り出す。
「勿論、好き」
「かえは?」
「楓も好き。達幸も、紫も好き。瀧尋も昴も、征太郎も皆大好きよ」
 恵の隣りで焚火を消しながら、さっきまでむくれていた征太郎が頬を染める。
「……一番素直なのは征太郎かもな」
 左之助が漏らした言葉に、昴と光黄、紫、葉月は顔を見合わせて笑った。
「左之助さんは?」
 母は、彼の事を口にしなかった。素朴な疑問だったのか、瀧尋はあっけらかんと問う。火を消しながら、左之助はふと恵を見遣る。
「そりゃぁ、好きよ」
 当然とばかりに恵は答え、瀧尋の質問があたかもおかしなことのように、くすくすと肩を揺らして笑った。
「だよな! 俺も、左之さん、すげー好き!」
「知ってる。ありがとな」
 左之助は、ぽんぽんと瀧尋の頭を軽く叩いた。
「なぁ、左之さん、左之さんもずっと会津にいてくれよ!」
 瀧尋は、左之助に拳を突き出した。左之助は肘で軽くいなし、足を払う。一瞬、体勢を崩しかけた瀧尋だったが、宙で一回転すると、地に足が着くや否や、すぐに左之助に殴り掛かった。どんな体勢でも倒れる事のない身軽さは、瀧尋の大きな武器だ。足裁きの速さ、切り返しの鋭さは、誰にも真似出来ない。
「まぁ、会津も良いとこだしなぁ……」
「力仕事手伝ってくれるのは有り難いわね」
 そろそろ往診の時間だ。恵は芋団子をひとつ食べると、立ち上がった。
「だよなー。俺、左之さんに家族になって欲しい!」
 言いながら飛び上がった瀧尋の蹴りをかわし、左之助は思わず動きを止めた。
「な――」
「ふふ、左之助が長男なんて、征太郎が許さないんじゃない?」
 笑いながら光黄を振り返り、
「美味しかったわ、光黄」
「う……うん」
「往診に行ってくるから、皆、後は頼むわね。左之助、瀧尋、程々にしときなさいね」
 ぽかんとする子供達を置いて、恵はいつもと変わらず往診に向かった。

「…………本気で言ってた?」
 暫しの沈黙の後、最初に言葉を発したのは紫だった。
「何が?」
 瀧尋は首を傾げた。その隣りで、左之助ががっくりと屈み込む。
「自覚無しか、瀧尋」
「あるわけないですよ、瀧兄さんに。あと、母さんも本気だよ」
 光黄は呆れ顔で溜息をついた。
「この五年、蒼紫さんとの事を散々言われてきたものね。そういう事を言われるのは蒼紫さんに関してだけだと思ってるんじゃない?」
 昴は、自分の考えは当然正解とばかりに頷いた。
「そんなわけないだろ?」
「僕も姉さんの言う通りだと思うよ」
「蒼紫さんと母さん、お似合いだし。けど、意外と健水さんとはそういう話にならないよな。健水さんも恰好良いと思うんだけど」
「葉月は知らないんだ? 最初は健水さんも噂されてたんだよ。ね、姉さん」
 紫は楽しそうに昴を見た。葉月も興味津々といった様子で昴を見遣る。
「そうそう。でも、いつの間にか消えてたわね。あの人は母さんには吊り合わないって、みんななんとなく悟ったんじゃないかしらね」
 昴は勝ち誇ったように微笑んだ。
「健水さんは、他に気になってる子がいるからだよ」
 光黄が溜息混じりに付け加えた。
「それに、これは僕の持論だけど、僕達の家族になる可能性があるとしたら、蒼紫さんか左之助さんのどちらかだけだよ」
 征太郎は、不満そうに外方を向く。
「ふん、誰にしたって、僕より年上なら、今更養子になる必要ないだろ。僕は高荷家の長子だ。それだけは変わらない」
「ま、そうだよな。兄さんや姉さんだって、別に独り立ちしてたっておかしくない年だし、兄さんより年上の兄弟って、なんか変な感じがする」
