It’s gonna rain

 ふたりはいつも騙されてばかり。
 全ては雨で始まるんでしょう。


   It’s gonna rain


「何処か……出掛けないか?」
 元治元年、初夏――
 二日後に祇園祭を控えた京都は、このところ普段より賑わっている。祭の準備で大童なのだろう。明後日には一層賑わう。
 宿の窓に腰を掛けて外を眺めていた少年は、側で繕い物をしている少女に声を掛けた。
「……」
 少女は何も言わずに顔を上げた。無表情で何を考えているのか解り辛いのだが、少年には、少女が自分の言葉に少しばかり関心を示した事を察した。
「少し、外に出たくて……天気も良いし」
「…………」
「祇園祭が近くて人が多いが、山鉾でも見に。俺は生まれた時から京にいるが、祇園祭は初めてだ」
「そうですね。私も見たことがありません」
 少年は立ち上がり、腕に抱えていた愛刀を腰に差した。糸の処理をすると針山に針を刺し、少女も立ち上がった。漆黒の髪が、窓から吹き込む風に揺れた。


 黒船来航から既に十数年、三百年続く徳川幕府を倒さんとする者と守らんとする者がぶつかり合う、混沌とした内乱の時代――後世において“幕末”と呼ばれるこの時代は、日本史に残る最大級の革命期である。
 この動乱の時代に、少年は生まれた。出生名は心太。後に剣心と改名し、剣の修業に勤しんだこの少年は、数ヶ月前に師匠と袂を分かち、長州藩の奇兵隊に志願した。武士階級の者ではなくとも、志と実力があれば入隊を許される部隊だ。貧しい農村に生まれて人買いに売られた少年にとって、千載一遇の好機であった。此処で少年は、長州藩の実質的指導者、桂小五郎の目に留まり、再び京に上る。そして、暗殺の任務を受ける影の人斬りとなった。圧倒的な抜刀術によって相手を瞬く間に冥土へ送り込むその非凡なる強さから、“抜刀斎”と名乗るようになる。
 少女は雪代巴といった。酒場で絡まれていたところを抜刀斎に助けられ、礼を言わんと追ったところ、彼が襲ってきた間者を惨殺する現場を目撃した。そこで気を失い、抜刀斎が宿に運ぶと、そのままそこで住み込みで働くようになった。表情が乏しく、傍からはその考えを読み取ることの難しい娘であった。しかし、次第に抜刀斎と気を寄せ合うようになり、今では互いに唯一心を許し合える仲となった。
 ふたりの間に言葉は少なかったが、穏やかな空気が流れていた。

