今はただ、この気持ちを絶やさないように。
 もっと強く……


    君に触れるだけで


 明治十一年九月、会津――
 女は鳩尾に拳を押し付け、深く息を吐いた。微かに空気が白く淀む。目の前にある、この粗末な木戸を開ければ、すぐさま怒号が飛んで来ることは解っていた。運が悪ければ殴られる事もある。それは、このひと月足らずの間に、もう十回は経験していることだった。それでも、開けないわけにはいかない。自分の使命だと女は自らに言い聞かせた。
「ごめん下さい」
 思い切って、普段よりも大きめの声で呼び掛ける。しかし、返事はない。いつもなら、木戸越しに怒声が響き、開けると罵られるのだが。
「ごめん下さい」
 繰り返すと、部屋の家の中から人の動く気配が感じられた。
「はーい」
 幼くか細い声が耳に届く。
「高荷です」
「どうぞー」
 答える声に、女が戸を引くと、部屋の隅で華奢な少女が立ち上がり、足元をふらつかせながら駆けて来る。
「恵先生ー、いらっしゃい!」
 女、高荷恵は、転がるように胸に飛び込んできた少女を柔らかく抱き寄せた。
「こんにちは、紫ちゃん。今日は顔色が良いわね」
「うん! 昨日はお父が、上手に煮物作れたから、いっぱい食べたの」
 屈託なく笑う少女の擦り切れた着物の合わせから、痩せた胸についた青痣が覗く。恵は、今すぐにでもこの少女を連れ去りたいという衝動に駆られた。
「お父さんは?」
「もうすぐ帰ってくるよ」
「そう。あのね、お薬を持って来――」
「いらねぇよ」
 背後から、野太い声が聞こえた。かと思うと、背中に垂れた髪ごと襟首を捕まれ、後ろに引っ張られた。恵は少女を抱えたまま地面に投げ出され、強かに腰を打ち付けた。
「っ……」
「先生、大丈夫!?」
「くっ……大丈夫……」
「お父、なんてことすんの?」
 少女の父親は、少女を恵から引き離した。
「とっとと去ね」
「ちょっと待って! 紫ちゃんの薬を――」
「いらねぇっつってんだろ! 毎度毎度、鬱陶しい女だな。犯してやろーかっ!?」
 男は紫を下ろし、恵の胸倉を掴んだ。自分より十は年上の、自分より五寸は背の高い男に凄まれながらも、恵は全くたじろぐ事さえなかった。
「紫ちゃん、少し待っていてくれる?」
 恵は少女、紫に笑みを向けると、男の手首を掴んで歩き出した。
「離せ、クソアマ!」
「すぐに済むから来てちょうだい!」
 声をひそめながら強く言い、男の腕を引く。男は尚も喚いたが、恵は構わず男を引っ張り、家から離れた茂みまで移動した。
「何なんだ、テメェ」
「好い加減にしなさい! 私に暴言を吐くのは構わないけど、あの子のいないところでして!」
「はぁ?」
 奥歯を喰い縛り、男を睨めつける。男は、恵の意図を解せずにいた。
「貴方はあの子の父親なんですよ! あの子が聞いて傷付く言葉を、あの子の前で口にしないで下さい」
 キリリと釣り上がる目元に、強い意志と責任感が浮かんでいる。男は眉を寄せた。
「この会津で、ただ生きてゆくことさえ大変なこの郷<くに>で、ひとりであの子を育てている貴方は立派です。でも、あの子にあたったり、あの子が傷付く事はしないで下さい。あの子が聞いて傷付くことも、口にしては駄目!」
 厳しい口調で言われ、男は圧倒されていた。
「……何を言ってやがるんだ?」
「貴方はあの子のたったひとりの家族なんですよ! あの子を守るのが貴方の務めではないんですか?」
「俺があいつの事を考えてないとでも言いてぇのか!?」
「考えているのなら、“あんな事”言いません!」
 ――あんな事?
 紫の側から離れる直前、この女に何を言ったか。男は考え、暫くして思い当たる。確かに下品な言葉だが。
「んなもん、言葉のアヤじゃねぇか」
「そんなわけないでしょう? 今は意味が解らないかも知れないけど、いつか言葉の意味を解した時、自分の父親がそんなことを口にしていたと思ったら傷付くわ」
 恵に言い切られ、男は反論の言葉を飲み込んだ。
「それから、薬、紫ちゃんに飲ませてあげて」
 薬の瓶を突き出すと、男は顔をしかめた。
「そいつはいらねえ。金はねえって言ってんだろ?」
「お金はいらないと言っているでしょう?」
「後から足元見た値段吹っ掛けてくんだろ? 医者なんざみんな一緒だ。忠告は聞いてやるが、薬はいらん。とっとと帰れ」
 男は恵の肩を突き飛ばし、さっと背を向けた。恵は地面を転げ、腕を擦りむいた。男はそのまま、振り向きもせず去って行った。



 恵が会津に戻って、間もなくひと月。このようなことは日常茶飯事だ。
 高荷家は、室町から代々続く医師の家系で、江戸中期には藩主に認められ御殿医となった。御殿医は、藩主やそれに仕える上位の武士のために働くものだが、高荷家は、身分に関わらず藩主から農民まで平等に医療を施すことで知られていた。当然、上位階級の者からは批判を受けたが、“医は仁術なり”として聞き入れることはなかった。一度は御殿医の位から外された事もあったが、数年で再び同位につき、幕末まで会津の民のために医術を学び、優れた医療を提供し続けた。特に、会津藩最後の御殿医であり、恵の父親である高荷隆生は、医術は元より、医学への姿勢やその人柄から、“医聖”として知られ、奥羽越のみならず全国の医者から生ける理想と言われた。隆生が会津戦争で戦死したという報せは、瞬く間に日本中の医師に知れ渡ったのだった。