 征太郎の言葉に、瀧尋が頷く。瀧尋を納得させられた。征太郎はにやりと笑ったが、幼い達幸と楓を除いた他の兄弟達は、呆れや不満を露わにして征太郎を睨んだ。
「白々しいわよ、兄さん」
「征兄さんもさることながら、好い加減、瀧の鈍さにもうんざりするぜ」
 昴と葉月が、溜息をついた。
「何だよ、葉月。どういう意味だ!?」
「瀧兄さん、家族、即ち兄弟じゃないでしょう。僕達の父親かも知れないんだから。つまり、母さんの――」
「あっ! え、あぁ、そうか、そういう事か!」
 光黄の言葉を受け、漸くこれまでのやり取りの意味を理解した瀧尋は、急に顔を真っ赤にして慌てふためいた。
「左之さん、ごめんなさい! いや、でも、左之さんが父さんなら嬉しいけど……」
「別に良いけどな、俺は、お前ら良いと思うし、好きだしな」
「かえもスキ?」
「当たりめぇだ」
 左之助は、昴に歩み寄り、膝の上に座る楓の頭を撫でた。きゃっきゃとはしゃぎながら、楓は両腕を伸ばした。左之助はふと昴に視線を送る。昴が「良いわ」というように頷くと、楓を抱き上げて肩に乗せた。
「で、光黄の持論の根拠はなんなの?」
 背中にのし掛かっていた達幸を膝に導き、昴は光黄を見遣る。光黄の涼しげな眼が、秋の陽射しに煌めく。
「名前、僕の事、養子になるまで『光黄君』って呼んでたんだ。達幸は『達幸君』、瀧兄さんや葉月もそう。紫だって、『紫ちゃん』とか呼ばれてたんだろうし、兄さんや姉さんもそうだよね?」
 穏やかながら含みのある笑みを浮かべ、征太郎は問う。
「そういえば……“あの時”初めて『征太郎』って呼ばれたな……」
 思い起こすのは、彼女が自分に、自分の子供にならないかと言った時。それぞれ、同じように家族として迎え入れられた時の事を思い出していた。
「東京の明神弥彦の事は『弥彦君』だし、抜刀斎の奥方は『薫さん』、蒼紫さんの婚約者は『操ちゃん』、抜刀斎は――多分、本当は違う呼び方なんだろうけど――『緋村さん』。蒼紫さんの事、普段は『四乃森さん』なんて呼ぶけど、ふたりになったり、咄嗟に呼ぶのは『蒼紫』でしょ? 左之助さんに至っては、『左之助』って呼ぶところしか聞いたことない」
 光黄は自信満々に語った。皆、確かに、と納得する。
「母さんは、特別なひとしか呼び捨てにはしないんだよ」
「健水さんの事も、『健水君』て呼ぶよね」
「そういえば! じゃぁ、やっぱり蒼紫さんか左之助さん!?」
 紫が興奮気味に喰い付いた。
「左之助さんには無理よ、母さんは」
「なんでそう思うの、昴姉さん?」
「……女の勘? 私は光黄みたいに利口じゃないけど、母さんに一番近い思考力があるんからね、なんとなく解るのよ」
 勝手に断言してみたものの、葉月に訳を聞かれて、昴は慌てて答えた。しかし、兄弟で一番“母親似”の昴は、見目や口調だけでなく、考え方も母に似ている。説得力のある話だった。
「俺は父さんは断然左之さん! 強さが違うし、何たって世界を股にかけた男だぜ」
「蒼紫さんも強いじゃないか」
「だって蒼紫さんは、そういうのあんまりしてくれないし」
 血の気の多い瀧尋には、冷静な蒼紫が物足りないらしい。
「私も、左之助さんがお父さんだったら嬉しい!」
 言ったのは、紫。しかし、
「俺は、もし父さんが出来るなら、蒼紫さんになって欲しい」
 葉月が反論した。
「僕も!」
 解っているのかいないのか、達幸も同意の手を挙げる。
「当然だわ。左之助さんが逃亡していた五年間、母さんを支えたのは蒼紫さんなんだから」
「支えた、ねぇ……」
