初めて交わした口付けを、貴方は覚えているだろうか。
 あの日、無口な月だけが私達を見ていた。


   昼の月


 “女・女・女”と書いて“姦しい”になる。実際、女が三人もいれば確かに姦しいものだ。それが、四人に増えれば、一体どれ程賑やかか。
 神谷薫はその日、稽古の後、ふと甘味を食べたいと思った。未だ日差しの強い夏の半ば、夏の終わりに起きる凄惨な事件など、この時は誰も知らず、ただ平穏な日々。
「そうだ、今日は確か赤べこ休みだし、妙さんと燕ちゃんも誘ってみよっかな」
 桜色の着物に紺の帯を締め、朱の巾着をぶらぶら手の先で揺らしながら、薫は自分の思いつきに満足したようで、うんうんと頷いた。
 牛鍋屋赤べこの前に来ると、薫ははたと足を止めた。店の前にはいつもの店の制服とは違い、茜色の地に白と金の扇模様の着物を着た妙と、黄の地に小花柄の着物を着た燕、それにもう一人、女医の高荷恵の姿があった。いつもの藤色の着物に紫の胸当て姿ではなく、しっとりと落ち着いた露草色に黒い蝶の柄の、なんとも大人びた着物を着ていた。
「あら、薫さん、どうしたの?」
「恵さんこそ、どうして此処に?」
 振り向いた恵は、普段は背中にたらしている髪を、左耳の下で揺るく結び、着物と同じ小さな蝶の髪飾りをつけている。普段の医者としての姿しか見ていない薫には、随分と新鮮な姿だった。
「どうしてって……妙さんに用があってね。剣さんや弥彦君の調子はどう? 弥彦君、暫く検診してないから、明日にでも診療所の来るように言ってくれるかしら?」
「まぁまぁ、恵はん、折角久々の休みなんやから、仕事の事は取り敢えず置いときいな」
 妙が苦笑しながら恵の肩を叩いた。
「それにしても、恵さん、いつもと雰囲気違いますね」
「患者さん……呉服屋のさとさんから頂いたのよ。今日は午前の診察の後、何人かの患者さんに往診して薬を届けたら後は休みだから、さとさんのところにも往診に行くし、着てみただけよ」
「うちは、てっきり、これから左之助はんとでぇとなんやと思ったんやけど」
 妙が、あからさまに残念そうに肩を落とした。
「え、恵さんと左之助さんって……」
「そんなわけないでしょ。馬鹿を言わないで頂戴」
 驚いた様子の燕に、恵はうんざり顔で否定した。
「燕ちゃん、気付いてへんかったん?」
「妙さん!」
 すかさず茶々を入れる妙に素早く突っ込み、恵は肩を竦めた。
「あんまり遅くなっても良くないし、行きましょう」
「あ、恵はん、待って」
「何処行くの?」
 妙と燕は兎も角、そこに恵が加わるのは珍しい組み合わせだ。薫はこくんと首を傾げた。
「夕方から休みだし、妙さんは今日は店が休みの日だから、甘いものでも食べに行こうかって前から話していたのよ」
「へぇ……妙さんと恵さんって、仲良しだったんですね」
「まぁね。うち、今、板さんのひとりが包丁の握り過ぎで手首いわしとるさかい、よう恵はんに来てもろうとるんよ」
「で、妙さんのお父様が、二人とも働き過ぎだから、少しゆっくりして来いって。燕ちゃんもね」
 妙と恵は口元に穏やかな笑みを浮かべた。燕はこくんと頷き、薫と会釈してから、二人の隣りに走った。
「あの……薫さん達も一緒に……」
 不自然なまでに薫を置いて行こうとする恵の着物を、燕はそっと引っ張った。
「どうせ、言わなくても一緒に来るわよ。ね?」
 振り返ると、薫は嬉しそうににんまりと笑った。
「勿論!」
 かくして、女四人、揃って妙お勧めの甘味処に向かった。



