静かな音楽。
 胸の奥に、響き渡る。


   
pp<ピアニッシモ>



 黒い海に、ピアノの音が響き渡る。宴会を盛り上げる楽しげな音楽を、骨そのものの手が軽やかに奏でている。宴も酣となり、誰もが楽しく飲み、歌い、笑っている頃、ふらりと黒い海に繋いだサウザンド・サニー号の上に、男が一人現れた。酒と熱気に顔を赤らめながらも、瞳だけはしっかりと海に向けられている。男は小さく息をつくと、ポケットからマッチ箱を引っ張り出し、しゅっと音を立ててマッチに火を灯した。
「……ちょっと趣味が悪いんじゃない?」
 ぼんやりと浮かぶ橙色の炎。男は炎を差し上げ、闇に声を放った。
「あら……ばれてしまった?」
「やっぱりね。気配は殆ど完璧に消えていたけど……その能力、意外とスパイに向かないよね。花の香りがした」
「気になるほど、香るかしら?」
 男の前に姿を現した女は、首を傾げた。その能力故か、ごく僅かながら身体の内側から甘い香りが漂う。
「いいや。俺以外に解るとしたら、チョッパーくらいだ。流石にチョッパー程じゃないけど、鼻が利くんだ」
 男は、匂いを嗅ぐように、ライターの炎に顔を近付けた。炎が男の白い貌を闇に赤々と浮かび上がらせる。熱が、花の香を強めた。成程、愛煙家の彼が煙草を咥えてもいないのにマッチをすったのは、そういうわけか。全く、頭の良い男だ。
「宴会は、良いの?」
 男は炎越しに女を見た。
「貴方こそ」
「俺は……熱冷まし、かな」
「そ」
 男は息を吹きかけてマッチの火を消した。闇の中でこつこつと足音が近付いてくる。男が宙に手を差し出すと、数秒の後、細い手が指先を包み込んだ。そして漸く、彼女の存在が確かなものだと感じられた。
「あいつの側に居なくて良いの?」
 意味ありげに問いながら、男は女の手を握り返す。女は、小さく笑った。
「今は、ナミがついているから平気よ。チョッパーも居るし、私が居なくたって問題は無いわ」
 女の手が、するりと男から離れた。二人は肩を並べて海に身を乗り出す。
「ルフィ、全快したみたいに元気よね」
 今度は、女の方が意味ありげに問い掛けた。
「……やっぱり、趣味悪いな、ロビンちゃん」
 女の――ニコ・ロビンの言葉に、隣りの男・サンジは苦笑した。
「聞いてたんでしょ?」
「それにも気付いていたのね」
「意外と、咲かせたところの方が強いにおいがする。ちょっとだけね。……まぁ、ロビンちゃんが側に居れば、俺はいつだって直ぐに解るけど」
 最後の言葉を冗談まじりに言うけれど、添えられた笑顔は笑っているのかどうかも解らないほど曖昧で。全く、そんな貌で誰がときめいたりなどするものか。
「ルフィの身体の痛みや疲労を、全部吸収したのね、彼は……」
「そういう事らしい。ったく、あの大馬鹿野郎」
「馬鹿……そうね。確かに馬鹿かも知れない。でも、彼の馬鹿な選択のお陰で、誰一人失う事無く私達は助かった。そうでしょう?」
 諭すようにゆっくりと語りかけるロビンに、サンジは眉を寄せた。解っているのだ、口ではなんと言おうとも。だからこそ余計に苛立つのだと、ロビンも密かに理解していた。
「彼だから助かったのよ」
 ほんの微かに息を零すだけの、小さな小さな呟き。しかし、それは鋭い刃となってサンジの胸を突いた。それもまた、サンジは解っているのだ。そして、サンジが解っている事を、ロビンも解っている。
 サンジは両手を握り締めた。
「貴方だったら――」
 総てを解りながら、ロビンは尚も畳み掛ける。その先に続く言葉は、口にするまでもなくサンジは解っているというのに、そして、解っている事も解っているというのに、敢えて口に出そうというのだから。
 解ってる。ちゃんと解っている。なのに、このヒトは――
「きっと、死んでいたわよ」
「――解ってるよ!」
 溜まらず、サンジは叫んだ。苛立ちが露出し、同時に、抑えていた感情が溢れ出した。
