それでも想う。貴方のことを。
 季節が流れていても……


   虹


 明治十四年八月、会津――
 少年は、黙々と針仕事に勤しんでいた。日差しが強く、じっとしているだけで汗が滴り落ちる。日陰になった縁側にいてもそれは変わらず、針を持つ指先までも汗に濡れていたが、少年は構わず手を動かし続けた。
 彼の、二番目の母親は針子だった。読み書きも出来ない貧しい身の上で、針仕事の他には碌に出来ることもなかったが、針仕事とて大層あるわけもなく、時折近所の畑仕事を手伝いながらなんとか生計を立てていた。子供を養うことなど到底出来るはずもないのに、少年の為に身を粉にして働き、齢僅か二十九でこの世を去った。彼の産みの親が、彼が産まれると同時に殺害され、たまたまその場に居合わせただけの、なんの縁もない女だった。
 育ての母の死後、丁度会津に帰省したばかりの女医者が少年の母親になった。医者は高荷恵といった。色白で、理知的な顔付きをした品の良い女だった。少年はふと、この人も自分を置いて死ぬのだろうかと思った。
 死んで欲しくない。もう、失いたくない。優しい母を。美しい人を――この人を。
 出会った時、彼の胸に灯った光は、温かく柔らかだった。二度も母親を失った少年は、三度目の正直に賭けていた。この人を守り抜くのだと、出逢ったその日に心に誓った。現高荷征太郎、恵に出逢った時、僅か十一歳だった。
 恵は、征太郎だけでなく、会津の人々総てのために力を尽くした。そして、征太郎のように親を失った子供達のために。
 征太郎が養子となったその翌年、昴という少女を養女に取った。品が良く気が強くて、恵によく似ていると言われた。同じ年に、出産の二週間後に母親が死んでしまった楓という赤ん坊を引き取った。。昨年、光黄、紫という少年少女がそれぞ家族に加わった。
 綱渡りのような状態で何とか生き延びている会津の人々に、孤児を世話する余裕があるわけもない。親戚なら引き取ることもあるけれど、何の縁もない子供を引き取ろうなんて思う者はいない。だからといって見捨てることも出来ず、必然的に恵が養子にとることになる。しかし、征太郎はそれが恵の負担を増やしているような気がしてならかった。なにより、恵の周りには、兎角男手が足りない。現在十四歳の征太郎、十二歳の光黄共に、同じ年頃の少年に比べて腕力がない。恵の助手を務めている相葉建水も、現在二十八と男盛りの年頃ではあるが、頭は良くても力はない。しかも、以前張り切り過ぎて梯子から落下し、足を痛めたことがあるため、もう無理はするなとみんなから言われている。
 そのため、二、三ヶ月に一度は、会津に手伝いに来る四乃森蒼紫の存在は実に大きかった。蒼紫は京都の老舗料亭・葵屋の若旦那だ。長身で物静かな美丈夫で、外見からは力仕事に向いているようには見えないものの、元隠密江戸城御庭番衆の御頭を務めた過去があり、滅法界剣術の腕は立つ。
 蒼紫の来訪を喜んだのは、恵より昴だった。昴は蒼紫に好意的である。征太郎は、それが恋情であることを察しており、昴の恋の実ることはないとわかりつつも、兄として応援はしていた。
 一方で、征太郎は蒼紫に対しては良い感情を持っていなかった。最初こそ蒼紫を歓迎していた恵が、いつしか困惑しているように見えたからだ。一度や二度なら、旧知の仲間が故郷の復興のために苦労を余儀なくされているところを手助けに来たと思えたが、数ヶ月置きに何度も足しげく通うのでは、他に目的があるのではないかと、勘繰らずにいられなかった。恵が一度だけ、「後ろめたい」と呟いたことも、征太郎には問題だった。助けに来たのなら、その相手が気負わねばならないようなことなどすべきではない。度々会津を訪れるものだから、会津の人々は蒼紫と恵が結婚するのではと噂し、期待している。恵が京都に行くことになるのではと危惧する声もあるが、蒼紫が高荷家に婿入りして、会津に高荷の子孫を残すのだと思い込もうとしていた。恵はこれを否定し続けているが、会津の人々は聞く耳を持たない。これも、征太郎が迷惑に思っていることのひとつだった。
 恵が蒼紫との仲を否定する理由にして、恵に後ろめたさを感じさせる最大の要因は、蒼紫に婚約者がいることだった。京都の料亭で生活を共にしており、会津にも一度来たことがあるため、征太郎も顔見知りだ。巻町操というその娘は、蒼紫とは九歳年が離れている上、年齢以上に子供っぽい。無口で無表情な蒼紫とは対照的に、明るくよく笑い、よく喋る。悪い人ではないし征太郎も数日の滞在を歓迎したものの、彼女が会津を去った後、酷く疲れた。翌日は殆ど動けなかった程だ。蒼紫と操が似合いのふたりとは、誰も思えなかったが、操の蒼紫に対する恋慕は、どんな鈍いものでもすぐに解る。また、蒼紫が操を大切にしていることも、解る。ふたりが結婚するのは時間の問題だろう。しかし、婚約者がいるのに頻繁に他の女のところへ通う事が、征太郎には納得出来ない。移動時間を考えると、操といる時間と京都を離れている時間は、そんなに変わらないのではないかと思えた。元幕府方として、会津を捨て置くことは出来ないというけれど、下心があるとしか思えなかった。
