しんしんと雪の降る空を仰ぎ、息を吐く。
 温もりはただ、隣りにいる誰かが持つ。


    聖しこの夜



 明治十六年、東京――
「もうすぐクリスマスか……」
 師走も半ばを過ぎて、神谷活心流剣術道場の庭先で、洗濯に勤しむ緋村剣心を見ながら、相楽左之助はぽつんと言った。
 明治十一年の秋に日本を亡命した左之助は、亜米利加を皮切りに世界を一周して、初夏の頃に日本に帰国した。以来半年、高荷恵の住む会津や四乃森蒼紫、巻町操等の住む京都等に行ったりもしながら、神谷道場に居候している。
「何でござる?」
「切支丹の祝いだ。あ――和蘭陀で武藤翔伍の奴らに逢った話はしただろ?」
「あぁ、和蘭蛇で平和に暮らしているでござるよな」
 剣心は微笑んだ。
 武藤翔伍は、天草翔伍と名乗り切支丹を束ねていた青年だ。剣心と同じく飛天御剣流の使い手で、迫害されながらも密かに信仰を続けていたが、ある時神の国建国を謳い、島原に集った。そこで大きな事件が起き、結果、関係した切支丹八十八名は全員国外追放の命を受けた。そして、親交の深い和蘭陀領事、エルステンの好意により、全員和蘭陀に渡ったのだ。
 左之助は三年前、和蘭陀に赴いた折に偶然翔伍らに逢ったという。
「丁度この時期に逢って、クリスマスだから一緒に祝って行けって言われてな。俺は切支丹じゃねぇっつったんだけど、祝い事は大勢でやるもんだって」
「どんな祝いでござるか?」
「切支丹が神の子だって奉ってるジーザスって男のバースデーなんだと」
「ばーす……?」
 左之助からは、次々に耳馴染みのない言葉が飛び出してくる。
「生まれた日のこった。西洋じゃ、正月じゃなくて生まれた日毎に年取って、毎回祝うんだと」
「ほぅ……異国には面白い風習があるでござるな」
「あぁ、で、ジーザスのバースデーは一年の中でも特に大事な祝い事なんだ」
 長い海外生活で、左之助は変わった。様々な文化に触れ、知識を増やしてきた。ところ構わず喧嘩もしてきたから、腕っ節も強くなっているようだが。
「……行くか、長崎」
 左之助は澄み切った青空を仰ぎ、ぽつんと呟く。
「ん?」
「来週、長崎行ってくら」
「おろ、急でござるな」
「……本当はもっと早く行くべきだったんだ、小夜のとこに。盆にも行かなかったしな」
 仏教信仰の考えに準ずる盆が、キリスト教徒のマグダリア小夜に関係などあろう筈もないのだが、それでも日本で生まれ育った左之助は、盆や彼岸には墓参りに行かねばならない気がしていた。
「そうでござるな……。異国の話を小夜殿に伝えてくるでござる」
「あぁ」
「新年は長崎で迎えるでござるか?」
「それも面白そうだけど、おめぇらと新年迎えたこともねぇしな」
「それもそうござるな。三日には操殿と蒼紫も来るでござるよ」
 京都で小料理屋の主に収まった蒼紫と、蒼紫に嫁ぐべく花嫁修業中の操は、毎年新年三日目に挨拶にやって来る。蒼紫は四日の昼には発つが、操は例年二、三週間は東京に滞在する。それでなくとも操は度々東京に来ていて、一年の三分の一は神谷道場にいる。
「鼬娘は相変わらずだな。……恵は?」
「恵殿は、正月は家族と過ごすでござる。が、家族の一人が拙者を嫌っているから……」
「あぁ、そうだったな」
 一方の恵は、会津に落ち着いていて殆ど東京には来ない。診療所を営みながら、八人の孤児を養子に迎えて、結婚もしないままに母親となった。しかし、長男の高荷征太郎が、剣心を酷く嫌っているのだ。左之助も、話にはそれを聞いていた。
「会津には何回か行ったけど、恵も変わったよな……」
「何かと、苦労しているようでござる」
 剣心は溜め息をつくように呟いた。
 会津の問題は、戦後十年以上を経た今もなかなか解決しない程根が深い。恵は福島県令直々の依頼で会津に戻り、診療所を開いた。恵が戻ったばかりの頃の故郷は荒れ果てていて、病と飢えに人々は苦しんでいた。恵はそこから会津の民を救い出し、復興のきっかけを作ったのだ。その苦労は並ではなかろう。
