知りたかった。
 貴方の、事。


   Your Name


 ふと、思う事がある。“私は何のために生きているのだろうか?”
 幼い頃に“歴史”という確かにあったのに曖昧なものに魅せられて以来、我武者羅にそれを追い求めてきた。学べるだけの事を学び、研究に明け暮れた。いつの間にか周囲の友人、知人は結婚をしていたり子供を産んだり、家庭を築いていたのに、私だけが未だに独りで、恋愛なんてものを経験することも無く、情報や研究の代価として愛情を欠片も抱かない男の愛人になったり、身体を差し出したりしてきた。最初は嫌だと思っていたその行為に疑問を持たなくなったのは一体いつの事だったろうか。
 今日も私は身支度をしている。逢いたくもない男に逢い、寝たくもない男と寝るために。でも、これは大きなチャンスかも知れない。上手くすれば、アフリカの遺跡の研究チームに参加出来る。社長<ボス>が、研究チームに大きなコネを持つ人物を紹介してくれるというから。紹介がどういう事か、私だって好い加減解ってる。どんなチンピラみたいな男かも、大方想像がつく。それでも、チャンスの筈だ。
 社長の秘書として入社して四年。社長の愛人となって――四年。彼の権力と財力を利用して、私は自分のしたい研究をし続けてきた。秘書ではあるけれど、私の専門は歴史の研究だ。社の研究チームの仕切りも任せてもらっている。秘書としての仕事は、せいぜい社長のスケジュール管理だ。現在八人いる愛人の管理も、私がしている。金銭、住まい、逢う時間まできっちり私が決めている。その中に、時折自分も組み込まないといけない。わけが解らない。でも、そのお陰で研究が出来る。
 それもこれも、今日で終わる――かも知れない。今日、世界に旅立つ道が開けたとしたら。
 そう、総て今日で終わる――訳がない。今までこんな風にしか生きてこなかったんだから。
 何処かでもう、とっくに解っていた。此処にずっといて、社長の相手をして、時々社長が紹介する研究絡みの人の相手をしながら外の世界に出られる機会を待っていたけれど、そんな日は来ないこと、解っている。来るわけがない。社長が私を、逃がしてくれるわけがないのだから。自分で出ない事には、出られない。解っているのに、出ようとしない。
 私は何がしたいんだろう。こんな生き方がしたかったわけじゃない。それでも、これが私の選んだ生き方。いつの間にか選んでいた道。或いは、知らぬ内に迷い込んだ、か。
 私はタイトな、けれどいつもの“会食”で着るものより丈の長いスカートを穿き、鏡の前に立った。冴えない顔の女が独り、鏡の中にいる。少なくともこの女は、これから夢に向かって生きてゆこうなんて顔はしていない。先日、偶然街で逢った高校時代の同級生は、ベビーカーを押して、大きなお腹を抱えていた。私を見て「綺麗になった」としきりに褒めていたけれど、私の目には、学生の頃よりふくよかになっていても、幸せそうに微笑む彼女の方が、余程美しく映った。これで同い年だなんて、とても信じられない。
 考えたって無駄なのに、考え出したらきりが無く、私はバッグを掴んで部屋を出た。足早に人波を抜ける。駅の方から流れてくる人々の群れの中に、夜の闇に紛れてしまいそうな濃紺の制服に身を包んだ学生達の姿が見える。私がこの夢に出会ったのは、彼らより幼い頃で、あのくらいの頃は、毎日図書室や図書館に通い詰めていた。教室の真ん中で、誰が誰を好きだとか告白しただとか盛り上がる同級生を無視して、窓際の席でいつも本を読んでいた。
