小さく結ばれた命の緒。
 切れてしまえばこの想いからも自由になるの?


    ながらへば


 明治十一年初秋、会津に新たな診療所が開かれた。“高荷診療所”。今は亡き会津が医聖、高荷隆生の忘れ形見たる娘、恵が開いた診療所だ。町の医療所として、福島県がなけなしの財を以て新設した診療所は、維新後十年を経ても戦争の傷跡を色濃く残す会津には不似合いな程に真っ白い塀に囲まれていた。診療所は広めに作ってあり、最大十人の入院患者を収容出来るようになっている。だが、会津の現状を考えると、十病床ではとても足りなかった。また、診療所には恵の住居も併設されたが、こちらは恵が独りで住むには余りに広かった。
 葉月の末に東京から会津に移り住んだ恵は、想像以上に悲惨な状態で放置された故郷に戦慄した。古くからの貴族の屋敷は堂々たるものだったが、道端にはその日の暮らしにも困るような人々が溢れ返り、ひしめき合っていた。飢えに命を落とす者も少なくはない。病が蔓延し、健康な者を探す方が困難な程だった。
 恵は絶望に打ち拉がれながらも懸命に自身を奮い立たせ、毎日診療所から大量の荷物を担ぎ出し、町の至る所に仮設診療所や仮設病床を設置した。
 恵の様々な努力の甲斐もあり、町は徐々に復旧していった。人々には少しずつ笑顔が戻り、子供達の元気な声も聞こえてようになってきた。勿論、まだ完全とはいえないまでも、会津は確実に息を吹き返している。
 恵が東京で知り合った仲間達は、余り会津には来ない。まだ四ヶ月という事もあるが、会津の惨状や偏見は想像以上だった。特に緋村剣心は、文月の初めに会津を訪れたが、大きな後悔を残して早々に立ち去った。京都の料亭「葵屋」に落ち着いた四乃森蒼紫だけは、所用で盛岡に行った帰りに会津へ赴いた折、比較的長く滞在していった。
 訪れる友も少なく、恵が孤独に触れているかといえばそういう訳でもない。忙しさ故に孤独を感じる暇もないし、何より、恵には家族が出来た。生き別れた家族の消息は未だに知れていない。だが秋の初めに、身寄りを亡くした少年を一人養子として受け入れた。素直で利発な少年で、名を征太郎という。
 恵は会津に戻って最初の元日を、十歳の征太郎と共に迎えた。正月だからといって診療所が休みになるわけでもない。日中は忙しなく働き、征太郎と共に広場で雑煮を作って人々に振る舞った。
 診療所の入院患者は、幸いにして夕方には一時退院して、経過を見ながら五日までは家族と共に過ごせるよう手配した。
 穏やかな元日だった。
 夜まで、は――




     *******


 四日の夕刻、恵は診療所の戸にしっかりと鍵をかけ、窓も雨戸も閉め切って、征太郎の寝室で征太郎と歌留多を読んでいた。
「来ぬ人を まつ帆の浦の 夕なぎに やくや藻塩の 身もこがれつつ」
「こぬひとを まつほのうらの ゆふなぎに やくやもしほの みもこがれつつ」
 征太郎は布団に横たわって、絵札の束を片手に恵の読んだ歌を繰り返した。
「“いくら待っても訪れてこない恋人を毎日毎日待ちこがれている私は、あの松帆のの浦で夕なぎの頃焼くという藻塩のように、燃え盛る恋の思いにやかれて、身もこがれるほど に苦しんでいるのです”という意味よ」
「へぇ……」
 征太郎は興奮気味に頷いた。半年前まで母親代わりとして征太郎を育てていた女が学のない針子だったため、征太郎は読み書きが出来ない。代わりに、家事や繕い物が得意だった。
「藤原定家……」
「えぇ、この小倉百人一首を変遷した人よ」
