風の吹くままに、流れのままに生きる。
 時には風に向かい、時には風を抱いて。


   風の名前


 じっとりとした梅雨が漸く明け、日を追う毎に日差しは強くなる。明治十六年、初夏。それでもややひやりとした空気に包まれる北の地に、ある午後夕立が降った。ただでさえ冷え込むというのに、更に肌に堪える寒さとなり、夏も間近のこの時期とは思えぬ程に、人々は厚着になる。
「ふぇっくしゅん!」
 初夏だと思って甘く見ると、南北に長いこの島国では思いがけない痛手を被る。約五年の海外生活で、取り分け温暖な地域にいる事の多かった男が一人、久しく戻った故国で洗礼を受けていた。
「だぁーっ、もう七月だろうが。なんでこんな寒いんだ。っつか、何処だ、此処? 東京じゃねえのか」
 つい先日まで蒙古にいた。露西亜のナホトカを経由して帰国した。勿論、蒙古も露西亜も日本より気温が低い。だからこそ、余計に甘く見ていたのだ。蒙古で着ていた厚手の外套も、すっかり露西亜に置いてきてしまった。
「日本にいるこたぁ確かなんだよな」
 貿易船に密かに乗り込んで、日本に着いたのが今朝方の事。それから人に見付からないように走り回って、恐らく正午を過ぎただろう。
とはいえ、どんよりと重たい雲が垂れ込め、日の当たらないために肌寒い。この上雨が降り出しそうなのだからたまったものではない。港からも大分離れたし、これなら密航者だとバレることもないだろう。
 林に身を潜めていた男は、木々の隙間をすり抜け、街道へ飛び出した。と、その時。
「あー、いたぁっ!」
 突然、背中に声がぶつかる。男はびくりと跳ね上がった。慌てて振り向くが、誰もいない。街道には猫の子一匹見あたらない。空耳か。
そう思ったら、足にずしりと重みを感じた。
「あれぇ、やひこ兄ちゃんじゃない……」
 足下からの声。そこには、見た事もない子供がいた。五歳くらいだろうか。どんぐりのような丸い眼の女の子だ。肩に届く髪を耳の下で二つに分けて括り、小さな玉の飾りを付けている。
「お……おぉ、残念だったな、嬢ちゃん」
「兄ちゃんのせなか、やひこ兄ちゃんとおんなじね」
「背中?」
 薄手の外套は蒙古で誂えた。日本でもそうしていたように、「悪」の文字を入れて。
「悪一文字……? やひこ兄ちゃんて、まさか、明神弥彦か、嬢ちゃん?」
「そぉだよ。やひこ兄ちゃん、かっこ良いんだからね。かえ、やひこ兄ちゃん大好きなんだよ!」
 少女は大きな眼を輝かせた。
「そうか、そいつは丁度良い。嬢ちゃん、弥彦んとこ連れてってくれや」
「やひこ兄ちゃん、東京にいるんだよ」
 だから無理だと少女は言う。先程、やっとこ見付けたかのような事を言ったのは誰だ。何のつもりで弥彦を見付けたのだろう。
 どっと疲れを感じて溜息をつくと、ぐるぐると腹の虫が盛大に声を上げた。
「ひゃははっ、兄ちゃん、お腹すいてるんね。お昼だもんね。かえとご飯食べよ! おうちにおいで!」
「お、おぅ……」
 屈託のない笑顔を見せる少女は、男の腕に飛びついた。
「よっし、おめぇんちは何処だ、嬢ちゃん?」
 男は少女を肩に担ぎ上げる。少女はころころと笑った。
「この坂の下の、しんりょうじょ!」
「診療所、か」
 男の脳裏に、懐かしい面影が浮かんだ。
 黒髪の女だ。長く豊かな髪をさらりと揺らし、唇に鮮やかな紅を差した大人の女。三つ年上の女医者はしんなりと美しく、驚く程に気の強かった。戦の場にも動ずる事はなく、医者の務めを果たすために生きていた。女の愛した者はこの男の無二の友だったが、その心には既に別の女が映っていた。身を引いた女が眩い貌で俯いた様を今もよく覚えている。確か、あれも初夏の頃。五年以上も前の話だが、頭の片隅から消えない。気丈な女が瞳を揺らすのが、あんなに胸に迫るとは思わなかった。今、二十と七。どんな風に生きているのだろうか。