 駅に近付けば近付く程、私の足は重く、動きも遅鈍になる。駅周辺の人工的な光の波が、月の光さえ遮っている。私がこれから行く場所は、ここより更に明るくて賑やかな場所。そこへ行くたびに、私の胸の中は重くなる。行く気が起きなくて何度も電車を見送る事も珍しくない。「これに乗らなければ絶対に間に合わない」という電車を見送るとほっとする反面怖くもなって、結局タクシーで向かうのだから意味がない。何がしたいのか、自分でももうよく解らない。
『――井市の纏向遺跡で……』
 何処からともなく聞こえてきた声に、私は思わず顔を上げた。駅ビルの壁に取り付けられたエキシビションで夜のニュース番組が流されていて、女性アナウンサーの横に、土を掘る人々の映像が映し出されている。発掘作業だ。テロップに『2世紀頃の繊維発見 卑弥呼のものか』と書かれている。どうやら、奈良の遺跡のようだ。私は鼓動の高鳴りを感じた。
 未だ場所が特定されていない“邪馬台国”。――どこにあるんだろう。好奇心が疼いた。それが、確か八つの頃。以来、二十年間、あらゆる資料を読み漁った。邪馬台国から始まり、興味は世界中の遺跡、考古学へと広がった。
 純粋な好奇心は研究心へと移り変わり、いつの間にか芽生えていた“野心”が私を変えてしまった。やりたい事はあるのに現実は無慈悲で、使えるものは何でも使えと開き直った。一度それを使ってしまうと、それに頼る外なくなり、抜け出せなくなる。
 もう、純粋なものなんて自分には何一つ残っていないというのに、昔、私を魅了したものに関するニュースが、こんなにも私を興奮させている。
 ニュースは、遺跡で新たに発見された繊維が、二世紀頃に中国で作られていた絹とよく似ている事から、邪馬台国に関する重要な手がかりになりそうだと報じた。アナウンサーがそこまで話すと、画面が切り替わり、次に映ったのは、一人の老人だった。
「クローバー博士……」
 ジャージを着て、泥まみれで遺跡に立つその人は、私が中学生の頃からお世話になっていた人だった。私を娘のように可愛がり、大学生の頃には助手として側においてくれた。大学を卒業した直後、私は彼から離れた。小さな研究所で終わりたくなかった。世界的な研究をしたいと。そうして現実の荒波に飲まれ、汚れた道に入って次々に人を裏切る私を、彼はいつも諌め、諭してくれた。けれど、私はそれに従う事はなかった。特に、四年前、今の会社にヘッドハンティングされた時は猛反対され、戻って来いと言われた。大企業で、大成功をしている会社のように見えるけれど、全くといって良い程業界で良い噂のない会社だったから。ぬかるみの先は泥沼。解っていた。それでも、その先に夢があるのだと信じていた。信じたかった。信じようとしていた。進む以外の道を考える事も出来ず、戻る勇気もなく、総てが惰性だと解って気付いても気付かない振りをしていた。
 博士は、あのお年になっても夢を追い続け、今は奈良にいるのか。昔の師は、画面越しにもきらきらと輝いているのが解る。
 私はニュースの画面に釘付けになり、博士の言葉を一言一句聞き逃さないように耳を傾けた。
 それなのに。
 ギターを掻き鳴らす音が、私の右耳に飛び込んできた。駅前にはいつも“ストリートミュージシャン”とか名乗って喚き散らす少年達が屯している。五月蝿い割に普段は耳に入らないようなそういった少年の歌が、今日はどういうわけか酷く耳についた。嫌な音でも下手なわけでもないけれど、博士の言葉を消したその声に苛立って、私はそちらへ視線を向けた。緑の髪をした少年が、ギターを抱えて歌っている。見るからに、不良。苛立ちが増したけれど、無視して画面に視線を戻す。その時、丁度博士のインタビューが終わって、また女性アナウンサーのいるスタジオの映像が映った。次のニュースが始まり、今度はタレントの熱愛が発覚したとか、そんな話。顔はなんとなくCMか何かで見た事があるけれど、名前はよく知らないタレント。こんなニュース、どうでも良いのに。もっと大事なニュースだったのに。
