迷い月

 誰もそれを知らない。
 月さえも、道標にはなりはしない。



    迷い月


 明治十二年、八月――
 男はこの数ヶ月、ずっと同じ事を考えていた。青く澄み渡る空を見上げては小さく息を漏らし、己の掌を見詰めては切なげに瞳を揺らす。傍から見てもまるで気に止めることのないような僅かな表情の変化ではあるが、彼の中には確かに今までと違う何かが渦巻いていた。
 京の夏は、鮮やかな青い空が古都の町並みに映えるが、太陽は容赦なく町と人に熱を降らせている。しかし、彼は表情ひとつ変えず、額に浮かんだ汗を拭った。
 四乃森蒼紫の住まいは、京都市中の繁華街に程近い大通りに面した“葵屋”という料亭だ。宿も兼ねたこの店は、京野菜と近畿圏で漁れた魚を中心とした旬の素材で作る上品で繊細な料理が人気で、要人がお忍びで来店することも珍しくない。
 蒼紫は、ゆくゆくはこの料理の主となる。決して料理や食材に詳しいわけでもなく、寧ろ若い頃から武術の修行に明け暮れていた若干二十六歳の彼が料亭の主人となり、年上の板前達を束ねる事に不満を抱く者のいない理由はひとつ。元より彼らの間に上下関係が存在しているためだ。
 維新が成るより遥か以前、江戸幕府が繁栄を極めていた頃に、徳川幕府八代目将軍徳川吉宗が御庭番を組織した。後に、御庭番は江戸城を陰から守る隠密江戸城御庭番衆として成長し、幼少時から武術や密偵術、医術などの英才教育を受けた者達が各自の能力に合わせた役職に配置された。この時代には珍しく、家系ではなく実力によった采配が行われていた。江戸時代終盤、いずれ来る尊皇派との衝突に備え、帝のある京都を警護するための組織が置かれた。歴史にその名を残すこととなる新撰組はそのひとつ。そして、江戸城御庭番衆からも、密かにその任を受けて京都に潜伏した者達がいた。それが、京都御庭番衆である。京都御庭番衆は、葵屋を拠点として、表向きは町人に紛れて生活した。京都の街には、御庭番や幕府と深い繋がりを持ち、新撰組とも情報共有を行うような店屋が幾つかあった。その多くは、茶屋や飲み屋だった。人が長く居座る店は、町人から情報を得るにうってつけだったのだ。そこで、御庭番とは全く関係のない、御庭番の事を知りもしない者達と生活を共にし、厳しい板前修業を受けた者もいる。その何人かが、当時身につけた武術とは別の能力を活かし、板前として葵屋を守り立てている。元医務方の白尉と、元市中警護方の黒尉はその筆頭だ。また、茶店で働いていた元勘定方の増髪、葵屋で下働きをしていた元監察方の近江女も、今、葵屋で仲居として働いている。
 当時の京都御庭番衆を束ねていたのは、次期御頭の呼び声も高かった翁であった。翁は、現在の葵屋の主である。そして、その翁より上位、江戸城、京都両御庭番を束ねていたのが、大政奉還直前、十五歳にして御頭となった蒼紫であった。亡き先代御頭の孫娘であり、現在の京都御庭番衆御頭、巻町操は、幼い頃から蒼紫を恋い慕っている。葵屋の者達は蒼紫と操が婚姻するものと疑わず、ふたりが夫婦となると、翁は引退し、蒼紫が葵屋の主人となる。
 維新後、長く日本全国を流離いながら戦いを求めていた蒼紫も、幕末の亡霊と呼ばれた男、志々雄真実等との死闘を経て、漸く京都に落ち着いた。
 操は、いつ蒼紫の妻となっても恥ずかしくないようにと、花嫁修業を始めた。しかし、元来のお転婆な性格とお嬢様育ちの我侭気質もあり、なかなか作法は身につかないようである。
 蒼紫が京都に落ち着いてから四ヶ月ほど経って、蒼紫は仙台に隠居した御庭番時代の恩師に会いに陸奥<みちのく>へ赴いた。ひとりきりで数週間に渡り京都を空けていたため、そこで何があったのかは、京都にいた者達は誰も知らない。しかし、蒼紫の変化はそれ以降に起きた。その事にまだ誰も気付かないままに時は流れ、蝉の鳴く頃になるまでに、蒼紫は何度か恩師を訪ねた。