 操以上に――操とは比べものにならない程――恵が彼に似合いに見える事も征太郎は気に入らない。もし、彼が操との婚約を解消して母と――などと考えると落ち着かなかった。ないとは言えない。蒼紫の真意は解らないが、否定は出来ない事だった。
 征太郎が恵と出会って三年が過ぎた。時代が時代なら、征太郎も来年元服する年。長子として家族を守るべき頃合い。「母さんの築き上げたものを守らなければ」と、その思いばかりが膨らんでいた。
 十年止まっていた会津の時間を動かしたのは、心から語りかけ、力を与えた透明な声と言葉。ずっと過去を振り返って動き出せずにいた会津の人々の瞳に、未来を見せた。
 征太郎は、その透明な声に導かれ、未来の作り手となることを誓ったのだった。



 八月も半ばを過ぎ、蒼紫は会津にやって来た。前に来た時は、漸く桜の蕾が膨らみ始めた頃だった。少し時間が空いた。
 日差しの強い暑い日で、絶え間のない蝉時雨が、この夏の厳しさを物語っていた。
 蒼紫が診療所を訪ねると、恵はにこやかに蒼紫を迎えた。
「仙台に行っていたの?」
「あぁ」
 恵は、玄関で靴を脱ぐ蒼紫の側に膝をついた。
「曜介さんには会った?」
「あぁ」
「達幸君、大きくなったでしょ?」
「……そうだな」
 ほんの僅かながら、蒼紫は柔らかく微笑んだ。殆ど笑わない蒼紫だが、鳶の曜介の子供、達幸の事は気にかけていて、彼の話になると僅かに笑う。
 穏やかな会話を遠くに聞きながら、征太郎は小さく首を振り、針仕事に集中しようとした。しかし、恵の声が耳に届く度、気になって仕方がなかった。いっそ蒼紫は昴と纏まれば良いのに、と思う。昴は歳より大人びて美しい娘で、頭も良く、少なくとも操よりは蒼紫と似合うと征太郎は考えていた。兄の欲目ではあるが。
 征太郎は女物の着物を繕いながら溜息をついた。裁縫など男らしくないとは思いつつも、裁縫をしている時が一番落ち着く。
「相変わらずだな」
 いつの間にか、征太郎の側には蒼紫が立っていた。
「蒼紫さん……。どうも、ご無沙汰してます」
「あぁ……」
 軽く頭を下げながら、蒼紫は床に畳んで積み上げられた着物を一着拾い上げた。
「細かいな、縫い目が。これは丈夫そうだ。随分上達したものだな」
「……どうも」
 征太郎は、蒼紫の顔も見ずに答えた。
「今度は、いつまでのご滞在で?」
「決めていない」
「暇なんですね。羨ましい事です。貧乏暇無しだもんで、会津の民は皆忙しいんですよ。京都にいた方がのんびり出来るんじゃないですか? 食事も豪華で美味しいでしょう。それとも、暇潰しか何かですか?」
 繕い終わり、糸を結い留めて切ると、征太郎は繕った箇所を端から端まで軽く引っ張りながら確認する。何度も繰り返し繕っているため、以前縫ったところと今回縫ったところが上手い具合に合わさらないと、すぐにほつれてしまう。
「…………」
「碌に働かずに遊び歩いて、貧しい土地冷やかして……さぞ楽しい生活でしょ――ってぇ!」
 言い終わらない内に、征太郎は右のこめかみに衝撃を受け、頭を抱えた。顔を上げると、長いお下げ髪を揺らし、昴が拳を握っていた。
「なんだよ、昴!」
「なんだはそっちでしょう、征! 僻み根性丸出し、格好悪いわね!」
「お前に何が解る。母さんが――……あ、まずい!」
 征太郎は急に立ち上がり、縁側の外に置かれた下駄を突っ掛けた。
「雨降るぞ。洗濯物を入れるから、北側の雨戸を閉めろ。光にも声かけて!」
「え、あ、解った!」
 征太郎は物干し場に走り、昴は縁側を走り、家の北側へ回った。
「仲が良いでしょう」
 征太郎と昴がそれぞれに行ってしまうと、楓を抱えて恵が部屋から顔を出した。東京にいた頃は蓮っ葉なきつい印象が強かったが、会津に戻って、柔和になった。楓を抱いている時は、特にそう感じられる。穏やかな笑みは、母親そのものだ。
「……雨が降ること、よく解るな。確かに匂いはするが……」
「征太郎は、特に天気に敏感よ。洗濯物が乾くか否かで繕い物の仕事は大きく左右されるから、幼い頃から自然と身に付いたみたい」
 蒼紫は納得した様子で小さく頷き、恵の腕から楓を抱き上げた。
「蒼紫……征太郎の事、ごめんなさい。普段はあんな事を言うような子じゃないし、昔はあんたにも懐いていたのに」
「いや」
 蒼紫は短く答え、楓の背中を軽く叩く。楓は嬉しそうに蒼紫の肩に掛かった髪を掴んだ。
 楓の産みの母親は、東京の商家に売られたひろのという娘だった。客の男と恋仲になり、会津に駆け落ちしてきたが、ひろのが身籠もると、男はひろのを置いて姿を消した。誰も、男の行方を知らない。元々身体の弱かったひろのは伏せがちになり、恵の治療のお陰でなんとか赤ん坊だけは産んだが、一週間後に息を引き取った。本当の母も父も知らない娘。だからこそ、自分が本当の母親になろうと決めて引き取ったのだが、度々会津を訪れる蒼紫を慕い、すっかり蒼紫が父親のようになっている。しかし、いずれ本当の父親ではないことを知る時がくる。蒼紫はなんの縁もない男で、近い内に京都にいる女性の夫となる事も決まっている。
 潮時だ。
「楓」
 恵は楓に腕を伸ばした。蒼紫は、恵に楓を渡す。楓はにこにこと満面の笑みを浮かべて恵に抱き付いた。
「どうした、恵?」
「え?」
「暗い顔をして……」
 蒼紫の指が、恵の頬を撫でる。恵はさっと顔を背け、長く冷たい指から逃れた。
