奥底に眠る鼓動。
 琥珀色の薬が解き放つ、熱。



   琥珀の鼓動



 あの女に出逢ったのは、明治十年の暮れ。部屋の隅に佇むその女は、まるで亡霊のようだった。青白い貌をして、眩い眼で俺を睨んだ。
 戦わずして役目を終えた隠密江戸城御庭番衆。その最後の頭として、戦う事にしか生きられぬ部下四人と共に、戦いを求めてさ迷った。今、俺達は護衛として雇われる事になった。胡散臭い“青年実業家”武田観柳に。この男がどうなろうと知った事ではないが、このきな臭い男の周りで、何かしら起こるであろう事を俺は感じている。
 そうして通された部屋で、俺はその女に出逢った。観柳に囲われている女。最初は観柳の情婦<いろ>かと思ったが、そうではなかった。観柳が密売している新型阿片の製法を知る唯一の人物だという。まさかこの女が、とも思ったが、こんな嘘をつく理由もない。それに、確かにこの女からは薬草や薬品のにおいがしている。
「このところ警察の動きも気になるし、私兵団だけでは少々心許ないので、新しく護衛を雇うことにしたんですよ」
 俺を招き入れてから、その洋室の隅に立つ女に声をかける。女は表情一つ変えず、俺をじっと睨んでいた。
「この方は、四乃森蒼紫さんと言って、幕末にたった十五歳で江戸城御庭番衆の御頭になった方でなんすよ」
 観柳は得意げに俺を紹介する。何も、この男が自慢する事ではないはずだが。俺は呆れながら女を見た。奇妙な女だ。俺と視線を合わせても動揺する事なく、目を反らそうともせず、しっかりこちらを見ている。
「御頭さんは、血の臭いに敏感でいらっしゃるんでしょうね」
 女の挑戦的な眼差しを嘲笑するように武田観柳がにやつきながら頷いた。
「この人は高荷恵さんといって、実に優秀なお医者さんなんですがね、どうにも直ぐに死にたがる。不思議な方でねぇ、血の匂いがしたら、直ぐに助けてやって下さいね」
 “直ぐに死にたがる医者”……そう言ってしまえばただの狂った女だが、理由もなくそんな奇行にでるわけではあるまい。死にたくなる理由があるのだろう。
「それから……彼女はよくこの屋敷から抜け出そうなんて事を考えるので、注意してやって下さい」
 成程、この女は金で観柳と利害を一致させているわけではなく、観柳が監禁して阿片を作らせているわけか。俺達の任務は、観柳の護衛より寧ろこの女の監視。つまらん、宛てが外れたか。
「もう良い? 部屋に戻るわ」
 女はうんざりした様子でそう言うと、部屋を出て行った。
「気の強い女性でしょう? 」
 にやにやと不愉快な笑みを絶やす事なく、観柳は窓の外の広い庭に視線を投げた。ただ権力を誇示するためだけに誂えた屋敷は、あの女にとっては牢獄も同然だろう。
 居心地の悪い部屋を出て、俺は高荷恵の部屋を訪れた。二階の一番奥、観柳の私室の真反対の部屋だ。周囲を五人の私兵が固めている。この上、俺達まで監視に使おうとは、随分な御身分ではないか。私兵達は新参者の俺が気に食わないらしく、互いにこそこそと不満を言い合っている。こそこそしたところで、丸聞こえだが。
 俺は私兵は特に気に掛けず、女の部屋の戸を叩いた。
「……誰?」
 低く、訝るような声。ほんの一瞬の間の後、
「四乃森蒼紫?」
「そうだ」
 なかなか利口で、勘の鋭い女だ。
「どうぞ」
 女の声に招かれ、俺は部屋の扉を開けた。
「いらっしゃい、四乃森さん」
 部屋には、件の女が一人でいた。窓辺に腰を降ろし、ちらちらと舞い始めた雪を眺めている。私兵達はいないようだ。当たり前か……。部屋にまで私兵を配したら、女は間違いなく自害しているだろう。この、気位の高そうな女は。
「何故、貴方のような人が観柳に雇われてるのか甚だ疑問だわ」
 女は溜息をついた。冷ややかな眼差しを俺に向けながら、ゆっくりと舶来物の寝台に腰を下ろす。
「貴方、本当に江戸城御庭番衆の御頭だったの?」
「そうだ」
「……落ちたものね」
 口元に浮かんだ嘲笑に、苛立ちを覚えた。だが、その横顔に浮かんだ影を見逃しはしなかった。そして、「私に言えた事ではないけど」――微かにこぼれ落ちた声を、聞き逃しはしなかった。
「だけど、心まで落ちたわけじゃないんでしょう? 端金のために、魂まで売り渡したりしない……」
 真っ直ぐに向けられた瞳に、同じ意志を感じた。この女もまた、金で飼われているというわけではないのだろう。故に、切れない鎖にもがいているのか。
「あんたは、観柳と同類項ではないわ」
 当たり前だ。俺が黙って見詰めると、女はそれを理解したらしい。僅かながら同類意識を抱いた。互いに。
「いつか……私を殺して?」
 零れた言葉に答える事はせず、俺は部屋を後にした。
 部下の般若の調べで、女が会津藩の御殿医、高荷隆生の娘だと知ったのは半日後の事。会津の訛りを残した言葉に高荷というからもしやとは思ったが、やはりそうか。高荷隆生の娘……生きていたのか。
 「落ちたものね」――女の言葉が思い出される。互いに幕府方につき、新時代の幕開けと共に多くを失った。埋め合わせるように抗って生きた十年。“落ちた”と言われても仕方のない現状。俺も、あの女も。死にたくなる理由が解らないでもない。