 京の日差しが強くなり、人々が涼を求めて鴨川が賑わうようになった頃、志々雄との戦いで共闘した東京の仲間、神谷薫等が、納涼会を開くと文を寄越した。操は大喜びし、蒼紫とふたり、東京へ向かうことを決めた。尤も、操は蒼紫が恩師を訪ねて京都を留守にしている間、暇を持て余しては度々東京に遊びに行っていたのだが。
 東京には、神谷活心流剣術道場の師範代である薫、一番弟子である明神弥彦と、薫の想い人である神谷道場の居候、緋村剣心がいる。蒼紫や操はまだ知らないが、剣心と薫はこの六月に婚約し、来年早々に祝言を挙げることになっている。
 彼等三人と、権力者に悪さをしたために指名手配されて国外逃亡を図った相楽左之助の四人が、共に戦った仲間だ。他にも、東京で神谷道場の面々行き付けの牛鍋屋“赤べこ”の主人の娘である関原妙や、そこの従業員である三条燕とも親しくなった。もしかしたら、今度の納涼会には、故郷の会津に帰った高荷恵も来るのかも知れない。誰が集まるのかとわくわくしながら、操は日々を過ごした。
 一方の蒼紫は、日を重ねるに連れてぼんやりと考え事をする時間が増えてきた。

 東京へ旅立つ五日前、蒼紫は縁側で月を眺めていた。薄雲の掛かった空に浮かぶ朧月は、青葉の間から柔らかな光を投げていた。
「蒼紫様、どうかしたの?」
 湯上りで濡れた髪を拭きながら、操は蒼紫の背中に声を掛けた。
「いや……」
「あ、操ちゃん、お風呂上がったの? 蒼紫様は入られましたか?」
 奥の襖が開き、近江女が顔を出す。葵屋はひっきりなしに人が出入りして、なかなかふたりきりになれないため、久々にふたりだけで話す機会を得て上機嫌だった操は、近江女に向かって解り易いむくれ顔を見せた。近江女は苦笑しながら肩を竦め、再び蒼紫を見遣る。
「いや、まだだ」
「入られますか?」
「そうだな」
 蒼紫は徐に立ち上がる。そして、ふと操に視線を向けると、そのあどけない表情に目を止めた。
 操が幼い頃から、蒼紫は操の事をよく知っている。ずっと幼い娘のままだと思っていたが、もう十七。身を固める頃合だろうか。男と女が夫婦となれば、いずれは子を成すものか。幼顔ではあるが、彼女も母となることもあるわけだ。それを、彼女は望むのだろうか。
「操」
 蒼紫は真っ直ぐに操を見た。
「お前は、子供を生みたいと望んだことがあるか?」
 蒼紫の問いは唐突だった。
 操は目を瞬かせ、それからすぐに大きく頷いた。
「うん! うん、勿論! 子供欲しい! 生みたい!!」
 やはり幼い子供のようにはしゃぎ、操は蒼紫に飛びついた。驚き以上に嬉しさが湧き上がり、いても立ってもいられなかった。これは正に、結婚の申し込み。西洋風に言えば、プロポーズというやつだと、操は考えたのだった。その場にいた近江女も、同じように考えた。驚きは操以上だった。蒼紫が御頭となるまでは、近江女は江戸城御庭番衆の監察方として蒼紫に比較的近いところにいた。蒼紫より一歳年下で、幼い頃は共に武術の鍛錬に励んだこともある。操よりもずっと蒼紫の事を知っているのだ。
 無愛想で無口で、ただただ戦闘を最優先に考える男。それが、近江女の蒼紫に対する印象だ。根の優しい男だと知っている。物静かで、静寂を好む穏やかな気質をもつことも知っている。それでも、彼は冷徹で、生まれて間もなく母親から引き離されて江戸に連れて来られて以来、戦うことだけを教え込まれた、戦いの申し子だった。操がずっと彼を思い慕っていることは知っているし、いずれ彼等が夫婦となることも知っている。それを嬉しく思ってはいるが、反面、愛することを知らない蒼紫が、人の親となることを恐ろしく思ってもいた。彼は、分別のつかぬ頃から人を殺すことを第一に教えられ、翁のような統率力などないのに、圧倒的な戦闘力を以って御頭となった男だ。いや、ただ冷たいだけでなく、仲間想いであることは確かだ。そうでなければ、彼にあれだけ多くの人間がついて来たわけがない。しかし、仲間は仲間であり、その想いは男女の愛情とはまた違う。仲間を思い遣ることは知っていても、女を愛することは知らないはずだ。