「凄いなぁ。こんな美しい歌ばかり選んで……きっと俺と違って、学の深い人なんだ。母さんみたいに」
「貴方はこれから学ぶから良いのよ。それに、私は芸術関係はからっきしだから、定家とは違うわ。でも、美しい歌は好きよ」
「一番好きな歌は何?」
 征太郎は手元の取り札を一枚ずつ眺めながら、母に尋ねる。
「そうねぇ……これかしら」
 恵は読み札を繰り、十二単を纏った女性を描いた札を一枚取り出した。
「あ、昨日読んだやつだ」
 言いながら、征太郎は取り札から一枚の札を探し出した。
「しのぶることのよはりもぞする」
「そう、よく読めたわね。式子内親王の歌よ。“玉の緒よ 絶えねば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする”」
 恵は目を細め、微かに笑みを浮かべて絵札を見詰めた。恵の横顔を、征太郎はどういうわけか、直視する事が出来なかった。ふいと視線を逸らし、手の中の取り札を見やる。
「“玉の緒”は命の事なんだよね?」
「えぇ、そうよ」
「“私の命よ、絶えるなら絶えてしまえ”だっけ」
「そう……。“ながらへば”は――」
「長く生きていたら」
 その通り、と、恵は頷く。
「“私の命よ、絶えるなら絶えてしまえ。このまま生き長らえていたら、胸に隠し続けて絶える力が弱まって、想いが世間に知られてしまうから”……?」
「よく覚えたわね」
「何となく、印象的だった」
 そうだ……昨日教えてもらったこの歌、読んで意味を口にした母の顔を、やはりどういう訳か、直視する事が出来なかった。今と、同じように。
「なんだか、悲しい歌……」
「平安時代の貴族の女性は、自由に結婚や恋が出来なかったの。この人――式子内親王と恋をしたのは、きっと“恋をしてはいけない人”だったのね。だから、気持ちを隠しきれず、周りに知られる前に死んでしまいたいと思ったんだわ」
「恋をする事が“罪”?」
「この歌が生まれた頃はね」
 そう呟きながら、恵は先程まで手の中に納めていた別の札を取った。
「式子内親王の想い人は、藤原定家とも言われてるのよ。もしそうだとしたら、彼はどんな気持ちでこの歌を百人一首に選んだのかしらね……」
「……じゃぁ、定家が待っている“いくら待っても訪れてこない恋人”は、式子内親王?」
「違うと思うわ」
 恵が即座に答えると、征太郎は悲しそうに俯いた。
「征ももっと大きくなったら恋をするでしょうけど、例えば叶わない恋があったとしても、好きになってはいけない人なんかいないんだからね」
 恵は漸く顔を上げ、征太郎ににっこりと笑い掛けた。
「恋、なんて……」
「今の征には難しくて解らないかしら」
 恵は今度はからかうようにくすくすと笑い、征太郎の額をつついた。
「母さんには解るの? 死んでしまいたいと思うような気持ちなんて……」
 子供は時として残酷な事をいう。何も知らないのだから尚更だ。恵は曖昧に微笑んだ。
 丁度、恵が何かを言おうと口を開いた時だった。どんどんどん、と、裏口の扉を叩く音がする。恵と征太郎は同時に音の方を振り返り、息を飲んだ。
「患者さん……かしら?」
「患者さんが裏口から来る訳がない。きっと“あいつ”だ!」
 声を震わせながらも立ち上がろうとした恵の袖を引き、征太郎は首を振った。
「でも……」
「俺が行く!」
「駄目よ、征太郎。足の骨がまだくっついてないんだから。負担がかかるでしょう?」
 やんわりと征太郎の手を解き、恵は立ち上がった。早足で征太郎の部屋を出、しっかりと襖を閉める。そして、再び戸を叩く音のした裏口へ向かった。
「どなた?」