 父は死に、母とふたりの兄は戦火の中で行方知れずとなり、恵は十一歳で天涯孤独の身となった。その後すぐに会津を離れ、新潟や信州を経て五年後に東京に辿り着いた。医者の助手となったつもりが利用され、三年近く、何も知らずに新型阿片の精製に加担していた。その医者が、利益争いで阿片を密売していた実業家・武田観柳に殺害されてからは、観柳の下に軟禁され、阿片を二年間作り続けた。たったひとりで。誰にも精製法を教えず、ひとりで作り続けたのは、少しでも阿片の生産量を下げようという抵抗だった。上京から五年後の明治十一年四月、恵は観柳の邸から助け出され、善良な町医者の助手として働くようになり、漸く幸福な生活を得た。この時、恵を助けるために観柳邸に乗り込んで来たのが、流浪人・緋村剣心、喧嘩屋・相楽左之助、少年剣士・明神弥彦の三人であった。自らの罪の重大さを受け止め、一度は死刑に処される事も仕方なしとして、警察に出頭しようとした恵を、医者として働き、償いの道を生きるよう導いたのが、剣心であった。剣心は、幕末の動乱期、長州派維新志士として主に暗殺業につき、飛天御剣流抜刀術によって多くの佐幕派を斬り伏せた伝説の人斬り・緋村抜刀斎その人であった。桂小五郎らに命じられるが侭に、修羅さながらに名も知らぬ者達を殺め続けた後、峰と刃を逆さにした“逆刃刀”を手にした剣心は、幕末のほんの数年の内に奪った命への償いとして、目に映る人々を救いながら、十年間、日本中を流れていた。贖罪は、生きながら亡き者と向き合う苦痛の道。それでも瞳に温かな光を宿し、真っ直ぐに生きる剣心の痛みと優しさに惹かれ、恵は生き抜く事を決意した。剣心への思慕や尊敬はいつしか恋情へ変わり、彼の妻となる事を夢見た事も僅かながらあった。しかし、彼の隣りにあるべきは自分ではないと悟り、彼を慕う少女・神谷薫に彼を託して身を引いた。そして同年八月末、恵は福島県令の要請を受けて会津に戻って来たのだった。
 幕末、最後まで新政府に抵抗した会庄同盟及び奥羽越列藩同盟に参じていた藩は、戊辰戦争終結後、政府からの差別を受けた。特に同盟心であった会津藩に対する警戒は強く、廃藩置県においても会津の名を残すことをしなかった。会津の名を奪うことで、敗北を知らしめたといえる。そして、新政府は戊辰戦争後、様々な手を使って会津の復興を遅らせた。西南戦争を経て、奥羽が再び結託することを恐れ、更にその動きを強めた。取り分け、食料と医療を与えることを避け続けた。だからといって、露骨に会津を差別し続ければ、それこそ恨みを買うことになる。会津に救いの手を差し伸べ、復興の手助けをする“振り”も忘れず、巧みに会津から反政府活動の力を削ぎ続けたのである。政府の目論見通り、会津は戦後十年を過ぎても飢えと病に悩まされることとなり、政府に立ち向かう力も財も持てずにいた。
 会津から、医療を徹底的に遠ざけた政府が福島県令の“高荷恵派遣”の動きを許さざるを得なかったのは、恵が医者として認められていないことにあった。明治七年、医師を免許制とする制度が導入されたが、この時、女性の受験は認められておらず、恵は免状を得ていなかったのである。自ら医療所を開業するだけの実力を持ちながらもそれが出来なかったのは、恵が政府から開業医として認められていなかったためだが、これは会津にとっては好機であった。恵が医者でなければ、医師の派遣とはならず、恵はただ帰郷するだけの事。死亡の確認されていない高荷隆生の長子・隆彦<りゅうげん>の診療所と免状を、さも以前から存在したかのようにでっち上げ、恵はそこに名目上“助手”として務めることとなったのだった。県令がそこまで根回しをする必要があったかどうか、恵は些か疑問に思ったものだが、県令は恵の活躍にかけ、万に一つも政府に横槍を入れさせることのないよう、周到に作戦を練ったのだった。
 かくして会津に帰郷した恵だったが、十年間、地獄のような生活を強いられ、荒れた田畑を耕すことさえ儘ならなかった会津の人々に易々と受け入れられるはずもなく、最初の二週間は、殆ど朝から晩まで会津を奔走することとなった。
「恵ちゃん、大丈夫?」
 恵が紫の家から離れて暫くすると、中年の女性が走ってきた。手足はがっしりと太いが、頬は削げ落ちている。労働と飢えの過酷さが、眼に見えて解るのに、女性の物腰は柔らかく、恵をいたわる眼差しも温かい。
「えぇ、ごめんなさい、大きな声を出させてしまって……」
 女性は紫の家の極近くに住んでいて、『はなさん』と呼ばれて親しまれている。昔は恵の母とも仲が良く、恵も世話をしてもらった覚えがあった。帰郷してすぐの頃から、恵に何かと気をかけてくれる心強い存在だ。
 はなのように、幼い頃の恵を知る者もあったし、隆生の忘れ形見である恵に救いを求めるものも多い。しかし、紫の父のように人を信用することなどまるで出来ず、金は要らないといっても薬を受け取らない者も多くいた。信用を得ることは容易ではなかった。それでも、二週間で会津の半数近くの信頼を得ることが出来たのは、恵の努力の賜物と言って良いだろう。“高荷”の名に助けられたとはいえど。




「お早うございます、京平さん、征太郎君」
 会津の、町とも言えない町の中程にある小さな掘っ建て小屋に、恵は顔を出した。小屋の中では、二十代半ば程の青年と、痩せた少年が座っていた。少年は恵を見るなり、手にしていた針を針山に刺し、恵に駆け寄った。
「お早うございます、恵先生! 今日は、お手伝いすることありますか?」
 明るく瞳を輝かせる少年は、しかし、恵の手元を見るや眉をひそめた。
「怪我してる……大丈夫ですか、恵先生?」