「ところで、嬢ちゃんはあんなとこで何してたんだ?」
「かえ、薬草探してた。お薬作るの。かえ、お母さんみたいなお医者さんになんの」
「お母さん?」
 欧米では女医者も時々見掛けた――その度にあの頑固な女を思い出した――が、僅か五年で日本にも女医が増えていたとは。いや、それより、この娘が……
「お、おい、もしかしてお前の母ちゃんは――」
「楓!」
 男の肩ではしゃぐ娘を呼ぶ声。それは正しく、五年前に馴染んだあの声だった。
「そこのあんた、うちの娘をどうするつもり?」 真正面から駈けてくる姿は、成程、昔とさして変わらない。間違えるわけがない。
「するってーと、なんだ、此処は東京じゃなくて会津か」
 男は楓を肩から抱き上げると、人形のように軽々と両脇をつかんで駆け寄った女の前に差し出した。
「か、楓……」
 女は思わず手を伸ばし、楓を受け取った。その時初めて、二人は目を合わせた。
 女は、目を瞬かせた。
「え……」
「よぉ、久し振りだな、恵」
「まぁ、貴方、いつ帰ってきたの? 東京から来たの? 剣さん達には逢った? あぁ、手の具合はどうなの? あれから二重の極みを――」
「ちょっ……ちょっと待て、ちょっと黙れ」
 五年振りの再会だ。もう少し感動的な雰囲気があって然るべきだろうに、女はそんな雰囲気は露程も見せず、ほんの一週間ばかり逢わなかった患者に対するかのように質問をまくし立てた。
 どんな反応を見せるかと期待していた男はすっかり拍子抜けしたが、寧ろそれが全く彼女らしく、その事が逆に嬉しかった。丁度その時、男――相楽左之助の腹がまたしても大声で叫んだ。恵はくすくすと笑い、上目遣いで左之助を見上げる。その、何処となく意地悪い嬉しそうな笑い方が、全く五年前の恵そのもので、変わらない事が更に嬉しく思えた。
「お昼ご飯、楓もまだだから一緒に食べる? 楓の世話をしてくれると助かるし」
 恵は楓を左之助に押し付けた。先程、まるで誘拐犯のように左之助に声を荒げたのは何処の誰だったか。左之助の言いたい事は恵にも容易く理解出来、「悪かったわね」と肩を竦めて見せた。言葉にしなくても通じるものがある事を、二人はよく知っている。余りに似た者同士であるがためにぶつかり合った事も少なくはない。寧ろ、そうなる事の方が多かったが、似た者同士であるがために何も言わなくても互いの想いを汲み合えた。
「幸せそうだなぁ」
 左之助はぽつんと呟いた。
「……嬉しいのよ、これでも」
 恵はくるりと左之助に背を向け、歩き出した。診療所に行くらしい。
「嬉しいって?」
「貴方が、帰ってきた事が」
「へ?」
「お帰りなさい……左之助」
 振り返った恵は、極上の笑顔を左之助に向ける。瞬間、どきりと鼓動が高鳴った。江戸の頃から“見返り美人”の女性像は人気が高いが、振り向くというしなやかな仕草に、そしてそれに添えられた笑顔に、何も感じない男はいまい。そんな男を、男とは認めない。
 ――左之助。自分の名前を日本の響きで呼ばれるのは久し振りだ。同じように呼んでも、異国では響きが変わる。懐かしさに胸が熱くなる。この懐かしさは、日本の響き故か、それとも彼女の声故か。それは、解らないけれど。
「お母さん、今日のご飯なぁに?」
 左之助に抱かれながら、恵に問い掛ける。人見知りをしない屈託のない明るさが、この娘の魅力だろう。
「冷たいお蕎麦よ。そうだ、あんた、夕飯食べていく?」
「ん……あぁ、頼む」
「ゆっくりして行って。その格好じゃ寒いでしょう、適当に服も出すから」
 恵は殆ど一方的に喋っていた。