 恵は震える声で問いかける。一瞬の間の後、扉の向こうから低く落ち着いた声が聞こえた。
「恵?」
 この、声。それにこの呼び方。会津で恵を呼び捨てにする者はいない。大抵、“高荷先生”か“恵先生”だ。だとしたら。
「蒼……紫……?」
 口の中で、ぽつんと呟く。全身が震えていた。
「あぁ、ここからは入れないのか?」
 あんな小さな声が木戸越しに聞こえるのは、耳の極端に良い蒼紫だからだ。本人に間違いない。
「いいえ、開けるわ」
 恵は草履を突っ掛けて慌てて裏口の鍵を開ける。かたん、と扉が揺れて、四乃森蒼紫が顔を出した。髪や肩にうっすらと白い雪を微かに積もらせて、唇から真白い息を吐きながら。傘くらい差せば良いものを。
「明けましておめでとうございます。年始の挨拶に来てくれたの? 有り難う。操ちゃんは? 一緒じゃないの?」
 蒼紫を素早く招き入れて、さっと木戸を閉じる。恵の余りに警戒した行動は、蒼紫でなくても不審に思うだろう。肩や髪の雪を払いながら、蒼紫は眉を寄せた。
「どうしたんだ、何かあったのか?」
「なん……なんでもない、わ……」
 あからさまな怯え。何でもないわけがないだろう。
「あ……お茶……お茶を煎れるわ。上がって、征太郎の部屋に……きっと喜ぶから」
 途切れ途切れながら早口でそう言って、恵は台所に向かった。僅かの逡巡の後、蒼紫はそれに従った。
 確かに雪は深いが、しっかり窓を閉ざしているがために、異様に暗い。故なくこんな事をする女ではないはずだが。
 征太郎の部屋は台所から続く廊下の右手二番目だ。恵の伴侶や子供のことも考慮して建てられたであろうこの家は、一部屋毎もそれなりに広い。征太郎の部屋も八畳ある。
「征太郎、入るぞ」
 襖の前で声を掛け、蒼紫はすらりと襖を開く。征太郎は百人一首の散らかった部屋の壁際に立ち、松葉杖を掴もうとしていた。
「あ、蒼紫さん……?」
「あぁ」
 蒼紫が答えると、拍子抜けしたのか、がくんと床に座り込んだ。
「あっ、そうだ、明けましておめでとうございます」
 尻餅をついた情けない格好で、それでも誠実に礼儀正しくいようとする征太郎の姿勢は大したものだ。しかし。
「折ったのか」
「……はい」
 蒼紫は征太郎の右足に目を留めた。包帯がしっかりと巻き付けられ、固定されている。
「全く……」
 つかつかと壁際の征太郎に歩み寄ると、蒼紫は腰を抱いて立ち上がらせた。この年頃の少年にしては背が高いが、体重は妙に軽い。折れた右足は床につかないように支えながら、征太郎を布団に運ぶ。
「有り難う……ございます……」
 ばつが悪そうに征太郎は俯いた。
「一体どうしたんだ?」
「別に、何でもない」
 母子揃って何を言うか。何でもなくて何故骨折などしようものか。
「そうか、なら安静にしていろ」
 蒼紫が勘ぐっている事など、勿論征太郎も理解している。だが、それでも口を閉ざした。
「あの……蒼紫さんは、強いですか?」
「……何を突然?」
「強いですよね!?」
 征太郎は勢い良く蒼紫に詰め寄った。
「どうだろうな」
「前に操さんが来た時に言ってましたよね、“隠密御庭番衆”の“御頭”だって?」
「…………そう、だな」
 蒼紫は眉を寄せた。剣心が会津から東京に戻った一週間後、操にせがまれて会津に訪れた時、剣心の仲間かと問い詰められ、操が会津中に江戸城御庭番集の御頭だと言い触らしたのだ。そのお陰で長く滞在できたわけだが、どうして隠密であると言うのに言い触らさねばならないのか。操には困ったものである。
 思い出して呆れ顔になる蒼紫を前に、征太郎は真剣な眼差しで床に手をついた。