「何よ、光黄?」
「別に。僕は誰でも良いよ。母さんを幸せにしてくれるならね。それが蒼紫さんだろうが、左之助さんだろうが」
 光黄は、いつもの含みのある微笑を浮かべた。
「幸せ、なぁ……」
 夫候補に挙げられながら、他人事のように話をぼんやりと聞き流していた左之助は、光黄の言葉にふと声を漏らした。八人の子供達の視線が注がれた。
「幸せ、が、なんですか?」
 征太郎の冷ややかな声が、秋風に溶ける。左之助は小さく笑った。
「いや、あいつの幸せって、おめぇらが幸せでいる事じゃねぇの? 俺とか蒼紫とか、関係ねぇよ」
 左之助の大きな手が、敵対心剥き出しの征太郎の頭を撫でる。征太郎は、左之助の手を払い除けた。
「俺がいたら、おめぇは幸せじゃねぇだろ、征太郎」
「当たり前だ!」
「兄さんはどうでも良いよ、俺は、左之さんがいたらすげー幸せなんだから」
「私も」
 瀧尋と紫は、瞳を輝かせる。
「私は、幸せじゃないわ。いてくれるなら、蒼紫さんが良い」
「俺も、蒼紫さんの方が良いなぁ」
 負けじと、昴や葉月が反論する。子供達は口々に主張を始めた。
 賑やかな声が、朱い夕空に響いていた。




 子四つを回り、恵は帰ってきた。途中、征太郎や健水とそれぞれ合流したものの、戌の刻には戻らせた。
 恵が診療所裏の自宅に帰ってきた時、子供達は既に寝静まっていた。どれだけ自分の帰りが遅くても、亥三つには床に着くことは、恵が五年前から子供達に言い付けてきた事だ。年長の者が従えば、下の子供達もそれに倣う。征太郎や昴、瀧尋、光黄の四人は、最初は皆遅くなっても構わないからついて行きたいと言ったが、恵はそれを許さなかった。
 夜風が穏やかだった。恵は子供達の部屋を覗いて寝ていることを確認すると、縁側に足を向けた。昼間、子供達と過ごした場所。自室から広縁に繋がる障子を開くと、逆立った髪が目の前に現れた。左之助が、柱にもたれ掛かっていた。眠っているようだ。
 恵は足袋を脱ぎ、裸足で庭に下りた。月明かりに照らされた左之助の顔に濃い影が落ち、左之助の顔立ちを一層はっきりと浮かび上がらせた。思ったより、整った顔。彼はこんな風だったろうか。引き締まった眉目、日に焼けながらも滑らかな肌、案外、睫毛が長い。
 いつかと立場が逆だ。あの時は此処にこうして自分が寝ていて、彼は起きていた。
 年に何度か――何度も――訪ねて来ては色々と手伝ってくれる四乃森蒼紫とはまるで正反対の、感情的で熱い男だ。夏の初めに会津に来た時、彼は力仕事を手伝ってくれた。僅か八日ほどの滞在だったが、家が一軒建った。簡素な家ではあるが、ひと家族が雨風を凌いで生活をするには十分だった。彼が易々と木材を運ぶので、大工の仕事が大いに捗ったようだ。彼は、あっという間に会津の人々に気に入られた。五年前に比べれば、会津も大分豊かになり、人々に他所者を受け入れる余裕が出来たことも理由のひとつではあるが。ともかく、往診先で左之助が来たと話したら、「隅に置けない」と囃された。そうだ、彼もそういう対象になる男だったのだと、その時思った。昼間、瀧尋が言った事にそんな意味合いが含まれていたとは思わないが、葉月くらいまでの子供達は、そのように捉えたことだろう。自分が出掛けてからは、蒼紫を気に入っている昴と、左之助を気に入っている瀧尋を筆頭に、どちらが良いかと盛り上がっていたのではなかろうか。
 ……どちらでも良い。別に夫など望みはしないけれど、彼等が父親を望むなら、誰かと夫婦<めおと>になっても構わない。彼等が、今は人生の総てだ。