 思った以上に厄介な女だった。新年までの約一週間、脱走を試みた事が三回。こうなると、寧ろ逞しとしか思えない。
 年が明けると、女は七日の休みを得た。休みといっても、阿片を作らないというだけで屋敷から出られるわけではない。観柳は温泉に行くと言い、一緒に行くかと女を誘ったが、女は断った。懸命な判断だろう。
 護衛の対象である男は、やはり女の見張りを言い付けて数人の私兵を共に出て行った。

「綺麗……」
 元日の朝、展望室から新年に相応しい見事な日の出を見詰め、女は微笑んだ。朝日に照らされて、女らしい柔らかさを帯びていた。そうなったのは、般若と、とある私兵の存在故……なのか。
 この監獄の中でも女が生きる力を失わなかったのは、他の莫迦な私兵とは違い、理知的で穏やかな一人の私兵の存在がある。その上、どういうわけか、女は般若を気に入り、何かと般若と共にいる。脱走を止めたのも般若だった。「般若を懐柔しようと思っているなら無駄な事だ」――一度忠告をしたが、目元を険しく吊り上げて「そんなつもりでいるわけじゃない」と言い返された。だったら、どういうつもりかと思ったが、後で般若に聞けば、「純粋に、彼女は楽しんでいるようです」と答えた。そう言われるまで、考えた事もなかった。あの女が、“純粋に”楽しめる何かがあるのかなど。
「本来、素直で優しい娘なのです、恵は」
 どこか遠くを見ながら呟いた般若の、その鬼女の面が、不思議と穏やかに見えた。幼くして帰る場所を失い、一人で生き抜いてきた二人には通じるものがあるのだろう。それにしても……“恵”か。般若は、よもや情にほだされたりはしないだろうが、思った以上に親しくなっているようだ。他の者達に対しては少々注意も必要かも知れない。
 そんなやり取りのあった後に見る女の横顔は、一週間前――初対面の時より晴れやかだ。顔色もマシに見える。少なくとも、亡霊には見えない。顔を潰し、面を被っているが故に表情を窺い知れぬ般若は、ともすれば無感情で冷酷に捉われがちだが、その実、誰より情に厚い。京都に置いてきた、俺達を慕う娘・巻町操を一番気にかけているのも、般若だ。この女に対しても、それは変わらない。尤も、御庭番の任務と無関係のところでの話だが。
「…………どうした?」
 光を浴び、微笑む女に現れた変化に、俺は微かに眉を寄せた。
「え……? あ……あれ……どうして……?」
 女は、頬に手を当てた。瞳から零れた涙が女の指を濡らす。
「怖いのか?」
 光が、闇が、観柳が、俺が、阿片が、孤独が……何かが、怖いのか?
 しかし、女はさっと顔を逸らした。次にこちらに向き直った時、涙もない代わりに笑顔も消えていた。女はそのまま展望室を後にし、部屋に閉じ篭った。
 元日は夕方から雲行きが怪しくなり、夜には雪が降り出した。陰鬱な天気の中、女も陰鬱な顔をして、部屋で酒を煽っていた。ブランデーという、舶来の酒。琥珀色の酒が、妙に女によく合った。
 事が起きたのは、夜半を過ぎてからの事。女は部屋を抜け出した。観柳のいないこの元日が好機とばかりに脱走を図ったか。馬鹿な女だ、逃げられるわけがない。般若が直に捕まえるだろう。
「……蒼紫様」
「捕えたか」
「いえ、脱走ではありませんでした」
 戻ってきた般若の声音は沈んでいた。まさか、自殺か――しかし、般若はそれを察したか、さっと首を横に振った。
「いいえ、庭で酒を飲んでいるだけです。ひとりにしてくれと言われたのでそうしていますが、べし見に見張りはさせています」
「庭で……?」
 般若の話を聞き、窓の外に視線を向けると、しんしんと雪が降っている。六時間以上降り続けている雪は、かなり積もっている筈だ。こんな中で、酒を飲んでいるだと? 自殺行為だ。……それが狙いか? 実際に死なないようにべし見が見張っているわけか。
 死にさえしなければ、逃げさえしなければそれで構わない。……が、俺の足は自然と庭に向いていた。



