会う度に色を変える花のように、目まぐるしく変化する時代。
 変わらないものなどないと、貴方は言うけれど。


   移り気なココロ


 雲行きが怪しい。一雨来そうだ。着替え用に借りている部屋から空を仰ぐと、先程まで青かった筈の空を、重い雲が包んでいる。早く帰らなければ。長い黒髪を結い直し、道着の帯を固く結んで、少女は一番弟子の待つ玄関へと急いだ。
「遅ぇよ、薫!」
 一番弟子、明神弥彦は、少女、神谷薫が師範代であるにも関わらず、不満を隠そうともせずにぼやいた。
「はいはい、悪かったわね」
「ったく。降りそうだぜ?」
「だね。あ、恵さん、大丈夫かな?」
「あー……いざとなったら剣心が迎えに行くだろ」
 薫は物憂気に空を仰ぎながら、玄関を出た。
 明治十二年六月。薫と弥彦は出稽古で前川道場に来ていた。夕方には、故郷の会津に帰った高荷恵が東京に訪れる事になっている。恵が東京にいた頃に世話になっていた医師、小國玄斎の妹が体調を崩しているらしく、玄斎が三日程伊豆に行くと事になったからだ。恩師の頼みとあり、恵は一旦会津を離れることになった。今年の春に花見をすると薫が会津に文を送ったが、恵は忙しさを理由に断った。恵が会津に帰って一年と経っていないが、恵との関係が変わってしまったようで、薫は落ち着かなかった。恵は、現在神谷活心流剣術道場の居候であり、薫と恋仲にある緋村剣心を想っていた。昨年の夏、京都で剣心への想いに終止符を打ち、恵は会津へと帰って行った。冬の初めに剣心は恵を訪ねて会津に赴いたのだが、あっという間に帰って来た上、会津での事を一切話そうとしなかった。恵と何かあったのではないか――薫は気が気でなかった。
「薫君」
 後ろから呼び止められ、薫が振り返ると、道場主の前川氏が二本の傘を差し出した。
「持って行きなさい。一雨来そうだ」
「有り難うございます!」
 薫が頭を下げると、弥彦もそれに倣った。
「薫君、先日相談してくれた件だが……その後、どうだね? 前にも言った通り、私は大いに賛成だし、協力も惜しまないつもりだよ」
「はい……有り難うございます。まだ、あと一歩踏み出せなくて……」
「そうか。焦ることはない、しっかり考えなさい」
 薫は小さく頷くと、弥彦と共に前川道場を後にした。
「……相談って、アレか?」
「うん」
「まだ、決めてなかったのか」
 弥彦の静かな問いに、薫は答えなかった。僅かに俯いたうなじに、ぽつりと水の雫が落ちる。
「雨だ」
 ふたりは慌てて傘を開いた。雨足は徐々に増し、あっという間に土砂降りになった。
 帰り道の途中、白っぽく色を失いかけて、元気のない紫陽花が、雨にざわりざわりと揺れていた。



「ただいまー」
 雨に打たれて早足で帰宅した二人を待っていたのは、静寂だった。いつもなら、剣心が笑顔で迎えてくれるのに……。
「いないのかしら」
「恵を迎えに行ったのかな」
 首を傾げながら玄関を上がり、居間にやって来ると、一枚の書き置きがあった。弥彦はそれを手に、薫に声を掛けた。
「剣心、診療所に行ってるみたいだな。恵が挨拶だけして診療所に帰ったらしい」
 剣心は元々悪筆だが、慌てて走り書きしたらしく、更に読みづらい。筆や墨も置きっぱなしだ。