 町の少し奥まったところに、俗に“娘之小路”と呼ばれる路地がある。小間物屋やら呉服屋やら、婦女子の好みそうな物を扱う店屋が立ち並んだ小路だ。薫はこの小路の呉服屋“弓幹堂”の常連だ。安く、小奇麗な、若い女性向けの柄の着物を扱っている事で有名で、薫は特に帯や帯留を買いに来る事が多い。燕も巾着や簪はいつもこの小路で探すし、妙もよく草履や髪飾りを見に来るらしい。
「恵さんは? こういうとこ、来る?」
「そうねぇ、何軒かは、しょっちゅう来るわ。往診とかで……」
「恵はんは、ほんまにに仕事の虫やね」
 妙は、呆れたように肩を竦めた。
「言ったでしょ、これが、私の生きる道なのよ」
 そう言いながら、妙について、小さな甘味処“雫屋”に入った。更に燕、薫が続く。
 四人が店内に入ると、薫と年端の変わらない、お下げ髪の娘が、店の奥からぱたぱたと駆けて来た。
「いらっしゃいませ」
「あら、柚香(ゆか)ちゃん。貴方、此処で働いていたの?」
「あぁ、恵先生。その節はお世話になりました」
 娘は、恵の姿を見止めるや、ぺこりと頭を下げた。
「知ってるの、恵さん?」
 小柄で、細い紅色の紐で結ったお下げと、髪結いの紐と同色の着物の良く似合う、愛らしい娘だ。
「えぇ、まぁね」
 口ぶりからして、彼女か、彼女の身内が恵の患者なのだろう。全く、何処へ行っても患者やらその身内やらに逢ってしまうらしい。きっと、この近辺に恵の知らない者などいないのだろうと、薫は感心してしまった。妙も顔が広い方だが、職業柄一箇所に留まっているから、ある程度は限られてくる。それにしても、恵はまだこの町に来て数ヶ月だというのに、道を歩けば誰もが挨拶をしてくるのだらか、全く大したものだ。
 “生きる道”――
 さっき妙がをからかった時に恵が口にしたその言葉は、京都に行く前にも聞いた。それは、想い人である剣心の旅立ちに、すっかり消沈した薫を叱咤した時に口にした言葉だ。薫はあろう事か、恵の気高い意志を馬鹿にした。その時に、恵が低く押し殺した声で言ったのが、この言葉だったのだ。
 医者として、生きる事。それが彼女の唯一の道であり、それを示したのは、他ならぬ剣心である。複雑な心持がした。しかし、恵は確かに自分の意志を全うしようと立ち向かっている。この顔の広さで、恵がどれだけ働き回り、人々の役に立っているかが伺える。
 薫は奥歯を噛み締めた。
 この人は、美しい……。それは、見目ばかりでなく。