 恵の服が着られる訳がないと左之助は思ったが、そうではないと直ぐに気付いた。楓の存在がその証左、恵は結婚していて、夫がいるのだ。不意に、鳩尾の辺りが重くなるのを感じて左之助は顔をしかめた。
「どうしたの、兄ちゃん、どっか痛いの?」
「いや、何でもない」
 眉を寄せた少女に笑顔を見せ、左之助は小さく息をついた。厄介なものだ。当然、このやたらと幸薄い人生を送ってきた女は幸せであらねばならないと思っていたが、自分の知らないところで幸せになった女に、言いようもない不満が募っている。おかしなものだ。幸せになって、何が悪い。自分だって、この五年、楽しくやってきたというのに。大体、この女が五年間、不幸でいる事を何故望むというのか。こんなに可愛い子供がいて、実に結構な事じゃないか。
「ねぇ、左之助、さっきの質問だけど……剣さんには逢ったの?」
「いや、今朝方日本についたばっかりだからな。東京を目指してたつもりなんだが……」
「相変わらずの方向音痴ねぇ。無計画というか」
 五年前に馬鹿の亜細亜記録を更新したとまで言われたが、今度は世界記録といわれるのだろう。左之助は覚悟していた。しかし、恵はその事には一切触れない。それにはまたしても、拍子抜けしてしまった。
「以外だなぁ、馬鹿だとか言わねぇのか」
「この子にそういう言葉を未だ教えたくないのよ」
 恵は少し困ったように微笑んで、唇に人差し指をあてた。
「成程……」
 恵は、恵だ。相変わらずしっかり者で、理性的で利口で。しかし、五年前と同じではない。医者であると同時に母であるこの女は、昔のままの恵ではない。当たり前の事なのだが、やはり少しばかり苛立ちを覚える。
「剣さんと薫ちゃん、結婚したわよ」
「そうだろうな」
「剣路君ていう息子もいるし……」
「へぇ、そいつはめでてぇな。どんなんだ?」
 古き友、緋村剣心の話題になり、左之助は俄かに瞳を輝かせた。
「そうねぇ、見た目は小振りな剣さんね。でも、弱虫で泣き虫で、前に楓を連れて東京に行った事があるけど、楓の方が強かったくらいよ。お母さんっこで甘えん坊だから、弥彦君が先行き不安だって言ってるわ。未だ六つなのに」
 左之助にとって、剣心の話を聞く事は恵の現在の話を聞くよりずっと楽しかった。“小振りな剣心”なる緋村剣路を想像し、くっくっと笑う。かの緋村剣心を知る者なら、誰でも小さな剣心がわんわん泣き喚いているところを想像すれば笑いたくもなるだろう。恵も剣路ではなく“小振りな剣心”を想像して、くすくすと笑った。
「剣さん達もきっと心配しているわ。早く、逢いに行きなさいね」
「あぁ……」
 何気ない話をしているだけなのに、その後姿に、苛立ちを覚えるのは何故か。背丈は変わらないが、肩が少し小さくなったように見える。五年前より痩せているのは見て解った。このお転婆な娘に振り回されているのだろうか。
 それとも。
 山林の中を抜け、林道を下っている内は気付かなかったが、町は決して裕福とは言えない。東京のように華やかな彩りや、左之助の故郷である信州の宿場町のような賑やかさは無い。粗末な家が立ち並び、人もまばらだ。この貧しい町が、恵に苦労を強いているのだろうか。尤も、見た目の貧しさに比べ、通りを行く人々は活き活きとした顔付きで足取りも軽い。貧しいなりに元気にやっているようだ。だとすると、この町は問題ではないのか。
 考えたところで埒は明かないし、あれこれ考えるのは性に会わない。左之助は時折楓をあやしながら、恵の後について歩いた。間もなく、他の建物に比べて新しくて大きな白い壁の木造家屋の前で恵は足を止めた。庭を囲う塀には、“高荷診療所”の看板が掲げられている。
「へぇ、此処が……」
「えぇ、私の診療所よ。裏手が住まいなの」