 噴水の縁に腰をかけて歌う少年。道行く人は彼の前で歩調を緩め、振り返る。成程、悪くはないのだろう。でも、私は最悪な気分だった。
 どうしてそこまでしたのかは自分でもよく解らないけれど、私は少年の前に早足で進み出て仁王立ちした。必死にギターのコードをなぞりながら、聞いた事もない歌――自作だろうか?――を歌う少年。その眼は真剣そのもので、どういうわけか、私は益々苛立ちを覚えた。そして、爪先で軽く彼のギターケースを蹴った。軽く、ではあるけれど、明らかに“当たった”という風ではなく、彼は演奏を止めた。
「――何?」
 歌声より微かに高い声で問うてくる。私を見上げる鋭い眼。左耳に揺れる三つ連なった金色のピアス。年の頃は二十歳に届くかどうかといったくらいか。やたら時の強そうな印象だ。
「五月蝿い」
 自分が思うよりずっと、低い声で言っていた。
「悪かったな、下手で」
 少年に恨めしそうに呟かれ、私は首を振る。
「上手い下手じゃなくて、五月蝿いのよ。大事なニュースを聞き逃してしまったわ」
「ふぅん。そうかよ。でも、新聞とかにも出るだろ、大事なニュースなら」
「そういう意味じゃないの」
 そう、クローバー博士の出ているあのニュースだから意味があったのだ。別のニュースにも出るかも知れないけれど、いつもいつもテレビに齧り付いている訳にいかないし、何より、私はあのニュースが見たかっただけなのだ。別のニュースや新聞記事が見たいわけではない。そんなもの、言われなくてもチェックする。
「兎に角、貴方が迷惑なのよ。何でこんなところで歌っているんだか」
「“夢”のため」
「貴方の下らない夢のために、私は大事なニュースを聞き逃したわけね。私にとっては、私の夢に繋がる、大事な――」
 私の言葉が終わるより早く、彼は立ち上がり、私の胸倉を掴んだ。切れ味の良いナイフみたいに、残酷な目が私を睨む。
「あんたがどんなお偉い人間で、どんな凄い夢持ってんのかしらねぇけど、人の夢秤にかけて見下す権利があんのかよ?」
 見るからに揉め事が起きている状況で、周囲の視線が注がれているのが解った。私は何も言わず、彼の手を振り解いて踝を返す。丁度目の前に“空車”の表示を出しているタクシーが止まっているのが見えて、直ぐにそれに飛び乗った。
 タクシーの中で皺くちゃになった服を調えながら、感じていたのは後悔だった。吐き出した言葉は二度と元には戻らない。解っている筈なのに、どうしてあんな事を言ったのだろう。私に、彼の夢を蔑む資格なんかない。今の私には、夢を語る資格だってない。
 夢に繋がるかも知れないという期待が、無駄になる事だって解っているのに、それでも私はその場所へ向う。時間にはぎりぎりで間に合って、社長から、サングラスをかけたチンピラみたいな男を紹介された。この男が持っているというコネに、なんの価値があるのだろう?
 豪華な店の奥の個室。ホステスに囲まれそうな、派手なだけで悪趣味なソファ。ホステスこそいないけど――って、あぁ、そうね。私がホステスの代わりなのよね。私の聞きたい話なんか数分で曖昧なままに終わって、社長とこの考古学とは程遠そうな男――ドフラミンゴというらしい――は、品のない話を始めた。ドフラミンゴは躊躇なく私のスカートを捲り上げて、太腿を撫で回し、首筋に吸い付いてくる。社長はその様子をにやにやしながら眺めている。全く、いつもこんな風で。愛人として私を囲っているけれど、結局私も貴方の商品なのでしょうね。私を抱くこの男の先に私の夢があるなんて――そんな筈、ない。だって、私に夢なんかないんだから。
「あぁ……」
 私は溜息をつく。そうして、思う。“私は何のために生きているのだろうか?”