 四人は“柚香ちゃん”と呼ばれた娘――奥村柚香子(おくむらゆかこ)に案内され、一番奥の席につき、めいめい好みの甘味を頼んだ。
 薫は餡蜜、妙は蕨餅、恵はところてん、燕は葛餅だった。
「ん、これ、すごく美味しい!!」
「そうやろ、此処は特にこの餡蜜が人気なんよ。うちにも一口頂戴」
「うん、妙さんも、蕨餅一切れ頂戴!」
 薫は身を乗り出して、斜め向かいの妙の皿から、蕨餅を摘み上げた。
「こういうの、操ちゃんが好きそうね。東京に来る事があったら、連れて来てあげたら?」
「そうね、また皆で来ましょうよ」
「操さんって、確か……」
「京都でお世話になった料亭のお嬢さんよ。剣さんと因縁深い四乃森蒼紫という男に好意を寄せて、今では一緒に暮らしているものだから、毎日ご機嫌みたいよ」
 恵はさらりと説明をするが、本当に四乃森蒼紫と因縁の深いのは、剣心もさる事ながら、恵も同じである。
「一緒になぁ……でも、気ぃつけなあかんよ、薫ちゃんも。好きな人と一緒に住んでるからゆぅて安心してたら、ほんまに女として見て貰えななるんやから」
「近過ぎてそこにいるのが当たり前になっちゃうって事ですか?」
 燕がぽつりと聞き返す。
「せや。近くにおるからって安心しとるかも知れへんけど、近いからこそしっかりせな、良いところも悪いところも全部見取るんやさかい、嫌なところ見つけたら愛想つかされるかも知れへん」
「き、気を付けます!!」
 薫は力一杯頷いた。妙の言葉には、不思議な説得力がある。妙自身には、恋人もいないというのに。
 それから、矛先は燕と弥彦に向き、甘いものの盛り付けられた皿が空っぽになるまで、燕は真っ赤になりながら妙や薫に茶々を入れられていた。恵はそんな三人を微笑ましく眺めながら、時折くすりと笑う。
「で、恵はんは?」
 燕からすっかり色々聞き出して満足したのか、妙は今度は恵に視線を向けた。
「え?」
「恵はん、左之はんとはどないなん、実際のとこ?」
「……私と左之助、恋仲に見えます?」
 恵はいぶかしげに眉を寄せた。
「左之助は患者の一人よ。それに……親しく見えるのは私が世話焼きだからでしょうけど、でも、弟みたいなものよ」
「実は、左之はん人気あるんよ。うちにもよぉ出入りしとるさかい、時々女の子が左之はんの事聞きに来やるし」
「私も……実は、左之助と恋人なのかって聞かれた事は何度かあるわ」
 恵は困ったように首を傾げた。
「でも……ほら、私、剣さんの事これでも本当に好きだったのよ? まぁ、もう気持ちに整理は付けたんだけどね」
「恵さん……」
 薫は、ゆっくりと顔を上げる。恵は宥めるように穏やかな微笑を浮かべた。
「……そうなん?」
「えぇ、剣さんは、私の生きる道を示してくれた人……。本当に、私、剣さんが好きだったけれど……でも、もう良いの。剣さんの示してくれた道を生き抜く事だけが、私の想いの証。私は、剣さんから十分過ぎる程沢山のものを貰ったから、満足しているもの。だから、剣さんに対してまだ満足する程何も得られていない薫さんに譲るわ」
「……結ばれる以前に満足出来たから、結ばれる事まで望まなくなった……という事、ですか?」
「よく解るわね、燕ちゃん」
 恵は隣りで不思議そうな顔をする燕の頭を優しく撫でた。燕は理解はしたけれど納得は出来ていないらしく、複雑な顔で頷いた。燕が恵の気持ちを理解するには、もう少し時間がかかるだろう。
「せやけど……なぁ、実は聞いてみたかったんやけど、恵はん、接吻した事、ある?」
 突然、妙は声を潜めて言った。途端に、薫と燕の顔が紅潮した。しかし、
「え? そりゃまぁ、あるけど?」
 恵はさらりと当然の事のように肯定する。
「やっぱり!? 初接吻はいつ!? 相手はどんな人!?」
 これには、薫や燕も興味を持ったらしい。全く、どうして娘達はこんな話題が好きなのだろう。恵からしてみれば、その程度の事にどうして此処まで興奮できるのかが解らない。
「唇を合わせる行為でしょう? 人口呼吸とかでする機会は少なくないし……初めて口付けしたのは十の頃かしら」
「て、そぉいう人命救助やなくて!」
「解ってるわよ」
 恵はおかしそうにくすくすと笑う。
「でも、恵さんて――」
 残念そうに薫が何か言いかけた時、
「わぁぁん」
 突然、表で女の子の泣き声がした。同時に、大人の騒ぎ声。何事かあったのだろうか。他の三人が顔を上げた瞬間には、恵は立ち上がっていた。薫が立ち上がろうとした時には、駈けだしていた。恵は総ての行動が、一拍早い。恵は店を飛び出した。斜向かいの小間物屋の前に、人だかりが出来ている。
「どうしたの?」
 恵が声を掛けると、囲んでいた人たちは口々に「恵先生!」と声を上げた。恵は人垣を押し除け、状況を把握しようと急いた。そこには、十歳くらいの娘が蹲り、足から血を流して泣いていた。
「転んで、戸口の角で切ったみたいなんです」
 小間物屋の女店主がおずおずと言った。
「市子ちゃん、市子ちゃん、大丈夫よ。出血は多く見えるけど、傷は浅いからね」
 恵は懐から救急箱を取り出すと、てきぱきと手当てを始めた。後から追い付いた薫や妙、燕も、感心してその光景を眺めていた。余りに鮮やかで、美しくさえ見えた。