「苦労……もそうなんだけど、なんつーか、母親になったからか、すっかり丸くなったよな」
「それもそうでござるな」
「嬢ちゃんもそうだけど、女ってのは変わるもんだな」
 小夜は元より幼い子供達に囲まれていて、まるで母親のようだった。気は強かったが、心穏やかな女だった。あれから五年。生きていたら、どうなっていただろうか。
「お主も変わったでござるよ」
「おめぇもな。弥彦や蒼紫まで、昔とは違ってやがる」
「そういうものでござるよ。時代は変わる、町も剣術も変わってゆく。人も、同じではない」
「生きてれば、な……」
 どんな風に変わっているかと幾ら考えたところで、既に世を去った者に、変化などあろうはずもない。
「マドンナ……か……」
 左之助の呟いた言葉はやはり剣心には理解出来なかったが、敢えて問う事もしなかった。その胸にはかつて僅かな時といえど心を通わせた相手がいて、今も穏やかに微笑んでいるのだろう。

 翌週、左之助は長崎へ向かった。どのくらいで着くかは解らなかったが、とにかく走ってみた。余裕を持って出たから、多少迷っても問題はない。
 あの女狐が知ったら、「馬鹿の世界記録」などと言うだろうか。そんな事を考えると、ふと笑みがこぼれた。そうだ、あいつはもう、そんな事は言わない。子供の前では悪態をついたりしないと言ったのだ。特に小さい子供には、まだ聞かせたくない言葉だと。子供が周りにいなければ昔のような蓮っ葉な女になるのかと思えばそうでもなく、すっかり落ち着いてしまっている。それに、八人の子供達は入れ替わり立ち替わり恵について回り、恵が独りきりになる時間は殆ど無い。だから、左之助が会津に滞在している間にも、殆ど二人きりになる事はなかった。あっても、ほんの数分。昔の話をしようにも、すぐに誰かが、特に長男の征太郎や長女の昴が顔を出した。途中から、狙っているのではないかと思った。敢えて二人にならないようにしているのではないかと思える程、子供達は恵の周りを離れなかった。実際、征太郎や昴は明らかに左之助を敵視していた。末娘の楓や三男の善久らは左之助を慕っているのだが。
 信州から東京までは一晩で着いた。会津から東京に戻るのに、大体一日くらいだったか。偶々奈良で馬を手に入れた事もあり、長崎までは思ったよりずっと早く着いた。
 十二月二十二日、左之助は島原に着き、小夜の墓に赴いた。小さな墓だ。彼女の兄も、彼女を慕った者達も既に遠く異国の地に渡り、もう二度と戻ってくる事はない。彼女の墓を参るものなど、もうこの国にはいない筈なのに、小夜の墓は小綺麗で、花まで供えてあった。あの八十八人の他にも切支丹がいて、時折参っているのかも知れない。
 日本を発つまでは、もう二度と関わる事もないと思っていた基督教という宗教。神だ仏だとそういったものを全くといって良いほど信じない左之助にとって、見た事もないものをわざわざ形にしてまで拝み倒す精神はなかなか理解しがたかった。昔から正月になれば神社にも参ったし、浅草寺だのに赴けば手を合わせもしたが、それは何かの習慣のようなもので、そこに神仏への祈りや敬愛がこめられていた事はない。だが、亜米利加に渡れば多くのものが基督教を信仰していて、そこかしこに教会が建っていた。十年前まで日本では虐げられていたこの宗教が――維新後も決して受け入れられているとは言い難い宗教が――世界では仏教に次いで信徒の多い宗教だと初めて知った。あの小さな島国の中では非であった者達も、世界に出れば是に変わる。切支丹をいつまでも非と思っていれば、確かに世界からは乗り遅れるわけだ。
「……小夜」
 きちんと手入れされた墓の前に立ち、左之助はそこに眠る女の名を口にした。永遠の少女。穢れを知らぬまま、この先老いてゆく事もなく眠り続ける。
「小夜、ただいま……」
 ほんの僅かではあったが、心を通わせた相手。「ただいま」と、その言葉が正しいかどうかは解らないが、彼女もこの国で待っていた者の一人であると信じたい。本当に彼女が会いたいと願うのは、二度とこの国の土を踏むことを許されぬ者達なのだろうけれど。