「あんたに暗いなんて言われるとはね」
 くすりと口元に浮かんだ恵の笑みは酷く痛々しく、三年半前、下衆な男に捕らえられ、生きる事も死ぬ事もままならなかった頃に見せたそれに似ていた。蒼紫が、最も嫌う恵の貌だった。
「母さん、どうしたの?」
 洗濯物の取り込みを終えたらしい征太郎が、縁側に戻ってきた。反対側から、昴と光黄もやって来た。
「何でもないわ。昴、楓をお願い。征、後は部屋でやって頂戴。光黄、明日の支度は済んだ?」
 恵は昴に楓を預け、床に積まれていた着物を抱えて征太郎に押しつけると、光黄の方を向いた。
「これから」
「そう。だったら、紫にも教えてあげて。料理を覚えたがっていたし、好い機会だわ」
「うん」
 光黄は深く頷き、その場を後にした。恵は昴に、「行きなさい」と目で合図を送る。昴は渋々ながらそれに従った。しかし、征太郎はそこに立ったままだった。
「征、貴方も行きなさい」
「……母さん、」
「良いから、行って頂戴。それが終わったら、四乃森さんに部屋着を出してあげて。私は虎さんのところに往診に行くから、巳の刻になっても戻らなかったら先に食事をするようにみんなに言っておいて。後は任せるわね」
 恵は殆ど早口で捲し立てるように指示をすると、征太郎の肩を軽く叩いた。
「母さん、虎さんのところへは、いつも建水さんが……」
「建水君は、今日は南会津の町に検診に行っているでしょう。もう降り出しそうだし……建水君が戻ったら、今夜は泊まって行くように言って」
「解った」
 “虎さん”と呼ばれる本郷焼の職人・虎次郎は、診療所から遠方に住んでいるが、窯元から離れる事を嫌がるため、建水か恵が足を運んでいる。彼の焼いた会津本郷焼は質が高いと評判が良く、遠く九州からも買い手がある程だ。この収入が、今の会津を支える重要な役目を果たしている。征太郎もその事はよく理解しており、虎次郎の話を出されると従わないわけにいかなかった。
「お願いね、征太郎」
「うん。じゃあ、えっと……この黒いのと、下から二番目の小花柄、虎さんのところに持って行って。虎さんと真紀さんのだから」
「あ、はいはい」
 征太郎の抱えた着物の中から、恵は慣れた手付きで指示された着物を抜き取った。
「宜しく、母さん」
「いつも有り難う、征」
 恵は、柔らかく笑みを見せた。それは、先程楓に向けていたものと同じ。自分に向けられたものと全く違う事に、蒼紫は気付いていた。
 征太郎が部屋に戻り、ふたり切りになったと同時に、征太郎の予想通り、雨が降り始めた。
「降ってきた」
 恵は縁側に腰を下ろし、小さく息をついた。
「恵、顔色が良くないな」
「空が暗いからそう見えるだけよ。座って」
 恵に促され、蒼紫も縁側に禅を組んだ。雨音に混じって微かに耳に届く恵の息遣いは、以前に来た時とは違っていた。来る度に、徐々に恵の呼吸と顔色が変わる。健康から遠ざかってゆく。それに、恵は気付いているのだろうか。或いは、彼女の助手である建水や他の誰かが。
「で、どうした?」
「どうした……ね。それは、こっちが聞きたいわ。どうして、度々来るの、会津に? 仙台のお師匠様のところへ、そんなに頻繁に行っているの?」
「あぁ、それは肯定だ。師匠ももう歳だ。手伝う事は色々にある。翁の命でそうしている」
 翁とは、料亭・葵屋の事実上の経営者であり、元隠密京都御庭番衆の一員であった柏崎念治の事だ。御庭番内での上下関係でいえば蒼紫の方が上ではあるが、翁はその通称の通りの年配者で、今では蒼紫と殆ど対等の立場になっている。蒼紫は命令と受けているが、翁からすれば、若く身軽な蒼紫に、自分の代わりに遠出して欲しいと頼んでいるに過ぎない。蒼紫の御庭番時代の師匠が現在仙台に住んでおり、その男を翁も兄貴分として慕っていたため、時折訪ねて様子をうかがっているのだ。その帰りに会津に立ち寄っていると以前から言っていたが、それは変わらないらしい。恵は小さく首を縦に振り、少しばかり思案するような素振りを見せた。
「それなら、お師匠様のために尽くして差し上げるべきだとは思うわ。それは、良い。でも、終わったらすぐに帰りなさいよ。こんなところに寄らないで」
「それは、暗に迷惑だと?」
「率直に言えば、そうね」
 訝るような蒼紫の問いに、恵は躊躇いもなく答えた。蒼紫は息をつき、唇を結んだ。
「黙られてもね……。有り難いとは思っているの。それは、本当よ。でも……正直に言うと、心苦しいわ。ちゃんと、操ちゃんに許可を取って此処に来ているのなら構わないけど、知らないんでしょう?」
「知らせる必要があるか? 毎回ついて来る事になる。操は……陽気で周囲を明るくする力はあるが、その力の方向性を間違えば危険だ。会津に炸裂弾を放り込むようなものだろう」
 蒼紫は、真剣に恵に語りかけた。しかし、蒼紫が真剣であればある程恵は顔をしかめる。
「あんたは何も解ってないわ。操ちゃんがどんな想いであんたを待っているか。それに、ねぇ、解ってる? あんたは会津復興の手助けをしているつもりでしょうけど、うちに泊まってるのよ?」
「だから、金は払うと――」
「そうじゃない、そこじゃないの。子供達もいるけど、でも……わ、私は女で、あんたは男なのよ? 誤解を生む……」
「誤解……?」