 だが、このところ、特に恩師の下から戻って以来の蒼紫は、実に穏やかに温厚になったようにも思う。彼は変わったのだろうか。もしかしたら、恩師に何か大切なことを教えられたのかも知れない。彼の恩師は近江女にとってもそうであり、近江女もよく知る人物だ。その人の人格の素晴らしさは、言葉に表せるものではない。
 ひとしきりはしゃいだ操は、今更照れたように手拭いで顔を隠して奥の部屋へ駆け込んだ。「ふむ」蒼紫は頷いた。
「どういう風の吹き回し?」
 からかうように、近江女は蒼紫をのぞき込んだ。近江女が蒼紫とふたりきりになることはやはり少ないが、御頭としての蒼紫以前の蒼紫とは近しい存在であったため、他の仲間のいない時は昔のように親しげに話しかけることもある。
「いや、単なる疑問だ。どう思うものか、と。お近、お前はどうだ? 子を産みたいと思うか?」
 突然自分に矛先を向けられ、近江女は思わず眉を寄せた。
「私ですか?」
「ああ。お前も操のように、子を設けたいと思うのか? 女は誰もそう思うものなのか?」
「……はぁ、そうですねぇ……」
 これは、本当に単なる疑問だ。彼は単純にそれを知りたいだけなのだ。恐らく、それに関して多くの文献を紐解いたことだろう。しかし、生物学的に、医学的に、或いは世俗的に出産や育児に関して記した書物があったとしても、女の考え方を書いた書物などそうそうあるわけもない。書物を漁るよりも、実際に問う方が早いとでも思ったのだろう。近江女は得心したように首を縦に振った。
「欲しいですよ。産みたいですが……私は操ちゃんのように若くもないですからねぇ。急ぎたいんですが、なかなか」
「そうか。女は誰でもそう思うものか?」
「どうでしょう。でも、大方そうでしょうね。女に生まれた特権ですよ、命を産むということは。自分の身体で、愛する者との間に新しい命を授かって、育てて、産み落とす……考えただけでも嬉しくなります」
 やや興奮気味に語る近江女の瞳に涙が浮かんだ。零れ落ちぬようにと、近江女は空を仰いだ。月の光が、瞳を煌かせる。
「私は、足を痛めて密偵方になれなかったでしょう? 御庭番として般若様に憧れてましたから、あの時は大変落ち込みましたし、何故監察方なんかと思ったものですよ。でも、密偵方の女は、敵の懐に入り込んで、閨を共にする事が度々ありますからね。密偵方の女は、皆身籠らぬように――或いは、身籠った子を下ろす為に御庭番秘伝の薬を飲んでいるわけで。どちらにしても、八割以上が二度と子を成すことの出来ない身体になるんですよね。姐様方は、それが密偵方の誇りと胸を張り、明治になって子を産んだ姐様の中には、寧ろ子を成したことが恥ずかしいという者もありますけど……今は、密偵方でなくて良かったと思う……と言ったら、怒りますか?」
 月を仰ぎ見ながら言葉を紡いだ近江女は、ゆっくりと蒼紫を振り返った。冷たく低い声で「出て行け」といわれることさえ覚悟していた。明治は、江戸城を護らんとした御庭番には望まぬ時代。明治の安寧に浸ろうとすることは、御庭番失格と思うものがいることも知っている。御頭である蒼紫が、そう考えてもなんら不思議はないのだ。
「いや、良い。…………すまない」
 微かに。それは微かに、夜風に響いた言葉。
 “すまない”
 微かに。それは微かに、けれど確かに、蒼紫の口から出た言葉であった。だが、近江女は、それが自分に向けられたものとは、とても思えなかった。まるで、どこか遠くにある誰かを想うかのような。
 それは、操か?