「阿蘭陀で、お前の仲間に逢ってきた。みんな元気だ。……お前は一人かと思ったけど、そうでもないみたいだな」
 墓に手向けられた野花の束に小さく笑い、左之助は荷物を詰めた袋を開けた。
「庄三と、武藤翔伍から預かってきた。お前に……」
 袋から取り出したのは、小さな木箱。木箱の中には、十字架が納まっていた。
 阿蘭陀に着いて二日目に偶然庄三に出逢い、武藤翔伍達の元に二週間滞在した。阿蘭陀を発つ時、翔伍と庄三から渡されたのが、この十字架だった。阿蘭陀で小夜のために作った十字架だという。小夜に届ける事は出来なくとも、用意せずにいられなかったと翔伍は言った。両親を失って以来、支え合い、愛した妹を置き去りにする事は、翔伍にとっても辛い事だった。しかし、そうしないわけにはいかなかった。日本で命を落とした小夜を阿蘭陀へ連れて行く術などあろう筈もなく、誰が参るとも知れない墓を丘にひとつ作って、それきりだった。せめて左之助が参ってくれればと、心のどこかで思っていた。その左之助が阿蘭陀へ来たとなれば、思いを託したくもなる。彼は短い妹の生涯の内、兄以外に愛したただ一人の男だったのだから。左之助もまた、その思いを受けないわけにはいかなかった。自分が彼らの立場だったとしたら、同じ事をしたに違いない。
 左之助は小夜の墓前に十字架の入った木箱を置き、初めて手を組んで祈った。両掌を合わせるだけでなく、指を絡み合わせて目を閉じる。虐げられ、十字架を持つことを禁じられた一時代前の切支丹達がそうしたように、親指で十字を作って。
 目を閉じれば、今でも少女の笑顔が浮かんだ。思い出せば、胸が痛んだ。
 救う事の出来なかった少女。あの日、庄三にここで言われた言葉は勿論理解出来る。だが、それでも納得できない小さな蟠り。生きているべき女だった。神に祈った事などないが、ただ、この女の冥福を祈らずにはいられない。せめて、彼女の信じるものに捧げるそれと同じ形で。
 これを“大人になった”というのだろうか。
「小夜……」
 生きていて、欲しかった。たとえ異国に渡って二度と会う事がなくなるのだとしても、生きていて欲しかった。生きてさえいれば、それで良かった。
 だが。
「…………俺は阿蘭陀で、お前を見た」
 翔伍達が毎日祈りを捧げる教会に、丈の長い衣を纏い、赤子を抱いた女の像があった。芸術というものに全く疎い左之助にも、それはただただ“美しい”と感じられた。全身に鳥肌が立ち、息を呑んだ。しかし、それ以上に驚いた。台座に立てられ、色とりどりの硝子から差し込む光を受けた白い女の像は、まるでマグダリア小夜そのものだったのだ。両の目を見開き、その女の像をまじまじと見て、左之助は驚嘆の声を上げた。庄三が笑った。
「マリア様です。千と九百年程前にイエス様をお生みになった……神の子の母、聖なる母です」
「マリア……」
 この女性像を敬う気持ちのない左之助に、“様”をつけようという思いは更々なかった。庄三もそれを気に止める風でもなかった。
「この像は、マグダリア様がお生まれになるよりずっと昔に作られたものですが、我々は皆、マグダリア様をマリア様のように思っていた……」
 聖なる母――。それまで殆ど気にすることもなかった基督教というものが気になったのはその時だ。このマリアという女がどういう女を知りたくなった。後に、別の国でそれを知った。天使――背中に羽の生えた神の使いらしい――がマリアの元を訪れて受胎を告げたのだという。処女のままで神の子を身篭り、雪の夜、厩でその子供を産んだ。十二月二十五日の明朝。その日が、後年では“クリスマス”、基督の祭日として広まり、祝われている。
 神の子を産んだ女のように、清らかな少女。マリアの像を見た時、小夜と再会したような錯覚に陥った。
 あの時見たマリアの顔を思い出す。白い大理石の女。口元に笑みを浮かべた穏やかな顔つき。マリアを“マドンナ”といったのは何処の国だったろうか。マリアを表す言葉であり、また、見目の麗しい女性の称でもあった。憧れの対象とでも言おうか。正しく小夜が彼らにとってそうだったのだろう。