 恵はぐるりと建物の裏側に回ると、ただでさえ大きな診療所より、更に一回り大きな家。旦那が権力者か何かで、金があるのだろうか。そう思わずにはいられない程、この町には不似合いな大きさだ。
「今は、こっちには誰もいないから、ゆっくりして行って頂戴。楓、ちゃんとお昼寝するのよ。左之助に迷惑かけないで頂戴ね。あ、着替えを出しておくから」
 左之助を居間に通し、恵は左之助や楓にあれこれ言いながら、忙しく動き回った。膳に蕎麦を用意し、左之助に着替えを出す。それから隣りの部屋に布団まで敷いた。三時になったら楓を寝かせるよう左之助に頼み、左之助も疲れているだろうからと、左之助の分の布団まで用意した。ひとしきり一人で総てを整え、説明を済ませた後に、恵はばたばたと出て行った。まるで嵐のようだと、左之助は思った。

 整った部屋。
 恵らしいと言えば、らしいだろう。それに、懐かしい。外国は何処も雑多で散らかっている印象が強い。路地裏や馬車の中、テントの中で眠る事もあれば、女の部屋に招かれて夜を明かしたりもした。何処もかしこも、こんなに整然とはしていなかった。
 左之助は恵の用意した着物を羽織る。男物の着物。左之助の大きな身体にもしっくりと馴染んだ。恵の旦那で、楓の父親のもの。そう思うと、なんとなく落ち着かない心地がする。自分は、恵の何が気に入らないのだろう。折角幸せになっているというのに。
 わけの解らない苛立ちが左之助を襲い、解らない事が更に左之助を苛立たせた。
 左之助は楓の面倒を見ながら蕎麦を啜る。日本の食事は、舌に合う。空きっ腹に、豊かに香る蕎麦は染み渡り、涙が溢れそうな程に美味かった。
 日本の外は広い。この国の小ささを目の当たりにし、様々なものに触れ、毎日刺激的だった。五年間の大半が冒険と幸福に満ち溢れていた。その一方で、思い知ったのは、この小さな、ちっぽけな国にあるちっぽけな楽しみや、出逢いや、幸福といったもの達。五年の時を経て少しばかり大人になったからこそ、それらが理解出来るようになった。
 食事を終え、楓がうとうとし始めたので、左之助は楓を布団に寝かせ、その隣りに敷かれた布団に転がった。
 日本にしかないもの。幸せだとか、そういったものは重要で、左之助を確かに温める。しかし、この身に纏った着物は妙に落ち着かない。どんな男なのだろう、恵の夫は。ぼんやりと天井を仰いでそんな事を考えている内に、左之助は眠りに落ちた。




 体力には自信のある相楽左之助といえど、長い長い船旅と、半日間も逃亡していたために相当疲れが溜まっていたらしい。本人さえ気付かない疲れではあったが、身体は正直なもので、眠りの世界に誘われてからは、死んだように眠り続けて起きなかった。次に左之助が目を醒ましたのは、空に月のかかる、夜半時だった。
「母さん、さっきの服、洗っておいたけど……もう一着、蒼紫さんの浴衣でも出しておこうか?」
「そうね。そうして頂戴」
 暗い部屋だ。楓はいない。別の部屋にいるのだろうか。襖の隙間から、ゆらゆらと紅い光が差し込んでいる。隣りの居間から聞こえてくるのは、恵と少年の声だ。楓より大分年上で、随分としっかりしている。その少年の声が、恵を“母さん”と呼んだ。
 左之助は、すらりと襖を開く。
「あら、起きたのね。何か食べる? 夕飯は残してあるけど……」
 居間では恵が蝋燭明かりを灯して帳面に筆を走らせていた。
「ん、あぁ……」
 未だ、やや眠たそうな声で答える。急に眼球に突き刺さってきた光に目を細め、左之助は暫く煩わしそうな顔をしていたが、暫くして慣れてきたようで、ゆっくりと大きく目を開いた。恵の隣りには、きりりとした端正な顔立ちの少年が一人、立っている。
「いや、飯は良い……」
「あら、珍しい」