 蒼紫は眉を寄せた。真剣であれば真剣である程、恵の苛立ちは募る。
 解っている。彼にとって、生まれてから少なくとも二十五年は、人生の中心が御庭番だったのだ。他の何かを考える隙などなかったし、必要もなかった。彼は、御庭番のために生き、御庭番に尽くし続けなければならなかった。裏を返せば、それさえしていれば他の事など何一つしなくても良かったのだ。御庭番を抜けてから、一般的な慣習や常識に馴染めなかった者は多いが、蒼紫はその筆頭だろう。自分が世間一般の常識から外れていることは理解しているが、どこが誤っているのかを完全には理解出来ずにいる。
 蒼紫にとって、結婚は御庭番を存続させるために家同士の結び付きを強める手段に過ぎない。操の恋情を理解しているつもりになっても、どこまで女心を解しているかなど解ったものではない。それに、女の家に通うことの意味も解らずにいる。
「あんたが会津に来るのは、元御庭番の御頭としてだと解ってくれている人はいるけど、中には、私達が男女の仲になっているんじゃないかと勘繰る人もいるわ。そうしたら、あんたと結婚するんじゃないかと考えるようにもなる。私が京都に行くと不安になる人もいるし、あんたが婿養子に入って、高荷の子孫を残すのだと期待をする人も現れる。それは……困るでしょう、お互いに」
「お互いに……か。少なくとも、お前は困っていると?」
「当たり前でしょう。私の子供達だって同じよ。征太郎は不安に駆られているし、昴や楓は期待している。光黄は特に敏感な子だもの、何かを感じているかも知れない……」
 恵は、思わず声を荒げた。
 自分のため、子供達のためにと言わなければ、彼が納得しない事は経験から解っていた。「あんたのため」と言っても無駄だ。まして、「操ちゃんのため」などと言っても意味はない。操の事を大切に考えながらも、今尚どこか部下や弟子のような感覚が残っているようで待たせても構わないという考えが見え隠れしている。そうでなければ、こんなに度々京都を空けられるわけがない。
「あんたが此処にいてくれる事は、心強い……。嬉しいし、有り難いし、私は今まで、それに甘えてきた。だけど……もう、好い加減にしないといけないと思ってる。もう、今回限りにして欲しいの。せめて、操ちゃんと祝言を挙げた上で、操ちゃんが良いと言った時に来て欲しいわ。そうじゃないと、私も落ち着かない」
「お前は何故、そう操に気を遣う?」
「操ちゃんは、私にとっても大切な友人よ。手は掛かるけど可愛いし、憎めない子だわ。友人の婚約者と、いつまでも一緒にいる事がそんなに自然な事だとは思えない。あんたこそ、もっと操ちゃんに気を遣うべきよ」
「婚約者、な。今までに、何度か言ったつもりだったが、もう一度言っておく。俺は、操と婚約したわけではない」
 蒼紫の声が、低く響く。冷静な中に怒りとも苛立ちとも、どこか悲哀とも思えるような複雑な感情が滲み出て、背筋が粟立つ。恵はぐっと歯を喰い縛り、蒼紫を睨め付けた。
「あんたは操ちゃんと結婚するのよ。操ちゃんはそのつもりで花嫁修行をしているんでしょう? 翁さんだってそう言っていたわ」
「…………翁が?」
 「いつ」。問わんとした瞬間、風が流れ、ふたりの髪を揺らした。恵の前髪の下に、赤黒い傷が覗く。蒼紫は、無意識に顔をしかめた。
「……はぁ。言いたいことはまだあるけど、私は往診に行くから。遠いところ来てもらったのにこんな事を言ってしまって、ごめんなさい。取り敢えず、今は休んで……また、ゆっくり話しましょう」
 溜息を零しながら、恵は蒼紫を見遣る。蒼紫は恵が立つと同時に立ち上がり、肩を抱き寄せた。
「顔色が悪い」
 耳元で言われ、恵は咄嗟に蒼紫を振り払った。雨の所為。暗い所為。言い返そうとしたものの、それが意味を成さないことを解って、恵は唇を固く結んだ。





 薄灰色の空から、雨がバラバラと落ちて来る。雨足は強くはないが、大粒の雫が地面に叩き付けられては弾けた。
 蒼紫は縁側で外を眺めていた。先程、傘をさして出て行った恵の足音は遠ざかり、今は雨音だけが響いている。
「追わないんですね」
 どれくらい時間が経ったのか、縁側に顔を出したのは、次男の光黄だった。
「拒絶されても追うと思ってました。だって、この雨ですよ?」
「光黄……」
 非難でも揶揄でも困惑でもなく、半ばがっかりした様子で光黄は呟いた。若干十二歳ながら、光黄は最も人の感情に敏感で、何より、勘が働く。その鋭さは、蒼紫も一目置く程だった。
「追うべきだったか?」
「その辺りの判断はお任せしますけど。でも、追うと思ってました。……蒼紫さんじゃなかったのかなぁ」
 光黄はふてくされた様子で蒼紫の隣りで膝を抱えた。意味深長な光黄の言葉に、蒼紫は眉を寄せる。
「お前は、俺に何を期待している?」
「蒼紫さんに、というか、誰かが母さんを助けてくれること。それが、蒼紫さんだろうと建水さんだろうと、それこそ抜刀斎だろうと――兄さんは嫌がるだろうけど――構わないんですよ。本当に母さんを支えて、一緒にいてくれるなら。蒼紫さん、本当にこれきりにしようと思ってますか?」
 光黄は、じっと蒼紫を見詰めた。底の見えない漆黒の瞳に、微かな光が揺れる。
「…………」
「答えないのは狡いですよ」