「……そう……」
 ぽつりと呟いた薫の瞳に影が揺らいだが、弥彦は気付かなかったようだった。
 庭の物干しから、部屋に放り込まれた衣類は、無造作に積み上げられていた。いつもならきちんと畳んでいるのに。慌てて出て行った様子が伺える。剣心らしくもない……。薫は床に腰を下ろし、洗濯物を畳み始めた。
「雨、強いなぁ……」
「うん、剣心大丈夫かしら」
「俺、診療所行ってくる。恵には貰いたい薬もあるし」
「薬? どっか悪いの?」
 薫は眉を寄せた。恵は優秀な医師だ。しかも、薬剤に関する達人らしい。敢えてそんな恵に薬を処方してもらわなくてはならないような事態に一番弟子がなっているのだとしたら一大事だ。しかし、弥彦は明るく笑って見せた。
「なわけねーだろ? 高荷家秘伝の血止め薬、分けてもらうんだよ。あれは本当に良いからな。前に恵に頼んだから、持って来てくれてるだろうし」
「頼んだって……いつの間に?」
「前に、文で」
 成程、と、薫は頷いた。弥彦が頻繁に恵と文のやり取りをしている事を思い出したのだ。
「俺は、神谷活心流の一番弟子だ。後輩も出来たんだから、みんなの怪我の心配すんのは当たり前だろ。それに……」
 弥彦は意味ありげに薫に視線を向けた。
「俺は、神谷活心流を背負う男になりたい」
 弥彦の揺るぎのない眼差しに、薫は息を呑んだ。
「信じてるぜ、師範代」
「…………」
 何も答えない薫に背を向け、弥彦は神谷道場を後にした。



 “師範代”――
 弥彦の口にした言葉が、薫の胸に沈む。弥彦の言いたい事は解っているつもりだ。それについて、ここ数ヶ月悩んでいる。師範である父、神谷越路郎がこの世を去って一年半。いつまでも、師範不在の道場であるべきではない。そろそろ、覚悟を決めねばならない。いつかはやる事なのだから。そうは思っても、不安は大きい。
 雨の音を聞きながら、薫は固く瞳を閉じた。瞼の裏に浮かぶのは、一年前、故郷へと旅立った恵の後ろ姿。振り返る事もなく、たったひとり、真っ直ぐに歩いて行ったあの後ろ姿が、脳裏から離れない。心細くはないのか? 辛くはないのか? 怖くはないのか? 荒れ果てた故郷に独りで赴くことに、不安がないのか? そんなわけはない。それなのに、そんな素振りはまるで見せず。何故、立ち向かえるのだろうか。何が彼女をあれほど強く美しくさせるのだろうか。薫はすっくと立ち上がり、鏡に己の顔を映す。惨めな顔付きの女が一人、虚ろな影を纏って佇んでいる。このままでは駄目だ。そう思いながらも、後一歩が踏み出せない。
「剣心……」
 庭先には、鮮やかな瑠璃色の紫陽花が煙る雨に揺れている。
 紫陽花が好きだと彼は言った。薄暗い雨の中、凜として色を放つ花だから。暗い闇にも真っ直ぐに立ち向かう姿のようにも見えて、胸を打たれるという。紫陽花色の着物を纏った後ろ姿が、雨の闇に浮かんだ気がした。



 雨の中、弥彦は傘を片手に小國診療所へと駆けていた。剣心も、多分そこにいるだろう。薬を受け取り、剣心と一緒に帰ろう。なんだかんだといっても、赤の他人の自分を拾って一年以上も世話を焼いてくれている家族であり、自分に剣の道を歩ませてくれる師匠である薫が、伏し目がちになって悩んでいる姿は、あまり見ていたくない。五月蝿いくらいに溌剌と笑っていて欲しい。そのためには、どうしても彼が必要なのだ。