「俺は強くなりたい。俺を京都に連れて行って下さい!」
 征太郎の声、正しく必死の勢いがあり、蒼紫を圧倒した。が、直後、がちゃん、と物の壊れる音が響いた。
「母さん、母さん!?」
 音の聞こえるや否や、征太郎は立ち上がろうと身を乗り出した。しかし、右足に力を入れられず、身体が傾く。蒼紫は咄嗟に彼を抱き止めた。蒼紫にとっては、これもまた驚くべき事だった。思いがけない素早い反応。勢い付き過ぎて危ういが、十歳ならこのくらいの危うさは寧ろ望ましい。もしも彼に目指すものがあるのなら、成程、伸びる素材だ。蒼紫の腕の中で尚も起き上がろうと必死になる征太郎の目の前で、さっと襖が開いた。現れたのは、恵だった。
「驚かせてごめんなさい、湯呑みを落としてしまったの。すぐに片付けてお茶を淹れ直すわ」
「母さん」
「大丈夫だから、寝ていなさい」
 恵は穏やかに微笑んで見せた。
「うん……」
 なんとなく落ち着かない様子で、征太郎は布団に腰を下ろす。
「あ、その散らかった百人一首、片付けておきなさいね。続きはまたにしましょう。なんなら、蒼紫に教えてもらいなさい」
 去り際にてきぱきと指示をする恵に、征太郎は思わず「はい」と返事をした。そのやり取りは全く親子そのもので、蒼紫はほぅ、と感心した様子で息をついた。
「百人一首か……」
 襖を閉じて恵が去った後、蒼紫は側に落ちている百人一首の読み札を一枚拾い上げた。
「“来ぬ人を まつ帆の浦の 夕なぎに やくや藻塩の 身もこがれつつ”」
「今、字を読む勉強してるんです」
「お前は、字が……?」
「前の母さんが字が読めなかったから。教えてもらうのは針仕事ばかりで……。だから、今は母さん――“恵さん”が……」
 蒼紫が征太郎に会ったのは二度目だ。恵から文を受けて齢十歳の少年を養子として引き取った事は聞いていたが、その生い立ちまでは知らない。“前の母親”というのだから、恵の前にも世話になった女がいるのだろう。それも、実の母とは違って。大人しそうな面だが、なかなかの苦労人らしい。それでも揺るぎのない芯の強い瞳が印象的だ。彼の今の母を名乗る女のように。
「恵さんは式子内親王の歌が好きだって……」
 征太郎は言いながら、式子内親王の読み札をとり、蒼紫の持つ定家の読み札に並べた。
「成程」
 恵らしい、と蒼紫は思う。彼が納得している風なのは、何かを“知っている”からだと征太郎は理解した。
「“忍る事の弱りもぞする”――思い過ぎて気持ちを隠す事すら辛い相手が、母さんにいるんですね」
「…………どういう事だ?」
「知ってますよね、母さんにとっての“定家”?」
「さぁな」
 蒼紫はにべもなく首を振る。
「嘘だ」
「なら、心当たりがあるか?」
「抜刀斎」
 さも当然のように征太郎の口から出た名――しかも、幕末の通り名――に、蒼紫は眉を寄せた。
「抜刀斎――緋村か。何故、そう思う?」
 そもそも、維新後に産まれた征太郎が、何故その名を知っているのか……。
「やっぱり、蒼紫さんも抜刀斎を知ってるんですね。操さんが抜刀斎の奥方と親しいからそうだと思ってました」
「あぁ、付き合いは長くはないがな」
「そうですか。母さんは、いつも抜刀斎からの文を心待ちにしているし……よく、泣いているんです。抜刀斎からの文を読みながら。だから……」
「泣いて……?」
 故に、母の恋心を察したか。確かに、恵が抜刀斎――緋村剣心に恋をしていたのは事実だ。その想いは未だに胸の底に息づいて、隠そうとする度涙に変わる。
「泣いて……いる、な……」