 少なくとも、こんな事のためじゃない。
 男の肩ごしに見えた苔色の天井に、私を睨む少年の顔が見えた気がした。彼の夢を見下したからには、私は相応の態度を示さないといけない筈。そう思った瞬間、私の目の前に血の雫が散った。私は自分で思うよりずっと衝動的な人間だったらしい。爪の先で、私を抱く男の頬を無意識に引っ掻いていた。
「あら、ごめんなさい」
 私は男の顔も見ずに言った。悪びれもせず。
「何のつもりだ、ロビン?」
 社長が睨みを利かせる。私は髪を払い、ドフラミンゴの手を押し退けて立ち上がった。
「悪いけど、今日は失礼するわ」
 スカートの裾を直しながら、私は社長に微笑んで見せた。
「世界で研究がしたいんじゃないのか? どでかい研究を。名声が遠のくぜ?」
 ドフラミンゴが指で頬を拭いながら冷ややかな笑みを浮かべた。遠のく? 本当に貴方の近くにあるというの?本当だとして、私はそれを失って傷付くだろうか? 後悔するのだろうか?
 ……それならそれで、構わない。自分の蒔いた種、自分で決めた事だもの。
「そうね、でも良いわ」
「ロビン」
 ドフラミンゴが私の手首を掴んだ。私は、無意識にその手を振り払った。それが、彼の逆鱗に触れたらしい。
「好い加減にしやがれ!」
 社長とドフラミンゴが、同時に私をテーブルに押し付ける。厳つい手で首筋を押さえられて、息苦しさに咳き込みながら、伏せかけた目を微かに開いた時、苔色の天井が見えた。その瞬間、どういうわけか、私の中で何かが暴れ出した。私はテーブルの上のワイングラスを掴んで血のような雫を社長の顔面に放つ。上手い具合に目に入ったらしい。彼は頭を振ってもだえだした。片側が自由になり、今度は靴を脱いでヒールをドフラミンゴの額に叩き込む。力が緩んだ隙に二人の間を抜け出すと、もう片方の靴も脱ぎ捨てて、バッグを引っ掴んで飛び出した。個室の直ぐ脇にあった非常階段を三階分駆け下り、駅までの道を直走る。首や肩を押さえられた上に急に動き出した所為か、少し頭がくらくらしたけれど、立ち止まっている余裕はない。目の前が眩くなりかけたところで、信号待ちをしていた空車のタクシーを捕まえた。
 タクシーに転がり込んで漸く止まった足に、俄かに痛みが走った。同時に恐怖が込み上げてくる。男に暴力を振るわれたのは初めてだ。何とか逃げ延びたけれど、危なかったのだと再認識する。自分の身に起きた出来事が鮮明に思い出されて、身体が震えた。両手両足が異常な程震えていて、バックミラー越しに運転手さんが不安そうに窺っていた。
 取り敢えず、マンションまで走ってもらうつもりだった。でも、最寄り駅付近で私は咄嗟に声を上げた。
「止めて!」
 私の声に驚いたらしく、運転手さんは急ブレーキを踏んだ。
「此処で良いわ、有り難う」
 私は五千円札を押し付けてタクシーから飛び降りた。噴水横の時計は、丁度零時を指している。先程とは打って変わって静まり返り、人もまばらな駅前の先程と同じ場所に腰を下ろしているのは“彼”だった。
「こんなに遅くまでふらふらしているなんて、とんだ不良少年ね」
 私が声を掛けると、彼は顔を上げて硬直した。自分では全部は解らないけれど、酷い恰好をしているだろう、私は。髪はお酒を被ってべたべたしているし、服はよれよれ。タクシーの中でそれなりに直したとはいえ、破れたストッキングと裸足の足はどうしようもなくて、人前に出られるような恰好ではない。それでも私は彼の前に進み出た。もう一度、逢いたいと思っていたから。