 左之助は袋の中からもうひとつ、今度は布張りの箱を取り出した。ビロードの上等な布を張り込んであるというのに、荷物袋の中ですっかり汚れていた。伊太利亜で強盗に襲われかけた商人を助けた時に、例にと貰ったものだった。商人は言った。「私は女物しか扱ってないが、きっと美しい女性に似合う。あんたの“マドンナ”にも似合うだろう」と。総てを正しく聞き取れたわけではないが、その言葉だけはなんとか理解が出来た。ただ、“マドンナ”の意味がその時は解らなかった。ビロードの箱を開くと、日の光にきらりと雪が輝いた。雪の結晶の飾りのついた、ネックレスだった。なるほど、かのマリアという女には、よく似合う代物だろう。品の良い細やかな細工の飾りだ。
「お前に……似合うんだろうな……」
 この首飾り。きっと、つければ微笑むだろう。素直に「ありがとう」と喜ぶのだろう。
 けれど。
「マドンナ……か……」
 マドンナ・マリア。聖なる母。全身の震える程美しいと思ったあの像はには、この首飾りが良く合うと思えた。そして、あの像はまるでここに眠る女性と瓜二つだった。それなのに、この首飾りがここに眠る女性のためにあるのではないと、左之助には思えてならなかった。
「変だな……」
 何か、違う。
 心を通わせた女。日本にいた頃には全く口にすることも出来なかったであろう言葉を、五年という長い海外生活で口に出来るようになった。自然と口にするようになった。何しろ、日本人と違って包み隠すということを知らない者達の多い世界だったのだ、良いことも悪いことも平気で口にする。だから、思ったことをすんなりと口にするようになった。良いことも悪いことも口にするのだから、良くなることも悪くなることもあった。良い言葉を口にしても悪くなることもあれば、悪い言葉を口にして良くなることもある。
 左之助は箱を閉じ、小夜の墓に微笑んだ。
「――小夜」
 胸に灯る火は、今でも温かく燃えている。小夜が胸に灯した小さな炎。左之助もまた小夜の胸に火を灯し、互いの心が交わった。小夜が、短い生涯でただ一人、兄の他に思いを寄せた相手。愛を感じた相手。それは彼に外ならない。
「愛してた……」
 左之助もまた、小夜の想いを感じた。
「日本にいた頃じゃとても口に出来なかったな、こんな言葉。……お前を、あの時、俺は、愛していた」
 生きていたらきっと、互いの想いは深くなり、結ばれていた事だろう。信ずるものの違う二人が本当に結ばれるか? それでも、想いの強さの前にそんな些細な事はきっと意味を持たないと、左之助は思った。
「愛してた。あの時は」
 けれど。
「剣心にとっての、巴に似てるかもな」
 そんな事を言ったら、何か誤解を受けそうだが。そうではない。剣心に薫がいるように、自分にそういった相手がいるわけではない。それでも、雪の首飾りを差し出す相手は、小夜ではないとそう思えてならない。
「小夜……お前に盆は関係ねぇだろうから、春に……お前のバースデーにまた来る」
 翔伍から教えられた、その日に。祝いを捧げに、また。
「お前に逢えて良かった」
 それは、真実。嘘をつける性格ではない。
 夕刻に丘を降り、そのまま馬に跨ると、左之助は東の港を目指した。ただの一日も、長崎に留まる事はなく、そのまま船で海を渡り、東へと駆けた。



 不思議と、胸が熱くなった。
 小夜と心を通じ合わせた時の高揚感に似ている。海外にいて五年間、一度として感じることのなかった感覚。何故か、思い浮かんだのだ。白い女の像の姿が、五年振りにあの女を見たその時に。何故、気付かなかった。マリアをマドンナとするなら、今、目に映る“マドンナ”はその女だと。
 蒙古では馬賊の頭領にもなった事もあり、馬の調子を読む事には長けていて、時折馬を休ませたから、走り通すことは出来なかった。そのために今度は、思ったよりも少々時間をかけてその地へ着いた。東京を通り越し、十二月二十四日の夕時、会津に。