「じゃぁ、母さん、俺ももう寝るね」
「うん、お休み、征太郎」
 少年は恵に微笑みかけ、それから左之助に不機嫌そうな顔で軽く会釈をしてから、さっさと居間を出て行った。
「……誰だ、あれ?」
「息子」
 さらりと答えた恵を前に、左之助はあんぐりと口を開けた。どう考えても十五、六の少年が、二十七の彼女の息子であるはずが無い。二十二の秋口までは少なくとも独身だったのだから、せいぜい子供がいたとして、楓くらいの年齢の筈だ。
「私の息子――長男の、高荷征太郎よ」
「んなわけ、あるはずが――」
「えぇ、そうよね」
 左之助の言葉を塞き止め、恵は窓の外を見遣る。
「少し……散歩でもしない?」
 静かな口調ではあったが、その問い掛けには有無を言わせない強い響きがあった。
 恵は音も無く立ち上がり、左之助を置いて部屋を、そして家を出た。左之助もなるべく音を立てないように努め、部屋を飛び出した。
 実に穏やかな夜だった。肌寒いが、その分空気は澄み渡り、月がはっきりと鮮やかな光を投げかけている。恵は人気の無い街道を、ゆっくりと歩き、大きな川にかかった橋を渡る途中で足を止めて左之助を振り返った。
「どうしたんだよ、いきなり?」
「別に。少し歩きたくなっただけよ。あんたとふたりきりになるのは、久し振りでしょう?」
「そう……だな」
 左之助は曖昧に笑って見せた。先程の青年、高荷征太郎の存在を見受けた瞬間から、奇妙な違和感をいくつか感じ始めている。その一つは、明らかに恵の隣りに立っているはずの男に対するもの。はっきりと姿を現さないその存在が征太郎の存在を前に突然ぼやけた。
「外国は、どうだった?」
「なかなか面白かったぜ。喰いもんも着るもんも違うし、最初に亜米利加についた時には、戸惑ったのなんのって。みんなでかいからな。ま、その分喧嘩のし甲斐もあるってもんだが」
「全く、何処へいっても喧嘩ばかりね」
「そういうお前は、どうなんだよ?」
 逆に質問を投げ返された恵は、左之助をまねて曖昧に微笑んでから、川に身を乗り出した。
「この町を、あんたはどう思う?」
「は?」
「暗いでしょう? 東京に比べたら、吃驚するくらい暗いんじゃないかしら。でもね、二、三年前は、町の形すらなかったのよ。本当に、荒れ放題だった……。政府は、会津を見捨てたの。県令が私を呼び寄せなければ、病や飢餓でもっと多くの人が死んでいたでしょう……。私は、会津に戻ってから毎日病人や怪我人の看病に追われて、二年を費やしたの。病に伏す人が減ってから、少しずつ町が出来始めて、互いに協力し合う余裕も出てきたわ。今は、五年前に此処に来た時とは比べ物にならないくらい活気のある町になったのよ、これでも」
 恵は笑顔で事も無く言うけれど、それがどれ程苦しかった事か。初めから会津の人々に受け入れられたわけではあるまい。総てが順調にいったわけでもないだろう。それでも、恵は笑っている。総ての苦しみを隠して、笑う。五年前には出来なかった芸当が出来るようになり、それが寧ろ、痛々しい。
「そっか……。剣心達は、手伝いに来たりはしなかったか?」
「手伝いたいとは言ってくれたけれどね。向こうは向こうで大変だったから。剣さんも一度、一人で会津に遊びに来てくれた事があったけれど、もう来ないわ」
 その理由までは口にしない。俯く恵の口許には笑みが、しかし瞳には悲しみが浮かんでいる。そしてざわりと吹いた風が恵の髪を躍らせた。月の光がきらりと恵を照らし、同時に、左之助の目に大きな赤黒い傷跡を映し出した。髪で隠れて見えなかったが、恵の額の左側に刻まれた、生々しい傷跡。それが誰のためについた傷か、左之助は咄嗟に聞けなかった。恵がすぐさま口を開いたためだ。