 森に面した庭の片隅に設えられた長椅子に腰掛け、手酌でグラスに注ぎながら女はブランデーを口に運んでいた。分厚い外套に包まった肩や、黒く長い髪に雪を積もらせ、虚ろな眼で虚ろな空を仰ぐ。
「ひとりにしてちょうだい」
 俺が近付こうとした瞬間、女の唇から白い息が零れた。
「見張りはつけて良いし、なんなら足枷を付けてくれても構わないわ。逃げはしないから、ひとりにして」
「出来ない」
 俺は女の正面に立ち、そっと髪に積もった雪を払う。ばさばさと音を立てて雪は落ちて行った。
「そんなに阿片を作るのが嫌か?」
「愚問だわ」
「阿片は毒薬ではない。人を死にいたらしめるための物ではなかろう?」
 こんな風に自分を責めて、死のうとまでして……酒をのむ事で僅かの間、忘れようとしている姿が痛々しい。少しでも割り切れたなら今よりは楽に生きられようものを。
「毒じゃない……けど、人の命を救う薬じゃないわ……。死者も、実際に出ているのよ」
 呂律が回っていない上、普段より語気が強い。苛立ちが、酒の力で溢れ出している。医者として、どうしても許せない事があるのだろう。そして、それを行う自分に納得出来ずにいる。
 女は頬を赤くしながら、またグラスに酒を注いだ。
「好い加減にしろ。酒は百薬の長というが、薬も過ぎれば毒だろう」
「お誂え向きじゃない」
 奪おうとしても頑なに瓶を離さず、自嘲する女は、見れば見る程虚しい存在だ。女は俺に構わず尚も酒を煽る。
「部屋に戻れ」
「嫌」
 女は駄々をこねる幼子のように外方を向いた。
「病にでも掛かったらどうする? 戻るぞ」
「いーやぁー」
 これではまるっきり子供だ。見れば、眼はさっきよりとろんとして、焦点が合っていない。明らかに、酔っ払っている。
「おい、お前――」
「うるさいっ!」
 言いながら、女は俺にグラスの酒をぶちまけた。俺は頭から冷え切ったブランデーを浴びせられた。女は一瞬「しまった」というような顔をしたが、すぐに口をすぼめて俯いた。
 俺は、自分自身が酒に弱い事はよく知っている。顔面に酒を浴び、思った以上にきつい匂いに、くらくらした。唇の端から流れ込む酒はやけに苦い。凍り付きそうな酒を腕で拭いながら、俺は溜息をつく。
「五月蝿いのはお前の方だ」
 俺は、女を肩に担ぎ上げた。
「ちょっ……ちょっと! 嫌、降ろして!!」
「暴れるな、鬱陶しい」
 俺の背中をどかどかと殴り、女は暴れた。
「やめて、降ろして!」
「この場で手を離してやろうか? 頭から床に落ちるが」
 静かに呟くと、女は途端に黙り込み、落ちまいとするように服を掴んだ。漸く大人しくなり、俺は足早に女の部屋へ向かった。また、暴れられても面倒だ。
 寝台の上に女を放り投げ、床に酒瓶を置く。女は不貞腐れたような顔をして寝台に身を起こした。
「どーしてそんなに怒るのよ?」
 理解出来ないとでも言うように、頬を膨らませて首を傾げる。まるで子供だ。普段、凛として隙を見せないこの女が、酒に酔うと此処まで退行するとはな。
「ね、貴方も一緒に飲もう?」
 稚い表情で、口調で、何気なく誘ってくる女は、恐らく人が見れば“愛らしい”などと思うのだろう。俺が飲めるのなら一杯くらい付き合っていたかも知れないが、今は、先程浴びた酒の所為で感じている酔いを早く醒ましたくて仕方がない。
「いや……」
 俺は女の肩に掛かった外套を抜き取った。雪に濡れた外套は思いの外重たい。
「眠れ」