「大丈夫かよ、あんた。何やったんだよ?」
「大した事ないわ。別に悪い事をしたわけじゃないし。貴方こそ、こんな時間まで――ねぇ、ギターは?」
「さっきスタジオに戻してきた。家じゃ弾けねぇし、知り合いが持ってるスタジオだから、いつもそこで弾いてるんだけど……なぁ、あんたは本当に大丈夫か? 何かされたんなら、警察とか――」
「大丈夫、本当に、なんでもない……訳じゃないけど、兎に角、平気だから。それより、その……さっきはごめんなさいね。あんな事をいうつもりはなかったんだけど、少し苛々していて、貴方に八つ当たりしてしまったわ。本当に、ごめんなさい」
「別にそれは良いけど……」
 彼は首を振った。
 噴水の側は街灯が多くて明るくて、彼はまばらとはいえ、人の視線が気になるようだった。それはそうか。こんな恰好では、彼が私に何か酷い事をしたように思われても仕方がない。それこそ、警察でも呼ばれたら困るだろう。
「それじゃぁ、ね。それが言いたかっただけだから。声をかけてしまって、ごめんなさい」
 私はさっさとこの場から立ち去ろうとした。なのに、身体は言う事をきかず、足もちゃんとは動かなかった。足が、痛い。足の裏側だけではなくて、総てが斬り刻まれたように痛む。
「無理すんなよ」
 ふらふらしている私に彼は言い、肩を軽く叩いた。直後、私は地面に膝をついた。立っていられなかった。
「あんた……おい!」
「ん……大丈夫、ちょっとよろけただけよ」
「あんたの家、此処から近いか?」
「歩いて十分くらい」
 彼は腰を支えて私を無理矢理立ち上がらせると、少しだけ移動して噴水の縁に座らせた。
「歩いて十分なら、チャリで五分かかんないか。待ってろ、送るから」
 チャリ……自転車? なんだかよく解らずにいると、彼はいつの間にかいなくなってい、二分程で戻ってきた。自転車を押して。
「乗れるか? どっち?」
「小庭台……萌黄色のマンション、解る?」
「萌黄色って……あぁ……あそこか。解る解る。あんた、良いトコ住んでるんだな」
 彼は私を自転車の荷台に乗せてくれた。「乗り心地悪くて御免な」と気を使いながら。
「腰から前に手ぇ回して、自分の手首掴んどきな。しっかり掴まってりゃ、落ちないから。ちょっと荒っぽいけど、離すなよ」
「えぇ、でも、私、汚れて……」
「んな事気にすんな。俺だって、そんな小奇麗じゃねぇよ」
 私は言われた通りに彼の腰から手を回す。彼の背中がぐっと近くなった。思ったより、ずっと広い背中。触れなくても伝わる熱。
 ペダルを漕ぎ出す時の揺れは少し怖かったけれど、ぐんぐん夜の風を切って走るのは気分が良い。胸の真ん中で疼き続ける痛みを風を切る爽快感で誤魔化しながら、私は静かに呼吸を繰り返した。いつも見ている風景が、自転車の荷台からは違って見える。
 本当に五分足らずで、萌黄色のマンションに着いた。彼は、十二階建てのマンションの天辺を見上げる。
「何階?」
「え? 九階……」
 荷台から降りると、やっぱり足元がふらついて、彼に支えられた。私はお礼を言って部屋に戻ろうとしたのだが、彼は私の肩を抱いたままマンションの自動ドアをくぐり、エントランスでエレベーターのボタンを押した。
「部屋に戻る前に倒れられても困るからな」
「……ありがとう」