 違う。もっと遠く。誰であるかは解らない、誰か。
「蒼紫、どうしたの?」
 幼い頃にそうしたように、近江女はそっと蒼紫に手を伸ばした。しかし、その手は彼を捉えることなく、空を掻いた。蒼紫の姿は、闇に消えていた。





 翌朝。東京は、快晴だった。
「剣心、納涼会、ひとり増えたぜ!」
 緋村剣心は、朝から洗濯物に勤しんでいた。天気が良ければ熱さも一入だが、その分洗濯物はよく乾きそうだ。庭で洗濯物を干していると、明神弥彦が縁側から声を掛けた。弥彦の手には、折りたたまれた白い紙が握られていた。
「おぉ、そうでござるか。新市が?」
 神谷道場の弟子のひとりである警察官の新市小三郎巡査長は、納涼会に招かれたものの、その日は夜勤があると断ったのだった。それでも、なんとか交代出来る人が見付かれば必ず行くと言った。新市は神谷活心流の“人を活かす”という理念に警察官として深く感銘を受けて入門した。しかしそれ以上に、年下ながらも年齢を補って余りある弥彦の男気や勇気、行動力に惚れ込んでいた。
「いや、恵だよ。会津から文が届いたぜ」
 弥彦は、にやりと笑い、手にしていた紙を振って見せた。
「恵……殿? ……そうでござるか」
 高荷恵は、会津出身の女医である。高荷家は女子供も医術を学ぶ珍しい一族。恵は、生前は“医師の生きた見本”と謳われ、会津戦争で命を落とした医聖、高荷隆生の娘だ。会津戦争当時、恵は僅か十一歳だった。幼児期より医学に打ち込み、九つの頃に家族と共に長崎に渡って蘭学を学んだ。高荷隆生の医師としての志の高さや、日本人ながら豊富な知識は、長崎に集った外国人の医師、学者、研究者らに大変気に入られた。そして、日本人形のように愛らしい黒髪の娘が、幼いながらもその高い志を受け継ぎ、既に医者として評価できるまでに至っていたことは、彼等の間で評判になった。恵はこの時、多くの外国人との人脈を得ている。
 会津戦争から十年経っても政府から見捨てられ、孤立した会津に恵が帰郷したのは昨年の初秋の事。会津に戻った頃には既に、恵は長崎での人脈を活かして会津に欧州の薬剤や医療機器を輸入する経路を開拓していた。勿論これは密輸にあたるのだが、未だに維新政府から“敵”とみなされ、見放されている会津のためには必要悪であると恵は考えている。
 恵は会津に戻るまでの五年間を東京で過ごした。上京してすぐに、父親と親交のあったという町医者の元で働くようになったが、この時この医者に作らされていた薬が新型の阿片であったことを知ったのは、それから三年後の事。医者が阿片の儲けの取り分の事でもめて密売人の武田観柳に殺害された時であった。逃走を許されず、この後二年に渡り、恵は武田観柳の屋敷に監禁されて阿片を精製させられた。明治十一年の春、恵は観柳邸を脱走し、偶々飛び込んだ料亭で出逢った剣心と左之助に助けを求める。恵と剣心等はこうして出逢った。また、因果なことに、明治十年の終わり頃、高荷恵の監視と観柳の護衛のために観柳に雇われたのが、誰あろう四乃森蒼紫ら元江戸城御庭番衆であった。恵を助けるために観柳邸に乗り込んだ剣心、左之助、弥彦と元御庭番衆が衝突し、蒼紫を残してその部下であった般若、式尉、ひょっとこ、べし見の四人は命を落とした。この一件で剣心と蒼紫は接点を持ち、後の志々雄戦へと繋がってゆく。
 観柳は捕縛され、恵は東京の町医者、小國玄斎の助手となって小國診療所で半年を過ごし、会津へと帰った。
「この前、玄斎先生の留守にこっち来たばっかだから来られないかと思ったけど、会津も落ち着いたのかな」
 弥彦は恵からの手紙を開き、嬉々とした様子で言った。
「どうでござろう」
「……なぁ、剣心。来年薫と祝言挙げること、みんなに言うんだよな?」
 剣心は、梅雨の頃、薫に結婚を申し込んだ。いずれはそうなるだろうと誰もが思っていたから、取り立てて驚くことはなく、寧ろ「やっとか」という思いが強かった。剣心は恋愛に対しては奥手というより頓着がなく、初対面の頃から同居しているだけに、このままの状態が続くのではと懸念していた。世話焼きの妙など、いっそ女から言ってみてはと薫をけしかけたことさえある。それだけに、結婚の話が纏まった時の安堵感は計り知れない。すぐにみんなに報告しなくてはとなったが、しかし、剣心がこういうことはきちんと自分達の口から話すと譲らず、操や恵に文で知らせることはなかった。
