風が冷たくなってきた。
 身体に気を付けて。
 それじゃぁ、行ってらっしゃい。



     乙女の真心



 慶応三年、秋、長崎――
「この花はなんていうんですか?」
 長い黒髪を結い上げた少女が、小さな箱を両手に大事そうに包みながら、その蓋に描かれた花を見詰める。隣りに座るのは、初老の外国人男性。
「コスモス、というんだよ」
 片言の日本語で、男は答えた。
「コスモス……?」
「日本にはないようだね。丁度こんな季節に咲く花だ。可愛らしいだろう?」
「桜みたいな形の花びらね」
 赤紫色の八枚の花弁の並んだ花を彫り込んだ小箱は、少女の目にはとても愛おしく映った。
「気に入ったようだね。だったら、それを君にあげようか」
「え、そんな……」
 戸惑う少女の髪をゆったりと撫でながら、男は穏やかに微笑んだ。
「そう……丁度、傷薬なんかを入れて持ち運ぶには丁度良いんじゃないかな? もうすぐ故郷へ帰るのだろう? 君へのプレゼントだ。大事にしておくれ。いつかまた、会おうね、メグミ」
「ぷれぜんと……。うん、有難う、先生」
 “プレゼント”の意味を少女は理解していなかったが、なんとなく察する事は出来たようで、男に笑顔を向けた。