 優しい子。私はあんなに酷い事を言って、彼もあんなに怒ったのに、どうしてこんなに優しくしてくれるのか。一瞬考えて、直ぐに答えに辿り着く。深夜の零時を回って女を部屋に送るのに、他に何の目的があるのだろう。彼もまた“男”なのだ。そう思うと、また震えがきた。
「大丈夫か?」
「…………」
 九階に着くと、今度は部屋番号を聞かれた。咄嗟に、「九一○」と答えてしまった。送るといってくれたその手を、最初から断るべきだっただろうか。こんな恰好で自力で満足に動けない状態でなければ、絶対に断っていた。こんな状態だから彼も私に付け込むわけか。
 でも、不思議と安堵もあった。大きな逞しい方に寄りかかるのは悪くない。二十八にもなって初恋も経験していない私にとっては、自転車の二人乗りなんて事も初めてだった。初めて体験したそれは嬉しくて、楽しかった。学生の頃、本が友人で恋人だった私にとっては、自転車に二人乗りして帰る同級生が密かな憧れでもあった。それを叶えてくれたのだから、下心くらい受け入れようか……。
 私の部屋は一番奥にある。「910 Niko Robin」と書かれたプレート。私がバッグから部屋の鍵を出すと、彼はそれを無言で取り、鍵穴に差し込んだ。こうして男に肩を抱かれてその先へ進む事は、勿論初めてではない。それどころか初めての年さえ記憶に怪しいのに、俄かに緊張が走る。この部屋に人を、それも男の人を入れるのは初めてだから、緊張しているのかしら。初めて入れる男性が初対面の少年だなんて、私は何処まで淫らなのだろうか。なんて嫌な女なのだろう。
 扉を開けると、古い本の匂い。これが、私の部屋の匂いだ。二LDKの一室が書庫になっていて、机の上まで殆ど本で埋め尽くされている。壁を手で探って電気のスイッチをつけると、玄関は橙色の光に包まれた。自分の部屋の匂いと見慣れた光に安心したのだと思う。どっと身体が重くなって、膝が緩んだ。
「うおっ」
 私が倒れかけると、彼は私を抱きかかえ、そっと玄関に下ろしてくれた。ゆっくりと、慎重に、壊れ物を扱うように。私が腰を下ろして彼を見上げると、間近に彼の顔があった。鋭い目は穏やかで、優しい光が宿っている。綺麗な眼……。こんなに綺麗な眼をした男の人は初めで。彼は、私の“初めて”を沢山持っている。それを、もっと見てみたい。
 私は、彼の首に両腕を回して、そっと引き寄せた。彼の顔が更に近くなり、今にも息の掛かりそうな距離。彼がごくりと喉を鳴らしたのが解った。
「有り難う、助かったわ」
「いや……」
「寝室は奥、シャワーは手前よ。先に使って」
「あ?」
「疲れてはいるけれど一回くらいなら大丈夫だと思うわ。貴方にはお世話になったしね」
 目の前の彼が、眉を寄せた。
「何、言ってるんだ?」
「……やるんじゃないの? 構わないわよ、私は別に」
「やるって、俺が、あんたを……?」
 彼が重い声で問う。眉間の皺が深くなった。
「――俺は、そんなつもりであんたを送ったんじゃねぇ、みくびるな!」
 突然腕を振り払われて、雷鳴のような怒号が響いて、私は呆然とした。
「馬鹿にすんのも大概にしやがれ!!」
 目の前が、真っ暗になった。
 彼は音を立てて扉を閉め、その向こうへ消えて行く。何が起こったのか、その時はよく解らなかった。数分、私はその場で微動だにせず、彼を消した扉を見詰めて、頭がはっきりしてきた頃には、取り返しのつかない事をしたのだと悟った。私はまた、彼のプライドを傷付けたのだ。
 私は何を言ったの? 私は何をしたの? どうしてそんな事を? どうしてこんな風になったの?