「…………」
「じゃぁ、質問を変えます。母さんと操さん、どっちが好きですか?」
 あどけない子供の顔ではない。穏やかさを装った笑顔は、とても子供の顔には見えない。自分の感情に素直な征太郎や、背伸びしたがる昴の方が余程子供らしい。
「狡いのはどっちだ……って思ってます?」
「……お前なら、答えを解っているだろう、光黄」
「どうでしょう?」
 人を煙に巻く物言いと作り込まれた笑顔は、何処か“弱肉強食”の摂理を信じ過ぎた少年に似ていた。かつて、手を組んだ男の懐刀だった少年の。
「俺は、母さんが大事なんです。悪いけど、兄さんには母さんは守れないから、俺がなんとかしないと」
 余裕を見せる笑顔の裏に、焦燥が見え隠れする。
「そのために、俺を動かそうと?」
「……誰でも良いんです、本当に。貴方でも、健水さんでも、他の誰かでも、母さんが幸せになれるなら。ただ……母さんは誰かを待ってるんだと思うんです。それが、蒼紫さんなんじゃないかって……」
 思っていたのだが、さて、どうなのだろう。
 幾ら光黄が鋭いといえど、逢ったこともない人間に関してどうこう考えることなど出来ない。東京に住む、母の想い人であるという男、緋村剣心。二度と会津に来ることのないその男に、母は何か期待を寄せているのだろうか。彼の像が明らかにならないことには、蒼紫や健水を天秤にかけることすら出来ない。それに、緋村剣心とは別に、目に映らない存在があるように思えてならない。
 光黄は探るような目付きで蒼紫を睨んだ。
「お前は本当に、母親を大切にしているのだな」
「母さんがいなければ俺は今でも闇の中ですから、母さんは恩人で、俺の最愛の人。大好きな人です」
 屈託のない――こんな時ばかり年相応の――笑顔を見せる光黄の頭を、蒼紫はそっと撫でた。兄弟の中で、取り分け二面性の強い光黄。嘘偽りに塗れていた光黄が、素直な言葉を口に出来るのも。あどけなく笑うことが出来るのも、総ては恵のお陰となれば、好意も底が知れないだろう。
「最愛……か……。征太郎も同じ事を言うだろうな。尤も、お前と征太郎では、好意の意味合いが違うが」
「そうですね。蒼紫さんも……」
「……何?」
「母さんと操さんに対する好意の意味合いは同じじゃないですね」
 言いながら、また子供らしからぬ顔をする。
「お前は、全く……」
 呆れたように呟いたのは、征太郎だった。いつの間にそこにいたのか、腕組みをして光黄と蒼紫を見下ろしていた。
「俺は、お前がいつか母さんを泣かしそうで怖いよ」
 五人の兄弟で一番、本心を表さない子供。人を喰ったような笑顔が、何処か自分に似ていて胸が痛いと、いつか母は言っていた。
「泣かせない。それに――傷付けない。身も心も」
 含みを持たせて言葉を吐いた光黄の人差し指が、やはり含みを持って額を指す。征太郎は右手を握り締めたが、歯を喰い縛り、振り下ろす事だけは耐えた。暴力は、母が嫌う事だ。東京にいた頃、何かにつけて手を挙げたがる男がいて、ほとほと困ったらしい。何より、征太郎は、人を傷付ける事を禁じられている。恵の里子になる時、もう誰にも傷を負わせないと約束したのだ。
「……雨が、強いな……」
 数瞬の沈黙の後、不意に征太郎が口を開いた。雨足が急に強くなり、大粒の雨は地面を砕く勢いだった。
「……母さん!」
 光黄の顔がさっと青褪める。前触れもなく走り出そうとする光黄の首根っこを征太郎の手が捕まえた直後、空を歪つな閃光が割った。同時に、轟音が響き、地面を微かに揺さぶる。
「お前は此処にいろ!」
「なっ――」
「母さんを悲しませたくないんだろ? 今は俺に任せろ!」
 言うなり、征太郎は一目散に玄関へ向かった。
「くっそぉ……」
 光黄はその場に座り込み、掌を床に打ち付けた。
「征太郎のいう通りにしていろ。お前の身体がもたない」
「母さんだって……。蒼紫さんも気付いてるんですよね、母さんが身体壊してることくらい! だから会津<ここ>に来たんですよね?」
 急に声を荒げた光黄を前に、蒼紫は唇を結んだ。沈黙こそ肯定だと光黄は捉えた。
「俺は、母さんが幸せなら死んだって良いのに……」
「お前が死んで、恵が幸せになれるか?」
 蒼紫はそっと光黄の髪を撫で、いつの間にか姿を消していた。
「――“恵”ですか……」
 いつも、“高荷”と呼ぶくせに。人前では、いつも。
「狡い……」




 大粒の雨が、止めどなく地面で弾ける。頭上からも足元からも、雨水が襲い、身体を冷やした。征太郎は、傘を手に、本郷焼の窯元に向かって駆けていた。
 極端に勘の鋭い光黄は、なんの根拠もないものの、良くない事を察する。大抵外れない。虫の知らせだと光黄は言う。理由は解らないが、全身に不安が押し寄せてきて、震えが止まらなくなるらしい。紫の父が亡くなる直前も、突然震えながら泣き出した。人間の直感は説明のつかないものだが、光黄の直感は、信じる価値がある。特に、母の事となれば。
 激しい豪雨と雷のため、人通りがない。雨が降ることは解ったけれど、こんなに酷く降るなんて思わなかった。
「母さん……?」
 雨に煙る視界の先に、くすんだ藤色の人影が揺れる。朱い傘を肩にかけ、竹垣に手を付いて俯いていた。傘の下に覗く手が、人のものとは思えない程に青かった。
「母さん!」