 恵は、手元に視線を落とす。指先に血が滲んでいた。先程、突き飛ばされた時に摺り剥いたのだろう。
「大丈夫よ、このくらい」
「また、紫ちゃんとこですか? あの親父さん相手にしてたら身がもちませんよ。先生に何かあったら、俺達みんな困るんですからね」
 青年は立ち上がり、ふたりの側に歩み寄ると、少年の肩に手を置いた。
「ところで、征、先生と話がしたいんだ。留守を頼む」
 青年は、征太郎少年の脇を抜け、恵を促して小屋を離れた。征太郎は憮然とふたりを見送っていたが、ふたりの姿が見えなくなると、また針を手にした。
「京平さん、どうかしましたか? 征太郎君に何か……?」
 恵を連れ出した青年・水鳥京平は、町から離れた人気のない林の側まで来ると、足を止め、恵と向き合った。
「先生、征太郎、要りませんか?」
「…………え?」
 突然の言葉に、恵は眼を丸くした。思いがけない言葉だった。
 松原征太郎は、先日母親を亡くし、母親の兄である京平と暮らしている。恵が会津に戻った頃から恵を慕い、度々診療所に来ていた。背の高い、どことなく愛らしい顔立ちの少年で、恵も可愛がっていたのだが。
「何故……妹さんの息子でしょう?」
「あー……やっぱり知りませんか。この間死んだあいつの母親の“まり”はね、他界した俺の妻の妹なんですよ。だから、血は繋がってない。それどころか、あいつの母親は会津戦争で殺されてて、たまたま通り掛かったところを俺達が拾ったんです。まりが育てるというから任せただけなんですよ」
「…………それを、征太郎君は……?」
「征太郎どころか、みんな知ってますよ」
 京平は、当然とばかりに吐き捨てた。恵はぐっと唇を噛む。
「俺だって、あいつが可哀相だと思います。身重の女を囲んで、長州訛りの奴らが言うんですよ、『この女の腹の子が、男か女か賭けよう』と。それで腹を裂かれて引きずり出されたのが征です。俺達は戦火の中を逃げながら、あいつの本当の母親が殺されるのを見てたんですよ。あいつも殺されそうになってたところを、会津側の侍だかが来て助けてくれた。なんとかつなぎ止めた命です。良い子に成長してくれて良かったとも思います。でも……俺も限界なんです」
 殆ど息もつかずに一気に言った京平の声は、酷く震えていた。
 恵は最早何も言えなかった。何も知らなかった。戦場という歪んだ世界が産んだ残忍な遊戯。生まれ、生きているだけでも奇跡のような。
「俺、近々会津を出ようと思ってます」
「な……」
「新潟にいる知り合いの酒蔵で働こうと思ってるんです。俺ひとりいなくなるだけでも、会津は少しは楽になるし、俺には虎さんみたいな技術もないんで、外で働いて金を送るくらいしか考えられない。……すぐじゃなくて良いんで、考えといて下さい。あいつ、恵先生のこと好きですし、先生なら安心して任せられるから……」
「京平さん……」
 どうにか穏やかな顔を作って微笑んで見せると、京平は軽く頭を下げて去って行った。
 泣いていても始まらないことは解っている。しかし、泣きたくなるような事は山程ある。
 押し付けられた悲劇が、人々の心を蝕んでいる。新政府が是であるために、切り捨てられた郷。誰もが自分や家族の命を守るために精一杯で、他の者に与える力など持っていない。ある者は家族を守るために他人に牙を剥き、ある者は互いが生きる伸びるために家族を手放そうとする。
 それでも、紫や征太郎はまだ恵まれているのだろう。親を失った身寄りのない子供達が、山賊紛いの略奪行為を働いて生きているともきく。まだ逢ったことはないが。これが、会津の現状だ。すぐに何もかもが変わるとは思っていない。
「あっ、いたいた!」
 遠くから声がする。声の方に顔を向けると、若い男がひとり、恵に向かって大きく手を振っていた。
「恵先生ー、材木置場で曜さんが怪我した! すぐ来てくれ!」
 遠くからの呼び声に、恵は手を振り返す。足を前に投げ出した瞬間に、頭の中がぐらりと揺らいだが、なんとか踏ん張って男に続く。
 問題は次々やってくる。ひとつひとつ向き合う事で、会津の人々に受け入れられる実感はあった。しかし、まだ会津に差す光明の兆しさえ、恵には見えていなかった。



 松原征太郎にとって、最大の悩みの種といえば、自分の身の振り方だった。自分の出生が、他人から同情を買いやすいことは解っていた。それで、養母亡き後、殆ど他人といっても良いような男の世話になっている。しかし、同情で腹は膨れない。特技といえば裁縫くらいだが、針仕事など山程あるわけでもない。生活が困窮する中で、世話をしてくれている男が自分の存在に煩わしさを感じていることには気付いていた。一緒にいる時間が長いと、互いのために良くない。それは殆ど本能で察した。夏の終わりに、会津戦争で戦死した高名な医者の忘れ形見が帰郷してきた。若く美しい女医者。医者の手伝いをしていれば誰も文句は言わないだろう。家を離れる大義名分も立つ。
 最初は、少し様子を見るだけのつもりだったが、征太郎は一日でその医者、高荷恵に好感を覚えた。医者としても人としても素晴らしい事は、すぐに理解できた。征太郎にとって、恵の存在こそが会津にもたらされた光明だった。この人を手伝って、会津を変えたいと思った。寧ろ、“この人なくして会津は変わらない”と考えたのだ。