「そのつもりでござるよ。だから、恵殿が来てくれて良かった……」
「まぁ、来なかったら行くまでだけどな。去年から急に門下生が増えたから慌ただしかったけど、俺も一回会津行きたいし……剣心は前に行ったよな?」
「あぁ……」
 俄に剣心の声が沈んだ。弥彦は眉を寄せた。
「剣心……会津でなんかあったんだろ? 誰にも言わないけど、流石変だぜ? この間、恵がこっち来た時に見たけど、あの額の傷、関係あんのか?」
 弥彦は額の右側を指した。恵の額には、生々しい傷痕がある。切り傷ではなく、何かえぐられたような傷だった。前髪で隠してはいるが、以前弥彦はそれを間近で見たことがあった。
 剣心は、恵が帰郷し、復興に乗り出して間もなく、会津を訪ねている。一週間程滞在するつもりだったが、翌日には東京に戻って来た剣心は、酷く思い詰めた様子だった。すぐに恵から文が届き落ち着きを取り戻したものの、結局何があったのかは誰にも話さずにいる。
「あまり、皆に心配をかけるものではないでござるな。すまぬ……」
「剣心のこともそうだけど、恵も心配なんだよ。あいつ、気を張って人前ではなかなか泣かないから」
 剣心が別れも告げずに京都へ旅立った時もそうだった。ふさぎ込み、寝込んで食事も喉を通らなかった薫と違い、日々医者としての務めを果たし、みんなに慰められても布団から出ようとしなかった薫を叱咤した。恵が剣心を恋慕っていたことは弥彦も知っている。恵も泣きたいはずだったが、薫の前では凛としていた。ただ、弥彦の前では気の緩んだ瞬間に一筋の涙を零した。
 強い女だ。故に、弱さを漏らす場所がないのではと気にかかる。
「……恵殿は、息子が出来て幸せそうでござる。ただ……恵殿の額の傷は、拙者のせいでついた……」
「――え?」
「拙者が、恵殿に傷を残したも同然なんだ」
「まさか」
 信じられるわけがない。だが、もしそうだとすれば、剣心が酷く落ち込んだわけも、恵が剣心を気遣ったわけも解る。事故だったのだろうか。剣心の過失による。剣心はそれ以上は何も言わなかった。弥彦も、それ以上は何も聞かなかった。
「恵は剣心を責めたりしねぇし、剣心が自分を責めるのを心苦しく思ってると思うぜ?」
「恵殿にも、そう言われたでござる」
「でもまぁ、女の顔に傷付けたとなっちゃなぁ」
 責任とらないと、と言いかけ、弥彦は言葉を飲み込んだ。駄目だ、彼は自分の師匠と結婚する男。軽々しくこんな事を言ってはいけない。
「とにかく、恵も納涼会参加っつー事で」
 弥彦は剣心に恵からの手紙を押し付けると、道場へと駆け出した。
 剣心はそっと手紙を開いた。恵らしい丁寧で上品な文字が並んでいる。丁度、東京で仕事があるから納涼会にも顔を出すと記されていた。東京での仕事とはどんなものだろうか。よくは解らなかったが、取り敢えず恵が来てくれることは有り難い。
 恵がいると、和らぐ。以前は気取ったようなツンとしたところもあったが、それは観柳邸で身を守るために身に付けた歪んだ処世術だった。いや、あるいはもっと以前に身に付けたものかも知れない。十一から十年以上、身よりもなく生き延びるには、時に純粋さ、素直さが命取りになる。
 維新後の日本は少女がひとりで何事もなく生きられるほど穏やかではなく、佐幕派の藩の出身というだけで理不尽な仕打ちを受けるものも少なくはなかった。剣心らに話したことはないが、恵も会津を出てから、会津の訛りで話しただけで暴力を振るわれた事がある。恵が、わざと品のないきつい口調で話すようになったのは、会津の訛りを隠すためであった。
 幼女が慰みものにされた例も少なくない。恵も襲われそうになったことが何度もある。それは、一桁で足る話しではない。恵は医学を修める中で人体急所を心得ていたので逃げ延びることが出来たが、成す術もなく身体を弄ばれた娘も多くいた。また、生きるための糧に身体を差し出す者も少なくはなかった。
 想像することさえ憚られるような厳しい十年を堪えて小國診療所に落ち着いた恵は、少しずつ本来の穏やかさを取り戻して行ったようにみえた。高荷恵は、本来こういう人間なのだと剣心は思った。本人は「この歳になれば性格の矯正は難しい」などと笑ったが、徐々にではあるが確実に、彼女は変わっていっていた。