 こんな事、するつもりじゃなかった。こんな事――
 突然に涙が溢れてきた。靴箱で身体を支えて立ち上がり、ドアに手を伸ばす。でも、やはり私の足は身体を支えきれなくて、壁についたてが、電気を消してしまった。
 彼に謝らないといけないのに、立ち上がれない。あぁ、嫌だ。行ってしまわないで、貴方。ごめん……ごめんなさい……
 足が痛い。走った所為だ。首が痛い。抑えられた性だ。頭が痛い、お腹が痛い、全身が痛い。あの男の所為だ。あの汚らわしい男達に触られた所為だ。――違う、違う。全部、私の所為だ。私はあの男達と変わらない汚らわしい女じゃない。全部、自分が悪かったんじゃない。
 途端に、全部理解出来た。
 私は彼が羨ましかった。純粋できらきらと輝いて、私の持っていないものを沢山持っている。私は我儘にも、それに苛立ったのだ。真っ直ぐで真剣な眼に睨まれて、自分の汚れたどす黒いものまで総て見透かされたような気がして、怖くなった。だから、私は眼を逸らして逃げたのだ。臆面もなく“夢”を語る彼は、私には美し過ぎて。あの眼を思い出したら汚い自分がどうしようもなく許せなくなって、今までした事のない反抗をした。職を失う怖さより、あの眼に軽蔑される怖さの方がずっとずっと大きかった。
 なのに、また軽蔑されるような事を言ってしまった。そう思ったら苦しくて、息が出来なくなった。首を押さえつけられた時よりももっと息苦しい。死にそう……
 あの時、社長から逃げ出した時、私は彼に逢いたいと思った。彼に謝りたかった。彼を見つけて、嬉しかった。彼に触れたかった。私に欠けている何かを、彼が埋めてくれるんじゃないかって、そう思えて。あんな人に逢ったのは初めてで、本当は、抱かれたくなかった。彼に抱かれるなんて、嫌だった。私は、唯、
「おい、携帯! って、暗!!」
 いきなり。
 本当にいきなり扉が開いて、息せき切って彼が飛び込んできた。その爪先が、玄関に座り込んでいる私にぶつかり、彼は私を見付けたらしかった。
「暗いな、おい。なぁ、携帯が後ろに引っ掛かって……これ、『社長』って」
 携帯が鳴って、サブディスプレイに“社長”という表示の着信メッセージが出たのだ。それで、慌てて持ってきてくれたの? 貴方に酷い事を言った、私のために?
 私は彼を見上げて、携帯の点滅を頼りに手を差し伸ばす。彼が私の手に置いた携帯電話。握ろうとしても上手く力が入らず、手の中から滑って床に落ちた。裏側のカバーが外れて電池が飛び出し、携帯電話は沈黙した。
「あーっ! あんた、社長からじゃ……あんた、なぁ?」
 答えられない。息が、出来ない。彼が床に膝をつくと、彼の手が私の指に当たった。指から手へ、腕へと登り、その手が私の肩へと辿り着くと、私の上体を抱き寄せた。
「過呼吸か。なんか、袋……」
「い……良い……良いの……」
 私は何とか声を絞り出す。
「でも、」
「良いの、こうしていて……」
 私は彼の胸にしがみ付き、肩に頬を寄せて、自分の呼吸が落ち着くのを待った。彼も、待ってくれていた。少しずつ呼吸が楽になってきて、そうしたら、また涙が零れてきた。
「あんた、泣いてんのか?」
「だって、貴方が……」
 来てくれた。それが嬉しくて。
「いや、俺……悪い、泣かせるつもりじゃなかったんだ。唯、何だ……あんたに魅力がないとかそんなんじゃなくて、そんなつもりで送った訳じゃないってだけで……」
 あぁ……。
 全く見当違いの理由で慌てふためく彼が愛しいけれど、少し辛い。彼はこんなに綺麗で真っ直ぐなのに、私は彼を汚れた自分と同じところに落とそうとした。そんな自分が、許せない。
「貴方は、綺麗ね……」
「は?」
「私はとても汚い女よ。とても……」
「そんな事ねぇよ。俺はずっと知ってる……。あんたは綺麗だ、ニコ・ロビン」
 額に頬を寄せてくれた彼の温もりが、身体中を溶かしてゆく。私はゆったりと呼吸をした。
「有り難う」
「ん。立てるか? 此処は冷えるし、ちゃんと温かくして、今日はゆっくり休めよ」
「帰るの?」
「……あぁ、立てないか。入っていいなら、寝床まで運んでやるけど」
 流石に女性の寝室に入る事には抵抗があるのだろう。けれど私はそんな事が言いたかったわけじゃない。恥ずかしい話だが、私は彼に帰って欲しくなかった。こんな時間に出歩いている彼を不良だといっておきながら。
 私が頷くと、彼はそっと私を抱き上げた。抱えた後になって靴を脱ぐのを忘れていた事に気付き、ごそごそとスニーカーを脱ぎながら「カッコ悪ぃ」と呟いた彼が可愛かった。奥の部屋、といったから、廊下の一番奥の部屋まで私を運んでくれた。私を抱えたまま器用にドアノブを捻り、正面の壁際にあるベッドに私を降ろす。
「髪、べたべたしてるな。気持ち悪くないか?」
「大丈夫、有り難う」
 身体をベッドに横たえると、呼吸が楽になった。身体の痛みも引いて、いつの間にか涙も止まっていた。
「貴方はどうしてそんなに優しいの? どうしたら、そんな風に生きられるの?」
 初対面で、その上酷い事ばかりを言った私に。貴方の夢を馬鹿にし、貴方という人を汚した私に。そんな風に真っ直ぐで揺るぎのない生き方が私には羨ましくてたまらない。
「あんただから優しいんだ。俺は、あんたに優しくしてもらったから」
「私が、貴方に?」
 酷い事はしたけれど、優しくした覚えなんかない。してもらってばかりだ。
 彼は少し考えて、それから、ベッドに背を向けて座り込んだ。私がベッド脇のスタンドライトを灯すと、こちらに顔を向けた彼が思ったよりずっと近くに見えた。彼は、照れくさそうに眼を逸らした。
「やっぱり、覚えてないよな、俺の事。もう、ずっっっと前だから」
 残念、というより悔しそうに彼は言う。私、貴方を知っているの? 貴方に逢った事があるの?