 征太郎が人影に駆け寄る。それは紛れも無く、母だった。
「征……太郎……?」
 母の眼は虚ろに征太郎を捉える。
「母さん……」
「ごめんなさい、少し、気分が……」
「母――」
 征太郎の胸に、恵がのろりとしな垂れかかる。傘がぱしゃんと地面に落ちた。肩に触れる頬が酷く熱い。
「大丈夫? 歩ける?」
 征太郎は、恵に傘を差し掛けながら、肩を貸して立たせた。恵は征太郎よりもやや身長が高い。非力な征太郎には、身体を支える事がやっとだった。
「大丈夫…………よ……」
 大丈夫じゃない。大丈夫のわけがない。
 何処かで休ませてもらわなくては。誰かの力を借りなければ。自分だけではどうにもならないことに、征太郎は苛立っていた。
「征太郎……ごめん、少し座らせて……重いでしょう?」
「でも、雨――」
「――征太郎!」
 足元の雫を跳ねながら、駆け込ん出来たのは蒼紫だった。
「蒼紫さん……」
 蒼紫が顔を覗くと、恵は蒼紫の服を掴んだ。
「蒼紫…………」
 辛うじて絞り出す声。身体を傾け、蒼紫に寄り掛かる。
「…………助けて……」
「解った」
 蒼紫は恵の背中に手を添え、そっと抱き上げた。熱い吐息が唇から零れる。
「濡れるが、直ぐに着くから耐えてくれ」
「ん……」
 恵は先程より穏やかな顔をして、蒼紫に身を預けた。
「征太郎、先に戻る」
「…………」
 言うが早いか、蒼紫は恵を抱えたまま走り出した。傘を打つ雨の音を聞きながら、征太郎は遠ざかる男の後ろ姿を見詰めていた。
 誰かの力を借りなければ、母を助けることは出来ない。弟にあれだけ偉そうな事を言っておきながら、母を抱き上げる事すら出来なかった。誰かに助けて欲しかったけれど、それは彼ではない。彼は嫌だ。彼は駄目だ。
 雨の中、征太郎は傘を握り締めた。何よりも嫌なのは、何よりも嫌いなのは、母のために何も出来ないくせに、彼や、母の慕う相手を憎む自分自身。不甲斐ない長男。
 雨が爪先から征太郎を侵す。じわりじわりと冷えてゆく身体は、征太郎の不安と屈辱を煽った。



 寅の刻を過ぎて、漸く雨足が弱まってきた。
 うっすらと開かれた恵の瞳に、見慣れた天井が映る。
「眼が覚めたか」
 枕元の声。首を傾けると、寝台の隣りに蒼紫が座っていた。
「蒼紫……」
 全身に怠さを感じつつ恵はそっと身体を起こした。
「無理はするな」
「子供達は?」
 口調ははっきりしているが、動きが危うい。蒼紫が恵の背中を支え、自分の肩にもたれさせた。
「さっきまで、相葉と懸命にお前の看病していた。半刻程前に、みんな寝たようだ」
「そう………………有り難う、蒼紫」
「初めてだな、お前が素直に助けを求めたのは」
 恵は困ったように俯き、そっと息をついた。
「操ちゃんの事を考えると頼りたくなかったけど……こんな事になってしまって、反省してるわ。征太郎も昴も光黄も紫も、心配したでしょうし」
「楓も。幼いが、感じ取ってはいるようだ。もう、お前の身体はとっくに限界だった。精神力だけで辛うじて耐えていたに過ぎない。この細い身体の、何処にそんな――」
 恵の肩を抱く蒼紫の手に力が篭る。しかし、その肩は直ぐに骨に触れそうな程弱く、蒼紫は力を緩めると、空いた手を重ねて柔らかく抱き締めた。
「こういうの……久し振りね」
 自嘲気味に、恵がぽつりと口にする。
「“こういうの”?」
「こうやって、あんたに肩を抱かれるの」
 当たり前のように、自分を蔑む嗤い方をする。自分を責める癖は昔から変わらない。
「あの頃とは、違う」
「…………もし本当に違うなら、私は――」
 言いながら、蒼紫を押し戻そうとした恵の身体を、蒼紫の腕が無理矢理抱き寄せる。
「お前は今、会津と自分の子供の事だけを考えていれば良い。他のものに気を遣うな」
 暗に、操との仲を考えるなと言いたいのだろう。恵はぐっと唇を噛んだ。
「あんたに力を借りてるんだから、あんたの幸いを願って何が悪いの?」
「だったら、俺の“幸い”のために、俺にお前を手伝わせろ。母親の故郷のために、俺も力になりたい」
「…………え?」
 恵ははたと顔を上げた。間近にある白い男の顔は、表情は薄いというのに何処か照れくさそうで、穏やかで、初めて見る人のようだった。
「俺の母親は、お前と同じ会津の女だ。会津藩主の血族の、御庭番に繋がる女だった」
「…………初めて聞いたわ」
「翁や、幼少の頃からの俺を知る者達――京都では近江女くらいしか知らない」
「蒼紫の、お母様……」
 恵が呟くと、蒼紫は小さく頷く。
「あぁ……俺の生まれも会津だ」
「……そうなの!?」
「らしい。難産だったが、産婆が手を尽くしたお陰で、母子ともに一命を取り留めたと聞いている」
「へぇ……」
 恵の瞳が輝いた。今まで知らなかった蒼紫が顔を出しているようで、不思議と胸が踊る。
「蒼紫のお母様は、どんな人?」
「知らん。乳離れしない内に江戸に連れられて、以来江戸城で育ったからな」
「一緒には暮らさないの?」
「乳母に育てられて、三歳から修業が始まる」
「三歳で!?」
 恵は思わず声を上げた。今の楓と変わらない歳の頃から修業をしているというのか。
「そうだ。だから、母親の顔も名前も知らない。俺はこの地で生まれただけだ」
「どうして秘密にするの?」