「解ってるって、そんな事!」
「でも貴方は彼と自分の立場が逆でない事に違和感を覚えているじゃない]
「……」
 図星を指されると何も言えない。総てを理解していながら、敢えて傷を抉るタイミングでしか口を開かないこの人は、なんて残酷なんだろう。
「貴方じゃ、奴には敵わなかった。貴方がルフィの痛みを飲み込んでいたら、恐らく死んでいた」
「……解ってるって……。もう、やめてくれよ、ロビンちゃん……」
 ざわざわと海が騒ぐ。響く宴の声は酷く空虚で、心に穴が開きそうだった。
「趣味が悪い?」
 深々と息を漏らしながら甲板に膝をついたサンジの隣りに、ロビンは音もなく腰を下ろした。
「相当ね。でも、有り難い。解ってんだよ、俺だって。体を張った戦いとなれば、俺はあいつ等よりかなり弱い」
 ぽつりぽつりと口にした言葉は、冷静で、それ故に哀しかった。
「俺は、君の事だって守れなくて、失いかけた」
 凍りついた彼女の、絶望に歪んだ貌が今でも脳裏に浮かび上がる。
「その上、今回は――
 そして、うっすらと残る記憶の中で、彼女に蹴りかかった現実だけが妙にはっきりと頭に焼き付いているのだ。
 向かい合わなくてはならない事、認めたくなくても、決して眼を逸らしてはいけない現実。“弱さ”。
 自分と相手の力量を正確に測る事は、戦の場に立つ者には必要な資質。それは、仲間の力量についても同じ事がいえる。サンジは一味の中でも取り分け物事を客観的な視点で冷静に捉える事が出来る。だからこそ、良くも悪くも解ってしまうのだ。相手との差や、違いを。
「戦うことを本業にして、強さを求めて海に出て、最強の剣豪を目標に掲げる彼に、本業が別に逢って、別の夢を見ている貴方が敵う筈ないわ。彼は修行に明け暮れて、それ故にあの強靭な肉体を手に入れたんだもの」
「解っているよ」
「そうね、貴方は頭が良いものね」
「それ、嫌味?」
 サンジは横目でロビンを見上げた。
「褒めてるのよ。そんなに卑屈にならないで」
 それは無理だろう、と、サンジは思う。
「解ってる。あいつには敵わないって事。だから、あいつは正しかった。だけど、引けない時もあるんだ。男だしね……」
 そうね、と、ロビンは答えた。解るような、解らないような。聡明故に総てを頭で理解する二人は、感覚的な話には弱い。
 サンジは、向かい合うようにロビンの斜向かいに座した。
「ごめん」
「いいえ」
「この先、もっと強い奴等が現れる。俺も、もっともっと強くなるよ。職業云々は関係なく、あいつらに任せ切りって訳にはいかない」
 任せている、訳ではない。だが、結果的に。
 すっきりとした貌をして、力強く言い切ったサンジに、ロビンは穏やかな笑みを見せた。
 揺らめく黒い海に落ちる闇の中にあっても、彼の瞳は確かに煌く。じっと見詰めていると、鮮やかな蒼の瞳の海に、飲み込まれてしまいそうだ。彼の捜し求める海も、こんな色をしているのだろうか。
「二度と、こんな想いはしないように。二度と、君にこんな姿は見せないように……」
「良いんじゃない、偶には?」
「俺が嫌なんだよ。解ってるんでしょう?」
 むくれて見せる笑顔に、ロビンは肩を竦めて肯定した。嫌な人、と、サンジが胸の中で呟いていた事も、すっかり解っていた。
「私も、もっと強くなるわね。今回の事で、よく解ったの。能力頼りでは、何も出来ない。能力に溺れたら、能力者は終わりだもの」
 悪魔の実の能力は諸刃の剣だ。使い方如何によっては、力に飲み込まれてしまう。能力に頼った戦い方では、この先必ず苦戦を強いられる。能力を支えるだけの自身を鍛えなくてはならない。
「じゃ、俺は益々体力のつくものを作らなきゃな」
「頼りにしてるわ」
 微かな声は、けれど、心の底から溢れた言葉。
 闇に溶ける漆黒の瞳が、蒼い瞳を見詰めていた。