「また今度話すよ」
「今度?」
「あぁ、もう寝るだろ? 明日、仕事はないのか?」
「さっき、失業してきたわ。だから、これからは暫く休みになるのね」
 口にしてしまうと、考えないようにしていた現実が生々しく押し寄せてきて、また息が苦しくなった。短い呼吸と歪んだ表情に、彼は心配そうに眉を寄せた。
「大丈――」
「大丈夫よ。本当になんでもないから、気にしないで」
「けど……」
 今夜、彼の「大丈夫」を何度聞いただろう。こんなにも心配を掛けてしまうのは、本当に申し訳がない。彼には人を思いやる気持ちがある。私には、ないものだ。
「じゃぁ、今日は此処にいても良いか? あんたを一人にしては置けない」
「死んでしまうとでも?」
「そんな風にも見えるな。……何もしない。側に居るだけだ」
「優しいのね……」
「そんなんじゃないけど」
 彼は膝立ちでこちらを向くと、私の顔を覗き込んだ。私は不意に彼に触れたくなって、ゆるりと指を伸ばす。
「綺麗な眼……」
 見詰められると、どきどきする。不思議ね、こんな気持ち。頬を撫でると、彼が私の手に自分の手を重ねた。
「冷たい手、してるな」
「貴方は、温かいわ。……ねぇ、何か歌って。何でも良い……貴方が今、思いつく歌で良いから」
 突然すぎて、彼は戸惑っているようだった。先刻、彼の歌に文句をつけた人間の言葉とは思えないだろう。勝手だと、自分でも思っている。
「何でも良いんだな?」
「えぇ、何でも良い」
 彼はまた考え込んで、少しの間口を閉ざし、それから小さな声で歌いだした。生きてる事がまるで仕事みたいだって言う、何処かで聞いた事のある歌。多分、有名なグループの歌だったと思う。彼は私の事を何か知っているのだろうか。軽やかなリス無なのに私の内側まで抉るような残酷な歌。汚れたのは世界ではなくて自分だと思い知らされた日に、こんな歌を聞くなんて。また、涙が溢れてきた止まらなくなった。私は、ライトを消す。彼は、私の涙に気付いている。それでも、私を追い詰めるように歌う。貴方は、優しくて怖い人。私は眼を閉じ、彼の歌を受け止めた。誤魔化して何でもない振りをするのは、全く意味のない事だから。
「お休み」
 眼を閉じた私がお眠ったと思ったみたい。歌い終わってからそっと耳元に囁き、それから別の歌を口ずさみ始めた。今度はとても優しい歌。微睡の中ではっきりと歌詞を聞き取る事は出来なかったけれど、心の中にじんわりと響く温かい歌だった。初めて聞く歌。いいえ、何処かで聞いた事がある。あぁ、そうだ。さっき貴方が歌っていたんだ。ギターと一緒に。
 私、この歌が好きだわ……
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