 陰気な街だが、年の瀬も近付いているからか、以前より大分賑わっている。
 左之助は馬を預け、目的の場所へ向かった。荒れ果てたこの地を復興へ導いた女の元へ。もう年も年だというのに、未だに身を固めもせず、その癖“母親”にだけはなった奇妙な女。処女のまま母になった女とよく似て。
「うっす」
 診療所では、昴が出迎えた。長い黒髪を一本のお下げに結った、痩せた娘だ。大きな瞳は気丈に開き、いつかの女を思い出す。
「恵、いるか?」
「えぇ、でも今は患者さんがいるわ。もう少しかかると思うわよ」
「じゃぁ、河原で待ってるって、伝えてくれ。仕事が終わってからで良いからよ」
「解った、伝えておくわ。でも、何時になるか解らないわよ?」
 左之助は、それ以上は何も言わず、昴に背中を向けて片手を上げた。最初に戸をあけたのが征太郎なら、きっと恵は伝わらなかっただろう。だが、昴なら話は通じる筈だ。昴は征太郎ほど左之助を嫌っていない。それに、律儀な娘だ。口では文句を言いながらもきちんと頼まれたこと、或いは頼まれもしないことをこなす性質は、母親から受け継いだのだろうか。

 恵が河原にやってくるまでに、二時間以上の時を要した。長崎とは違って底冷えのする北の地の、それも河原でなど待ち合わせるものではないと、左之助は十五分を過ぎた辺りで反省したが、それでも待つといった以上、いつ来るとも知れない女を待ち続け、星を仰ぐ羽目になった。それでも律儀な娘は、律儀な母にそれを伝え、寒いと知りながら荒れた河原に、女は姿を現した。
「左之助!」
 低く通りの良い女の声が、澄み切った冬の空気に響いた。
「どうしたのよ、あんた。何でこんなところに?」
「いや、一昨日長崎に行ってよ」
「長崎ってどうし――あぁ……」
 言いかけ、恵は納得したように言葉を濁す。触れてはならない話だったか。きっと、少女の墓に参ったのだろう。恵は面識のない少女だったが、長崎から戻ってから、時折左之助が塞いでいた事を恵は知っている。然程気に留めない振りをして、普段と変わらぬ対応をしていたが、よもや図太い神経の持ち主だと思っていた青年が、女性関係で落ち込もうとは思ってもなかった。
「あんま、気にするなよ?」
「え?」
「まぁ、お前の考えてる通り、小夜の墓参りに行ってきたんだけど……今更、傷付いてるわけじゃねぇ」
「そう、なら良いんだけど」
 何処までまともに受けて良い言葉か図りかねたが、もとより人に気を使うだの嘘をつくだのといったことの苦手な男だ、凡そ真実と捉えて間違いはなかろう。
「イエスのバースデーだから、小夜のところにいようと思ったんだけど……」
「イエスの……って、明日じゃなかった?」
「へ?」
「イエスの、生まれた日、でしょう?」
 左之助は、恵の問いにきょとんとした。剣心には全く伝わらなかった言葉だが、恵はあっさりと解釈したのだ。
「私も、昔……もう十五年も前だけど、家族と長崎に行った事は知ってるでしょう? その時に親しくなった外国人のお医者様から、その話を聞いたの。クリスマスって言うんですってね。バースデーって、私は好きな言葉だわ。生まれた日を祝うなんて、良い風習ね」
「……そうだな」
 あまり、そこまで考えたことはなかった。ただ、そういうものだと受け止めただけで。それを自分が知るよりはるか昔から恵が知っていたのだと解り、なんとなく負けた気がした。それでも、“らしい”とも思った。どうにも、この女には勝てないのだ。
「今日は、クリスマスイブというのだそうね。私のバースデーは今日だから、よく覚えているわ」
「は? 今日がバースデー?」
「そうよ」
 恵はさらりと答えた。
 全く、何たる偶然か。神仏を信じる事はなくとも、こればかりはマドンナのお導きとでも思いたくなった。
「じゃぁ、“バースデープレゼント”だな」
 左之助は荷物袋を開き、薄汚れたビロード張りの小箱を取り出した。
「私に?」