 恵は目の前の青年に手を伸ばした。触り心地の良い肌。指先で、それから掌で包むように頬を撫でた。
「ん……」
 ぴくりと睫毛が揺れ、ゆっくりと瞳が開かれた。恵は右手を彼の頬に当てたまま、顔を覗き込んだ。
「おはよう」
「ん、お帰り。遅かったな」
「布団で寝たら?」
「あぁ……」
 左之助は目を擦り、大きな欠伸を零しながら頷いた。
「此処、気持ち良いからな。つい寝ちまった」
「そう。……お風呂は入ったの? 湯冷めするわよ」
「大丈夫。お前こそ、大丈夫か? 疲れてんな」
 左之助はそっと恵の手を取り、立ち上がった。左之助が細めた瞳は、慈愛に満ち、月に煌めく。恵は、眉を寄せた。
「どうした?」
「………………貴方は、誰?」
「……は?」
 左之助は目をしばたたかせた。
「何言ってんだ?」
「なんだか、知らない人みたい。相楽左之助って男は、こんな風だったかしら……」
「それを言うなら、お前も同じだろ?」
 左之助の指が、恵の頬に触れる。
「ケンレイのおっさんにお前が会津に戻らないかって言われてた時、この先どうなんのか、俺には想像もつかなかった。八人も養子抱えてるなんて、考えもしなかった」
「それは、私も」
 恵はくすりと笑う。
「……お前は、すげぇ女だよ」
「ふふ、有り難う」
 微笑む恵を縁側に座らせ、左之助は自分も隣りに腰を下ろした。
「これ……返しとくな。ありがと」
 左之助は、腰に結んだ小さな袋から小箱を取り、恵に差し出した。左之助が出立する前夜、恵が渡した高荷家秘伝の血止め薬だ。
「これのお陰でおめぇの世話になったっていうジョンにも逢えたし、助かった」
 左之助が世界に出た時、この小箱を持っていれば、それを恵に与えたアメリカ人医師の助けを借りられるだろうと考えてのことだった。
「それは良かった。ターナー先生はお元気?」
「元気過ぎるぜ。アメリカ発つ時にゃ、一緒に行くってきかねえんだからな」
「先生らしい」
 恵は笑いながら掌に小箱を受け取る。瞬間、恵は顔を曇らせた。
「使ってないの?」
 蓋を開けると、箱に詰められたまま使った形跡のない塗り薬が納まっていた。
「……いや、使った。使って、新しく入れた」
「まさか……だってこれは、我が家に代々伝わる秘薬なのよ? 同じものなんて――」
 恵は薬を指に取り、月に翳す。眉を寄せ、よくよく見るが、高荷の秘薬に違いない。微かに違う薫りが混じってはいるが、九割九分、同じものだ。
「これは……どういうこと? 海外に、同じものを作れる人がいるの? 薬の成分を割り出すとか……そういう技術が発達しているのね?」
「さぁな」
 左之助は、異国の先進的な医学を思い描いて頬を紅潮させる恵を前に、笑顔を歪めた。飲み込んだ言葉は、腹の底に重く沈む。
「春になったら、日本に来るはずだ」
「これを作った人が?」
 瞳を輝かせた恵に、左之助は曖昧に頷いた。
「……どうしたの? あんたの嫌いな人なの?」
「ま……そうだな。何度ぶん殴ろうと思ったか知れない」
「しなかったのよね?」
「たりめぇだ」
 左之助が吐き捨てると、恵はくすくすと笑い、胸の前で大切に小箱を包んだ。
「良かった……逢わせてちょうだいね、その人に」
 恵はそっと、左之助の肩に寄り掛かる。左之助はぐっと奥歯を噛み締めた。左之助の肩は、震えていた。
「左之助……?」
「恵……お前、幸せか?」
「勿論。子供達も元気で、みんな素直で……会津も順調に変わってるわ。山吉さんもそう言っているし、これから、会津はもっともっと変わるはず。楽しみよ」