 どうしても、彼が。
 弥彦は診療所の裏手に回った。恵が帰郷してから、時折診療所の手伝いをしているため、いつも裏口から入る。裏口を開けるより早く、聞き慣れた男の声が耳に届く。その後に聞こえた落ち着いた女の声は、少し懐かしい。声は、庭の方から聞こえて来る。多分、縁側にいるのだろう。昨年、玄斎が庭に植えた自慢の紫陽花を眺めているのかも知れない。弥彦はそのまま庭に足を向けた。
「剣さん……」
 恵の声。艶と品があり、相変わらず美しい。驚かせてやろうと軒下に滑り込み、傘を畳んでそろそろと庭に近づく。気配を消すのも、少しずつ慣れてきている。弥彦はそっと庭に顔を出した。
 縁側に面した薄暗い部屋に、剣心の後ろ姿が見える。その正面に、恵の顔。それは、日常ではある筈のない至近距離。恵の手が躊躇いがちに剣心の腕に触れて、微かに首を傾けた剣心の髪の影から、眼を閉ざした恵の顔が覗いている。弥彦ははっと息を飲んだ。両の眼をどれだけ開いても、映るのは間違いなく、顔を近づけたふたりの姿。
 弥彦は音を立てないように庭から離れ、雨の中、傘を開くのも忘れて走り出した。胸の中がもやもやとする。鼓動がどくどくと早鐘を打ち、心臓が破裂しそうだった。途中、傘を塀にぶつけて破ってしまったが、気にも止めずに走り続けた。
 接吻してた……。絶対、してた。あのふたりが。剣心と、恵が。
「なんで?」
 胸の辺りをぐっと手で抑える。身体が熱い。
「薫は……?」
 時代は変わる、剣術も変わる、それなのに人だけは変わらない……そんな事は、ない。いつか、剣心に言われたことだ。薫も同じ事を言われたと言っていた。更に弥彦は、良くも悪くも、人は変わるけれど、変わらずにありたいものがあるのなら、本気で守りに行けと言われた。薫は本気で守ってる。剣心との関係を。それを知っているから、ずっと見守ってきた。ふたりが幸せになれば良いと思っている。そうなるものだと思っていたから、今し方見たものが信じられないでいる。どうすれば良いのかも解らない。帰るべきか? 剣心を責める? 薫には何と言えば良い? 渦巻く疑問や不安が弥彦に重く押し掛かった。
 何故、剣心と恵が……?
 いつからそういう関係になった……?
 昨年、剣心は単身会津に赴いた。だが、そこで何があったのか、帰ってから暫くは様子がおかしかった。何かあったのかと気になり、恵に文を出したが、返事は至って普通だった。しかし、やはりあの時に何かあったとしか考えられない。
 弥彦は力無く傘を引き摺りながら神谷道場へと戻った。玄関を開けると、「おかえり」と奥から声が聞こえ、ばたばたと足音を立てて薫が玄関に顔を出した。
「弥彦、どうしたの!?」
 薫が声を上げたのも無理はない。全身ずぶ濡れで傘をぶら下げて立っている一番弟子の姿が、余りにも痛々しかった。
 弥彦は顔を上げることが出来なかった。なんて言えば良いのだろう? 言って良いのだろうか?
 どうしたら、良い――?