 “プレゼント”が贈り物だと、恵は知っている。バースデーという日には生まれてきた事を祝い、贈り物をするのだと教えられた。偶々滞在中に十二月二十四日を迎え、恵は外国人の医師から本を贈られた。クリスマスプレゼントも兼ねて、といわれた。恵は嬉々として左之助から箱を受け取り、そっと蓋を押し開けた。小さな雪の欠片が、星明りに輝いた。
「綺麗……」
「伊太利亜でな。貰いモンだけど……お前に似合うと思った。最初は、小夜に合うだろうと思ってたんだけど、なんつーか、違った」
「どういう、事?」
 問われ、左之助は伊太利亜で逢った商人の話をかいつまんで恵に聞かせた。
「私が、“マドンナ”? まさか」
 が、恵はくすりとそれを笑い、どうかしたの、と茶化した。その笑いが左之助には気に障ったらしく、左之助は恵の手から箱を奪い取った。
「……ねぇ、それは私のものじゃないわ。私に合う物じゃない。他にもっとそれが似合う人がいて、それがもし小夜さんでないなら、あんたはその人に逢うまで、それをずっと持っていないといけないのよ」
「なんだよ、それ?」
「つまりね、あんたには解らないかも知れないけど、“マドンナ”ってきっと恋人の事よ」
 そう言われても、それを全く解っていなかったわけではない。左之助は深く息をついた。
「それは解ってるけど、俺はそうは思わなかったんだよ。そうじゃなくて、ただ……俺が良いと思った女にやりたかっただけだ。五年振りに逢ったお前が、俺が見たマリア像に似て、綺麗だからこれをやりたいと思ったんだ」
 左之助の乱暴な言葉に、恵が息を呑んだのが解った。急に俯いた恵の顔が、星の明かりに照らされて、随分と赤らんで見えた。
「恵?」
「な、何を言い出すかと思えば。そんな言葉、初めて聞いたわ」
「は? ……あぁ」
 困ったものだ。外国では、このくらいの言葉でそこまで頬を染める女はいなかった。自分で口にする事はあまりなかったが、周りの男は嘘か真か平気でそういった褒め言葉を口にし、女はそれを喜んでいたものだ。
「いや、向こうじゃ思った事はそのまんま口に出すことが多いからな、日本と違って」
「思ったこと……そのまま?」
 左之助の言葉は、益々恵を紅潮させた。
 文化の違いは厄介だ。こんな風に照れられると、自分まで気恥ずかしくなってしまう。こういう雰囲気には慣れていない。だが、嘘をつく気など毛頭無いのだ。
「そうだ。俺は、お前が綺麗だと思う。本当に、そう思った。五年振りに逢って、見とれた……」
「や、やめて、やめて。私、そんな事言ってもらえるような女じゃないわ。今じゃ殆ど化粧もしないし――している暇もものもないし――田舎で八人も子供抱えてる、二十八にもなろうって言うくたびれた行かず後家よ? そんな言葉も、物も、似合わないわ!」
 恵はさっと踝を返し、頬を両手で包んで駆け出した。
「恵!」
 ごつん、と、恵の足元の石に何かがぶつかる。見ると、左之助が投げたビロードの箱が転がっていた。
「なっ……」
 左之助はぐんぐんと近付いてきて、恵の腕を引く。再び向き合うと、その右手には先程まで箱の中に大人しく納まっていた首飾りが揺れていた。
「左之助……私……」
 まだ頬を染めたままの恵の首に、左之助は両手を回す。そのまま首筋に顔を近付けて項を覗き込んだ。
「じっとしてろ、付けてやるから」
「良い……駄目よ、左之助」
 両手を突っ張って左之助を押し離そうとしても、大きな身体はびくともしない。
「左之……」
「うっし、付いた」
 不器用な男の指でもなんとか鎖を首の後ろで繋ぎ合わせる事が出来、左之助は恵を正面から見た。
「ほら、似合うじゃねぇか」
「やめて、駄目なの」
 恵は咄嗟に顔を伏せ、両手を後ろに回す。鎖を外そうと。
「恵」
 左之助は思わず恵の両手を掴んだ。
「恵、もっかい顔上げろ。俺に顔を見せろ」
「やめて! 嫌よ……」
 強く言えば言うほど、恵は顔をそらす。その声の震えは、寒さのためではない。何度も大きく首を振り、無理矢理離れようとする。握り締めた手首が、折れてしまいそうだ。この女の手は、こんなに細かったか?