「折角の休みやったのに、結局仕事しとったなぁ、恵はん」
「良いのよ、別に。好きでやっている事だもの。これが、私の生きる道だもの。それじゃぁ、私はこれで」
 赤べこの近くまで来ると、恵は他の三人と別れ、診療所へ向かった。恋愛について盛り上がっても、結局恵には色恋より医者としての勤めの方が余程重要だったと解る。
「恵さんって……なんか不思議ですね」
「でも、立派な人です」
 燕がぽつりと答えた。
 そんな風に燕が言っている事など露知らず、恵は河原の道を歩いていた。女の子は、皆、恋愛絡みの話が好きなんだなぁ、と、ぼんやりと思う。見上げた空には、黄金の月。日は大分長くなっているのに、今はもう西の空に淡い桜色を残して露草のような濃紺の空が広がっている。気付かぬ内にすっかり時間が経ってしまっていたようだ。ざわり、と、風が吹き抜けた。
 接吻……。初めて異性と口付けを交わしたのは、丁度、あの怪我をした娘と同じ年の頃。足を切ったどころの話ではなく、もう、間もなく死ぬだろうと、総てを諦めていた時だった。 
「初めての接吻はいつ?」
 恵は月を見上げて呟いた。
「相手は誰?」
 恵はそっと唇をなぞる。白く細い指の先に、微かに赤の色が差す。
 左之助は、接吻の経験なんかきっとないだろう。四乃森蒼紫は、彼女と……巻町操と、もう唇を交わしただろうか。そうだとしたら、操の事だ、薫に文でも寄越しそうなものだが。
「蝶一匹さえ許せない、独占欲の強いあの男が……あんな奔放な娘を愛せるものなのかしら」
 目の前を、ゆらゆらと漆黒の翅の蝶が飛び、気の早い蛍はぼんやりと草の先に火を灯す。恵をあの蝶とするなら、操や薫は蛍だろうか。闇夜に溶けて消える翅を持つ蝶と、いつも光灯す蛍とでは、引き付けるものが違うだろう。
 赤く染まった指をそっと空に差し出すと、ひらりひらりと恵の指に止まったのは、漆黒の蝶だった。空の薄明かりに照らされて、翅の縁が光った。
 幼い頃……秋の終わりにも、こんな蝶を見たわ。
 本当は、見えるはずのない黒い蝶。空を飛ぶ事も出来なくなり、ぱたりと地に落ちて動かなくなった蝶。恵は小さく息をつく。