 船長の肉体の負担を独り引き受けた強靭な力を持つ青年は、常に鍛錬に励み、武の道を直走る。しかし、彼のように表立って修行をしているわけでなくても、サンジが人知れず鍛えている事を、ロビンは知っている。脚に錘をつけている事も、その重さが徐々に増していることも、みんなが寝静まってから、仕込みの合間や日々の生活の中で、効率的にトレーニングを続けている事も。
 他に職業を持ち、それが毎日の生活の中で欠かせない要素であり、彼の一日の活動の多くは、仕事が占めている。それでも鍛錬を怠らない彼を、ロビンはちゃんと解っていた。
 この船で唯一、身体一つで戦う青年。能力者でもなく、得物があるわけでもない。頼りになるのは、その華奢な身体一つ。
「ロビンちゃん」
 胡坐をかいてロビンを覗き込み、サンジは口を開いた。
「ルフィの首がかかった時に、あいつが……ゾロが『代わりに俺を』って奴に交渉してね。俺は、それを止めた。身代わりには、俺がなるって、思った」
「えぇ、きっと、私も同じ事を言っていたわ」
「あいつの強さは解ってる。それを測り損ねる程、俺も抜けちゃいないよ。だけどね……俺、不思議と死ぬ気がしなかった」
「……勝てる、と?」
 それは、全く力量を測り損ねている事に他ならないのではないか。けれど、サンジは首を振り、人差し指で左胸を示した。
「此処の問題。再起不能になる覚悟はあった。だけど、命を捨てるつもりは更々なかった。窮地に立つと、何が何でも……恰好悪くても、這い蹲って生きてやるって、いつも俺の此処が叫ぶんだ」
 意外な言葉だ。一味の中でも特に外からの眼を気にして、常に“恰好良く”あろうとしている彼の口から出た言葉とは、到底思えなかった。しかし、確かに彼の――彼に限らないとはいえ――生への執念は並々ならない。
「何故、そんな風に思えるの?」
「……誰かのために、死ねない。それが、あいつのためなら尚更だ」
「何かあったの?」
 そんな風に、強く思える、何か。
「一味に入る時、いわれたんだ。『死ぬ事は恩返しじゃねぇ』ってな。俺はそれまで、いつだって恩に報いるために総てを犠牲にしてきた。夢だって諦められただろうし、死ぬ事も厭わなかった。だけど、そんな事、誰にも望まれてないって思い知らされた……」
 今度は、ロビンの胸に言葉が突き刺さっていた。命を捨てても守らなくてはと思っていたのだけれど、本当は逃げたかっただけだ。苦しみから。いつかくる、裏切りや絶望から。生きることを放棄して、しに逃げようとしただけだ。
「今回は、究極の選択だったと思うわ」
「ああ。でも、あいつも生きる執念は半端じゃねぇ。その上、肉体の強さで生き延びた。あいつは、死なねぇよ……」
 けれど、二度はない。それは、ロビンもサンジもよく解っていた。次に同じ事が起きたとしたら、確実に誰か一人は失うだろう。そうならないためにも、求めるは、強さ。
 ロビンは右手を差し出した。サンジはその手を握り、包み込む。
「誓うよ。俺は、強くなる」
「誓うわ。みんなと共に生きていたいから、私も、強くなる」


 握り合う手から伝わる互いの鼓動は、未来へ繋がる誓いのリズム。

 遥か未来で同じ歌を歌い、今日と同じ笑顔で酒を飲み交わすために。

未来へ繋がる、命の旋律。
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