 征太郎は、度々彼女の診療所を訪ねた。いつも笑顔で迎えてくれる事が嬉しかった。しかし、一週間程したある朝、微笑む恵の頬を涙が伝っていたことがあった。自分の涙にさえ気付いていないかのように、呆けていた。悲しみなのか、喜びなのか、それすらも解らない程静かな感情から溢れた涙の意味など、征太郎に計れるわけもない。ただその涙が、征太郎の感情に重大な変化をもたらした。征太郎は以来、一層熱心に恵を手伝うようになった。
「恵先生、お疲れですか?」
 征太郎が顔を覗くと、恵はやんわりと微笑んで見せた。若手の鳶の曜介が怪我をしたといわれて急いだが、幸い怪我は大した事はなく、今日一日安静にして、明日からまた仕事が出来そうだった。その後も、あちこちに往診や薬を届けに行き、何カ所かで怒鳴られたり殴られそうになり、急患の手当に追われている内に一日が終わっていた。征太郎は針仕事が終わってから恵を手伝って回り、月が明るく照らす時分、恵と共に診療所へ戻ってきた。
「ううん、このくらい……いつもの事だもの」
 穏やかにいう恵の笑顔の頬に、涙はない。泣くような事など、そうそうない。だからこそ、あの日の涙の意味が気になって仕方がなかった。それに、今日はもうひとつ気になる事がある。自分の世話をしてくれている男・京平が、恵を連れ出したのだ。恵は齢二十二、京平は三十一、少々歳は離れているけれど、さしたる問題にはならない。恵は美しく聡明だ、妻に先立たれた京平が、恵を後妻に狙っていないとも限らない。或いは、生活が苦しいため、この先血の繋がらない子供を世話し続ける事は難しいと訴えたのかも知れない。どちらかだ。どちらにしても、自分に関わってくる。
 征太郎は、そっと恵の腕に触れた。
「あの……先生……」
「どうしたの?」
 美しい女の瞳に宿る温かな光は、征太郎の胸を締め付ける。
「きょう――」
 征太郎は言葉を詰まらせる。
「今日……何かあった?」
「今日……も、大変でしたね」
 溜息を零すように細く、征太郎は呟いた。恵の腕に置いた手に、微かな力がこもる。
「まぁ、それはね。疲れた?」
「僕は、全然! でも……」
「私を心配してくれてるの? ありがとう」
 恵はそっと征太郎の髪を撫でた。やや癖のある柔らかい髪。征太郎は照れ臭そうに俯いた。
「征太郎君が手伝ってくれてるから、大分楽よ。辛く当たられると悲しいけど、これから時間を掛けて、みんなに信頼してもらえる医者になりたい。父みたいに。今は、私を嫌ったり、怪しんだりしている人も多いけど……その中で、征太郎君が私を信じてくれているのが、本当に嬉しいわ。側にいて、手伝ってくれて……それだけで、安心出来るし、頑張れる」
 恵の声が、言葉が、静かに征太郎の心に沁みる。胸が熱くなるのを感じ、征太郎はぐっと唇を噛んだ。不意に、訳もなく恵が目の前から消えてしまうような奇妙な胸騒ぎに襲われ、征太郎は恵の肩に額を押しつけた。伝わってくる熱が、彼女の存在を確かにする。
「征太郎君?」
「僕は、ずっと先生の味方だから……」
「有り難う。私も何があっても征太郎君の味方よ」
 そして、会津の味方であろう。会津のために命をかける覚悟がなければ、この難局は乗り切れないと恵は察していた。小さな応援者がひとり、まずは彼を守らなければ、会津を変える事なんか出来ない。総ては彼から始まるのだ。
 ふたりの胸に、それぞれ決意の炎が灯る。
 嵐が吹き荒ぶ事も、この時はまだ知らずに。



 それから、五日が過ぎた。
 恵は京平に頼まれた事が気に掛かり、ずっと考えを巡らせながらも結論を出せずにいた。征太郎は相変わらず、いや、これまで以上に積極的に恵を手伝った。征太郎の養母であった針子のまりは、会津中の人々の着物を丁寧に繕うだけでなく、豊かな感性の持ち主で、僅かな布地を色合い良く繋ぎ合わせて晴れ着を仕立てるといった技術にも優れており、多くの人に愛されていた。征太郎も、その同情を引く生い立ちだけでなく、真面目で健気な性格でひたむきに養母を助け、 人々の心を引き付けた。その征太郎が、養母亡き後慕う人間。短い期間で会津の人々の信頼を得られたのは、自分が会津を離れていた十年間、会津で真っ直ぐに生きてきた彼の存在もあるのだと、恵はこのところ強く感じている。彼の存在は、思いの外大きい。
 朝早い時間に、征太郎はやって来た。
「お早う、征太郎君」
 いつもと変わらない恵の笑顔。征太郎も笑顔を返す。泣いていたあの日も、こんな穏やかな朝だった。あの日、涙の意味が解らずに、征太郎は京平に尋ねたことがある。家に帰ってすぐに泣いていたならそれは辛さや悔しさかも知れないが、明け方に静かに泣いていたのなら、恋しい相手を想っての事だろうと京平は言った。若い女性だ、想い人のひとりもあるだろう、と。
 二十二とあれば、結婚していてもおかしくはない。先に逝かれたか、離縁したか……そんな可能性もあるわけだ。片恋ということもあるだろう。どれだけ想像しても、真相に触れることなどない。
――気にしてはいけない。
 征太郎は何度も自分に言い聞かせた。
「先生、今日は何処に」
 言いかけた征太郎の言葉は、突如遠くから響いた甲高い女の絶叫が、喉の奥へ飲み込ませた。
「――――だ!」
 続いて、何事か叫ぶ男の声。何も聞き取れなかったが、何かが起きたことは確かだ。恵は薬箱を掴んで診療所を飛び出した。征太郎も後に続く。
 夏の気配など遠くへ吹き飛ばした秋風が、痛い程にふたりに吹き付ける。建物や木の陰で身体を縮めて騒ぎを伺う女性や子供があちこちにいた。「恵ちゃん、危ないよ」「恵先生、行っちゃ駄目よ!」押し殺した声で女達が恵に言ったが、恵は構わず走った。向かい風を切って騒ぎの声を目指すと、ざわめきく人だかりが見えてきた。十五――いや、二十人はいるだろうか。一際大きな声で、誰かが叫んだ。