 抜刀斎は巴とふたり、並んで宿を出た。空は明るく、うっすらとかかった雲の隙間から柔らかな光りが降っていた。雲が晴れれば、夏を前にした陽射しの、厳しい暑さに見舞われるだろう。今は、丁度心地好く歩ける気候で、抜刀斎は穏やかに空を見上げた。
「はぁ……気持ちが良いな」
「そうですね」
「…………」
「…………」
 それきり、ふたりは何も言わずに歩いた。
 抜刀斎は数えで十五、巴は十八と、まだまだ若いというのに、ふたりは若者らしい浮かれた様子や溌剌さが微塵もない。ふたりは、それを疑問視した事もない。時代が時代なのだ。明るく伸びやかに生きられるものの方が少ない。抜刀斎とて、自ら選んだ道とはいえ、この生き方になんの疑問も持たずにいられるわけではない。寧ろ、先の見えない殺戮の生活は、日を追う毎に疑問が膨らんだ。
“この汚れた血刀の向こうに、誰もが安心して暮らせる新時代があるのなら”――
 長州に加わる時に言った言葉は、今も変わっていない。それを信じて進んでいるつもりだった。しかし、薄々気付き始めている。多くの人を殺めて新時代を築いても、殺めた人々の家族が、新時代をどんな想いで生きることになるのかを。戦わなくては切り開けない、流血の中からしか生まれない新時代にどんな価値があるのだろう――そんな事を考えたところで、何の意味もないのだが、ふとした瞬間、いつもそんな事を取り留めもなく考えてしまう。
 空を仰ぐ抜刀斎の瞳は虚ろに曇り、唇からは溜息が零れた。
「帰りますか?」
「え?」
「つまらないようでしたら、帰りますか?」
「いや、そういうわけでは……!」
 抜刀斎は、慌てて首を振った。
「また何か、考え事でも?」
「またって……」
「時折そうしてぼんやりと何か思索に耽っていることがありますから」
「そう……か。考えても仕様のない事だ。俺は何のために人を殺めるのか……とか」
 抜刀斎は、手に視線を落とす。巴も、無意識にそれに倣った。少年らしく華奢ではあるが、まめと傷だらけの痛々しい手だった。
「…………」
「幕府による統治には、もう限界が来ている。新しい社会を作らなくてはならないとは思う。でも……“汚れた血刀の向こう”にあるのは、本当に誰もが安心して暮らせる未来なのか……。俺が殺めた人々の家族や、大切な者は、この先何を想って生きる事になるんだろう」
 抜刀斎の肩が微かに震えた。泣いている訳ではないが、少年の心は、均衡を保てずに悲鳴を上げている。巴の手が、抜刀斎の肩に伸びた。
 その時。
 ゴゴゴ、と、低く重い音が響いた。獅子が唸るようなその音は、空から降ってきた。
「一雨来そうだな」
「そうですね」
 東の空には太陽が照っているが、西の空には暗い雲が光を飲み込んでいた。風の流れからしても、間もなく降り出しそうだ。
「帰りましょうか」
「……あぁ」
 抜刀斎は、巴に小さく頷いた。ふたりは揃って来た道を戻った。巴は着物の足元を気にしながら、少し速く歩いた。抜刀斎も、僅かに速度を上げた。
 雲がみるみる空を覆う。思ったより雲の動きは早かった。
「降りそうですね」
 巴は視線を空へと向ける。「ああ」抜刀斎が答えた。「急ぎましょうか」
「少し……走れるか?」
 宿は、みっつ先の角を曲がれば見えてくるが、ふたりが宿に着くのと雨が降り出すのとどちらが早いか。抜刀斎の言葉に巴は頷き、走り出した。元々、余り走り慣れてはいないであろう巴は、足元が危うい。抜刀斎は、咄嗟に手を差し出しかけた。しかし、手を伸ばそうとした瞬間、それまで俯き加減だった巴が突然顔を上げ、視線が交わった。抜刀斎は思わず手を引っ込め、ふいと巴から目を反らした。