 あの秋の日――。
 会津にいた。秋の終わり、冬も間近というのに、酷く暑い日だった。
 この蝶のように、もう間も無く死ぬだろう。白い月を見詰め、恵はぼんやりと考えていた。
 父のような、母のような、立派な医者になろうと決めていた。会津藩の中でも、藩主と近しい御殿医にありながら、広い視野でこの国を見ていた父には、幕府の終わりと新しい時代始まりが見えていた。薩長と戦争をしても負ける事も見えていた。会津戦争の早期終結――そうでなければ、会津は大変な事になる。新しい時代が来ても、会津の立場は良くないと、それさえも理解していた。新しい時代が来たら、身分の差がなくなったら、誰にも咎められる事なく家族で会津に医療所を開こうと話していた。身分の高い者ばかり看るのではなく、どんな人も平等に看るための。
 父が死んだ――その報せを受け、夢もまた死んだのだと知った。
 あれは、何日前の事だったのだろう。父が長兄・隆明(りゅうめい)を、母が次兄・隆彦(りゅうげん)を連れて戦火の中に消えたのは。知らされたのは父の死のみで、母や兄は行方知れずだ。父の死を知ってから、途方もなく歩き続けた。山道を行く内に下駄の鼻緒は切れ、いつからか裸足で歩いていた。父の言いつけを守って戦場に降りたりはしなかった。そのためか、余り人には会わなかった。だが、幾つもの死体を見付けた。刀を刺され、逃げた先で息絶えた風なものもあれば、自ら喉を裂いたもの、その場で殺されたらしい者もあった。恵は死体を見付けては懸命に穴を掘り、その亡骸を弔った。
 いつ戦が終わったのかは解らない。ただ、音もなく季節は巡り、秋も終わろうとしていた。この秋は雨も少なく、城下に放たれた炎の為か、暑かった。
 その日の早朝、恵は山中に一体の亡骸を見付けた。それは、恵より幼い少年の姿。腹を斬り付けられたらしい。惨い死骸だった。死後幾日か経っているのだろう、血の跡は土に染み入り、斬り口から腐敗が始まっている。既に肉刺が潰れてぼろぼろになった両手で土を掘り、恵は少年を土に埋めた。彼の側にあった木の実を墓石代わりに盛り上がった土の上に乗せた時、ひらりと黒い葉のようなものが舞い降りてきた。それは、蝶の死骸だった。恵はその蝶に手を伸ばそうとした。だが、身体はぐらりと傾き、土の上に仰向け倒れた。頭は重く、指先には力が入らなかった。全身の骨と筋肉が溶けたかのようで、呼吸もままならない。見上げた空は青かった。そこにはぽかりと白い月が浮かび、恵を見下ろしていた。黒い蝶は死に、あの白い月に召されたのか――。自分もまた、このまま月に消える命なのだろうと、恵は重たくなった瞼をそっと閉じた。