「人斬り抜刀斎!」
 “抜刀斎”――。よく知るその名が、恵の胸中に闇を落とした。暗闇はとぐろを巻いて恵の心臓を締め付ける。
 拙い。直感でそう思った。会津の人々は知らない。恵が東京にいる間、どんな人と関わり、どんな生活をしていたか。そして、どんな男に惹かれたか。此処は会津。維新に反旗を翻し、維新を成して新政府の中心となった薩長土肥に楯突いた者達が篭城した戦争の場。敵か味方かは、どの藩に所属しているかによって決まった。味方は会津か、奥羽の諸藩。敵は、薩長土肥。その中でも、特に薩摩と長州。
 此処は、会津。幕末の戦争から十年間、時間の止まったままの場所。長州は、まだ、敵だ。
 人斬り抜刀斎こと緋村剣心は、長州派維新志士。今は流浪人として日本中を流れ、多くの人々を救ってきた。しかし、彼がこの十年何をしてこようと、まだ十年前と同じ意識の中にいる会津で、彼がどのように受け止められるかは考えるまでもない。
 恵は戦慄した。駆ける足が、思わず緩んだ。その瞬間、後ろを走っていた征太郎が、恵を追い抜いて走っていった。
「征太郎君!」
 恵は、騒ぐ人垣に突っ込んだ征太郎を捕まえようと、目の前にいた人々を掻き分けた。征太郎の腕を掴み、顔を上げると、“彼”と目が合った。林道を抜けた細い道に、彼は立っていた。赤い髪、左頬に十字の刀傷、“伝説”と呼ばれた男。その名は、高荷隆生以上に知られていた。最強の人斬りとして。男達は、彼の行く手を阻もうと、道に横並びになり立ち塞がる。
「恵殿」
 彼の唇が、自分を呼んだ。
「剣――ひ、緋村さん……」
 名を呼ばれ、恵は息を飲んだ。小さく彼の名を口にし、軽く頭を下げると、周囲の視線が突き刺さる。心臓が、闇に捻り潰されそうだった。
「何だ、女先生、こいつの事知ってんのか?」
 忌々しげに吐き捨てたのは、恵をまだ警戒している男のひとりだった。恵は眉を寄せた。
 焼け野原となり、敗北した会津を捨てて逃げた裁きが、今、始まったのだろうか。これは、十年間、この故郷に背を向けた罰なのだろうか。目の前にいる男は、自分の命を救っただけでなく、人生を、生き方を示してくれた人。ほんの二ヶ月前に諦めたとはいえ、恋をしていた男。こうして見<まみ>えれば、やはり愛情が沸いてくる。そんな男だ。その男が、今、自分の守るべき故郷の人々から“敵”とみなされてそこにいる。
「なぁ、こいつはあんたの知り合いか? あんた、何の目的でこいつを呼んだ?」
 男が捲くし立てる。
「違う! 呼んでないわ。……緋村さん、どうしたんですか?」
「…………」
 予想していた状況とは大分違っていることに、最初は戸惑っていた剣心も、自分の置かれている立場、そして、恵の置かれている立場を理解し、言葉を飲み込んだ。
「緋村さんは、東京にいた頃の私の患者のひとりよ」
「女先生よぉ、こいつが長州だって知らねぇわけじゃないだろ? 何でそんな奴があんたの患者なんだ?」
「“医は仁術”! 父の教えです」
 恵は声を張り上げ、言い切った。
「その“仁術”とやらの所為で、あんたの親父さんは殺されたんだろうが!」
 別の男が、恵を怒鳴りつけた。恵を受け入れも拒みもしていない男。彼が、自分の父親を尊敬していたことを、恵は知っている。
「敵味方関係なく治療して、自分が治した長州浪士に、後ろからぶった切られて死んだんだろうが! あんたその場にいたじゃないか、俺と一緒に! 自分の父親が、長州の野郎に殺されるところ、自分の目で見たんじゃないのか!?」
「…………え?」
 剣心の唇から声が漏れた。恵は拳を固め、唇を結ぶ。見まいとしたものの視界に映ってしまった剣心の顔には、悲痛の表情が浮かんでいた。知られたくなかった。これまで、敢えて誰にも話さずにいた事。自分は、父の死を目の当たりにしたのだという現実。夢であって欲しいと、何かの間違いであって欲しいと、幼い頭の中から追い出そうとした惨状。父の言いつけを破って戦場に下り、父を見つけて安堵した。目の前の侍に治療を施し、微笑んで背を向けた父に声を掛けようとした瞬間、先程まで父に包帯を巻かれていた男が刀を振り下ろしたのだ。そのまま倒れた父は、何度も背中を刺されて絶命した。“医は仁術也”。父の理念が、父を殺した。
「それでも――」
「あんたを慕ってる征太郎君だって、長州の奴等の所為で孤児になったんだよ。妊婦の腹の子供が男か女か賭けて遊んでた男達に嬲られて、腹を割かれて引っ張り出された子供だって、知って――」
「辞めて! 征太郎君も此処にいるのよ!?」
「征太郎は知ってるって」
 いつからそこにいたのか――初めからなのか、今来たのかは解らないが――京平が、冷ややかに言い放つ。
「そういう問題じゃないわ。征太郎君、向こうに行ってなさい」
「嫌だ」
 自分を取り囲む人々を押しやり、恵は征太郎に手を差し出す。しかし、征太郎はその手を拒んだ。征太郎の眼が、ギラリと光り、恵を睨めつける。恵の指先が震えた。こんな眼で彼に見られるのは、初めてだ。彼の中に、憎悪が滲む。
「政府の手先か。俺達から、今度は何を奪うつもりだ?」
 鳶の曜介が、剣心に小刀を向ける。日本刀を帯びた剣客に、そんなもので対抗できるはずがないことは誰もが解っていた。それでも、みすみす殺されるわけにはいかない。
 恵を除いた十八人の会津の民が、剣心に憎しみや怒りや恐怖の眼差しを向けていた。