 宿に着くまで、雨は降らなかった。抜刀斎は安堵し、巴に微笑んだが、巴は表情を変えなかった。しかし、ほんのりと頬が紅に染まっている。駆けたからなのか、それとも別の訳があったのかは解らないが、巴の顔が、無表情ながらもいつもよりやや明るく見えて、抜刀斎は胸が熱くなるのを感じた。ふたりが部屋に上がると、外から雨音が響いていた。廊下を歩き、階段を上っている間に降り出したのだ。
「間一髪だったな」
「はい……」
「疲れたか?」
 巴は無言で首を横に振った。あからさまに息が上がっているというわけでもないが、ただでさえ少ない口数が極端に減っているところを見ると、疲労を感じているのだろうということは見て取れた。
 抜刀斎は、窓枠に腰を下ろした。巴も、同じ窓のそばに座った。
 先程まで明るかった空が濃灰色に染まり、雲と同じ色の雨が街に叩き付けていた。
「明日も雨だろうか……」
「どうでしょう」
「明後日は、晴れると良いが……」
「そうですか?」
 巴は小首を傾げた。
「明後日は祇園祭りだろう?」
「行くのですか?」
「いや、ただ、明後日は晴れた方がみんな嬉しいだろうから」
「あなたは……」
 口にしかけた言葉を、巴はすぐに飲み込んだ。抜刀斎は、一瞬巴を見たが、直ぐにまた窓の外へ眼を向けた。バタバタと水を跳ね上げて、人々が窓の下を駆け抜けてゆく。祇園祭りの準備に追われる人達にとっては、手痛い状況だろう。
「俺が生まれた日も、突然酷い雨が降ってきたそうだ。あんまり雨が強くて、産婆が来られなかったらしい。大変だったと、度々聞かされたよ」
 目を細め、かつて父母と過ごした時間を思い出す。その瞳には、まるで年相応の少年の無垢な光が宿っていた。
「幸せでしたか?」
「……うん、俺は両親に愛されていたんだって、今は解るから……幸せだよ」
 今は解るから、幸せ。巴は、かつて幸せだったかと聞いたのだが、抜刀斎は今を語った。家族と過ごしていた頃、その愛情を察するには、彼は幼かったのだろう。それでも、前を向いて微笑む彼は、清しく誇らしげだった。
 巴はゆっくりと立ち上がり、窓の外を見詰めながら、抜刀斎と同じように窓枠に腰を下ろした。
「私が――」
 雨音に消されてしまいそうな程細い声。抜刀斎は巴の声に耳を澄ます。
「私が産まれた時は、紅葉の美しい季節だったそうです。夕刻で、空も山も茜色に染まっていたとか……」
「幸せだった?」
「はい、貧しかったけれど、とても……」
 相変わらず表情には出さないが、唇から零れる声音が、如何に温かく幸福であったかを示していた。
「初めてだな……巴が、自分の事を話してくれるのは」
 抜刀斎の呟きに、巴ははたと彼を見た。巴の頬が、茜色に染まる。
 巴は黙って窓枠から腰を上げ、部屋を出ようとした。抜刀斎は、咄嗟にその手を掴む。
「……あの?」
「あ……すまない。その……巴、雨が……残念だったな」
「…………?」
「もう少し、ふたりで……歩きたかった。山鉾を、見たかった……」
「…………はい」
 巴は小さく頷いた。抜刀斎の頬が、夕日よりも紅く色付く。巴の手を離すと、抜刀斎は深く息を吸った。
「今年は無理だけど、来年は……山鉾を一緒に観に行こう」
 抜刀斎の額に汗が浮かんでいた。
「……………………はい」
 巴の答えに、強張っていた表情が和らぐ。
 巴は、さっと抜刀斎に背を向けた。