「秘密ではないが、話す事でもないだろう。近江女は乳姉弟だから知っているだけだ」
「乳姉弟?」
「同じ乳母に育てられて、十二まで修業を共にした」
 今の光黄と同い年だ、と恵は思う。蒼紫と近江女は、密偵方となるべく育てられた。しかし、十二の頃に、近江女は足に傷を負って密偵方を降ろされた。東北で捕らえられた孤児の般若が、蒼紫に助けられ、密偵方の修業を始めたのも同じ頃だ。
「そうだったの。何だか不思議ね。いつの間にか長い付き合いになったけど、知らない事だらけだわ」
 恵の頬が赤く染まる。雨音の響く、ひんやりとした暗い診察室で、それでも何故か、蒼紫には恵の髪の一本一本まではっきりと見えていた。
「あんたのお母様、どんな人かしらね? まだ会津にいるのかしら。剣さんは、以前話してくれたのよ。私に似ているんですって。だから――」
 言いかけた恵の言葉を途切るように、蒼紫は半ば乱暴に恵の華奢な身体を抱き締める。
「蒼――……?」
「すまない。ただ、母親は、会津戦争で死んだと聞いている」
「そうだったの。……ごめんなさい」
 自分を抱える蒼紫の腕を、恵は優しく撫でた。彼の腕の中で、自分の身体の動きが正常に戻るのを感じながら、恵はひとつの決断をすべき時を察していた。
 長い沈黙がふたりの間に下りた。
「私……死んでも良いと思っていたわ」
 前触れもなく、ぽつりと恵が声を零した。
「恵……」
「というより、死ぬ気でやらないとどうにもならないと思ってた」
「…………」
「会津はみんながそう。自分の目の前にあることに死ぬ気でぶつかって、小さな幸福を積み上げているわ。私はそれを支えて、助けに来た。でも、私ひとりではどうにもならないし……医者である私に何かあったら元の木阿弥だもの、余力のある者にそれを伝えて、継承する義務があると思った」
 余力のある者――守るものも育てるものもなく、守られながら、何かしたい、何かしなくてはと熱くなっているもの。職を持たず、親の仕事を継ぐどころか、親がいないために何も出来ない孤児達。幼少の楓を除いた、恵の養子四人。そして、恵より一歳年上ではあるが、家族もなく、医者としての知識を持ちながらもそれを活かすことの出来なかった健水もそのひとり。いや、寧ろ健水はその筆頭だろう。
「健水君は、もう医者として十分やっていけるし、征太郎や昴も、それぞれの得意分野を活かせるようになるわ。あの子達を医者として育てて、命尽きるまで働こうって……思ってた……」
 即ちそれが、“死んでも良い”という思考。しかし、
「今は?」
 静かに問われ、恵はふいと顔を伏せた。指先や肩が震え、言葉を詰まらせる。蒼紫は、わななく肩を抱く手に力を込める。恵は彼の胸にしがみつき、瞳から大粒の涙を流した。
「恵」
「私……あの子達の成長が見たい。叶わないと思っていた夢が――あの邸で諦めた筈の望みが叶うのよ。失いたくない。側にいたい……」
 絞り出す声に、胸を締め付けられる思いがした。こんな風に泣く理由も、夢を失いかけた理由も、自分にあることを蒼紫は理解していた。そうさせた慚愧の念は、少なからず蒼紫を会津に導いていたのだから。
 最早かける言葉など見付からず、蒼紫はただただ力一杯恵を抱き締めた。壊れそうなほどに細い身体を、腕に納めておかなくては自身が耐えられなかった。
「恵、俺は――」
「――待って、言わないで。言わせて、私に」
 恵は蒼紫の身体をやんわりと離し、彼の顔を見詰めた。意志の強い瞳に、蒼紫は唇を結ぶ。長い指で涙を拭ってやると、瞳は一層輝いた。
「お願いです、助けて下さい。貴方の力が必要なんです」
「…………」
「これまで通りとは言わない。貴方が来られる時で構わないわ。何より、貴方の一番大切な人を、苦しめないようにして欲しい。でも、可能なら、可能なだけ、会津のために、力を貸して下さい」
 今まで人に助けを求めなかった、ひとりで総てを背負い込もうとしていた恵が、「助けて下さい」と言った。会津のため、彼女のために、何かしたいと思わないわけがない。だが、
「……条件がある」
「は――はい」
 恵は身を固くした。
「必要になったらすぐに呼ぶことだ。ひとりで何とかしようと思うな。京都から会津までの距離を考えると、すぐに駆け付けることは出来ないかも知れないが、出来る限り速く来るから」
 蒼紫は、真っ直ぐに恵の目を見詰めた。
「……ありがとう」
「それから、今日一日は休む事だ。子供達にも相葉にも心配をかけるな。それが、条件だ」
 恵は小さく「はい」と答え、それから「お願いします」と頭を下げた。蒼紫は軽く恵の背中を叩くと、その細い身体を寝台に横たわらせた。先程は雨に濡れて着物が重くなっていたから解り辛かったが、初めて逢った頃に比べて、体重が落ちているのは明白だった。
「夜が明けて子供達が目を覚ましたら、お前が意識を取り戻したことは伝えておく。ゆっくり休め」
 蒼紫に微笑を返すと、蒼紫はそれを承知と認め、小さく頷いた。恵は目を閉じ、瞬く間に眠りの世界に落ちてゆく。蒼紫の掌が、恵の額に触れた。熱はまだ高いが、先程よりはマシのようだ。安静にさえしていればすぐに回復するだろう。