「えっと……傘壊しちまって、帰ってきた」
 弥彦は勢い良く薫に顔を向けて、困ったように満面の笑みを見せた。
 だって、こんなに悩んでる師範代に――いや、ひとりの女に、言えるわけがない。彼女の唯一の心の支えである男が、彼女以外の女と親密になっているだなんて。必死に笑って、笑い飛ばして、「仕方ないなぁ」と眉を寄せて微笑む彼女にほっとした。
 その直後、がらりと玄関が開く。ふたりの視線が一気に玄関へと向けられる。剣心、だった。
「あ、お帰り、剣心」
「あぁ、ただいま……。弥彦、どうしたでござる?」
 弥彦の眼が剣心の姿を捉えるや、彼に殺気にも似た感情が湧き上がった。
「弥彦?」
 剣心は、怪訝そうにじっと弥彦を見詰める。頭から爪先までぐっしょりと濡れている事も気にかかる。
「どうし――」
 言い掛けたその時、弥彦は突然剣心の手から傘を奪い取り、外へと飛び出した。
「弥彦!?……どうしたでござる?」
「解らないの。さっき、恵さんのところへ行くって言って出てったんだけど、傘が壊れたから引き換えしてきたって……」
「恵殿に?」
 成程、と剣心は小さく頷いた。それからゆっくりと薫の顔を見据える。
「弥彦なら、大丈夫でござる」
「え……?」
「ところで、薫殿……大事な話をしたい」
 真剣な瞳が、薫の胸を揺らした。



「弥彦君!?」
 勢い良く開いた裏口に駆けて来た恵は、少年の姿を見るや、声を上げた。
「どうしたの、弥彦君? あぁ、ちょっと待ってね。すぐに拭くものを用意するから……」
 そう、奥へと足を向けた恵の、紫陽花色の着物の袖を、弥彦は濡れた手でぐっと掴んだ。恵は反射的に弥彦を振り返る。
「弥彦……君……?」
「恵、聞きたい事がある……」
「えぇ、解ったわ。でも、その前に身体を拭いて、温かくしないと。着替えを出すから――」
「そんなことは良いから!」
 俯いたまま怒号を響かせる弥彦。着物を掴むその手を、恵が逆に握り締める。
「良いわけないでしょう!」
 突然の鋭い声。弥彦ははっと顔を上げた。恵の黒い瞳が、真っ直ぐに弥彦を見詰めている。戸惑い、怒り、心配、色々な感情が綯い交ぜになった、それでも、ただただ弥彦を強く想う、深い情を宿した瞳だ。
「そんな格好をして、風邪をひいたらどうするの!? 言う事を聞いて!」
 その時、約一年振りに見た恵の顔に、弥彦は胸を潰されるような想いがした。色白で線の細い、美しい女だと思っていた。いや、それが大きく変わったわけではないのだが、愕く程、痩せている。頬が削げ落ち、以前は丁寧におしろいをはたいていた貌も、紅を差していた唇も、殆ど色味がなくなっている。鮮やかだった着物も草臥れて、まるで梅雨明けに色を失い、しなだれた紫陽花のようだ。故郷・会津での生活が、如何に苦しいか、その姿を見るだけで解ってしまう。恵の姿を見詰めるその瞳から、涙が溢れ出した。
「弥彦君……」
「ごめん……」
「私が、可哀想に見える?」
「…………ごめん」
 恵の細い指が、そっと弥彦の濡れた髪に触れる。
「上がりなさい。着替えを出すわ」
「はい」
 弥彦は深く頷き、そのまままた俯いた。
 雨の音が、ふたりの耳に五月蝿い程響いていた。弥彦は縁側に面した部屋に通され、手拭いで身体を拭き、着替えに袖を通した。弥彦の身体にぴたりと合う、少年のための着物と袴。まるで、自分のために誂えられたような服に、弥彦は疑問を抱かずにはいられなかった。解らない事がありすぎて、何から問えば良いのか整理が付かない。
「どうぞ」
 恵はそっと温かい茶を差し出す。一口啜ると、温もりが身体の奥に広がった。
「大変……なんだな」
「え?」
「会津。楽だと思ってたわけじゃないけど……」
「大変、かも知れないけれど、私はとても幸せだから、あんまり気にならないわ」