 来年、きっと。出来ればその先も、ずっと――




 明治十二年、初夏。
 抜刀斎――維新を経て、人斬りから流浪人・緋村剣心となった彼は、東京にある神谷活心流剣術道場で暮らしている。神谷活心流師範である父を亡くし、師範代として道場を支えている神谷薫とは、先日将来を誓ったばかりだ。近く、近しい者達にその報告をすることになっている。

 元治元年六月、あの雨の日から二日後の祇園祭の夜、歴史が大きく動く事件が起きた。勤皇派維新志士達が会合を開いていた料亭に、幕府派の志士集団、新撰組が攻め込んだのだ。料亭・池田屋で起きたその事件から時代は大きなうねりとなり、禁門の変の勃発により、京都市中は三万戸炎上という壊滅的被害を受けた。これを受けて、一旦京都から脱する事となった抜刀斎は、巴を妻に迎え、畿内の山村に移り住んだ。
 しかし、かつて婚約者を殺されて復讐するため、抜刀斎暗殺の計画に加わっていた巴は、殺すどころか愛情をも抱いてしまった彼を守るため、暗殺計画の首謀者を殺害。同時に、首謀者を斬らんと振り上げた抜刀斎の刀に身を晒すこととなり、彼の腕の中で息を引き取った。
 一緒に山鉾を見に行こう――
 守られる事のない約束を交わしてから、十四度目の祇園祭が近付いている。
 昨年、京都で起きた事件を共闘した京都御庭番衆の巻町操から、祇園祭に一緒に行かないかと文が届いたのは、祇園祭の二週間前の事であった。
「行こう、剣心。操ちゃん達にも報告しなくちゃだし……あ、納涼会、京都でしようか?」
「……京都では、恵殿が来られぬでござるよ」
「そっか」
「本来なら拙者達が出向くべきでござるが、恵殿に関してはそれも難しいから……」
 医者の高荷恵は、昨年の初秋、故郷の会津へ帰っていった。会津は幕末に幕府派の筆頭だったため、維新後も政敵として目を付けられている。それは、西南戦争後一層厳しくなり、大政奉還から十年を過ぎても人々が飢えや疫病に苦しむ、“取り残された郷”だった。政府がなかなか会津復興のために腰を上げないため、恵は相当苦労をしているらしい。薫にも手伝いたい意志はあったが、恵は来客に気を使う余裕はないし、気を使わなくて良いと言われても無理だからと断りを入れたことがある。医師としての自分を必要とするのなら自ら赴くと文を寄越したのだ。事情がそればかりではない事を、剣心は知っているため、恵への報告は、恵を呼ぶか、或いは文しかないと解っていた。
「ん……雨でござるな」
「あ、ホント! 洗濯入れないと」
「あぁ、拙者が入れるから……」
 ぱたぱたと雨が屋根を叩く音が聞こえ、剣心は庭に飛び出した。急いで物干し竿を下ろし、着物を外して部屋に放り込む。
――あなたは、
 雨音の向こう、よくよく耳を澄まさなければ聞こえない程微かに、かつて耳に馴染んだ声が聞こえて、剣心は振り返る。そこに誰の姿があるわけでもなく。
「どうしたの、剣心?」
「いや、なんでもない」
 剣心は微笑み、再び洗濯物を取り込み始めた。

 “あなたは”
 あの日、あの時、彼女が何を言おうとしたのかは、もう一生解らない。憎しみや恨みを込めていたのか、別の言葉だったのか、もう聞こうにも解らない。彼女の日記に認められていたとしても、それを見ることは叶わない。今は彼女の弟の手にあり、彼は姿を消している。
 洗濯物を部屋に総て入れ、部屋の中に竿を渡して干してから、剣心は縁側に腰を下ろした。薫は間もなく門下生が来るからと支度を始めた。
「……巴…………」
 ぽつりと、彼女の名を口にする。かつて愛した人。いや、今尚、心の片隅に住まう人。彼女への愛情が失せたわけではない。ただ、十四年の歳月を経て、漸く彼女への想いに区切りがついただけ。もう一度、人を愛し、守ろうと決めた。
「巴……君は、幸せだった?」
 問い掛ければ、彼女は微笑んでくれる気がして。
「君がずっと笑顔でいられるように……ちゃんと、俺も幸せになるから……」
 いつも感情を表さなかった彼女が、たった一度見せた幸福な笑顔。守りたいと思った。命を捨てても、守りたいと思った。
「だけど、巴……山鉾は、君と一緒に見に行きたい……。君と約束したように」
 許して欲しいと、思う。かつて妻だった女性、そして、これから妻となる女性に。未練がましいと思われるかも知れないけれど、そんなつもりじゃないと怒られるかも知れないけれど、祇園祭の山鉾だけは、約束を交わした“彼女”と見に行く。人を殺す現実に打ちのめされていた少年を、初めて解放したのは彼女だったのだ。彼女との、小さな小さな約束だったのだ。手を握ることさえ容易には出来なかった。微かな表情の変化に一喜一憂した。
 生まれて初めての、恋だった。



 雨が降る度、きっと君を思い出すだろう。
 祇園祭が近付く度、君を想うだろう。

 ありがとう、君は、最初の幸せをくれた人……


どんなに大人びて見えても、ふたりはあの頃、少年と少女だった。
少年は恋をし、少女は想いに救われた。
どんなに強い雨も、彼の記憶を奪うことはない。



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