 蒼紫の唇からこぼれた言葉を、征太郎は聞き取ることが出来なかった。
「少し外すぞ」
 蒼紫は立ち上がり、襖に手を掛けたが、ふと足を止めて振り返った。
「お前は緋村が嫌いか?」
「勿論、大嫌いです」
 即答とは。蒼紫は何も言わず、小さく頷いて部屋を出た。足下にはまだ、砕けだ湯呑みと冷め切った煎茶が散らばっていた。




「おい」
 寒々とした土間に佇む小さな後ろ姿に、蒼紫は声を掛ける。途端、肩がびくりと震えた。
「どうしたの?」
 心なしか、声も震えている。
「あぁ……お茶、少し待って」
「それは良いが」
 突然、すぐ側で声がして、恵ははたと振り返る。蒼紫は、恵の真後ろにいた。
「泣いているのか?」
「違っ……来ないで!」
 恵は再び顔を背け、俯いた。蒼紫は恵の正面に回り込み、両肩を掴む。逃げ場を失った恵は、蒼紫の胸に額を押し当てた。
「向こうに行った方が良いか?」
 この行為自体は、顔を見せたくないだけだろう。それを察して低く静かに問うた蒼紫に、恵は顔を伏せたまま首を振る。
「此処に、いて……」
 囁く恵の華奢な肩を抱き締めると、恵は蒼紫の服の胸元を握り、震え出した。目を閉じて、恵は何も考えないように頑なになっている。
 半年前の京都の戦いを経て、恵と蒼紫は二人でいる事に抵抗を覚える事がなくなった。人誅事件を経て、互いを認め合うようになった。そしていつしか蒼紫は恵にとって、唯一ともいえる理解者となった。恵が人生で最も辛く、幾度と自殺さえ考えた時期を知っているが為に、蒼紫は恵の弱さも脆さも総て理解している。
 恵の向こうに気配を感じ、僅かに顔を上げると、髪の間から征太郎の姿が見えた。征太郎は壁に手をついて足を引き擦ってきたようだったが、二人の姿を見止めるや、すぐに引き返した。
「征太郎を京都に連れて行くの?」
「東京の方が良いか?」
「あの子が嫌がるわ」
「だからだ」
 恵はぎゅっと腹部を押さえ、深く息をついた。二度、三度呼吸を繰り返すと、心が落ち着いてくる。
「あんたより神谷道場に預けた方が早いでしょうけど、征太郎は単にあんたに憧れているだけよ。あんたの側で強くなりたいんだわ」
「そうか……」
「結局、みんな私から離れてゆくのね」
「馬鹿なことを」
 思いがけず、穏やかな声が降る。
「征太郎は連れていかない」
 蒼紫がそっと恵の髪を撫でると、恵の身体からするりと力が抜け落ちた。がくりと膝も折れ曲がり、床に崩れ掛けたところを、蒼紫が咄嗟に抱き止める。覗けば顔は蒼白で、触れると頬はやや冷たい。目の下に墨を塗ったように黒々と隈が浮かび、頬を涙が伝った。
「恵?」
 声を掛けても答えない。眠りについている。
 疲れは恵から急激に体力を奪ったようで、本当はとうに限界を超えていたのだ。
 蒼紫は恵を抱き上げて、征太郎の部屋の隣りの部屋に運んだ。廊下の床に散らばっていた湯呑みはすっかり片付いていた。怪我を押して征太郎が処理したのか。恵を布団に寝かせ、蒼紫は隣りの部屋に移動した。
「お前の母は眠っている。大分疲労していたようだな」
「……うん」
「何があったか話せ。協力も出来よう」
 何かがあって警戒をしていて、それ故に倒れる程疲労していたのだから。このまま捨て置くわけにはいかない。
 征太郎は暫く黙り込み、何か考えている風だったが、間もなく口を開いた。征太郎の口から語られたのは、元旦の夜の出来事。