「やめて、私……あんたにそういってもらえるような女じゃない。“マドンナ”とは違うし、綺麗じゃないわ」
 人を殺めて、何が聖女。そしてこの女をかつて罪人と呼んだのは他ならぬ左之助自身。或いはそれだけの理由ではないのかも知れないけれど、この女は今でも自分を許せずにいる。
「恵、やめてくれ……」
 左之助は、俯いた恵の頭に額を押し当てた。左之助の言葉に、恵は身体を強張らせ、動きを止めた。
「やめて欲しいのはこっちよ。どうしてあんた、そんな風になったの?」
「そんな風って……?」
「どうしてそんなに大人びて……男らしくなって……」
 恵は白い息と共に、微かに言葉を漏らした。
「そんなに……恰好良く……」
「恵……」
「私じゃない事、どうして気付けないの? あんたはそんなに大きくなったんじゃない、こんな小さな女にかかずらわってるんじゃないわよ。海の向こうには、良い女も沢山いたでしょうが!」
 謙遜で自分を卑下する女は初めてではないが、少なくとも海外ではあまり聞かなかった。本心で物を言っていた。だが、この女は厄介だ。本心から、自分を卑下している。自分を貶める言葉を平気で口にする。総て真実として。
「良い女はいたが、お前ほど良い女はいなかった」
「何をっ――」
「聞けよ、恵。ずっと、思ってた。口には出来なかったけど、昔からずっと、お前は良い女だと思ってた。綺麗で、逞しくて、揺ぎ無いものを持ってて。剣心に追いつけねぇと思ってたのと同じように、お前も俺よりずっと前を行ってた。あの頃のお前の年を追い越した今でも、追い付いた気はしてねぇ。けど……思ってたよりずっと、お前は細かったんだな……。こんなに華奢だった」
「馬鹿言わないで。あんたは馬鹿だけど、ずっと大きな男だったわ」
 恵はなんとか左之助の両手を振り払い、一歩、彼から離れた。もう、左之助は近付こうとはしなかった。臆病な少女のように俯いた女は、ずっと遠く、逞しく思っていた女と違い、酷くか弱く見えた。次に触れたら、壊れてしまいそうなほどに。その、触れたら折れそうな指に白い息を吐きかけ、恵はそっと鎖の先に付いた雪の欠片を両手に包んだ。震える体が息を吸い、白い吐息と共に言葉をこぼす。
「寒いわね……」
 たった、その、一言に。左之助は身体が強張りが消えてゆくのを感じた。俯いたままの女はやはり小さく、けれど触れて壊れる程脆くは無いと、思い出した。何しろ、あきれるくらい逞しい女だ。八人の子供を抱えてこの荒地を町に作り変える程労力を注ぎこんでも、なおも美しくいられるほどに。
 左之助は女の白い手を両手で包み込み、そっと息を吹きかける。
「寒いな……」

 星の輝く、聖らかなる夜に。

fin
時が経って知る真実がある。
時が経って口に出来る言葉がある。
聖らかな夜。
広告 [PR]スキンケア  転職 化粧品 無料 ライブチャット