「曜介さん! 彼は――緋村さんは、もう人斬りじゃないわ。政府の手先でもない。流浪人として、日本中を流れながら、眼に映る人を助けてきた人よ。私も、助けられたの。だから私は医者でいられるのよ。医者として、彼を救うことは私の使命。父を誰に奪われても、父が死ぬまで医者だったように、私は医者であり続けたい。“医は仁術也”――それは変わらないわ!」
「その流浪人が、いつ会津に来て俺達を助けてくれたっていうんだ?」
「見掛けたことがあるとすりゃ、あの戦争の時だな」
「女先生、やっぱりあんたが政府の手先なんじゃねぇのか? タダで薬配るなんておかしいと思ったんだ。毒でも撒いてんだろ?」
 男のひとりが、恵を突き飛ばした。自分の方へ転がった恵を助け起こそうと足を踏み出すと、囲んでいた会津の人々の間に緊張が走る。剣心は動きを止めた。無闇に動いてはいけない。下手に手を出したり口を開いたりすれば、益々恵の立場は悪くなる。
 恵は剣心を振り返りもせず、立ち上がった。
 少し考えれば解る事だったのではないか。この中の誰かの家族を、自分が殺めた可能性は大いにある。憎しみが、人々の心に住んでいる。それがここまで深いと思いもしなかった。いや――東京での安穏とした生活の中で忘れていたのかも知れない。五、六年前だったか、盛岡でも同じように「抜刀斎」と呼ばれて囲まれた。結局追い出されてそのまま南下し、東京に流れ着くまで、北陸から九州を回っていた。避けていたわけではないが、永く触れることはなかった。
 自分は平穏な生活の中にいながら、今苦労をしている彼女のために何か出来ないかと気持ちが急いた。その結果がこれだ。時間を置いて様子を見るべきだった。今更そんなことを言っても仕方がないが。もう、これ以上恵と言葉を交わしてはいけない。恵に近付いてはいけない。とにかく、頃合いを見計らって東京に戻らなければ。
「あんたの目的はなんなんだよ、女先生よぉ?」
「本当は俺達を陥れるつもりなんじゃねぇのか?」
 数人の男から喧々囂々たる非難を浴び続ける恵。その様子を傍観する人々は、剣心に対する警戒も忘れていない。もし抜刀斎が政府の手の者だとしたら、抜刀斎を襲撃すればまた争いが起こるかも知れない。二度目の会津戦争に発展すれば、それは政府による虐殺に相違ない。争う力を持たない会津は、成す術もなく滅ぶだろう。それを察してか、誰も自ら抜刀斎に攻撃を仕掛ける者はいなかった。しかし、少しでも不穏な動きが見られれば、血気に逸る曜介を筆頭に、すぐにでも飛び掛かるだろう。
 剣心も状況を警戒していた。一歩間違えば怪我人が出る。
「緋村さんは、私を助けてくれた――それは事実よ。会津とか長州とか関係なく、私は命を救うために医者であり続けるんです」
 恵は何度も同じ事を繰り返した。しかし、会津の味方であることと、緋村剣心を擁護することは、会津の人々にとっては相反することだった。
「あんたの父親は“長州”が殺したんだぞ!」
「あの日起きたのは、“戦争”……私の父は“戦争”で死んだんです。“会津”も“長州”を殺したでしょう? 奪えば憎しみを産む。憎しみが命を奪う。負の連鎖を止めるために、私達医者は平等であるんです!」
 征太郎は頭の中で、目まぐるしく思考を巡らせていた。数日前、自分の味方だと言った彼女の言葉が、頭の中から離れない。恵が自分を裏切る事は決してないと、征太郎は信じていた。何故か、それだけは信じられた。では、彼女が抜刀斎を庇う事は裏切りか。否、抜刀斎は自分と出逢う以前に関わった人間、彼女の言うように彼女を救ったのであれば、庇うこともするだろう。征太郎は、それを理解していた。それなのに、一体何に苛立っているのだろう。血が沸き立つような熱が、心臓の奥にたぎっている。それは恵でも会津の人々でもなく、赤毛の流浪人に向いていた。彼女を助けた事が事実なら、感謝こそすれ、怒りや苛立ちを覚えることなど間違っている、はず、なのに。
 抑えなくては。憎しみにも似たこの謎の感情を。
「何だって、恵先生はあんな奴を庇うんだ」
 手に石を握り締めて抜刀斎を睨みながら、征太郎の隣りで京平が忌ま忌まし気に呟いた。
「アレが、恵先生の惚れた男じゃないだろうな」
 その言葉が耳に触れた瞬間、征太郎は頭の中で何かがぶつんと切れる音を聞いた。一瞬、静かに涙を流す恵の横顔が脳裏にちらついたが、その後はなにひとつ考えもせず、ただ人斬り抜刀斎と呼ばれる男だけを凝視したまま、足元に落ちた石を拾い上げた。
 剣心は、禍々しいまでの殺気に気付いた。肌を刺すような強烈な憎悪。それが、石を握った少年から放たれている事はすぐに解った。彼が投げるであろう礫を交わすことはたやすい。しかし、それは徒に怒りを煽るだけだ。自分が彼の何を奪ったのかは解らないが、少なくとも、長州派の者が戯れに彼の母親を奪ったことは間違いないのだろう。彼の悲しみや怒りを鎮めるためにそれは甘んじて受けなくてはならないのだ。剣心は奥歯を噛み締め、目を閉じた。少年の手から石が離れる瞬間を、空気の動きで感じた。
「征太郎君!!」
 悲鳴にも似た叫びと共に、空気が俄かに渦巻いた。
 剣心ははっと目を開く。直後、ゴッと鈍い音が鼓膜を揺らし、視界に鮮やかな紅い花弁が散った。
 征太郎の放った石は、恵が顔の前に翳した左手の小指を掠め、額にぶつかった。剣心の足元に転がった石が、渇いた土に点々と血の跡をつける。恵の身体も、地面に落ちた。
「――恵殿!」
 剣心は咄嗟に恵に腕を伸ばした。しかし、
「来ないで!」