 小さな注連縄を結ぶくらいで、お節料理もろくろく用意せず、恵と征太郎は会津で最初の新年を迎えた。お節料理の代わりに、郷土の雑煮を広場で作って人々に振る舞い、来年はきっとどの家もお飾りをして、家族でお節料理を囲もうと約束をしては、会津の民を勇気づけた。慌ただしくも穏やかな一日が過ぎ、漸く診療所に戻って落ち着いた頃、診療所の戸をがたがた叩くけたたましい音が響いた。急患かと、恵は一人玄関に立ち、征太郎は診察室の準備に走った。急患を迎える時は何が起こってもすぐに対処出来るよう、征太郎が診察台を整える事になっている。恵が命じた訳ではないが、征太郎は当たり前にそれを行うようになっていた。
 恵が玄関を開けた時、酔った男が一人、転がり込んできた。何処に酒などあったのか、すっかり酔っ払った男は、恵の顔を見るや、大声で笑い立てた。騒々しい笑い声に、何かおかしいと察した征太郎が顔を出すと、男のは玄関先に並べていた薬草の鉢を一つ叩き割り、また笑い出した。がちゃんと大音が響き、征太郎は眉を寄せた。
「何をするの、貴方!」
 恵が声を荒げ、男の腕を掴む。すると、男はその腕を振り払って恵の腰に腕を回し、抱き付いた。きゃっ、と、恵は小さく悲鳴を上げる。
「母さん!」
 征太郎は男に飛び掛かった。
「母さんを離せ!!」
「っせぇな、このクソガキ!」
 男は征太郎を投げ飛ばす。征太郎の脚は玄関の段差に足を打ちつけられ、この時に折れた。
「征太郎!」
「噂の美人先生よぉ、ガキなんか構ってないで、俺の相手しろよなぁ」
 酔った男はにたにた笑いながら、恵を床に押しつけた。恵は逃れようと暴れたが力が入らず、声を発する事も儘ならない。
「母さん!」
 男は恵の着物の胸元を裂いた。征太郎は這って二人の間に入り、男の腕にしがみ付く。
「誰かぁっ! 誰か助けてくれーっ!」
 男に振り払われそうになりながら、征太郎は懸命に声を上げた。
「誰か! 誰かぁぁっ!!」
「黙れ!」
 男は力一杯征太郎を床に叩きつけた。
「征!」
 男が力を緩めた隙に、恵は征太郎を抱えた。征太郎は薄らぐ意識の中で、恵の背後から手を伸ばす男の姿を見た。




「――それで?」
 そこで意識を失ったという征太郎の話はそこで終わった。
「俺が目を覚ましたのは翌日です。母の話では、俺が気を失った直後、騒ぎに気付いた人達が助けてくれたって……。その日の昼には、母さんを襲った男は会津から追い出されたけど、逆恨みしていつ戻ってくるか解らないし、あんな事かあったから、母さんも俺も気が気じゃないんです……」
 それ故の警戒、か。恵の事だから、正月が過ぎたらこれまで通りに戻ろうとするのだろうけれど、落ち着くまで時間はかかろう。
「俺がもっと強かったら、母さんを守れた。俺は、強くなりたい……!」
「強くなるために京都に行くと?」
「そうです」
「その間、お前の母は一人になるが?」
 蒼紫は冷ややかな声で問い掛けた。
「お前がいない間にその男が戻ってきて襲われたらどうする?」
「それは……」
 どうしようもない。だが、このままでは守れない。弱く、力のない自分では。
「俺は、どうしたら良いんですか? 母さんを守りたい……守りたかったのに……」
「守ったろう、体を張って」
「え? でも……」
「お前が声を上げたから助けがきた。足を折っても、這ってでも救おうとした。それで十分だ。恵はそんなお前を必要としている。側にいてやれ」
 でも、と、征太郎は俯いた。その瞳から涙がこぼれ落ちる。
「俺と同い年で、強い奴がいるって聞きました。そいつなら母さんをあんなに傷付けなかったかも知れない。自分の力で叩き出せたかも知れない……!」