 どのくらいそうしていたのか、落ち葉を踏みしめる微かな足音が聞こえた。誰かがいる……。近付いて来る。
 長州か薩摩の志士だろうか。今弔ったばかりの少年のように、殺してはくれないだろうか。殆ど力の入らない手で、指先に触れる木の葉を手繰り寄せてぐっと握り締める。自身の存在を示す合図。ぱりぱりと、虫の音のような音が恵の耳に届いた。こんな小さな音に気付いてくれるわけがないと思っていたのだが、急に空気が張り詰めたのが解った。突然、全身から汗が噴き出した。
「あ……」
 からからに渇いた喉から懸命に声を絞り出す。しかし、溜息のように僅かな音が零れただけで、それきりもう息を漏らす他には出来なくなった。
「……大丈夫か!?」
 刹那、ざわりと梢の揺れる音。そして、鋭い男の声。恵を見付けたらしい。しかし、恵には瞳を開ける力もない。
「大丈夫か?」
 男の手が、頬に触れた。それから、胸に耳を押し当てられた。
「もう、大丈夫だ、心配いらない」
 男は柔らかに囁き、恵の上体をゆっくり抱き起こした。そして、唇を指で開いて微量の水を恵の喉に流した。水を飲み込む力のない恵は、唇の端から水を零した。だが、ほんの僅かではあるが、水は恵の喉にも通る。男は恵の口を拭うと、同じようにまた水を注いだ。ゆっくりと、しかし確実に恵の喉を水が潤した。幾度か繰り返す内に、恵は自分で水を飲み込む事が出来るようになった。
 重く固く閉じた瞼はなかなか開きはしないのだが、恵には男が微笑んだのが解った。
「うぅっ……」
 恵が微かに震える。男は恵を抱く腕に力を込め、その痩せ痩けた頬に頬を寄せた。空に浮かぶ白い月のように、虚ろで儚げな少女。砂で出来た人形のように、いつ崩れて消えてもおかしくないように男には思えて仕方がなかった。
「よく生きていたな、偉いぞ」
 言いながら、男は今度は少し多めに水を飲ませた。
「う……ん……」
 上手く飲み込む事が出来、徐々に体が軽くなるのを感じて、恵は唇の端を持ち上げて見せた。
「良い子だ」
 男はそっと、恵の唇を撫でた。
「これ……墓か? もしかしてお前が?」
「うん……」
 恵を抱え直した時、男は側に、不自然に盛り上がった土がある事に気付いた。肌に冷たい風が、土の上に堕ちた黒い蝶の翅を揺らす。
「お前の家族か?」
「ううん。知らない男の子。お腹を斬り裂かれていた」
 そっと息を漏らすように恵は囁いた。
「知らない……? あ……此処に来るまでに、幾つも同じような土盛りを見たが、まさかそれもお前が?」
「……多分。幾つかは作ったから、知らない人のお墓」
 男は恵の手を取った。泥と血に汚れて、元の皮膚の色も解らない小さな手。
「私を……」
「ん?」
「私が死んだら、貴方は私を弔ってくれる?」
「何を馬鹿なことを」
 そう言って、男は恵に更に水を飲ませた。
「死にたい……」
「何て事を……こうして生きているじゃないか」
「でも――」
 言いかけた恵の唇に、温かな何かが触れて、恵は言葉を飲み込んだ。そのまま、何か苦いものが喉に滑り込んだ。
「ん……薬?」
「あぁ」
「中司新庄医師の処方箋の痛み止め……」
「え?」
 男が目を丸くしたのが、恵には解った。
「……有難う」
「お前……」
「私の父も母も兄も医者です。私も……医術を学んでいます」
「ならば殊更、生きるべきだろう。お前の力を求める人間は山程いるはずだ……」
 男は噛み潰した乾パンを口移しで与えた。
「父は死んでしまった……」
「でも、お前は生きている」
 男は、恵の小さな身体をきつく、きつく抱き締めた。恵は胸の高鳴りを感じた。とくん、とくんと小さく音を立てる心臓の音が、男の胸から聞こえてくる。自分の心臓もまた、音を立てているのだと気付かされる。
「俺は流浪人故お前を連れては行かれぬが、いつか医者として生きるお前と、再び逢いたい」
「いつか、逢える?」
「生きていれば、きっと……。お前が医者になったなら、必ずお前を見付け出そう」
「約束……よ……?」
 恵は微笑み、穏やかな息を零しながら深い眠りに落ちていった。
 男は恵を抱き上げて山を下り、打ち捨てられた無人の小屋に恵を寝かせた。一晩懸命に恵の世話をして、眠る恵の傍らに少しばかりの水と食料と金を置いて去って行った。

 命を繋ぐために幾度も重ねられた唇の温もりを恵は忘れられずにいた。
 彼の言葉を胸に、生き続けたのだ。




 真昼の白い月を見上げる度、優しい男の温もりを思い出した。
 一度も顔を見る事のなかった男だったが、恵にとっては生涯忘れられない相手だった。




「初めての相手は忘れられないものよね……」
 恵は指から蝶を放ち、月へと口付けを投げた。
 誰にも語る事のない、口付けの秘密と共に。

fin
見付けて、私を。
忘れえぬ人――初めての人。
けれどその想いはいつしか、決意へと変わる。
タイトルは、新居昭乃さんの曲から拝借しました。


INDEX

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