 幸せ? こんなに痩せこけておきながら? どんな生活をしたら一年でここまで変われるのかと誰もが疑問に思うはずだ。それなのに、何故幸せと微笑えるのだ。
「嘘だろ?」
「嘘じゃないわよ。……この着物ね、私の……息子のものなの」
「息子? あぁ、征太郎!」
 弥彦は声を上げた。恵がいつか、文に書いていた。弥彦と同い年の少年が養子になったのだと。
「そう。それは繕い物をするために持ってきたんだけど……家族が出来て本当に嬉しいわ。毎日故郷の人々のために家族と一緒に働いて……以前のように、着物を新調したり白粉や紅を買ったりは出来なくなったし、毎日十分な食事が出来るわけではないけれど、みんなで一緒に会津の復興のために努力しているのよ。少しずつだけど、良くなってきているの。一年前とは大違いよ」
 故郷を思い浮かべて語る恵の瞳は輝き、不幸の色などまるで見えない。確かに、彼女は幸せに包まれているのだ。どう見ても苦労を強いられているとしか思えないのに、どう見ても、今の恵は目の前の壁に打ちのめされている薫より幸せそうだ。だが、幸せの理由はそれだけか? それ以上に理由があるのではないだろうか。
「恵、剣心のこと、今でも好きなのか?」
 しかし、遠回しに探りを入れることの苦手な弥彦は、なんと問えば良いのか解らず、単刀直入に聞いてしまった。恵がきょとんとしたのは無理もない事。だが、直ぐに穏やかに微笑み、
「好きよ」
「え?」
「好き。でも……今は、剣さんに恋をしているとかそういうわけではないわ。薫さんと幸せになって欲しいと思っているもの」
「それじゃぁ、さっきの――」
 言いかけて、弥彦ははたと口を噤む。まずい、これ以上は口にしてはならない。
「さっきって……あぁ――」
 恵は戸惑いがちにも納得した様子で小さく頷き、そっと、自分の額に手を当てた。
「さっき、剣さんが来てね――」
 髪を掻き上げ、露わになった額。そこに、今まで見たことのないものを見て弥彦は俄かに恵に顔を近付けた。薄暗く、はっきりとは見え辛かった。だが、恵は直ぐに前髪を下ろして額に撫で付けた。
「ちょっ……恵!」
 弥彦は咄嗟に、恵の額に手を伸ばし、その顔を覗き込む。その瞬間、恵の漆黒の瞳が思わぬ至近距離にある事に気付き、慌てて離れた。それは、日常ではあるはずのない距離。さっきの、剣心と同じように。
「あ……」
 腑に落ちた。これが、先程のふたりのしていた事。決して、口付けではなかったのだ。
「恵……?」
 微笑んだ恵の瞳に、幸福とは裏腹の深い影が落ちる。薫の瞳に差すそれよりも、深い深い闇を湛えた影が。



「これを」
 剣心と薫は道場へやってきた。剣心が薫に差し出したのは、竹刀だった。
「へ?」
 薫は、間の抜けた声を出し、首を傾げる。
「稽古……するでござる」
「稽古?」
 薫が怪訝に問い返すと、剣心はいつもの無形の位ではなく、正眼の構えを取った。
「最近、自分より強い相手と稽古していないでござろう?」
「…………」
 図星だった。いつも弟子を相手にし、出稽古でも教える立場にある薫は、普段は自分より剣の腕の落ちる相手としか剣を交えていない。剣心の思惑は解らないが、稽古を付けてくれるというのなら、手合わせをしてみたい。
 答えるように、薫も正眼に構えた。ふたりの剣の切っ先が掠め合った瞬間、“稽古”は始まった。剣心の竹刀が、薫の肩口を狙う。薫はその切っ先を払う。が、素早い切り返しで一歩引いた薫の胴に打ち込む。更に引きながら、薫は剣を防ぐ。しかし、剣を弾いた直後には逆方向からの攻撃。薫は交わすことで精一杯だった。後方に跳ぶが、着地より早く間合いを詰められる。今更解った事ではないが、剣心の強さは並ではない。勝てるわけがない。
 だが。
 これが、実戦だったら? 何かを、誰かを護る戦いだとしたら?
 ――絶対、負けられない!