 濡れた髪もそのままに、俺は女を寝台に押し付けた。女の表情は、やはり子供のようで、きょとんとしている。
「酒は後で片付けさせるから、ちゃんと寝るんだ、良いな?」
 これ以上振り回されては適わない。早く酒を洗い流し、熱い茶で酔いを醒まさねば。
 俺は、女の横たわる寝台に背を向け、部屋を出ようとした。
 その時。
 急に、背後で空気が動いたかと思うと、女が俺の背中にしがみついた。後ろから腰に手を回し、背中に頬を押し付けているのが解る。
「……おい?」
「嫌、行っちゃ、嫌……」
 どこまで退行すれば気が済むのだ、この女は。口ぶりも子供そのもの。普段と違い過ぎて、俺は困惑した。同時に、迷惑だ、とも思う。鬱陶しい。腰にまわして固く結んだ女の手を解こうと、触れる。指が……冷たい。先程まで雪の中にいたのだから当たり前といえば当たり前だが。
「おい、お前――」
「お前じゃないわ」
 子供が拗ねるような口調で言いながら、俺にしがみつく力を少し緩めた。俺が不満を覚えている事を感じているのかも知れない。駄々をこねる操をあやすより厄介だ。僅かに逡巡したが、俺は、女の手に自分の手を重ねた。
「恵」
 般若がそう呼ぶように、俺も女を呼んだ。そういえば、この名を口にするのは初めてか。
「ふふふ……」
 女は……恵は、嬉しそうに俺を抱き締め直し、俺の手に指を絡めた。感情の起伏の激しさも、子供並だ。
「兎に角、今日は眠れ、恵」
 俺はそっと恵の手を解いて向き直り、その肩を軽く押した。恵は不満そうに俺を見上げ、それから俯いて俺の手を取った。“行っちゃ、嫌……”か。さっきの言葉通り、本当に俺を行かせないつもりらしい。恵から漂う酒の匂いと、庭で浴びせられた酒の所為で、俺も少し、酔っているだけに、どうにか早くこの場を離れたいのだが。
「ちょっとだけ……」
 仕方ない。俺は、うんざりしながらも、取り敢えず頷いた。恵の表情が、ぱっと明るくなる。家族といた頃の恵は、こんな風に生き生きと笑っていたのだろうか。俺が知っている高荷恵という女は、いつも俯いて、暗い影を纏っている印象しかない。生まれた時からこんな風だったとは思わないが、こうも明るく、清々しい表情を見せられると、今、こうして闇に閉ざされて生きている恵が哀れに思われた。俺は、自ら選んでこの場所に来た。だが、恵は望みもせず、この場所に閉じ込められている。
 高荷恵を逃さず、生かすことが俺達の仕事。だが……どうだろう。恵が此処から逃げ出したとしたら、災いの種を蒔く事は出来る。一騒動起きれば、俺達にも戦いの好機は巡って来るだろう。最終的にこいつが警察に捕らえれれば、阿片製造の罪で死刑になる。それで、死にたいという望みは果たされるのだとしたら、逃がす方が互いに良いのかも知れない。
 …………いや。
 俺は、恵を寝台に座らせ、その隣りに腰を下ろした。恵は、俺の肩に頭を乗せてきた。
「兄さん……」
 確か、恵には二人の兄がいる。彼らと母親とは生き別れ、父親とは死に別れている。恵が何度自殺を図っても死に切れないのは、生き別れた家族に逢いたいがためだ。だが、死なずにいたところで、こうして阿片密造の罪が、恵を苦しめている。誉れ高き高荷の娘が、阿片を作っているなど、家族に知られたくはないだろう。生死を問わず、恵にとっては総てが地獄。その地獄から、俺が助け出してやるなどという事は出来ない。するつもりも、ない。
「……兄さん」
「恵……」
 俺は恵の顔を覗き込む。
「悪いな、俺はお前の兄じゃない」