 左手を額に添え、右腕で上体を起こした恵が叫ぶ。剣心の身体が硬直した。
「来ないで下さい、“緋村さん”」
 こんな時になっても、“剣さん”と、いつもの呼称でなく。まるで関わりの薄い他人だといわんばかりに突き放した口調は、剣心を凍り付かせる。ほんの三歩ばかりの距離。すぐに手の触れられる距離にありながら、地面に紅い血を落とす彼女を助け起こすことも出来ない。
「恵先生……!」
 征太郎は恵に飛び付くように肩を抱く。会津の人々も、わらわらと恵を囲んだ。京平が恵の薬箱から清潔な布を取り出し、遅れて恵き駆け寄る。
「なんであんな野郎を庇うんだ!」
 先程まで恵を責め立てていた男のひとりが怒声を上げる。
「憎しみを煽らないで! 戦争を知らない子供に、人を傷付けさせないで!」
 恵の声が空気を裂き、沈黙が降りる。
「“緋村さん。貴方は私の患者です”」
――いいえ、貴方は恩人。貴方は、愛しい人。
「“何かあったら呼んで下さい。私がそちらに赴きますから。だからお引き取り下さい”」
 顔を上げずに恵は地面に剣心に向き合い、両手を地面についた。
「“後生ですから、どうか”」
――どうか、許して下さい。貴方を傷付けることを。貴方を傷付け遠ざけてでも、守りたいものがあるのです。
 額から流れ落ちる血を拭いもせず、恵は頭を垂れていた。
 剣心は深く一礼すると、そのまま踵を返した。
 冷えた風が、剣心を西へと押しやった。

「恵先生!」
 京平は恵を抱き寄せ、額に布を押し当てる。恵は京平の肩に頭を預け、そっと目を閉じた。
「痛……」
「当たり前だろ、なんて無茶すんだ!」
 男のひとりが気遣わしく恵を覗く。
「大丈夫かい、恵ちゃん!」
 遠くから状況を見守っていた者達も、抜刀斎が去った事が解ると飛び出してきて恵を囲んだ。
「すみません、皆さん……」
「寝かせた方が良くないか?」
「駄目! このまま……」
 恵の身体を動かそうとする男達を、征太郎が制した。
「心臓より高い位置に保たないと、出血が止まらない。しっかり押さえてて。血が止まるまで待とう」
「あ、あぁ……」
 京平は恵の額を押さえながら、側にいた女性から清潔な手ぬぐいを受け取り、顔や手に着いた血を拭った。
「あれ……本当に人斬り抜刀斎なのか?」
「間違いねぇ。俺は、昔京都で奴を見たんだからな。奴があんたの患者だってのが信じられねぇよ」
「私も、知らずに出逢いました。私は東京で悪い人間に騙されて……地獄をみました。そこから助けてくれたのが緋村さん……幕末に多くの人を殺めた償いに、流浪人となったそうです」
 ゆっくりと、恵はその場にいる全員に語りかけた。恵の声と風の音の外、何一つ聞こえない。会津の人々は、知らず知らずの内に息を飲み、恵の言葉に耳を傾けていた。
「どんなに償ったって、私の旦那は帰って来ないよ。あの人は、抜刀斎に殺されたんだ」
「えぇ……それでも、憎しみも総て受け止めて、貴方を救うことを選ぶ人です、彼は。だから、征太郎君が石を投げても交わさなかった。伝説の人斬りが、子供の投げる石ひとつ避けられないと思いますか?」
 征太郎から溢れる憎しみを受け止めるために、彼は目を閉じた。傷を負うことも厭わずに。
「じゃぁ、どうして抜刀斎にあてなかった? どうして先生が庇うんだ?」
 京平の声は震えていた。怒りを押し殺しているのが解る。
「憎む相手を感情に任せて斬れば、人はその返り血で汚れるわ」
 何処か譫言のように、恵は答えた。瞬間、京平の目から涙がこぼれ落ちた。庇ったのは恩人・緋村剣心の身体ではなく、戦争を知らない無垢な少年の心。
「ごめん、先生……」
 京平は恵の髪に顔を埋めた。「俺、貴方みたいに征を守れない」――。愛したくないわけじゃない。守りたくないわけじゃない。でも、頑張れない。彼女といる方が、絶対に幸せだと解るから。
「ん……」
 恵は顎を上げて目を閉じたまま、手を差し延べた。
「征太郎君」
「は……はいっ……」
 恵の傍らで俯いていた征太郎は、急に名前を呼ばれてはたと顔を上げた。
「徒に人を傷付けてはいけない。貴方を産んだお母さんは、きっと貴方の健やかな成長を願い、貴方を健やかに育てたお母さんは、貴方に人を笑顔にする技術を与えた……。その手が人を傷付ければ、みんなの晴れ着を血に染めることになるのよ」
「先生……」
 憎しみは、誰の心にもあった。十年という長きに渡り、苦痛を強いられてきたのだから。地獄の中で、誰も助けてなどくれなかった。持て余した憎悪の吐け口など、何処にもなかった。しかし。
「恵ちゃん……あんたって子は、本当に隆生さんと清加<さやか>さんの娘だよ」
「あんたのご両親も、同じような事を言って戦場に向かったよ」
「人を憎んじゃいけない、人を傷付けちゃいけないと、俺も言われた……」
 恵の両親を知る者が、口々に言った。涙ぐむ者もいた。十年前、自分達を救おうと奔走した若き医師達の想いは、恵の中に生きている。
「もう、誰も傷付けないで。貴方は頭が良くて、私が教えたことをちゃんと覚えてくれてる。その手で誰かを傷付けるんじゃなくて、力を貸して下さい」
「僕……の……?」
「えぇ、私の子供として」
「え……?」
 征太郎は目を瞬かせた。恵を囲んでいた人達は、耳を疑った。思い掛けない言葉だった。
「私、貴方のお母さんになりたい……」
「先生……」
「京平さん、征太郎君を、私に下さい。必ず守るから。大切に育てるから……征太郎君の力が、私には必要なんです」