「コスモス……」
 肌寒さを感じ、高荷恵はゆっくりと身を起こした。閉じていたと思っていたが、障子が開いていたらしい。会津の秋は早いため、東京では然程気にもしなかった夜風が、鋭く、冷たい。
 明治十一年、初秋。故郷・会津にて戻った恵は、十年振りの故郷で、診療所を営み始めた。会津に移って、一週間。まだ荷物も片付かない新居で、恵は机に突っ伏して眠っていた。想像以上に荒れ果てた会津ではやるべきことが多過ぎて、恵には一日が短過ぎる。東京から会津にやってきて、丸二日近く眠らずに仕事をしていた。今日も、ほんの一時間程前まで会津に住人の体調の記録を帳面に記していたのだが、疲れが溜まったのか、そのまま眠ってしまったのだった。柔らかな眠りの中、浮かんだ夢は、十年も前、幸せだった頃の記憶。丁度、こんな季節だった……。
「ん……仕事しなきゃ……」
 障子の隙間から、朧に差す月。恵は机に腕を突っ張って立ち上がる。と、肩をするりと滑り、何かが床に落ちた。それは、薄い掛け布。
「え?」
 こんなものを、荷物から出した覚えはない。
「お、目ぇ覚めたか?」
 障子の向こう、縁側から声がして、恵は身を硬くした。誰か、いる。誰もいるはずのない家に。たったひとり切りの家に。さっと開いた障子の向こう、月明かりに映し出されたのは、男の影。恵は一瞬、びくりと震えた。が、すぐにその姿に、安堵の息を漏らす。
「さ……左之助?」
「わりぃ、もしかして、起こしたか?」
 謝りながらも悪びれた風でもないその男、相楽左之助は恵に小さく笑って見せる。
「……大、丈夫……」
 覚束ない足で、恵は左之助に歩み寄り、縁側に足を投げ出す。
「何処?」
「は?」
「怪我したんでしょう? 見せて」
 相当眠たいのだろう、懸命に目を擦りながら、恵は懐から小さな箱を取り出し、左之助に向き直る。
「いや、違う。そうじゃねぇんだ」
「……じゃぁ、どうしたのよ。まだ一週間よ?」
 欠伸を噛み殺しながら眉を寄せる恵に、左之助は苦笑する。
「ま、なんつーか、指名手配されちまってな」
「…………は?」
 恵は耳を疑った。
「だから、指名手配」
 単に聞こえなかったのだろうといわんばかりに左之助は繰り返す。馬鹿にされているのかと恵は目をしばたたかせたが、直ぐに小さく頷いた。
「そう。で?」
「驚かねーんだな?」
 さっき、驚いて見せたつもりだったのだが、気付かなかったのだろうか、この男は?
「あんたのやる事だからね」
 恵は困ったように、小さく笑って見せた。
「あ、一応聞くけど、何やったの?」
「信州で偉いさん相手に、暴れた」
「信州……あぁ、あの時……。そう」
 恵が馬鹿者呼ばわりしなかった事に、寧ろ口元に笑みを浮かべていた事に、左之助は少々驚いた。しかし、それも会津の現状を考えれば頷ける。幕府が倒れてからもう十年以上経つというのに、余りに会津は荒れている。まるで、時間が止まっているかのようだ。政治家も、役人も、世のお偉いさんは皆会津を見捨てている。そんな会津を救うべく、ひとり立ち上がった恵の、小さな抵抗。それが、左之助の暴走を密かに喜ぶことだったのだろう。
「自首……は、しないわね。それで、これから何処に?」
「…………出来ることならお前を手伝いたいけど」
「結構よ。指名手配犯にうろうろされても困るのよ」
 冷たいようで、深い言葉。奥底で何かを思っている。
「だな」
「海を渡る?」
「……だな」
「何処に?」
「ま、朝鮮にでも」
「そう。……どうやって行くの?」
「東京で小舟<ボート>見繕った」
 自信に満ちた眼差しで月を仰ぐ左之助を前に、恵はぽかんとした。正に、ぽかんと。
「い……行けるわけないでしょ?」
 流石は馬鹿の亜細亜記録を認定された男である。それにしても、ここまで馬鹿だったとは。呆れ顔で溜息をつく恵を、左之助は不服そうに睨む。
「あんたなら泳いででも行けそうだけどね。でも、やめときなさい。朝鮮に行くなら、日本海側からよ。ま、あんたの事だからそこにも行き着けなさそうだし」
 言いながら、恵はふらりと立ち上がる。
「恵」
「えーっと…………」
 机の上に、片付けられないまま無造作に積み上げられた本の山から、恵は一冊の雑記帳を取り出した。使い込まれた帳面の最後の頁に書き込まれた文字を指でなぞる。
「今日は何日だったかしら……っと……あら、明日?」
「何が?」
「私の知り合いの貿易船が、明日亜米利加に発つのよ」
「し、知り合い……?」
 貿易船を持っているなんて、どういう繋がりの知り合いなのだろう。曖昧に頷く左之助に、恵は肩を竦めて見せた。
「私だって、東京にいる間何もしなかった訳じゃないのよ。昔の人脈を辿って、会津に診療所を開く準備をしていたの。父と繋がりのあった人に連絡してね」
「はぁ……」
 昔の人脈――僅か十歳そこそこの時に世話になった人間か。よもや、そんな事をしていたとは。
「この人からは、秘密裏に薬を回してもらってるんだけど――丁度良いわ。亜米利加人だけど日本語も通じるし、事故で乗組員が三人も怪我をしたらしいから、力仕事手伝いなさい。文を書くから」
 言いながら、恵は紙を一枚取り出し、異国の文字を並べ始めた。
「お、おいっ!」
「あっ、もう、間違えたじゃない!……何?」
 一方的に話を進める恵に、左之助は慌てた。予想外の反応だったのだろう。
「いや……なんで、お前……」
「何?」
 恵の態度は極めて冷静だった。だからこそ、殊更左之助は落ち着かなかった。
「……大きくなってきなさいよ。こんな小さな島国にいるには、あんたは大き過ぎる」
 月明かりの映す朧げな姿の女が、柔らかに微笑む。恵は、紙を折り畳んで左之助に差し出した。
「ルイスという人よ。修ちゃんが場所を知ってるから」
「しゅうちゃん……て、修か?」