「操ちゃんや蒼紫……特に蒼紫はしょっちゅう、手伝いに来てくれていたわ。その着物も、蒼紫のよく来ているものよ。単なる来客用だけれど、殆ど蒼紫がきているから、みんな“蒼紫の”って」
「蒼紫?」
 四乃森蒼紫。意外な名前が出てきたものだ。どう考えても仲が良いとは思えない二人が。左之助はまた、妙な苛立ちを覚えた。
「私達、自然とそうなったのよ。ずっと、お互いに罪を償うようにね。操ちゃんが焼餅を焼くから一応隠してはいるけど、随分と蒼紫には助けられたのよ。お陰で、子供達をちゃんと育てられたわ……」
「あの、子供二人か?」
 奇妙な違和感を醸し出す息子と、屈託の無い明るい娘。
「実は、征太郎を筆頭に、八人子供がいるの。楓が一番下で。また、おいおい紹介するけど」
「八人!?」
 左之助は、素っ頓狂な声を上げた。
「……みんな、孤児でね。征太郎は会津戦争の最中に生まれたらしくて、直ぐに両親を亡くして全く血の繋がりもない女性に育てられたそうよ。その人も五年前に亡くなって、私が引き取ったの。みんな、戦争や病で親を亡くした子供なのよ」
 呆気にとられるとはこの事か。この女は、こんなに強かったのか。こんなにも、逞しかったのか。絶望の町に立ち、たった一人で人々を救うために一から努力し続けていたというのに、この上八人もの子供を育てているというのか。一番上が十五とすれば、その下の七人は一体幾つなのだろうか。
「じゃぁ、結婚とか……」
「してるわけ無いじゃない。そんな暇なかったし、そんな相手もいないわ」
 からかうように笑う女は、まるで五年前と変わらないのに、こんなにも――重い。
 また、湧き上がる感情。苛立ち。悔しさ。今、感じている苛立ちは、自分に対するもの。五年間、一人で苦労し続けてきた女を知らず、好き勝手に生きてきた自分への。そして、この女の笑う理由を知っているがための。
「わ……笑うなよ」
「え?」
 左之助の震える声に、恵は目を丸くした。
「苦しかったんじゃねぇのか? 辛かったんじゃねぇのか?」
 こんなに痩せて。顔の傷まで負って。小さな身体で。
「左之助……?」
 目を伏せて眩い貌をして俯いていたら、誰かの幸せも台無しになると、かつてそう言った。その言葉のために、自身の幸せを思うが故に笑うのだと、左之助にはそう思えてならなかった。
 最悪だ。
「えぇ、そうね。辛かったわ。苦しかったわ。でも、もう平気。子供達がみんな、元気に大きくなって、今は、幸せよ」
 恵は左之助の傍らにより、そっと手を取った。怒りに震えて、今にもそこいらのものを殴り壊しそうな勢いのある、骨張った手。優しさと仲間想いの性分ゆえに、彼はこんなにも苦しんでいる。五年間の恵の苦労を、今、必死に感じようとしているかのようだ。
「私は今、幸せなのよ。だから笑うのよ。笑っていさせて、左之助。あんたの中に、今更めそめそ泣いている私が映るなんて、耐えられないわ」
 温かく穏やかな声で囁く恵。
 この五年、泣く事がなかったとでも言うのか。たった一人で泣いたとでも? 誰の中になら、泣いている自分を映せた?
 何も知らない、この五年間。ぽっかりと空いた時間が、不思議と距離になる。悔しい。
 知らな過ぎるこの年月の出来事を、一つ一つ、これから知ることが出来るだろうか。そうせずにはいられない。胸に立ち上る混乱に似た渦。
 何が、そうさせるのか。

 一陣の風が二人を包むように駆け抜ける。
 



 この、胸に渦巻く風の名を、人はなんと呼ぶか。

fin
形を変えて駆け抜ける風のように。
風の中に立ち、人はどうして生きてきたのか。
女は、男は。



INDEX

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