 恵は、京平を見上げた。間近に、今にも泣き出しそうな男の顔がある。京平は何も言わず、ただただ首を大きく振って頷いて見せた。
「…………お母さん?」
 差し伸べられた手を、征太郎の細い指がそっと掴む。恵はほっと頬を緩め、無理矢理身体を起こして征太郎を見詰めた。
「はい」
「お母さん」
 征太郎は腕を伸ばし、恵の首にしがみつく。背は高いけれど、着物の下に隠した身体のなんと細いことか。恵はやせ細った少年の背中に、そっと腕を回した。
「よろしくお願いします……征太郎」




 細い林道を、かつて最強と恐れられた男は走り抜けた。林の先には、人気のない崩壊した町。会津戦争で焼かれ、以来十年、放置されている。先程この脇を通った時は、痛ましい爪痕に眉を潜めて過ぎたが、こうして向き合えば、過去に生きた人々の生活を断ち切った重みが胸を締め付ける。焼け落ちた町に向かい、剣心は木の根元に腰を下ろした。熱を帯びた身体が、鼓動と呼吸を早める。
「うっ……」
 足を止めると、胸の底から熱いものが込み上げて、再び涙が頬を濡らす。
 過去は変えられない。だが、未来なら変えられる。過去を償うために流れてきた。せめてこの目に映る人々の笑顔を守りたいと思っていたのに、変えられない過去が、守りたい人に傷を負わせた。直接手を下したわけでなくとも、恵の言う通り、“戦争を知らない子供”に人を傷付けさせた。少年の投げた礫が彼女の額にぶつかった瞬間の、少年の表情が頭から離れない。傷付き、震えていた。額から血を流しながら、手をついてひたすら頭を下げる彼女の姿もまた目に焼き付いている。
 “人斬り抜刀斎”――変えられない過去。憎しみは、続いている。
 日が落ちても、剣心はそこから動かなかった。
 殆ど満月に近い上弦の月が、剣心を照らしていた。何度か人の気配はあったが、気に止める事はなかった。しかし、現れた青年は、剣心にあからさまな警戒をみせた。京平だ。
 京平は剣心を見るや、身構えた。鍛えられたしなやかな筋肉が、彼の生きた時代、生きている時代を物語る。
「何をしている、こんなところで?」
「……少し、休憩でござる。もう、帰る……」
 口調はか弱く、憔悴が見られた。瞳に生気はない。先程、恵を見た瞬間に明るく輝いた瞳と同じものとは思えなかった。
「…………あんた、本当に恵先生の患者か?」
「あぁ……恵殿がいなければ、拙者の命は潰えていたかも知れぬでござる」
「本当に?」
「あぁ」
 訝る京平に、剣心が静かに答える。京平は「そうか」と小さく呟き、
「悪かった……」
「……え?」
 剣心は目をしばたたかせた。
「甥が、石を投げた事。血の繋がりはないが、この一月程は俺が世話をしていた。俺にも責めはある」
「いや、拙者は……。それより、恵殿は?」
「出血は止まってるし、本人は大した事ないと言ってる……」
 それが、自分達を安心させるための嘘である可能性は高い。それは剣心にも解り、小さく頷いたきり口を閉ざした。京平は剣心に背を向け、町の奥の、小石を積んだ小さな土山に手を合わせた。
「……誰かのお墓でござるか?」
 数分後、京平が顔を上げると同時に剣心は立ち上がり、京平の側に歩み寄った。
「俺の妻だ。征太郎――あんたに石を投げた子供の母親の姉。ここで共に暮らしていた」
「手を合わせても……?」
 京平は答えず、冷ややかな視線を向けた。剣心は構わず石の前に屈み、そっと手を合わせた。
 その横顔の穏やかで切なげな雰囲気は、なんとなく恵に似ていて、京平は唇を噛む。
 秋の初めの静かな夜は、憎しみを抱くには穏やか過ぎた。
「征太郎は――」
 京平は、剣心の隣りでそっと口を開く。
「恵先生の養子になる」
 剣心は、はっと京平を見上げた。京平は、剣心を見下ろし、詰るように目を細めた。
「さっきの一件のお陰だ。征太郎は幸せになれる。それだけは感謝するよ。あの人にあんたが救われたのは嘘じゃないだろうけど、あんたがあの人を救ったのも本当だろ? あの人がいなければ会津は絶望の底だ。俺は征を殺していたかも知れない」
「――え?」
「俺一人生きるだけで精一杯なんだよ。だから……それは有り難いと思う。けど、次はないからな。会津の、あんたや長州に対する憎しみは深い。というより、憎まないとやっていけない。今日の一件で恵先生にもしもの事があったら、俺は征じゃなくあんたを怨む。一生怨むからな」
 吐き捨てるように言い残し、京平は林の奥へ消えて行く。



 剣心は静かに空を仰いだ。月が輝いて柔らかな光を伸べている。
 月は誰の目にも変わらずに満ち、変わらずに欠けてゆくのに、いつまでも埋まることのない心がある。
 目を閉じれば、今までに殺めた多くの命が過ぎる。そして、彼らのために涙を流す人々の悲痛な叫びと、憎しみ、怒り、苦悩。その中に、彼らの姿も混じる。鮮やかな血の海に長い黒髪がたゆたい、白い貌が浮かぶ。
 剣心は目を開いた。
 沈んで行く。“彼女”を傷付け、“彼女”の大切な人に傷付けさせた現実に。
 これが罰ならば、甘んじて受けよう。
 ただ、この先に彼女らに降る月が、美しくあることだけを祈りながら。

fin
どんなに償おうとしても、許されない過去がある。
それでも償い、笑顔のために生きる。
君に触れられなくても、君が幸いである事を祈る。

出生自体が憎しみにまみれていた。
だけど貴方が現れて、僕は……
貴方に触れる度に、貴方に近付き、想いが募る。



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