 お前の兄は、こうして苦しむお前に、いつもどう接してきた? 優しい言葉をかけただろうな。だが、俺にはそんな事は出来ない。酒に酔って逃避したところで、酔いが醒めれば残されているのは現実だけ。俺の言葉に、一瞬、歯を食い縛るような
「……蒼紫」
 解っているようだな。それでも尚、肩に頬を擦り付けて、腕に手を絡ませる。
「解っているわ、私だって……」
「恵?」
 様子がおかしい。さっきまでと、明らかに何かが違う。酔っている……わけではないのか?
「どうした、恵?」
 瞳を伏せ、恵は俺の手をきつく抱き締めた。
「呼んで……」
「え?」
「私を、呼んで……」
 もう、酔いは醒めている。だが、普段のような気丈さはない。儚く、今にも壊れそうに震えている。
「恵」
「……もっと」
 幼い子供のようではないが、それでも普段と違う声で、強請ってくる。
「恵……恵……」
 耳元で、何度も囁く。少しずつ、恵の口元が緩む。般若と共にいる事を楽しんでいたのは、般若が名前を呼ぶからだったのだろうか。ここにいて、あの忌々しい声で呼ばれる度に、自分の存在が薄れていくことを感じていたのかも知れない。闇と孤独と罪の意識に苛まれながら。己の存在を危ぶみながらも、懸命に生きようとする姿は、健気でもあり、愚かしくもある。
「蒼紫……」
 恵の声に、我に返る。今は俺が、酔っているらしい。
「恵」
 恵の手を解き、肩に腕を回す。思いの外細く、華奢な肩。恵は俺の膝に手を置き、間近で俺の顔を見詰める。真剣で、熱のこもった瞳で。
「私を……殺して……」
「恵……」
「死にたい……死にたい……お願い……もう、生きていられない……」
「恵」
 右腕で恵の肩を抱いたまま、左手で恵の頬に触れる。凍りつく程、冷たい。
「蒼紫、お願い……私を殺して……死なせて……」
「恵」
 耳元でもう一度呼ぶ。
「怖い……」
 知っている。お前が何より恐れているのは、己自信。消えてしまえば、死んでしまえば良いと思いながらも、美しいものを見て自然と涙を零し、生きる喜びを知るが故に世界から逃れられない己自信。お前が何度死にたいと、殺してくれといっても、俺には生きたいと、家族に逢いたいと言っているようにしか聞こえない。
「死にたい……私を殺して……」
 繰り返す恵の言葉を飲み込むように、俺は恵の唇を塞いだ。そして、無理矢理飲み込ませるように、そのままその名を口にした。
 死人のそれのように、凍りつく唇。柔らかく、何度もその唇を塞ぐと、恵の腕が俺を抱いた。
「生きたい……」
 その言葉が、聞きたかった。
 琥珀に閉じ込められた虫が蘇るかのように、押し殺し、閉じ込めた筈の本心が溢れ出す。漆黒の瞳からこぼれだした涙に口付ける。全く、俺も酔っているらしい。
「蒼紫」
 呟き、微笑むと、恵は糸が切れたかのように俺にもたれかかり、眠りに落ちた。
 疲れていたのだろう。たった一言の本心を口にするために、幾年もの時間をかけた。恐らく、般若にすら口にしなかったこの言葉。俺にかなえてやることが出来るかは解らないが。


「雪が解けたら」


 俺は、眠る女の耳元に囁いた。

fin
呼んで、私を。
もう、動かないはずだった琥珀の中の虫。
もう、動かないはずだった心の中の本音。
今度は、この檻から蝶になって飛び出してゆきたい……



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