 手を外すと、額の傷が再び目に入る。恵が会津に戻ってから初めて訪ねた時、恵は額に薄汚れた包帯を巻いていた。その傷は、結局未だに消えずにいる。何故その傷がついたのか、蒼紫は知らない。剣心は自分がつけたようなものだと語ったが、少なくとも剣心が恵に手を掛けることなど考えられない。征太郎は、このことについて触れたがらない。征太郎が関わっているのは明白だが、その理由も解らない。また、恵を「守れなかった」などと思っているのだろうか。触れてはならない傷跡は、剣心の左頬の十字傷を思わせる。傷は消えないのか、消さないのか。この傷を通して恵は何を見ているのか。
 雨の音が弱まると共に、少しずつ光が差してくる――



「目を覚ましたが、もう一度眠りについた」
「知ってる」
 障子を開けると、征太郎がいた。例によって、繕い物に勤しんでいる。
「俺が此処にいたこと、気付いてたくせに」
 恵が目を覚まして間もなく、征太郎が縁側に来たことは気付いていた。
「大事な話みたいだったから、入りませんでした。良かったですね。これで貴方は、会津のためと託けて、母さんに逢いに来られるんですから、堂々と」
「……警戒心剥き出しだな」
 征太郎はギロリと蒼紫を睨んだ。
「昔程素直に貴方を受け入れられないのが残念です。俺達、文字通り力不足で、貴方みたいに腕っ節の強い人が来てくれるのは有り難いんですけどね。でも……母さんを困らせる奴は許さない。自分で蒔いた種くらい自分で刈り取ってくださいよ」
 苛立たしげに、征太郎は吐き捨てた。しかし、いつもと違う。
「何が言いたい?」
 征太郎の意図を総て察する事が出来ず、蒼紫は眉を潜めた。普段なら、もう少し解るものなのだが、この言葉ばかりは真意を読み切れない。
「柏崎さん……翁さんって言うんですっけ、あのお爺さん」
「翁を、何故――」
 知っているのか。京都に来たことのない征太郎が。
 殆ど表情には表れなかったが、蒼紫の困惑が征太郎には伝わっていた。やはり知らなかったのか。
「春に貴方が帰ってちょっとしてからかな、来たんですよ、その人。今度貴方が来たら、帰るように言ってくれって、母さんに金渡して行きましたよ。手切れ金って奴ですか。丁度、俺と母さんしかいなかったんで、他は誰も知らないけど……母さん、金はすぐに送り返しましたけどね」
 全く知らなかった。そういえば、春に翁は蒼紫の恩師に会いに行くと仙台に行った。本当に仙台に行った帰りなのか、直接会津に来たのかは解らないが、兎に角、その時に会津に赴き、そのやり取りがあったということだろう。苦々しげに奥歯を噛み締める蒼紫の胸倉を、征太郎が掴んだ。
「自覚して頂きましょう、自分の立場を。婚約者がいながらふらふら女を訪ねている事実を。貴方を突き放したのは、母の本心。貴方の婚約者を想っての。けど、貴方の婚約者より、貴方より、母は会津を大切に思っているから、貴方に頼ることは、会津のための苦渋の選択だったんですよ。非力な自分達がこんなにもどかしい。もう、いっそ抜刀斎でも良いと思った、今の貴方よりは。解りますか、母さんが――“高荷恵”が、どんな思いで貴方に「助けて下さい」と言ったか。その言葉を口にするのに、どれ程の覚悟が要ったか」
 出来るだけ声を押し殺し、早口で捲くし立てた征太郎の瞳に、憎しみと怒りが沸く。その奥底に、母を、いや、高荷恵を想う愛情が滲んでいた。
 せめて婚約者がいなければ良かったのに。そんな相手さえいなければ、もう少し受け入れることが出来たかも知れない。そんなことを今更言っても仕方がないのだけれど。母を笑わせたいと、幸せであって欲しいと思えば思う程、この男の存在が憎らしく思えて仕方がない。彼女に向かう自分の情愛の歪みなど、とうに気付いてはいる。彼が彼女を想う以上に、この想いが許され難く罪深いことだとも知っている。けれど、どんなに叶わぬ愛だとしても、生まれ続けるものを抑える術などない。
「聞いて良いですか?」
 黙りこんだ蒼紫から手を離し、征太郎は静かに問い掛ける。蒼紫は答えなかったが、征太郎は構わず口を開いた。
「どう想ってるんですか?」
 何を、とは問わず。また、沈黙が降ってきた。
 全く、狡い。
 雨にぬかるんだ庭に突き飛ばしてやりたい衝動に駆られながら、征太郎は掌に爪を食い込ませた。
 風が吹いていた。雲が切れ差し込む光。眩しさに目を細めれば、その向こう、澄み渡る空に七色に煌く小さな橋が浮かぶ。蒼紫も、不意にそちらを見やる。唇から言葉が零れた。今度は、征太郎が言葉を失くした。渦巻く感情を辛うじて抑えて、掌に血が滲んでもただただ手を握り締めてた。
 ふたりの瞳に映る虹は、穏やかに眠る女の未来に繋がっているかのように、光のその先へ、道を描いていた。
 再び瞳が開かれたとき、彼女は何の迷いもなく、光へと歩みだすだろう。
 その姿を美しいと想い、また、この愛は熱を帯びるのだ。



 間もなく、夏は終わるだろう。
 ひと夏の熱に浮かされた情などでなく、季節が流れても生まれ続けるこの想いは、どこへ行き着くのだろう。
 それが虹の先の、同じ未来でないとしても。

 アナタノ サイワイヲ イノル。


許されぬ愛などないといったのは誰だろう。
本当に結ばれるべきは誰だろう。
こんな未来を描いたのは、誰だろう。


広告 [PR]スキンケア  転職 化粧品 無料 ライブチャット