「えぇ、以前荷を運ぶのを手伝ってもらったし、今は東京で荷物を受け取って、こちらに送って貰う仕事をお願いしているのよ」
「ふーん……」
 左之助はつまらなそうに頷いた。
「あんたの舎弟を、私が勝手に使った事を……怒ってるの?」
「そんなんじゃねーよ」
 そもそも、左之助に許可を取る必要が本当にあるのだろうか。仮にあったとして、左之助に恵のすることに口出しする権利があるのだろうか。これまで一銭も払わずに治療をしてもらってきた左之助に。進んで労働力を提供してくれても良いくらいだと恵は思う。
「兎に角、これを持って修ちゃんに逢いなさい。後は修ちゃんが上手くやってくれるわ」
「修ちゃん修ちゃんて、うるせーよ」
 苛々した様子の左之助に、恵は小さく息をついた。
「何よ、左之ちゃんとでも呼んで欲しいの?」
「ちげーっ!」
 叫んだ左之助に見向きもせず、恵はまた部屋に戻り、机の中を物色し始めた。
「…………あった」
 机の中から、小さな青い箱を取り出すと、棚に並べている蓋付きの硝子容器をひとつ取り上げて、左之助の隣に腰を下ろす。何事かと眺める左之助を余所に、瓶の蓋を開ける恵。鼻をすっとつくような独特な、けれど慣れた匂いが漂う。
「傷薬?」
「あんたの事だから、幾らあっても足りないでしょうけど、少し持って行きなさい」
 言いながら、小さな容器に箆で薬を移す。それは、左之助も何度も世話になった、高荷家秘伝の血止め薬だった。独特の匂いにも、すっかり馴染んでいる。
「あぁ……有り難う」
「大事に使いなさい」
 恵は瓶と容器の蓋を閉め、容器を左之助に差し出した。左之助の骨張った手に乗せられた容器には、赤紫色の花が描かれていた。
「この箱、私の大事な物だから、いつか返してちょうだいね」
「へ?」
「ま、期待はしてないけど」
「大事なもんなんか渡すなよ」
「だから、期待はしていないわよ。一応言っとくだけ」
 はっきりと「期待していない」等と言い切られ、左之助は不満そうに外方を向いた。
「亜米利加に、ジョン・ターナーという、医師がいるわ。その人から頂いた物なの」
「……はぁ」
 じょん、たーなー、と、左之助は繰り返す。
「もし、ターナー先生に逢う事があったら、これを見せて私の話をしなさい。助けてくれるかも知れないわ」
 美しい色彩で、見た事の無い花を描いた小箱。左之助は頷き、そっと箱を握った。
「有り難うな」
 そう言った切り、ふたりとも黙って俯いた。何かを言うべきなのかも知れないが、言葉が出て来なかった。
 もう、会えなくなる。東京から会津に移っただけでも距離を感じたというのに、これから海の向こうへ行こうというのだ。走って行ける距離ではない。
 月は音もなくゆっくりと空を滑り、西へと移る。東の空は、緩やかに光を帯びる。
「恵……」
 空をじっと見詰め、左之助が口を開いた。しかし、恵は答えない。
「なぁ、めぐ――」
 苛立ちを匂わせながら視線を向けると、件の女は柱にもたれ掛かり、寝息を立てていた。
「……こいつ」
 呆れたように、けれど何処か嬉しそうに、左之助は呟き、立ち上がる。
 部屋から先程恵の肩に掛けていた掛布を拾い上げると、正面から、恵をくるむ。薄い朝の光が恵の透けるような白い肌を照らすと、何故か、胸が詰まった。長い睫毛が頬に影を落とす。覗き込んだ顔の、穏やかで、柔らかな姿……胸を詰まらせるものは、愛おしさ?
 左之助は、ゆっくりと顔を近付けた。瞳を閉ざした左之助の唇が、恵の唇に触れた瞬間と、恵が瞳を開いた瞬間と、どちらが早かったろうか。恵の瞳が、目の前で揺れる睫毛を捉えた。僅かに触れただけで離れた唇。左之助が瞼を開いた時、恵と視線が交わった。
「あ」
 微かに喉から声を漏らした左之助が至近距離で硬直したのが可笑しかったのか、恵は左之助に腕を伸ばし、抱き寄せるようにして唇を塞いだ。
「ん……」
 先程よりも深い口付けに戸惑う左之助から顔を話すと、唇を濡らした恵が艶やかに微笑む。
「恵……おまっ、ね、寝呆けてんのか?」
「寧ろさっきので目が醒めたわよ」
 非難がましく呟いたかと思うと、恵はもう一度軽く唇を重ねてから、草履を突っかけて庭に出た。
「めぐ――」
「私、」
 左之助の言葉を遮るように口を開き、恵は左之助を振り返る。
「剣さんが好きよ」
「…………え?」
「今でも好き。結局その想いは拭えないみたいだわ……」
 吹き抜ける秋の風に髪を靡かせながら、恵は気丈に微笑んだ。
「そう……か……」
「日本一の男、だもの。好いて当然でしょう?」
「だな」
 荒れ果てたこの地でひとり闘う彼女の思慕は、実る事はない。本人もそれはよく解っている。それでも、想い続けているのだ。哀れなまでに。
「あんたは海の向こうで、世界一になって帰ってきなさい」
「……へ?」
「行ってきなさい、相楽左之助。この小さな国で終わるような男じゃないでしょ?」
 世界一。日本一でなく。日本も越えて、世界へ……
「それは……」
 緋村剣心を、――
「……あんたが帰ってきた時、もし私が独りだったら――なんて、ね」
 肩を竦めて、意味深な笑みを見せる恵の後ろから、朝の光が差す。
 揺らぐ影の正体など知らぬまま、左之助は小箱を握り締めた。





「高荷先生、お早うございます!」
 まだ日の昇り切らない内に、指名手配犯は会津を発った。入れ違いにやって来たのは、会津に住まう少年。
「お早う、征太郎君。今日もお願いね」
「はい……」
 恵の微笑みを前に、少年は息を飲む。
「先生……?」
 穏やかな女の頬は朱に染まる。




「なんで、泣いてるの?」

fin
「走ったって大した距離じゃねぇ」
「馬鹿ね」
他愛もないやり取りが、いつまでも続かないことは知っていた。
いつまでも変わらない保証なんかない。

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