「なら、良かった。でも――」
 左之助は、恵の頭に額を押し付けた。
「でも、俺はあいつを許せねぇ」
「…………“あいつ”?」
 左之助の手に力が篭る。彼が何を堪えているのか、恵には解らなかった。手の中で、小箱に彫り込まれた赤紫色の花の絵が、月に鮮やかに光る。
「なんだかよく解らないけど、喧嘩っ早いあんたが、憎い相手に殴り掛からなかっただけでも大した進歩じゃない」
 恵は、左之助の中に渦巻く感情を、静かに受け止めようとしていた。荒々しく、常に猛る炎のようだった彼が、随分と落ち着いたものだ。五年――変わったのは、会津だけではない。成長という変化を遂げる若者に寄り添いながら、恵は何故か取り残されるような空虚さを覚えた。
 いつしか月は西へと滑り、東の空が白み始める。五年前、彼とこうしてこの場所で朝を迎えた。旅立つ彼を見送ったけれど、その時程心細いと思ったことはない。ほんの半年足らずだが、彼は当たり前のように側にいた。恋人でもなく、友達というわけでもなく、けれど医者と患者というだけでもない。同志、仲間、敵、味方、どの言葉も当て嵌まり、また、どの言葉も適切でない、不思議な間柄だった。
「俺が帰った時お前が独りだったら――って、言ったよな?」
「え? あぁ……そうね、言ったわ」
 急に、彼が旅立つ直前にしていた話に触れられ、恵は驚いて顔を上げる。目の前で、彼の睫毛が揺れた。思いの外、彼は近くにいた。
「けど……独りじゃなかったな」
 左之助の瞳に灯る光は明るく穏やかだった。
「…………どういう、意味?」
 暗に、蒼紫との関係をいいたいのか。子供達から、何か聞いたのだろうか。訝る恵に、左之助はにやりと笑って見せた。
「五年で、ひとりから九人になったじゃねぇか」
「あ……えぇ、そうね。私も、なかなかやるでしょう?」
「流石だな。世界は広かったけど、お前より逞しい女はいなかった」
「それ、褒め言葉なの?」
 むくれる恵に、「当たり前だろ」と笑い飛ばす。穏やかな秋の風に吹かれながら、ふたりは瞳を見交わした。
「十人目がいた方が子供達が幸せになれると思うなら、その時は遠慮なくいえ。京都の野郎引っ張って来いってんなら走ってやるし。……今度は、俺が待っててやる」
 ああ、全く。
 恵は左之助の肩にもう一度身体を寄せた。
「はぁ……あんたは本当に、“相楽左之助”なの?」
「俺を誰だと思ってんだ?」
「……“相楽左之助”」
 確か、世界一の男になって帰って来いと言った筈だが、果してどうなのだろう。
「秋祭りまではいてちょうだい。みんな喜ぶわ」
「征太郎と昴が嫌がりそうだけどな」
「直ぐには無理だけど……大丈夫だから」



 視線が絡みあっても、それ以上に触れることは望まない。五年かけて大人になったのか――共にいた時間より、離れていた時間の方がはるかに長いというのに、当たり前のようにふたりは互いの側にいる。
 長く夜明けを迎えることのなかった会津に、漸く日が差すようになって来た。ひとりでは長い夜も、九人で過ごせばあっという間。もう、怖くはないと女は微笑う。


 ひとりで越えるには余りに遠い明日。
 八人の子供達と越えた時、新しい太陽の下に誰かの影が差すことを、この時は誰も知らずにいる。

fin
家族が幸せならば、それで良い。
互いが互いの幸せを願い、互いを求め合う。
“あとひとり”――もしかしたら、もうひとり。



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