 征太郎は、恵から明神弥彦なる少年の話をきいた事がある。強く誠実な少年だと、恵が語ってくれた。いずれ会う事もあるだろう、と。
「確かにな。だが、それだけだ。逆に聞くが、お前は何が出来る?」
「何って……何も」
 字も読めなければ知識もない。勿論、剣も握れない。出来る事と言えば、
「針仕事くらいです」
「それが出来るなら、多少力があるよりは余程役に立とう」
「まさか」
 征太郎は、大きく首を横に振った。今回の事で、強くならなければと痛感させられた。
「なら聞くが、お前は剣術家にでもなりたいのか?」
「……いや。俺は、医者になりたい。母さんみたいに、会津の人を助けたいんだ」
「だったら、強さなど必要あるまい。針仕事が出来る方が役に立つ。お前の母は東京では、“縫い針小町”とまで呼ばれていたのだからな」
「……“縫い針小町”?」
 聞いたことのない話だ。東京で出逢った人々の話は聞いたことがあるが、東京にいた頃の母の話は聞いたことがない。あまり話そうとはしてくれない。
「俺もよくは知らんが、着物を縫うように縫合が鮮やかだとそう言われていたようだな。お前の母らしいじゃないか」
「裁縫が出来る事は、医者になるのに役に立つんですか?」
「当たり前だ。俺について京都に行きたいなどと言えばお前の母は泣くだろう。だが、お前が医者になりたいと言えば、それこそ泣いて喜ぼう」
「母さんが……?」
「あぁ。お前は強くなるためにこそ、此処にいるべきだ、征太郎」
 蒼紫はぽんと征太郎の頭を叩いた。征太郎は頬が熱くなるのを感じ、はらはらと涙が溢れ、肩を震わせた。
 大丈夫、こいつは強くなる。蒼紫は確信した。



「有り難う、蒼紫」
 午前三時を過ぎて目を覚ました恵は、庭先で星を仰いだ。元日以来、庭にすら出ておらず、実に三日振りだ。
「よく眠れたか?」
「えぇ……」
 そう微笑んだ恵は、先程よりすっきりとした顔付きをしている。
「長く眠っていなかったのだな」
「眠れなかったの。征太郎に怪我をさせてしまったのは私の所為だから、また何かあったらと思うと」
「それは、征から聞いたが……」
 とても恵の所為などとは思えない。蒼紫の考えを察したか、恵は眉を寄せた。
「……あの子を守りたいの。私は、母親だから」
「母親……な……」
 なかなか難しいものだ。子は子として、母は母として相手を守れなかった事に胸を痛めているのだから。
「お前は良い母親だ。だから、征太郎は素直に健やかに生きていられる」
「…………」
 恵は目を丸くして、驚いたように蒼紫を見詰めた。
「……どうした?」
「あんたがそんな事言うなんて思わなかったから。慰めてくれているの?」
「事実を述べたまでだ」
「有り難う。……嬉しいわ」
 恵は僅かに逡巡したが、蒼紫の肩に手を触れ、頬を寄せた。蒼紫はそっと、恵の髪を撫でる。幾ら気丈に振る舞っても、ただ痛みを隠しているに過ぎないのだ。
 本当は、叶う事なら緋村剣心に寄り添いたいに違いない。自分がその代わりにすらならない事を蒼紫は知っている。
 恵もまた、こうして寄り添う権利が、本当は自分にはないと解っている。本来、彼の隣りは操の指定席だ。
 征太郎は、部屋の外に二人の気配を感じながら、歌留多に認められた歌を読んでいた。

 この想いをなんとしようか。
 隠しきれない想いが、潜む。
 いつか死に絶えるその日まで、明らかにせずにいられるか。

fin
たとえ叶わぬとしてもしてはならない恋はない。
ただ、口に出すことも出来ない悲しさは。



INDEX

広告 [PR]スキンケア  転職 化粧品 無料 ライブチャット