 薫の目付きが変わった。彼女を包む空気もまた、大きく変化した事に、剣心は気付いた。薫は果敢に攻めた。攻撃は最大の防御。攻めれば攻めるだけ、攻撃を防ぐ事も出来た。剣心も、薫の渾身の剣撃に対抗した。ふたりの打ち合いは実に一時間に及んだ。その間に帰宅していた弥彦は、黙って道場の隅に座し、ひたすら打ち合うふたりを見詰めていた。
 押しているのは勿論剣心。だが、薫もただ押されているだけではない。一歩も引かず、一切剣心から視線を外さない。打てば打つだけ、竹刀も傷んだ。徐々にささくれ、軋んでいく。剣心は顔を歪めた。そろそろ、竹刀が限界だ。しかし、薫はそれにも関わらず打ち込んでくる。竹刀の傷みにも気付けないような剣士だったろうか、彼女は。どちらにせよ、早急に決着をつけねばならない。剣心は剣を振り上げた。薫の面を取りに掛かる。薫は額の上で手の甲を交差させた。神谷活心流奥義の守り“刃止め”。薫の手の甲に竹刀が当たった、その時、衝撃に耐え切れず、竹刀が真っ二つに折れた。竹刀の破片は薫の両手に巻かれた晒しを裂く。剣心の動きが、一瞬止まる。その隙に、薫は一歩踏み込み、剣心の胴を抜いた。
 勝負あり。
 弥彦は目を疑った。どんな形であれ、薫が剣心に勝ったのだ。薫は床に膝をつき、肩で息をしながら、剣心を見上げた。剣心は穏やかに薫を見詰め、小さく頭を下げた。
「薫殿の勝ち、で、ござるな」
「でも、剣心は本気じゃない……。私が剣心に勝てるわけがないもの」
「いや、勝ちは勝ちでござる。正直、拙者も薫殿が此処までやるとは思わなかった。此処まで本気で攻め込んでくるとは、思っていなかったでござるよ。神谷活心流は、人を活かす剣。己が負けては、己も、活かしたい人も守る事が出来ない。故に、決して負けの許されない剣。薫殿は神谷活心流の信念を貫いたからこそ、拙者から一本取れたでござる」
 剣心は薫の前に片膝をつき、真摯な眼差しを向けた。
「薫殿、拙者の試験は合格でござる」
「え?」
「神谷薫殿、神谷活心流剣術道場師範になるべきでござる」
「……剣、心……?」
 “神谷活心流剣術道場師範”――長く不在であり、いずれは継がねばならないと解っていたその位。本当に自分で良いのかと悩み続け、前川宮内氏を初めとした、縁のある多くの剣術道場の師範達に相談をしていたこと。ずっと、ずっと、考え続けていた事。
「薫殿、お主には、その資格がある。そして、弥彦。お主はこの道場の師範代となり、薫殿と共に神谷活心流を守れ」
「はい」
 弥彦は姿勢を正し、はっきりと答えた。
「越路郎殿も、そう思っているはずでござる。神谷越路郎の意志が薫殿に受け継がれているかどうか……拙者はそれが見たかった。結果は、予想以上でござる。だから、薫殿、胸を張って師範になるでござるよ」
 薫は足を組み直して剣心に向き合い、真っ直ぐに答えた。
「はい」
 剣心はほっと頬を緩ませ、薫の顔を覗く。そして、小さく咳払いをすると、やや口篭りながら、薫を呼んだ。きょとんとしたのは、薫だけではない。普段余り見る事のない剣心の動揺した姿に、弥彦も首を傾げた。しかし、剣心は意を決したように口を開いた。
「それから、神谷薫殿……。その…………拙者の妻に、なってくれぬでござるか?」
 揺るぎのない瞳が、薫の胸を貫いた。






 雨上がりの空に、花は揺れる。幾度と色を変えながら、薄暗い雨空の下に凛と咲き、雨の季節の終わる頃、色褪せ、朽ちてゆく。天気が変わるように、季節が巡るように、花が色を変えるように、時代はめまぐるしく変化を遂げ、人の心もくるくると変わってゆく。
 時代は変わる、剣術も変わる、だけど、人だけは変わらない――そんな事は、ない。
 それでも、変わらぬ想いは人を結び、変わり行く未来に褪せる事無く輝く。世界の美しくある限り。

fin
時代がどんなに変わっても。
どんなに人の心が変わっても。
この思いだけは変わらない。
そうあることを、信じたい。
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