 会津では僅かに顔を合わせただけだったが、梅雨に会った時、確信した。恵の変化を。
 彼女は会津で、幸いを得たのだ。



 納涼会当日、操と蒼紫は朝早い時間に神谷道場を訪ねた。納涼会は夕方から行うことになっていたから、ふたりの到着は早くても昼過ぎだろうと薫や剣心は考えていた。あまりに早い到着に驚いたのは当然の事だろう。
「操がどうしてもというから」
 道に黒い影を焼き付ける日差しを浴びてきたとは思えないほど涼しい顔で蒼紫は答えた。一方操は、額に汗をきらきら光らせながら頬を紅潮させていた。それでも元気に満面の笑みを浮かべた。
「実は昨日から東京にいたんだ〜。浅草観光して、一泊しちゃった。他の地方の料亭や宿に行くのも勉強だってじいや説得して」
 操は上機嫌だったが、ねだられた翁は大変だっただろう。しかし、ふたり連れ立って外の宿に泊まるということは、先を見据えてのことかも知れない。薫は頬を緩めた。
「まぁ、玄関で立ち話もなんだから、入って。夕方から赤べこの二階を借りてるの。恵さんも夕方には来ると思うから、それまでゆっくりしてね」
 薫は、操の背中を押して奥へと促した。花見で会って以来四ヶ月振り。決して長く会わなかったというわけではないが、おいそれと会いに行ける距離ではないため、操に会うと薫も気分が良かった。
「高荷恵も来るのか」
 操と薫が襖の向こうに消えてから、蒼紫は僅かに声を漏らした。話し掛けたという風ではなかったが、側にいる剣心が聞いていることは承知の上だった。
「恵殿がどうかしたでござるか?」
「……いや。ただ、」
 蒼紫はちらりと剣心に視線を向け、額の右側を指差した。
「少しは傷は癒えたかと」
「…………会津へ?」
「ああ、昨年の秋から、何度か」
「何度か? 操殿はその事を……」
 言いかけた剣心に向かって、蒼紫は小さく首を横に振った。
「何故……」
「操がいても役には立たん」
 しかし、彼が行くといえば操はついて行くと言うし、駄々をこねる操を翁は宥め切れない。
「会津は御庭番と違い、幕府に捨てられて尚戦った。その結果、明治政府に切り捨てられた。御庭番最後の頭として、会津を見捨てることは出来ない」
 一年前、あれ程最強の称号にこだわった男の言葉とは思えなかった。四乃森蒼紫も変わったようだ。
「操殿も、解ってくれるでござるよ」
「一歩間違えば何が起こるか解らない。ほんの些細なことが、災いを生むこともある」
 剣心の脳裏に、額の傷がちらついた。細い荒れた土の道に、真っ赤な血を散らした女に、近付くことすら叶わなかった“あの日”。ただ、力になりたかっただけなのに。決して、誰も傷付けるつもりなどなかったのに。
「お前はここにいれば良い。その方が、恵も落ち着くだろう」
 それだけ言うと、蒼紫は革靴を脱いだ。
 “恵”――
 蒼紫はわざとそういったのか? それとも不意に口からもれたのか?
 何度か会津に赴いた理由を、蒼紫が偽ったとは思わない。だが、黙っていることもあるのではないか。
「操殿を、泣かせるようなことは極力避けるでござるよ」
「危険なことはない。お前とは違う」
 どこか刺のある物言いに、剣心は眉をひそめた。厳しい事をいうことはしばしばある男だが、厭味を言うことはなかった。感情を表に出さないために解り辛いが、機嫌が良くないのだろうか。
 それにしても。
 剣心は溜息をついた。操の知らぬところで怪我をするなと、そういうことが言いたかったわけではない。いずれ操と結婚しようというのだから、理由はどうあれ、操に黙って他の女性のところへ行くのが良くないのだ。疚しいことはなくても、操が誤解することもある。
 薫を妻とする事を決めて以来、そんなことも考えるようになった。自分が黙って恵の元に度々足を運べば、薫は不安を覚えるだろう。なにも黙って行くことはないのだ。後ろ暗いことがあるわけでもないのだから。蒼紫はどう思っているのだろうか。大きなお世話ではあるが、気にかかる。どうも、これまで知っていた蒼紫とは違う一面が覗いているようだ。それは寧ろ良いことなのだが、何か違和感がある。
 彼の中に、何が生まれたのだろうか。
 剣心は、胸に沸いた朧な問いに答えを見出せずにいた。
 遠く、近く、蝉の声が響いていた。
1 2
広告 [PR]スキンケア  転職 化粧品 無料 ライブチャット